『 Until The End Of The World 』
   
(中編)



独りで生きていける、理由よ。何かないの?
                                 
(3)
 
 母が、泣きながら部屋を出ていった。少女にとってそれは辛く悲しいことだった。しかし、次の瞬間憶える感情は、それを消し去るには充分なものだ。
 目の前にいる、異性である者への恐怖と嫌悪。一方で、哀願。
 母がいなくなりその男が残る時、その悪夢の時間がやって来た。
 男は少女ににじり寄る。にこやかな表情を顔面に貼り付けている。だがその目は、異様に潤みギラついていた。この爬虫類のような男から、逃げなくてはならない。とにかくどこか遠くへ。思考よりも本能がそう訴えている。
 彼女はまず得意とする蹴りを試みた。空を切る。驚いて視線を落とすと、自分の貧弱な腿が見えた。
 男の手が肩を掴む。すぐに生ぬるい汗が衣服に染み込むのを感じる。堪らなく不快だ。振り払おうとする。男の力は驚くほど強い。いや、自分があまりに無力であることに気付かされる。
 助けて。そう叫ぶ。男が答える。嫌いなのかい?私のことが。
 大嫌い。
(そう、思いたかった) 
 だがその言葉は口を出ない。何かが頑なにそれを拒否する。男が冷ややかな笑みを浮かべながら語りだす。
 そうだろうな。もうすぐお前には私しかいなくなるのだから。私に、ついてくるしかないのだからなあ、アハハハハハ!ハッハハハッハハハハ!ハハッハハハハアッ!ハハハハアッハハハッハアハッ。
 違う!わたしは独りで生きていけるの!
(そう、思いたかった)
(でも、もうイヤだよ!独りじゃイヤだよ!)
(だけど、そう思わないと、生きていけないんだもの)
 彼女の叫びは男には届かず、その顔が密着してくる。荒い息づかいと、口臭が彼女を襲う。薄い唇が開く。真っ赤に光る舌が伸びてくる。
 ヤメテェェ!頬に、ざらつく感触とべとつく液体を感じた。男の手が、彼女の下腹部に向かう。徐々にまくり上げられるチェック地のスカート。鳥肌が立つ。
 助けて。必死に呼びかける。思いつく全てのものに向かって。
(クルワケ、ナイワヨ)
 加持さん、ミサト、ヒカリ、トウジ、ケンスケ、リツコ、ママ、弐号機、初号機、レイ……。
 誰も、答えない。答えてくれない。
 ホントウハネ、ワタシニトッテハ、オマエモ、ママトオナジ、イラナイモノナンダヨ。
(要らないのは、貴様だ)
 だから誰も来ないのか。助けに来てくれないのか。彼女は全てを、諦めかけていた。
 その時、誰かの手が彼女の腕を掴み、強く引っ張る。あの男のものじゃない。あの男は、消えた。
 とても、懐かしいその手のひらの暖かさ。
(ここにいたらダメよ。彼に、導いてもらいなさい)
(デキルト、オモウノ?アンナコニ)
(君のやり方よりは、彼の方が遙かにましだ)
 彼は振り向いてはくれない。でもその背中は、よく知っている。
 アリガトウ。少女は、その背に向けて叫んでいた。

 目が覚めるとまだ頭痛は続いていた。全身の怠さも、悪寒も、発熱も、変わってはいない。だが自分の身体に生じている多量の汗の原因が、それだけではないことはよく分かっていた。
 不吉で不愉快極まりない、それでいて最後はこれ以上になくハッピーエンドだった夢の名残を、アスカは混迷する意識の中でなぞっていた。
 あの男は誰?まず疑問はそこに行き当たるが、一つの事実しか彼女には認識できない。あれは、父親という名の男だ。母国を離れてから、一度も夢になど現れなかった男がなぜ今頃出てきたのだろう。それにあの行為。少なくともそれに当たる記憶は無い。もっとも今の自分の状態では、遙か過去の記憶のたぐりよせなど不可能なことだろうが。
 あの背中。思い起こすまでもない。アイツだ。普段はろくに力にもなってくれないくせに、夢の中では救ってくれるのか。アイツらしい。アスカは苦笑する。
 ぼんやりと天井を見つめる。頭がグラグラする。視界がグラグラする。世界がグラグラする。全てがグラグラする。堪らない。
「お粥、食べたいなあ」
 シンジがいつか作ってくれたそれには、卵の黄身がかけてあった。卵は好きだ。とくに卵焼きが。脇に添えてあった、キュウリの漬け物は残してしまった。漬け物は嫌いだ。緑茶も嫌い。梅干しも嫌い。日本酒も嫌い。しめじも嫌い。納豆は、もっと嫌い。
 襖が開き、誰かが入ってきた。かび臭い掛け布団を握り頭を僅かに上げて見る。ヒカリだった。
「アスカ、大丈夫?」
「全然」
 力無いその答えに微笑みながら、ヒカリは布団の側に座り額に手を置く。ひんやりとした感触が気持ちよかった。ヒカリの表情は曇っていたが、アスカは口には出さずに感謝した。
「…熱、下がらないわね」
「ヒカリ、本当のことを言って」
「えっ?」
「ねえ、このまま、死ぬのかなあ」
 目を怒らせてヒカリが睨む。こんな顔自分には滅多にしないのにと、勝手な不満をアスカは抱く。
「冗談よ」
「笑えない冗談よ、それ」
「まんざら冗談とも言えないけどね。なんだか疲れちゃったよ、あたし」
 それには答えず目を逸らし、ヒカリは黙り込む。当然の反応だとアスカは思い後悔していた。自分は必要以上にこの友人に甘えている。かつての自分には考えられないことだ。いや、本当はいつも甘えていたかも知れない。周りの人全てに。強気の態度は、単にそれを隠すためのものだったのか。それ自体が甘えだったのか。
 綾波レイ。その名が、突然浮かんだ。常にあの少女に突っかかっていったのも、そんな理由からだったのか。本当に、嫌になる。
「碇君が、会いたいって言ってるわよ」
「……」
 不思議に拒否感が起きない。はねつける気力も今のアスカには無い。
「どうするの?」
「いいわよ、別に」
「本当に?」
「アイツが来たって顔も見なければ話しもしない。それだけのことだから」
「…いいわ。彼、それでも構わないって言ってたから」
 でも、話は聞いてあげてね。寂しげな声でそう言うとヒカリは部屋を出ていった。
 最後通告かも知れない。
 アスカはそう思い、布団を顔までまくり上げる。これでスッキリする。そうも思いたかったが、閉じた瞼からは涙が零れていた。部屋はもう、暗がりに包まれている。

