『 Until The End Of The World 』
   


(後編)







またいつか、ここで会おう。


(5)

 頬に感じる、暖かく流れる液体の感触に目を覚ます。
 これは何?確か、以前感じたことがある感触だ。ずっと昔。それなら最悪だと思う。ちょっと前。それなら、気持ちは悪かったけど、だけど……。
 確かめなくちゃ。今すぐに。
 慌てて身を起こそうとするが、何かが彼女の身体をしっかりと捕らえ、離そうとしない。暖かい。それが発するものも、とても暖かかった。不快感どころか、それはとても甘い感覚。
 思わず、身を任せそうになる。
「もう……、もう、いいんだよ。アスカ……」
「…えっ?」
 腰に回されているのは、腕だ。確かめるまでもないと思うが、思い当たる人物にしてはあまりに力強いので、アスカは一応確認のため呼びかけた。
「シンジ……」
「あっ!」
「シンジ……、なんでしょ?」
「ア、アスカ!」
 顔が向き合う。涙に濡れた、シンジの顔が目の前にある。距離は二十センチと無い。満面の笑みを浮かべる彼。それに答えて、ぎこちなく微笑む。
 それを確認するとシンジは泣き声を上げながら、アスカの頭をかき抱く。
「ちょっ、ちょっと!」
 離さない。一層強く彼は包み込む。
「良かった!本当に、本当に……。もう、僕の知っていたアスカでさえなくなってしまったと思ったから!もう二度と君に会えないんだって思ったから!」
「は、はあ?!何言ってるのよ?」
「君はアスカだよね?僕の知っているアスカだよね?」
 そう言いながらも栗毛の髪から手を離そうとしない。ここで離してしまったら、また彼女がどこかへ行ってしまうかも知れない。そんな予感が、シンジから自制心を奪い去る。
 アスカはそんな彼の行動に、頬を真っ赤にして戸惑う。それはただ恥ずかしいとか、彼の激しい鼓動を感じているからだけではなかった。
 胸が圧迫されて、苦しい。
「こ、こらあ!」
「えっ?!」
「と、とりあえず離れなさい!今すぐ離れなさい!」
 自分の行動にやっと気が回り、弾かれるように身を離す。しかし視線は彼女に固定されたままだ。
 今の言葉自体が、不安で仕方なかった。それでも、ぎこちなくながらもその真意を確かめようとするだけの勇気は、既に彼には備わっていた。
「ご、ごめん、つい……」
「あ、あんたねえ!あたしのこの豊かなバストが、縮みかねないじゃないのよ!」
「……」
 全く、5ミリは確実に減ったわよ!そう言いながらそっぽを向く彼女の頬は膨れていたが、一目で分かるほど赤く染まっていた。
 それの意味するところに気付かぬわけにはいかず、安心感に満たされる。だが代わって、薄気味悪さとも言えるものが湧きあがることは避けられなかった。
「あ、あの……、本当に大丈夫なのかい?」
「だから何がよ!」
「その、さっきまでの君と、全然違うから」
「あん?何それ?」
「いや……、その」
「…シ、シンジ、その顔どうしたの?!」
 驚きを隠さずアスカはその顔を凝視する。実際、シンジの顔は酷いものだった。口の端と、鼻の下にはまだ半乾きの黒い血潮がぬめっていた。瞼の上は青く膨れ、髪は乱れきっていた。歯も、一本折れている。顔面のあちこちに裂傷が浮き出ていた。
「…憶えて、ないんだね」
「さ、さては!鈴原のアホねえ!アイツあたしのシンジを!ぶっ殺してやる!」
 あたしのシンジを!そうもう一度大声を上げながら立ち上がるアスカの右腕を、シンジは軽く握り引き止めた。包帯の上から感じたそれに、アスカは痛覚を刺激され顔をしかめながら振り向く。
 一瞬本当のことを言うべきかどうかシンジは迷ったが、黙っておくわけにはいかないと覚悟した。親友の身が危ないし、何よりも彼女のことを考えれば真実は伝えるべきだ。明らかに先ほどまでこの少女は、常軌を逸していたのだ。
「…これは、君が、やったんだよ」
「……。う、嘘、でしょ?」
「嘘じゃ、ないんだ」
 表情が凍り付く。その言葉に、記憶の断片が急速に蘇る。
(死んで頂戴)
 自分ではない自分。解離の事実を知る。
 虚ろな目で、自らの拳を見る。赤く染まった、右腕を巻く包帯。身震いとともに力が抜けてゆく。顔を覆い、座り込む。
「あ、ああ、ああっ、あ、あたしは……、また、壊れたのね……。でも、今度は、今度のは、酷すぎる……」
 唇が震える。混乱する思考。その中で、彼女が思い浮かんだ言葉は一つしかなかった。
「狂って、る……」
「違う、君は狂ってなんかない!」
 シンジは強く言いながら、厳しい瞳でアスカを見つめた。こんな状態の顔では、どこか滑稽な表情にも見えてしまう。しかしそんなことを感じられる余裕は今は無い。
「…シンジ、あたしから、すぐに逃げて。離れて。あたしは、異常よ……」
「嫌だ!君は異常なんかじゃない!君は疲れていただけだ!そうしてしまったのは、僕なんだ!」
「もう、一緒にいられないよ。きっとまた、あなたを傷付けるもの……」
「構わない!僕だって散々、君にそうしたんだ。これで、お互い様。それでいいじゃないか。もう……、それで、いいよ。いいんだよ……。これ以上、苦しんで、何になるんだよ」
 静かに細い腕を引く。ゆっくりと倒れ込み、栗色の髪をシンジの頬につけるアスカ。涙を浮かべている。抑えた嗚咽も漏らしている。
 湖からの風が、二人を撫でる。
「泣くことない。君らしくないよ」
「…どうするのよ?こんな時、他にどんな顔すればいいか、全然分かんないよ」
「笑えば、いいんだよ。きっと」
「バ、バカ……。出来るわけ、ないよ……」
 笑えない。
 痺れるように痛み出した拳と顔。これまでの想い。今してしまった事への罪悪感。そして今こうしている事への喜び。色々なものがない交ぜになり、二人とも涙を抑えきれない。
 彼らは、泣き虫だった。
 二人はしばらくそうしていた。こんなに長い時間寄り添うのは初めてのはずだが、とても懐かしい気もした。湖。青い空。風。雲。見慣れていたもの、その全てが新鮮で、美しい。
「…さっきね」
「話さなくてもいいよ」
「ダメ。話さなくちゃダメ。あたし今度こそ、ちゃんとお別れしてきた。…そのはず」
「誰に?」
「…ママ。それに、他のみんなに……」
「みんな?」
「言っても分からないと思う。ううん、それでいいの。だけどね、これだけは分かったの。本当に自分ってやつを生きたいんだって。それって何なのか、本当にあるのか、まだはっきりしないけれど。でも、捜すの。今度こそ、本気で」
「それは、僕だって同じだよ」
 それぞれで、探さなくてはならない。たとえ近くにいても、側にいても、願いは同じでも、それだけは自分でやるべき事なのだ。それは時には孤独で、辛いことなのだろう。
 誰にも、代われることではない。
 それでも独りよりはいい。手伝うことは、出来るかも知れないのだから。互いの思いはその一点で、同じだった。
 頭上を何かが旋回している。鳥だ。しかし、今の二人はそれに気付くことはない。

