著作物再販制問題が提起したもの:望ましい新聞・出版流通のために議論すべき点は何か

『経済セミナー』199711月号

  1.  独善的な、独占者の論理

 「再販制が廃止されたらすぐさま良心的な出版は壊滅してしまうというのは、一時期の『米は一粒たりとも入れるな』というのと同じ感情的極論に通底するところがあるような気がする。なにも再販制が良い悪いと言っているのではない。それはみんなでオープンに慎重に議論して、正当な結論をまとめればいいだけのことだ。僕が言いたいのは、『文化を守れ』的な声高なメッセージが、一方の利益当事者であるメディアによって好きなだけほいほいと流されている現今の状況は、あまりフェアとは言えないんじゃないですか、というただ一点である。・・/・・横並びの制度からは、横並びの文化しか出てこないのではないか。」

作家の村上春樹氏の『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』(朝日新聞社、1997年)の一部である(181頁)。至極当然な意見だと大方の読者が同意されるだろう。しかし、この部分に先行する次の記述にも注目すべきである。「僕は去年の夏に日本に戻ってきて以来、出版業界の複数の人から『村上さん、再販制の問題ではあなたは余計なことを言わない方がいいですよ』とやんわり釘をさされた。要するにこれは今のところ、かなり剣呑な話題なのである。この業界は出版も販売も『再販制は善、正義である』という統一見解でがっちりと一致団結している。下手に口をはさむと袋叩きにあいかねないという雰囲気さえある。/でも小さな声で正直に言えば、これはそんなに髪振り乱してヒステリカルになるような問題だろうかと、僕としてはいささか首をひねらざるをえない。」

9月号の第1回の連載で、著作物の再販に関わる現下の政策上の論点については紹介した。「経済憲法」とも位置づけられる独禁法は、原則違法の再販行為に関して著作物についてのみ例外的に適用を除外している。この現行適用除外制度を見直すにあたって、制度維持を是とするためには「相当の特別の理由が必要である」との判断を前提とするのは当然である。199612月に総理に提出した「意見」で、行政改革委員会は、この前提を踏まえて、「新聞の個別配達制度や書籍・雑誌のいわゆる委託販売制度」の果たしている役割を考慮しても、「これまでのところ・・引き続き独禁法の例外措置として存続させることの是非について十分説得的な論拠を見いだすことはできなかった」と述べた。今年度の検討はこれを受けて進められている。前稿で説明したような経緯で今日ではとうてい支持を得られないような立法趣旨に基づいて45年も前に創設された制度である。独禁法の地位も当時とは様変わりだ。かりに、書籍に関して是非とも再販制を独禁法の適用除外とすべきだとの主張を国民の多数が支持すると考えるなら、改めて国民の納得を得るための作業をして、安定した地位を確保すればよい。その際には、独禁法の基本法としての地位を考慮して、目的を明示した事業法(出版業法や新聞業法)を制定して、そこに適用除外を明記すべきである。

「余計なことを言わない方がいいですよ」と釘をさし、それに従わない書き手のものを掲載しないという共同行為を行い、さらに「文化を守れ」的な声高なメッセージを一方的に流すという、普通の消費者の顰蹙を覚悟した行為に横並びで業界を挙げてのめり込むのは、オープンに慎重に議論して多数の国民の賛成を得る自信のなさを告白しているようなものだ。昨年秋に、丸善の「経営上の都合」から出版直前に刊行を中止した鶴田俊正著『規制緩和』を、周囲の反発を覚悟して刊行した筑摩書房に対する業界内部での反応は猛烈だったという(「著者の再販見直しの主張には会社として反対だが、多様な主張を出版するのがわれわれの責任だ」というのが社内での説明だったと言わる)。なかでも、書店からの電話が殺到した。「文化を守れ」という言葉は、出版社や書店の占有物ではないし、まして守るべき「文化」の内容を国民・消費者に代って「出版界」やその周辺の「文化人」が勝手に決めてよいはずはない。

