『海へ行きたいんです』

 
 彼女の最後の休日は、次のような事から始まった。

(1)

「ねえ、変なことかも知れないけど聞いていいかな」
「何よ」
「最近調子どうかな、と思ってさ」
「別に……、普通よ」
「そうか、ならいいけど」
「何でそんなこと聞くのよ」
「いや……、なんだか疲れてないかと思って。余計なお世話だろうけれど」
「余計なお世話よ」
「……」
「ただね」
「うん?」
「別に取りたてて不満とか無いはずなのに、何かモヤモヤしてんのよ、最近」
「それは……、僕だってそう言う時あるよ」
「そうなの?」
「ああ、あるよ」
「どうしてかなあ。心の中って言うか体の芯の方で、確かに燃える何かがあったような気がしていたのに」
「……」
「なんだか……、不完全燃焼って感じなの。晴れないものが常にあるって言うか」
「そうは……、見えないけどな」
「あんたに分かるはずないでしょ」
「そうだね」
「簡単に、納得しないでよ」

 久しぶりにはっきり中身を覚えているけど、変な夢だった。場所だけ記憶が曖昧。学校の教室?電車の中?マンションの居間だったような気もする。分かるのは、ここではないどこかってこと。
 話していた相手。それはよく覚えている。アイツだ。確かめるまでもないだろうけど、そのうち向こうの方からやってくる。嫌でもはっきりするだろう。
 ノックする音、三回。
「アスカ、そろそろ起きた方がいいよ」
 ほら、来た。
「寝てるの?入るからね」
 答えなかったのは、一応早めに確認しておこうと思ったから。
 戸が開けられ、入ってきたのはもう充分見知った顔。コイツがスッキリした顔をしているのって、この時間ぐらい。そんなことを、最近知るようになった。その理由も、あらかた想像はついている。
「あれ?起きてたの?」
「…おはよう」
「お、おはよう」
 夢の中のアイツ。間違いなくシンジだった。
「起きてるわよ、あたしは」
「う、うん」
「いつまでそこに居るつもりなのよ、バカシンジ」
「ご、ごめん」
 こめかみを押さえて軽く息を吐く。脳が、痛い。別にアイツのせいってわけじゃない。その方がまだ気が楽だ。最近、あたし軽い頭痛持ち。
 カーテンを開いて窓の向こうを覗く。快晴。朝日が目を射る。朝っぱらから何でこんなに日差し強いんだろ。クーラー、とっくに止まってる。どうしてあんな夢、見たのかな。
 制服に袖を通す頃には、部屋の中も生暖かくなり始めていた。それで気づいた。今のあたしのモヤモヤって、この部屋の空気みたい。
 こういうこと思う朝って、あまりない。
 こういうこと考える日って、あたしテンション低い。
 
 時間は充分。余裕の登校。バカシンジ様々。あたし、朝って弱いから。
 様々?感謝するなんてどうかしている。やっぱり今日調子よくない。こういう時って、言わなくていいことをよく言ってしまったりする。気をつけなくちゃ。
「ねえ、アスカ」
 だから、あんまり口聞いてあげない。
「聞いてるの?」
 うるさいなあ。それと並んで歩かないでよ。
「どうかしたの?」
 コイツ、いい加減にしろよな。
「あん?」
「い、いや、何か今日元気ないからさ」
 分かってるじゃないの。だったら静かにしててよ。
「別に。いつも通りでしょ」
「そうかな?」
「それとも何?普段のあたしは四六時中元気はつらつ、嬉々として、あんたと口聞いているわけ?」
「そ、そういうわけじゃ」
「なら普通。そういうことでしょ」
「……」
 すぐ暗くなる。うざったいのよ。あんたのそう言うところは特に。
 ああ、ほらイライラしてきた。イライライライライライラ……。
「あっのねえ、何か聞きたいことでもあったわけ?とっとと言ってごらんなさいよ」
「うん……」
 そう答えつつも目を合わせようとはしない。こんな事くらいで怯えてるんじゃない。
 だけどこの表情、実は結構快感。
「明日、休校日だよね」
「そうだっけ?」
「もしかして忘れてたの?らしくないよ、それ」
 らしくない、だあ?
「何よ」
「だって……、さ」
 何だよ、コイツ。ニコニコしちゃって。今あたし睨み付けたのよ。それで笑うなんて、ルール違反じゃないの。これは一発締めてやらないと。
「アスカ、明日どうするの?」
 あっ……。真っ直ぐこっちを見た。これもルール違反。でも、何だか最近。
「アスカ?」
 何だか最近、コイツこういう仕草って増えてきた。出会った頃と、ちょっと違う。
 うん、結構瞳は綺麗なんだよね。いっそのこと昨日の夕食に出た、サンマの目でもしてればいいのにな。
「だ、大丈夫?」
「はあ?」
「だって、全然僕の声が聞こえていないみたいだったから……」
 救いと答えをすぐ求める。コイツの悪い癖。
「あんたと一緒にしないで」
「??」
「あたしの明晰な頭脳の処理能力なら、人の話を理解しながら思索に耽るぐらいわけないことなの」
「はあ……」
「要するに、明日の予定でしょ?」
「うん」
 ええっと確か……。あれ?
「…無い」
「無いの?」
「無いわよ、何にも」
 加持さんは今週一杯出張のはず。ヒカリは確か、妹を連れてどこかに遊びに行くと言っていたような?
 だいたい、誰かと約束するも何もない。確かに休校日のこと忘れてたんだもの。コイツの言うとおりだ。どうかしてた。
「どうせ、テストやら何やらで本部詰めよ」
「…どうせ?」
 不思議そうにあたしを見てる。何、この変な顔。
「うん?何かおかしなことでも言った?」
「い、いや、何でもない。でも明日シンクロ・テストはやらないと思うよ」
「どうしてえ?」
「それが……。前に僕がテスト中に、施設の一部を壊しちゃったことあっただろ?」
「ああ、あたしとエヴァ・ジャンケンをしたとき?あれはバカ中のバカよね」
「わ、分かってるよ。とにかく、あれ以来テスト関連機材の一部の調子が安定しなくて、リツコさん困ってたんだってさ。それで明日一日テストを中止して総点検するらしいよ」
「ふーん。…うん?」
 じゃあ何?あ、あたしは明日一日中暇を持て余して、無意味な時間を過ごさなくてはならないわけえ?!
「あんたのせいよ!」
「はあ?」
「あんたの稚拙にしてお間抜けな行動によって、あたしの貴重な時間が無駄になりかねないじゃないのよ!」
「そうなの?」
「そうなのじゃない!だいたい元凶であるところのあんたが、何でそうヘラヘラしているわけよ!」
「だって、本当の休日なんてそう滅多にないだろ?」
 コ、コイツは……。開き直るなんて事まで出来るようになったか貴様超ムカツク!
「チックショーコノヤロー!何もかも、全て、ことごとく、完璧に、あんたのせいだからね!」
「休校日を忘れていたのは、自分じゃないか……」
 口答え。ルール違反。粛正の必要あり。
「い、痛!」
「疑問の余地無し、あんたのせいよ!」
 何だか、いつものテンションが戻ってきたような?コイツの相手をしていたら、嫌でもそうなっちゃうのかも知れない。
 嫌でも?別に、嫌ってわけじゃないか……。

