トニー・ネグリに自由を

イタリアの「鉛の時代」に終止符を!

アピール(日本語訳)
訳者(杉村昌昭)解説
アピール本文
陳情書
日本の賛同者(11月29日現在)

アピール(英文)

アピール賛同署名者一覧(フランス語)


1979年イタリア、アウトノミア運動への弾圧とは

合衆国のネグリ救援ホームページへ


トニー・ネグリに自由を一一イタリアの「鉛の時代」に終止符を!

(訳者解説)

以下に掲載する「アビール」と「陳情書」は、イタリアの政治哲学者トニー・ネグリのアメリカの友人マイケル・ハートが、一〇月初めに筆者宛に送ってきたものである。トニー・ネグリまたはアントニオ・ネグリは、今年七月一日足かけ一四年間におよぶフランスでの亡命生活に終止符を打ち、祖国イタリアにもどった。「もどった」といっても、空港から「出迎え」の警察の車でローマ郊外のレビビアの監獄に直行するといった異例の「もどり方」である。

 ネグリは一九八七年に欠席裁判で一三年の刑を宣告されてのちも、パリ第八大学や国際哲学コレージュで政治哲学の理論研究ならびに教育に従事しながら、雑誌『フュチュール・アンテリユール(前未来)』などを舞台に活発な活動を続けていた。最近、彼の政冶理論の総括的大著《Il potere constituante(構成的権力)》のフランス語訳がエチエンヌ・バリバールなどの訳で出版されたところでもあった。

 しかし、他方でネグリは七〇年代イタリアの諸経験に決着をつけるために、帰国の機会をうかがってもいたようだ。筆者は昨年の秋以来、国際哲学コレージュのプログラムの一環としておこなわれていたエリック・アリエーズ(ドゥルーズ/ガタリの薫陶を受けた気鋭の哲学者)のゼミでネグリと直接知り合い、彼の発表なども聴講し、ガタリ思想のもっとも直系的な政治哲学者であることを改めて確認した。また、今年の二月二二日にパリでおこなわれた反ドブレ法(反移民法改悪)の大デモンストレーションのときにもレピュブリック広場の近くで彼と顔をあわせる機会もあった。その気さくな紳士ぶりと情熱的な生真面目さとが入り混じった個性はガタリとはまた一味ちがった魅力を感じさせた。ネグリの「イタリア帰還」は、ちょうど私がアリエーズなどもまじえて一席設けて、彼の話をゆっくり聞こうと考えていた矢先の出来事だった。しかし、思えば、これは私がうかつだったので、彼はまだつねに「現役の活動家」の雰囲気を漂わせていたことを私が過小評価していたむくいであろう。数百人にのぱるとされる、いまなおイタリアの獄中に囚われている仲間や国外に亡命している仲間たちの「代表」として、イタリア司法権力と「七〇年代問題」に「歴史的決着」をつけること、これが「歯プラシとタオル」を用意してネグリがイタリアに帰る決意をした理由であろう。

 『ル・モンド』によると、ローマ到着の第一声は「イタリアの空が見たかった」であり、また空港から直行した監獄での最初の接見者にむかっての第一声は「楽園にいるように感じる」であったという。マキアヴェリの国イタリアをほうふつとさせるこうした演出も心にくいものであるが、なんといってもやがて六五才になろうとするこの現代ヨーロッパきっての政治哲学の実践的理論家が自由に発言し行動することは、日本に身をおくわれわれにとっても少なからぬ刺激をもたらすであろうことを私は確信する。「政治において究極的に重要な概念はアムール(愛)である」ともらした(前述のアリエーズのゼミでの発言)この「硬軟兼備」の人物の「現状」に読者のみなさんの注目と支援をお願いするしだいである。なお、以下に訳出する二つの文は、はじめのものがネグリの活動ならびに彼のおかれている状況を説明する「アピール」、あとのものがネグリ釈放の賛同者に署名をもとめる「陳情書」である。ちなみに、うしろに列記したすでに署名した人々のなかには、バリバール以外に、音楽家のビエール・ブーレーズ、六八年「五月革命」の「ヒーロー」ダニエル・コーン=ベンディット、かつてのゲバラの盟友レジス・ドブレ、哲学者のジャック・デリダ、精神分析学者のエリザベート・ルディネスコ、経済学者のアラン・リピエッツ、作家のフィリップ・ソレルスなどの名前がみえる。(杉村昌昭)


(アピール本文)

トニー・ネグリに自由を一一イタリアの「鉛の時代」に終止符を!