 バイクのメーターの表面が、反射して輝いている。ゼロを示す針。
「だから、ここから出ていくんだね」
「うん」
「自分を確かめてみたいのね」
「それもあるよ。そしてその事で、君を好きでいる自分が、許されることにもつながっていく。そう、信じているんだ。柄じゃないけど」
 夕暮れ。バイクは動かない。二台そろってガス欠である。
 二人はハンドルを握り、歩きにくいのにも構わず身を寄せ合ってバイクを押す。
「シンジって、きっと難しく考えすぎだよ。…人のこと、言えないけど」
「そうかな?」
「あたしが、あんたに好きでいられることを許さない、そんなややっこしいこと、言ったことあった?」
「どうかなあ……」
「な、なによお、その言い方」
 分かっている。言っていた。確かに許さなかった。彼に許さなかったのではない。自分にそれを許さなかったのだ。今から考えれば、とてつもなく馬鹿げた屁理屈だった。ただ単に、受け止めるのが怖かっただけだ。
 でも、今は違う。それだけにシンジの決意がアスカには辛い。
「あんたなんかを待っていると思う?」
「どうかな。君はとても行動的だからさ」
「うんうん」
「きっと、どこかに飛んでいってしまうだろうな、鳥みたいに」
 分かっていない。本当は、それ以前にもう離れたくはない。離れるのが怖い。
 結局、口にしなければ分かってくれないのかな。だが、それは今の自分でも難しいということも、アスカはよく認識している。少しだけ悲壮感に駆られた。
 口じゃあ無理。引き止めるのも間違ってると思う。でも、これだけは……。
「あのさ」
「うん?」
「あたしで……、オナニー、してたよね?」
 二人の足が止まる。風が通り抜けて行く。
「…ごめん」
「し、知ってたもん。気付いちゃったんだもん。何でかはよく知らないけど。あたし、嫌で、仕方なかったよ」
 シンジは俯く。その姿を見るのは、アスカにとっても辛いことだ。しかし、このわだかまりは早く解消したい。そうしないと、次に望むことに繋がらないのだ。
「あ、あたしという女性を前にしての、そのリビドーは致し方ないとしても、バレたらそれまでなのよ?あたしは……、あたしだって、女の子なんだよ!汚されたくないよ!」
 声を張り上げる。俯く彼女の表情は怒りよりも、悲痛さで歪んでいた。
 シンジは沈痛な顔で頷き、バイクのストッパーを固定してアスカの方に向き直る。
 そして、一心に頭を下げた。他に方法も無い。彼は今、全世界に詫びを入れているつもりだった。
「済まなかった……」
「…本当に、そう思っているのよね?そうなのね?」
「本当に、済まなかったと思っている。もし許してくれるなら、そうして欲しい」
 アスカもバイクを止め、シンジを真正面から見る。徐々に緩んでゆく堅い表情。もちろん、その言葉で全てが許せたわけではなかった。気持ち悪い。当然だ。
 だけどこれ以上拘って何になる?要は、キッチリ償わせればいいのよ。少なくともこの点だけは。それで、本当にお互い様だもの。
 腰に片手を置き足を広げ大地を踏みしめた。身を僅かに反り返す。夕日に彼女の影が伸び、栗毛がきらめく。あの、得意のポーズ。
 それが、彼女の再生への序曲だった。
「しょうがないわねえ」
 笑みを浮かべながら、アスカは大げさにため息をつく。けれども、心は震えていた。
「もうあたしに絶対、頭上がんないわよ。あんたって」
「分かっているよ」
「何でも言うこと、聞く?」
「うん」
「じゃあ、ここから……、出てかないで」
「…それは」
「冗談よ!あんたの望んでいること、決めたこと、邪魔する気ないよ。シンジがそんなに強く決心するなんて、滅多にないことだしね。そ・れ・に、シンジがいなくたって何とかなるもん!」
 ホント、素直じゃないな。自分の頑固さに呆れて一層笑みが増す。
 もちろん、彼女の微妙な笑顔の変化に気付くはずもなく、シンジはさらに表情が曇る。
「そうだよね……」
「そうやってすーぐ暗くなる癖だけは直ってないのね。まあ今のあんたって、ちょっちキザったらしくなってるから、そのくらいは残っていた方がいいけどさ」
「ちえっ……。それで何をすればいいんだよ」