 有名なジーンズ・メーカーのロゴが書かれてるバッグ。買ったのは一年前。シンプルなデザインだけど、こういうのは何よりも使い勝手がよくなくちゃダメ。
 水着、入れた。グラサン、入れた。サン・オイル、うん、入ってる。昼食はどうしよう?そっか、アイツが弁当作るって言ってたんだ。当然だよね。このあたしが一緒に行ってあげるんだから。
 海。海かあ。久しぶりだ。気分転換には絶好かも知れない。
 でも、あたし何であんなこと言ったんだろう?
 あの時調子が戻ったなんて思ったのが、失敗だったのかも知れない。

 本日最大の失策は、三時限目の授業終了後だった。
 悪い事というのは連続するものなのである。論理的なあたしでも否定しようのない、事実なのである。真理なのである。
「何で僕が全部持たなくちゃならないんだよ!」
「当ったり前でしょうが。朝のこと忘れたわけ?」
 悪いこと、その一。今週の週番、あたしとアイツだったこと。
「そんな事なくても持たせるんだろ?」
「当然」
 ビーカー、フラスコ、試験管、アルコール・ランプ。大学で最新器材を経験済みのあたしにとっては、ほとんど稚拙で無意味な器具一式の入った木箱。ふらつきながらそれを持つアイツ。
 この学校の非合理的なところは器材だけではない。実験室と、理科準備室と称する物置の距離はやたらと離れているのだった。
「何であたしがこんな事をしなきゃならないわけえ?」
「持ってるのは僕だぞ」
「分かった。訂正する。何で、あたしたちが、こんな事をするのよ」
「……」
 それで逃げちゃばよかった。週番なんて本当は知ったことではないし、アイツが全部やっているんだ。用もない。
 悪いこと、その弐。
 なんたる気まぐれか、あたしはアイツの後をフラフラついていったのだった。そう、まさにフラフラとしか言いようもなく。始末に悪いことに、その時はそういう認識がまるでなかった。
 もっと悪いことは最近のあたし、そうすることが多いってこと……。
「何だよこれ、全然整理されてないじゃないか。どれをどこに置けばいいのか分かんないよ」
「ビーカーはここでしょ」
「あれ?手伝ってくれるの?」
「生意気ねえ、皮肉こめてんじゃないわよ」
 悪いこと、その三。
 準備室は薄暗くて、薬品が放つイヤーな臭いが漂っていた。黙って作業なんてしていたら、いかにも気が滅入りそうだった。
 それで、たまたま思いついた疑問を口にした。それが本格的な失策の始まりだったのである。
「ねえ、そう言うあんたは?」
「うん?」
「だからあ、明日の事よ。あんたは予定でもあるわけ?」
「ちょっとあるかも」
「なーに勿体ぶった言い方してんのよ、さっさと言いなさいよ、オラッ」
「オラッて……。ただトウジとケンスケが誘ってくれてるんだ。出かけないかって」
「あのバカ二人と?男三人で休日を過ごすわけ?中二にもなってむさ苦しい」
「男だけじゃないみたいだよ」
「へっ?」
「女の子も来るかも知れないんだって。弐中に知り合いがいて、そのスジで話をつけるとか言ってたな」
「……」
 すぐに、許せぬ!という怒りが湧いてきた。当たり前だ。こっちはアイツの間抜けな行動で、無意味な休日を過ごしかねぬと言うのに、当の本人は他のバカ二人とどころか、どこの馬の骨とも分からない娘たちとヘラヘラ、でもあたしよりは確実に充実した一日を過ごそうとしているのだから。
 悪いこと、その四。
 であるならば、罵るだけ罵り、蹴っ飛ばして捨て台詞でも残してその場から立ち去ればよかったのだ。でも、あたしはそうしなかった。
「ハッ、ハンッ!そうはいくもんですか!」
「どうして?」
「あんたねえ、エヴァのパイロットとしての自覚ゼロなんじゃないの?!使徒がいつやってくるか分からないのに、遠くに行くなんてミサトが許可するわけないでしょうが!」
「どうして遠くに行くって分かるんだよ」
「……、本当に遠くへ行くつもりだったの?」
「遠くっていうか、海に行こうってことなんだ」
「海?」
 ぼんやりと脳裏に浮かんだのは、真っ青な大海原。
 ドイツにいた頃に、加持さんとダイビングに行ったことが何度かあった。基礎講習を終え、初めて海に潜った時、そんなに怖くはなかった。加持さんがついていてくれたのもあったけど、もうその頃あたし水に包まれるのって、慣れてたから。
 シンクロ・テストのお陰。あれは水じゃないし、感覚も違ったけれど怖くなかった。
 当然だ。一時期あればっかり、ずっとやってたのだから。
「あれ?だけどシンジって、確か泳げないんじゃなかった?」
「うん、全然」
「なら行っても意味無いじゃない」
「そうかも知れないけど、気分転換にはなるだろうって」
「あいつらがそう言ったの?」
「うん、何だか嬉しかったよ」
 何の脈絡もなしにその時思ったことは、あいつらもいいとこあるじゃないってこと。
 そう思うと、何だか次の言葉を出すのが少し心苦しかった。ちょっとだけ、アイツのこと可哀想になった。
「でも……、やっぱり無理よ」
「待機のことかい?」
「そうよ、完全休日っていっても使徒がいつ来るか分からないんだもの」
「それは僕も心配していたんだけど、ミサトさんに頼んだら、多分大丈夫だって」
「何で?」
「よく知らないけど、明日は綾波が本部に一日中詰めてるから、余程の緊急事態でも起きなかったら許可取れるらしいよ」
「だからあ、その緊急事態ってのが使徒でしょうが。ファースト一人じゃ荷が重いに決まってるわ」
「僕もそう思ったんだけど昨日ミサトさんが、…父さんに話してくれたら、そんな感じだったらしいよ」
「……」
 悪いこと、その五。
 嫌な気分だった。ファーストが、あたし達よりずっと総指令に信頼されていることは、あたしだってよく分かっていることだった。それを直接口にされていないだけのこと。
 アイツだけならともかく、今度の場合は確実に、あたしも同じって事だろう。嫌な気分だ。
「どうしたの?」
「え?」
「いや、いつもだったら……」
「いつもだったら、ここで怒鳴り散らしてる。そう言いたいわけね」
「そ、そんなこと……」
「……。そうね、確かに」
 確かに、いつもだったらそうしていてもおかしくなかった。冗談じゃない、あんな奴に任せてられるかって。
 悪いこと、その6。一番、悪かったこと。
 そう、この時も何か、モヤモヤしてきたのよ。まあ、いいかなって思った。悪いわね、ファースト。そんなことまで考えていた。
 胸の奥から、湧いてこない怒り。ぼんやりとした薄い膜に包まれたハート。そこからくる、気怠い疲労感と倦怠感。
 どうでも、いい。
 思考さえ、ハッキリしなかった。だから、言っちゃった。そう言うことなんだろう。
「アスカ?」
「そう言うことなら、あたし行くわ」
「えっ?!行くってどこへ?」
「あんたバカぁ?海に行くのよ」
「ぼ、僕達と?」
「まさか」
「じゃあ……、一人で?」
「……。あんた、本物のバカ?」
 ああ、何であんなこと言ったんだろ。いくら何でもあの言葉まで出す理由なんて。
「あんたもついてくんのよ」
「ええ?!僕がアスカと行くの?!」
「言い方が違うわよ、あんたはついてくるの」
「で、でも、トウジとケンスケが……」
「はっきり約束したわけじゃないんでしょ?」
「……」
「…しちゃったの?」
 正直、ちょっと不安だった……。
「いや、そうじゃないよ」
「じゃあ、いいじゃん」
 知らぬ間に、言葉に熱がこもる。
「気になるなら、急に仕事が入ったとか言えば?」
「嘘、つくのかよ」
 いい加減にしてほしい。あたしから言わしといて、まだ言葉が必要なんだ。アイツって奴は。
「あんたねえ、責任感じなさいよ」
「責任って……」
「あたしが無意味な休日を過ごしかねないのは、誰のせいよ」
「そ、それとこれとは……」
「誰よ!」
「僕…だよ」
「決まりね」
 決まりも何もない。決めつけたのは、あたしだ。
「いいの?アスカはそれで」
「いいわけないでしょ?仕方なくよ」
 嘘、だった。モヤモヤ、その時に晴れたから。
「あの二人にはうまく言うのよ。あたしの名前出したら承知しないからね」
「分かったよ……」
 それで、やっと準備室から出た。アイツ、後ろでため息なんてしていた。
 少しは喜べよ。そう思った。