新聞再販についても同質の状況だ。維持側の最大の論拠である「再販制の廃止は新聞宅配制度の崩壊につながる」との主張についても、冷静な議論は前稿で紹介した『論点公開』を参照されたい。ここでは、村上氏のコメントを紹介する(上掲書、31415頁)。「『日本の高い新聞宅配率は、日本の文化システムのクオリティーが高いことの証だ』というキャンペーンが一部で盛んに繰り広げられているけれど、それはちょっと違いますよね。新聞宅配率の高さと文化の高さは、必ずしも正比例するとは限らないと僕は思う。文化のあり方、生活のスタイルというのは、場所によってそれぞれにあり方や基準が違うのだから、そんなことは一概には言えないだろう。『今日は新聞を買うか、買わないか』『今日はどの新聞を買うか』という選択肢を手放したくないという人だって、世界にはたくさんいる。都会と地方で同じ新聞を、同じように配達している日本のあり方のほうが、世界的に見ればむしろ特殊なのだ。/文化という物差しを持ち出すならば、むしろ、国中から主要な全国紙、地方紙がまる一日ごっそり消えてしまうことの方が、文化的にはよほど問題ではないのか?」この文章は、どうして日本でだけ新聞は一斉に休むのか(「新聞休刊日」)という問いかけに対して、新聞社サイドの防御マニュアルに従ったような反論が寄せられ、「その手のことは、あまり大きな声で言わない方がいいですよ」という忠告を受けたことに対応したものだ。

「著作物だから・・」という主張がある。適用除外は著作権法に基づくものではないし、ビデオテープ、レーザーディスクなどの映像媒体やコンピューター・プログラム、データベースなどの「著作物」は適用を除外されていない。アメリカやイギリスでは著作物に関する適用除外は存在せず、日本以外の主要国では、書籍についてドイツとフランスが、新聞についてドイツが適用を除外するにすぎない。音楽用CDを適用除外とするのは日本だけだ。

 

  1. . 再販制・返品制と書籍流通の問題点

  書籍の流通はどうあるべきかという課題の検討に移ろう。前稿で述べたように、書籍の流通の抱える問題点は少なくとも15年前と変わらないし、再販を廃止すれば問題点が解決するわけでもない。以下に説明するように、書籍の流通にはきわめて重大な欠陥があり、最大の被害者はもちろん消費者、とりわけ本好きの読者である。次いで、著者、さらに、この分野での活動に関心のある有能な出版人、書店経営者である。ほとんどすべての産業分野に共通だが、とりわけ書籍のように製品の差別化が著しい分野では、流通システムが画一的・硬直的であれば、流通する生産物の質が低下し、需要者がそっぽを向き、有能な供給者も遠ざかる。結果として、産業が停滞し、現行システムの維持により自らの利益を守ったはずの流通業者自身も、先の見えないじり貧状態に陥る。沈みゆくタイタニック号の上で「この椅子は私のものだ!」とがなりたてているようなものだ。状況を的確に判断しないのも自由だし、自己責任だから放っておいてくれということかもしれない。しかし、読者であり、書き手でもある、つまり、ユーザーである私を含む消費者にとっては迷惑千万な話なのだ。

各書店は自分の欲しい本を欲しいだけ入手(仕入れ)できるだろうか?書店主が、特色ある品揃えによって差別化して店のファンを作ろうとすれば、取次から注文どおりに本が送られてこなければならない。現状ではこの条件は満たされない。現行システムでは、一定期間内であれば返品自由であり、送料は取次が負担する。書店にとってrisk freeだから、注文は過大になる。このため、取次による積極的な「調整」が不可欠である。さらに、隣接する書店が重複して注文し、結果として特定の地区に大量の在庫が生まれる事態も防止しなければならない。もちろん、書店主の判断ミスによる在庫も取次がコストを負担して引き取らねばならない。かりに、売れ残った在庫を値引き販売することが可能であり、それが返品するより書店にとって有利であれば、返品しないことに伴うrisk負担と引き換えに、欲しい本の仕入れが可能となり、書店の差別化が実現できる。再販制度の下では、在庫処分セールが不可能な書店は返品するしかなく、それを前提とする取次は書店の注文を受け入れない。