 あの少年らしい、ふてくされた仕草。その姿に胸が熱くなる。でもそれも、今日限りになるかも知れない。彼は変わる。そして、自分もきっと変わってゆく。
 だが、恐れはない。それでいいはずなのだ。そして激しい情熱が、アスカの様々な枷を打ち砕いていった。
 察してくれなんて、恐らくとてつもなく傲慢なのだ。だからこの言葉だけは、はっきりと言おう。今度こそ、はっきりさせよう。そう彼女は決心し呟いた。
「…抱いて」
「……。ええっ?!」
「だ、抱かせてあげるわよ!それを望んで不埒な行為に耽ってたんでしょ?」
「そ、それは、確かにそうだけど……」
「じゃあ問題ないでしょ。本人がいいって言ってるのよ?だいたい、妄想の中であんたに何をされてるか考えると鳥肌立っちゃうのよ。それくらいなら、実際にあたしを、ね?」
「で、でも……」
 それが蘇ってくれたことに、彼女は感謝していた。久しぶりに、自分の体内に沸き上がる苛立ちと怒りの真炎。アスカは懐かしさと共に、それに身を任せてゆく。目が細まる。額に筋が立つのを感じる。眉をつり上げる。激しく、歯ぎしりだ。
 これが自分の表現方法だ。ついこの間までのは、あまりにも陰湿だった。彼に向かい今の気持ちを正直に伝えるための手段。それはコレだ。その確信を持って、彼女は叫んだ。
「あんたバカぁ?!ここまで来て何ビビってんのよ!」
「あっ……」
 馴れ合いなんかじゃない。そんなのは嫌だ。
「こんの大バカシンジィ!マゾっ気丸出しで悶えてんじゃないわよ!少しは男としてリードしなさいよ!」
「ア、アスカがそう望むなら」
「ハンッ!だあれが望んでんのよ!あんたの気持ちの問題でしょ!」
 それでもシンジはその場を動こうとしない。夢見がちな目で、目の前の少女を見つめ続けているだけだった。そう、この少女は彼にとって今や、もっともリアルな異性となっているのだった。
 恐れとか、彼岸だとか、そんなものはもう通り越している。そこにあるのは、歓喜のみだ。少なくとも、この瞬間はそれで構わないはずだ。
 しかし悲しいことに、彼はその後のなすべき行動については、ほとんど知識は無い。経験も皆無であった。
 そんな感傷にかまうアスカではない。もう一刻もこんな状態でいることの恥ずかしさに、耐えきれない。呆れ顔で身構える。
「あんたって、マジでいくじなしだわ」
「わっ?!」
 これまで受けたどのタックルよりも強烈なそれをくらい、シンジは草むらに転がる。すぐに馬乗りになり、そのまま彼の胸に顔を埋めるアスカ。胸一杯に、その香りを吸い込む。
「ちょっとお。臭いわよ」
「し、仕方ないだろ。風呂どころか、ろくに水浴びも出来ないんだから」
「あたしは、どう?匂っちゃってる?」
「……。アスカの、匂いがするよ」
「はあ?どこかで聞いたセリフ言ってんじゃないわよ。そんなの当たり前じゃない!」
 パジャマの袖がめくれ、露出した肌を草の先がくすぐる。おや?草むらなんていつの間に?その疑問は一瞬で、それから逃れるために身を起こし、片目を覆う包帯に手をかける。
「もう、いいのかい?」
「分かんない。でもさっきから何かムズムズして仕方ないのよ」
 解かれ、地面に落ちる包帯。眼帯を剥がす。視野が、急速に広がった。
「…瞼、開いてるよ」
「うん、そうみたい」
「前のままだよ」
「そう?」
「ずっと、言いたかったんだ。アスカの瞳は青くて綺麗だなって。まるで……」
「…西洋人形みたいに」
「そう。僕はそう言いたかった」
 その言葉に、彼女は一瞬だけ悲しい目になる。だが思い直す。もう、アレは終わったことなのだ。そして、彼は自分を賞賛してくれたのだ。それは間違いないことだ。
(Goodbye,Mama)
 そうもう一度だけ、アスカは心の中で呟いた。
「…だから、もうそう言われるの嫌じゃないよ、あたし」
 潤んだブルーの瞳に、漆黒の瞳が近づく。唇が触れ合う。舌先で、それを舐めてねだる。唇は開かない。顔を離してもう一度、彼の瞳を見つめる。軽く笑みを浮かべて呟く。
「これじゃあ、どっちが男か分かんないよ」
 もう一度、重ねる。腕が互いの首の後ろに回る。
 唾液ってのは味がしないんだな。二人は、そう改めて感心した。
 身体を重ねる彼らを中心に、草花が急速に地面を埋め尽くしていった。