トニー・ネグリは一九九七年七月一日以後ローマの監獄にいる。彼はすでに一三年以上の刑を宣告されているが、この件以外にも現在係争中の事件で有罪判決を受けてもいる。一九八三年からフランスで亡命生活を送ったのち、彼はあえてイタリにもどることを選んだのだが、それは、彼が帰国することによって、「鉛の時代」といわれるイタリアの七〇年代の政治活動が原因で指名手配されたり有罪判決を受けている亡命者や政治犯の問題に解決の糸口をつくりたいという願望からである。およそ一八〇人の人々がなおイタリア国内で囚われの状態にあり、またおよそ一五〇人の人々が亡命生活(主要にフランスで)を送っている。

トニー・ネグリはパドヴァ大学の教授であった。彼の著作は世界中にあまねく知られている。彼は一九七九年四月七日に遠捕され、「国家権力に対する武装反乱」のかどで告発された。この告発を正当化するために、彼の告発者たちは彼を「赤い旅団」一一キリスト教民主党の党首アルド・モロを誘拐・暗殺したテロリスト・グループ一一の秘密指導者であると主張した。ネグリはごの不条理な告発をつねに否定しつづけ、のちにこの件については正式に無罪となる。そんなこともあり、彼に対する告訴内容は幾度となく変化する。四年半の予防拘禁ののち、彼は急進党から立候補して国会議員に選出され、その結果獄から解放されるところとなる。その後、国会で彼の議員特権を剥奪して獄に送り返すという提案が僅差で可決されたとき、彼はフランスに逃亡する。しかし、彼に対する訴訟過程は彼の不在のまま進行し、いくつもの罪状、いくつもの異なった裁判で有罪判決を受けるにいたる。当時、アムネスティー・インターナショナルはネグリの裁判ならびにパドヴァ大学の彼の同僚の裁判の過程に重大な法律違反があると告発した。亡命中、トニー・ネグリはフランスのパリ第八大学ならびに国際哲学コレージュの教員として、また社会科学の研究者として仕事をした。そして、この間、彼は多数の著作を世に問うた。

 ネグリはその著名性のゆえに七〇年代のイタリアの急進的左派の象徴的な顔になった。一九六九年の秋からイタリアでは激しい社会的紛争の時期が始まった。この紛争は「緊張戦賂」と呼ばれた作戦を展開した国家情報局員のきわめて不明瞭な役割、いいかえればフォンタナ広場やボローニャ駅などの場所で爆弾キャンペーンを引き起こしたネオファシスト・グループのマニピュレーションによって激化した。イタリアの非議会主義左翼ならびに社会運勤の急進化は多くの活動家を広範な政治的暴カの道に導き、彼らのなかには武装闘争にむかう者も登場した。一九七六年から一九八〇年にかけて、数万人にのぼる活動家が警察に迫われ、そのうちの五千人以上が逮捕され、数百人が「緊急措置法」にもとづいて長期刑を言い渡された。この法律はいまなお有効で、そのなかには中心的な位置を占めるものとしていわゆる「悔悛」法がふくまれている。この法律は「悔悛」した被告の証言を他の被告の有罪を証明するための十分な根拠とみなすというものであり、また彼らに仲間に不利な証言をするかわりに自分が釈放されるということをうながすものである。さらに、この法律のなかには予防拘禁の理由を遡及的に一二年まで延長することができるという緊急措置もふくまれている。この措置は法治の原理原則に根本的に低触するものであり、またヨーロッパ人権規約の第五条と第六条で規定され、ヨーロッパ人権法廷で守護されてもいる刑事訴訟手続きの基本的規則にも根本的に矛盾するものである。このような支持しようのない法律の制定こそがフランスやイギリスといった民主主義を奉しるイタリアの隣国がこれらの裁判に大きな疑念をいだいている理由のもとにあるといっていいだろう。そうであるがゆえにまた、これらの国々はイタリアの司法当局からの七〇件以上にものぼる国外逃亡者の引き渡し要請の大部分に応じない一一政権党の性格にかかわりなく一一のだと考えていいだろう。また、疑いもなくこれと同じ理由で、この間フランスに受け入れられた五〇〇人以上の亡命者が権利を侵害されたり生活を阻害されたりすることもなかったのである。これらの亡命者たちはフランス社会に溶け込み、仕事を見つけ、家族とともに生活をきづいている。現在、彼らは、このようなはなはだ不明瞭な繁急措置下において下された二五年前の罪状による有罪宣告を解消するために、彼らの未来や彼らがきづいてきた生活を危険にさらそうと考えてはいない。

