春の小窓から
          まんが編集者たちへの願い
 
 
 
3月になると旅に出たくなります。それも北国の入り口に位置するところに___
以前、千曲川のほとりの町で<春>を実感したことが忘れられないのです。
3月の、雪がとけはじめたころでした。
ゆっくりと田園のなかを歩いていたら、ふいに風の流れがかわり、ケーキをつくるとき、ホイップしていた卵が急に白くふわふわになった……突然、そんな感じの風が吹きはじめたのです。文字どおり<春が忍び寄ってきた>感じがして胸がいっぱいになり、わたしは歩くのをやめて、
「今、春が来た…! すぐそこにいるわ!」と知らせて、同行のひとに驚かれてしまいました。土地の人にいくら説明しても「いつもと同じだ」と笑っていましたが……
あれこそまさしく<春>が降り立った瞬間に居合わせたのだと思っています。
 
最高裁の判決が待たれる日々です。
明日か(この小窓をUPした時はもう…?)まだ数ヶ月先なのか、たいへんスリルがあります。
(最高裁の判決がおりたら、この事件もやっと終わる……)
そう心頼みにしてきましたが、このところのいがらしさんの動きを見ていると、そう簡単には終わらせてくれないようです。
 
<原作は参考著作物> <水木はサポートしただけ>といいつのられ、現在は
<原作者はスタッフと考えるべきである>との主張のようです。 
 
事件発生直後はいがらしさんのこういったお考えは<だれかの入れ知恵>か<きっと背後に悪い人がついているのかもしれない>と思い悩み、そういった人から離れた彼女と<話しあう機会さえあればわかってもらえるのでは…>と考えてきました。
裁判所でなんとか会えないかといがらしさんが出廷なさるのを待っていました。
裁判長にも「いがらしさんと直に話しあえれば解決が早い」と本人の出廷のお口添えもお願いしました。
いがらしさんがやっと、マネジャー(当時)たちと出廷なさったとき、わたしは思いきって裁判所の廊下、喫煙所で話しかけました。
いがらしさんはお忘れでしょうか。わたしは、
「なんとか 話あえないかしら…?」
そういったと思います。
しかし……そのときの、いがらしさんの対応は思い出すのも哀しいものでした。
そのときから、この事件はそう簡単には解決しないのではという予感がありました。
いがらしサイドからの書面には<原作は参考にしただけ>という言葉が繰り返し書かれ、
わたしは次第に、
(この言葉がいがらしさんの”長年の本心”だったのだ…すべて”本人の意思”なのだ…)
とあきらめるようになりました。
最近、いがらしさんが漫画家諸氏に送られた水木への<誹謗文書>を読むと<(いがらしさんは)水木が原作者だと完全否定はしていない。”関与”は認めている>と書いてありますが、結論として<否定>なさっていることには変わりありません。
読者などから<なぜ話しあいをしなかったのか>と問われても(いがらしさん本人は水木が話し合いを拒否したといっておられますが)<対等>な立場と思われていないのではどうしようもなかったのです。
 
しかし、この<参考著作物>という<言葉>には感心してしまいました。
確かに、<漫画作品>の<原作>として生み出される物語は、漫画家にとって<参考>という言葉もあてはまるかもしれません。
<漫画編集者>はヒットする<漫画作品>を作り出すのが仕事です。
漫画のために<原作>を依頼するのです。”サポート”という言葉を使う編集者もいたかもしれません。しかし、編集者は<原作者>にそういった言葉は決して使いませんでした。
漫画編集者たちが<原作つき漫画>をなぜいやがるのか……当時はわからなかったことが、25年たって理解できました。
漫画家と原作者の”間”に立って、気をつかわれるのですね。
 
しかし、今回の事件で、いろいろな編集者と接し<原作は漫画のたたき台>と考えるタイプの編集者が現在もいらっしゃることがわかりました。つまり<参考著作物>です。
いがらしさんひとりを責められません。
漫画編集者のなかでも、<原作者>の位置ははっきりとかたまっていないようなのです。
最近、雑誌<なかよし>の中で<原作>という言葉を使わず<シナリオ>と表記してあるのをみて、たいへん複雑な気持ちになりました。いったい、どういった意図なのかわかりませんが、<シナリオ>と表記されてしまえば<原作>ではなくなるのでしょうか。
物語の<核>の責任はどうなるのでしょう。
 
わたしは原作を生かして描くのも、漫画家の技量だと思ってきました。
いくら絵が上手くても漫画家のオリジナル作品には限界もあるでしょう。<原作>をつけることによって新しい世界が開かれることも大切なのです。
ですから、特に少女漫画家のなかで原作をいやがる傾向は、漫画そのものの衰退を呼びかねないとも思ってきました。
いがらしさんはそのなかで、少なくとも一緒に作品を創っている当時は
「わたしは、こんな話は書けないから、おもしろいわ」と
ご自分の立場を素直に話され、だからこそ、わたしは原作者としてたいへん書きやすく仕事が続けられたのです。
それは、ひとつの漫画家としての姿勢であり、原作付きはなんら恥じることはないのだと、わたしは今でも思っています。
恥じるべきは、その作品を25年もたってから、<参考>などといいはじめられたことでしょう。
この事件でわたしが一番こだわってきたのもいがらしさんいわれる所の<勝手にグッズを許可>したことではありません。勝手に許可できた<原点>。いがらしさんが原作者をスタッフ視していたことに立ち直れないほどの衝撃をうけたのであり、これだけは今後のためにもはっきりさせておかなくてはならないと、考えたからです。
 
最高裁で判決がでても、いがらしさんが<原作者はスタッフ>というお考えでいる以上、解決はつかず、わたしも作品を生かすのはあきらめる覚悟はできています。
それは自分の作品をあきらめることでもあり、それがどんなに苦渋の結論かわかる方にはきっとわかっていただけるでしょう。
 
今後、<原作者>という仕事はどうなっていくのでしょうか。
わたしは、漫画家より”漫画編集者たち”にまず、<原作とはなにか>と考えてほしいと願っています。単にアイディアの提供者なのか、骨太の物語を期待しているのか……
 
若き原作者を志す人達から、過去何回も<原作者になりたいのですが>というお便りをいただきました。
今、そういった方たちにいえることは
「もし、あなたの物語をきちんと理解してくれる<編集者と漫画家>に出会えなければ、原作の仕事はおやめなさい。その物語を大切にあたためて小説かシナリオとして書きためておいて。それがすぐに形になるとは限らないけれど、いつかきっと糧になるとおもいます」
…そう忠告すると思います。
<そのひとだけの物語>はそう簡単に生まれるわけではなく、心のどこかに種がまかれ、長い時間をかけて、育っていくものでしょう。
ほかの人には見えない所で。
そのことを<理解>しないひとびとに<作品の魂の切り売り>はしてはいけない、とわたしは言いたいのです。
 
 











 
     冬の小窓
           
           二つのバッジ
 
 
<ふゆ>という言葉の響きが好きです。季節をあらわす言葉はみんなきれいですが、「ふゆ……」、とつぶやくと本当に寒そうで身が引き締まってきます。
冬は寒い……けれど、わたしが四季のなかでいちばん暖かいと感じるのは<晴れた日の冬の陽射し>なのです。
晴れた日の朝、研ぎ澄まされたような青い空。もし、前の日に雪が降り積もっていたなら最高。真っ白と真っ青。積もった雪が昇ってきた太陽に小さなガラスの破片のようにキラキラ光っています。
雪が積もっていなくても、そんな朝、冷え切っていた我が家のデッキからは湯気が立ち上りはじめ、魔法にかかったようです。デッキだけではなく、日当たりのよいところにのびている庭の木々からも<ささやき>のように一時薄くやさしい煙が立ち上り、その一瞬をのがさないように、とわたしは庭をみめます。
 
<黒い>報告書をUPしました。
この機会にこれも長い間気にかかっていた<キャンディの二つのバッジ>についてお話しておきたいと思います。
すっかり忘れていたその事を思い出させてくれたのがまだ出来たばかりだった頃の<CCネット>の書き込みでした。
わたしは、当時はまだ自宅のパソコンで<CCネット>が見られなかったので、友人がプリントしてくれたものでその書き込みを読んだのです。その書き込みには<子供の頃読んだ”なかよし”では確か、キャンディがアルバートさんと暮らしていたとき<バッジ>をみつけるシーンがあったと思うのだけれど、単行本にはない。自分の記憶違いかと気になっている>とありました。
……ああ、そんなこともあった、となつかしく、書込んだひとに教えたくてたまりませんでした。
<よく、そんなことまで覚えていたのね!>
読み込んでくださっていたそのひとに感心して、CCネットにそう書込める環境であったらどんなによかったでしょうね。
けれど、わたしは”その書き込み”のおかげでその事実をはっきりと思い出し、それを裁判の証拠として提出しました。わたしはいがらしさんから原作者として否定され、<報告書>にあったように<原作者としてはなんの発言権もなかった>というような書面を裁判に提出されていたのです。
<二つのバッジ>のことは、<原作者に発言権があった>という証拠になったことでしょう。
 