「ねえ、どこ行くの?」
「海」
「あんたと?」
「嫌かい?」
「別に……、嫌じゃないわ」
「よかった」
「でも、どうして?」
「うん?」
「どうして、あたしなんかと?」
「気分転換だよ、お互いの」
「フム」
「モヤモヤしてるって、言ってたじゃないか」
「海に行ったからって無くなるかどうか分かんないよ」
「何もしないより、マシだと思うよ」
「そうかもね」
「そうだよ」
「……」
「…ねえ」
 コイツ、変。
「ねえ、あんた本当にシンジ?」
「何言ってるんだよ」
「何か、変ね」
「変なのはアスカだろ?」
「あたしと行くの、嫌じゃないの?」
「やっぱり変だ。いつもならそんなこと言わないよ」
「いいから、答えてよ」
「嫌なわけないじゃないか」
「本当?」
「きっと楽しいと思うよ」
「そう……。ありがとう」
 そう言って目が覚めた。夢、またはっきり憶えていた。
 唇を思いっきり噛む。枕を掴んで壁に投げつけた。床に落ちて、埃が舞い上がった。朝日の中でチリチリ漂う。
 また、モヤモヤしてきてしまった。


 電車の中。窓の外、緑が通り過ぎてゆく。都市部から離れたら山と木ばっかり。面白みがない。
 機嫌悪いの、そのせいじゃない。夢のせいでもない。目の前で、あたしのこと関心ないようにイヤホン耳に突っ込んで目を閉じてる、アイツのせいでもない。
 やっぱり、モヤモヤ。そして頭痛。朝からまだ続いてる。嫌になる。とりあえず、コレ何とかしたい。一時的でもいいから。
 一番手近な方法は、向かいの席に座る、アイツ。
「うわ?!」
 コードを掴んでイヤホンを引っこ抜く。シャカシャカシャカシャカ、音が漏れてる。邪魔なのよ。
「何するんだよ!」
「あんたねえ!女の子と向かい合って電車乗ってるってのに、黙ったまんま、しかもイヤホンで耳塞いでるなんて正気?!」
「だ、だって、今日のアスカ、何だか……」
「何よ」
「……。何でもない」
 視線を外し口ごもるアイツを無視し、DATレコーダーを奪い取る。イヤホンを両耳に入れる。どんなくだらない、つまらない、幻滅な曲を聞いてるやらだ。
 やっぱり洋楽じゃなかった。コイツにそんなセンスなんて……。うん?
「……」
 途中からだったけど一曲だけ最後まで聴いた。妙にノイズが混じっていて少し聞きづらかったが、不思議と意地悪な気持ちがおさまってゆく。
「ねえ」
 STOPボタンを押してイヤホンを抜く。鼓膜に電車のたてる音とくすぐったい感触。
「いつもこういうの聴いてるの?」
「え?別に…いつもってわけじゃないよ」
「あたしこの曲知らない。誰の歌?」
「そりゃそうだよ。僕も知らないもの」
「はあ?」
 快速電車は平日、しかも午前中だから空いている。向かい合う座席をあたしたち二人が占有していたが、とがめる人などいない。少し離れた席から、子供をあやす女性の声が聞こえてくる。
「十五年前、ちょっとヒットした曲らしいよ」
 話のとっかかりが出来たことに安心してか、少し微笑んでアイツが言う。
 この笑顔は、少なくとも嫌じゃない。
「十五年前って、セカンド・インパクトのあった年じゃない」
「その直前ぐらいらしいよ」
「何でそんな昔の曲、あんたが持ってんのよ」
「もちろん、僕のじゃないよ」
「は、はあ?」
「要するに、このテープは僕のだけど曲を持っていたのは加持さんなんだ」
 加持さん。その名を聞いた瞬間、あたしの胸は高鳴る……。はずなのに。
 前ほどじゃない。代わりにより強く感じたのは、痛み?ううん違う、分からない。
「つまり、加持さんにその曲を録音してもらったのね」
「今の曲だけじゃないけどね。前に聞かれたんだ。どういうジャンルが好きなのかって。別に好みはないって答えたんだけど」
「いかにも、シンジらしい答えだわ」
 どうしてだろう。やはり、ミサトのことでだろうか。今やあの二人の関係、公然の秘密って感じだし。でも、それだけなの?それだけじゃない。以前のあたしだったら、そんなの関係ないって思えたはず。でも、今は……。
 チッ。あたしったら何をぐちぐちと。しっかりしろよ、惣流アスカ。ほら、アイツが気づく前に。
「テープに入ってる曲、加持さんが僕たちと同じ歳ぐらいによく聴いていた曲らしいよ」
「そう……。ちょっと意外かな」
「加持さんのイメージと違うってこと?」
「うん?…て言うか、まあそういうことにしておく」
 再びイヤホンを耳に差し込み、スタートさせる。流れてくる悲しげなバラード。絶望的とも、希望的ともとれる歌詞。
 あたしが意外だと感じたのは、加持さんが十代の頃聴いていた曲を今アイツが聴いている事実。そのことに少しも違和感を感じない、自分の気持ち。
 この曲を聴いていた頃の加持さんより、今アイツがそれを聴くことへの興味が勝っている事実。誤魔化したくても、誤魔化せないこの事実。
 アイツが悪いわけじゃない。自分の気持ちの問題。そんなの分かり切ってる。
 でも、嫌。
『 明日にはこの街も凍りつくとニュース この部屋の温度も下がり続けて僕は震える
  そんな僕を君は優しく抱いてくれたけど その腕も胸も冷え切っていた
  でも君は微笑んでいる 世界の終わりだというのに サヨナラだというのに  』
 窓枠に肘を乗せ、頬杖をして外を見る。
 世界は凍りつきはしなかった。終わりもしなかった。ただ暑くなっただけ。ぬくもりも必要ない。今だって、額に汗浮かんでくる。鼻の頭に出てたら、嫌だな。
 結局、テープに入っていた曲全て聞き終えた頃には、目的の駅への到着を告げるアナウスが聞こえていた。レコーダーのボディにコードを巻き付けて、何も言わずにアイツに返した。文句一つ言わず受け取るアイツの目、何だか少し微笑んでいた。
 モヤモヤと頭痛、もう消えていた。
 でもそんな表情、あんたに全然似合わないわよ。

