―私は堪らなく不安だ。
   この世界の何を信じて生きていくべきか分からない。
何ものにも裏切られる確信がある。
   だが、今や死は望めない。
    だからこそ、何かを信じたい。
   全てが崩れ去ると分かっているこの世界に
それでも、生きていかざろうえないなら。




『 Until The End Of The World 』
                  
(前編)

       
一つの旅路が終わった。だが友人たちよ、荒野はまだ果てしなく広い。
  
(1)
 
 打ち寄せる波。崩れかけた壁の隙間を吹き抜ける風。目の前ではじける炎。
 その音以外、今は何も聞こえない。
 灰色の壁。白く輝く月。砂浜と暗き海。星。石。スチール缶。
 それ以外、今は何も見えない。
 人の声はない。人の姿はない。息吹はない。匂いもない。目の前にいるお互い以外は。 あの日より恐らく三日後。彼らは崩れかけた廃屋の中にいた。三日間、誰にも会っていない。世界はひたすら静寂だった。二人の間も静かだった。
 幸いなことに、食料も飲料水も豊富に見つかった。意識を取り戻した場所から移動を始めた翌日、渚で水にあらわれる半壊したコンビニエンス・ストアーを見つけたのだ。
 その日はラップに包まれたパンなどで食事を済ませた。ペットボトルに入ったミネラルウォーター、缶ジュース。それらはまだいくらでもある。
 今日の食料は缶詰に切り替えている。賞味期限の切れた食料はもう信用できない。極端に浄化されたように見える今の世界でもだ。中毒は、即死を意味するかもしれない。自分たち以外、未だ誰も見いだせぬこの世界においては。
 頼りなく揺らめく炎。照らし出され、床に転がる空き缶。それを見つめる二人の目。
 漆黒の瞳と、ブルーの瞳。映り込む赤い色彩。純白の包帯。
 未だに二人しかいないのかもしれない、だが一人だけではないこの世界。
 それでも孤独。
 すぐそこにいる他人。異性、求めるべき相手。それが手に届く距離にある。だが孤独。 傷つける言葉。傷つく言葉。それが怖い。未だに、たまらなく怖い。
 癒す言葉。癒される言葉。それが見つからない。今も見つからない。
 優しさ。示す方法がない。受け入れるのが恐ろしい。まだ、恐ろしい。
 ぬくもり。触れ合い。接触。抱擁。指、髪、涙、手のひら、香り。性器。吐き気が、する。
 だから孤独。ずっと孤独。
 シンジとアスカ。あの渚での再会以来、一言も言葉を交わしていない二人が、そこに居る。

 朝食は魚の缶詰とミネラル・ウォーター。塩辛い魚の味覚が舌をざらつかせ、飲み干す水がそれを消し去り胃を冷やす。
 アスカの右腕の包帯を取り去り、傷を消毒するシンジ。化膿はしていない。傷口も深くはないようだ。だがそれは、手の甲から、上腕部全体に走っていた。恐らく傷跡は消え去ることはないだろう。コンビニで手に入れた新しい包帯を巻く。アスカはそれに、抵抗はしない。
 左目を覆っている包帯も解き、眼帯をとる。瞼はまだ完全には開かない。消毒液に浸したガーゼをあてる。アスカの身体が僅かに震えるのを見て、シンジは手を止める。震えが止まる。ガーゼをテープで固定し、包帯を巻き付ける。その間、彼女の片方の目は逸らされたままだった。
 外に出る二人。外界は薄暗い。空は厚い雲に覆われていた。日の光が僅かに差し込み、ほのかなぬくもりを肌に与える。
 目の前に広がるのはひたすら広い海と、白い砂浜。露出した土と数々の廃墟。水平線の彼方に見える、巨大な白い彫像。二人ともよく知っている、顔。
 リリス。綾波レイと呼ばれていた少女によく似た顔。
 命無き瞳がじっと二人の方に注がれている。時折そちらに目を向けながら歩くシンジ。正視しようとしないアスカ。
 半分崩れ落ちた大きな建物。垂れ下がる看板から電化製品のチェーン店だったことが分かる。
 閉じられたままの全面ガラス製の開き戸。転がっていたコンクリートの破片を何度か投げつけ、ヒビが入った部分をシンジが蹴り割る。手探りで内側のロックをはずし、通り抜けられるぐらいまで開く。
 店内に向けて声を出すシンジ。答えはない。暗がりに向け、再び呼びかける。反響のみが帰ってくる。アスカは右腕をさすりながらシンジの背中を見ている。強張った表情と閉じられた唇。疲労が、目の下に現れ黒ずむ。
 店内に進む。暗い空間に、目が慣れるまで待つ。ぼんやりと姿を浮かび上がらせる様々な製品。テレビ、クーラー、洗濯機、冷蔵庫。ノート型パソコン、電子レンジ、掃除機、家庭用ゲーム機。
 意味のない物体。
 感じる互いの気配。その間の距離は縮まろうとしない。片方が寄れば、もう一方が拒否し遠ざかる。互いにその繰り返しだ。
 奥へ進むシンジ。靴音が室内に反響する。
 目前の台の端に躓く。身体を支えようと台の上に両手をつく。小型の、四角い物体が手のひらの下で軋み音をたてた。手に取る。ポータブルDATレコーダー。イジェクト・ボタンを押して、ふたを開く。カセットは入っていた。デモ用の物だろう。
 イヤホンを耳に入れ、再生ボタンを押す。バッテリーは生きていた。流れてくる、聞き覚えのあるヒット曲。数日前までは、この歌も地上のあちこちで聞こえていたのだ。
 全てが無に帰し、静寂の中へ戻った世界。それなのに歌だけは、今こうして耳の中で鳴り響く。懐かしさと寂寥感。思わず笑みがこぼれる。寂しげな笑み。
 ふと気配を感じ顔を上げ振り向く。アスカがあの冷え切った目で、視線を注いできていた。イヤホンをはずし、シンジはその視線を受け止める。久しぶりに、まともに向き合う二人。
 アスカの肩が、小刻みに震えている。唇がかすかに開く。そこから滲んでいる、鮮血。 限りなく、冷たい瞳。そこに一瞬だけ宿った何か。
 背を向けて去ってゆくアスカ。立ちつくし俯くシンジ。彼女の姿が消えた時、絞り出るような嗚咽が店内を満たし始める。レコーダーの黒い表面に、雫が落ちはねる。
 それでも、ここは自分の居場所ではない。
 レコーダーをポケットに入れ、シンジは出口へと向かった。