 その白髪の老人に出会ったのはガソリンスタンドでだった。
 ガス欠になったバイク二台を引っ張ってきて、ガソリンの補給を試みようとしていたシンジとトウジに走り寄ってきたのだ。驚きと共に、こんな老人にさえ懐かしさを感じる二人。その笑顔を無視し、白髪の老人は、膝を震わせながら、思いっきり怒鳴りつけた。
 ハイオクを盗むなあ!と。そして白髪の老人は、いずこかへと走り去ったのだ。
「それって、あたしたち以外にも生きてる人いるってことよね?」
「あんなヨボヨボ爺さんでさえおるってことは、他にもおるやろな」
「でも、この街には見あたらないわよ。毎日出歩いてるのに」
「他の街も、探してみた方がいいよね」
 シンジの決意は変わらない。
 正直なところアスカとの抱擁は、それまで抱えていた悩みのいくつかを嘘のように消し去ったように思える。その意味では、彼女の言葉は正しかったのかも知れない。自分は色々な事を難しく考え、そうすることで目を逸らしていただけだったのかも知れない。そう思った。
 だから、また新たな悩みが生まれるのも必然だった。この安らぎを教えてくれたアスカのことが、愛おしくて仕方ない。やはり、離れたくはない。当たり前のことだ。
 悩みなんてものは、切りがないんだな。そう感心し、少し暗い気持ちにもなったが、決意が変わることはなかった。
 前日雨が降り、朝方に晴れ間が広がり始めたその日が、彼の出発の日となった。
「行くんやな」
「済まないね。これからが大変な時かも知れないのに」
「それはいいけど、アスカは納得してくれたの?」
「多分ね」
 アスカは、あんたまだそんな学生服なんて大問題よ、などと言い、朝から街中を走り回り服を探している。トウジは何もこんな日になどと怒っているが、親友の気持ちをヒカリは察している。
 あの日から、アスカは昔のような明るさと元気を取り戻していたが、以前のそれとは微妙に違う。急激に落ち込むようなことはないものの、ヒカリの前ではいくらか本音をこぼすようになっていた。
「やっぱり、一緒にいて欲しいよ。アイツに」
「あなたが止めても、碇君考えを変えない?」
「どうかな。多分、本気でそうしたらやめてくれるかも。でも、それって可哀想だよ。アイツが必死になって考えて決めたことだから」
「それはそうだけど……、いいの?」
「そりゃあ嫌だよ。でもアイツがそう決めたのって、もともとあたしのことも原因だしね。それに足枷になるのは、もう嫌だから。あたしだけのシンジにしたいけど、玩具じゃないもの、アイツは」
 そう彼女は寂しく笑っていたが、ヒカリはこの友達のことを、もうそんなに心配はしていない。やはり頑固なところは相変わらずだが、自分の気持ちを無理に押さえつけるようなところは無いように見える。
 今日までの三日間、アスカは少しでもシンジと一緒にいたいのか、何かと理由を付けては彼を引き連れ回し、そうでなければその後を追い回していた。シンジは微笑みながらそれに任せていた。とても微笑ましい光景だった。
 それでも、やはりこの日は来てしまった。三人は今、湖の畔で別れの時を待っている。
「アスカ、待っててくれるといいわね」
「いや、それはないよ」
「ど、どうして?」
「わしのバイク、惣流のアホに奪われたんや!また捜さなあかん!」
「えっ?!それじゃあ、まさか彼女も?」
「一人旅なんて楽しいこと、僕だけにさせるのは癪だってさ」
 あたしもしばらくしたら、ここから離れてみるよ。アスカがそう告げたのは、昨夜のことだった。気負いとかそういったものは少しもない笑みを浮かべていた。それがシンジは嬉しかった。もちろん、ここで待っていると言ってくれれば、それも嬉しいことには違いはない。
 しかし、それは彼女には何となく相応しくない姿なのではないか。そう感じていた。重荷になりたくないなどとは言わないが、アスカには自由に生きて欲しい。その権利があるはずだとシンジは思っている。
 本当の意味での自由。それは、自分に相応しい自分を捜すことだ。
「おうおう、散々待たせおって、やっと来おったわ」
 遠目にも、その姿は深紅に染まっていることが分かる。
