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できればムカつかずに生きたい1999年5月21日 田口ランディ | |
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「自分というものをもっとしっかりと見つめていきたい」というメールをたくさんいただく。私もそう思う。 しっかりした自分、揺らがない自分。ムカつかない自分。そういう自分であったらいいなあと、ずうっと思ってきた。でも、じゃあ、揺らぎって何なのかな。なぜ自分はムカつくんだろう。これは私にとって、長い長い間の疑問であった。 ところで私は「どーなってるの?」と思うくらい、たくさんメールをいただく。MSNジャーナルの編集の方が「すごい多いです」と言うのだから、客観的にも、その量は多いのだろう。 もちろん、たくさんのメールをもらうのはうれしい。うれしいのだけれど、中には、読むとカチンとくるメールもある。カチンとくるってことは、真実が書いてあるのだ。だけど、カチンとくるものはしょうがない。 すでに私の文章を読んでいる方は、お分かりだと思うのだけれど、私はものすごく了見の狭い人間で、しかもけっこう怒りっぽく、人間が出来ているわけでもなく、意地汚いし、自分本位だし、なにかにつけてとほほな奴である。 頭も悪いので「あなたの文章には結論もまとまりもない」と言われるし、自分でも、確かにその通りだと思う。私は、結論というものが出せない。私のごときアホな人間が、物事に結論を出すなんて、怖れ多いと思っている。だが、いきなり知らない人から「下手な文章」と言われると、がく然とする。 最近では「人間はうんこして生きる……というのは下品すぎないか。もっと上品な表現を使った方がよろしいのではないか」とか「母親が家族を支配するって決めつけないで下さい」とか「なんで親が子供を殺すのか、分析してみてください」とか「あなたは本当は、心にすごいトラウマを抱えているのではないか」とか「そんなに自分のことを書いて、自分をいじめないで下さい」とか「結局今回も、あなたの文章はまとまってない」とか「公に発言する時は、他人への影響を考えて憶測で物を書いてはいけない」とか「心理学ってそんなにつまらないものなのか。読んで損した」とか、まあ、こういういろんなメールが来るわけだ。 で、私は心が狭い人間なので、これらのメールを読むと、やるせなくなるのだ。「うーーー、勝手なことばかり言って、もうっ。私の分析はやめろ〜!」 とまあ、こうしてパソコン画面の前でぶつぶつ独り言を言いながらメールを開いていく。それでも読む。やっぱり気になるところが気が小さい。 それにしても、私は自分に驚く。かつて私は、人の意見と批判に対する猛烈な拒否反応があり、見知らぬ人から批判などされたら、それこそマジでゲーーと吐いていた。そのころの私なら、1通でも嫌なメールがあったら、他のメールは開かないで、ごみ箱にポイしていたと思う。私はかんしゃく持ちだった。
私は攻撃的な人間だった。竹を割ったような性格で、物事をはっきり言う、そういう奴だった。今でももちろんそうである。嫌なことは嫌と言うし、間違っていると思ったことは、間違っていると言う。 ただし、今はニコニコしながら「嫌なんだけどな〜」と言う。 それは、なるべく相手と対立しないためにだ。「ごめんね」と謝りながら「嫌」と言う。だけど昔は違った。怒って「嫌だ」と主張した。強く嫌だと主張した。それは、なにかこう怒りみたいなパワーにまかせて「嫌だ」って言わないと、「嫌だ」って言えなかったからだ。 なぜだろう。私は主張する時、いつも怒りのパワーが必要だったのだ。自分を主張する時に、なぜか怒っていないと力が出なかった。だから、自己主張する時は、いつも怒っていた。 そういう人、たまにいるでしょう? 私はそういう奴だった。