 気配を感じている。本当に懐かしく、心地よく、それでいて突き刺さるような痛みを伴う気配だ。布団など被っていても、それを感じずにいられない。
 いつの頃からか、壁一枚隔てても意識するようになっていた。あの頃は少なくとも今ほど悲痛なものではなかった。そうだとしても一眠りして、朝になってその顔を見て怒鳴りつけるなり微笑むなりすれば、消えてしまうものだった。今はそれもできない。
 あの頃に、戻れたらな。思考制御が極度に低下したアスカの脳裏には、その言葉だけが繰り返し浮かび消えてゆく。
 ただ、今の彼のそれは、いつもと少し違う。何かが無くなり、何かが生まれている。それが何なのかは分からないが、何となく彼が自分とはさらに離れた所に行ってしまった、そんな予感が不安を生じさせ、諦めを感知させる。
 二人ともずっと黙ったままだった。月明かりのみで照らし出されるこの部屋が、あの廃屋での夜を連想させる。やがて空気の震えを鼓膜がとらえる。シンジが、言葉を発したのだ。
「あの日、海で助けてくれて本当にありがとう」
 何を言っているのか、一瞬分からなかった。
 ああ、あの時のこと。そう思った時には既に記憶が蘇っていた。必死に彼の意識を呼び覚まそうとしていた自分の姿。だからこそ、冷静に行動できた。ためらうことなく唇を重ね、息を送り込んだ。あれは、いつのことだろう?ただ思い出されるのは、砕け散ったガラスのようにきらめいていた海。 
「許して欲しいとは、言わない。今言ってしまったけれど、もう言葉だけでは駄目だと分かったから。もう、取り返しつかないから」
 当たり前だ。誰がそんなことを望んでいるものか。
「勘違いや思い違い、その繰り返しになるんだって思う。君のことを何一つ分かっていない、それが今の自分だって分かった。だから、また傷付けることになると思う。それでも、僕は……」
 当たり前だ。あたしのこと、なにも分かっていない。あたしがこの場で望んでいることも分かっていない。
 あんたって、最悪。でも、それはあたしも同じよね。
「君が、好きなんだ。必要なんだ。だから、努力する。分からない。自分が変われるか分からないけど、そうしてみようと思う。今の自分じゃ駄目なんだ。…君を傷付けるだけだから」
 好き?必要?信じられない。あたしだけじゃないはず。優しくしてもらえれば、誰でもいいくせに。
 あたしは……。もう、あんたしかいらないのに。
「…おやすみ。そのうち暖かい物作って持ってくる」
 早く元気になってね。その言葉だけが前の彼のように優しかった。他の言葉は、不安定な期待と拭い切れぬ失望を与えてくれただけだった。
 何一つ、はっきりさせてくれなかった。言葉だけを残していっただけだ。好き。必要。そんな言葉で、それだけで何を納得しろと言うのだろう。
「最低……」
 低い声で彼女は泣いた。もう、絶対に彼のことを捨て去ることなど出来ない。その誤魔化しようのない事実だけが明白となり、アスカを打ちのめしていた。
 それでも心を開けない自分を、憎悪した。

 鈍いエンジン音が無人の道路に轟いている。それは、今やコンクリートが崩れてゆく音のみしか存在しないはずの廃墟の街全体に、響きわたっていた。
「お前、本気なんか?」
「本気だよ」
 エンジン音が止まる。トウジがプラグをはずし、布で磨く。シンジはタイヤの両端を掴み、空気圧を確かめる。窓越しに差し込む光が、室内に整列するバイクを輝かしていた。
「いけそうかい?」
「わしも素人やで。分かるかいな。少しはセンセの方が詳しいんとちゃうか?」
「エヴァとなんか比較しようがないよ」
「まあそうやけどな。けどアレに比べたら、どんな暴れ馬でもましやで」
 冗談めかしたその言葉にも、一瞬あの惨劇を思い起こしトウジへの罪悪感が蘇る。だが今の彼にはそれをあからさまにはせず、笑顔で返す余裕が備わっていた。トウジは自分のことを恨んではいない。それはよく認識していたから、もう免罪を願う必要ないはずだ。
「しかし、わしら無免やで。しかもこれは盗難や」
「こんな状況で関係ないよ。そんなの」
「おいおい、碇の言葉とも思えんなあ」
「そう教えてくれたのは君だよ」
 苦笑しながらトウジはプラグをセットしキーを回す。先程よりは明らかに軽やかな感じで振動とうなり声をあげる250CCのバイク。とりあえず、これで二台手に入れた。 
 その爆音に心躍るものを感じながら、シンジは店内を探し回って見つけた解説書をめくっていた。
「その様子じゃあ、本気なんやな」
「だからそう言ったじゃないか」
「惣流を放って行くんか」
「…ついてきてくれなんて、今の僕にはとても言えないよ」
「けどなあ。アイツああ見えて寂しがるんとちゃうか?」
 微笑みながら首を振る。それは否定の意味ではない。
「それは分からないけど、もう決めたことなんだ。別にアスカのことを考えないわけでも、諦めたわけでもない。諦められるわけないけどね」
「奴隷やからな。お前は惣流女王の」
「ひどいなあ」
 苦笑しながらそう言うと、トウジもつられて大声で笑う。二人はそれぞれのバイクのハンドルを握り、店の外まで押していく。重く堅い感触だったが、それはエヴァに乗っていた時とは異なる安心感と期待感を与えてくれる。
 ここから一人で出ていくと言った時、トウジは最初誤解したようだ。しかしシンジの顔に漲る新しい決意と晴れやかさを感じ取ると、この無人のバイク店まで連れてきてくれた。
 どっちにしろ、足は必要になるんや。食料はまだ充分あるとはいえ、それでやっていけると思うほど彼は楽観的ではなかった。トウジはトウジなりに、自分に思いを寄せてくれているヒカリに対して、責任を感じているようだ。
「行くあてなんぞ、あるわけないわな」
「もちろん。ただ、父さんと母さんが生まれた所に行けたら、まず行ってみるつもりだよ」
「そうか」
「何も残っていないかも知れないけど、それでもいい」
「惣流の奴、待っとるとは限らんで」
「彼女には、黙って行く」
 呆れ顔でトウジが足を止め振り返る。
「お前、そらないやろ。格好つけすぎや」
「そう言うつもりじゃないんだ。ただ……、決心が鈍りそうで」
「けどなあ、アイツがどうとるか、分かったもんやないで。それでもええのか?」
「また逃げ出したって思うかも知れない。実際、僕はずっとそうしてきたから。でも、それでもいいんだ。関係ないってわけじゃなく、分かってもらおうとすること自体、彼女に甘えてるような気がするから」
 微笑みながら、シンジは輝くメーターを見ている。
「…お前、何が言いたいんや?わしにはよう分からん」
「アスカに言ったとするだろ?無視されたら、元の僕に戻ってしまうだろう。もしも、彼女が何か反応してくれたら、やっぱり戻ってしまうだろう。そんなことないって言い切れる自信は、まだ無いよ」
「そらお前、やっぱ逃げとるんとちゃうか?」
「かも知れないね」
 そうは言いながらも少しではあるが、彼はある種の手応えを感じていた。昨日の夜、アスカに自分の思いを告げた時、何かが吹っ切れたような感覚をシンジは憶えていた。
 アスカが何も答えてくれなかったのは、もちろん悲しかった。だが以前のように焦りや、無力感や、苛立ちや、恐怖感に責め苛まれることはなかった。決して彼女の存在が軽くなったからではない。こうしてタイヤから伝わる路面の感触を感じ、トウジの話に答えながらも、惣流・アスカ・ラングレーの姿は脳裏に張り付いて離れることはない。
 彼女に、近付きたい。その願いは変わらない。だが、願っているだけでは何も変わらないのではないだろうか。言葉だけでは、何も変わらないのではないか。シンジはそう確信していた。自分でも柄にもなくとは思っていたのだが。
 独りで、やってみよう。それが結論だ。逃避ではなく、強いられるでもなく、仕方なくでもなく、自分の意志でそうしてみよう。そうすることで少しでも自分が変われるなら、それが彼女に近づくことができる唯一の方法のはずだ。
「わし、ヒカリに聞かれたら話してまうかもしれへん」
「構わないよ」
「お前の言いたいことも分かるけどな、このままサイナラッてのはどうもなあ」
「僕の口からは言うつもりはない。それだけは確かなんだ」
「そら汚いし、キザやで」
「多分、もともとそういう奴なんだよ」
 笑顔を浮かべて、トウジはバイクに跨る。シンジの両手がハンドルを強く掴む。快調なエンジン音と共に二人の姿が遠ざかって行く。
 だがバランスを崩して二人はすぐに転んだ。そしてそれは、本当の痛みだった。
 
