■情報自由化社会への提言

 

●売れ筋しか入手できない社会

 昔見た「惑星ソラリス」というソ連のSF映画をもう一度見たくて、レンタル・ビデオ・ショップをのぞいたがどこにも置いていない。スピルバーグのものやスタローンのものはどこにも腐るほどおいてあるのに、ちょっとマイナーな映画は、どこを探してもない。

 これは何もビデオに限ったことではない。本を探す場合もそうだ。ベストセラーものとか、雑誌の類はどこの本屋にでもあるのだが、ちょっと昔のものになると出版社に問い合わせても入手できない場合が多い。地価が高騰して、無駄な在庫を置く余裕がないのと、コンピュータの利用によってリアルタイムで売れ筋がつかめるので、どの本屋も売場面積に対する販売量の大きいものから品揃えするためである。そのため、ベストセラーはどの店でも入手できるが、いったん売れ筋から外れるとどこを探しても見つからないということになるのだ。

 テレビのCMが、ピタゴラスの定理に反するとか何たらで有名になったセブン・イレブンに代表されるコンビニエンス・ストアもそうだ。ありふれたものを買うにはいやになるほど便利ではあるが、ちょっと主流から外れたものは、足を棒にして探してもなかなか見つからない。

 ほんの少し昔では、近所の本屋でも奥の方の書棚にとり残されたような本が、商売の上では不良在庫にあたるのだろうが、ほこりをかぶっていたものである。本屋の探索は、このような一般には不良在庫ではあるが自分にとっては宝物であるような本を探す楽しみがあった。

 八重洲のブックセンターは、日本で一番大きく素晴らしい本屋であるが、やはりコンピュータによる近代的な在庫管理が徹底しているらしく、宝探し的な目で見るとものたりない面もある。

 古い本でも、古典になるようなものとか一流のものは比較的探すのは容易だ。問題は、まだ評価が定まるほど古くはなく現在の時流からは外れているといったスタンスのものだ。

 映画でも本、雑誌のようなものでも、それ自体がテーマにしているもの以外に、われわれに提供してくれる多くの情報が含まれる。たとえば、筆者が子どもの頃「名犬ラッシー」というテレビドラマがあったが、このドラマも意図していたテーマとはまったく別の情報を得ることができた。昭和30〜40年頃、すでにアメリカでは、全自動洗濯機が存在していたとか、子どもでも運転免許が簡単に取れることとか。「2001年宇宙の旅」にでてくるコンピュータのCRTは、21世紀という想定にしてはずいぶんドットが荒いなとか。

 むしろ、このような付帯的な状況や背景の方が、妙な意図がないだけに余計情報としての価値が高い場合が少なくなく、マイナーな本や映画の楽しみのひとつはこの点にある。たとえば、ある国の対日感情を知ろうという目的で、その国の代表的知識人に問うということも有益ではあるが、その人が思慮深い一流の国際人であればあるほど、本音の部分は隠されるということもある。むしろ、市井の声の方が素直な感情を剥き出しにするので役に立つことがある。

 また、一流紙より、二流、三流の新聞記事の方が、目的によっては真意を知ることができる。先日も、英国の三流新聞紙上で日本の大使のことをジャップという表現で記述してあったということを日本の一流新聞紙上で見た。ロンドンタイムスは決してこのような表現は使わないだろうし、これが英国民の総意を代弁しているとは決して思わないが、この三流紙の表現が、やはりある種の本音を表明していることは事実であろう。資料としてはなかなか面白い。しかし、数年たって、この新聞を入手しようと思ったらたいへんだろう。おそらく、どのデータベースにもこの三流記事は載っていないだろうから。