同じことを笑いながらできるはずなのに、私は怒っていた。怒っているか、もしくは悲しんでいた。そういう自己主張しかできなかった。 弱かったからだと思う。 もっと前は、自己主張すらできなかった。だから、いつも苦しかった。思っていることが伝えられない。思っていることを言ったら、バカにされると思った。 「お前にそんなことできるのか?」って言われるのが怖くて「私にやらせて下さい」が言えなかった。やってみたいな、って思うことでも「やりたい」って言えなかった。欲しくても「欲しい」って言えなかった。「欲しい」なんて言ったら、身のほど知らずってバカにされそうで怖かった。 「好きになって」って言えなかった。そんなこと言ったら「ごめん」って謝られそうで怖かった。だから「私は好きだけど、別に好かれなくても平気」みたいな顔をしていた。本当の気持ちがいつも言えない。自信がないから。 そういう時期を経て、仕事でちょっとだけ自信をつけたころ、私は怒って自己主張する人になっていた。強い自分に憧れていたけれど、実はまだ弱虫だった。だから自己主張する時に、相手を威嚇するようにしないと、できなかったんだと思う。いつも、何かを主張する時は攻撃的で、それがけっこうカッコイイと錯覚していたんだ。 そのころ、人から攻撃されると過剰に反応した。人から何かを言われるのが、嫌で嫌でたまらなかった。人の意見が全く聞けなかった。よもや非難されたりしたら、その100倍の言葉を費やして、相手をやりこめようとした。 アドバイスされるのも嫌いだった。「ここはこうした方がいいんじゃない?」と言われると「自分でもわかってたけど、なかなかできなくてさ」みたいなことを言った。 そして心の中で「あんたに言われなくても、わかってんだよ」と思う、ものすごく嫌な奴だった。ダメな自分を認めることが、ちっともできなかった。他人には攻撃的なくせに、他者から自分への攻撃は許さなかった。攻撃を仕掛けてくる人とは、徹底的にやりあった。言葉で。そうしないと、自分の自我が保てなかった。 徹底的にやり合わないと、相手の言動が、いつまでも心にオリのように残る。相手のことが、気になってたまらない。腹が立ってたまらない。そのことをいつまでも忘れられない。一日に何回も相手の顔や言葉を思い出す。そして、思い出すと、胸のあたりがカッと熱くなく。 まったく別の仕事をしている時でも、自分を非難したり、自分のやり方に文句を言った相手のことを、ふいに思い出す。そして顔がほてってくる。そうすると、気分がざわざわして、なんだか集中力がなくなってしまう。一晩寝ても忘れない。つまらないことでも、相手ときちんと決着をつけるまで忘れられない。 だから、私はなるべく決着をつけた。相手を呼び出して「この間のことなんだけど、ちゃんと話し合った方がいいと思って」と言って、自分の気持ちを伝え、その上で自分も悪かったと伝え、相手からの謝罪を受けないと納得できなかった。だけど、いつもその時に、ものすごく巧妙に相手の弱みをついて相手を傷つけ、自分を慰めたりしていた。 これが、20代の私だった。楽しいこともいっぱいあったけど、なんだかしんどかった。それはいつも、誰かの言葉に傷ついて、そして腹を立てて、憤慨して、自分を見失っていたからだと思う。
私が、心の安定……ということに興味をもつようになったのは、ヨガの瞑想の先生に出会ったことがきっかけだった。と言っても、私がヨガを習ったというわけではない。当時、私は「瞑想」というものが何なのか、全くわかっていなかった。バグワン・シュリ・ラジネーシの本など読むと、瞑想とは自分に至る道のようだ。だが、瞑想って何なのかがわからない。 だいたい、瞑想というのは、見ていると眠っているだけのように見える。目をつぶって、じっとしているだけだ。そんなことでなぜ、精神的な体験が得られるのか。