問題のシーンは、アルバートさんと暮らしていたキャンディがアルバートさんの枕の下から<丘の上の王子さま>からもらったバッジと同じものをみつけるのです。
 
わたしは、その回のネームのチェックができませんでした。
その頃、わたしは海外に行く事が多くなっていて、それ以前にも旅行中にわたしにとっては<大事件>がおきていました。
しかし、<その件>は物語的には大筋からは外れないので、個人的なこだわりとして心のなかで折り合いをつけました。
しかし、その回の<バッジ>は困ります。
「あんな大切なものが二個も三個も出てきたらたまらない!」とわたしは新担当といがらしさんに怒りました。当時、担当は新しい編集者に交代したばかりでした。
___アルバートさんが<丘の上の王子さま>であるという<伏線>がいると思った、
というのが<枕の下から都合よくバッジが出てきたシーン>を無断で書き加えた新担当といがらしさんのお答えでした。わたしが旅行中でいなかったことも、相談できず、無責任だったかもしれません。
しかし、これこそ<物語の大筋に関る大切な事>とわたしは激しくいいつのったと思います。
わたしは、そういった<安易な御都合主義をどうにかして避けて書きたい>と物語を考え続けてきたのです。
 
新担当もいがらしさんも、そのことはすぐに理解してくれ<単行本>でカットし直す事を約束してくれました。
ですから、そのシーンは当時の”なかよし”にしか残っていません。
わたしが<CCネット>の書き込みに感心したのは、ほんとうによく覚えていたのね、といううれしい感嘆でもあったのです。
 
けれど……
現実はきびしく、哀しい。
伊東弁護士とともに国立図書館にいき、当時の”なかよし”からそのシーンをコピーしました。<単行本>ではいがらしさんはさすがプロと思わせるカット処理をしています。
ふたつを見比べてわたしは何度もため息をつきました。
あのシーンをいったい何人の人が覚えていてくれているのでしょう。
 
「あなたの記憶違いではなかったのよ……」
”書込んだひと”にそうお話したいけれど、もしかしたらおぼろげな記憶のままの方がよいのかもしれない、と思ったりしています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 











 
   カーテンが揺れる12月の小窓
 
          漫画原作を書いていた頃   PART?
 
 
漫画の原作とは、なんなのでしょう。
こうやって<原作を書いていた頃>をふりかえり、あらためて考えています。
わたしが、やってきた仕事はどんな意味があったのでしょうか。
25年も経って漫画家から<書いていない>といわれる仕事……。
むろん、そういった卑劣なことを言い出す漫画家などそうはいないでしょう。しかし、わたしが心底、驚愕落胆したのは、そういった漫画家の虚偽を半ば信じてしまう人達が<存在>したということです。
<本当は水木は原作を書いていない。ちょっと関っただけで本に名前を印刷された>__いがらしさんのそんな主張は<漫画家本人>がいうと、かなり信憑性があったでしょう。
それに、原作者の<水木杏子>は著名人でもなく、10年以上もその名前を使っていませんでした。
わたしは四分の一世紀もたって考えてもいなかった事、<原作を書いた証拠>まで裁判に提出しなくてはなりませんでした。
 
しかし、今回の事件をきっかけに<少女漫画の原作者の歴史>についてベテランの編集者達にお聞きすることができました。
その昔、<原作者つき>を嫌う漫画家によっては<原作者名をはじめから出さない>いわゆる<ゴースト原作>も許していたようです。
けれど、<これではいけない>と編集部も考え、少しずつ改善されていったのでしょう。
いがらしさんは、ちょうどその改善の狭間の漫画家だったのかもしれません。
今回の裁判にもいがらしさんは当時の<なかよし>の表紙に自分の名前しか出ていない事を”スター作家”であった証拠とし、原作者は名前も記載されない存在だったのだ、と書面を提出しています。確かに、その時代は<原作者名>は雑誌の表紙には記載されていませんでした。(当然、今はきちんと記載されています。)
だからといって原作者が<漫画家のアシスタント>というわけではなく独立した仕事としての<著作権者>であることには変わりません。当時は”そういった悪しき慣習だったまで”と、水木サイドが裁判所に提出する書面に出版関係者がコメントをくださっています。
 
漫画原作者が世間的にも 認知されたのは<故 梶原一騎氏>の功績によるところが大きいと思います。その後、少年漫画には才気あふれる原作者が何人も登場し、現在に至っていますが<少女漫画>は停滞したままのような気がします。
 
わたしが原作を書かなくなった理由_____そのことには今回はふれません。
キャンディの物語を書いているうちに<止めよう>と決心しました。しかし、その後、すこしだけ続けられたのは 秋田書店で連載のコンビをくんだ漫画家<英 洋子さん>のおかげなのです。
秋田書店とのお付き合いは<PART ?>で書いたように、亡き母の知人から発展したものですが、<プリンセス>の編集長が雑誌<ひとみ>に移られ、わたしも<ひとみ>で原作を書き続けることになりました。
英さんと共に作ったのが<プルミエ・ミュゲ”初咲きすずらん”>という意味のフランス語です。主人公の父親が<天才的 香水つくり(調香師)>。舞台はフランス。<香水>の村だったのでそんなタイトルにしたのですが、ちょっと、わかりにくかったかしら、と思っています。主人公の<シェビィとフォン>はそっくり。二人の名前をくっつけると<シェブルフォイユ>…スイカズラの花の名前になります。ふたりは、はたして双子かそれとも…いつのまにか愛しあうようになった<同じ顔のひと>と呼び合うふたり…といった今でも大好きなお話です。(余談ですが スイカズラの英名は”ハニーサックル”。この香りの石けんなどをみかけると今でも英さんに贈りたくなります。)
英さんとは なつかしいお付き合いがつづいています。わたしの児童書の挿し絵も何回かお願いしています。
彼女は一流の漫画家になられた今でも折りにふれ「”プルミエ”を描いたおかげで、漫画の連載の書き方がわかった気がするのです。」といってくれるのです。
同じセリフをもうひとりの若手の漫画家からも聞きました。
わたしが,あと少し、原作を書かせてもらおうとおもったのは、そういった言葉に励まされたからです。わたしの原作でも、若い漫画家の少しは役に立つのだろうか、と。
英 洋子さんとは、読み切りの<サマーシャワーの香り>も。
 
<タイニー・マーメイド>は<冬木ゆう>さんと。
<ひとみ>最後の作品、<夢見てBOMパッ!>を<みすとかすみ>さんと。
しかし、この<夢見てBOMパッ!>は漫画原作のために書いた作品ではありません。
以前、<ころじかる・むにゅ・ぱっ!>(講談社)からの流用でした。お話は<魔女の塾>に間違って入ってしまった主人公が、しっぽがカギの形をした ゴブリンという悪魔と対決するのです。(このゴブリンが変なやつで、<いじわるゴブリン>という歌を本人の前で105番まで間違えずに歌ったら、悶え苦しんで”敗北する”というわけです。書籍のときは面白がって<いじわるゴブリン>の歌詞を105番まで<付録>としてつけました。)
 
 
その間、<別冊少女フレンド>では <布浦 翼さん>と組みました。
読み切りの <天使の木>……この作品は、布浦さんによると”ゴシックロマン”とのことですが、そういえば、ちょっと不思議な妖しいムードかしら。
布浦 翼さんとの連載は<サンディズ チャイルド>。”日曜日に生まれた子はなんでも夢の叶い恵まれている幸せな子…サンディズチャイルド”。この言葉に出会ってから暖めていたロマンスです。”サンディズ チャイルド”とはおよそ縁のないスラムにそだった二人。少女は<サンディズ チャイルド>にむかって、突き進んでいく…本当は誰を愛しているか知っているのに。
 
そして…<夢見てBOMパッ!>以後、10年たって……
<なかよし時代>の担当が<週間少女フレンド>の編集長になり、久々に原作を頼まれ、彼となら、と引き受けたのです。漫画家が<美村あきの さん>と聞き、彼女の描くアンニュイな感じの青年にアラビア風の服を着せたらステキ・・突然、高層ビルの窓からラクダに乗って現われた その青年に さらわれたたら もっとステキ…と浮かんできた物語が<百年のライラ>です。
それ以後は、原作の仕事はしていません。
 
この事件以後、「原作を書き続けていたらよかったのに」という人と「原作をやめてほんとうによかったね」という人に分かれています。
わたし自身は、どう考えていいのかわからなくなり、この頃に至っては<なんのために原作を書いてきたのか>と嘆く事のほうが多い日々でした。
しかし、この<原作を書いた頃>を書いた後、”あの作品”もそうだったのですか、と驚かれ、どなたかの心に残っていた事がわかりました。(リクエストしてくださったメイフラワーさんに感謝)
 
わたしの原作はこれがすべてではありません。
単行本になっていない書き下ろしも何本かありますが、タイトルなどはっきりしないので
恥ずかしいのですが、ふれることができませんでした。
 
最後に<異色の漫画原作>を。
今をときめくデザイナーの<丸山敬太さん>と。
ファッション誌の依頼で、まだ学生だった丸山さんのすばらしいデザインを生かした物語を創ってほしい、といわれ<構成、こまわり>をして、丸山さんがイラストを描きました。
なにより感動したのは丸山さんのデザインブックを見せて頂いたときです。
ため息がでるほどのたくさんの夢のようなドレス……!!!
(きっと、すばらしいデザイナーになられるだろう)とその時から信じていました。
 
<KEITA MARUYAMA>のコーナーがあるデパートにいくと必ず寄ります。
そして、年月の美しさをしみじみ感じ、なつかしい暖かい気持ちになってその場を去ります。
 
そう……
やっぱりね、漫画原作を書いてきて よかった!!!
 