 今夜も厚い雲の切れ目から月だけは、はっきりとその姿を見せている。
 月明かりを反射させる海。穏やかな波がその輝きを揺らめかしている。
 水平線の向こうに白く輝く顔。魂無き微笑み。それをじっと見ながら、シンジは砂浜に座っている。押し寄せる孤独。本当の、孤独。
 廃屋に戻ってみると、既にアスカの姿は無かった。探す気力も無かった。ただ声を上げて涙を流した。その力しか、無かった。
 リリスの魂。綾波レイの魂。母の魂。全ての母たる魂。その中に抱かれていた時のことが思い浮かんでは消えてゆく。
 そこで出会ったアスカの心。
(君のために、何かしたいんだ)
(だったら何もしないで。あんた、あたしを傷付けるだけだもの)
 自分に何が出来る。傷付けることしか出来ない自分に。
(抱きたければ抱けば?押し倒してでも,やれるもんなら、やってごらんなさいよ)
(そんな権利、僕には無いよ)
(当たり前よ。分かってるくせにあたしの中に入ってこないで。汚さないでよ)
 自分はアスカのことを汚していた。視線で、言葉で、願望で、依存で。欲望で。
 手淫。偽りの征服感。嗜虐。走る快感。吹き出る液体。後悔。自己嫌悪。徒労感。それでいて甘美な疲れ。いつからか、ただその繰り返しだった。
(助けてよ、アスカ)
(イヤ)
 何を求めている?何を願ってるんだ?
 受け入れてくれるはずがない。たとえ自分が、どんなに彼女のことが必要だとしても。ただ与えてもらうことしか考えていなかった自分など。その恐怖から逃れるために、全ての人々の命まで奪おうとした自分。ただ身勝手なだけの自分。
 あの時。アスカの首を絞めたあの時、頬に感じた彼女の感触。それではっきりとした。ただ会いたかった。ただ必要としていた。
 アスカを必要としていた。アスカに、会いたかった。その気持ち、偽りではなかったはずだ。それが人の姿を纏い、再び生きていこうと決めた理由だった。
 リリスの死とともに、綾波レイの魂は解放され、母との本当の別れを知った。そして全ての人々に託された、再び形ある命を得る機会。アスカにも、再び出会えた。
 謝りたい。償いたい。知りたい。抱きしめたい。好きでいたい。本当の意味で、そうしたい。それを試みるチャンスがそこにはあったはずだ。
(気持ち悪い)
 あの一言。彼女のたった一言でシンジは無力となった。祈りにも似た思いとは隔絶した現実。伝達手段の不在。蘇る、他者への恐怖。だが、そんなことはもう分かっていたはずだ。その向こうに希望を見いだし進まなければならない存在。
 それが、自分。人間という存在。それなのに。
 自分はまだ、全然臆病なのだ。
 鼓膜を振るわせ続ける曲。髪を揺らす風。足下に寄せてくる波。柔らかい砂の感触。それらが今や、自分という存在を知る唯一の手がかり。だが、それだけだ。
 生き続ける、それがもっとも大切なこと。無限かもしれない旅へと向かった母は、別れ際にそう教えてくれた。母の最後の愛情。
 でも一人で何になる。僕一人で生きて何になる。アスカがいなくて何になる。それで、何になる。
 独りでも、誰も側にいてくれなくとも生き続ける理由。それは何だ?それに、意味はあるのか?
 だがシンジには何も伝えることが出来なかった。孤独を恐れ、アスカを失うことを恐れていたというのに。その結果が、これなのか。
 人に嫌われるのが怖い。アスカに嫌われるのが怖い。自分を嫌いになるのが怖い。人を傷付けるのが怖い。アスカを傷付けるのが怖い。自分が傷つくのが怖い。他人に何も出来ない。アスカに何も出来ない。自分に、何も出来ない。それが怖い。
 だから恐れていたのだ。人を好きになるのを。アスカを好きになるのを。それを望む、自分の心を。ずっとそうだった。そして多分、今も。
 アスカのことが好きだと分かったのに。必要だと分かったのに。
 一度は信じてみようと思った祈り。他人と理解し合えるかもしれないという祈り。だが祈りは、行動には結びつかなかった。
(いくじなし)
 目を閉じ、膝に顔を埋める。涙はもう出ない。ただ胸の奥が、焼け付くように苦しい。何かが細胞を溶かしてゆく。開いていく空洞。そこを埋める物は、ここには無い。
 自分は、変われないのか?何者にもなれないのか?自分を許することなど、出来ないのか?
 激しい虚無感と、疲労が彼を包んでいた。DATレコーダーのバッテリーが死んだ時、シンジは穏やかな風の中で、眠りに落ちていた。