 アスカがよろめきながらも歩けるようになったのは、倒れてから四日後のことだった。やつれてはいたが、回復は順調のようだ。ヒカリの献身的な看護もあったし、三日前からシンジが毎日作って持ってくる、お粥のおかげでもある。
 どこから見つけてきたのか、携帯用ガス・コンロと鍋、そして米と塩で昼ともなるとシンジは慣れた手つきでそれを作り、アスカの枕元に置いて去っていく。
 ヒカリはその姿にある懸念を覚えていたが、一方で微笑ましくて仕方なかった。まだ学校があった頃、アスカが持ってきていたお弁当。それはシンジが作った物であることは、クラスでは周知の事実だった。
 アスカも碇君も、絶対にお互いを慕っている。そうヒカリが確信していた理由の一つがそれだった。
 普通は嫌っている相手の作った物など食べない。そんな相手のために美味しいものを作れるわけがない。ヒカリは単純に、しかし強く思っていたのである。いくらでも例外があることも、分かってはいたが。
 だから、シンジの行動はうれしかった。アスカが迷いながらもそれを口にする姿には安心した。
 ただ、事はあの頃のようには単純ではない。二人の間に何があったのかヒカリはよく知らなかったが、そのぐらいは同性としてアスカの憂鬱な表情からとっくに察している。
「具合、どう?」
「うん。大分いい」
 そう答えながらも、アスカはぼんやりと窓の外を見ている。すでにあのプラグスーツは脱いでいる。今のそれは何の飾りっ気もない白いパジャマだ。それを渡された時、あれ程ファッションには気を使っていたはずなのに、文句一つ言わなかった。
 体力とは違い、未だに回復してゆく様子のない彼女の憂いの表情に、ヒカリは心が痛む。
 ヒカリは、アスカが好きだ。それはもちろん友情からもあったが、憧れの気持ちもある。
 初めてアスカが登校してきた日。まるで西洋人形のように愛らしいと、同性でありながら心躍るものを感じ頬が赤らんだのを憶えている。もっとも後にその事を本人に話すと、彼女にしては珍しく本気で不快な表情をしてこう言ったので、二度と口にすることは無かったが。
(あたしは人形なんかじゃないよ)
 それでも、ヒカリにとってアスカはアイドルだった。初めは近寄りがたいとまで思っていた。しかしいざ親しくなってみるとその気さくな態度、ユーモアに満ちた言動、時としてする的外れな行動にたちまち魅了された。こんな女の子と友達になれるなんて、幸せだな。そう本気で感じた。
「いい天気みたいね」
「外に出てみる?」
「フフッ。あたしってまるで不治の病の少女みたい」
「…やめなさいよ、アスカ」
「ごめん……」
 どうしてこんな風になってしまったのだろう。力無く謝るアスカに暗い気持ちになる。いや、単に自分が彼女のことをよく知らなかっただけなのだ。時々ではあったが、アスカが本当に自分に対して心を開いてくれているのか、不安な思いにとらわれることがヒカリにはあった。もちろんそれを確かめたことはないし、その術もない。実際、本当のことを知るのは怖いものだ。
 鈴原トウジのことをアスカに相談したことがある。アスカはあまりトウジのことを気に入ってはいないようだが、踏み切る決心のつかない自分を力づけてくれた。
 うれしかった。だから碇シンジのことを自分に語ってくれる時を待っていた。だがアスカはいつも、その本音を見せようとはしなかった。
 彼のことを話すときの表情。それが全てを物語っていることには気づいていても、確かめることはあえてしなかった。アスカがそれを喜ばないことは明らかだったし、何よりもお節介としか言いようがない。ヒカリはそう自制していたのだ。
 そして今回にしても、それはあくまで彼ら二人の間題なのだ。
(でも……、このまま黙って見ていて、本当にいいのかしら?)
 ヒカリはもう充分、この友人が外見ほど強い女性ではないことは理解している。エヴァのパイロットとして限界をみせたアスカが、共同生活を捨て自分の家に転がり込んできた時、初めて彼女が声を上げ泣く姿を見た。
 その後アスカがたどった苦渋と崩壊。その経過についてもあらかたは知っている。
 そして、今。またも彼女が自我という迷宮に踏み込み、出口を失わぬという保証はどこにもない。
 外を見ていたアスカが何かに気づいたのか、窓に顔を寄せる。
「何か、この頃バイクみたいな音がするけど、あれ何?」
「鈴原と、それに碇君よ。どこかで見つけてきたので練習してるみたい」
「そう」
 呟く彼女の背中が寂しい。以前のように自分の本音を押し隠す、その術を行う気力も今は無い。
「あ、遊んでるわけじゃないのよ。ほら、この街にある食料とかも限りがあるからバイクで……」
「気を使わなくていいよ」
「…何、言ってるの?」
「もういいの。アイツのことは、どうでも、いい……」
(ソウ。ドウデモ、イイ)
「嘘、なんでしょ?」
 答えない。だがもう分かり切っていることだ。自分自身どころか、この思いはもう他人さえ誤魔化せない。それでいて、当の彼には悟られぬ皮肉。アスカは自棄になっていた。
 そして当然それを感じ取ったヒカリは、珍しく強い口調になる。
「駄目よ、自分に嘘をついたら」
「嘘じゃ……、ないもん」
「そう教えてくれたのはあなただったのよ。鈴原のことを相談した時、言ってくれたじゃない。たとえ他人が迷惑がったって、自分に正直じゃなきゃ損するだけよって。言ってくれたわよね?」
 アスカの横顔には弱々しい笑みが浮かんでいた。唇の色はまだ少し青い。
「…嘘よ、あの言葉は。分かるでしょ?そう言ってた本人がこのザマよ。結局、あたしは惣流・アスカ・ラングレーって女の子を演じていただけ。どこにも……、本当の自分なんて無かった」
「……」
「選ばれた子供。エヴァ・パイロット。セカンド・チルドレン。みんな嘘っぱち。ただそう仕組まれて自分がそれに依存していただけ。ママの魂に出会って、そしてまた消えられて分かったの。ただ知らないうちに、知らない連中に、何もかも仕組まれていただけ……。結局、自分で築き上げたものなんて、何にもないんだって事が」
 その表情はうかがわしてくれないが、それでもアスカが自分自身のことをこんな風に話してくれたことはかつて無かった。彼女は正直になっている。しかしここまで追い込まれなければ、そうなれなかったアスカのことを思うと、ヒカリは決して喜べない。
 だからこそ、自分の考えは告げるべきだと思った。たとえ、友人を失う結果になったとしても。彼女の力になりたい。純粋に、そう思えた。
「それなら聞くけど、碇君のことはどうなの?」
「関係、無い」
「碇君の前でも、必要以上に自分を演じて装っていたの?ううん、それは仕方ないかも知れない。だけど彼への気持ちも?あなた自身が見つけだしたものじゃないの?」
「…知らない」
 その言葉に、ヒカリは最後の躊躇を振り払い、一息吸い込んでから言った。
「もし、本当に碇君への気持ちも偽りでしかないと言うなら、悪いけれどアスカのこと、軽蔑するわ」
「ヒ、ヒカリ?!」
 驚愕し振り向くアスカ。その姿に胸が痛む。こんなことを自分は思っているわけではない。彼女が本当に苦しんでいることは、理解しているつもりだ。だけど、言わなくていけない。
「私、本気で言ってるの」
「…嫌だよ。もうそういうの、嫌なの……」
「だったら本当のこと言って、少しでいいから」
「ずるいよ、そんなの」
 黙ったまま、かち合うヒカリとアスカの視線。一方は普段には絶対にないほど厳しい目。そして一方は、遠い昔に一度捨てようとして、捨てきれなかった目。
 瞳を先に逸らし、俯いたのはアスカの方だった。
「多分、あなたの……、思ってるとおり、なんだと思う」
「……」
「シンジのことばかり、考えてる。いつからなのかは忘れちゃったけど。アイツのこと、何度も嫌いになろうとした。実際嫌いなの。憎んでさえいると思う。あたしをこんな風にしたのはアイツなんだって。アイツさえいなかったら、前のようにやれてたのにって。自分のこと、嫌いなくせに。本当は、ただそんな自分を見るのが、怖かっただけのくせに」
 両膝から、力が抜けたかのようにアスカがその場に座り込む。ヒカリもそれに倣う。外でバイクの爆音が再び響く。
「分かってた……。アイツの全てが悪いんじゃないんだってことは。加持さんが振り向いてくれなかったのも、弐号機を動かせなくなったのも、共同生活うまくいかなかったのも、ファーストと親しくなれなかったのも、ママが消えてしまったのも、それにアイツがあたしの気持ちに気づいてくれなかったのも。分かっているくせに、全部アイツのせいだと思いこんでいたの。…エゴイストなのよ、あたしは。何でも人のせいにしてれば楽だもの。それでいて自分のことは全部自分で決めてる、そんなつもりでいた。でも、それも全部崩れちゃった。崩したのは多分、アイツの存在……」
「だから、彼に素直になれないのね?」
 アスカは頷く。まるで幼子のように。
「怖いの。シンジに全部預けたがってる自分が。そんなの自分じゃないような気がして。…おかしいよね、本当の自分なんてどこにもいないって気づいているくせに。それに、そんなことしてもアイツがまた傷つくだけ。それも、もう嫌なの」
「だからって自分一人で全部背負い込むことないでしょ?それに碇君だってあなたのこと傷つけていたって、私にまで謝っていたわよ」
「…そう、お互い様なのよ、あたしとシンジは。だから嫌なの。あたし無いもの、アイツを傷つけないようにする自信なんて。アイツに傷つけられないようにする自信なんて。あたしは知ってる。アイツの嫌なところ、汚いところ、情けないところ。それに、優しいところとか……。色々知ってる。でも、今知ってるアイツが全部じゃない。アイツが知ってるあたしが全部じゃない。それを知るのが、知られるのが、とっても怖い。アイツが入ってきて引っかき回されるのが怖い。シンジにそうしたがってる、そうされたがっている、あたしが怖い。気持ち、悪いの」
「……」
「だから、だから……。もうアイツとは会いたくなかった。でも会っちゃった。口からでた言葉は酷いことだけ。本当はうれしかったはずのに。謝りたかったし、謝らせたかった。それで前みたいになれるなら。でも、駄目。あたしって何にも変わってなかった。自分の怒りや苛立ちばかりでアイツを見てた。絶望した。本当に、こんな自分が一番嫌いなの。でも……、分かった。彼のこと、絶対忘れ去ることなんて出来ないってことにも。だって、あたしって欺瞞を教えてくれたのも、シンジなんだもの……」
 畳が濡れている。止めどなく滴るのは涙。止めどなく洩れるのは、悲痛。
「もう、ヤダよお……。耐えられないよ、あたし……」
 思わず、ヒカリはアスカの肩を抱きしめていた。
「ハッキリさせよう、ね?」
「…イヤ」
「自分のことを第一に考えて。いいのよ、きっとそれで。その中に、碇君のことも含まれるはずなのだから。だから勝手じゃないよ、それって。たとえ碇君が傷ついても、彼に嫌われても、それで全部終わるわけじゃないのよ。そのことで、自分をいじめることなんて、嫌うことなんて、ないわ」
(ショセン、キレイゴト)
「無理だよ……」
「ゆっくりとでもいいから。彼と話してみて。そうしていけば結果は後でついてくる。きっと……」
 涙は止まらない。一度そうなってしまった時の対処を、アスカは全く知らないのだ。ただ抑えつける方法しか、彼女は理解していなかった。幼い頃より、ずっとそうだったのだ。
「大丈夫。あなたみたいな……、あなたみたいな本当に優しい女の子を無視する男なんて、いるわけないんだから」
 それから彼女が泣き疲れて眠りに入るまで、ヒカリは抱きしめてあげていた。目を閉じる直前、あたしってこんなに泣き虫だったんだね、と微笑んだアスカにヒカリも笑みを返しながら思った。
 アスカはただ、不器用なだけだ。そして驚くほど根は優しく、純粋なのだ。そうでなければ他人のことでこんなに傷つくはずがない。自分のことで、傷つくはずがない。
 それが弱さだと言うのなら、この世界は完全に狂っている。それでも、私たちはここで、生きて行かなくてはならない。
 放っておけない、お節介でも何でもいいわ。ヒカリはそう決意した。