 ここ三日間であらかた運転をマスターしてしまったバイクを派手にターンさせ、アスカは三人の前で止まった。
「お待たせ!」
「そ、惣流!そのバイクの色は何や!」
「おとといの夜シンジと塗装したのよ!何か文句ある?」
「わ、わしは黒が好きやったのにい!」
「ああん?これはもうあたしのモンでしょうが!」
 本気で落ち込んでいるトウジを後目にシンジのもとに歩み寄る。ワインレッドのジャケットに、短いタイトスカートを履いた彼女は、髪型も変えていた。
 その姿に、目が釘付けになっているシンジ。アスカはニンマリと笑みを浮かべて髪を掻き上げる。
「どう?結構いけてるでしょ?」
「う、うん、すごく似合うよ」
「またまた、妄想しちゃうでしょうねえ」
「だ、だからその話はもうやめてくれよ」
「えっ?妄想って?」
「ヒカリィ、コイツったらねえ」
「ア、アスカ、髪型をかえたんだね!」
 そこまで言って初めて気がついた。そのポニーテールには、あの髪飾りのようなインターフェイスが、無い。
「ああ、あれね。さっき捨てちゃったよ」
「…どうして?」
「あんたバカぁ?もう何の役にも立たないでしょうが。だいたい、実はあれってそれなりに重たくてさ、結構肩がこるのよ。いつも着けてるとね」
 そんなことは嘘だというのは、シンジはよく知っている。ただ、確かに彼女にとってはもうその程度の存在になっていてもおかしくはない。それで構わないはずだ。
 もう僕らには、エヴァの助けは必要ない。
 感慨を含む視線に耐えかねてか、アスカは背負っていたリュックを彼に手渡す。
「とりあえず、何着か入ってるから。食料はヒカリが捜してくれたしね」
「ありがとう」
「鈴原、あたしが命令した通りにしたんでしょうね!」
「そうしたわい!ただし、予備のポリタンクは一つやからな。早いうちにどこかで燃料入れろや」
「そうするよ」
 別れの言葉は尽きることはないはずだった。しかし、もう彼らにはそれが口に出来ない。四人はただ黙って見つめ合う。
 碇シンジ。友への、そして恋人への思いが、ただ心の中を駆けめぐる。
「じゃあ、行くよ」
「あっ、ちょ、ちょっと待ちなさいよお!」
 思わずその腕をとるアスカ。ヒカリはそれに気を利かせて後を向き、その場を離れる。もちろん、トウジの腕を引っ張りながらだ。
 もう一度、向き合う二人。俯いた顔をアスカは上げ、無理に笑う。
「その、なんて言ったらいいのかな。だから、アレだ、とにかく!ありがとう……」
「ありがとう」
「…死んじゃ、やだよ。許さないからね」
「死なないさ」
 不思議だった。あの戦いの日々の頃よりも、今はそれに対する恐れが実感として強い。
「また、会おうね」
「うん。そのために僕は行くんだから」
「あたしさあ、思うのね。きっと世界って広いようで意外と狭いんだなあって。ずっとドイツにいたらみんなにも会えなかった。もちろん……、あんたにも」
「僕は、エヴァには感謝してるんだ。だって、もしエヴァがなかったら、君には会えなかった。今の自分にも会えなかった。…何だか、不思議だよね」
「そうよ。とっても不思議。きっと、きっかけ一つなのね。だから、世界が本当に終わるまでは、不可能じゃないよ。またいつか、会おうよ」
「何だか、君のセリフとも思えないよ」
「あんたのせいでこうなっちゃったのよ!」
 そう言うと、アスカは彼の腰に腕を回し唇を合わせた。拒むことなく、なされるがままシンジは目を閉じる。
 しばらくして離れてゆく彼の顔。せがみたくなるのをアスカは必死に堪える。
「さよなら」
 照れくさそうにシンジはバイクを跨ぎ、スターターを蹴る。エンジンの鼓動が二人の胸を振るわせる。
「さよならじゃないよ、シンジ」
「え?」
「あたしたちはこれでいいのよ。See you again!これ英語よ。分かる?」
「馬鹿にするなよ」
 にこやかに笑みを浮かべるシンジ。そのとびっきりの笑顔に、アスカも満面の笑みを返す。
 願いと、決意を込めて、シンジは叫ぶ。
「…See you again!」
「Agin!」
 そして、雲の下をバイクは遠ざかっていった。