現実には、取次は、立地・店舗サイズなどによって各書店を区分し、各区分ごとに決められたパターンに従って配本する、「配給システム」を採用している。同じような書店は同じ区分に属するから同じ配本を受ける。書店主が好むと好まざるとにかかわらず、書店の金太郎飴化は不可避だ。欲しい本が配本されないという書店主の不満は多いが、再販制をはじめとする現行流通システムの下では、この不満は解消されない。

書店の開業は困難ではない。しかし、どのような書籍を仕入れるかという基本的選択の幅は著しく限られ、品揃えの自由はない。再販制によって価格設定の自由もない。これだけ不自由であれば、書店は、取次から送られる本というモノの置き屋、置き場所提供業、不動産業とでもいうべき存在だ。同じ商品を並べるだけだったタバコ屋と似ている。返品制にどっぷりつかり、テナントビルのようになって、どこでも同じようなコーナーを集めただけだと言われて著しく地位を低下させた一時期のデパートとも似ている。ここも「文化の殿堂」と呼んでいた。工夫の余地のない分野には創造的で活気のあるビジネスは育たない。結果として、再販制を基礎とした現行の流通システムは、工夫する能力のある人的資源を引き付けなかった。

生産者である出版社にとって、画一的で柔軟性に欠ける流通システムは、重大な制約になるはずだ。自社の商品をどのような流通経路で販売するか、価格設定をどのように差別化するか、販売促進活動をどのように展開するか、状況の変化にどのように対応するかなどという、通常の企業にとって基本的な戦略や具体的な戦術を展開する余地がほとんど存在しない。実際に行われることは、取次の担当者との間で何部受け入れてもらうか必死で交渉することが中心だ。取次が受け入れれば、パターンに従って書店に配本される。あとは、たとえば、書店を回って、本当に書架に陳列してくれているかをチェックし、できるだけ顧客の目につく棚や平台への移動をお願いするだけである。

たとえば、新宿地区の書店で積極的なキャンペーンを展開して東京の都心部でまず注目を集めたいと考えても、選択可能な手段は著しく限られる。もちろん、小売価格の引き下げはできないし、大量仕入れを条件に書店への納入価格を引き下げる(数量割引)もできない。数量割引した本をしなかった本と返品時に区別できないのだ。数量割引がないとしても、書店と直接交渉して大量に仕入れることも、売れ残った本の返品コストは誰が負担するのかという問題が障害になる。

書店に対するのと同じ理由で、出版社にも工夫する能力のある人的資源が引き付けられず、出版業界には創造的で活力のあるビジネスが育たなかった。画一的で柔軟性に欠けるシステムに安住し、保守的・権威主義的・停滞的な雰囲気が充満し、「出版人としての良心」「文化活動の擁護者」などという言葉を交わしながら、消費者を無視し続けた。雑誌という定型化され、パターン配本による配給システムにより適合した商品が、業界の中心部を占める主要な出版社の収益源であったことが、書籍には不幸な点であった。私の見るところ、主要な出版社の経営上の優先関心事は雑誌であって書籍ではなく、重要な人的資源の投入先はもっぱら雑誌だった。雑誌の流通にとっては、現行システムは相対的に不都合は少ないから、主要な出版社にとって、書籍の生産・流通に対する現行システムの弊害は重要ではなかったのだ。「書籍は『儲け主義』の対象にすべきではない」とする誇り高い自己正当化は、「儲け」、つまり利潤は消費者の支持の帰結だという簡明な事実を無視している。大方の消費者は、画一的で柔軟性に欠ける流通システムの押し付けよりは、「儲け主義」に忠実であることを求めるはずだ。

