有紀と千日/(1)  (2)  (3)  トップページへ

931日

 フィービーを探している。

 1964年、白水社「新しい世界の文学」に収録された、J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は、現代社会の抱える出口なしの孤独を活写し、世界に衝撃をもって迎えられた。そして何よりもこの作品は、ドストエフスキーに代表される病める文学の呪縛から、私たちの心を解き放した。後世に残す一冊をあげろと言われれば、私は躊躇なくこの『ライ麦畑でつかまえて』を推す。私の文学の原点である。

 『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデン・コールフィールドは社会を、そして周囲の大人やクラスメートを醒めた目で見る16才の少年である。
 人間関係のみならず学業にも意義を見いだせず、クリスマス休暇を前に退学処分となって故郷ニューヨークの実家に戻る3日間を淡々と一人称でつづり、人が為すべき最後の事の答えを見つけようとしている。

 この原作が書かれたのは1951年である。戦勝に沸き、新しき世界の盟主国としてもてはやされるアメリカが、実はすでに深く過酷にむしばまれている病理を、適当に生きることの出来ない少年の絶望的な自己矛盾に託した。それは時代や国籍を問わず、読むものの心を打ち、ホールデンに漂う寂しさは愛おしさでもあった。
 そして故郷にも落ち着く場所のないホールデンの心は、唯一小学生の妹フィービーに寄り添うとき、安らぎを得る。

6000枚にも及ぶ有紀の写真からフィービーの表情を探しながら、
ふと、
残酷なまでに無垢な天才・草なぎ剛の優しさのことを思った。
友よ。
元気でいるか。
友よ。
泣いていないか…。

932日

  

 仏心理学者ジョルジュ・バルマンは、女の哀しみの顔は、少女期の母親の化粧の仕方で形成されるとしている。
 朝帰りする夫を待つ母親の、化粧を落とした顔を見て育った少女。
 そしてもう一つは、化粧をし、いそいそと出かける母親の顔を見て育った少女。いわゆるバルマン症候群である。

 この写真の有紀は、明らかに後者の少女期を経ている。
 そしてその哀しみの心の壁は、「素直」「元気」「がんばる」という単数感情で武装し、決して開こうとしない。

 糸口は、刀を逆手に持って後ろの男を刺しているこの写真。
 彼女が女としての「艶」をかもし出してくるのは、28,9からだと思われる。それでも遅くはない。オレとしては、50になってもさわやかな女優さんでいて欲しいのだから。

 人生に15勝0敗とか、14勝1敗なんてあり得ない。大抵が7勝8敗で終わる。有紀も肩の力を抜き、8勝7敗の線を狙えばいい。

933日

 梶原ひかり、七歳。
 今日初めて有紀と合わせる。

 この熱い季節が終わったら、静かな子供の日常に戻っていって欲しいものだ。

934日

 ロールスロイスという気位の高い車がある。
 あるアラブの石油王がこれを買い、砂漠で走らせていると、前輪と後輪をつなぐシャフトが折れた。
 故障のあったことをロールスロイス社に電話すると、ほどなく作業員の乗ったヘリコプターが到着し、シャフトを変え、去っていった。
 ヘリコプターまでよこし、さぞかし高い修理費だろうと思っていたが、いつまでたっても請求書が届かない。
 ロールスロイス社に電話をすると、「なにかのお間違いではないのか。ロールスロイスのシャフトは折れません」と言われ、電話を切られたという。

 

 上記の二枚の写真を見、ふとこのエピソードを思い出した。
「この娘を舞台に上げてる内は、うちの芝居は間違いはありません」
と言えるような日が来て欲しいものだ。

935日

この三枚の写真、

部屋で、帰ってこない男のために料理を作り、一人寂しく待っているときの顔である。

 

人間には男と女とサルがいる。嫉みそねみ裏切りの、そのサルが女優である。

私はこの女をサルにしなければならない。

936日

 この女から、男に別れの言葉を言うことはない。
 いつも男に捨てられるだけである。

 その理由は、男にあまりにも誠実さを求め、男がうっとうしくなるからである。そして捨てられても泣いてすがらないところが、女のファンの多い理由だろう。

 男の不実を許す、女のだらしなさが少し必要だと思われる。

 フロイト的にいえば、少女期、よほど切ない思いをしたことがあるのだろう。

939日

 ニコンというカメラがある。
 ボディが丈夫でなにより耐久性に優れ、プロ、特に瞬間性を必要とする報道のカメラマン達は、放り出したり乱暴に扱っても故障が少ないニコンを使っている。が、正確さを必要とするニュースカメラマンが好む分、写真がどうにも硬質に仕上がると思っている。
 この写真、土屋勝義がニコンのフィルムチェンジしようとしていた時、慌ててバックから引っぱり出したミノルタα9で撮ったもの。