(6)

「ヒカリ」
「うん?」
「あたし、アイツに言い忘れたこと、あった」
「…そっか、言えなかったんだね」
「あたしって本物のバカね。シンジは、何度も何度もそう言ってくれたのに」
「碇君は……、きっともう分かってるわよ」
「もう少しだけ、もう少しでいいから、素直になれってのよ。こんのバカアスカ!」
 彼女が人前で大声を上げて泣いたのは、十代に入ってそれが初めてだった。遠い昔のそれ以来だった。
 ヒカリもトウジも黙って、そのままにしてあげていた。彼ら自身も目を赤らめながら。
 もう、泣くのは怖くない。
 アスカはしばらくすると微笑みを浮かべ、空を降り仰いだ。視界一杯の空。雲が急速に流れて行く。切れ間から、日の光が射す。
「なんて、なんて空なんだろう」
 そして最後の涙が、頬を伝った。

 バイクは砂浜を走り抜けて行く。横は海だけだから、視界が悪くてもそこに突っ込むだけだ。しばらくはここを走り続けていよう。シンジはそう決めた。
 涙が止まらない。危険、この上ない。
 沖の方を見る。ぼやけた視界に鳥の大群が水平線上で旋回しているのが見えた。命が戻りつつあるのだ。
 そして、気がついた。あの巨大な白い彫像が、消えていた。いや、崩れきったその肉塊にカモメ達は集まっていたのだ。豊かな食料を求めて。
 もう、あの懐かしい少女の顔はそこには無い。
「でもさ、綾波」
 きっとどこかで見守ってくれているであろう、その少女の名をシンジは久しぶりに呟く。
「君ともまたいつか会えると思う。その時は、そこでは、きっとアスカも一緒だ」
 そうね。波の音と爆音の陰に、あの優しい声が密かに聞こえたような気がした。
「その時は、アスカも喧嘩腰じゃあ、…多分ないと思うけどね」
 再び、彼の心はアスカへと向かう。
 ついさっき、彼女に渡されたリュックの中身を確かめた。服のことは分からないので評価のしようもないが、食料と、他の二つの品は嬉しかった。
 あの赤いインターフェイスと、銀色の十字架のネックレスが隠されるように入っていた。手紙も一緒だった。
『捨て場所に困りましたので、あんたが勝手に処分するように。十字架はお守りとでも思ってくれたまえ。そうしたら、あたし幸いである。
             アスカ様より再会の日を願い バカシンジ殿へ 』
 変な文章に笑った。そして、涙が止まらなくなったのだ。
「やっぱり、バカ、なのかよ……」
 海は輝いている。砂浜には長く、タイヤの跡が刻まれていった。
 そして海と空と風は、青かった。