「それは……、言えへんねん」
「…言ってもらうわよ、鈴原」
 翌朝、ヒカリは出掛けようとするトウジを引き留め、街の中心にある広場の噴水まで連れてきた。 シンジは、そんな二人に遠慮したのか微笑みながら一人でバイクを走らせていった。自分がどんなにアスカを痛めつけているのか、分かっているのかしら。以前にないシンジの姿に思わずヒカリは憮然とした表情になる。
「分かっているんでしょ?アスカがあんなに元気がないのは、碇君が原因だって事は」
「アイツ一人のせいとは思えへんで」
「でも主な原因は、彼よ」
 頭を掻きながらトウジは頷いた。
「…そやな、それは認めるしかあらへんわ」
「分かってるなら、話して。いったい碇君どういうつもりなの?アスカのこと無視してるの?」
「んなアホな。ちゃんと見舞いしとるやないか。毎日、お粥だって作っとるし。アイツも相変わらず主夫業にせいが出るこっちゃ」
 鈴原!冗談めかしたトウジの口調に、ヒカリは眉間に皺を寄せ睨み付ける。ヒカリの怒りにはからっきしのトウジは、いつもならここでうろたえるところだ。しかし今は逆に堅い表情でそれを受け止めた。
「はっきり言うとくが、お前のやってることはお節介ちゅうもんや」
「分かってるわよ、そんなことは!でもこれ以上ほっといたら、アスカどうなるか分かんないもの!」
「……」
「私は、碇君のこと信じたいわよ。彼だってアスカのこと想っているはずだから。でも、今の彼の態度ははっきり言って納得できないの。見舞いだってただ義務的にやっているみたいに見えるしね。それだったら来てくれない方がいい。アスカに、変な期待を持たせない方がいい」
 どんな形であれシンジが来てくれているのは、アスカにとっては喜びは大きいだろう。しかしあまりにその副作用が大きすぎる。それが、ヒカリが一番心配していることだった。
「もう、前のようにはいかないのよ。分かってるでしょ?あの頃とは、まだ私たちの学校があった頃とは違うんだから。早く決めなくちゃならないわ。アスカがこれから一人でやっていくのか、碇君ともう一度、一緒に暮らしてみるのか。それを決意させてあげなきゃ彼女は……」
「もう一度言うで。それが、お節介言うとるんや」
「鈴原!」
「分からんやっちゃなあ」
 睨み付けたまま、トウジは噴水の縁に腰掛ける。噴水は当然の事ながら止まっており、張ったまま放置された水面には、藻が大量に浮いている。
「シンジは、惣流のこと散々考えとったで。自分のこと以上になあ。それに答えようとせんのは惣流やないか。本気で嫌いならキッチリ言えばいいんや。それを……」
「ちょっと、本気で言ってるのそれ?!」
「惣流も大馬鹿や。シンジがどんなに悩んどるか知っとるくせに」
「アスカだって悩んでるわよ!」
「だからや!」
 大声を上げて立ち上がると、トウジは腕を組んで空を睨む。普段なら、やたらと男気を気取る格好と受け止め笑みをこぼすか、より怒りを増すところだ。だが今はトウジの真剣な表情に、ヒカリは思わず息を呑んだ。
「もうこれ以上は、あの二人に関わったらアカンのや!アイツらだけで決めないかん!ここでへたにとりもって元通りにしたところで、なんの解決にもならんやろ?碇には碇の生き方っちゅうもんがあるはずや。惣流にしてもそうや。その結果がどうなるかには、わしらは関わってはアカンのや」
「じゃあ聞くけど、毎日碇君とバイクの運転の練習してるわよね。あれは何?」
「あれは……、言うたやろ?ここの食料だけでやっていくわけにもいかんから」
 嘘ね。僅かな動揺を見逃さず、強い調子で言う。
「あなたはともかく、碇君の変わりようはただ事ではないわ。彼、何か決心したのね?」
「知らん」
「……。まさか、碇君ここから出てくつもりなの?!」
 トウジは思った。女というのは、どうしてこう時としてやたらと勘が鋭いのだろうと。
 彼は既に敗北を覚悟していた。
「そうなのね!アスカを残して一人でどこか行っちゃうのね!」
「…アイツが、自分で決めたことや。もう止められへんわい」
「何言ってるのよ!このまま、このままアスカとしっかり話しもせずに逃げ出すなんて最低よ!」
「ちゃう」
「何が、ちゃう、よ!卑怯よ、そんなの!」
 泣き出すヒカリ。頭をかきながら、トウジは心の中で親友に向かって詫びを入れていた。
(済まんなあ、碇。わし、もう限界やで)
「あんなあ、シンジがここから出てくって決めたのはな、惣流のことを考えてなんや……」
 ヒカリは瞳一杯に涙を溜ながら顔を上げる。その表情には、僅かな希望が宿している。その顔を見ると、つい笑顔になってしまうのを押さえられない。
(けど、これで良かったんかもしれへんで。なあ、シンジよ)