(せいせいしたわ)
 穏やかな日差しの下、アスカはそう何度も心の中で呟きながら無人の街を歩いていた。道路のアスファルトの路面から立ち上る蒸気が視界をぼやけさせ、陽炎のように揺らす。 実際、そう呟き続ける彼女の顔には、ここ数日全くなかった笑顔さえ浮かんでいた。いや、笑顔と言うにはかなり陰惨な表情ではある。ねじ曲げられた唇。目の下の黒いくま。少しこけた頬。血走った目。どこか虚ろな瞳。
 これは笑顔などではない。本人がそう装っているつもりなだけだ。それでもアスカはいかにも軽やかな感じで歩みを進めていた。そのつもりでいた。だがその姿にも、かつて他人を魅了してやまなかった、華やかな輝きはない。
 この街がいったいどこなのか見当もつかなかったが、どうやら今歩いている通りがメインストリートであったことは想像できた。通りの両側には様々な店が軒を連ね、所々砕け散ったショーウインドウ越しに色とりどりの製品が見える。
(もうアイツはあたしの側には二度とこない。だから吐き気に悩まされることもない。心を不必要に乱されずにすむ。思うとおりにやってゆける。汚されることもないんだ)
 ショーウインドウの一つに目が止まる。カツラのとれたマネキンが数体侘びしく立ち、腕の部分に光沢のある紺のスーツが引っかかっていた。開け放たれたままの入り口に歩み寄り、中をうかがう。内部は雑然としていたが、床に落ちている品物からブティックショップだったらしいことが分かる。
 店内に入り、ゆったりと歩きながら服やアクセサリーを物色する。
「悪くない品揃えね」
 その声に答える者などは無く、差し込む日の光に満たされている店内に虚ろに響く。無理な笑みを浮かべ片足で身体を一回転させる。
「ちょうどいいや。こういうの着てみたかったんだよね」
 はしゃぎながら床に落ちている服から何着か選び、さらに銀色の十字架のネックレスを手に取ると試着室へと入る。閉められるカーテン。一着ずつ手に取り上半身に重ねて、ヒビの入った鏡の前でポーズをとる。
「これはダメねえ、何かイメージと合わない。これはっと……、何よ、サイズが全然違うじゃない。これは?…バストがきつそうね」
 カーテンを開け、足早に店内の服を数着掴む。再び鏡の前に立つアスカ。
「これなんかどうかな?うーん、ちょっとシックすぎるのよね、却下。何これ?おばんくさー!…これかあ、ワインレッドねえ。しっかし、いい加減赤ばっかりじゃワンパターンかなあ。まあいいか、あたしに合う色って言ったら、やっぱりこれだもんね。これに決めよっと」
 鏡の中の歪んだ姿。ワンピースの鮮やかなワインレッド。それとは対照的な、薄汚れ血の色のようにくすんだプラグスーツ。
 歪んだ顔から一瞬にして笑みが消え、能面のような虚ろなそれに変わる。手から落ちる服。
「バッカみたい……。誰も見てくれる人いないのに、こんなの着てもしょうがないじゃない……」
 恐らくは誰もいない。この世界で自分を見てくれる人など誰もいない。それは以前常に心に秘めていた不安とは別の意味。
 完全にして絶対的な、逃れることの出来ない、孤立。
 いや、違う。一人だけ見つめてくれるかもしれない人がいる。似合うよ、アスカ。そう言ってくれるであろう人がいる。
 碇シンジ。
(嫌だ!アイツだけはもう絶対にイヤ!)
 アスカはその名前を考えるのが苦痛でしかなかった。吐き気がするのだ。そして実際、その場で嘔吐した。吹き出る内容物が音を立てて足下の服を汚す。胃にはもう何もない。それでも嘔吐感は収まらない。異様で悲痛な呻き声。醜く歪む顔。最後には、黄色ばんだ胆汁まで口の端に流れる。
 鼻を突く臭い。たまらず試着室を飛び出し、床にうずくまる。
(最悪)
 口元を手で覆い、その場で仰向けになる。白い天井。視野に浮かんでくる様々な人々の顔。胃が何度も締め付けられる。
(ママ、やっぱりあたしの前から消えた。パパ、大っ嫌い。もう一人のママ、嫌い。加持さん、死んじゃった。ミサト、知らないあんなアル中。ヒカリ、鈴原のことで頭が一杯。ケンスケ、ただのマニア。ペンペン、ただの畜生。リツコ、情念だけで生きてる女って最低。ファースト……、あの子には勝てない、だから嫌い)
 わざわざ嫌うまでもないよね、もうみんないないはずだもん。虚ろに笑ってアスカは目を閉じる。
 あの時太陽を背に、自分を嘲笑するように舞っていた翼を持つ敵達。それが放った槍に貫かれた瞬間より後のことは、ほとんど憶えていない。
 意識が一度薄れた後、再び様々な人に出会った記憶もあるが明らかではない。ただその誰もが、決して好意的などではなかったことだけは憶えていた。侮蔑の言葉を浴び、殴られたような憶えもある。誰かには、子供は相手に出来ない、迷惑なだけだと背を向けられた記憶もある。
(結局、あたしってその程度だったのよね)
 ただ鮮明に記憶している顔がある。碇シンジだ。混沌としたその世界の中で、何度見たか分からない。
(アイツ、色んな顔してた。あんなに表情豊かだったかな?)
 いつも見せていた怯えの伏し目。にこやかな口元。恐怖。懇願。悲哀。怒り。情欲。虚無。驚喜。狂気。
(失礼な目でも見てたわよね。あんな目で見られるなんて、ホント最悪)
 それは憐憫。慈しみに満ちた瞳。吐き気が治まっていた。
(でも、もういい。アイツに会うこともないし、関係ないよ)
 興味ないね。再びこぼれる虚ろな笑み。
 瞬間、胸の奥に憶えるすさまじい苦痛。喉の奥が圧迫されるような感覚。慌てて身を起こし口を開いて身体を屈める。それが来るのを待つ。済ましてしまえば、楽になれる。だが嘔吐は起きない。
 代わりにあるのは締め付けられるような熱く、重苦しい感覚。それが消えない。呼吸が困難だ。
(何なのよ!吐いちゃえ!こんなのイヤだ!全部吐き出して楽になるの!)
 吐けない。再び脳裏に浮かぶシンジのあの目。
(あんなの嘘よ!だってアイツあたしのこと汚してたじゃない!あたしの気持ち考えてもくれなかった!抱きしめてもくれない。見てもくれない。首だって、絞めたし……)
 気持ち悪いだけ。それが碇シンジ。しかし、なぜこんなにその男のことで苦しむのだろうか。
(アイツが悪いから。アイツがいくじなしだから。あいつが身勝手だから。アイツが最低のオナニー野郎だから。アイツが……)
 曖昧だ。それにアスカは気付いた。浮かんでくる碇シンジの姿、そのどれもがぼんやりとしてつかみ所がない。確信を持って彼を語れる言葉を、実は何も持っていないことに彼女は気付いた。側で暮らし、共に戦い、怒鳴りつけ、蹴りを入れ、笑顔を交わし、口づけを交わし、親しみと、憎しみをさえ抱いていた相手でありながら。
(あたし……、シンジの何を知ってたって言うのだろう)
 出会った頃は、気が合わない奴だと思っていた。見た目はともかく、醸し出す雰囲気はひどく無気力で軟弱に見えて、自分の嫌いなタイプの男だと感じていた。これまでのようにただ義務的につき合うだけ。そう達観していた。
 それが少し変わったのは、実際に組んで使徒と戦い始めた時。あの瞬間の不思議な一体感。命を救われたときの信頼感。そして、生死を共にする共有感。
 その後からだ。シンジのことを自分でも時に驚くほど、意識し始めたのは。
(目について仕方なかった。苛ついて仕方なかった。アイツの嫌なところが。情けないところが。ダメなところが。でも……)
 それだけではなかった。時として見せる、少年らしい仕草に思わず微笑みがこぼれた。ムキになる姿に、心地よさと安心感を憶えた。真摯な表情に、胸が高鳴った。そして、常につきまとっていた寂しげな雰囲気、それに自分は……。
(だけど、アイツはそんなあたしの気持ちを考てくれない。そして脅かして、汚して、それでいて遠のいて……。結局、あたしを見てなんてくれなかった)
 たまらなく苦痛になったシンジという存在。アスカはそれを捨てようとした。嫌おうとした。追い越そうともがいた。憎もうとした。無視を決め込んだ。
 その結果が、より追いつめられた自分だった。それまではあらゆる事にそうすることで楽になってきたというのに、シンジに関してだけはより苦痛が増しただけだ。シンジが現れてから、自分の中の何かが崩れていった。
(何なのよ、あんたは)
 その言葉は、シンジに対してと共に自分に向けたものだ。そんなに苦痛ならば、なぜハッキリさせようとしなかったのだろう。なぜ気持ちを伝えようとしなかったのだろう。なぜ、彼のことを知ろうとしなかったのだろう。その結果がどうであれ。
 明らかだ。怖かったのだ。そこにある真実を知るのが。
 自分自身を壊し、亡き母の魂にすがってまで、全てから、そして碇シンジから逃げようとした自分。
 アスカは今になってあの時、シンジが自分の首を絞めようとした気持ちが、何となく分かってきた気がした。自分とてどれほど彼にプレッシャーを与えてきたか。結局、自分で自分を追い込んでいただけでなく、シンジすら追い込んでいた自分。
 その報いとしては、当然だったのかも知れない。
(その挙げ句に、気持ち悪い、か。…お互い様よね)
 意識せずに、目の端が滲んでいた。
(そう……。だから、あたしは自分のこと大嫌いなんだ)
 アスカが店を離れたのは夕闇が無人の街を染める頃だった。服など一着も持ち出さなかった。包帯の巻かれた左手に、銀色の十字架のネックレスが握られているだけだった。


(2)
 