 











 
  半分開いた12月の小窓
 
          漫画原作を書いていた頃   PART?
 
 
 
思い返すと、わたしが原作を書き続けてこられたのは<原作者>にたいへん理解のある編集者とめぐりあえたからだったと、しみじみ思います。
原作を書かなくなってからも<担当編集者たち>とは交流がつづいていて、仕事とは別に会う機会も絶えずありました。<なかよし>時代新人編集者だったひとたちも<編集長>になりそんな機会に会った時、少女漫画における<漫画の原作>のむずかしさについて話した事を覚えています。彼がいうには<原作>をつけたいと願っても<原作を生かせる漫画家がいない>ということ。しかしそれ以前に「原作者を使えるだけの編集者がいないんだよ。そういった編集者を育ててこなかったことは、間違いだったと思う」と、ため息まじりの口調でした。
<原作>つきの漫画を世に出す場合、担当編集者の<想像力><文学性>が大切な要素でもあります。担当編集者は原作者の書きたい世界を理解し、また、それを作画する漫画家の思いも理解し、と間に立ってオリジナル漫画を作成する何倍かの労力を使わなくてはならないのです。
編集者としても、原作者を使わない方が<楽>に決まっています。しかし、それではいずれは<物語>が行き詰まってしまう、と漫画を愛する優秀な編集者は考えていたようですが、現在もあまり変化したとは思えません。
 
わたしは、そんな<理解ある編集長、編集者>について<別冊少女フレンド><週間少女フレンド><なかよし>と原作を書く拠点を変えていきました。
 
今回は<なかよし>時代のことを思い出してみます。
 
<なかよし>連載作品では、今年復刊された<白い夜のナイチンゲール><ロリアンの青い空>(共に作画 志摩ようこさん)はわたしの好きなように書かせていただいた物語です。
今読み返すと、大人びた内容でよく書かせてくださったと当時の編集部の意欲が感じられます。当時、この作品たちはそんなに評判にならなかったと思うのに、25年もたって<復刊>されるとはたいへんうれしい驚きでした。<ロリアンの青い空>の時の筆名は<加津綾子>。けれど、今回、復刊の際<名木田>に戻しました。(編集部はいつの日か<原作作品集>を編む時のため、名前は統一しておいてほしい、ということでした。そんな日がいつか来るといいな……)
復刊といえば、<エトルリアの剣>もうれしいニュースでした。
この作品は<別冊少女フレンド>で文月今日子さんとコンビを組む企画が持ち上がり、彼女の作品のファンだったわたしは大喜びで<壮大なロマンがいいな>と想像していました。
ちょうどその時、知人から<エトルリアの水牛櫛>という華麗な櫛をプレゼントされたのです。
むろん<エトルリアの水牛櫛>とは名前だけのものですが、その櫛から広がっていった世界……<水牛櫛>が<水牛の剣>に変化し、あの物語の土台が生まれました。
<原案>となっているのは当時わたしには長編を書く時間的余裕がなく、また、なにより<原案原稿>だけで想像力たくみな文月さんには充分だったのです。
復刊されることになり、文月さんとも何十年ぶりかでお話しました。
文月さんは故郷でのんびりと、しかし、マイペースで描き続けておられます。昔の感じの作品がまた読みたいな、と話しました。<ひみつの花園>やなつかしい<地中海のルカ>など作品をたくさんプレゼントして下さったお礼に<エトルリアの水牛櫛>を贈りたかったのだけれど……まだみつからないので<待っててね>とお預けにしてあります。
 
読み切りで印象に残っているのは (まつざき あけみさん)と組んだ<星への階段>(この時わたしの原作者名は<香田あかね>)です。
まつざきさんの華麗でいながらどこか哀愁のにじむ少年が好きで、浮かんできた薄幸の少年……まつざきさんも気に入って下さっているようで他の出版社から出た彼女の作品集にも収録されています。
もうひとつは<星への階段>とは全く違うイメージの<ゆうれいにプロポーズ>(まつざき あけみさんのおチャメな面が出ている漫画です)というロマンチックコメディ。逆立ちして鏡をみたらそこに<ハンサムなゆうれいが>という変なロマンスの話でした。これはなんだか人気があって続編を書いた記憶がありますが…
この設定は自分でも気に入っていたのか、<逆立ち>はその後、<きらら星の大予言>(作画 あさぎり夕さん)で生かし、ハンサムなユーレイは児童書の<ふーことユーレイシリーズ>に引き継がれっていったと思います。(まだまだ、ハンサムなユーレイを主人公に書きたいお話があるのよ)
 
そうそう<サニーあなたの番よ!>(作画 佐藤まりこさん)もありました。
 
ポピーちゃんシリーズは、いまでこそ大企業になった<バンダイ>の元の会社名が<ポピー>だったのです。
<ポピー(バンダイ)>とのタイアップでお人形のための宣伝作品というのが原作依頼でした。そのつもりで楽しみながら書いていたら、人気が出て「ほんとうはポピーちゃんがアンケートで上位に来ると困るんだよなあ」と編集に苦笑いされました。
上位は巻頭や巻末がしめて当然だったのです。
最初のポピーちゃんはたぶん(?)<歌え!ポピーちゃん>というタイトルで<原ちえこさん>が作画だったと思いますが、当然、本にまとまっていると思っていたのに、わたしの書庫にありません。ポピーちゃん人気は原さんの力量によるところが大きく、その後原さんは独自の世界を描き続け、現在も活躍していらして、なつかしくうれしい思いです。
ポピーちゃんは<峡塚のんさん 作画>によって<アイLOVEポピーちゃん>に引き継がれました。(この時のわたしの原作者名は<加津綾子>を使っています。)
 
<なかよし>で原作を書いたのは<キャンディ>のあとの<ティム>。
そのころは、もう原作者として永い休暇に入る気持ちでいました。
<なかよし>最後の作品は<きらら星の大予言>でした。
………
PART?で映画<ペーパームーン>をもとにして、といわれて原作を書いた作品が判明しました。
 
<ミリーは気ままな天使>(志摩ようこさん 作画)でした。
 
次回は12月15日〆切(?)とし、秋田書店<ひとみ>で書いていた原作などについて書きますね。
 
 











   11月の小窓    
 
    漫画原作を書いていた頃   PART ?
 