 「惑星ソラリス」はりっぱな映画であるが、それでもなかなか手に入らない。まして、二流、三流の映画は、時期を失すると永久に目にすることができなくなってしまう。

 加湿器を買おうと思って秋葉原を探したことがある。今流行りの超音波式は、水のなかの不純物もばらまかれて、CRTの表面が白く汚れるので気化式のものを探したのだが、カタログにはあっても売れ筋でない商品はなかなか見つからない。あれだけ沢山の店があっても、どこもみなミニ石丸電気や、ミニ第一家庭電気なのだ。

 これは、秋葉原だけに限らない。最近のデパートは、フロアを貸して専門店を入れるケースが多い。だから、小さなレコード屋があちこちに分散していたりする。そしてそのどれもが、ヒット曲しか置いてない普通のレコード屋なのだ。レコード売場としての売場面積は、トータルでは大きくても、そこに並んでいるレコードの種類はきわめて少ない。

 現代は、情報があふれているようでそのほとんどはコマーシャリズムを背景にした、<重複くず情報>である。情報も商品であり、その商品も寿命の短い生ものなのだ。

 本当に知りたいことを知ったり、欲しいものを手にいれるには、昔よりよけいなエネルギーとコストがかかる時代なのかもしれない。

 

●深夜の三流映画

 深夜にテレビ放送されるアメリカの古い三流映画が好きだ。

 とくに第二次大戦ものが面白い。日本兵の装備や日本軍のシステムのとらえ方が興味深い。くだらない映画であればあるほど、ある意味で生身の感情がでているし、国際感情を無視した無防備な映画ほど、その意図しているところ以外は本音である場合が多いのだ。

 昔の戦争ものの構図は、西部劇と同じで、アメリカ軍がカウボーイで日本軍がインディアンになる。ジョン・ウエイン主演の西部劇で登場するインディアンは、全員ライフルを持っているし、高度に組織化されて、システマティックに幌馬車に波状攻撃をかけてくるのが常だ。早打ちのカウボーイが活躍するのに、老人、子どもを多く抱えて、居住地を追い出され、飢えに苦しむインディアンでは都合が悪いのだ。

 同じように、苦境に陥るアメリカ軍を知恵と勇気で勝利に導くジョン・ウェイン軍曹の戦う相手日本軍の装備があまりに貧弱だと絵にならない。日本軍は、全員機関銃を持っていたり、トランシーバを持っていて、白兵戦で日本刀を振りかざしてアメリカの新兵に切りかかる日本兵は雲突く大男だったりするのだ。トラックは、3軸の全輪駆動車も珍しくない。「トラ・トラ・トラ」などのようなリアリズムを前面に押しだした高級戦争映画には見られない面白さがある。

 残念ながら日本で放映されている第二次大戦ものは、対日感情を考慮してかほとんどがヨーロッパ戦線のものであるが、おそらく、それと同数以上の太平洋戦線ものの三流映画があったはずだ。もしかしたら、ドイツあたりの深夜放送ではアメリカ対日本の戦争映画ばかり流しているのかもしれない。

 戦後間もないころ、アメリカで日本人のプロレスラーが仕事をする場合、名前を「東条」にして悪役を演ずると大受けしたらしい。現在なら「東芝」とでもしたらたいへんな人気者になるに違いない。しかし、こういったことをもってアメリカの対日感情を云々するのは短絡しすぎだ。

 筆者が子どもの頃家で飼っていたシェパードの名前が「アイク」であり、これが当時のアメリカの大統領アイゼンハワーの愛称であるということはずいぶんあとになって知ったことである。親父が、親愛の感情から付けたのか、別の感情から付けたのかはわからない。ずいぶん利口な犬であったことを覚えているが、このことが、大統領の名前を犬に付けられて不快に思っている人がいたとして、その人にとってはちっともなぐさみにならないことは当然である。しかし、本当に憎悪していれば、愛犬にそんな名前なんか付けるわけがないというのも事実なのだが。

 現在のアメリカで「ヤス」とか「タケシタ」という名前をペットに付けている家庭があるのか知りたい。

 