 湖面が輝いている。かつて諏訪湖と呼ばれていた湖は、波穏やかに空の色を反射していた。
 シンジは、どうにか操縦にも慣れてきたバイクでその畔まで来ていた。湖には色々な思い出がある。楽しい思いでも、苦い記憶も。それらが浮かんでは消えていく。
 バイクが好きになった。エヴァとは違い、こちらの意志にまるでそってくれないことの方が多かったが、それがかえって彼の心を引きつけていた。
 甘えが許されない。それでいて一体となった時の充実感には、堪えられないものがある。母の魂が宿っていたとはいえ、やはりシンジにとってのエヴァは、与えられた物に過ぎなかった。乗っていた事実を否定的にとる気は、今はもう無いのだが。
 この鉄の塊は違う。自分で選び、手にしつつある。この感覚は何かに似ている。初めてまともに乗りこなした時、それに気付かされた。
 そしてその何かとは、やはりアスカであった。
(そうだ。初めて彼女と組んで戦った時の、あの感覚)
 ユニゾン。訓練と、喧嘩と、語り合いで、アスカと共にたどり着いた一つの境地。
 心の重なった、瞬間。
(でも、あれが最後だった。あの後は、ただ離れていったような気がする。僕は結局、それを求めたとしても努力しなかった。望んでいただけだ。彼女は……、アスカはどうなのだろう?)
 それは考えないでおこう。シンジはそう思った。今は、まだとてもあの域には行き着けないだろう。これからだって分からない。しかし一つだけ確かなことは、もう一度あの瞬間に会うために努力するということだ。
 誰かのためではなく、何かと戦うためでもなく、ただ彼女と一つになりたい。完全とはいかなくとも、それを目指す事に意味がある。そしてその時間は充分にある。
(アスカにもバイク似合うと思うけどな。真っ赤なバイクに、真っ赤なプラグスーツ姿なんてのが、いいかもな)
 何とも言えぬ疼きが全身を駆けめぐり思わず赤面する。こう言うところだけは、変えようがないよ。シンジは苦笑し、目を閉じた。

