pridetitle
プライド

第13話 Nobody Knows Me


 Nobody Knows Me 

 本当の僕を誰も知らない 

 作り笑いの毎日 

 ふと溜め息をつく 




 

 

 

 「アスカ……」

 引っ越しの準備が終わり、レイの少ない持ち物を詰めた段ボールが数個置いてあるだけの部屋で、シンジが見えない相手と対話をしていた。

 「僕、父さんと一緒に暮らすことにしたよ。

 ここを出るのは寂しいけど……もう一度、父さんと家族として真剣につきあってみないといけないと思うんだ。それに、もうすぐ赤ちゃんも産まれるみたいで、リツコさんも大変そうだから少しでも力になってあげたいし……

 洞木さんが僕に話してくれたんだ、昔のこと。何であんなこと僕なんかに話してくれたのか分からない……でもそれで、僕、自分がリツコさんのこと全然考えてなかったことに気づいたんだ。いや、リツコさんだけじゃない、父さんのことも本当は全然考えてなかった。ただ、自分のことだけ考えて……だから、本当の父さんの姿を少しでも知るためにここを出る。

 レイもね。レイは、父さんのこともリツコさんのことも、エヴァを降りた今だからこそもっとよく知るべきだと思うんだってさ。

 ミサトさんには本当に申し訳ないけど……ここで暮らしていろいろ大切なことたくさん教えてもらったのに、何も恩返ししないで出て行っちゃうんだからね。ミサトさんがいたから父さんと逃げないで向き合おうと決めることができたんだと思う。恩返しは後ですることにして、今回は甘えることにした……家族だからね、『甘えなさい』って言ってくれたんだ、ミサトさん。

 僕は今日、ここを離れるけど……アスカと一緒に暮らしたことは絶対に忘れないからね」

 シンジはそばにあった段ボールを一つ抱え、立ち上がった。そして、少し歩きかけたところで再び立ち止まり、虚空を見るような目で部屋の中をもう一度振り返った。

 「どこにいても……僕が思ってるのはアスカのことだけだから……」

 

 

 

 「……『気持ち悪い』」

 「『気持ち悪い』は言い過ぎちゃうか」

 「いいのよ、おなじみのセリフなんだから」

 

 

 毎日が慌ただしく過ぎていった。

 シンジたちは進級し2年生になった。3年間クラス編成は変わりないので、その点での変わり映えはなかったが、新年度らしい慌ただしさがまだ残っている。

 ゲンドウとリツコの入籍をきっかけに、シンジとレイはゲンドウらの新居に引っ越した。

 シンジは父親と一度は真剣に向き合わなければならないと思っていたが、このままではバラバラの生活をなあなあのまま続けていってしまいそうだったので、思い切って同居することに決めた。向き合う、と言っても具体的にどうすればいいのかは分からなかったが、ヒカリから「そばにいることで初めて感じられる血の温もりがある」と言われ、今まで知らなかった父の部分を知ることそれ自体が価値のあることだと考え、決断した。リツコの出産も近く、その負担を少しでも軽くしたいとの気持ちもあった。

 唯一の気がかりは、ミサトと離れることだったが−−

 「リツコにいじめられたら、いつでも戻ってきなさい。ここはあなたの家なんだから」と、ミサトの方から尻を叩くように軽く追い出してくれた。

 ミサトも家族の絆を求めており、この数年間の自分との同居生活にそれを投影していたことを、シンジはよく知っていた。しかし、寂しそうな様子などまるで見せず、いつもの笑顔で送り出してくれた。それはミサトの真心であり、強さであり、思いやりだった。そして、シンジはそれに甘えることにした。家族だけに許される、家族の証としての甘え。シンジはミサトと自分が家族であると言うことを証明する意味も込めて、思い出の詰まったマンションを出て、新しい家に移り住むことにした。

 

 

 

−−といっても、ゲンドウとリツコの新居はコンフォート17マンションの隣に建設されたコンフォート30マンション内にあり、シンジはことあるごとにミサトに呼び出されては家事能力を発揮して、彼女に人間のための食事を与えたり、部屋を人間が住むに値する環境に整えたりと、獅子奮迅の活躍をしていた。

 

 

 一高陸上部はOBと名乗る人物からの推薦で、筒井タカユキという27歳の男がコーチとして雇われた。

 彼の経歴はこうある−−無理な練習がたたって取り返しのつかない故障をしてしまったために大学時代にもう一線を退くことになったが、高校生のときに早くも国体でメダルを取ったこともある将来を嘱望された10000mの選手だったという。使徒戦中はUCLAに留学、運動生理学の修士号、トレーナーの勉強と、各種の資格を身につけ帰国。年齢的には非常に若いが長野県内の実業団の陸上部に嘱託として監督業をつとめていたが、ちょうどその実業団が部を廃止するとのことで彼自身就職活動をしているところだったという。

 形式上、彼は一高陸上部のコーチであって、ヒカリ専属のコーチではなかった。ヒカリのために雇い入れたという事実は明白だったが、彼は肩書き通り他の部員に対しても熱心にコーチに当たっていた。理論的な指導は、記録の伸びという効果を現わし、彼の言葉に説得力を持たせる結果となった。ヒカリを含めほとんどの部員が筒井コーチに信頼を寄せつつあり、彼の存在に不審を抱いたりはしなかった。

 

 但し、例外はいる。

 

 

 