(2)

 海が見えてきた時は、さすがに心躍った。荷物を全部持たされてるアイツの顔も明るくなる。
 その要因については色々見解が分かれる所ではあるだろう。しかしこの輝く大きな水たまりを見た時、人間の心が意味無く震える心理形態は、あたしたちとて同じである。
 もう充分に熱せられたアスファルトの道路を海岸に向け歩く。小型のトラックが横を通り過ぎて行く。荷台には、トウモロコシだかなんだかがいっぱい積んであった。
「あれえ?!だーれもいないじゃない!」
「ホントだ、僕らだけみたいだよ」
 空も海も砂浜も、驚くほど眩しく綺麗だった。ちょっと沖の方に突き出ているビルの廃墟の天辺が目障りではあったが、それにしても誰もいないとは。ツキまくりだ。
「平日だからかな。別に穴場とか考えて選んだんじゃないんだけど」
「まあいいんじゃないの。キリキリ働いている連中に少しは感謝して、とっとと楽しむのよ」
 横で噴き出すアイツを無視して、あたしは辺りを見回す。古びた、木造の建物を見つけてそこに向かう。いわゆる海の家というのがこれらしい。『Sea Wave』なんて当たり前すぎる文字が書かれた看板が、立てかけられている。
「ちょっとお、この店やってないじゃないのよ」
「うーん、シャワーは勝手に浴びれるみたいだけど、困ったなあ」
「シンジ、ジュースとか持ってきた?」
「さっき来る途中に自動販売機あったよ。そんなに遠くないけど」
「そっ、だったらお願い」
「…それはいいとして、着替えはどうするんだよ」
 し、しまった!その最も重要な行動を、あたしはド忘れしていたのであった。
 慌てて今一度周囲を見渡す。海岸の切れる辺りに、廃屋があるのが見えた。あそこしかない。
「いいから!あんたが行ってる間に済ますわよ!」
「そ、そう?」
「…いいこと?もし少しでも歩みを緩めて振り返りでもしたら……」
「はいはい……。殺すって言うんだろ?」
「あんたは塩柱になんのよ!分かったら早く行けってのよ!」
 どう見ても名残惜しそうに歩いて行くアイツ。まったく、普段はやたらとウブな振りをしているくせに男の子なんてみんな同じだ。アイツはそれを隠してるだけ。
 あたしが、何にも知らないとでも思っているのだろうか。
 バッグをとって廃屋へと向かう。サンダルが砂に埋まり歩きにくい。指先に熱せられた砂の感触がまとわりつく。不思議と苛つかない。
 確かに外観は惨めだったが、中に入って見ると意外に小ぎれいだった。て言うか、要は何にもないんだけど。
 着ていたタンクトップとジーンズの半ズボンを脱ぎ捨て、ブラジャーのホックに指をかけた時だ。 隣の部屋に通じる入り口が見えたのは。何の気も無しにそちらに向かう。床に落ちている、ガラスの破片を避けながら。
 どうやらこの部屋は、浴室だったらしい。壁には割れた鏡。床に転がる知らないメーカー名のシャンプーの容器。もうお湯の出ることはない錆びたシャワー。浴槽。
 近づいて浴槽の中を見る。水が張ったままだ。茶色に変色した水面に、あたしの姿が歪んで映っている。完璧なプロポーション。とは言え、胸はもう少し欲しいところ。
 何だか、ちょっと痩せたな。
 そう感じた瞬間だった。あの感覚がベッタリと脳に張り付いたのは。モヤモヤだ。
 水面に映る女の子にぎこちなく微笑む。向こうも、その通りに返してくれる。疲れてなあい?小声で問いかけると、彼女も少し心配そうな目であたしをじっと見た。
 彼女のことが、愛おしくなる。
 手を伸ばす。水面に指先が触れる。生暖かい。何だか、心地よい感じ。
 ねえ、少し休ませてもらっても、いいかな?
「アスカ、どこ行ったの?」
 遠くからのアイツの声で我に返る。腕の半分が、水に浸かっていた。慌てて引いて付着した汚水を振り落とす。
 あたし、何やってたんだろ?ほんの僅かな鈍痛が後頭部に疼き始めていた。
 もう一度、アイツの声がした。急いで水着に着替えると廃屋を出た。
 ともかくここまで来てあの気分は、御免だ。