わたしにとって物語を紡ぎ出すことは<呼吸すること>と同じなのです。
それは<仕事>というより生活の一部なのかもしれません。
わたしは不器用な手つきでも楽しみながら、ささ舟のように<物語>をつくり、時代という川に流します。わたしの作ったささ舟はスイスイと流れていくこともありますが、不出来なため途中で沈んでしまうこともあります。また、不出来であっても川の流れに助けられて進むこともあったでしょう。わたしの役目はその物語のささ舟を送り出すこと…そう思ってきました。しかし、”ささ舟の行方”についてもわたしは心を配らなくてはならなかったのだと今、思っています。
メイフラワーさんのリクエストのおかげで、原作について考えるよい機会を与えられました。
これから、わたしが関ってきた漫画原作について書いていこうと思います。
 
長い間、わたしは自分が漫画の原作者という意識すらなく<物語>を紡ぎ、漫画家にゆだねてきました。どこの国の話でも、またファンタジィでも<なんでもあり>が可能な漫画の原作という仕事をとても楽しんでいたのです。
本来、わたしの夢は<赤毛のアン>のような<少女小説>を書くことでした。高校二年のときあこがれのジュニア小説コンクールに入選して、卒業後、デビュー作を書きましたがその後、わたしが目指していた路線とジュニア小説は隔たっていきました。
その間、当時の別冊少女フレンドに読み切りの少女小説を依頼されたことがご縁になり編集長に薦められ、漫画の原作を書き始めたのです。
20歳のころでした。それから10年余りの間に、読み切り、連載、と書き続け、自分でも何を書いてきたかはっきり覚えていないほどです。読み切りは単行本に収められた作品もありますが、そのまま流されていった<ささ舟>もたくさんありました。
 
わたしが最初に書いた記念すべき原作……が恥ずかしいことにはっきりしないのです。
わたしのなかでは<世界のティーンシリーズ>が原作としての記憶のはじまりだったように思えます。
<世界のティーンシリーズ>はすばらしい企画でした。
*イタリア編<サンレモにカンパイ!>は<大和和紀さん>
* アメリカ編が<おおっ プロム!>で<神奈幸子さん>
* フィンランド編が<杉本啓子さん>との<白い夜のルチア>でした。
フランス編のタイトルがどうしても思い出せず、しばらくぶりにフランス編を描かれた青池保子さんと電話でお話しました。青池さんはしっとりしたお声でゆっくりと話されます。少しも変わっていないお声、その姿勢がうれしかったです。
フランス編はタイトルこそ失念した情けない原作者のわたしでしすが、主人公の名前は<ジュヌビエーヴ>にしたい(”シェルブールの雨傘”という映画のヒロインの名前)と決めていたので、「<ジュヌビエーヴの夏>じゃなかった?」と尋ねると、さすが、青池さん!
静かなお声で「たぶん<さらば 夏の光>だったと思うけれど…」
「それだ!」一瞬にして扉の絵まで思い出したわたしでした。なつかしい…・
 
*フランス編、青池保子さんによる<さらば 夏の光>……

青池保子さんとはそれからもご縁があって、わたしの初めての週刊少女フレンド誌の連載<グリーンヒル物語>でもコンビを組むことになりました。
<グリーンヒル物語>はソーントン・ワイルダーの戯曲<わが町>が原作で、その戯曲を編集部から渡されて「これをもとにふくらませてほしい」というのが依頼でした。
ですから完全なオリジナルではありません。<原作>という表記もその当時から(これでいいのかしら)という思いがありましたが、編集サイドが<オリジナルな部分が多い>と判断してくださったようで<原作>となっています。しかし、わたし自身すっきりしないところがあったので、作品のラスト、未来への希望として生まれてくる子供の名前を<ソーントン>にしてワイルダー氏に敬意を表したつもりです。しかし、今にして思えばこれはもっとデリケートに考えるべきでした。その後、似たケースで<映画 ペーパームーンをもとにして>という依頼で読み切り原作を書きましたがこの<もとにして>というのが、くせもので設定など、どうしても似てきてしまいます。わたし自身もその二作は、ずっと心にかかっていました。今のわたしなら<きちんと”〜より”と表記してほしい>と依頼すると思いますが、当時はわたしも編集サイドも軽く考えていたのでしょう。
作者たちにはたいへん不愉快なことをしてしまったと申し訳ない思いです。(ソーントン氏は死後何十年かたっていて著作権は切れていたと聞いていましたが)
もし復刊されることがあったならば、原作の表記をきちんと入れたいと思っています。
 
30年前、青池さんはそのころからスケールの大きい漫画家という印象でした。
<グリーン・ヒル物語>以後、秋田書店から少女漫画雑誌を出すので原作を書いてほしいという依頼がありました。なんと、母の友人のお孫さんが秋田書店にお勤めだったのです。そういったご縁でだれと組みたいかと尋ねられ、即座に青池さんのお名前を挙げました。
当時、青池さんはフリーになられて故郷に戻っていらっしゃいましたが<なんとか くどき落したくて>ご実家までお電話したことを覚えています。そうして生まれたのが月刊プリンセスに連載した<ミリアム・ブルーの湖>という作品です。
父親が発明した潜水艦の家で暮らすへんな一家の少年とその湖を愛す少女とのロマンス物語……
これは青池さんにとって<少女漫画路線 最後を飾る作品>とわたしは勝手に位置づけています。(この前のお電話の時、ご本人もそう認めていらしてうれしくなりました。)
その連載後、青池さんは<イヴの息子たち>から精力的に本来のご自分の世界を広げられたように思います。かくれ青池ファンとしてはご活躍を目にすることがなによりなつかしく、うれしいことです。
 
大和和紀さんとのお仕事で印象に残っているのは100ページ企画の<ル・グラン・アンヌ号はいく>という作品です。大和さんと今は亡きやさしい笑顔の編集者、加藤武夫さんと横浜に豪華客船の取材に行きました。わたしは<豪華客船の中でのみ>くりひろげられるお話を書きたかったのです。大和さんは当時から本当に理知的で冷静、繊細な漫画家でした。「感性が似てるから組むと物語にのめりこんで 作品として成功するかどうかわからないね」という話を大和さんとした記憶があります。なるほど原作者と漫画家は”全く別の感性”のほうがおもしろいかも、と新鮮な思いでした。
他にも、ドイツの東西の壁を舞台にした<ブランデンブルグの朝>という作品が記憶にあり大和さんとコンビだったような気がしているのですが(このタイトルは大和さん担当の加藤武夫さんがつけてくださって<わたしがつけたのよりステキ>と感心した覚えがあるのです。)はっきりしません…。
(ほんとうに、こんな調子なので自分でもあきれます。 ごめんなさい)
 
つい、この間も「<初恋めがね>という作品の原作をお書きになりませんでしたか?」と尋ねられるまで、すっかり忘れていました。小学館、わたしがデビューした<女学生の友> という雑誌が新しく生まれかわり<JOTOMO>になって何本か原作を書いたのです。
<初恋めがね>は<飛鳥幸子さん>だったとおもいます。
 
今回は初期の原作で雑誌<なかよし>以外に書いた原作を中心に思い出してみました。
以下は上記で触れなかった作品のリストです。
 
* ビビアンヌの王子さま      漫画(敬称略)  沢 美智子
* ローズピンクは初恋の色              沢 美智子
* 魔法使いの花束                  神奈幸子
* 足音が聞こえる朝に               神奈幸子
………
薔薇の樹 (集英社)                 菊川近子
 
次回は、なかよし時代の作品を中心に思い出してみます。
どれか、覚えてくださっていた作品、ありますか?      
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
   10月の小窓
 
           夕焼けのはなしをしよう
 
 悲しいはなしを
 するのはやめよう
 それよりは
 海のはなしををしよう
 佐渡の関崎から ながめた
 海の色が
 どんなに青かったか  を
 
すすきの原を走った
浜辺で貝がらを 拾った
美しい いちにちが
私の中に たくさん生きている
 
つらかったことを
思い出すのは  やめよう
やさしかったひとのことだけ
くり返し  思おう
やさしいひとは
かぎりなくいた__
そう
悲しいはなしを
ひとにするのは やめよう
それよりは
夕焼けのはなしをしよう
語りたくて 語れなかった
ことばを  つつみこんで
静かに朱く もえていた
夕焼けのはなしを___
                  詩集<思い出は歌わない(サンリオ出版)>より
 
 
ふと、昔書いたこの詩を思い出しています。
<思い出は歌わない>には若い頃書いた未熟な詩がたくさんおさめられていますが、その後、いろいろな方からこの詩集のことをあたたかい言葉でいわれ、そのたびなんだか恥ずかしく面映ゆい気分になっています。
おさめられた詩にはそれぞれ思い出がありますが、この詩にはとくにつらい思い出があり<悲しいはなしをするのはやめよう>と書きつつ…これから書くのはとてもせつない思い出です。
 
当時中学2年生だった愛子さんがこの詩をみつけて<合唱曲に作曲したい>と手紙をくれたのは詩集が生まれてだいぶたったころでした。もちろんすぐに承諾して<わたしも曲ができるのを楽しみにしている>と返事をしました。
そしてしばらく後、愛子さんから作曲した合唱曲<夕焼けのはなしをしよう>がコンクールで表彰された>といううれしい便りが届きました。そして、そのテープぜひ、わたしに会って渡したいと書いてあったのです。わたしもうれしくなって手紙にあった電話番号にかけました。電話の愛子さんの声は少女らしくフルートのように澄んでいました。
当時、わたしはキャンディの連載やほかにもいろいろ抱えてすぐには時間がとれないので
少し待っていただくことになりました。
その<少しが>……<かなり>になり、今でもわたしの後悔するところとなるのです。
 