ルリ子「では、ながのお別れでございます」

    ルリ子、死の恐怖に震える。

小 夏「さっ、ルリ子。ママと一緒にセーラームーン歌おう。
    ♪ごめんね 素直じゃなくて  さっ」
ルリ子「♪夢の中なら云える」
二 人「♪思考回路は ショート寸前 今すぐ会いたいよ」
小 夏「♪泣きたくなるような」
ルリ子「♪moonlight」
小 夏「♪電話もできない」
ルリ子「♪midnight」
二 人「♪だって純情どうしよう (ルリ子、歌えない) 
    ハートは万華鏡」
小 夏「♪月の光…」

  ルリ子、息絶える。
  銀ちゃん、出てくる。

銀四郎「♪月の光に導かれ 何度も巡り会う
     唄ってやれ、最後まで

小 夏「………!!」

 ミノルタのレンズは女の人に優しく、その人肌をとらえるのに長けていると思われる。

948日

 新幹線の中で、去年の暮れに出た米物理科学誌 Physical Review Letters を読んでいると、米クラークソン大の物理学者ローレンス・S・シュルマン博士が「Opposite Thermodynamic Arrows of Time(熱力学的逆進時間軸とでも訳すか)」を発表した。
 
つまり時間が逆向きに流れている領域が宇宙に散らばっている可能性があるというロマンチックな説である。
 内容は哲学的で少し難しくなるが、熱力学的に定義されるエントロピー(=乱雑さ)という量は時間とともに増加するが、コンピューターでシミュレーションした結果、局所的にエントロピーが減少する領域が存在できることがわかった、ということなのである。
 つまりその領域の中にいる限りは、時間は過去から未来へ普通に流れているが、その領域の外側から見ると、領域の中の時間の向きは逆になり、よってその領域の中に人がいたとすると、領域の外からは若返っていくように見えることになる。
 そして宇宙には、重力源として物質は存在するはずなのに、光らないので見えない「ダークマター(暗黒物質)」と呼ばれるものがあり、このダークマターの正体がこのエントロピー減少領域なのかもしれない、と著者は力説している。しかしそれが実際にはどんな「天体現象」として観測されるのか、という点については全くふれていない。科学的に過去へのタイムマシンが否定されている以上、その領域にいる中の「若返った人」とその領域の外にいる「観測者」が出会えることはありえない。世の中の科学者たちはみな否定するが、オレは信じたい。

 娘を助けるため、一千億の銀の嵐舞う銀幕を突き抜け、この領域に銀ちゃんことカーク提督の乗ったエンタープライズ号をいかせればいい。上記の写真、副官小夏ことミセス・スポックが地球に帰還する意志をなくし、自爆を選択する台詞を読んでいるときの写真だ。女の子たちに見せると、10人が10人、有紀の写真の中でこの写真が一番好きだという。なぜだと聞くと、遠くを見つめているから、という。

950日

有紀は大きな目をキッと見開き、ボロボロ泣く。よく泣く。
「客を泣かすんだ。お前が泣いてどうすんだ」
と怒ると、
「ヘイ」
一番つらいところは、娘ルリ子との会話のゴシックのところという。カメラマン土屋勝義はこの顔を見ると、若くしてなくした姉を思いだすという。

ルリ子 「お母さん、もう死んでもいいですか」
小 夏 はい、あなたはよく頑張りましたよ」
ルリ子 「わずか七年でしたが、ここまで育てていただいてありがとうございます。私はお母さんの子供として生まれてうれしかったです。いたらない娘で、申し訳ありません。今まで、私が生まれたことが足手まといになったのではないかと、つろうございました。ルリ子のために必死で研究を続けているお医者さんたちに、ルリ子は人間の尊厳をかけて戦ったと、最後までがんばったと言ってくださいね。季節がら風邪など流行っていますので、どうぞお気をつけくださいませ。それからお母さんは寝るとき寝相が悪くて、パジャマをはだけて腹を出して寝ていますので、腹など冷やさぬようお気をつけください。よくお母さんの足で蹴られて、私は眠れぬ夜を過ごしていました。私はお母さんのその無邪気な寝顔を見るたび、ああ私もこんな無邪気で丈夫な人に生まれていたら良かったのにといつも思っていました。これでもうお母さんのきれいな顔は見られなくなるんですね。どうぞお母さん、泣かないでください。これも人生ですから」
小 夏 「………」
ルリ子 「それでは、ながのお別れでございます。ただ一つの心残りは、心優しい銀ちゃんが泣くことです」
ルリ子、息絶える

952日

午前中、舞台監督の森和貴、照明の酒井明、音響の内藤勝博などのスタッフを呼び、?の写真を見せる。

?