 視線を感じる。それはそれは痛いほどだけれど、あまり不愉快なものでもない。振り返る。シートの上に座るアイツが、首を竦めて俯く。頬が、完璧に赤いわね。
「何を、ジロジロ見てるわけ?」
「べ、別に……」
「見てなんかない、なあんて言わせないわよ」
「見てないよ」
 あまりに断定的な言葉。態度とは全然裏腹なのは見え見えだが、その言葉をひっくり返してやりたいという強い欲求が生じる。
 考えてみれば、あたしってコイツがこういう態度をする時はいつもそうなる。とくに最近は。
 髪を掻き上げ、身を逸らしながら見下す。
「何だかんだ言って、あんたも十代の男の子だものねえ」
「あ、当たり前じゃないか」
「不健全なリビドーで、頭一杯なんでしょ?」
「リビドー……、って?」
「ハンッ!語学成績最低クラスのあんたには単語一つも無理なわけね!要するに、スケベな欲望ってことよ!」
「なっ!何言ってんだよ!アスカを見たってそんなの湧かないよ!」
 カチンッ。確かに、その音が脳裏で響いた。あのモヤモヤはもう完全に消え去った。怒りのボルテージは充分ハイになりつつある。
 身を屈め、思いっきり胸を突きだして睨み付ける。自分でもわざとらしいとは思うが、他に手段もない。そして、ほらあ。一瞬視線が釘付けになったわね。
「ほう。このあたしを前に、そう言うこと言うわけね」
「な、何だよ。じゃあとてつもなく興奮するとでも、言って欲しいのかよ」
「あ、あんたってどこまでバカなわけえ?!そんなわけないでしょうが!」
「じゃあ、問題ないだろ?」
「なあにが、問題ないよ!どこかのオヤジのセリフ使うんじゃないわよ!」
「ど、どうしろって言うんだよお……」
 もっとあたしを、見てよ。
 思わずそう口走りそうになった。何考えてるんだろう、あたしってば。
「よ、要するに礼賛すればいいのよ、跪いてお伺いを立てればいいのよ!」
「はあ?!」
「あんたねえ……。この、あ・た・しのこんな姿を目にできるってことが、どんなにもったいない事か、少しは認識しなさいよね!」
「…アスカ、僕には君が何言ってるのか、さっぱり分からないよ」
 このボケ。あたしだってそんなの分かんないわよ。どこまであたしに醜態を晒させるつもりだ。
 屈辱だわ。
「んもう!今あたしの姿を見て、どう思ってんのか口にしてみろっての!」
「そ、それは……、その」
「早く!緊急に!今すぐ!」
「と、とっても、き、綺麗だなって、思ってた」
「……。ホントに?」
「本当だよ。そう僕は、思ってた」
 あっ……、コイツのこの目。と言うことは、マジなんだわ……。
 ありがとう。
 あたしは間違いなくそう思った。だが、それを口にすることはできっこない。足が無意識に出る。
「い、痛!何するんだよ!」
「バカ!そんな当たり前のことしか言えないわけ!ホンットにつまんない男だわ!」
 背を向けて波間に向かう。後ろで溜息をするアイツ。怒りはもう湧かない。どう考えたって、今のあたしの行動はムチャクチャだ。
 海に飛び込む。海水がチリチリと肌にしみ、水圧を鼓膜に感じる。
 とっても綺麗だなって、思ってた。耳鳴りの代わりに、いつまでも響くアイツの言葉。
 ともあれ、水は冷ややかで気持ちよかった。

 全視界360度、青い空と白い雲海と燃えさかる太陽。何もかもが原色の視野。カモメがふわふわと飛んでいる。さらに上空を、微かな爆音と共に横切って行く航空機。銀色の物体だ。
 こうして足と手をバタつかせて、水に浮かんでいると妙な気分。包まれている時より遙かに安心できる。最近、正直言ってあのテストは苦痛だ。色んな事が頭に浮かんできて集中できない。あの血のような臭いも、前より遙かに鼻につく。
 血か……。全身血みどろだった初号機。あの姿を見てから、あたしは弐号機を見る目が少し変わった。他の二人はどうなんだろう?
 あの冷血女、いや、今日はきちんと名前を呼んであげようか。レイはともかくとしても、シンジなんて集中力なさそうなのに。嫌々やってるの見え見えだしな。でもこの頃は少し違うみたい。
 パイロットとしての自覚を持ってきてるのは、同僚として喜ぶべきなのではないか。成績でたまに抜かれることあるのだって、要は自分が奮起すればいいだけのこと。負けず嫌いは、あたしの特徴なのだ。
 それになんといっても実戦が全てなのだ。アイツってミスが多すぎる。あたし無しじゃあ、とてももつわけないだろう。
 でもなあ……。
 それって何になるんだろう?あたしって今、どうしたいって言うんだろう?
「あててて……」
 気付かぬうちに砂浜に達していたらしい。腕や腿の肌をしこたま砂に擦られる。立ち上がって頭を振り、耳に入った水を出す。
 決まってるんだ。あたしは今の自分を他人に認めさせるのだ。そのための、エヴァなのだ。それしかない。それ以外に、無い。あんな奴に負けられるわけがない。
 ところで、その当人はというと……。何ニヤニヤ笑ってんのよ。
 髪を手で撫でながら、シートに寝そべるアイツに歩み寄る。途端に顔が赤らみ、そっぽを向く。
「何が可笑しいのよ」
「い、いや……。だってさ」
「だいたいあんたって海に来たっていうのに、ただ寝そべって女の子の方ばっかりうかがって、何やってんのよ」
「しょうがないだろ?泳げないんだから」
「なら出来るように努力しなさいよ」
「無理だよ」
 ずっと疑問だった事がある。コイツみたいのが何であたしと同じ選ばれた子なんだろう?すぐに自分の可能性を放棄する奴。あたしはそういうのは大嫌いだ。
 自分でも分かるほど、顔が意地悪く歪んだ。
「恥ずかしくないわけ?クラスの中で体育の授業、水泳の時に見学してるのあんただけよ」
 精一杯冷たい目をして見てやる。おびえと共に表れる焦燥の表情。これも見るのは、とっても気持ちいいの。
「別に、いいじゃないか」
「まあ、そう思ってるなら構わないけど。でもそういうあんたって、はっきり言って軽蔑するわね」
 でも、そんなコイツに命を救われたこと、あった。
「…したければすればいいだろ」
「そうよねえ、今に始まった事じゃないものね」
 あの時、弐号機を通して感じた感触。とても力強かった。どう考えたってあのマグマの熱、まともに痛覚として感じていたはずなのに。
 だから、何となくコイツとうまくやっていけるかな。そう思ったのに。
「いいよね別に。あたしにどう思われようとさ」
「……」
「可愛がってもらえばいいのよ。ミサトにも、リツコにも、ファーストにも」
「何…言ってるんだよ」
 なのに、どうしてこうなっちゃうんだろ?あたしのせい?
 違う。コイツが全部悪い。最低。
「いいんじゃないの?他にいくらでもいるしさ。誰でもいいじゃん」
「他人の事なんて……、関係ないよ」
「お父さんにでも可愛がってもらえば?」
「……!」
「それとも……、ママの方がいい?」
 瞬間、思わず身を引く。アイツの目、今まで見たこと無いほど険しくなった。信じられない。今コイツにハッキリと、怯えを感じた。
「な、何よ!そんなに死んじゃったママのこと恋しいわけ?」
「たかが泳げないだけで……、ここまで言われるなんて信じられないよ」
「そ、それだけでこういうこと言ってるわけじゃ……」
「やるよ。泳げばいいんだろ?」
 着ていたタンクトップを脱ぎ捨て、海へと向かうアイツを、あたしはただじっと見ているしかなかった。それはまだハッキリと感じている怯えのせいもあったが、何よりも自分自身が恥ずかしかったからだ。もうメチャクチャどころではない。
 今のあたしってあまりに大人げなかった。つまり、ガキだ。
 アイツは無造作に水に入っていく。その度に波に翻弄され、砂浜に打ち上げられ苦しそうに咳き込む。全く泳げないと言うのは、どうやら嘘じゃないらしい。
 ずっと立っていても仕方ないから、その場で座り膝を抱える。必死の表情が見える。戦っている時より、ある意味厳しい顔だ。真摯な、表情。胸を締め付けられる。
 これでは明確な虐待だ。こんなことさせて、何が楽しい?
 太陽が真上から、ジクジク肌を焦がす。頭がぼおっとする。顔を膝に埋める。分からない。どうして自分は彼のことをこんなに挑発するんだろう?ライバル心?そんなこと、ありえない。
 嫌いだから?そう、嫌いだ。でも、それなら無視すればいいだけのこと。その方が、職務上はるかに害がないだろう。要するに目障りなのだろうか。だけど、彼と組んだ時が一番うまくいくのは、明確に結果に表れている。やってやれないことはないけど、独りじゃキツイ。だからといってあの女とだけ組むってのは……。
 もう一度、海に目を戻すことにした。謝るつもりなど有りはしないのだけど。
 彼の姿が、無い。左右に視線を振る。いた。
 少し離れた波間に、漂っていた。