ある朝、電話が入り、お母様から愛子さんが通学の途中で交通事故にあって亡くなったと聞かされました。
わたしは受話器をもったまま、その場にへたりこんでしまいました。
わたしに会ってテープを渡すことを楽しみにしてくれていたのに……。わたしが日々に追われ、つい日延べをしてしまったために愛子さんの願いを叶えることができなかった…・
いくら悔んでも悔みきれない思いでしばらく呆然としていました。
数日後、わたしは愛子さんのご自宅を尋ねました。
葬儀はいく日も前に終わっていたので、愛子さんの写真がたくさんの花に囲まれて飾られていました。
はじめて会った写真の愛子さんは……想像どおり愛らしく少女らしく利発で夢がちに微笑んでいました。いつでも会える、と思っていました。愛子さんは若く時間はまだたっぷりあったはずなのです。
お母様と弟さんと三人で愛子さんが作曲した<夕焼けのはなしをしよう>のテープを聞きました。わたしにプレゼントして下さる予定だったテープ…やさしいやさしいその曲を。
(ごめんね…ごめんね…)
心の中で何回も愛子さんにあやまりながら…・。
 
そのテープは今でもわたしの宝ものです。
けれど、うちでゆっくり聞けるまでには何年もかかりました。
愛子さんは聞いて欲しくて作曲したのだから、もっとみんなに聞いてもらいたい…そう思いながら、つらくていつも聞くのはひとりです。
 
愛子さんが亡くなって20年が過ぎました。
元気でいてくれたなら……キャンディ世代です。
今、わたしの力になってくださっている読者の方達の向こうに愛子さんがいつも透けてみえます。
 
悲しいはなしはやめよう…だったわね 
愛子さん…
わたしは、あれからたくさんの美しい夕焼けをみました。

























腹巻き牛・・・・プリンス・エドワード島であった<腹巻き牛>。たいへ んめずらしい!

むかって左が<ハート牛パート2>と<トランペット牛>

牛たちにむりやり歌をきかせているわたし。逃げ出した牛もいる。

 
  九月の小窓
             牛の話    
 
丘のふもとにすわって眺めているのは淡い緑にふちどられた牧場の地平線ではありません。
視野の外、右のはしっこからその牧場の地平線に現われる牛を待っているのです。
今、牛がゆっくりと丘の右端の森から現われました。わたしたちの目を意識してたった一頭、思わせぶりに丘を進んできます。わたしたちが拍手すると牛は丘の真ん中でわたしたちを見てポーズ(?)をとり、またゆっくり丘を横切って左手の森に消えていきました。
これで五頭目。眺めていると牛が<丘の地平線>という劇場の<舞台>に上手のこんもりした森の木々の<カーテン>から現われるようで、つい牛に拍手をおくってしまうのです。また、牛も期待に応えるように丘の舞台中央で立ち止まってこっちを見るしぐさが、ある牛は詩を朗読しているよう、またある牛は演歌を一節…それぞれのようすがおかしくて見飽きません。
七頭、丘の舞台に現われるのをみて、その日のショーは終わったようでした。
 
牛が好きです。
牛を見ると、声をかけたり、歌って呼びかけたりします。牛は歌が好きなはず・・と勝手に思い込んでいますが、私の歌では全員注目とはいきません。いちばん牛の注目を集めるのがうまいのが夫で口に指をいれ「ポコッ! ポコッ!」と奇妙な音をだすと確実に全員の牛が夫をみつめるのでおかしくなります。夫はその技術(?)をインドで学んだと自慢します。わたしも娘も修行(?)していますが、本場仕込みの夫にはかないません。なにしろ夫は車で通りすぎながらも牧場の牛全員の注目を浴びる事ができるのです。
牛のかわいい顔も、のんびりしたしぐさも、好奇心が強いところもみんな好きです。そして、わたしたちにミルクを…その<身体>を気前よくくださるひろい気持ちも…頭がさがるおもいです。インドでは<牛は神さま>といわれているのですね。
でも、いちばんわたしの興味をひくのが牛の模様なのです。白と黒のあの、すばらしい模様…。同じ模様の牛はいません。人間もひとりひとり顔がちがうように。
冒頭の写真はプリンス・エドワード島でみかけた<腹巻き牛>ですが、まだまだお腹に恐竜の模様がある<おなかに恐竜を抱く牛>、額にハートが浮き出た<ハート牛><イニシャル牛><墨汁一滴牛><バットマン牛>…ときりがありません。
牧場にはうす茶色の牛もいますが、特色がなくて気の毒です。そのうす茶色の牛について娘が幼い頃、「あの牛さんからはコーヒー牛乳がでるのよ」と冗談でいったのに信じてしまったようで、後年娘に責められました。しかし、うす茶色の牛からは本当にコーヒー牛乳が取れそうです。
 
プリンス・エドワード島ではどこに行っても牛に出会います。
何年も前、ピカリングさんの家を訪ねた事があります。ピカリングさんは牧場を持っていて、百年前のストーンハウス(石の家)に住んでいました。その家の前の五本のりんごの木は日本のCMに使われた事もあります。
夏の夕暮れ…といっても八時をすぎたころ。外は藍色のうす闇で立っているとわたしの指先も藍色に染まりそうでした。
窓の外ではたくさんの牛がまだ草を食べていました。
後継者のいないピカリング夫妻はその牧場も百年前の石の家も売って、老人ホームに入る決心をしたといいます。「牛をこのまま引き継いでくれるひと」を探していると寂しそうな眼差しで話してくれました。
ピカリング夫妻が牛を愛し、大切に思っていることはその部屋をみればわかりました。
いたるところに牛……クッションも壁掛けも置物もみんな牛…。
ピカリング夫人はただ首を横にふるばかりで、わたしたちに「クッキーがないから」とパンを出し、バターを塗ってくれました。わたしはそのバター付きのパンをゆっくりと味わっていただきました。目の前のキャビネットには大きな牛の絵皿が飾ってありました。
(ピカリングさんの牛がいい人に引き継がれますように)
 
その丘を<ピカリングさんの丘>と名づけました。
今、牛と石の家を買ったひとはその両方を大切にしているようです。数年後、その場所を通りかかると、以前のように草をはむ牛が見え、屋根はあたらしくなりましたが昔のままの石の家が丘の上に建っていました。りんごの木も大きくなって……。
<主>がかわっても変わらない風景。大切に守っていかなくてはいけないもの……
ほんの束の間、ピカリングさん夫妻に接したわたしたち。それでもあの場所が<変わっていない>ことにこんなに心休まるのはどんなに年月が経ってもひとが追い求めているものは変わらないからなのでしょうか。
 
<牛の模様評論家>という肩書きがあったら、ぜひ名乗り出たいと思っています。
そしてずっとあたためている<牛の模様に隠された秘密>の物語を書きたい…。
それはともかく……牛たちはお互いに自分達の模様をどう感じているのでしょうか。
<腹巻き牛>は冬の日、仲間にうらやましがられにちがいありません。

























 
   八月の小窓
 
         ティム・ティム・サーカスの思い出
 
ティムにはずっと申し訳ない気持ちがしていました。
キャンディのあとの作品で<ゴールデン・コンビ再び>というような触れ込みで連載が始まりましたが、原作者のわたしがすでに(原作者をやめよう)と決心していたこともあって<キャンディ>のような熱の入れ方は正直、出来なかったからです。
書いている間は夢中になっていましたが、原作という仕事に夢をもっていたころと同じ気分にはどうしてもなれませんでした。
しかし、わたしの大切な物語には変わりありません。
特に、「今度の作品はサーカスを舞台にしたい」と申し入れをしたのはわたしなのです。
昔も今も、サーカスにあこがれています。
わたしが子供の頃はまだ<夕暮れまで遊んでいたらさらわれてサーカスに売られてしまうよ>といったサーカスの人に申し訳ないような言葉が世間にも残っていました。
(サーカスとはどんなところかしら・・?)
幼い頃、読んだ漫画も忘れられません。サーカスを舞台にした身寄りのない女の子とサーカスのおじさんのお話……作者の名前は忘れてしまいましたが、厳しく芸を教え込むおじさんと女の子が銭湯にいき、帰り道おじさんにおぶわれてお月様を見る…そんな何気ないけれど哀愁のあるシーンが記憶に残っています。
子供の頃、母親に連れていってもらったサーカスで、出会った象の潤んだ瞳。動物園にいる象やさるたちとはまるで違ったサーカスの動物たちの人間に近い哀しげなそして暖かい表情……。
キャンディのあとの連載はそんな世界を描いてみたかったのです。
動物も人間もみんないっしょ。ピエロに玉乗り、空中ブランコ、マジシャン…
テントを立てたところが彼らの世界。みんなに夢を贈り、ある日突然、テントを畳んで消えるように次の町へ……
サーカスの資料は当時少なく、<サーカスの歴史>や<映画>をみましたが、ティムの世界を描くにはもっともっと調べ、原作として醗酵してから書くべきだったと、後年、ティムにすまなく思っていました。
 