 耳鳴りに足を止めたが、すぐに苦い笑みを浮かべて歩き出す。空腹が胃を締め付ける。そう言えばあの廃屋を去ってから何も食べていない。それに吐いている。空腹も当たり前だ。
 とりあえず何か口に入れる物を探すことにする。コンビニとかなんてどこにでもあるだろう。これじゃまるで浮浪者ね。惨めさにまたも苦笑が浮ぶ。
「アスカ」
 これはまずい。幻聴まで聞こえるなんて、いよいよ自分もおかしくなってきたらしい。でも考えてみたら初めてという訳でもないか。ちょっと前まで廃人同然だったらしいからな。ひょっとしたら、ずっと前から自分はそんな感じだったかもしれない。
 飲食店らしい建物が見え、彼女は足を早めた。口の中で唾が湧く。
(でも、これ以上生き延びて何になるんだろう?何で、死ぬのが嫌なんだろう?)
「アスカ!アスカなんでしょ?!」
 はっきりとした声にアスカは振り向いた。走り寄ってくる人影。遠目にもそれが、自分のよく知っている人物であることは分かった。驚きと懐かしさで胸が震える。それでいながら軽い失望感。
(アイツなわけ、ないか……)
 彼女が涙を流しているのが目の前に来た時に分かった。もうずいぶんこのソバカスの似合う笑顔を実際に見ていなかった。少女は俯いて息を整えていたが、やがて満面の笑みを浮かべながら顔を上げる。
「無事だったんだね!アスカ!」
「ヒカリ……」
 洞木ヒカリは今度は声を上げて泣きながら、アスカの胸に飛び込んだ。空腹で体力の衰えたアスカにとって、それはかなりきつい挨拶であった。
「ちょ、ちょっと」
「本当に、よかった!もう会えないって思ってた!アスカはエヴァのパイロットだし、入院しているって聞いていたし、第三新東京市が大変なことになってるってニュースでやってたし……」
「落ちついてよ、ね?」
「そんなわけにいくわけないでしょ!」
 泣きじゃくるヒカリを支えながらも、頭にあるのは目の前にある飲食店のことだ。そのことに情けなくなった。かつては親友とまで思おうとした少女との再会。それが、この程度の気持ちだとは。
(やっぱり、あたしはおかしくなってしまったのかな)
 一方で、自分は所詮この程度の女なのだという暗い思い。それが彼女の口を開かせなかった。結局、二分はそうしていただろうか。ヒカリはやっとから身を離し、再び笑顔を浮かべようとしたが、友人のただならぬ姿に気が向き表情が凍り付く。
「怪我、してるの?」
「え?ああ、これ。ちょっと戦闘中にね」
「そう……、大丈夫なの?」
「平気よ」
 素っ気ない口調になる。自分にとってはこの傷は屈辱の証でしかない。あまり、触れられたくはなかった。そしてそう思ってしまう自分に、また嫌な気持ちになる。
(やっぱりあたしって、嫌な奴)
 できるだけ自然に笑顔を浮かべたように装い、背を向ける。
「ど、どうしたの?」
「お腹、空いてるんだ!」
「えっ?!…ああ、そういうことね」
「そう言う事よ!ヒカリもどう?」
「そ、そうね」
 二人は飲食店に入り、しばらく夢中で食料を探す。いや、夢中だと思っていたのは互いの相手に対する印象でしかない。ヒカリは時折アスカの方を心配そうな目でうかがい、アスカは先ほどの自分の態度にまた嫌悪感を憶えていた。
(わざとらしすぎるわ、まるで誰かさんみたい)
 その女性のことも、かつてはそう軽蔑していた自分に腹が立つ。
 結局見つかったのはコンビーフの缶詰とオリーブの実が入っている小ビンだった。二人は無言でそれを食べる。味を感じることもなく義務的に口に運ぶ。
「ヒカリ、よく無事だったわね」
「うん、何が起こったのか全然分からないんだけど、気がついたらこの街の噴水の中に、身体半分浸かってたの」
「そう」
「でも、誰もいないね、ここって」
「多分、世界中で残っているの、あたし達だけかもね」
「……」
 明らかに気のない受け答えに、ヒカリは顔を伏せる。そんな彼女に気付かぬ振りをしながら、アスカは目をそらし外を見ていた。月明かりのみの闇が、無人の街を覆い始めていた。
 ヒカリは何か考えていたようだったが、やがて微かに口元を緩めて言った。
「この街にいるのって、私たちだけじゃないわよ」
「……?」
「鈴原が、いるの」
「…そう。何で一緒じゃないの?」
「あいつったら他に誰かいるかもしれないって、探しにいくって。まだ義足に慣れてないのに」
 戻って来るって、言ってたけどね。心持ち頬を赤らめるヒカリ。その姿に、アスカは自分でも驚くほど意地の悪く、ドス黒い思考が沸き上がるのを感じた。
(やめてよ!こんな事言いたくないのに!祝福してあげなきゃならないのに!)
 唇の端が、醜くつり上がる。
「困った奴ね。相も変わらず」
「う、うん」
「でも良かったじゃなあい。これでアイツはあなたのものよね」
「…アスカ?」
「こんな時になんだけどさ。応援してあげるからね、ヒカリ」
 毒を含んだ言葉。それでも、ヒカリは少し悲しそうな顔をしただけで床を見る。言ってしまってから遅いのは承知のことだが、アスカはひどく後悔した。そう言えば、シンジに辛辣な言葉をぶつけてから今のような思いにとらわれたことが、かつて何度もあった。
 自分は何も変わっていない。その事実に目の前が暗くなる。
「あの、アスカ」
「何?」
「あのね……、その……」
 これまで以上に戸惑いながら言葉を探すヒカリに、アスカはすぐにそれを察した。
「やめて、ヒカリ」
「……」
「アイツのことは言わないで。もう考えたくないの」
「…そう。でもこれだけは教えて、碇君は無事なの?」
「無敵のシンジ様、だからね」
 その名前を口に出すのが苦痛なのは、全く変わってはいない。だが今までとはかなり違う苦痛であることも、分かりすぎるほど分かっている。もう、吐き気は起きない。
 だからどうだって言うんだろう。アスカは唇を噛みながら、目の奥にこみ上げてくるものに耐えていた。今さらどうするというのだろう、手でもついて許しを請うのか?いや、自分だってアイツのことを許したわけではない。かけるべき言葉なんて思いつかない。もう一度会ったら、今度もひどいことを言ってしまうのは明らかだし、正直自分が何をするか分かったものではない。傷付けるだけだ。
 それに、何よりも彼が自分に会うことなど望んでいるとは思えない。自分がそれを望まぬように。もう、遅いのだ。
「行こう、アスカ」
 打ちひしがれた同年齢の少女の姿に、ヒカリは何かを決心したようにやや強い調子で言った。
「行くって……、どこに?」
「私が今、住んでる所」
「…あたしはあなたたちの、邪魔をする気なんて……」
「馬鹿!変なこと考えないでよ!それに一人でどうにかなるなんて思っているの?」
「で、でも……」
「アスカ。何であろうと一人よりはましだと思うわよ。それに、あなたかなり体力弱っているんじゅないの?」
「……」
「行こう、ね?」
 アスカは、それに従うしかなかった。実際先程から、全身にひどい怠さと悪寒を感じ始めていたのだった。