 このアビールの目的は、「鉛の時代」の活勤がもとで追われたり有罪宣告を受けた人々が本当におこなった活動あるいはおこなったと推定される活動を許容するものとは決して解釈されてはならない。亡命者たちは「戦争」は終わったと明瞭に宣言している。「あの時代は終わった」のである。その名に値する民主主義は歴史のページをめくる能力をもたねばならない。現在、これらの四〇〇人近くの亡命者や獄中者はイタリア社会から排除されている。これはケース・バイ・ケースで解決すべき問題ではなく、一括的解決をおこなうべき問題である。九年前に、「議会の投票による減刑」案が提出されたが、いまだ投票は実現していない。こうした提案は前向きの効果をもたらしうるけれども、亡命者問題を解決することはできないだろう。トニー・ネグリと彼の不運な仲間たちの問題を解決する方法はただひとつ特赦しかないだろう。かつてイタリアで実現した唯一の特赦は、一九四六年にファシストたちに対しておこなわれたもので、トリアッチが支持したものであった。他方、イタリアの七〇年代におこなわれた活動に大なり小なり匹敵するものとして、かつてアルジェリア戦争時における活動に関連して、フランスは脱走兵ならびにOASのメンバーの双方に対して特赦を与えたことがある。

 われわれが法治の原理原則を支持し、人権がどこにおいても誰に対してもしっかり確立されることを主張するものであるかぎり、そしてイタリアが新たなヨーロッパにくわわる用意をしているかぎり、われわれはイタリアの国会議員がこの特別措置へのアピールに応え、すみやかに特赦を実現することを緊急にもとめるものである。われわれはまた、ヨーロッパ連合の代表者に対して、トニー・ネグリの釈放を早急に実現するための働きかけをおこなうようにもとめたい。彼がひとつの時代を象徴したとするなら、彼の釈放はもうひとつの別の時代、より穏やかな一時代を象徴することになるであろう。最後に、イタリアはヨーロッパ人権規約と相容れない一連の特例措置を廃棄することによって、新しいヨーロッパのなかで中心的な役割を巣たすことができるようになるであろうということを申しそえておきたい。

(以上、『インパクション』105号掲載のものを転載 『インパクション』の問い合わせは、impact@jca.ax.apc.orgまで)


陳情書

 現在の諸状況にかんがみて、われわれはイタリアの「鉛の時代」に終止符を打つためにトニー・ネグリの釈放をもとめるアピールを支持します。トニー・ネグリは一四年間フランスに滞在しました。彼は四年半におよぶイタリアでの予防拘留ののち一九八三年にフランスに亡命しました。彼はいま、ヨーロッパ人権規約と相容れない一連の繁急措置(「悔悛者」の証言だけに依拠した有罪宣告や予防拘禁の拡大適用などをふくむ)にもとづくすぐれて政治的な理由で有罪を宣せられたイタリアに自らの意志でもどりました。彼は一九九七年七月一日から獄中にいますが、彼の釈放は(労働釈放のそれですら)まだ実現されていません。二〇年ほど前におこなわれた政治的活動をもとにして、四〇〇人にものぼる人々がイタリア杜会から排除されています。フランスに亡命した一五〇人以上の人々は、緊急措置にもとづくこうした有罪宣告のために彼らがきづいてきた生活を破壊しようとは望んでいません。ヨーロッパ各国の当局は右も左も亡命者たちをイタリアに送り返す措置はとりませんでした。彼らはそういう暗黙の仕方でイタリアの訴訟手続きに対する軽蔑の念を表明したのです。