「価格決定権」といういささか古びた言葉があり、再販制によって価格決定権を出版社が握ることができるという主張がある。しかし、出版社が決定できるのは、一律の最終小売価格だけであって、たとえば地域ごとに差をつけること、環境条件の変化や時間の経過に応じて変更することもできない。さらに、小売マージン・取次ぎマージンを適宜変更して、流通業者のインセンティブを操作することもできない。そのような「価格決定権」を掌握することにいかなる意味があるのか。

出版業界に創造的で活力のあるビジネスが育たなければ、その「素材」を供給する著作者の活動にも悪影響を与える。たとえば、出版業界が、riskをまともに取ることができなければ、創造性と潜在的可能性に富んだ新規参入者を引き付けることはできない。よほど売れない本の場合を除けば、著者の印税は、定価の10%である。販売数量の増加に伴ってこの比率が逓増することはない(よくよく調べると、例外的な流行作家の場合に、たとえば13%のケースもあるらしいが、ここでもめったに逓増はしないという)。欧米のように人気のある作家の次回作の版権をめぐって出版社が競争(入札)するという話は聞いたことがないし、そもそも、10%の印税率を前提に進行中の出版交渉に他の出版社がより高い率を提示して競争するという話も聞いたことがない。保守的・閉鎖的・協調的な業界体質の結果なのか、「文化」活動に「カネ」の話を持ち込んではいけないという出版社側に有利な雰囲気づくりに成功した結果なのかは不明だが、著作者の側からの不満は表面化しない。再販制維持のキャンペーンに著作者の代表と称する人達が積極的役割を演じているが、多くの著作者がこれに異を唱えないことが少なくとも私には不可解だ(もっとも、ほとんどの著作者は、実質的関心がないか、盲目的に同調しているだけだろう。理解したうえで、「しかし、ああいう連中を相手に異を唱えるのは、時間とエネルギーの無駄だ」と判断している人達も少しはいるかもしれない)。

画一的で柔軟性に欠ける現行システムの中心に位置するのが2大取次だ。しかし、この2社が、書籍・雑誌の生産流通を牛耳っているとか、独占力の行使を欲しいままにしているようには見えない。大株主が大手出版社であることもあるが、小売業界(書店)と出版業界の両業界の団体との協議に基づいて維持される画一的で柔軟性に欠ける生産・流通システムの「配給センター」「配送センター」が主たる役割と見える。ただし、掲載の是非をめぐって議論が起きた写真入りの『フォーカス』をめぐる騒動の際の取次は、「コントロール・センター」として利用できる可能性を示したから、この位置づけに関していささか危険だと考えた消費者は、出版関係者であるか否かを問わず少なくないだろう。

  1. . 再販制廃止によって生まれるものは?

再販制を廃止したらどのような変化が現実化するだろうか。もちろん、発見機能が市場の重要な機能の一つだから、「誰にも予想がつかない」が正解だろう。さらに、再販制がなくなった時に、返品制度、返品条件はどのようになるか、取次の位置づけはどのように変化するか、関係各企業、業界団体がどのように行動するかなどという点も、結果に重要な影響を与える。個別経済主体にとっては、システムは与件であって、それを条件づける他の経済主体の行動が重要なのだ。1年後と、5年後、10年後では予測も大きく異なるだろう。私の観るところ、多くの産業で、制度・政策の変更の影響は、方向・規模の双方で関係者の予測と異なった。予想外の変化が現実化し、変化の規模も大きかったし、早かった。