いったいあの、目をつぶっている間に、どんな体験があるのか? それは、不思議な体験なんだろうか? だとしたら、自分もそれを体験してみたい、そういうことを考える、ミーハーな奴だったのだ、私は。 で、ある時、たまたま友人の紹介で知りあったヨガの先生に、質問してみた。「瞑想っていうのは、どういう状態になることを言うんですか? 瞑想すると、何が変わるんですか? 瞑想中って、どんな気分なんですか?」 「そうですねえ、瞑想というのは心が安定した状態です。静かで安定した状態に、心をもっていくのが瞑想です」わかったようでわからない。「それは、ただ目をつぶっているのと違うんですか?どう違うんですか?」 「言葉で説明するのは難しいですねえ。ただ目をつぶっているといろんな事を考えますよね、いろんなことを考えないで、目をつぶっている状態と言いましょうかね」 何も考えない状態で、目をつぶっているのが瞑想? なんだそんなことか、と私は思った。簡単じゃないか、と。「そんな簡単なことなんですか?」「簡単なように思えるかもしれないけれど、何も考えないというのは、非常に難しいことなんですよ。人間は常に何かを考えてしまいますからねえ」 確かに、私は常になにかを考えている。だけど、考えないことだってできそうだ。で、私はアホなのでさっそく夜、眠る時に何も考えないことをやってみようと思った。22歳のころだ。 布団の中に横になって、なにも考えないようにする。ところが何も考えないようにしようと、と考えている。これではヤバイ、何も考えないことを考えるのをやめなくちゃ、と思う。ところがやめなくちゃ、と思った時点で、もう考えているではないか。 「これじゃあキリがないよ」と私の頭はグログロになってしまった。どうやったら、何も考えないでいられるんだ、そんなこと不可能なんじゃないかって思えた。考えまいとすればするほど、頭の中が言葉でいっぱいになっちゃうのだ。 自分が何も考えてない時って、どんな時だったろうと思った。私は当時、演劇をやっていて、役者を目指したりもしていたのだけれど、そういえば何かの役を演じている時は、何も考えていないような気がした。それから、歌を歌っている時も、何も考えていないような気がした。つまり他のことに集中している時、自分は何も考えないみたいだ。 「そうなんですよ」とヨガの先生は言う。「だから瞑想では、呼吸法がとても大切なんです。自分の呼吸に意識を集中するんです。そうすると呼吸に意識が向いているので、何も考えない状態が訪れる。その状態が大切なんです。その状態を、なるべく長く維持するようにしていけばいいんです。そうしていくと、だんだんと自我というものが薄らいでいきます」 だが、私はこの時は、ヨガも瞑想も呼吸法も練習しなかった。なんだかバカらしく感じたのだ。だって、自分ってものがなくなってしまったら、つまんないじゃん、って思った。 22歳の私には、自我を消すということが、うまく理解できなかった。そんな風に、透明の自分になってしまったら、おもしろいことも、悲しいことも、何も感じなくなって、つまんないじゃないかって思ったのだ。だったら、私は悟らなくてもいいや、って。 鏡のように真平な平静な心に憧れはしても、自分がそうなりたいと思わなかった。恋もしたし、金も欲しい。物欲にまみれて心は乱れても、それが人生じゃん、って私は思ったのだ。