 「あーもう、めんどくさい! 何でこんなにまだるっこしいことしなくちゃならないの!?」

 マナは筒井の『理論的な』指導が気にくわないでいるらしい。どんなにハードな特訓でもへこたれることはなかったが、一つ一つの筋肉の動きを確認するような基本練習は、直感と本能で走ることに爽快感を感じているマナにとって退屈きわまりないものだった。

 「何で、って……コーチが説明してたじゃない。聞いてなかったの?」

 部室でマナの愚痴につきあっていたのはヒカリである。

 「聞いてたわよ!」それがさらにマナのイライラを募らせていた。『理論的に』説明されてしまうので反論もできず、フラストトレーションは堪る一方だった。「あんなに理屈つけて走らなくてもいいのになあ」

 「でも、みんな喜んでるよ。記録伸びてるし。マナだってそうでしょ?」

 「まあね」

 「それに、コーチ、自分が無理な練習のしすぎで選手生命絶たれちゃったから……だから、言ってること説得力あるんだわ」

 「それもねぇ……自分と同じ轍を踏んでほしくないから指導者の勉強して熱血指導……なんだかとってつけたみたいで白けちゃうわ」

 「マナ!」

 「別に、嫌ってるわけじゃないわよ。コーチ、指導力もあるし、根性主義なこと言わないし、まあまあハンサムだし、汗かいてもむさ苦しくないし……でもなんでかなぁ、胡散臭いというか、何となく信用できない感じがするのよね」

 「でも、みんなコーチのこと信じてるじゃない。マナだってなんだかんだいってコーチの言うこときいてるんでしょ」

 「ま、そうだね。みんなちゃんとコーチの言う通りに練習して成果出してるよね。ヒカリ以外は」

 「わたし以外?」

 ヒカリは心底意外に思った様子だった。

 「そう。ヒカリ、記録計るときになると、相変わらすブレーキの壊れた機関車みたいな走りっぷりじゃない。とてもあのコーチの指導を忠実に守っているとは思えないわ」

 「それは……分かってるけど、つい……」

 「全力疾走がヒカリのいいとこでもあるんだけど……でも、ヒカリってもっと冷静に走れそうな気がするんだけどなあ。だから、長距離向きだと思ったのに、何だかその逆の特徴で成果が出ちゃってるね。ま、わたしとしては面白いな。あれでも早くなってるんだもの。コーチもさぞかし教えがいがないでしょうね」

 「そんな……」

 わざわざコーチを雇ったにも拘わらずヒカリの欠点は直らないままだった。それでもタイムが日に日に縮んできているからか、まだその欠点を不安視する声は周りからは聞こえてこなかった。筒井コーチも何も指摘しなかった。種目を問わず、他の部員に的確な助言を与えていることから、彼がヒカリの走り方の異常さに気づいていないはずはない。不思議なことだが、ヒカリの欠点を修正すべき立場にある彼がそれを放置していた。

 「ヘヘヘ、冗談ジョーダン。そんなに困らないでよ」

 「もう」

 「ま、でも、ちょっとは考えて走ってね。見てるこっちがはらはらするわ」

 マナだけは表面的なヒカリの陸上の成績の伸びにとらわれず、彼女の走りを見ていて不安を感じるようになっていた。冗談めかしていっているが、マナはヒカリの走る姿にただならぬものを感じ始めていた。ただ、その不安の理由はよく分からなかった。技術的なことだけではない。言うならば、漠然とした不安だった。練習中のヒカリの姿を見ながら、(何があるの? 何を背負っているの?)と考えることがここ最近多くなっていたのだった。

 ただ、まともに問いただしてヒカリがそれを話してくれるとも思えず、また、ヒカリ自身、自分が走る本当の理由をよく自覚していないかもしれないとも考えられたので、マナは今のところは見守ることしかできなかった。

 

 

 ネルフ本部内、食堂。

 リツコが猫のキャラクターのイラストが印刷された弁当箱を開こうとしている。その正面で、ミサトがざる蕎麦定食を前にしている。ミサトはそばに箸を挿したままの姿勢でひどく物欲しそうな顔を見せていた。

 「あげないわよ」

 リツコはミサトの視線を迷惑そうに受け止めながら、卵焼きを一切れ箸で口に運んだ。咀嚼するごとに、満足そうに表情が露わになっていく。

 「けち」

 「ずうずうしいわね。わたしのお弁当でしょ」

 「あんたが作ったんじゃないでしょ」

 「そうよ。シンジ君がわたしのために作ったお弁当。悪いけど一口だって他人に与える余地なんかないわ」

 肉類や揚げ物が一切ない、野菜中心のあっさりしたメニューのお弁当だ。弁当箱の隣に置いてある小さいタッパーには果物が入っている。妊婦のリツコが食欲をなくしていても、なるべくたくさん食べられるようにとのシンジの配慮だった。ゲンドウたちと住むようになってからも、シンジはごく当たり前のように家事を切り盛りするようになった。仕事が忙しいゲンドウとリツコに家のことは任せられないという事情もあろうが、何の疑問も抱かずに台所に立ってしまうのは−−シアワセなことなのか、カナシイことなのか。

 リツコは産み月も近いというのにまだ出勤している。確かに、病気ではないので、母胎に差し障りのない限り無理に病院や家に閉じこめることはできない。リツコの場合、仕事を取り上げるとかえってストレスが堪るかもしれないので、本人が納得するまでいつも通りの勤務が続くことになっていた。しかし、マタニティ・ドレスよろしく白衣で覆われたお腹はかなり目立ってきており、周囲の人間は否が応でも気を揉まされざるを得なかった。