変化の方向は、現行のシステムが、(1)商品の特性に適合していないこと、(2)生産・流通を支える技術の進歩・変化を十分に反映していないことという2点に対する是正・修正という色彩を帯びるというのが私の基本的な見方である。「配給システム」であるため、一定パターンに従って川下に流し、さらに川上へ逆流させるという規格化された商品のための「物流」システムとしては「効率的」かもしれない。しかし、明治以来のこのシステムも、とりわけ高度成長期以降の出版点数の激増に伴って、書籍という「商品」の差別化が徹底して進行したことにより、不適合を起こしている。書店の金太郎飴化も、出版点数が少ない時代には大きな弊害ではなかったはずだ。金太郎飴化していれば、店頭の在庫管理も川上企業群にとってはさほどの重要性をもたない。品切れに直面した読者は隣の書店へ行けばよいし、そこにもなければ、店頭在庫を置くべきだと川上が考えていないか、川上在庫がないケースだ。品揃えの自由とそれに伴う在庫保有のリスクの双方が現状では書店にはない。多くの産業で問屋が果たす機能のうち、物流と集金以外の機能を果たす仲介機関が存在しない。とりわけ、在庫、それに伴うリスクを負担する主体の不存在、販売「現場の情報」を収集して関係経済主体の柔軟な対応を促す主体の不存在の帰結は、書籍のような差別化された製品市場では、とりわけ深刻である。

流通システム、したがって、流通関連企業の基本的な役割は、「情報」の収集・管理・処理・流通である。たとえば最近20年程度の期間に産業界を含むわれわれの世界で起きた最大の変化の一つは、情報通信・情報処理技術の革命的な進歩だ。これを反映して、多くの産業分野で流通システムが変化し、それを反映して生産される商品のメニューや生産方法も大変貌を遂げた。小売店の店頭に並ぶ加工食品やファッション製品はこのような変化の象徴だ。店頭在庫を含めた在庫管理コスト、消費者の現実の購買行動を生産・流通過程に反映させるためのコスト、小口・多頻度・多様な発注に対応するためのコストなどの大削減が可能になり、従来であればコストや技術的制約からとても望めなかった、多様で柔軟な流通システムが無理なく実現可能となったのだ。

少し前まで、「衣料品店」という小売店の範疇があった。着るものはすべてここを通じて販売された。生地と簡単な製品群が主要な陳列商品だった。かりに、現時点でも金太郎飴のような品揃えをする「衣料品店」しか存在しないとすれば、われわれの「衣」生活がどのようなものであるか考えて欲しい。器がそうであれば、並べてもらえる製品しか供給されず、保守的・規格化された商品をより安くすることに競争のエネルギーが向けられただろう。商品の多様化と小売店の分化・差別化が並行して進行した。たとえば、ジーンズ・ショップやアウトドア・グッズの専門店化がそこで販売される商品群の一層の多様化と並行した。所得水準の上昇による消費者の需要の多様化と産業を支える技術の変化が衣料品関連ビジネスの分化・多様化を生み出した。

書籍についても、需要の多様化と産業を支える技術の変化という条件は共通である。しかし、画一的で柔軟性に欠ける現行流通システムが、本来実現すべき出版関連ビジネスの分化・多様化を妨げている。再販制と返品制、さらに2大取次の存在は、多様な出版活動を維持することを通して、「文化」の維持・向上に大きく貢献していると主張されてきた。しかし、以上の見方に基づいて、私は、これらのいずれもが、多様な出版活動の展開を妨げ、「文化」水準を低下させてきたと考える。とりわけ、再販制、およびそれに安住してきた「業界人」達の協調的体質こそがその元凶である。