TO BE CONTINUED
UNTIL THE END OF THE WORLD……


         



[後書きに添えて]


  シンジ君と惣流さん。二人は私にとって、希望です。

あの映画版エヴァを見終わった時、私は正直言ってとてつもなく辛かったです。
ある記憶が蘇っていました。私事で恐縮なのですが、あの最後のセリフに近い事を、ある女性に言われたことがずいぶん昔にあったのです。その時はっきりと、自分は誰にも必要とされていないのではないかという、恐るべき考えにとらわれたことを憶えています。
もちろん状況は全然異なりました。人から間接的に聞いたことでもあったので、重ねること自体が馬鹿げているのですが、それでもずいぶん落ち込んだものです。
しかし、もう一度テレビ版をビデオで見直し、映画館を訪れ、再びあのセリフを聞いた時、「これはこれでいいのかも知れないな」と思えました。シンジとアスカという少年少女のこと考え、また彼らの辿ってきた苦難を考え、そしてあの展開を考えるにつけ、確かにあのセリフはラストに相応しいと思いました。
あのセリフに対しての私なりの解釈は本作品に表現してあるので、ここでは触れません。ただ一つ言えることはあの言葉一つでシンジとアスカの未来が、その後の世界の未来が決定するとは思えないと言うことです。
言葉を発したのは彼らだけではありません。その他の人々も色々な言葉を口にしています。そのどれもが重いという点では、あのセリフとは変わらないでしょう。特に、アスカやシンジの次に大好きな、加持さんの言葉には非常に共感させられます。
ですから、あの二人の未来にも様々な可能性がある。いや、そう信じたいと今は思っています。これすら祈りのようなものかも知れませんが、その可能性の一つをこの作品で描けていたらと思います。
私は、二人があの砂浜に居た事自体が、希望なのだと確信しています。甘えかも知れません。しかし希望とは、必要以上に否定されるものではないはずです。
それを全て否定した時こそ、世界は本当の終末を迎えるのでしょう。
 
例の女性ですが今年の春結婚され、式に招待されました。お祝いの言葉を述べると、本当に嬉しそうに笑顔を浮かべていられました。それであの時のわだかまりも癒されたように思えます。
長い文章につきあってくれた方々、掲載してくれたうめりんさん、エヴァという作品を見せてくれた制作者の方々、本当にありがとうございます。
そしてこのような愚作を、どうかお許しください。

 惣流さんとシンジ君の幸せを願って      1998年11月 瀬戸来海

うめりん筆:

 瀬戸来海さんの『Until The End Of The World』ついに完結です。絶望に満ちた世界に希望が見え始めたラスト。素敵だと思います。そして、その象徴がアスカ様とシンちゃんなんですね。彼らの新世紀にはきっと希望が充ちていることでしょう。

 瀬戸来海さんの次回作をお楽しみに。

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