 ミサトが蕎麦をつゆにつけて、口の中に入れた。

 「……のびてる……のびてるじゃないのよ!」と、癇癪を回すミサト。

 「さっさと食べないからよ」

 「ね、リツコぉ、ちょっとでいいからシンちゃん返して」

 「ダメ。この間も呼び出してたじゃない。学校だってあるんだから、シンジ君も忙しいのよ」

 「あんただって食事も洗濯も全部シンジ君まかせにしてるじゃない。一応は一家の主婦なんでしょ、少しくらい家事ができるようになりなさいよ」

 「……あなただけには言われたくないセリフね」

 だけ、を強調してリツコは言った。

 「どういう意味?」

 「そのままの意味で受け取ってちょうだい。でも……誤解しないでほしいんだけど、シンジ君に無理矢理食事作らせているわけじゃないわよ」

 「当たり前でしょ。もし無理強いしてたら誘拐してでもシンちゃんをうちに連れ戻すからね」

 多少真剣な口調でミサトが言った。

 「シンジ君、話してたわ。自分がこれだけ家の中の世話ができるようになったのはあなたのおかげだ、って」

 「そう」

 「主婦業も技術なのね。一朝一夕で憶えられるものじゃないわ。それなりの動機がないと、憶える気力もなくなるでしょうしね」

 「動機?」

 そう聞き返してきた親友へ、リツコは羨むような視線を返した。

 「ひとのため……家族のために役に立ちたいという動機よ。シンジ君の場合はあなたやレイ、それから、アスカのためだったのよ。家事をしないと家を追い出されるなんてネガティヴな理由じゃないわよ、ただ、具体的にあなたたちの役に立てて嬉しいって感じることで、満ち足りた気持ちになれたんじゃないかしら。あなたがいなかったら……シンジ君、今でも他人に接することにストレスしか感じていないでしょうからね」

 「わたしのおかげ……シンちゃん、そんなこと言ってくれてたんだ。あ、だったら、リツコ、あんたがシンちゃんのお弁当食べられるのもわたしのおかげなんだからね、感謝しなさいよ」

 「……シンジ君、こんなことも言ってたわ」

 こっそりとリツコの弁当の方へ伸ばしかけられていたミサトの箸がぴくりと動きを止めた。

 「な、何て?」

 「ネルフに呼ばれた後、強引に同居を決められた上に、『じゃんけん』で有無を言わさず家事を押しつけられて」

 「うっ」

 「その上、あなたもアスカも自分の分担の家事を平気ですっぽかすし」

 「ぬっ」

 「おまけに、あなたが台所に立ったらひどいものを食べさせられるということを経験的に学習して」

 「むっ?」

 「そんなこんなで、いつのまにか主婦業が身に付いたってわけね。ほんとに、『あなたのおかげ』でね」

 めいっぱい皮肉の籠ったリツコの視線を避けるように、ミサトは蕎麦の塊を口に放り込んだ。

 「いやあ、のびたお蕎麦ってのもたまにはいいやね」

 強引にうやむやにしようとしているミサト。強引すぎる。

 「……」

 ミサトに対してつっこむことは山ほどあったが、リツコはとりあえず先に弁当を食べることにした。

 不意に、ミサトが言った。

 「それはそうと、リツコ、いい加減何とかならないの? その『シンジ君』って呼び方。よそよそしく聞こえるわよ」

 「そうかしら」

 「家事は別として、そういうとこはちゃんと直しなさいよ。親子なんだから」

 「仮にもね」

 「リツコ!」

 シンジの方はリツコのことを今では抵抗なく『母さん』と呼べるようになっている。ただ、リツコの方は、決して冷たくしているわけではないが、シンジに対する呼び方を返ることができないでいる。レイのことは以前から呼び捨てにしていたが、シンジに対する『君』付けがミサトには何となくもどかしかった。

 「……ねえ」

 「なに」

 「シンジ君だって最初は恥ずかしいの我慢して『母さん』って呼んで、それでやっと慣れていったはずなのよ。あなた、シンジ君と一緒に暮らすようになってから家の中で『リツコさん』って言われたことある?」

 「ないわね……母さん母さんって……レイもシンジ君の真似してか、わたしのことそう呼んでるし。あのレイが、わたしをよ。堪ったものじゃないわ」

 「な、何言ってんのよ。シンジ君もレイも、リツコを−−」

 「考えると辛くなるのよ、自分があの子たちにしてきたことを」そう言いながらも、何故かリツコは微笑んでいた。「なのに、屈託なく『母さん』なんて毎日言われてごらんなさいよ。いつかとんでもないバチがあたりそうで恐くて恐くてしかたがないわ。フフ……わたしがシンジ君のことを君付けでしか呼べないのは、きっと自分に母親としての自信がないからね。もっとも、わたしが母親になれるのかどうかなんて分からないけど」

 「……意地でもなりなさい」

 「……」

 「なるのよ」ミサトは、白衣に隠されたリツコのお腹をじっと見つめながら言った。

 リツコは水筒を傾けて湯飲みに緑茶を注いだ。そして、水筒の蓋を閉め、お茶が冷めるのを待った。

 「自分が不幸になれば、罪が許される……って思っていたこともあったけど、あの子たちにそれは勘違いだと気づかされた。戦いが終わった後、ミサトがシンジ君との同居に固執した理由、少し分かったわ」