その後も私は、どういう縁でか、心理療法やら、気功やら、ヒーリングやら、心理学からニューエイジ、超能力からオカルトまで、さまざまなワークや、それに携わる人と、なぜかめくるめくように出会ってしまうのだが、どんな所に行っても必ず、基本は呼吸である。 これはもう、ごたぶんにもれず、この世界の心と身体に関することの基本は「呼吸」である。ハイいらっしゃい、ではまずは呼吸ね、と言われる。どこへ行っても、誰に会っても、絶対に「呼吸」なのである。呼吸、この単純な吸って吐いて……いや、吐いて吸っては、精神世界のイロハのイであるようだった。 呼吸は、その字の通り「吐く」そして「吸う」である。いかに吐くかが問題であって、吸うのはまあ、どうでもいいと言えばどうでもいい。オギャーと生れた時も、人間はまず息を吐くのだ。そして吸う。というよりも、吐かないと吸えない。 あまりにも単純なので、忘れてしまいがちなんだけど、呼吸というのは生命活動の基本だ。私は生れてこのかた、呼吸を2分以上止めたことは一度もない。おお、なんと凄いことだ。 無意識的に行っている呼吸に、意識を集中する。それも「吐く」ことに。すると、その時、確かに何も考えない瞬間が訪れるようになる。それを繰り返していると、なんだか自分が肺そのものになったような気分になる。それでも私はまだ、瞑想も、呼吸法も、ヨガも習う気にもならなかった。呼吸ってすごく大切なんだなってのは、頭でわかったが、自分が実践してみる気になれなかった。 実を言えば、私は精神世界というものと、なぜか縁は深いのだが、あまり好きではなかった。ニューエイジにかぶれている人は、どっかヒッピーっぽくて変だし、マリファナだとかトランスパーソナルにも魅力を感じなかった。 ヨガをやってる人は、みんな骸骨みたいで気持ち悪いと思っていた。気功って胡散臭いと思った。ましてや、心理療法に携わる人は、なんだかおためごかしのいい人風で、嫌だなあと思っていた。(もちろん今は、そんなこと思っていない)どれもこれも、肌に合わなかったのだ。 30歳になって、すっかり精神世界から足を洗って、アウトドア派に転向した私は、ヨットやダイビングやカヌーや山登りを始める。ところが、こっちの世界でも、やっぱり基本は呼吸なのである。息。 ダイビングはイチニサンシで吐いて吸う、このリズムで海中でエアを呼吸する。ヨットやカヌーは、自分の息とシンクロさせながら、風や波の息を読む。山登りも、歩きながらの正確な呼吸法が大切だ。人間は呼吸によって、自然とつながっている。そのことを実感した。なぜかわからない、息を吐いて吸うことで、世界の脈と繋がれる。 一体、息って、呼吸って、何なんだよ。不思議だった。これほど人間にとって重要なものが、他にあるんだろうか? でも、いったいなぜ? そしてなぜ、多くの人は、この事実を知らないのか。 呼吸に意識を集中して、呼吸を整える。そのことに慣れてくると、確かに情緒は安定する。興奮している時は、過呼吸気味だし、緊張している時は、息を止めがち……つまり酸欠がちだ。そういう時に、身体への酸素の供給量を安定させてあげると、気持ちが落ち着く。それは理屈でわかる。脳内ホルモンが調製されるからだろう。 でも、それと同時に、もうひとつのことが起こる。それがセンタリングだ。センタリング、つまり自分の中心に、意識が落ち着く……というべきか。
よく、呼吸法で「丹田(おへその下あたりにあるツボのこと)に意識を集中して呼吸してください」というような事を言われる。丹田に集中しながら呼吸をしていると、私は妙な気分になる。 うまく言えないのだけど、なんだか川のなかにぷよぷよ浮かんでいるような感じ。ちょうど丹田のあたりに鉛が入っていて、私の身体は川底に乗っかった起き上がりこぼしみたいに座っている。重心が鉛だから流されることはないけれど、川の水が身体の回りに水流をつくりながら流れ去って行く……そんなイメージだ。 気功の研究家の上野圭一さんに言わせると、それが「センタリング」なんだそうである。自分の中心を知ること。そして、自分の中心に意識を置けるようになると、外部からの刺激が加わっても、その中心から自分が大きくそれることがなくなり、安定するのだそうである。 早い話、ゆったりと意識的に呼吸していると、自分の中心に居ることができるようになる……ということなんだろうか。この辺り、うまく言葉では表現できない。 ただ、私は確かに20代の頃、キャンキャンわめくスピッツ犬のような呼吸をしていたな、と自分で思う。