 イタリアの「テロリズム」というラベルをはられたイタリアの杜会闘争の広範な政治的暴力は、いまやずっと以前に終焉したものにほかなりません。かりにも民主主義を名のる体制が、これらの政治的犯罪(しかも二〇年以上を経過した)の被告たちに一般的な犯罪に対するよりも過酷な措置を適用することができるのでしょうか。トニー・ネグリの釈放はすでに遅すぎたともいえる特赦に帰着しなけれぱなりません。緊急措置の廃止と議会における特赦の提案の可決だけが「鉛の時代」に終止符を打つことができるでありましょう。これらの条件がみたされるまで、われわれはヨーロッパ連合の諸国がイタリアからの亡命者の居住権を保証するよう強くもとめるものです。最後に、われわれは、その他の諸国の国会議員ならびにストラスプール会議に結集された人々がこの問題を解決するためにできるかぎりの努力をして下さるよう要講するものです。

Among those who have already signed this petition :

E.Balibar(philosopher),J.L.Benhamias(General Secretary of the Green Partyin France), O.Betourne(editor at EditionsFayard), P.Boulez(musician), Ch.Bourgois(editor), P.A.Boutang(filmproducer), R.deCaccatty(writer), G.Chatelet(mathematician), M.Chemillier-Gendreau(jurist), D.Cohn-Bendit(writer), R.Debrey(writer), J.Derrida(philosopher), C.Dolto-Toltitch(doctor), V.Forrester(writer), S.Gisselbrecht(Inserm), G.Kejman(lawyer), A.Lipietz(economist), B.Marger(Cite de la Musique), J.F.Masson(doctor), F.Matta(artist), G.Perault(philosopher), M.Plon(psychoanalyst), A.Querrien(urbanist), J.Ranciere(Philosopher), E.Roudinesco(writer), S.Silberman(film producer), Ph.Sollers(writer), G.Solier(jurist),and I.Stengers(Philosopher).

Please send signatures to Yann Moulier Boutang by fax or e-mail.

fax:(011.331)45.41.53.91

email:Yann.M.Boutang@wanadoo.fr

Name Function or Title Address and telephone,fax,or email


(英語アピール原文)

FREEDOM FOR TONI NEGRI

PUTTING AN END TO THE "YEAR OF LEAD" IN ITAY

Toni Negri has been in prison in Rome since July I , 1997. He has been sentenced to more than 13 years in prison, not counting another conviction that is now in the appeal process. After residing in France in exile since 1983, he returned to Italy voluntarily in the hope that his action would contribute to the resolution of the problem of the exiles and prisoners who are wanted or convicted for the political activities of the l970s in Italy, the so-called "years of lead." About 180 people are still in Italian prison under these charges and about 150 are in exile, the majority of them in France.

Toni Negri was a professor at the University of Padua and his writings are well-known throughout the world. He was arrested on April 7 , 1979 and accused of "anned insurrection against the powers of, the State." To support this accusation, his accusers presented him as the secret leader of the Red Brigades , the terrorist group that had kidnapped and assassinated Aldo Moro, President of the Christian Democratic Party . Negri has always denied this absurd accusation and he was later formally acquitted of this charge. Charges against him were modified nuluenumerous times . After four and a half years of preventive detention , he was elected to parliament as a representative of the Radical Party and was consequently released from prison. When the Chamber of Deputies subsequently voted by a narrow margin to strip him of his parliamentary immunity and send him back to prison, he fled to France . The court procedures against hi~u continued in his absence and led to convictions under several charges and in several different trials. At the tine, Amnesty International denounced the serious legal irregularities of Negri・s trial and those of his colleagues at the University of Padua. During his exile, Toni Negri worked in France as a teacher at the University of Paris VIII, at the College International de Philosophie, and as a social science researcher. He published numerous books during this period .

Due to his notoriety Negri has become the emblematic, figure of the Italian radical Left of the 1970s. Beginning in the Autumn of 1969 there began in Italy a period of intense social conflicts that were exacerbated by the very ambiguous role of certain State agencies in what was called a "strategy of tension," in other words , the !manipulation of the neo-fascist groups responsible for a deadly bombing campaign at such sites as Piazza Fontana and the Bologna train station. The radicalization of the Italian extra-parlianentary Left and the social movements led a large number of activists toward the path of wide-spread political violence and a few of them toward armed struggle,. Between 1976 and l980, tens of thousands of activists were pursued by the police and more than five thousand arrested . Hundreds of l