 そこはマンションだった。表面がレンガ地にコーティングされた、落ち着いた赤土色の建物だ。入り口のところに三輪車が放置され、転がっていた。サドルの部分には猫だか狸だか分からない、漫画のキャラクターの絵がプリントされていた。建物の外観からはそれ程被害は見受けられない。
「ここの一階なの。上の階には上がれないから」
 ぼんやりと三輪車を見つめているアスカを急かすようにヒカリが言い、マンションに入る。アスカはただ頷き、後に続く。
 内部は水に流されてきたらしい堆積物が散財しており、歩きにくかった。上の階に上がれない理由はすぐに分かった。入り口のそばにある階段は崩れ落ちていた。
 人の気配が無いこともあるだろうが、外観とは違い内装はひどく殺風景だ。こんな所に来た覚えがある。アスカはそう思った。
 まるでデジャブのように浮かんできたのは、ずっと前に一度だけ訪れたことがある、綾波レイの住んでいたマンションだった。シンジも一緒だった。レイは、留守だった。
「鈴原、居るの?」
 12号室と表札に書かれたドアをヒカリはノックしながら叫んだ。アスカは先程から感じている悪寒に身を震わせながら、ドアを見つめていた。しばらくしてドアが開いた。
「おう、帰っとるで。……、惣流!」
「…久しぶりね」
「お、お前、無事やったのか!」
「残念ながらね」
 アスカの気のない返答に、相も変わらずいけ好かんやっちゃなあ、と鈴原トウジは呆れたように言う。それでも、彼の表情は懐かしさでほころんでいた。
 トウジの服装はこんな状況でも少し奇異なものだった。いつものジャージ姿ではなく、白地に青のストライプが入ったパジャマを着ていた。病院にいた時に、例の時間にぶつかったのだろう。 
 彼の片足が義足なのはアスカも知っていた。元のそれは彼がパイロットとして乗り込んだエヴァ参号機が使徒に寄生され暴走した際、切断され肉隗に変えられた。暴走を止め、参号機を破壊したのはシンジの乗る初号機だった。 
 使徒の撃破、不測の事態への対処、自動操縦機能中の惨劇とはいえ、責任を感じひどく落ち込んでいたシンジに対して、アスカは何も言えなかった。何も、しなかった。
 あの時から、何もかもが狂っていったような気がする。そしてあの時の自分から、ほとんど何も変わっていない。
(エヴァ。何だったんだろう。ママには出会えた。でもそれ以上に色々なものを人から、あたしから奪っていった……)
 今や頭痛さえ覚え始めた頭では、そんなことに思いを巡らせるので背一杯だった。トウジはそんなアスカの姿に気づいてか、様々な疑問を口にすることはせず、ヒカリの方に向き直る。
「食いもん、あったんか?」
「うん、また缶詰とかばかりだけどね」
 腕に抱えていた缶詰やペットボトルをしめすヒカリ。トウジはそれに頷くと首を振りながら笑う。
「悪いけど、わしは今夜はいらんで。客がおるからな」
「えっ?!アスカの分はちゃんと……」
「アホぉ、誰が惣流なんぞに客のもてなしするか。…いやな、ちょっと離れたところでおおてな」
「はあ?」
「分からんかあ?お前も、惣流もよく知ってる奴や。そいつが客や」
 ヒカリはそこで思い当たる人物が浮かび、思わず怯えた目でアスカの顔を盗み見る。だがそれに気づく素振りも見せず、彼女はただ下を向き、その表情までは分からない。
「トウジ……、アスカ疲れてるから」
「そんなもん見れば分かる。けどな……、惣流はそいつに会わなあかん。いや、おおてもらう」
 そこまで言われても、アスカには何のことか分からなかった。頭がぼおっとしている。喉の奥がひどく渇いている。全身が怠く、関節が今にも力を失いそうだ。
(ああ、嫌だ嫌だ。気分悪いよお、熱っぽーい。風邪ひいたかなあ。シンジィ、薬持ってきてよねえ。あとお粥もねって、どこ行っちゃったのよお)
 誰かが、体を支えてくれた。しかしその相手は無情にも歩き出し、アスカもそれに従うしかない。
(もう、本当に気分悪いんだってばあ。エヴァに乗るのが嫌で嘘ついてるわけじゃないんだから。シンジィィ、どこにいんのよ。何とかしなさいよお)
 意識が混沌としている。目の前の襖が開いて全く見覚えがない部屋に入った時も、ここがあの共同生活の場であるという錯覚は消えなかった。
(ちっくしょうおおお、こういう大事なときにいつもいないんだから。役立たず、本当に嫌いになっちゃうわよ。それでいいの?ねえってばあ、シンジィィィ)
 窓に引かれたカーテン。その合間から月明かりが差し込む。布団が敷かれていた。そこに誰かが横たわっている。掛け布団は、無い。
(あん?あたしがこんな目に遭ってんのにあんたは寝てるわけえ?許すせない、起こしちゃうから!)
 誰かの叫び声がしたようだが、それを無視して寝床に倒れ込んだ。目の前に、彼の顔がある。
(チエッ。気持ちよさそうに寝てさあ。蹴っちゃうわよお)
 重くて仕方ない左足を振り上げようとする。力が入らない。別の方法を考える。そうしている間にも、彼の寝息が唇のあたりにかかる。
(ちょっとお、こそばゆいっての。でも、こうして見るとコイツの寝顔って可愛いじゃない。ずっと寝てたら側に置いてあげてもいいけどね。でも起こさなきゃ、起こさなきゃ、起きて、起きてよ!)
 手段は、あれしかない。ぐらつく頭で脈絡無くそう考えた。
(もう、いいや。どうせ初めてじゃないもの、コイツとは)
 唇を寄せる。
(何度目だっけえ、今度で。二回目?三回目?四回目?五回目?六回目?それとも……) 今する口づけは、新しいカウント。口づけしようとしているのは、今ここにいる惣流・アスカ・ラングレー。口づけされようとしているのは、今ここにいる彼。ここに、いたのだ。
 碇シンジが。
「…イ、イヤッ!」
 素早く身を離す。身体が転がる。視界が回転する。脳が、シャッフルされ猛烈に痛む。踵をどこかにぶつけた。腕の傷が痛む。涙が、零れる。もう全身に力が入らない。
 気を利かせて外に出ていたトウジとヒカリが、叫び声を聞きつけ部屋に飛び込んできた時、アスカは仰向けに気を失っていた。額に手を当てると燃えるように熱かった。
 それでも、すぐ側に横たわっているシンジは、目を覚まさなかった。 