1996年、いがらしさんから<ティムを香港の玉皇朝出版が出してくれる>と聞いた時は素直にうれしかった……売れ行きが芳しくなく絶版になっていたことをずっと残念に思っていたのです。(当時、キャンディの版権は講談社が管理していました。<玉皇朝>はその版権が近々切れるのを知っていて、その権利を得たがっていました。ティムはその先行出版だったと今、良く分かります。)
しかし、わたしの<ティム>に対する甘いなつかしさはいがらしさんの次の言葉で半減してしまいました。
「ティムを本にするから、らとちゃん(わたしのこと)委任状くれる?」
わたしはムッとしました。わたしたちは<創作者>です。不動産屋ではありません。<委任状>など必要のない世界で仕事をしていると認識していました。
わたしが「なんで委任状を…」と渋ると、いがらしさんは今も記憶に残る激しく責める口調で「な〜んで!? くれないの!? 満ちゃん(井沢 満氏)もあずさも(中島梓氏)も気持ち良くくれたのに!」といいました。いつもとはちがった声音に反射的に「わかった……」と深く考えもせずに承諾していました。井沢氏も中島氏も<委任状>を渡したのならば仕方がない、と思ったのです。(それは現在、いがらしさんの嘘だったことがわかりました。中島梓氏は知りませんが井沢氏に関しては委任状は渡していないそうです。)けれど、わたしは<創作するものが委任状を必要とするなんておかしい>と感じていたので、いがらしさんに「これっきりにしてね」といいました。
いがらしさんは不服そうでしたが、一応わたしがその時は承諾したのでその話はそれきりになりました。それからすぐにいがらしさんから<委任状>が送られて来て、わたしは捺印して送り返しました。
 
<委任状>の内容は<原作者として出版を委任する>といった簡単な文面です。
勿論、書籍から<原作者名を削除>していいとは書いてありません。
その後<玉皇朝出版>からも、村中志津枝氏(鈴賀れにさん)からも書籍はもちろん送って来ず、なにもいってこないので<ティム>のことは念頭からはなれていました。
 
1997年5月、プリクラ事件が発覚後、すぐに<玉皇朝無断出版契約事件>も発覚、そのとき村中氏と接触、<ティムの本が出ていること>をはっきりと確認したのです。
村中氏は悪びれもせず「えっ? いがらしさんから貰っていませんでした?」といいました。もらっていないのですぐに送るように強くいいました。村中氏はそのとき「はい」ととても素直に承諾してくれたのですがなかなか送ってきません。
そのときはティムより無断でキャンディの書籍を契約した<玉皇朝とキャンディ・コーポレイション>の問題の方が大きく、どうしてもティムのことは後回しになっていました。
けれど、心にかかるものがあったのでわたしは何回も村中氏に<ティムがまだ届かない>とFAXを送っていました。そのたびに<もう売れていないので編集部にもない>と言った返事が返ってきます。ティムの出版はたった10ヶ月前。その本が編集部にないということ自体、不思議ですがそのときは村中さんがいうことを疑問に思いつつも信じていました。
しかし、あまり待たされるのでとうとう痺れをきらし香港に電話し、「いがらしさんが持っているでしょう。一部でいいからはやくみせて」と強く要請したのです。
村中さんの返事は「それが…いがらしさんのところにも一冊もないんです。」
だんだん不信感が芽生えていたわたしはこの間のやりとりはよく覚えています。
「本屋ならあるでしょう。買って来て送って」と重ねていうわたしに「本屋にもないんです。とにかく探しますから…」と村中さんは言い続けるだけでした。
 
キャンディについては、もう刷り上がっているということで、村中さんの困惑しきった様子、涙をみてキャンディコーポとの契約を解除して新たに個別に契約するならと許諾しました。
村中さんは6月24日の契約の日に香港からティムを持って来てくれるといっていましたが「やはりみつからない」ということで手ぶらで、上司のアラン・ウォン氏と共に来日しました。
わたしが<玉皇朝>も今回の<ティム偽造本>に関っていると思うのはその<アラン氏>も「ティム」の話題を出しているとき、村中氏の横で黙って聞いていたからです。
いくら日本語がわからない(少しは分かるらしい)といっても<ティム>という言葉は理解できるのではと思います。別かれる時もわたしは執拗に「ティムを送ってね」とアラン氏と村中氏を交互に見て言っています。
 
ティムの本がやっと倉庫でみつかった、と村中さんから連絡があったのはキャンディの契約をすませた後、7月に入ってからでした。
「ようやく見つかりました。でも…お詫びしなくてはならないことがあるのです」
村中さんは殊勝な口調で「下巻の奥付けに水木さんの名前が手違いで消えてしまっているのです」とのことでした。わたしは不快に思いましたが、もう出来てしまったものはしかたない、と返事しました。
 
以上がティムに関するメモからのレポートです。
村中さんの返事のひとつひとつが、なんとなく心に引っかかっていたのだと思います。
今、きちんと思い返せば<おかしなこと>だらけだったのに……。
まさか偽造本を作って、送ってくるなんて想像だにしませんでした。
 
今回、お知らせをうけても、半信半疑でした。
いったいなんのために、そんなことを……
偽造本を送られてから4年目。7月28日、この目で確認しました。
印刷に詳しい人も同席していましたが、素人目にも<二冊の本>を比較するとおかしいと感じました。
水木杏子の名前入りの本は、<印刷も紙質>も違います。
下巻は本の表紙の色も違い、大きさも微妙に大きくカバーなどは完璧にずれていました。
そんなことより、同じ1996年8月出版で<玉皇朝出版>の<出版コード>まで同じの初版本が二冊(いがらしさんの名前のみと水木の名前入り)が存在することだけで不正は充分証明されると思います。
あわてて作成したチェックミスで下巻の奥付けから水木の名前が消えたのでしょう。
裁判にならなければ、またこんなに裁判が長引かなければ、この事件も闇に葬られていたと思います。
見つけてくださってほんとうにありがとうございました。
時間をかけても、村中さん(鈴賀れにさん)<玉皇朝出版>を追求していくつもりです。
 
サーカス……
後年、サーカスの司会として共に旅していたひとと知り合いました。
その人から、わたしの想像していた通りの美しい、そして哀愁のある言葉を聞く事ができました。
「テントはあっという間に取り払われるんだよ。最後の公演でみんなと別れたあと、早朝テントのあった場所にいってみたんだ……なんにもなかった……昨日まではあんなにたくさんのひとたち…喧騒に音楽…・それがなんにもない…ただ、朝もやが流れていただけだった……いままで夢を見ていたのかと思った……」
 
 

























まだ羽もそろわず、くちばしも小さいぴよちゃん。

たくましく成長し,夫くんがつくった巣箱でくつろぐぴよちゃん。
いつの日かこの巣箱に帰って来てね、と願っていたのだが・・・

 七月の小窓
 
  やさしい時間
 
上の二枚の写真はヒヨドリの<ぴよちゃん>です。
去年の6月半ばの早朝。窓の外で訴えかけるような甲高いヒヨドリの声に混じってか細いピイピイという声がするので、庭に出てみると草の中で仰向けに倒れ、ないているヒナをみつけました。
ヒナは全身に小さな蟻がつき、震えています。親鳥が周囲を飛び回り高い声でないて、助けを求めていました。
思わず、「ぴよちゃん!だいじょうぶ?」と声をかけていました。(同じハンドルネームのぴよさん、ごめんなさいね)
巣をさがしたのですが、どこにもなく近くでカラスが狙っているように飛んでいたのでぴよちゃんを連れて家にはいりました。
夫が洋服ブラシで丁寧にぐったりしたぴよちゃんについた蟻をとりました。
九官鳥のケルルちゃんのセカンドハウス(?)に入れ、デッキに置き入り口を開けていると、すぐに親鳥がエサを運んできました。ぴよちゃんがやっとエサを口にすると、親鳥は安心したようにまた飛び立ち、エサを探して戻ってきます。何度も、何度も……。
わたしは窓越しに、すっかり感動してその光景を見守っていました。
日没まで親鳥のエサ運びはつづき、(また、明日きます。あと、どうかよろしく)というように親鳥は大きくないて夕空の向こうに飛び立っていきました。
わたしは籠を部屋にいれ、まだまだお腹がすいているようなぴよちゃんにケルルちゃんの
すりえを小さなおだんごにして口に押し込みました。うまく飲み込んでくれたので、ああ、この子は生きていける……ほっとしました。
見つけた時はトロンとしていたちいさなキャビアのような瞳が生き生きしてきました。
 