 言葉を聞き、しばらく呆然となる。
 この時が来てしまった。やはり彼にまで、去られてしまう。もう、終わりだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ、アスカ」
 アスカの表情の激変に驚き、ヒカリは慌てて言葉を続ける。
「碇君は、あなたのことを考えてこういう結論を出したと思うの。決して、無視してとか、諦めたとか、逃げ出すとかじゃないのよ」
「同じ事じゃない……」
(ソウ、オナジコトヨ)
「同じじゃないわ。今の自分ではあなたのことを傷付けるだけになってしまう。彼はそう考えて一時的に……」
「でも、居なくなっちゃうんじゃない。そんなの……、同じだよ」
 もう、世話が焼けるわね。決して投げやりでも呆れたわけでもなく、ヒカリはこの友人の頑固さにさえ微笑んだ。純粋さゆえの、頑固。それは仕方がない。
「引き止めたいのね?」
「…そうよ。ここに居てくれなかったら、あたしと居てくれなかったら、やり直しようがないもの。それを、試せないもの……」
 それは素直な言葉だった。もう、プライドも何もない。いや、彼が居てくれなければそんなもの成立しようが無い。意味など無い。空虚だ。
 そう思い始めると、なぜか身体の奥に以前のような、燃えたぎるものが蘇りつつあることを感じる。
これはマグマだ。
「会ってきなさいよ。そして直接、確かめてきなさい」
 じっとヒカリの目を見た。彼女はこれ以上にないほど、穏やかな笑みを浮かべていた。
 それに、アスカは強く頷く
「…あたしは。あたし、そうする!」
 けじめ、付けなくちゃね。駆け出していた。何かが吹っ切れつつある。そう感じていた。
「鈴原!バイク借りるわよ!」
「へっ?!こ、こら!お前運転できるんか!」
「動けば充分なのよ!」
 アイドリング無しにバイクは悲鳴を上げて急発進した。
 

(4)


 エンジン音が近づいてくる。まどろみの中にあったが、近くでそれが鳴り響き、止まると嫌でも目を覚まさざろうえなかった。空には、既に日が高い。
 眩しさに目を細めつつ、シンジは身を起こす。トウジの奴、昼寝中に来ることもないだろうに。少し不機嫌な表情を浮かべ背後を振り向く。
 栗色の髪が、風に靡いている。ブルーの瞳が視線を送っている。それはあの再会の時とは、微妙に違うものであった。
「アスカ……」
 夢を見ていると思った。自分はそういうのが得意だ。そんな訳の分からない疑惑が脈絡無く浮かんだ。実際、やはり彼女は自分に語りかけることなく、立ちつくしているのだから。
 夢でないことは、ずっと聞いていなかった、懐かしい声に心が震えた時に気付いた。
「暇そうね」
「……」
「横、座ってもいい?」
「か、構わないよ」
 アスカは、その答えに別段表情を変えることなく、歩み寄ってくる。ただ雰囲気だけが少し違う。突き放すような冷たさは、そこには無かった。
 湖の方に目を向けたまま、腰を下ろす。シンジもそれに倣って姿勢を直す。
「いい所ね」
「…うん」
「殺風景だけど、自然にできた湖の方が、やっぱりいいね」
「ああ、そうだね」
 そこで無言になる。二人とも、言葉を探している。いざとなれば簡単に見つかるものではない。ただじっと、湖面に目を凝らす。互いの息づかいと、あの気配を感じながら。
 それは、痛い。しかし、もう避けたくはなかった。
「あの、海に行った時にさ」
「うん?」
「シンジに口づけしちゃったんだ」
「えっ?!いつ?」
「憶えてないの?」
 初めて顔を向ける。少し不満そうな表情。だが、苛立ちのようなものはない。 
「憶えてない」
「溺れた時、人工呼吸してあげたの。だからキスっていうには無理あるけど」
「そうだったんだ……。ありがとう」
「別に、感謝はいらない。極めて義務的に行っただけだから」
 俯く。迷いと悲しみが横顔に宿る。乱れた髪が、頬を覆っている。
「出て、行くんだってね……」
「そう決めたよ」
「どうして?」
「今の僕は、認められないから。もう自分のことを不必要に嫌うつもりは無いけれど、認められないのは事実だから」
「変わりたいんだね」
「そう、変わりたい。自分のために。それに……」
(カッテナコト、イッテルデショ?コレガ、イカリシンジトイウ、オトコナノヨ)
「…えっ?」
「うん?」
「ううん、何でもない。もう決めたことなんだよね」
「こうするしか、思いつかないから」
「あたしが……、止めても?」
 自然にその言葉は出た。この気持ちに偽りはないはずだから、当然だと思った。
「…もし、そうしてくれたらすごくうれしいけど、今は……」
 この表情は本物だ。この表情をしたとき、彼は何者にも動かされなくなる。それは、知ってる。
(ホラ、ヤッパリ、コバマレタ)
「あたしのこと、やっぱり嫌いだよね」
「違うよ」
「嫌いなんでしょ?要らないよね、こんな嫌な女」
「…何を、言ってるんだ?」
「だから、離れてっちゃうんだよね、いつも」
「違う、そうじゃない」
 必死に向けてくるその瞳。漆黒の瞳。それを信じたい。
(ムリヨ。コノオトコハ、ナニモデキナイカラ)
「何が違うの」
「僕は……、君のことが本当に、好きだ。必要なんだ。ごめん、こういう言い方しかできなくて。でも、そう分かったんだ。それを認めるのを怖がっていた。君の気持ちを確かめるのが、拒まれるのが怖かったから。でも、もう避けることは出来ない。もう、誤魔化せない」
「そう……。でも、何もしてくれないわよね、シンジは」
「確かにそうだった。今だってどうすればいいかはっきりしない。だから今の自分では駄目なんだと思った」
「そうよね。あたしが苦しんでいた時、無視したしね」
「違う!無視なんかじゃない!無視なんかじゃ……、ないんだ」
 どうしたんだろう?あたし、こんなこと聞きたくて来たわけじゃないのに。
(チガウワヨ、キキタクテキタンジャナイデショ。セメニ、キテヤッタノ。ソウデショ?)
「それなら、あたしが一人で戦っていた時、何してたの?」
「そ、それは……」
「初号機って、あたしの手助けには使えないものね」
「…君を助けられなかったのは、僕が弱い奴だったからだ」
「今も、でしょ?」
「……」
 どうして?!あの時のこと責めても仕方ないのに!こんな事言いたくないのに!
(ワカラナイノ?コウイウコナノヨ。アナタニハフサワシクナイ。ソレニショセンハ、オトコナノヨ)
「あたしのこと、オナニーのネタにしてたわよね。ずっと前から知ってたよ」
「……」
「何もしてくれないくせに、そういうことだけは躊躇しないわけね」
「…どうしようもないんだ。僕は、君のことを考えていると……」
 確かに、嫌。でも彼の言う通りどうしようもないのなら、許してあげれるかも。違う、そうしたい。
(クスクス……。ツクズク、オメデタイオンナノコナノネ。オトコナンテ、ミンナオナジ)
「イヤ……」
「僕は、最低の奴だ。許されることじゃない」
「屑」
 違う!あたしだって、彼のこと考えて眠れない夜があった。彼に、抱いて欲しいって思ったことだって……、ある。何度も。
(ヨルダケジャナイノヨ。イイモノ、ミセテアゲルワネ)
 な、何これ……。
「病室よ。あなたが壊れていた時にいた、病室」
 チャンネルが切り替わるように映像がすり替わる。横で誰かが呼んでいる。だがそちらにはもう、彼女は目が向けられなかった。