これらを排除した際に何が実現するのかは正確には予測しがたい。しかし、より「書籍」と呼ぶにふさわしい本を取り揃え、在庫を保有する書店が成長することと、雑誌・ハウツーもの・漫画・文庫本等を主体とした多くの「本屋」が性格を大きく変えることは容易に予想できる。スポーツに関連した書籍の多くがスポーツ関連商品の一分として流通するようになり、ガードゥニング関連の書籍についても同様の現象が進展するだろう。小規模書店の一部でも、特定の分野に絞った専門店化が進行するだろう。書店のチェーン化の進展も重要な趨勢となるだろう。「書店」の専門化と並行して、大型化すると同時に他の商品も同時に扱う「統合化」が進展するかもしれない。いずれにせよ、金太郎飴のような書店ばかりという状況の消滅、書籍は書店だけで販売されるという状況の消滅、書店が書籍・雑誌だけしか扱わないという状況の消滅は急速に進行するはずだ。並行して、書籍と雑誌の流通経路の分離が進行するだろう。また、雑誌・ハウツーもの・漫画・文庫本等にベストセラーものを加えた品揃えに特化したコンビニのような本屋、あるいはそのようなコーナーをもったコンビニが今以上に存在感を高めるだろう。もちろん、これらの「書籍」の流通は、インターネットによる直接販売との厳しい競争に曝されるはずだ。

再販廃止後のトレンドがこのようなものだとすれば、書店主や出版社の利害は、各業界内・業界間で一致しないはずである。著作権者についても同様だ。新聞業界とは異なり、出版業界では、再販廃止後への対応策の検討が各企業ごとに進行中である。

  1. . 結語:著作物再販制問題の提起したもの

「著作物再販制問題の提起したもの」は多面的である。「供給側が画一的で柔軟性に欠ける流通システムに固執することを通して現状に安住し、結果として、より多様で良質の出版物を受け取る権利と、書店で本を見つけ選ぶ楽しみを読者が奪われている状態をどうすべきか」「このような状態の維持・放置に意識的あるいは無意識的に無神経な『出版人』にどう対処すればよいか」「国民の『知る権利』を現実に侵害し、自らの利益のためにはこの侵害をまったく気にしない実態を曝け出した日本の新聞業界にどう対処すればよいか」さらに、「一部の業界人や周辺の利害関係人の『啓蒙活動』によって、現行システムに同調させられ、結果として自らの首を絞めている多くの国民・消費者にどのように対応すればよいのか」つまり、「著作物再販制度」をめぐる議論・キャンペーンが提起したものは、著作物さらに「文化」を支える産業基盤の怖るべき非「文化性」である。

もちろん、眼下の基本的課題は、「より多様で良質な出版物を受け取る権利と書店で本を選ぶ楽しみを読者が奪われている状態」を業界ぐるみの共同行為によって国民に強制している非「文化的」状態を解消することと、われわれの生活の基礎である「知る権利」の実質的無視を「『文化』と『知る権利』の擁護」の名目の下に強行し続ける人達およびその協力者たちに冷ややかなまなざしと笑いを向けることである。

「あなたは文化人ではないのですか?」という質問・非難を受ける。「文化の擁護」を声高に叫んだり、「文化人」と自称し、そう呼ばれることに平気な人達を「文化人」と定義すれば、もちろん、私は「文化人」ではない。「文化」の擁護は徒党を組むことになじまない。生産者が「文化人」と共同戦線を組んで実現できるものでもない。この2年間に及ぶ騒々しい著作物再販制擁護キャンペーンにブレーキがかからないことこそ非「文化性」を象徴している。行政改革委員会規制緩和小委員会メンバー等の立場上、「『文化』と『知る権利』の擁護」のために著作物再販制度を維持すべきだとする人達の主張を否応なく聴き、読むことを求められる。しかし、その独善的・差別的でお粗末な内容と、それをあれまで倣岸かつ堂々と主張できる立派な神経に、こころよりの賞賛を贈りたくなることもしばしばだ。

[参考文献]

  1. 本誌9月号掲載の「なぜ著作物再編を問題にするのか」およびその参考文献。
  2. 私のホームページ[http://www.e.u-tokyo.ac.jp/~miwa/MIWA_JIS.HTM]
  3. 三輪芳朗『規制緩和は悪夢ですか ―― 「規制緩和すればいいってもんじゃない」と言いたいあなたに』東洋経済新報社、11月刊行予定。