 走り寄り、海水にはいる。近くまで泳ぎ名前を呼びかける。答えない。冗談だと思って頬を叩く。反応無し。叩きまくる。返ってこない抗議の声。血の気が引く。
 腕を掴んで引っ張る。砂浜がとても遠く感じる。こんなに重い物持ったの、あたし初めてだ。
 濡れた砂に足を取られながら、砂浜まで引っ張り上げる。仰向けにして口元に耳を近づける。息の音聞こえない。胸に頭を乗せ、耳をくっつける。心音はする。ただし明らかに不整脈だ。
 自分でも驚くほど動揺していて、それでいながら思考は冷静だった。すぐにダイビングの講習で習った人工呼吸の方法が浮かんだ。躊躇してる暇なんて、恐らく無い。
 加持さん、何とかなるわ。そう呟いて口元を彼のそれに持っていく。
(イイノ?ソレデ?)
 目前で、動きが止まった。
(ネエ、ソノコノコト、ジャマナンデショ?)
 別に、邪魔じゃない。
(デモ、メザワリデショ?ソノコガイナクナレバ、マタマエノアナタニモドレルノヨ)
 何、それ?
(シッテル?モウスコシデマンチョウニナルノ。コノママホッテオケバ……)
 海に、溶けちゃうね……。
(ソウヨ。イラナイジャナイ、ソンナコ)
 膝を浮かす。目の前にいる彼が、単なる物に見えた。あたしをただ、脅かすだけの物。そんな物いらない。あたしに何もしてくれない物。こんな物。
 どうでも、いい。
(ソウ。ドウデモ、イイ……)
 視線を固定したまま、後ろに下がる。安らかに。主の下へ。十字。
 サヨナラ。
 彼の指先が、微かに動く。
 次の瞬間、頭痛。頭を抱えたくなるほどの、痛み。思わず、背を、逸らし、首、を傾けるうう。
 あああっああああっあああっあ。
 見えたのは、青空。真っ青な、空。雲がとても近い。掴め、そう。
 ああっああああっ、ああ、何て、何て空なんだろう。
 ここまで来たのって、こんな気分になるためじゃなかったはず。痛いのもモヤモヤも、嫌だ。
「起きなさいよ、バカシンジ」
 思いっきり息を肺に入れ唇を合わす。濡れた感触。体中の血流が加速する。でも、今そんなこと関係ない。息を吹き込む。離して両手を胸に置き強く押す。僅かに沈む彼の薄い胸板。
「起きなさいよ、バカシンジ」
 頭痛を無視しもう一度繰り返す。とても穏やかな彼の顔。起こして欲しくないのかも。
 でもこのままじゃ、イヤ。
「起きてよ。ねえ……、起きて。起きて、起きて、起きて起きて起きて、起きなさいよお!」
 お願い、目が、潤んじゃうよ。泣きたくなんてないの。もう、そう決めたの。
 どうして?どうして、あたしの挑発なんかにムキになるのよバカ野郎。
「あんたがこうしたんだからね。何とかしてよ……」
 激しい疲労感と共に息を吹き込む。胸を圧迫。彼の顔が、歪んだ。咳と共に唇の端に溢れる水。その苦痛の表情に、胸が詰まる。でも、これでいいはず。間違って、ないはず。
 もし間違っているとしたら、あたしは……。
「シンジ……」
 呼びかける。開いた目の視線がこちらに移る。微笑んだ。そのまま、彼に返す。再び閉じる目。慌ててもう一度口元を運ぶ。鼻先に、彼の寝息を感じた。
 それを確認して、あたしも眠りに入っていった。頬に感じるアイツの鼓動。
 何だか疲れる日だなあ、今日って。もう、いいや。