 まどろむ意識の中彼は考えていた。先程からカーテンの向こうで聞こえる声のことだ。(鳥……。小鳥の鳴き声?)
 確かに聞こえる。チュンチュンチュンチュン、鳴いている。
(まさか……、もう全然見ていないのに)
 目を開く。瞼がひどく重い。カーテン越しに朝の柔らかな日の光が目にしみる。影絵のように、カーテンの向こうに何かが飛び回っている。鳥だ。
 シンジは身を起こした。出来るだけ足音を立てないように、窓に近付く。カーテンに手をかける。ゆっくりと、開けようとする。
「シンジぃ、起きたかあ?」
 襖が開かれる。鳥の影は、飛び去った。振り向くとトウジが不思議そうな目でこちらを見ている。
「何しとんのや?」
「な、何でもないよ」
 少し不機嫌そうな顔をしてシンジは答える。その心中がはかりかねるトウジだったが、それを表情には出さず親指を立てて背後を示す。
「朝飯、用意できとるで。つまらんもんばっかやけどな」
「う、うん」
 ここ数日、もうずっとこんな食べ物ばかりだ。さすがに飽きが来ていたが、それでも口にすれば空腹が紛れる。そのことが、妙に不思議に思えた。
(これだったら、まだミサトさんの作るご飯の方がましだったよな)
 今はもういない、親愛とも言えぬ感情を抱いていた女性の姿を思い出し、シンジは口元を緩める。その目は悲しげだ。
「洞木さんは?」
「看病」
「看病?誰の?」
 何気なくシンジはそう聞いたつもりだった。よく考えれば、とても重要な問いではあったのだが。
「惣流のや」
「!!」
 思わず、手にしようとしていたペットボトルを倒す。水が床にこぼれ濡らしてゆく。それを直そうともしない。言葉を失い俯いたままのシンジを、トウジはじっと見ていたが、床に転がるボトルを拾い彼の前に置く。
「まだ半分残っとる。もったないから飲むか残しとけ」
「……」
 キャップを手にし、ボトルの口を閉める。トウジは自分のボトルを握り、あおって一気に空にする。
 窓の方を見る。鳥の姿は無い。
「…看病ってことは、病気なの?」
「分からん。委員長は風邪やろうってゆうとったけどな」
「そう……」
 沈黙。しかしトウジはそれを許さない。
「見舞い、行かへんのか?」
「……」
「ほっとくんか?惣流を?」
「そう言うわけじゃ、ない」
「ほな、会うんやな」
 また沈黙。顔をのぞき込んでくるトウジから、シンジは目を逸らす。トウジの表情に、明らかな苛立ちが走る。
「シンジ、ちょっとつき合えや」
「え?」
「一緒に来い言うとるんや、そのぐらいの体力戻ったやろ?」 
 立ち上がり、トウジは部屋を出ていった。玄関のドアが開かれる鈍い音がした。それを耳にし、シンジも立ち上がる。
 トウジはドアのすぐ側で腕を組み待っていた。彼には珍しく、硬い表情だった。こんなトウジの顔、殴られた時以来だな。シンジはそう思っていた。
 今日も外は明るい。廊下のあちこちに散財する堆積物の中には、生ゴミらしきものもある。もうすでに、腐臭が漂い始めていた。
 マンションを出て早足で歩いていたトウジは、廃墟の街が一望できる高台まで来て足を止めた。かつては丘だったかも知れないこの場所には、木も草も全く見あたらない。
 土から露出した大きめの石。それにトウジは腰掛ける。義足はかなり高性能の物と聞いているが、まだ慣れていないトウジにとって、ここまでの行程は楽なものではなかっただろう。
「トウジ、大丈夫?」
「わしのことはええんや、碇」
「……」
「お前が今考えなあかんのは、自分の事とそれに、…分かるな?」
「……」
 ひどいもんやな。答えようとしないシンジを無視して、トウジは眼下に広がる無人の街並を見下ろす。街からは水は引いているようだが、前方には大きな湖が見える。水面が朝日に輝いている。そのすぐ向こうは、もう海だ。
「ここは元は諏訪市って街だったようや」
「諏訪市って……」
「元、長野県諏訪市。あの湖は諏訪湖ちゅう名前。第二新東京市の周辺都市の中では一番栄えていたそうや。昨日、お前をあの砂浜で見つける前に道路標識で知ったんや」   「……」
「けど、もうそれも昔の話や。今は多分誰もおらんやろ。わしら以外はな」
 街。誰の息吹も感じることも出来ぬ街。全てが流れ去った場所。もう、そこには意味はない。
 自分が一時的とはいえ選んだ選択肢。みんな、死ね。その結果が目前に広がっている。そしてアスカをも、自分は殺そうとした。
「ハッキリ聞くけんど、お前本当のとこどう思うとるんや?惣流のこと」
「なっ……」
 話題がアスカのことに及ぶのは当然予想はしていた。だがこんなことをここまで来て聞かれるとは思わなかった。シンジは、やや強張った顔でトウジの方を睨む。またいつものからかいだと思ったのだ。しかし、すぐにその考えを修正した。
 トウジの目は、マジだった。逆に睨み付けるような視線だった。
「ええか。わしは男と女の事などこれっぽっちも分からん。惣流の気持ちも分からん。当たり前や。あんな事があるまで委員長の気持ちなんぞ、ほとんど考えんかった。そんな、わしやからなあ」
「……」
「けどな、シンジ。お前の気持ちがほんの少しでも惣流のほう向いとるんなら、ハッキリさせなあかん。わしはそう思う。もともとお前らは、ホントお似合いやからな」
 そこで初めて笑いかけたトウジだったが、シンジの反応は全く逆だった。
 拳を握り、歯を噛み締めているのか頬の筋肉が張っている。顔を伏せ、身を僅かに震わせている。トウジの顔からも笑みが消える。
「勝手なこと、言うなよ……」
「……」
「何が分かるんだよトウジに。勝手なこと言うな」
「アホか、お前は。そやから分かるわけない言うとるやろ」
 じゃあ、ほっといてくれよ。吐き捨てるように言うとシンジはその場を去ろうと歩き出す。別に慌てた様子もなく、トウジはその背中に声をかける。
「逃げるんか、シンジ」
 その言葉は、シンジにとって未だにもっとも心をささくれだすものだった。この言葉に自分は何度さらされ、苦しめられたことか。しかし、彼は振り返りトウジの目の前まで来て睨み付ける。
「何が言いたいんだよ、トウジは」