それに比べれば、確かに呼吸というものの重要性を知った今、そして呼吸に意識を向けるようになった今は、自分という中心からそんなにズレなくなった。 相変わらず私はおっちょこちょいだし、短期だし、人の目を気にするし、ちょっとのことでクヨクヨするし、もらったメールで落ち込んだりするし、JRの駅員の対応に腹を立てたり、電話の勧誘員に真面目に説教したり、そういうことをする奴であるが、でも、根に持たなくなった。すぐ流れてしまうのだ。 いくらなんでも、物忘れが激しくなる年ではまだないので、たぶんそれは、自分にセンタリングすることができるようになったからなのじゃないかなあと思うのだ。 最近は、不愉快だなあと思っても、それはだいたい10分から20分で消えてしまう。非常に精神衛生上良い。これは、忘れてしまうのでは決してない。日本語にちょうどぴったりの表現がある。「水に流す」って感じなのだ。 水に流す……のニュアンスは「フォゲット」ではないよね、忘れるんじゃなくて、流れていく。そう、まさにそんな感じなのだ。 川の上を、プカプカと壊れた下駄が流れてくる。それが自分にぶつかる。自分もなんとなく下駄の方に引かれる。でも自分には重心がある。いつしか下駄は自分を離れ、下流へと流れていく。自分はまた元の位置に戻る。そういう感じだ。影響は受けるのだけど、自分もいっしょには流れない、外から来たものが去っていく。 それで、私は思った。なんだそうか「こだわりを捨てる」とか「欲を捨てる」とか言うけど、それは「こだわらない」「欲を持たない」ということでは決してなくて、「一度こだわって、すぐ捨てる」ってことだったんだなあ、「一度欲しがって、でもその思いからすぐ離れる」ってことだったんだ。それならわかる。 私は22歳のころ「こだわらない」「欲しがらない」のが、自我を捨てることだと思ってた。だから、そんなのつまんないって思ってた。そうじゃなくて、あらゆる刺激に反応しながら、でもそこに留まらない……ってことなら、こんな素晴らしい生き方ってないなあって思えた。 そんな風になれたらいいなあ、って初めて思えた。反応するけど留まらない。影響されるけど流されない。自分に戻る。こんな簡単なことが、私はアホなので15年もわからなかった。 というわけで、下世話な話に戻るのだが、私はそれほど物事にはこだわらなくなった。おかげで、ずっと憎み合ってきた親とは、ずいぶん前に和解したし、誰とも喧嘩もしていない、嫌なこともそれほどないし、比較的お気楽に「とほほ」と暮らしている。 もっと早く、こうなりたかったなあと思うのだが、まあ、自分が愚かなのだからしょうがない。よって、いろんなメールを読んでも、「こんちくしょう」と思いながら立ち直り、何通もらおうが読む。 相変わらず、私は呼吸法を習ったこともないし、瞑想は教えてもらったけど、瞑想しているとすぐ寝てしまう。 だけれども、けっこう過酷な自然というものと出会ったことによって、なんとなく、瞑想したり、呼吸法を習ったりしたことと同じような感覚を、学んだように思える。自然といっしょになって、それを身体に取り込み、そして吐きだす。風や波と呼吸を感じること、それに合わせること。 これまた、私のつたない経験から感じることなのだけど、自分にセンタリングして生きている人たちというのは、確かに物事や他人にこだわらない。こだわらないけど、人間的で泣いたり笑ったり、怒ったり悲しんだりしながら、だけどすぐ、ごろんと自分に立ち返って、ニコニコしている。すごく魅力的だ。 逆に「私は達観しているので、何物にも動じないよ」という風情の人は、のっぺらぼうでチャーミングじゃない。だから私は、何事にも動じない人のことは、ちょっと苦手だったりする。なんだか、怖いのだ。 何にも揺るがない人ってのは、いくらニコニコしてても、どっか頑固に見えてつきあいづらい。