 この感触って、何?これは髪の毛にだわね。
 髪を通して感じる密やかな愛撫。ふーん、髪の毛ってこんなに敏感だったんだ。まあ、悪くない。それにしても微妙な感触だなあ。
 うん?これって?愛撫?誰が?まさか?
「……」
「……」
 アイツだった。表情が固まってる。引っ込めた指先も止まっている。何だかとっても、穏やかな表情。固まっちゃったから変だけど。
「何、してるの?」
「い、いや、あの……」
 責める気など毛頭起きなかった。全身に感じる倦怠感がそれを許さない。それは決して不快なものではなかった。そして、安心感。
 細い指。まるで女の子みたいじゃない。手を伸ばす。アイツの顔に驚きと期待らしきもの。そんなの、出さなければ良かったのに。
 もう少しで触れ合うところで、手のひらを砂に叩きつけ上半身を起きあげる。おお、頭痛はない。
「ああ!疲れた!」
「……」
「あんた、大丈夫?」
 そう言うお前が大丈夫かっての。
「う、うん。あ、あのさ。ひょっとして助けてくれたの?」
 期待を裏切られての、失望を隠せぬ笑顔。謙虚じゃないな。だからニヤリと笑ってやる。僅かに身を引くアイツ。ギクッて擬音でもしそうだ。
「砂浜に打ち上げられててさあ。まるで死んだサンマみたいだったよ」
「そ、そう?」
「悪運強いわねえ。あのまま沖に流れていったら確実に水死体ね」
 俯く。でも、少しもその表情には陰りがない。何でよ?
「引き上げてくれたの?」
「言ったでしょ?打ち上げられてたって。無理するからよ」
「でも、そのままほっといたわけじゃないんだね?」
「…あたしにも、原因あるの確かだったから」
「ありがとう……」
 こんなに嬉しそうなコイツの表情、今まで見たこと無かった気がした。まあ、感謝されても当然だよな。あんな事までして助けてやったのだから。ところでコイツ、まさか気付いてないだろうな。
「あ、あのね、シンジ」
「うん?」
 ホッとした。この本気で不思議そうな目。恐らく憶えてない。一方で軽い失望感。ハッキリしてたのかも知れないのにな。それが何かは、自分でも分からないのだが。
「飲み物、まだあるんでしょ?」
「ああ、待っててね」
 弾かれるように立ち上がり、あの閉店中海の家の方に走って行く。あれで本当にさっき溺れた奴かあ?妙なところでタフなんだから。
 缶を手にして戻ってきた。それを見て考えを改めた。足下、充分にフラフラだった。
「はい」
 缶コーヒー。表面に、やたらと流行ってるアニメ・キャラの絵。可愛くない。
「どうも」
「……」
 プルトップを開ける。指先の感覚も重い。
「…ぬるいわね」
「ごめん……。日陰に置いといたんだけど」
「何で謝るの?あんたが悪いんじゃないでしょ?」
「そ、そうだね」
 再び横たわる。また視界は空だ。いつもと同じ空。だけど、あの変な感じから救ってくれたのは、この青空。いつもより広く感じる、空。好きになれそうだ。
 視線を移すとアイツが見える。海をじっと見ている。ずいぶんとまあ、爽やかな瞳してるじゃないの。黒髪が風に靡いてる。あたしやレイのような、派手さはないけど光沢のある黒髪だ。
 驚くべき事に、その時衝撃的事実に気付いた。今まで、全然意識しなかった事。
 コイツって、もしかして、実は、子供っぽいけど、かなりの美形なんじゃないの?
 初めて会った時からさえない奴って思ってたのに。あたし、ちゃんとコイツのこと見てたのかな?
「シンジ」
「何?」
「借りは返したなんて言ったけどさ、ちゃんとお礼言ってなかったよね」
「え?何の事?」
「助けてくれたでしょ?あの、火山でさ」
「ああ、あの時のこと。別に礼なんていいよ。当然のことをしただけだから」
「どうして当然なの?あんただって危なかったんだよ。へたしたら炭化だよ」
「……。仲間だろ、一緒に戦う」
 仲間か……。でも、あの時立場が逆だったら、あたしどうしてただろう。それに……、また憶えるこの失望感って、何?
「仲間なんて、迷惑かな?」
「ううん、そうじゃない」
 跳ね起きたあたしを、驚いた目で見る。無理もない反応だろう。
「…まあ、あんたもレイも、出来た奴じゃないけどさ……」
「……」
「す、少しは負担減るじゃなあい。だいたい、あたし一人に任されてもさあ」
「…そうだね、疲れるよね。そういうのは」
「そうよ」
 コイツがいなければいい。そう思うのはどう考えても論理的ではない。分かっているはずだ。任務の達成がなければ評価も何もない。三位一体の攻撃。これがもっとも効果的で、適切な方法。
 直協下での波状攻撃の重要性。もしそれが分からないとしたら君は、パイロット失格と言われても反論できないよ。航空機の戦闘にしたってそうだ。編隊を乱すのは即、死に繋がりかねない。
 ドイツにいた時、講義を受けたことのある国連軍の空軍士官がそう言ってた。何それ、ってその時は思ったけど、実戦やってみて分かった。
 使徒って、手強いのだ。だから、その意味においては、コイツってとても重要。必要、なんだ。
 なのに……、時々憶えるどうしようもない程の感情的な排除意識。それは何?
「アスカ」
 沈黙に耐えきれなくなったのか、アイツが声をかける。顔を向けるとアイツったらまっすぐあたしを見ていた。あの、真摯な表情。もちろん溺れる前に浮かべてたのよりは、穏やかだった。
「な、何よ」
「あの、変なこと聞いてもいいかな」
 またそれなの?その表情はさあ、ちょっとやめてよ。ホント、冗談にならないから。
「だから何よ」
「アスカさ、何だか最近疲れてない?」
「……」
 こ、これって、デジャブ?違う違う。もっとはっきりした記憶。
「べ、別にそんなこと無いわよ」
「そう……。ならいいけど」
 予知夢かい!き、気味悪い。し、しかし、ちょっち試してみよう。こんな機会滅多にないから。
「でもね」
「うん?」
「何だか最近モヤモヤするの。別に不満とか無いのに、変だよね?」
 ホントのこと。だから真面目な顔で言えた。どう答えるか、碇シンジ。
「それは……、僕もあるよ。そういう時って」
 マ、マジィ?!完全に顔が崩れたのだろう。アイツが怪訝そうな顔になる。もう一度、顔を引き締めて続けた。あ、ダメだ、顔戻んない。
「そのお……、不完全燃焼って感じなのよねえ。心が晴れないって言うかあ、一酸化炭素中毒になりそうって言うかあ!」
「そうなんだ……」
 冗談めかしたのが影響したのだろう。アイツは再び海の方を見て答えた。良かった。これ以上夢と同じセリフ続いたら寒気がするところだった。
 ところが、ふと目に入ったアイツの表情、変わってない。違う。もっと優しいというか、何というか。とっても微妙なそれになっている。どういうこと?
 展開が違いすぎるよ、これ。
「アスカ、すごいお節介なことだと思うけど」
「な、何?」
「無理しないでね。今日みたいな日、少ないと思うから……」
「……」
 目の奥が、熱い。どうしようもなく感じた彼への思い。一言で言えば、感謝。それだけじゃない。親愛。それも違う。それを表す言葉、あたしは知らないんだ。
「よけいな、お世話よ……」
「…そうだよね」
 幻滅した。自分にだ。滅多にないこと。でも、今の気持ちを表す言葉知らないなんて、あたしって何?大学まで行って何を勉強してきたんだろう。日本語、確かに全部憶えたわけじゃないけど。そういう問題じゃない。
 だから、これだけは言ってやろう。ううん、言ってあげよう……。
「あたしは、大丈夫だからさ。あんたこそ軟弱野郎なんだから」
「……」
「無理しちゃ、ダメよ」
「…うん」
 微笑んでくれたの、やっぱり嬉しかった。
 なんとかこれからも、うまくやっていけそう。それって悪いことではないだろうから、素直に喜んでおくこととした。
 いやあ。海に来て、正解だったな。