(な、何これ……)
 病室よ。あなたが壊れていた時にいた、病室。
(こ、これ……、あたし?)
 そうよ。酷いものでしょう?心も体もボロボロ。ただ眠り続けて、点滴で生かされて、排泄は人の手を借り、その病状すらデータとして記録されていた。醜く何もできない、ただの肉塊。
(やめて!見たくない!)
 誰のせいでこうなったか、分かっているわね。
(だ、誰って……、自分のせいでしょ?あたしは自分で)
 違うわ。そうやって自分で全て抱え込む癖は直さないと。洞木さんもそう言ってたでしょう?
(ヒカリの言ったことはそう言う意味じゃ、無いと思う)
 右を見なさい。
(嫌だ、見たくない)
 見なさい。そこに真実があるわ。それは、あなたが楽になるための真実。
(……。あっ……)
 誰か、分かるわね?
(シ、シンジ……)
 何をしているか、分かるわね?
(…自慰)
 そうよ。ただ自分を慰めることしか考えなかった男。それが碇シンジの本当の姿。あなたを傷付け、追い込み、汚し続けた男。それがこうして、こんな時でさえ。
(ヤメテ!)
 男とは全てこういう物なのよ。これが男という生き物。それに拘り、自分を卑下して何になるの?
(こ、これは確かにシンジだけど、酷いことしてるけど……)
 まだ分からないの?彼の何を信じているの?
(だって……。そ、それに加持さんだったらこんな事は)
 また、あの死んだ男に逃げ込むのね。知らないとは言わせないわ。あの男は、単に、あなたに関心が無かった。それだけのことよ。
(そ、そんな……)
 ほら彼、何か言いたそうよ。
「最低だな、俺って……」
(彼だって、苦しんでいる……)
 愚かだわ。逃避ね。自己欺瞞だというのが分からない?その場しのぎの後悔に過ぎないわ。そうやって自分を貶めているだけ。そうすれば、後はいかに罪悪感と折り合いを付けるかだけだから。そして、同じ事を繰り返す。それだけよ。
(ち、違う。彼は違う)
 分からない子ね……。いいわ。今度は左を見なさい。
(もう、嫌だよ……)
 見るのよ。
(…この人、誰?)
 知っているはずよ。あなたは、よく知っているはず。
(し、知らない。あたしこんな人知らないよ)
 ほら、楽しそうよね。自分で自分を慰めて。それも……、自分の幼い娘の身体で、ね。
(娘って?)
 ほら、手が伸びてきた。あなたの肌に触れようとしてる。
(や、やだ!)
 あの時から、ほとんど毎晩だったのよ。あの女が、あなたの新しいママとしてやってくるまではね。私が何も知らないとでも思っていたのかしら。
(い、嫌だよお……)
 処女を奪われなかったのが、せめてもの救いだったわね。
(な、何コレ……)
 それが、精子よ。白く濁った、汚らしい液体。そこからあなたも生じたのだけれど、感謝する必要など全く無いわ。所詮は利己的な遺伝子の詰まった、廃液に過ぎないのだから。
(気持ち、悪いよ)
 あなたがあの時、碇シンジに首を絞められた後、感じた不快感は彼へのものだけでは、無かった。 
 あなたは彼に出会う以前にとっくに汚されていた。
 あなたは使徒に汚されたわけではない。
 あなたは、もう汚されている。
 碇シンジによって。そして、この男によって。
(誰?この人、誰?)
 あなたが、もっとも憎むべき相手。男の内の一人。私以上に、あなたが拒むべきだった者。
(パ…パ……)
 ワカッタヨウネ、アスカ。ソレガアナタトイウ、シンジツヨ……。