それから毎日、日中は親鳥がデッキに置いた籠のぴよちゃんにエサ運んで来て、夜はわたしたち家族の担当、というように役割が決まりぴよちゃんは羽も少しずつ伸びてきて、元気に育っていきました。
そして、その無事を確かめたかのようにある日から突然、親鳥が来なくなったのです。
ぴよちゃんはその日から、家のなかで放し飼いのまま育っていきました。
まだちゃんと飛べないので、夫がぴよちゃんを手に乗せて何度も上下におろし、飛ぶ訓練をしました。上下におろす速度がはやいと<はばたき>の練習になるからです。
ぴよちゃんは自由に家の中をとびまわり、娘の肩に乗ったまま居眠りをしたり、呼ぶと「ぴぃ〜!」と返事をして飛んでくるようになりました。
窓を開け放しているので毎朝、夫や娘が出かける時「帰ったらもういないかもしれないから覚悟してね」と念を押すのが習慣になりました。
そう、毎日ぴよちゃんは外に散歩にでかけ、もう帰らないのでは・・と胸痛むことの連続だったのです。まだ飛ぶ事に自信がないので、ぴよちゃんはたいてい近所の木にとまって途方にくれたように鳴いています。わたしが屋根にのぼって呼ぶとほっとしたように「ぴい〜!」とないて飛んで来て肩に止まって喉を鳴らすのでした。
お昼寝をしていて、はっと目が覚めたとき、胸にのってじっとわたしを覗き込んでいるぴよちゃんの瞳……そのやさしい純粋は瞳にどんなに癒されたかわかりません。
 
そのうちぴよちゃんは、だれに教わるでもなく<グライダー飛び>ができるようになりました。
100%のオレンジジュースが大好きで隠れて飲んでいても気がついて「ぴぃ〜!」とないて飛んできます。
エサも散歩の時に自分でみつけてくるようになりました。
ある日、蝉を追いかけ、つかまえて戻って来て食べているのを見て(もうひとりで生きていけるね)とほっとすると同時になんともいえない寂しさが胸に漂いました。
自然の生き物は飼う事はできない…・
初めからわかっていましたが、ここまでなついてくれ家族の一員になったぴよちゃんと別れる日がほんとうに近づいている……
しかし、ぴよちゃんは鳥の世界で生きていけるだろうか。人間のにおいを感じ取られ<いじめ>にあわないだろうか……心配はつきませんでした。
ぴよちゃんは加速度をつけたくましくなり、オーガンジィをかけた(フンよけに)スタンドに枝を運んでくるようにもなりました。
 
そして8月のある日…・
いつもより長い散歩を案じていたらぴよちゃんは友達をつれて帰ってきたのです。
友達は離れた木に止まり鳴いていましたが、ぴよちゃんは私が立っている軒下まで飛んできました。引き止めてはいけないとおもいつつ「ぴよちゃん、おいで! おいで!」とわたしは自分の肩をたたきました。いつもそうやると肩に飛んで止まるのです。
けれどぴよちゃんは軒下に止まり、鳴き続けるだけでした。
そして、お別れをいうように甲高く鳴き……
友達と飛び立っていきました。
暑い、真っ青な空の日でした。
わたしは空を見上げたまま(きっともう、帰らない…これでお別れ…)ぼんやりと長い間、佇んでいました。
 
その後3回ほど、ヒヨドリが軒先で鳴くことがありました。
「ぴよ!」と叫んでも、家には入ってきません。
そのヒヨドリがぴよちゃんかどうかはわかりません。でも、家族がそろっていたときにきて鳴いてくれたヒヨドリはぴよちゃんの声にそっくりでした。
 
あれから一年…・
夫がぴよちゃんが巣立ったあとも里帰りができるように作ってそう言い含めて(?)おいた巣箱にも戻ってきません。
けれど、たくさんのヒヨドリが毎日飛んできます。
この春くらいヒヨドリが集まった年はありませんでした。
いまでも、ヒヨドリを見かけるたびに、つい「ぴよ…」と呼んでしまいます。
なんというステキな時間をぴよちゃんはプレゼントしてくれたことでしょう。
あんなに小さな体で、感情をいっぱいに表して…
ぴよちゃんがいなくなってから、ふしぎなことに時たま放すケルルちゃんも飛び方がうまくなりました。
大空のどこかでわたしたちの家族が飛んでいると思うと、空を見上げてもなんだかうれしい気分になってきます。

























<プリンスエドワード島 秘密のポケットに咲くメイフラワー
 
 
 六月の小窓
 ユカそうじ姫たち
 
 
キャンディの物語を連載していた頃なので、もうはるか20数年前の事です。
「なかよし」の読者サービスで<キャンディの作者たちとハワイ旅行に行こう!>という企画がありました。どのくらい応募者がいたのかわかりませんが、その中で4人ほどの小学生が選ばれ一緒にハワイに行く事になりました。
メンバーは添乗員と「なかよし」からは担当のムッシュ・ベルナール、編集のチャーリー・Mと後にそのチャーリーと結ばれることになるソーイング・ミリィ嬢そしていがらしさんとわたしでした。
 
小学生たちは、みんな元気がよく利発でいつもクスクス笑っていました。
わたしたちの前では緊張するのか、話しかけてくることもあまりなく、固まって楽しそうにしていました。それでも日が経つに連れ、彼女たちと話すこともふえ仲間同士で愛称をつけて呼び合っていることを知りました。
<ユカそうじ姫>はそのなかのひとり、ユカちゃん、という子につけられた愛称でした。
本人はお気に召さなかったようでしたが、
「シンデレラのような名前ね」とわたしが笑うと、ショートヘアーのユカちゃんはおっとりとした笑みを浮かべました。
 
ユカそうじ姫はなんとなくわたしになついてくれ、海でも一緒になって潜って遊びました。ふたりとも魚が好きでパンくずをもって素潜りをするとブルー、ライトグリーン、ピンク…さまざまな色の魚が寄ってくるのです。
わたしとユカそうじ姫は、ほとんど同じ年のようにくっついて潜り魚を集めました。
旅もお終いに近づき、お土産を買うときになった夜のことでした。ユカそうじ姫が思いつめたような真剣な表情でホテルのわたしの部屋をノックしたのです。他の子も少し離れた後ろで真剣な顔をしています。どうしたの?と尋ねると、お土産を買うお金がたらなくなった、というのでした。
そんなことか、とおかしくなって「いくらたらないの?」そう聞くと、ユカちゃんは「千円…」と小さな声で遠慮深くいいました。
「千円でいいの?」そう聞き返すと、こっくりと頷きます。
千円を借りるために、ユカそうじ姫はきっとはじめは一人で悩み、そしてみんなと相談したのでしょう。みんなも色々考えたに違いありません。
わたしの部屋をたずねるまでどんなに決心がいり、ドキドキしていたかみんなの顔をみればわかりました。
 
わたしが貸した千円でユカそうじ姫は、どんなおみやげを買ったのでしょうか。
当時は羽田飛行場でした。狭い到着ロビーは出迎えの人たちで混んだ電車のようでした。みんなときちんとお別れもいえないまま迎えに来てくれた人と話していたとき、背中をつんつん押されました。振りかえると、ユカそうじ姫でした。
泣きそうなほど真剣な顔で息をはずませ、手には千円札を握りしめています。人ごみでわたしにはぐれ、お金を返しそびれてはいけないといった必死の表情でした。
「これ・・」
差し出された千円が輝かしくわたしの手のひらで光を放った気がしました。
「そんなよかったのに…」というと、ユカそうじ姫は大きく頭(かぶり)をふりました。
ユカそうじ姫から少し離れて、ユカちゃんに良く似たお母さんがやはり真剣な顔でなんどもわたしに頭を下げていました。ユカそうじ姫は迎えにきたおかあさんに「ただいま」をいうより先にわたしに借りた千円のことをいったのでしょう。
あんなに<一生懸命、お金を返された>のは初めてでした。
 
ユカそうじ姫はそれから何回もお手紙をくれました。
キャンディファンであったことは確かですが、キャンディのことはほとんど手紙にはなくこまごまとした毎日の事がいつも記されていました。
わたしは何回 ユカそうじ姫にお返事を書いたでしょう…
わたしがなかなか返事を書かないうちにユカそうじ姫からのお手紙は遠のき、時間がハワイでの日々を少しずつかなたへと流し去っていきました。
 
この事件が起きて<CCネット>の賑わいを初めてみたとき、まず思い出したのが<ユカそうじ姫>のことでした。
ネットに書いているひとたち……たぶん、ユカそうじ姫と同じ年齢ではないか、と。
いつもニコニコしていたユカそうじ姫、色黒で利発な女の子…ハワイに一緒に行った子達が成長してそのネットに集まっているようで……
とてもなつかしく「大きくなったのね……」と思わず事件を忘れてネットに見入ったのでした。
 