「疲れたよねえ、今日は」
「そうだね」
「これじゃあ何のための休日か、分かんないわよ」
「楽しくなかったの?」
「そりゃあ……、海は綺麗だったから。うん、まあまあね」
「それは良かった」
 帰宅途中だった。既に日は沈みかけ、街は夕闇に染まっていた。長く続く坂道。怠さを抱える二人にとっては、本当に辛い。
「しっかし、あの後はほとんど泳げなかったもんなあ。ただ日に焼けてただけじゃないのよ」
「色々、話が出来て嬉しかったよ」
 ぐったりした顔でアスカが肩を竦める。肩の肌が真っ赤だ。
「あんたバカぁ?あたしはこの肌の手入れが超キビシクなんのよ?だいたい、あんたが泳げないのがいけないのよ!」
「僕、練習してみるよ。暇があったらだけど」
「そ、そう?」
「だからさ、またこういう日があったら……、行こうよ、海に」
「…シンジ、何か変よ?」
「も、もちろん、今度はミサトさんとか、綾波とか、加持さんとか、リツコさんとか、トウジとか……」
「もういい、もういい、分かったから」
 やっぱりそうきたか……。そうは思うものの腹は立たない。今のアスカはとても機嫌がいいのだ。自分のバッグも、珍しく自らの手で持っている。
 やっと坂道が終わる辺りに自動販売機がある。それを見つけると駆け寄り、コインを入れる。二回ボタンを押す。そしてシンジを手招きする。
「ほら」
「…おごってくれるの?」
「飲みたいでしょ?」
「あ、ありがとう……」
「ジュース一本で礼を言うなんて、安い男ねえ」
 二人は同時に缶を傾ける。喉に冷ややかな感触。いつもより強く感じる甘味。だが不快ではない。
 その時、フッと周囲の空気が涼やかになるのを、二人は感じた。これはジュースのお陰などではない。この感じは、もう馴染みのものだ。
 それは、坂の上からやってきた。青色の髪の少女が下りてくる。
 二人はそれぞれ、全く別の意味で彼女の存在に危機感を持つ。
「や、やあ、綾波」
「……」
「本部での仕事、終わったの?」
「これから、また行くの」
「そ、そうなんだ。大変だね」
「仕事だから」
 ぎこちなく会話をしながらもシンジは気が気ではない。また例の修羅場が展開されかねないと思ったからだ。しかし、いつもなら自分を押しのけて前に出てくるはずの当の本人の姿がない。
 背後を見る。アスカが、また自動販売機の前に立っていた。取り出し口から缶を取り、こちらに戻ってくる。視線を外しながら。
 そして、レイの前に立ち身を逸らす。こんな日にやめなって。シンジがいつものように制止しようとした時だった。アスカが、手にした缶ジュースをレイの前に突き出したのは。
「ほら」
「…何?」
「見りゃあ分かるでしょ?ジュースよ!受け取りなさいよ!」
「……」
「んもう!おごりぐらい素直に受けてよお!」
 何の躊躇もせず、その真っ白な手を取り、手のひらに缶を置く。そうなるとレイも缶を握るしかない。二人とも、微かに頬が赤い。
「えっ…ど……、あっ……」
「ああ、お礼なんかいいから!あ、あんたに言われたって嬉しくないから!」
 事の意外な展開に呆然となっているシンジ。レイも、珍しく動揺が隠せない。
「ご、ごくろうさん!じゃあね!」
 そんな二人を置いて、さっさと坂を上がって行くアスカ。何だかスキップなんて事までしている。
 言葉もなく立ちつくす二人。先に口を開いたのは、レイだった。
「彼女……、どうしたの?」
「い、いや、アスカなりの感謝の表現だと思うよ」
「感謝?何に?」
「綾波が……、今日一日、本部に居てくれたからさ。それで遊びに行けたから、だと思うよ」 
「…そう」
 手にした缶ジュースを見つめているレイ。彼女にしてはずいぶんと穏やかな表情だった。
「飲まないの?」
「ジュースって、あまり飲んだことないから」
「あのさ、飲んであげてくれないかな?アスカがせっかくおごってくれたんだし」
「……」
「あまりこういう事、ないと思うよ」
 頷くとレイはプルトップを開けて、口にした。驚いたことに、一気に全部飲み干してしまった。
「美味しい……」
 少しだけ微笑んでそう言った。シンジも、引きつりながら笑顔になる。
 坂の上から声がした。腰に手を当て、アスカが坂の天辺でこちらを睨んでいる。しかしその表情は決して険悪なものではない。
「こらバカシンジ!とっとと帰って夕食の用意してよね!腹ペコなんだから!」
 それだけ言うとアスカの姿は栗色の髪を輝かせながら、坂の向こうに消えた。

 彼女の最後の休日は、こうして終わった。


END

うめりん筆:

 瀬戸来海さんから頂いた投稿小説『海に行きたいんです』をお送りいたしました。私がいつも書いてるベタベタラブラブな作品と比べて、本編の中であったかもしれないと思えるような作品ですね。シンちゃんに対するアスカ様の複雑な想いがよく表れています。いないと困るけど目障りで、側にいると苛々するのに、いないともっと苛々する。最後に、綾波を持ってくる辺りもうまいですね。3人の間に、こんな友誼があったらな・・・とほんとに思います。

瀬戸来海さんの次回作をお楽しみに。

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