 同居に固執しながらも、ミサトがシンジの待つ家に帰るのを恐れていた理由をさらに深く実感できた、という言外のメッセージが含まれているようだった。

 「そう、分かってくれたか。保護者失格だの何だのと、あんときはあたしのことこっぴどく罵ってくれたわね」

 「わたしの方がすぐにうち解けるのは難しいけど、でも……手放すつもりはないわ」リツコは言った。「だから、シンジ君を勝手にこき使うのはやめてちょうだいね。うちの子なんだから」

 「こ、こき使っちゃいないわよ……」

 ミサトの反論を聞き流しながら、リツコはほどよく冷めたお茶を啜った。

 

 

 中間テストの期間は放課後の練習はどの部活も中止になっていた。だが、朝については特に規制されていなかったので、ヒカリもマナも朝練はいつも通りに続けていた。その朝練を終えた二人が部室で着替えている。

 「ねえ、ヒカリ。シンジ君といつもどこでデートしてんの?」

 マナが出し抜けに尋ねた。

 「でーと?」

 「そ、デート」

 「碇君とわたしが?」

 「そう」

 ヒカリはきょとんとした顔をしていた。一方、マナはからかうような表情だった。

 「してないわよ」

 ヒカリはためらうことなく答えた。動揺している様子もない。

 (あれ?)マナは不思議に思った。(ヒカリのことだからこういうこと聞いたら、きっと真っ赤になったり、恥ずかしがってしどろもどろになったりすると思ったんだけど……何だか平気そうね。ほんとに何でもないのかしら? それならそれで都合がいいけど、確認してみなくちゃ)

 マナの表情に一瞬緊張が走ったが、すぐにからかうような笑みでそれを覆った。

 「ほら、毎日一緒に帰ってるじゃない。学校休みの日とかにもよく会ってるみたいだし……あれ、どこに行ってるの?」

 「どこって……栄通りのスーパーだけど」

 (スーパー?)意外な答えにマナは戸惑った。「ほ、他には?」

 「商店街とか」

 「商店街かあ。二人でウインドウショッピング?」

 「いや、商店街ってあそこよ、西町商店街」

 「西町?」

 地元民ではないマナには分からないらしい。ヒカリは説明した。

 「魚屋さんとか、お肉屋さんとか……それから、クリーニング屋さんとか、そうそう、老舗のお豆腐屋さんがあるわ。碇君が薦めるから買ってみたら、もうこれがおいしくて。お豆腐と油揚げは他のスーパーとかでは買えなくなっちゃったわ」

 「そう……お豆腐……」

 「あ、そうそう、半年前から朝市が始まったの、米城辺りの農家の人がトラックで出向いてきてね、おいしい野菜を売ってるの。おいしいはずよね、新鮮だし旬のものばかりだし。日曜の朝とか、そこで碇君とよく会うわ……どうしたの、マナ?」

 「……か、変わったデートね」

 「だから、デートじゃないんだけど」

 「そっか。じゃ、ヒカリとシンジ君、つきあってるわけじゃないんだ」

 「えっ?」

 「どうなの?」

 「別につきあってはいないけど……何で?」

 「だって、シンジ君と一番関係の深そうなコって言ったら、レイちゃん以外ではヒカリぐらいだからね。もし、シンジ君に恋人がいるとしたら、そうなのかなって思っただけよ。でも、これではっきりしたわ。現在、シンジ君はフリーでーす! イェイ!」

 明るくVサインなどしながらマナが宣言した。一瞬で、二人の間の雰囲気が変わった。

 「……」

 その沈黙から、マナはヒカリが好意的な反応を示していないことを察知した。沈黙に耐えきれなくなってか、はしゃいでいるような素振りを見せながら言った。

 「テストが終わったらシンジ君にアタック! ……しちゃおっと。へへ」

 「……や、やめておいた方がいいんじゃないかしら」

 「何で? ヒカリには関係ないでしょ?」

 マナの声のトーンが少し冷たくなった。

 「関係ないけど……」

 「アスカって人のこと?」

 「え!? 何で……」

 「噂よ。死に別れた好きな人がいるとかどうとか……詳しいことは知らない。みんな勝手なこと言ってるわ」

 「……」

 「心配しないで。わたしは別にそのこと根ほり葉ほり詮索しようとか思ってないから」

 「うん……」

 「だって、関係ないもん。どんな人だったか知らないけど……今は関係ないもの。生きているのはわたし。死んでるんだったら遠慮しなくていいし」

 「マナ!」

 マナの言い方にヒカリが少し憤慨してみせた。

 「なによ。ヒカリには関係ないことでしょ」

 「わ、わたしは関係ないけど……」マナの態度がいつもとは違いあからさまに攻撃的になったのでヒカリは思わず声を小さくしてしまった。「碇君、困ると思うし……」

 「何でそんなことがヒカリに分かるの?」

 「……」

 ヒカリはうつむき、マナと視線を外した。

 「確かに困らせちゃうかも知れないわね。だからって、ヒカリがどうこう言える問題じゃないんじゃないの」

 「ごめん……」

 マナもヒカリも、着替え終わってから部室を出てそれぞれの教室に向かう間、ずっと無言だった。二人は珍しく挨拶も交わさないまま別れた。

 自分を待たないでそそくさと去っていくマナの背中を見ながら、ヒカリは思った。

 (そうね、わたしには関係ないもんね。碇君が誰とつきあおうと……誰かとつきあってくれれば、その方が碇君のためになるかも知れない……関係ないもの、わたしには……)

 

 

 中間テストの出来は良くも悪くもなかった。今日終わったばかりなので、もちろん結果はまだ分からない。ただ、一年の頃はまだ授業についていくのが精一杯だったシンジにとってはそこそこの手応えが有ればそれだけで満足だった。

 今日から部活が再開、仲間と一緒にチェロを弾くことができて、久しぶりにのびのびとした時間を過ごすことができたのも、満足だった。

 後は帰って食事の準備をするだけだった。シンジは夕飯の献立をあれこれ考えながら、いつものように陸上部の部室の前でヒカリを待っていた。何人もの陸上部員が汗にまみれた体操着を制服に着替えて部室を出ていく。

 「シーンジくん!」

 

 どんっ!