20数年という月日は、わたし個人だけでなくユカそうじ姫たちの上にも確かに流れ、その間、さまざまな出来事があったことでしょう。
ネットに集うひとたちはその間も、キャンディの事を忘れずにいてくれていたのです。
キャンディをなつかしむ気持ちだけは真実であっただろうと信じています。
 
今現在もCCネットはわたしにとって困惑と頭痛の種であることは事実です。
そして、わたしにとってキャンディの読者はみんな<なつかしい ユカそうじ姫>でしたが、読者によっては原作者への気持ちはさまざまだということを痛感しました。
ある読者たちにとっては、キャンディはいがらしさんが描かれた<絵そのもの>なのでしょう。
そういった読者たちにとって、この事件はどんなに腹立たしいことかと思います。
<いがらし先生の絵なのだから水木があそこまで権利をいいたてるのは気の毒、水木さえ引けばいがらし先生は自由に絵でビジネスができるし、我々もグッズやイベントを楽しめるのに>といった気持ちは、ある意味では当たっているかもしれません。いがらしさんがやってきたことはわたしにとっては胸痛む不正であっても<キャンディが活性化する企画>ではあるのですから……。
原作者否定という問題を外におけば、ある種のキャンディの読者たちにはすべてうれしい企画であったことでしょう。
しかし、それを表立って<声高に>いわないのは、侵害された者の気持ちも少しはわかってくださっているからでしょうか。
 
キャンディは漫画として世に出た作品です。
みんなの心に残ったのも、いがらしさんの漫画としてです。
キャンディファンはほとんどいがらしファンと思ってきました。それが自然です。
この事件におけるある種のキャンディファンがはっきりと意見をいえないのはその絵を描いたいがらしさんへの崇拝の気持ち、敬愛の念を大切にしているからだと思います。
そういったファンもひとつのファンの在り方なのだと、キャンディファン以外の人達にも理解していただきたい、と思います。
<理性や理屈>ではないのです。わたしは切ないながら理解できます。
 
しかし、そういったファンたちの存在が、いがらしさんが不正を堂々とやり続けられる一因であるということも心のどこかに止めておいてくださったなら、とかすかに望んではいます。
すばらしいキャンディの絵を描いた事実と<やってはいけないこと>は別なのだと。そして<やってはいけないこと>は個人的レベルをこえたら多くの人を悲しませる事になるのだということを。
 
 
ユカそうじ姫は今、どうしているでしょう。
結婚して母親になっているでしょうか。あるいは夢見がちなキャリアウーマンになっているかもしれません。
わたしは、初めてCCネットを見た時の<たくさんのユカそうじ姫に出会えた>感動をずっと忘れないでしょう。
 

























 
 
  五月の小窓から
 
窓の外は目にしみるような緑です。
柿の葉の緑、どんぐりの若葉、もみの木から抹茶色の芽がふいてきています。
緑と一口にいってもほんとうにいろいろな緑があって、ひとつひとつにただ<緑色>ではなく名前があるのですね。
 
そんな緑を見ていても(いまごろ弁護士たちは、上告申し立ての理由を書いているのだろうな…)と思うと、とたん色あせてきます。
高裁後、心配してくださっている方々から、事件を振り返りわたしの対応の甘かった点など指摘、愛情深い叱責をうけました。声をそろえて言われた事は、<この事件は犯罪>であるということ。
なぜならば、わたしはもともと版元も(25年前は業者も)認めた著作権者であり、最高裁で勝訴したとしても<もとに戻っただけ><あなた(水木)はもともと持っていたものを取り戻しただけ><水木が著作権を持っていることは百も承知の五十嵐氏の策略にまんまと乗ってしまった>
 
それまでも折りに触れ言われていて、分かってはいましたがその<犯罪という言葉>を受け入れるまで時間がかかりました。
 
今後は業者との裁判を起こす事によって(訴訟に持ち込まなければ、契約書ひとつでてきません。)情報開示を要求、なぜ、こんな事件が起こったか解明し、損害賠償額を裁判所に定めて頂きたいと思っています。
 
上告されたことにより<和解>はなくなりました。
むろん、最高裁判決後は、その判決に従っていただくための<話し合い>ならばしなくてはなりません。
最高裁判決後は、もはや相手は、作品を人質にとったかたちの<自分たちに都合の良い言い分のみを聞け>というような判決を無視した乱暴な言い方はできなくなると期待します。
 
時間はかかりますがその間は、心のリハビリにつとめ、自分の世界(わたしはほんとにささやかもの書きと自覚していますが)、そんなわたしの作品でも待っていてくださる読者、辛抱強い心優しい編集者たちに報いるようなものを書きたい、と思っています。

























 
  4月の小窓
 
四月の小窓からは、春風がためらうように流れ込んできます。
春風はいつもどこか遠慮がちに吹くような気がします。
 
わたしの小窓は、もう窓を開けています。
 
3月30日、高裁の判決は一審と同じ前面勝訴でした。
コメントに書いたように、一審とは違って喜びより疲労感のほうが強かったのは(これで解決できる)という望みが今回はもう感じられなかったからかもしれません。
上告の知らせまでの二週間、あきらめていたとはいえどこかにまだ期待が残っていたのか、それが現実となったときの衝撃はやはり深いものでした。
これでもう一部の業者も救済できない……前向きになにもかもができなくなった、ということになります。
そして、なによりキャンディを連れ、最高裁にいくのか、ということが重苦しくのしかかってきました。
 
しかし、<いがらしさんが気の済むように>と思っていたのはほんとうです。いくら無益、不毛な争い(いがらしさん自身も陳述書に書いています)といっても、いがらしさん本人が納得しないことにはこの事件は終わりません。高裁で解決してしまうと、いがらしさんはきっと心残りになり後々まで尾を引くことになるでしょう。
最高裁まで争うことは作品にとっては致命的なことだといがらしさんはよく分かっていると思います。また、いがらしさんにとってもよいこととは思えませんが、本人が納得できないのなら、あとはご自身の選んだ道だと割り切ることにしました。
 
気持ちが落ち着いてきた今、上告されたことは、わたしには<確かな区切り>になりました。
 
いがらしさんは、わたしにとって一緒に作品を生み出した<特別のひと>でした。
同じ年代に生まれ(彼女のほうが一つ年下ですが)、前後して結婚し、そして、お互いに母親になり、きっと楽しいおばあさんになって昔話ができるのでは、と思っていました。
 
わたしがずっと思ってきたこと……
それは、わたしにとっては<創作の人、キャンディ>も大切だけれど<現実に生きている
いがらしさんのほうがもっと大切>だった、ということです。
友人関係なら改めていうほどでもないことです。
 
しかし、どんな友人関係でも越えてはいけない一線があると思います。
その一線を、いがらしさんは越えてしまいました。
 
そんなふうに友人と思ってきた人を訴えたこと……それはわたしの心を塞ぎ、胸に何かがつまったような日々が続きました。
(訴えるより他に方法はなかったのか…読者はどんなにがっかりすることだろう)と。
けれど、いくら考えても、(他に方法はなかった…このままだったらいつか原作者として抹殺されていただろう…)という答えが返ってきます。
どう考えても心は晴れず、重く苦しい時間が過ぎていきました。しかし、びっくりするようなことが次々と明るみにでてくるたびに、少しずつ<納得>していきました。
いがらしさんが<水木>のことをどう位置づけているのか、25年もたってやっとわかってきたのです。
<キャンディを描くに当たり、自分の漫画を描きやすくするためのサポート>と原作者のわたしについて、いがらしさんは繰り返し主張しています。
わたしから見た<越えた一線>は契約違反、著作権侵害はもちろんですが<原作否定>でした。しかし、いがらしさんから見れば<サポートの分際で権利を主張し、訴訟までおこした一線を越えた者>と思っていることでしょう。
今、この事件は講談社との二次使用を解除する以前から計画されていたことがわかってきました。
わたし自身いがらしさんに同意の上で講談社との契約を解除しましたが、そのころからこの事件ははじまっていたのです。
事件については<まったく知らずに>いたかもしれません。……しかし、知ってしまったら必ず<訴えること>になっていたと今、思います。
 
いがらしさんは<原作者>という無から生み出す物語を書く仕事に敬意などなく、<自分のために原作者は存在した>と思っているようなので、これでは<いくら会話を試みても>全くすれ違うだけです。
 
控訴されてよかったことは、井沢 満氏への侵害も判明したことです。(一審後和解していたら闇に葬られていたかもしれません)
井沢 満氏は10年以上も<全く知らなかった>ということですが、知らずにいたより侵害事実がわかってよかった、といっておられます。
 
いがらしさんへの気持ちは、わたしの空回りだったようです。
しかし、その気持ちは相手はどうあれわたしの中の真実なのでそれはそのままにしまっておきましょう
 
わたしの想いはもう、過去のものとなりました。
 
25年以上、使ってきたいがらしさんとのノートをこれで閉じることにします。