●忍者

 アメリカの三流雑誌を見ると、「タイム」なんかでは決して期待できない面白い情報を得ることができる。

 麻布のスーパーマーケットなんかで、外国の主婦向けの雑誌なんか覗くと本当に面白い。先日も、日本の忍者を特集している雑誌があった。自衛隊のレンジャー部隊(?)と共同で訓練している写真とか、民間の忍者道場の紹介があるのだが、カンフー映画にシュワルツェネッガーを登場させたようなシーンが続く。

 文芸春秋の5月号にマイクタイソンの日記なるものが掲載されている。その中で、日本では、人はみんな柔道着や空手着をきて、朝から道の真んなかで、「エイ、ヤッ」と練習しているのかと思っていたとある。

 NHKの大河ドラマ(武田信玄)を見て、戦国時代は優柔不断の英雄と我の強い美女ばっかりだったと思ったり、アメリカの刑事は皆ダーティーハリーで、サンフランシスコでは毎日カーチェースが行われていて、女の子はハイレッグのレオタードでローラースケートを履いている、と思っている日本の子どもたちと同じであるが、これが、サイレント・マジョリティのコンセンサスなのだ。そして、ときにはこれがサイレントではなくなるということも知る必要がある。

 

●意図しない情報

 情報というのは、情報発信者が意図を持って発したものは、その意図を知って関知しなければ偏ったものになる。しかし、どのように意図されたものかをあらかじめ知っておけば、またこれほど面白い情報もない。

 匿名的なペンネームを使って書かれた本に、この手のものを見ることがある。その意図に賛同できるものもあるしできないものもあるが、よって立つ立場に関わらず、作者が意図しない付帯的な記述にまぎれもない真実の吐露があったりしてたいへん面白い。

 「グリーンベレー」という戦争高揚映画があった。ベトナム戦争に対する世論の風当たりが強くなり、徴兵活動にも支障がではじめた頃アメリカ政府の後楯で作られたと噂された映画だ。最近の「トップガン」なんかもそういうにおいがするのだが、「こうである」という立場ではなく「こうであってほしい」という立場で作られたものは、その視点の方に目を向けるとたいへん面白いのである。

 日本の戦前の絵本なんかも、今見るとなかなか面白い。「肉弾三勇士」や「黄海の戦い」、「冒険ダン吉」なんかも、あらためて見るとさまざまな発見がある。

 この手の本は、ある期間を経て読むとまた面白さが一層増すのであるが、先に述べたように入手が大変難しくなる。現代用語辞典の類が本当に価値が出てくるのは、現代用語辞典とは呼べなくなった頃であろう。

 ジャンルを問わず、本は10年位前に書かれたものを見ると面白い。何でもよいから10年位前の雑誌を見てみるとわかるが、予測とか展望という類のものがいかに外れるものかということがわかる。10年前に、現在のトレンドを予測していた人がいるとすれば、その人の現在の著作は刮目してこれを見る価値がある。

 問題は、情報も商品もナマモノ化した現代、こうした生きた情報をどうやって確保し、保存するのかということだ。もし10年後も現役でいられる年齢だったら、いまからライフワークを決めて、資料を集めておく必要がある。これだけ、情報を保管伝達するメディアが増え、しかも将来にわたって増えつづけるであろう状況を考えたら、たとえば、公的機関である図書館のようなものでは到底カバーしきれないだろうからである。とくに、表向き二流三流のものはなおさらだ。

 現代は、物、情報すべてが多すぎるのだ。多すぎるものは最終的には腐らせるしかない。あるいは選別だ。この選別が、コマーシャリズムに乗った場合は最初に述べたような状態になる。

 

●反東京遷都論

 上智大学教授の渡部昇一氏が、『ボイス』の5月号で『東京5000万人集中論』という小気味よい論文を発表されている。そのなかで、とくに印象に残ったセンテンスがある。

 