 

 マナが突然やってきてシンジの背中を掌で叩いた。

 「わっ……マ、マナ。あ、お疲れさま」

 Tシャツと短パンにジャージの上をジッパーを閉めないままで羽織った格好のマナは、たった今練習が終わったばかり、という印象をシンジに与えた。

 「ヒカリ?」

 「うん」

 「……そう。ちょっと待っててね」

 マナはそういって更衣室に入った。だが、後からやってきた部員の方が先に着替え終わって帰っていく。マナが再び部室を出る頃にはグラウンドも寂しくなり、他の部員の大半が帰ってしまっていた。ただ、ヒカリの姿は見えなかった。

 制服に着替えたマナはシンジの隣に立ち、一緒にヒカリがやってくるのを待っているように振る舞った。

 「シンジ君、テストどうだった?」

 「うーん。まあ、今回はできた方かも」

 「へえ、自信ありそうじゃん」

 「あ、いや、僕にしては、ってことだよ。そういうマナは?」

 「日本史、最悪! わたしあの先生嫌い!」

 「先生の話じゃなくてテストのことなんだけど……」

 「だから、あの先生のこと嫌いだから全然授業聞かないで寝ていたら、テストが全然分かんなくなっちゃったのよ。先生のせい、先生の!」

 「せ、先生のせいなの?」

 「うん。だって、わたし一年のときは日本史そこそこできてたのよ」

 最近の専らの関心事だったテストの話をしながら、二人は時間を潰していた。しかし、ヒカリはなかなか現れない。

 

 「洞木さん、遅いね」

 「……そ、そうね」

 その後、二人は陸上部の部室の入り口を眺めながらぽつぽつと言葉を交わしていた。一年生とおぼしき女生徒が何人か集団で出てきた後、部室の電気が消された。その中の一人がマナのもとに駆け寄ってきた。

 「マナ先輩、部室閉めちゃってもいいですか?」

 「鍵貸して、わたしがやっとくから」

 「そうですか……じゃ、これ。お願いしますね」

 「うん。それじゃ、お疲れさま」

 「「「お先に失礼します」」」「「「お疲れさまでした……」」」

  にぎにぎしくマナの後輩たちが立ち去っていった。彼女たちのお喋りの声がしばらくは聞こえていたが、それもだんだんと遠ざかっていくと、シンジとマナを沈黙が覆った。

 「……」

 お喋りなマナだが、敢えてその沈黙を埋めようとはしなかった。シンジはいつもと違うマナの雰囲気に気づいた。

 「ヒカリ、今日はもう帰っちゃったよ」

 「え……」

 「コーチと一緒に松本医大に行くんだってさ」

 「医大? 洞木さん、怪我か何かしたの?」

 マナは首を横に振った。

 「薬学部にコーチ知り合いがいて、ヒカリ専用のドリンクの調合をしてもらうんだって」

 「ドリンク?」

 「うん。練習中に飲むやつだけど、市販のドリンクだと虫歯になりやすいとか栄養素が少ないとか、いろんな欠点があるんだって。それで、特に長距離のヒカリは水分補給は重要だからね。漢方の材料を使いたいけど、それでも薬品を扱う権利がある人でないと調合しちゃいけないから、わざわざ大学に行くんだって」

 「そう……大変だね」

 「ハハハ、ほんとにね。めんどくさいよね。勝手に水も飲めやしないわ」

 少しだけ、普段の明るさを取り戻したマナだったが、すぐに黙り込んでしまった。シンジは、ヒカリが帰ったのを知っていて何故マナがそれを言わなかったのか、訝しく思っていた。

 マナがぎこちなく切り出した。

 「ね、シンジ君」

 「何?」

 「あ、あの、わたしね−−」

 そのとき、マナは笑顔だった。そして、声は僅かに震えていた。

 

 

 (こんなことしてていいのかなぁ……見つかったら減俸……で済めばいい方かなぁ)

 一見ミュージシャン風に髪を伸ばした青年は、隣で作業をしているショートカットの女性にちらりと目を向けながら思った。しかし、すぐに自分の前の画面に視線を戻し、自らの作業を再開した。その画面に映っているのは、彼が普段の仕事では目にする必要のない−−目にする権利のないフォルダから引き出したファイルだった。

 深夜のネルフで行っている作業は、表向きは単なる残業だった。だが、事実は、マギの起動プログラムのパスワードを全て変更するという、仕事とはまるで無関係の作業だった。無関係どころか、下手をすると仕事に差し障りがあるかも知れない無茶作業だった。

 マヤがある意図を持ってこの無茶を行っている。シゲルはマヤに相談され、もしかしたら違法かも知れない、と分かってはいながら、マヤに思いとどまらせることができず、逆に彼女の熱意にほだされてしまって、ここ一ヶ月ほど、この秘密の残業の『共犯』をしていた。