「アスカ?!」
 目の前の男。憎むべき、生物。
 私は許さない。
「しっかりしてよ!」
 こうやって、私の中に入ってくる。かき回す。傷付ける。汚す。
 そして、捨て去って行くだけ。だから。
「ネエ……」
「な、何?」
「私がここに来た本当の理由。教えてあげましょうか?」
「……」
 だから、責め立ててやる。
「本当はね、二度とあなたの顔は見たくなかったの」
 恐怖に顔が歪んでいる。お前は、変われるわけがない。
「あなたみたいな変態自慰野郎、吐き気がするのよ。実際、吐いたこともある」
 この顔。この表情。この怯え。
 気持ちいい。
「だけど、このまま逃げられたら気が済まないの」
 襟首を掴む。抵抗しない。馬鹿な奴だ。
「謝っても無駄よ。償いは、させるわ」
 拳を握る。包帯の感触。
 振り下ろす。鈍い音と、肉がめり込む手応え。
「もう私に寄りつかないで」
 殴り続ける。今なら、私は負けない。
 鼻から、口から吹き出る血が包帯を染める。私は、赤い色が大好きだ。
「近づかないで」
 鼻を潰してやる。目をくり抜いてやる。歯を折ってやる。口を引き裂いてやる。
「視界に入らないで。想像しないで。触らないで。記憶しないで。息を吐かないで。気配を示さないで。私の名前、口にしないで」
 耳を引きちぎってやる。眉間を叩き割ってやる。皮を剥いでやる。肉をえぐり取ってやる。
 振り上げる拳。その時、手首に締め付けられる感覚。握りしめ、拳を防ぐ男の手。信じられない。
 でも、無駄。
「触るな」
 脇腹に膝をたたき込む。うめき声を上げ、地面に転がる男。逆らうこと、許さない。
 馬乗りになり睨み付ける。男の目は、悲しげだ。何を今さら。
「すぐに拒む。でも私のことは好きにしようとする。許せない」
 両手を、伸ばす。それが至る場所。ここが一番簡単だ。
 それは、首筋。頸動脈。
 骨を、砕き折ってやる。
「全てを私に捧げる気がないのなら、あなたなんて要らないの」
 締め付ける。一層歪む顔。強く目が閉じられる。
 ほら、そんな瞳、すぐに消えた。
「あなたがいなくなれば楽になれる。アスカも私もね。だから、死んで頂戴」 
(やめてよ!)
(ヤメテ!)
(相手が違うのよ)
「…やめて、くれ」
 激しく頬を襲う手のひら。
 感じる刺すような感覚。弾けるような音。伝わる、その痛み。
 同化の拒否。失敗。血縁への拒絶。絶縁。
 最後の、解離。
(君は間違っている。もうこれ以上、アスカを苦しめるな)

 目の前にいるのは、あの男だ。
 あの濁った目で、あたしを見ている。舌なめずりしてる。最悪。
「ほら、分かるでしょう。男はみんなこうなのよ」
「嘘をついてはいけない」
 そう、嘘だ。あたしの知っている男の子達には、瞳が綺麗な子、いるんだもの。
 男は、にじり寄ってくる。欲望と、支配欲に狂った目。でも、こんな目の子ばかりじゃない。
「騙されないで!そう装っているだけ。その影ではいつもあなたを、舐めるように見てるのよ」
「ヤダよね、そういうの。でも、そんな男の子ばかりじゃ、ないもん」
 そうかも知れない。実際、嫌だなあって思ったことある。蹴ってやったこともあるよ。
 でも、ある程度はしょうがないんじゃないの?あたしは女だし彼らは男だし、生命の基本だもの、そう言うのってさ。それがなかったら、あたし今ここにいないよ。
 それにあたしって、とてつもなく綺麗だからなあ。
「アスカ!聞いて!」
「何をこれ以上、彼女に言うの?」
 うっさいわねえ。あなたのこと嫌いじゃないし、やっぱり懐かしいし、感謝もしてる。
 大好きだよ。ずっと忘れないと思う。だけど、もういいの。
 彼がいるから。
「行かないで!」
「そうもしてらんないのよ。彼女は。それにあたしたちもね」
 別にどこにも行かないわ。あたしはここにいるもの。ずっとね。ここがあたしの、ホーム・グランドなのだから。
 でも、そのためには邪魔な奴いるわよね。そう、目の前のこの男。
 近寄るんじゃないわよ、汚らわしい。
「な、何する気なの?やめなさい!」
「当然の報いなんだ」
「血縁者なら何をしても許されるなんて、理不尽きわまりないわ」
 そうだよ。あなたもこの男、憎かったんでしょ?それでも……、やっぱり愛されたかったんだよね。だからって、あたしはもう許す気ないから。
 それにこんな男が、あなた達との最後の接点だなんて、悲しすぎるよ。
 だからもう遠慮しないもん。おいで!弐号機!
「そ、そんな……。その子は、もう消えたはず……」
「生きてるのよ。ずっと」
「そっだよ。見守ってくれてたもん」
 あらら?本当に来ちゃった!あんな目にあったのに来てくれたんだ!
 やっぱり頼れるのは、君かな。
 でも、もうお別れだよね。心配しないで、大丈夫だから。あたしには、ちょっと頼りないけどアイツがいるからさ。だから、最後の一働きをお願いね。
「や、やめて……」
「諦めた方がいいと思うよ」
「これでいいのよ」
 そう、これでいいんだよね。
 ずっと、独りになるのが怖かった。だからこんな男にさえ捨てられるのが怖かったんだ。でも、もうそんなのどうでもいいのよ。あたし、分かったから。
 ヒカリもいるし、鈴原もいるし、ひょっとしたら他の人も世界中で蘇りつつあるかも知れない。だからって、みんながあたしのこと必要としてくれるか、そんなの分かんないよ。でも、それでもいい。
 この世界には少なくとも、シンジがいる。そうだよね?
『もう、いいんだよ。アスカ……』
「その子の言うことは、全て虚構よ!」
「希望を持って何が悪いんだい?」
「彼女がそれを信じられれば、それは真実の一つとなるのよ」
 そうだよね!オナニストだろうとなんだろうと、あたしはあんたを信じるから!あの時の、あの渚での涙を、信じてみたい。それで、あたし自身を生きてゆけるなら。
 この世界で、生きてゆけるなら。
 その代わり、ちゃんと責任とんのよ!でも、その前にあたしのケリはつけるわ。
 コイツを、潰す。
「ダメ!そんなことしたら、もう本当にあなたとは……」
「別れるわけじゃない。一つになるんだ。そのためには、必要だ」
「そうよ。もうこの子は、きっと大丈夫なのだから」
 ゴメンね……。
 でも、あたしは自分を見つけて生きてみたい。あたしはあたし。あなたじゃないの。あなたたちじゃないの。それがあの時、空と太陽を見つめいていた時、分かったと思う。
 だから。
「ありがとう!」
「がんばってねえ!」
「これからもよろしくね」
「幸せになろうよ」
「忘れは、しないよ」
「そしてまたいつか、ここで会おう」
 本当に、サヨナラ……。
 
 すさまじい勢いで落とされる弐号機の赤い踵。
 飛び散る血と肉片。眼球、歯、耳たぶ、骨、舌、指。性器。
 悲鳴はなかった。男の目は、最後のその時まで濁りきっていた。
 そして男は死んだ。
 父は、死んだ。


      以下、後編へ続く


[ 予告 ]
ただ生きていくだけに、なぜこれほど苦しむのか?
苦しみも、喜びも、口づけも、殺戮も、涙さえも
ただ世界が終わるその日までの通過儀礼に過ぎないのか?
世界も人も全てのものも、滅びの時を待つだけの存在だとしたら?
だが少なくとも、今はその時ではない




瀬戸来海さんへの感想メールはこちら→

後編を読む 投稿小説に戻る トップに戻る