「簡単なことや、惣流にお前の気持ちを正直に伝え言うことや」
「それが出来たら、とっくにそうしてるよ」
「できんのか?お前、惚れとるのやろ?惣流に」
「……」
「なら、やっとかな後悔するで」
「別に……。僕は後悔したって、構わないんだ」
 次の瞬間、シンジはその場に崩れ落ちていた。トウジの鉄拳が腹にめり込んだのだ。全く容赦のないものだった。吐き気がとたんにこみ上げる。目からは涙がこぼれ、呻き声が自分の鼓膜を刺激する。
 このっドアホ!髪の毛を掴まれ、無理矢理起きあがらされる。トウジが、以前シンジを殴った時と同じ、いやそれ以上の怒りの形相で叫んだ。
「自分のことで後悔するだけなら勝手にせい!誰も止めへん!けどな、惣流はどうなるんや!」
「……」
「惣流がお前のことどう思うとるか、知らんわそんなもん!わしは聞いたこと無いからなあ。けど、それはお前やて同じやろ?しっかり確かめたこと、無いんやろ?」
「嫌いに……、決まってるんだ」
「そうかも知れへんな、お前みたいな奴やからな。そうだとしても、なんも文句は言えへんわ」
 髪の毛が離される。その場に崩れ落ち、尻をつく。唇を噛み、涙を堪えるシンジ。その姿を見るトウジの表情は、もう穏やかなそれに変わっていた。
「そう分かるのが怖いんやろ?」
「…そうだよ、当たり前じゃないか」
「ほな聞くけどな、どないすんのや?このまま惣流のこと怖がって、避けて、そやけど近くをうろついて、その繰り返しか?ハッキリ言うて、もうそんな馴れ合いがこんな時に出来るわけないで」
「……」
「無理やで、もう。そんなんわしが許さへんし、ヒカリやて同じやろ。惣流が可哀想や」「…可哀想?」
 そこ、座れや。トウジが示した石に、やや迷ってから腰掛ける。堅く冷たい感触が、尻にめり込む。
「これはわしの言葉やない。ヒカリが言っとったんや。あれじゃあアスカが可哀想だってな。アイツ、ほんまにお前ら二人のこと気にしとったで」
「……」
「別に惣流がヒカリの奴に泣きを入れたわけやない。するか、そんなこと。惣流はああいう奴やろ?いくらヒカリ相手でも言うわけない。けどな、分かるそうや。惣流がお前のことで苦しんでることくらいはな」
 確かに……。自分は彼女を苦しめていた。傷つけていた。汚していた。
「僕は……、アスカに酷いことしたんだ」
「酷いこと?」
「僕は、アスカの気持ちを勝手に勘違いして、思いこんで、判断して、怖がって、全然知ろうとしなかった。そのくせ僕のことは分かってくれないって、いつも不安で、腹が立って……。僕は身勝手だ」
 風が強くなってきた。乾燥し始めた土が埃となって舞い上がり、少年に降りかかる。だが二人とも、それを気にもしなかった。
「酷いこと、したんだ……。僕は、いつの頃からか彼女のことを、その……。夜中に変な想像をして、自分のそれを……、その」
「オナニーやな」
「…うん」
「それくらい、わしらの歳やったら当たり前やで。なんもおかしかない」
「酷いことには……、変わりないと思う。それに、アスカ気づいていたみたいだし」
「お、お前、そら、難儀やなあ」
「……」
 スマンスマン、お笑いは無しやな。暗い瞳で睨むシンジにトウジは頭を下げる。笑いを堪えながら。
「…ホンマ、不器用な奴らやな……」
「え?」
「何でもない!続けえ」
 そう言われてから、シンジが次の言葉を発するまでは、かなり間があった。
「殺そうと、したんだ。彼女を、アスカを、…殺そうとした」
「えっ?!」
「せっかくまた会えたのに、彼女が怖くなって……。首、絞めたんだ」
「…そう、か」
 さすがにトウジも黙り込む。友人への告白は、確かに少しだけシンジの気を楽にした。しかしすぐまた湧き起こる不安と恐怖。軽蔑されること。嫌われること。友を失うこと。「お前、そこまで煮詰まってたとはなあ」
「最低だよ……、俺って」
「けど、惣流のことは、好きなんやろ?」
 頷く。強く。その気持ちだけには、もう嘘がつけない。
 その姿に、トウジはほんの一瞬笑顔を浮かべ、そして急にのんきな調子で言った。
「なら、なーんの問題もないわな」
「えっ?」
「問題ない。これっぽっちもや」
「そ、そんな。大ありだってば」
「惣流に、すまなかったって思うとるんやろ?」
「それは……、もちろん」
「いつものお前みたいに、生半可な気持ちやないんやな?」
 それは厳しい言葉ではあったが不思議と腹も立たず、気分も悪くはなかった。自分でも驚くほど、シンジは素直な気持ちになっている。
「そうだ、本当にそう思っている」
「なら、その気持ちの通りにせえや。それでええんとちゃうんか?」
「でも!でも……、僕はアスカに何もしてあげられない。何も出来ない。彼女が何を求めているか、分からない。何をすればいいか、分からないんだ!」
「……」
「傷つける、だけなんだ……。そんなことしか僕には、できないんだ」
 トウジはやや苦笑を浮かべながら立ちあがり尻の部分を手ではたく。
「わしはな、何もお前に男になれゆうとるんやないで」
「……」
「そんな難しゅう考えるな。思いつくこと何でもすればええ。何もしないよりよっぽどましや」
「だけど、それで彼女がまた傷ついたら……」
「そん時はそん時や。ええ加減愛想尽かされるかもな。そしたらスッパリ諦めい!それが男やろ?」
「無茶だよ……」
「あほぉ!そんなん今に始まったことやないやろうが。わしの言ったことはあくまで参考意見や。後は、自分で考えればええ。せいぜい悩むこっちゃな。その代わり、悩んでるだけで済ますっちゅうのは、もう無しやで。ええな?」
 そう言うとトウジは背を向けて歩き出す。その歩き方は、いかにもぎこちなかったが、それを見ていたシンジの心はなぜか満たされるものを感じていた。
「トウジ」
 思わず、声をかける。
「何や?」
「その……、ありがとう」
「あ、あほぉ。ええんや、お前らのこと、好っきやからな」
「えっ?!」
「ハハハッ!妙な気持ちなんや!お前のことも惣流のことも、同じぐらい好きっちゅうことや!」
 照れくさそうに、トウジは去っていった。
 彼の姿が見えなくなるまで、シンジはじっとそれを見ていた。
 