 「マヤちゃん。ここのパスワードどうなってるの? さっきと同じ?」

 「……」

 「ねぇ、マヤ−−」

 いつの間にか、マヤがキーボードに指を置いたまま船を漕いでいた。この残業をしながら、仕事もいつも通り続けているのだ。彼女の疲労もピークに達しているはずだった。しかし、シゲルが何と言ってもマヤは休もうとはしなかった。

 「はぁ……」

 一つ溜息を吐いて、シゲルは椅子から立ち上がった。マヤの端末のラピッド・レジュームを作動させると、部屋の奥へ行き毛布を持ってくる。そして、マヤの丸い背中に毛布をそっとかけた。

 「……せんぱぁい……元気な赤ちゃ……産んでくらさ…ね……」

 シゲルはその寝言を聞いて苦笑いを浮かべながら、自分の端末の前に戻った。

 (これだから……断りきれないんだよな……)

 もういちど、マヤの寝顔をちらりと見た。

 「むにゃ……せんぱぁい」

 (これだもんなぁ……)

 

 

 放課後、ヒカリはケンスケを屋上に呼びだして尋ねた。

 「碇君どこにいるか知らない?」

 「シンジがどうかしたのか?」

 「欠席になっているの。でも、レイに聞いたら、朝は一緒に登校したみたいなんだけど」

 「じゃ、学校には来たけど教室には行かなかったってことか」

 「うん……そうみたい。ね、知らない?」

 「どうかな。教室に行きたくない理由でもあったんだろ」と言った後、ケンスケは皮肉でもからかいでもない、真面目だがとぼけた態度で付け加えた。「霧島マナも今日は欠席しているみたいだしな」

 「あ、相田君! 何でそのこと−−」

 驚いて叫ぶヒカリを制するように、ケンスケは説明した。

 「昨日の帰り、めちゃくちゃ暗い顔してるシンジに会ったんだ。世界の終わりみたいな顔してたよ」

 「……」

 「7時過ぎてたかなぁ、相当遅い時間だったけど、あいつ校門の前で一人でずっと立ってやがってさ。あんまり見てられなかったから、俺、思わず何があったか聞いたんだよ。そしたらさ……あーあ、まったく、女の子を振ったことを悩んでいるなんて、そんなこと俺に相談されてもなあ、困るんだけどなあ、もう」

 「ね、そのこと誰かに……」

 「ん? 言ってないよ」(言うわけないだろ)

 「そう……」

 ヒカリはそれでもまだ不安そうにしていた。ケンスケは気付かれぬ程度のため息を吐いてから言った。

 「シンジなら今日はうちの部室で寝てたよ」

 「えっ、今日一日そこに」

 「そゆこと」

 「……山岳部の部室ね」と確認するや否やヒカリはどこかに向かおうとした。

 「あ、委員長!」ケンスケは慌ててヒカリを呼び止めた。「多分もう帰ってるよ、シンジ。それに、明日はちゃんと教室に行かせるさ。今日は甘えさせてやったけど、うちの部室は防空壕じゃないんだから」

 「……碇君の家に行って来るわ。心配だもの」

 「おい、シンジなら大丈夫だろうよ」

 「でも−−」

 「それより、霧島マナも休みなんだろ。シンジより振られた彼女を心配してやるのが普通だろ」

 「……うん」

 「シンジは、俺が後から様子見とくよ。委員長は霧島のとこに行ってやったらどうだ?」

 ヒカリは気乗りしない感じだったが、分かった、と言って頷いた。

 ケンスケは一人、青い空を見上げた。

 (どうすんだよ、シンジも委員長も……肝心なところが3年前から全然変わってないじゃんか)

 

 

 市の中心部にある一高からかなり離れた場所にマナの家は建っていた。二階建の平凡な家だ。一応は市内なのだが、農地も広がっているかなり辺鄙なところで、のどかだな、という感じがした。

 ヒカリが呼び鈴を押すと、マナの母親らしき人が姿を見せた。にこやかに気さくに話しかけてくる様はさすがにマナと親子だった。ヒカリが自分の用向きを告げると、マナの母親は一旦家の中に戻った。

 「マナ、お友だちよ」奥の方から母娘が会話をする声が聞こえる。マナの母親はすぐに玄関に戻ってきた。「あ、洞木さん、でしたっけ。どうぞ、あがってちょうだい」

 「いえ、あの……具合が悪いようでしたら、たいした用事もありませんし、今日はこれで失礼しますけど」

 「いいえ、見舞ってやってください。まあ、元気なだけが取り柄の娘でして、今まで学校お休みしたことなんかないのに、鬼の霍乱、でしたっけ? 珍しいこともあるものですね。でも、風邪をひいたわけでもないみたいで、何で今日は学校に行きたがらなかったのか、よく分かりませんけど、今頃あの娘、退屈してるでしょうから、ちょっとくつろいでいってくださいな」

 「あ、はぃ」

 マナの部屋は二階にあった。マナの母親がヒカリを連れてきたことを言うと、さっさと階段を下りていってしまった。

 「……マナ、わたし……だけど」

 「入って」部屋の中からはっきりとした声が聞こえてきた。

 ヒカリはおずおずと襖を開いた。

 パジャマ姿のマナがベッドの上に座って、雑誌を手にしていた。ヒカリと目が合うと、恥ずかしそうに笑った。

 「エヘヘ、休んじった」

 「……」

 マナは明るく振る舞ったが、目には赤く泣き腫らした跡があった。

 「ヒカリ。そんなとこに突っ立ってないで、ほら、座って座って」

 「あ、うん」

 マナに言われて、ヒカリは部屋の襖を閉め、差し出されたクッションに腰を下ろした。

 「やっぱ、ヒカリに言われたとおりやめとけばよかったな。シンジ君、あんな悲しそうな顔しなくてもいいのに……何か悪いことしたみたいで、振られたことよりそっちの方がショックだわ」