   「東京でも3000万人の人口になれば、ほかでやれないことがやれるようになる。それはどういうことかといえば、たとえばバッハの『無伴奏チェロ・ソナタ』だけを聴く音楽会などというのは、地方でやっても採算がとれない。しかし3000万人の人口がいればそれができる。ふしぎなことに、人間が集まるところでは何をやっても食えるようになるのである。」

 

 この説に筆者も賛成する。

 3000万人いれば、レンタル・ビデオ・ショップに「惑星ソラリス」を置いても、気化式加湿器を在庫しても商売になるはずだ。二流、三流の本ばかり集めている本屋だって成り立つかもしれない。

 東京の魅力は、浅はかな都市計画なんかで作り上げられた意図的な空間と違い、そこの住民でさえ気付かない、情報を見る人の関心いかんでいくらでも吸収できる奥深さにある。これは、すべて人口の集中がもたらしたものだ。

 自由経済社会では、最終的な採決をくだすのはコストだ。現時点での採算性では、秋葉原でもたまに来るへそ曲がりのための商品を置くより、たとえどの店に行っても手に入るものであっても売れ筋商品を置く方が儲かるのだ。現在コンピュータは、極論すれば経済社会においては、すべて売れ筋情報をつかむために使われている。

 今、地方の魅力が急激に低下しているのは、すべて経済活動が東京の原理、象徴的に言えば「売れ筋情報の把握」を中心に動いているからだ。つまり、東京と同じ商品構成で東京よりは品揃えや在庫が貧弱なミニ石丸電気やミニ高島屋やミニ八重洲ブックセンターばかりになっていることにその元凶がある。

 情報のエントロピーが限りなく増加し続けているこの事実こそが地方衰退の本質である。

 

●情報自由化社会への脱皮

 風邪をひいたとき発熱するのは、体内の病原菌を殺すための自衛反応だそうだ。これを、無理に解熱剤で下げるのはあまりよくないらしい。

 現在東京は、ジャパン・バッシングのミニチュア版のように東京バッシングにあっている。四全総の発表は東京集中を肯定しているといって叩かれるし、あらゆる機関から解熱剤としての遷都論が提案される。そして、その遷都論たるや、本気とはとても思えないものまでマスコミに登場している。

 どうすればよいのかということを提案する前に、次のことを考えてもらいたい。

 現在の東京経済は、売れ筋情報の把握を中心に動いている。テレビで言えば視聴率であり、教育で言えば進学率、あるいは就職率である。株や地価は将来性という名の売れ筋で買われている。それらをより速く、より正確に把握するための切札としてコンピュータが使われる。この状況は、内燃機関でいえば開発初期の段階で、圧縮比を高くすればするほど馬力が上がっていた頃のようなものである。売れ筋を追いかけ視聴率を稼ぐことだけ考えていれば、どんどんパフォーマンスが高くなる状況だ。

 こうした時代は、やがて後世、古きよき時代と思い返されるときが来るに違いない。石油ショックまでが物による高度成長期だとすると、現在は情報の高度成長期だととらえることができる。やがてノッキングが起こり、圧縮比を上げるだけでは馬力を稼げなくなることがわかる。しかしエンジンが最も効率よく動いているのは、このノッキング寸前の状態なのだ。どこが寸前かを知るためには一度そこまで到達する必要がある。

 渡部教授の論を筆者流に訳すとノッキング限界点を5000万人と見るということになる。まあこの5000万という数字はひとつの象徴であるだろうが、「売れ筋」把握とは違った経済原理が機能するためには、現在の東京の人口ではまだまだ不足ということだ。

 視聴率に乗らないテレビ番組や、とても売れ筋とは言えない商品でも採算が取れるような状況、文化的環境は考えただけでもわくわくする。これを実現する鍵は、人口のより以上の集中と、逆説的ではあるが、コンピュータを中心とした「売れ筋把握」を超えた情報駆使社会への脱皮が必要であろう。

 これを筆者は情報自由化社会と名付けたい。

                             (1988/6)

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