 日は既に、中空に高い。青空。雲の固まりが、かなりの速度で流れてゆく。風は強さを増している。上空の風力はかなりのものだろう。むき出しの地面に座って、湖とその向こうに広がる海を見つめる。
 自分に今、出来ること。
 シンジは必死にそれを考えている。もう何時間こうしているか分からない。悩むのではなく、考えるのだ。自分一人で。
 アスカのために、出来ること。思いこみでもなく、勘違いでもなく、本当に彼女の望むこと。それを、考えている。
 浮かんでは消えていくアスカの様々な姿。暮らし。戦い。笑い。怒声。喜悦。
 好きで、たまらない。どうしようもなく彼女のことが必要だ。それが今は痛いほど分かる。ずっと、気付かなかったこと。違う、気付こうとしなかったこと。
 アスカの笑顔。走る姿。赤いプラグスーツ。よく似合っていた髪飾りのようなインターフェイス。腰に手を当てふんぞり返った、得意のポーズ。一緒に下校した時の夕闇。顔に受けた、張り手と回し蹴り。
 分からないよ、どうしたらいいんだ?綾波、ミサトさん、加持さん、カヲル君、ケンスケ、リツコさん、マナ。僕にいったい、何が出来るんだろう?
 口づけした時の彼女の香り。睨み付けられた時の怯え。手が触れた時の震え。辛辣な言葉を受けた時の悲しさ。弁当の味を誉められた時の喜び。無視された時の焦り。そして、無力感。
 答えなど無いのかもしれない。何をしても彼女を傷付けるだけなのかもしれない。でもこれ以上自分を誤魔化すのは、嫌だ。ねえ、だから教えてよ。父さん、母さん。
(あたしの考えてること、分かる?)
 すぐ他人に答えを求める。救いを求める。それに疑問を持つ。そして最初からの繰り返し。自分の悪い癖。彼女がどうしてあれほどまで苛立っていたのか、分かったような気がする。ダメなんだ、俺って。
(当たり前じゃない!)
 ダメな奴。そう言えばずっと前、加持さんに録音してもらった昔の曲にそんなのがあった。アスカにとって僕は、苦痛でしかない存在なのだろう。ついでに、オナニー野郎だ。(最低)
 だけど、そんなこと言ったってどうしようもない。彼女はすごく綺麗だし、可愛いんだし。変な気持ちにもなるだろ。いや、加持さんやカヲル君ならそうはならないだろう。でも、もう分かっている。自分は彼らとは、違う。
(あんた、それでも男なの?)
 未だに信じられない。あんな女の子と一緒に暮らしてたなんて。
 何度も、抱きしめたいって思った。いつ頃からだっただろう。彼女のことをそういう目で見るようになったのは。いや、本当は最初からだったのかな?
(気持ち悪い)
 その通りなのだろう。首絞めている奴が、いきなり泣き出したら誰でもそう思う。どうかしていた、あの時の僕は。でも分かっている。あの言葉は、それだけを表したんじゃないってことは。それまでの僕の全てに対して投げられた言葉なのだ。
 それでも、あの頬を撫でられた時の感触は、今も忘れられない。
(勘違い、しないで)
 どうしてあんな事してくれたのだろう?哀れだったからか。ああでもすれば止めると思ったのかもしれない。実際止めた。誰だコイツ?そんな感じだったのかも知れない。ひょっとして、張り手を加えたつもりだったのか?それが、一番彼女らしいのかも知れない。(何も知らないくせに)
 全てを償うことなど恐らく出来ないだろう。自分が彼女にした行為は、決して許されぬものばかりだ。
 最悪だったのは……、やはりあの病室での事だ。あれは絶対に仕方ないで済まされる事ではない。あの時自分は、アスカの裸体を完全に物として見ていた。ただ自分を慰めるためのグラビアと同じような物にだ。なぜ?
 楽だったからだ。物言わぬ彼女を所有できた気分になれた。その瞬間のみだったとはいえ。
(変なニオイすんのよ、最近のあんたって)
 憧れ、友情、恋、ついには彼女への恐怖さえ認識することを、放棄しようとした自分。残ったのは、ドス黒い欲望と身勝手な寂寥感。依存心。
 それが、アレだ。あの、醜い姿だった。
 でも……、少なくとも今はそうじゃないと思う。いや、二度とあんな自分は御免だ。そう思える。
 だから、償いたい。
「…分からないよ」
 そう低く呟くとシンジは後ろに倒れ込み、土の上に寝そべる。地熱が、服を通して伝わってくる。もう彼の着るシャツは、汚れなど気にする段階をとっくに過ぎていた。そう思ってしまうと気が楽だ。
(いっそのこと、アスカとは本当に別れてしまったほうが、彼女のためになるかもしれない。…別れるも何も、彼女とは何でもないんだけど)
 空は、ひたすらに青い。無限に広がり、続いているような気がする。小さい頃はこの向こうに闇の宇宙があるとは、どうしても信じられなかった。どこまで昇っても、そこには青い空がある。そう思っていた。青。アスカの瞳。
(でも、耐えられるだろうか?アスカの居ない生活に。毎日に。昔ならともかく、今はもう……)
 彼女は、どうなんだろう?論点をそちらに移そうと思って止めた。ひどく馬鹿らしい気がしたのだ。アスカが自分のことを気にするかどうかなど、分かるわけがない。そのことは自分が彼女と離れるべきかどうかとは、無縁のようにも思えた。そうすることが、彼女のためになるのならば。
 彼女の、ため?本当にそうなのか?
(ねえ、時々思うんだけどさ)
 あの日、あの海岸でのアスカの姿が突然脳裏に蘇った。水着姿だったアスカ。胸を高鳴らせながらそれを見ていた自分。それは、滅多になかった平穏な一日の記憶。
(もし、どうしようもなくね、たった独りで生きていかなければならなくなったら、何を考えて生きていくのかなあって)
(アスカは一人で、平気なの?)
(あったり前でしょ?あたしは全然オッケーよ)
(何か、質問と矛盾してないかな?)
(うっさいわねえ)
 彼女の気まぐれで、一緒に行った海。正直な話、シンジにとっては情けない一日であった。泳げない彼は砂浜で寝そべって日光浴でもしているしかなかった。そのくせ、視線だけはどうしてもアスカの方に向いてしまう。それを見透かされてからかわれ、挙げ句には挑発に乗って海に入り溺れたのだった。
 はっきり憶えてはいないのだが、どうやら彼女に助けられたらしい。あの日、あそこには自分たちしかいなかったし、気がついた時彼女が疲れ果てたように、隣で寝息を立てていたからだ。
 その寝顔はとても愛らしく、美しかった。おののきさえ覚え、濡れて輝くその髪に触れた。どんなに罵られるかと覚悟していたのだが、意外にも目覚めたアスカはとても上機嫌だった。
 普段なら話さないような内容を、二人は空を見上げながら語り合った。
(シンジはどうなの?)
(僕?まず第一に、僕一人じゃ生きていけないと思うよ)
(ほう、ふーん、へえ)
(馬鹿にすんなよな)
(違うってば、何だかあんたの言葉にしては意外でさ)
(そうかな?当然だと思うけど)
(でも、それは答えになってないわよ。そこの部分は既に飛んじゃってるんだから)
(うん)
(独りで生きていける、理由よ。何かないの?)
 誰も側にはいない。たった独り、孤立の中。それでも、生きていかなければならない。アスカは存在するのに、彼女が近くにいなくても生きていかなければならない、理由。
 それは、何だ?それに意味はあるのか?
 もしあるとしたら、それは。
(強いて言えば、多分自分自身のためなんだろうね)
(エゴイスト)
(そ、そんな。それが他人のためになることがあるかもしれない。一人で生きれる強さ。それを手にすれば、もし他の人に出会っても迷惑かけない。…僕には、とても無理だとは思うけど)
(ちょっとお、本当に大丈夫?あんたの言葉とは思えないわよ、それ)
 辛いことを知っている人間の方が、より他人に優しくできる。それは弱さとは、違う。 憧れていた大人、加持リョウジに教えられた言葉。その時は分からなかった。理解できなかった。辛いことは嫌だ。そうとしか思えなかった。
 だけど、自分の弱さがアスカを傷付ける。それが真実なのだとしたら。そして、それでも彼女のことを好きでいたいのならば。そんな自分を、許したいのならば。
 自分の、すべきこと。
「分かったよ……、アスカ。僕が今すべきことが。正しいかどうかは分からない。君のためじゃなく、僕自身のためでしかないのかも知れない。だけど今は、これしか思いつかない」
 シンジは立ち上がる。恐れはある。充分過ぎるほどに。だが、もう迷いはない。今ここに、それまでとは明らかに異なる彼の姿があった。
「ミサトさん。僕は、やってみるよ」
 雲が、一層速度を増して少年の頭上を過ぎ去っていった。

以下、中編に続く
[ 予告 ]
真実は痛みである。
しかしその向こうにあるものは何なのだろう。
二人は、そこで何を見いだすのか?
限りなく広がる空の向こうに、それはある。

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