 「……」

 「ねぇ、シンジ君、今日どんな顔してた?」

 「見てない」

 「会わなかったの」

 「碇君も、欠席だった」

 「え? なんで?」

 「学校には来てたけど、教室には顔出してないんだって」

 「失恋して傷心なのはわたしの方なのに……へへっ、おかしいわね」

 「……碇君も辛かったと思うの」

 「?」

 「自分が傷つけた人の痛みまで感じるような人だから」

 「ヒカリ、シンジ君のことは何でも知ってるのね」

 「えっ、そんなこと……」

 「でも、ほんとにそうかな? シンジ君、わたしが傷ついたからあんな悲しそうな顔したわけじゃないと思うの」

 「どうして?」

 「……昨日、聞いたの。振られた理由。『アスカさんって人?』ってね。そしたら、シンジ君、最初はびっくりしてたけど、頷いて認めた」

 「……その人、碇君にとって大切な存在だから」

 「んでも、それはきっと本当の理由じゃないわ」

 「え?」

 「その後ね……エヘッ、言いにくいな……わたしもちょっと何だかカッとなっちゃってさ、『そんなの理由にならない』って詰め寄ったら、シンジ君、わたしが何言っても黙ってたけど、とうとう最後に言ったわ。『マナが僕のこと知らないからだよ……僕がどんなひどい人間か知らないからだよ。僕が好きになった人間も、僕を好きになってくれた人間も、みんな不幸になる。だから、一人の方がいいんだ』ってね」

 「……」

 「よく分かんなかったわ、昨日は。でも、今はちょっと分かりかけてきた。結局、シンジ君、そのアスカって人に逃げてるのよ。自分が人を好きになれないものだから」

 「や、やめてよ、そんなこと言うの」

 「好きになれないのは自分が傷つくのが恐いから。相手から傷つけられても、相手を傷つけても、心に痛みを感じる。痛いのが嫌だから、他人を好きになれない。結局、自分が辛い思いをするのを怖がって、それであんな辛そうな顔をしていたんだわ……シンジ君、わたしのこと考えてくれてたわけじゃない」

 「そんなことない。碇君は優しいから、きっと−−」

 「じゃあ、なんで『僕のこと知らないからだよ』なんてセリフが出てくるの。わたし、あれで結構傷ついちゃった。シンジ君、確かにかっこいいけど、わたし一目惚れしたんじゃないもの。シンジ君と話したり遊んだりしているうちに、いつの間にか好きになっちゃってたから……ちゃんと彼のこと理解していたつもりだったんだけど……あんなこと言われるなんて……アスカって人はどうだったの? ちゃんとシンジ君のこと分かってたの?」

 「……お互い、一番理解し合っていたわ。同じ環境にいたし、違っているようで、同じような心の痛みをもっていた」

 「ふうん……理想的な人ね。おまけに死んじゃってるんだから、傷つけることも傷つけられることもない。思い通りの存在に仕立て上げることができるんだもん。だから、シンジ君、今でも、アスカって人に逃げて、自分が人を愛せない言い訳を−−」

 「やめて!」と、ヒカリが立ち上がって叫んだ。

 「……」

 マナは目を丸くしてヒカリを見ていた。これほど感情を露わにしたヒカリを見たのは初めてだった。しばらくすると、ヒカリは気まずさを感じ、マナの視線から逃れるように下を向いた。

 「ごめんなさい、大きな声出して。でも……碇君と……アスカのこと、そんなふうに言われたくなかったの……ごめんなさい……」

 ヒカリは絨毯の上に置いてあった自分の鞄に手を伸ばそうとした。ヒカリが帰ろうとしていることが分かったので、マナは慌てた。

 「ご、ごめん、ヒカリ」

 「マナ?」

 「別に、その……悪く言うつもりはなかったの……ただの八つ当たりだから、怒らないで」

 「……怒ってないよ」

 「ごめんね、これでもショックだったから、いろいろ考えちゃってさ……なんだかそのうちアスカって人が憎らしくなってきて……そんで、シンジ君にも腹が立ってきて……アハハ、振られた腹いせに悪口言うなんて、わたしもつまんない女ね、自分でもバカみたい」

 「……マナ」

 「心配しないで、明日は学校行くから。部活も出るし」

 「え、うん」

 「わたしが休んでるとシンジ君どんどん暗くなっちゃうもんね」

 「……」

 「もう大丈夫よ。あ!」と、思い出したように声を上げ、話題を変えた。「ヒカリ、週末オープンレースだよね」

 「う、うん。コーチが、上のレベルの人たちと一緒に走るいい機会だからって……」

 「そっかそっか。でも、それぐらいのレースじゃないと張り合いがないでしょ、県内には高校生じゃ、ライバルにならないもんね。じゃ、早く帰って調整しないといけないじゃない。今日はありがと、それと、ごめんね」と、そこまでマナは一気にまくし立てるように言った。

 だが、やがて、マナの声のトーンがぐんと下がった。

 「やっぱりよくないよね、こういうこと言うの。アスカさん、ここにいないのに。ごめんね、ヒカリ……それなりに本気だったからさぁ……やっぱ、振られたら落ち込んじゃって、嫌なことも考えちゃって、わたしらしくないよね」