「この顔を、内田の最低の基準にしてステージングしてくれ」
ずっと腕組みをして写真を見ていた森が、
「しかし内田さんのファンは、内田さんが大人の女になっていくのを望んではいないんじゃないでしょうか。いつまでもかわいいアイドルのままでいて欲しいんじゃないでしょうか」
「あのお姫様も、もう24だ。いつまでもそんなことは言ってられんだろう」
「………」
「力強い色っぽさを作るんだ」
バーニングはそのためにうちによこしたはずだ。
?の写真を見せる。

?

?の写真から?の写真の表情に変わるのに、1秒かかっていない。
「じゃ、最後にルリ子ちゃんが乗ってくるクレーンカメラも」
「いらん」
事務所を出ようとするとき、電気屋から5月10日に発売された、SONYのDCR-VX 2000が届く。いままで使っていたVX 1000より数段感度がよく、メモリースティックで連続写真にも落とせる。もっと細かくこの女の明日を分析できる。

955日

 1月25日から始まった有紀の稽古のビデオをすべて撮ってある。
 終日、見る。
 ヤス、いまだ決まらず。
 有紀の動き、声質から候補は、川畑博稔、赤塚篤紀、吉浦陽二、吉田学。
 銀ちゃんをやる吉田智則の身長は171。川畑は、175。はずすべきか。
 川畑は『ロンゲスト・スプリング』の熊田役がある。
 明日からオレは、金沢、青森、そして監禁事件の裁判を見るために、新潟にいかなければいけない。戻ってくるのは月末。
 今日中に決めなければ……。
 蓮見に他の劇団からでもかまわないので、東京中の芝居を見まくれと頼んだものの、報告はあがってこない。
 しかし、しかし、オレたちの前には草なぎ剛のヤスが山のように立ちはだかっている。 勝てるわけがないのは承知だ。でも……。
 この写真、2月10日。足を痛め、若山馬之助役の清家利一が慌ててテーピングをしてるところ。
 お嬢は笑っている。
 本当に足は治っているのか!!

957日
 大阪、東京と5回にわたり行ったルリ子役オーディションも終了し、ルリ子は梶原ひかり(7才)に決定。幼い上に2ヶ月近い旅公演ということもあり、急な発熱などで倒れられてはと思い、もう一人とっておきたかったが、選考を手伝ってくれた相馬あゆみの「あの子なら大丈夫」との言葉で一人にした。二人だと、また別な問題も出てくる。子役のオーディションの時には、半分くらいはその親を見ている。浮かれた親だと困るからだ。ひかりの親なら大丈夫なようだ。

960日

 よほど自制心が強いのか、ご両親から厳しくしつけられたのか、この娘の稽古場での居ずまいは、誰よりも正しく上品である。
 男の人と別れる時も、
「別れてくれ」
「はい、わかりました」
 で、決して後を追ったり泣きわめいたりしない娘だろう。

〜しつこくない女〜

「女はちょっとストーカーっぽい方がかわいいんだぞ」
 というと、うすく睨みかえしてきた。

963日

「舞台衣裳は好きなのを買っとけ」
というと、
  「ヘイ」
この娘は髪型や、メイクや、衣裳のことをゴチャゴチャいわないのがいい。その分、本質にせまれる。
記者会見の時も、
「さあ、やろうか」
  「ヘイ」
稽古着のままで口紅も塗らない。
「女の子だから、『ヘイ』はよせ」
というとまた、
  「ヘイ」
幸福になって欲しいお嬢さんだ。

968日
大阪電通の手島から、この2,3ヶ月の有紀の雑誌の表紙、グラビアが送られてくる。ずば抜けているのは3月30日号の週刊文春、カメラマンは丸谷嘉長という人。男に媚びて生きようとしない女の意志と志が写っている。

972日
「蒲田行進曲」の時、錦織一清に歌ってもらった、フィナーレの「蒲田ロック」を有紀の声でやることにする。
編曲のから崎昌一がキーを調べてくれとのこと。
コロンビアの柳生さんにスタジオをとってもらい調べてもらう。
撮影から抜け出してきた有紀に四曲ほど歌ってもらう。
譜面も読め、カンもいい。
柳生さん、レコーディングと勘違いしたのか、厳しい。
有紀、少し涙目になる。
MDに落とし、パソコンで大阪のから崎に送る。
夜、から崎から電話が入る。
「哀しい声質ですね」
哀しい…。ドキリとする。
スタジオで同席していたR.U.P社長の菅野重郎も首を傾げながら、
「実は僕もそう思ってたんですよね」

975日
ヤス、まだ決まらず。

980日
札幌のPRセンター・藤井から、「二代目はクリスチャン」のポスター修正版が送られてくる。十字架がうまく組み込まれている。バックが国会議事堂に見えるか。
正面切った写真で勝負できるのが、一流の女優さんだと思う。