もちろん、それも一つの生き方で、極めればカッコイイかもしれないけれど、私みたいな一般人ムキではないなあと思う。 いくら動じたっていいんだ。落ち込んだっていいんだ。びろーーんって自分に戻って来れば。考えたらこれって、みんなが日常的にやってることだ。嫌なことがあっても、立ち直って自分に戻る。ただ、その戻る時間が、早いか遅いかだ。自分に戻るのに、10分しかかからない人もいれば、10年かかる人もいる。 だけどね、最近は、ただ元の自分に戻って来るだけじゃあ、進歩ないんじゃないかな〜、なんてことを考えていた。それに、立ち直りが早いというのも、どうも軽薄な感じがするよな〜、なんて思ったりしてた。私は「重厚に生きろ」という学校教育を受けたせいか、物事を軽く捉えることに罪悪感がある。 そしたらその答えをこの間、夢でもらった。夢のお告げ……なんてことを書くと、またしても非科学的な怪しい奴と思われそうだけれども、私の夢生活7年の間でも、特筆すべきおもしろい夢だったので、誤解を恐れずに書いてしまおう。 5月14日から二泊三日で戸隠に旅行して、戸隠神社を参拝してきたのだ。戸隠に着いた晩に、おもしろい夢を見た。夢の中に19歳くらいの少年が登場する、その少年がこんな事を言うんだよね。 「やって来るものを、受け止めながら手放していけばいいんだよ。どんなものでも、自分にやって来るものはプレゼントだ。受け止めて手放せばいい。そうしていくと、受け止めた衝撃で流れが起こって、自然にあるべき方に流れていく。自分でありながら、でも流されろ。自分の外から来るものは、全部、プレゼントだ」 目が覚めて、なるほどなあ、と思った。この少年は他にも、こんなことも言っていたっけ。 「どんな考え方もあっていい。間違いってのはない。どんな考え方も、世界にグラデーションを作るためにある。どんな考え方も、世界に濃淡を与え、世界を立体にする。だからどんな考え方も、世界を描く点描の点だ」 戸隠という場所は、不思議な場所だ。天の岩戸にアマテラスが隠れて世界が暗くなった時に、天八意思兼命 (あめのやごころおもいかね)が岩戸の前で宴会を開いて、アマテラスをおびき出そうと発案する。 そこで、天鈿女命 (あめのうずめ)という女性が、岩戸の前でストリップを踊り、やんややんやの大宴会を繰り広げる。なんだか外が騒がしいなあと、アマテラスが岩戸をそっと開けて覗いたところを、すかさず天手力雄命 (あめのたちからお)が岩戸を放り投げた。 その時の岩戸は、信州に落ちた。そこが戸隠だ。だから戸隠神社に祭られている神様は、宴会を企画した天八意思兼命 と、踊りを踊った天鈿女命 、そして岩戸をこじあけた天手力雄命 などなど。 ちなみに、私のもうひとつのペンネーム「田口宇津女」は、この天鈿女命 (あめのうずめ)からもらった。彼女はその後、海辺に住んで海女になる。なかなか豪快そうな女性で好きだ。 戸隠神社、特に宝光社と奥社の杉の並木は、幽玄で美しい。すうっと心が静まる感じがする。静謐な自然に触れると、自分の中心に、すとんと戻れる感じがする。 旅行に行く前、たくさん来るメールについて考えていたので、戸隠でこんな夢を見たのかもしれない。私にメールをくれるみなさんの心や、それからいろんな人のそれぞれの生き方について、あれこれ考えていた。 人によっては「書き手は読者の意見を聞きすぎると潰される」という。だけれども、やって来るものがすべてプレゼントだとしたら、そして私が自分の中心にいつも戻って来れれば、これらのメールは、私をどこかへ導いているはずなのだ。 そして、私は世界の濃淡を作る点描の点の、そのひとつひとつに日々、触れているのだ。その点が描く世界とはどんな世界なのだろう。まだ、近視気味の私には見えないけれど。 筆者へのメールはこちらまで。
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