 「マナ……」

 「大丈夫よ。もう大丈夫。本気だった分ショックだったの。ホントに好きだったからさぁ……」

 マナは毛布を頭までかぶり布団の中に潜り込んだ。布団の中で丸くなっているマナの肩が小刻みに震えている。ヒカリは声をかけることもできず、部屋の真ん中に立ちつくしていた。

 マナが無理矢理明るい声を作って毛布の中から言った。

 「明日はちゃんと学校行く」

 「うん」

 「今日はもう帰って……顔、見られたくないの……お風呂、入ってないし」

 「うん」

 「ありがとね、ヒカリ」

 ヒカリは鞄を持って立ち上がり、部屋の外に出てそっと襖を閉めた。

 (慰めに来たはずなのに……何でこうなったんだろ……)

 はっきりと見えたわけではないが、マナの泣き顔が目の前にちらついていた。罪悪感が胸を締め付けた。

 

 

 五月末に行われた長野県オープントラックレースを観戦したスポーツライター・三宮キヨズミは、陸上競技専門誌『T&F』のために以下の記事を書いた。

 

 

ザトペック走法の光と影

 

 スタートと同時に先頭に立ったのは女子高生は、大学生・社会人の実力者を従えたままレースを引っ張り、ついにはゴールまでトップを確保していた。

 洞木ヒカリの記録(15分10秒43)は自身の持つ女子5000mの高校記録、及び、新世紀国内記録を更新するものだった。早くも10000mで2019年の世界選手権に挑戦という話が出ている。伸び盛りの年齢とはいえ、末恐ろしいほどの成長ぶりだ。昨年、15分15秒15の記録を作ったときは、鮮烈さと期待感に満ちあふれた評価とともに、ランナーとして修正すべき欠点が多いことを指摘する声も多く出ていた。しかし、その欠点が彼女への期待感を更に高めた。欠陥だらけのランナーが、しかも15歳の少女が、これだけの大記録を作ったのだ。今後の成長の可能性を考えると希望の「ヒカリ」を見いださずにはいられない。

 わたしは、今回のレースで初めて洞木の全力疾走をを実際に目にして、希望が胸の中でますます膨らんだ。それと同時に一抹の不安を感じた。フォームの欠陥には修正の後が見られたが、スタートからゴールまで全力で走り抜けようとする破天荒なペース配分は全く直っていない。ゴール直後に倒れ込んでしまうのも前回のレースと同じだった。身体的なトレーニングとともに、セルフコントロールを学ばせる必要がある。16歳といえば精神的に不安定な時期だ。その不安定さが洞木ヒカリの走りには如実に現れている。

 女子高生版ザトペックとも言えそうな彼女の全力疾走はその記録だけでなく、見ているものを引き込ませる真摯で純粋な魅力を感じる。しかし、自分の肉体を酷使し破壊に追いつめていくような危うい狂気をも感じる。純粋さと危うさ−−光と影−−成長し続ける少女は二面性を兼ね備えている。

 

 

 ヒカリが新しい記録を出したその日の夕方。

 シンジは市内のとある小さな病院を訪ねた。

 「大丈夫?」

 ここは主に外科を専門とする医師が経営する病院で、規模は小さいが、競技場の近くに立っていることから、医務室代わりによく利用されていた。

 病室に姿を見せたシンジに、ヒカリは戸惑いながらも笑って答えた。

 「うん、何ともないわ」

 簡易ベッドの上のヒカリは白いTシャツを着て、腰から下には病院の薄い毛布を掛けていた。

 「入院するの?」

 「入院? するわけないじゃない。点滴打ってもらったからもう大丈夫。お父さんに迎えにきてもらうことになっているから、待ってるだけ」

 「そう。昼間は会えなかったから」

 「ああ、あれはね……ほんとは何ともなかったんだけどね……記者の人が病院まで押し掛けて来ちゃって、帰ってもらう理由に『面会謝絶』にしてもらったの」

 「記者の人って、新聞とか」

 「うん。あとね、碇君が見たことないような陸上の雑誌があるんだけど、そういうとこの記者さんも来てたみたい。全部で5人ぐらいいたって言うからちゃんと対応してもよかったんだけど、先生が気を遣ってくれたの。わたし、そういうの苦手だし……ごめんね、心配かけて」

 「いや、洞木さんが大丈夫ならいいんだ。そうか、また新聞に載るんだ、すごいね。あ、そうだった……新記録おめでとう」

 「ありがとう。でも、すごくないわよ。わざわざオープンレースの記録を載せてくれる新聞なんて少ないと思うし、載っても隅っこにちょこっとだけよ、きっと」

 「それでも、高校新記録でしょ……ここ何年かで誰もできなかったようなことをしたんだから、それはすごいと思う」

 「わたしぐらいの人はいくらでもいる。もっと辛い練習に耐えて苦しい環境で頑張ってる人もいるんだから、まだまだよ」

 「…………ま、まだ頑張るの?」

 「ん、何?」

 「い、いや、何でも……頑張ってね」

 会話が途切れた。

 窓から差し込む西日を受けたシンジの表情が、ヒカリには何故だか哀しげに陰っているように見えた。脳裏に、マナの泣き顔が浮かぶ。

 「ねえ、碇君……マナのことだけど」シンジの肩が一瞬びくっと震えるのが見えたが、ヒカリはそのまま言葉を続けた。「おつきあい、してみたら?」

 「……」

 ヒカリは不誠実の臭いを感じていた。マナが可愛くて性格のいい少女であることは、全く嘘ではない。胸を張って言えることだ。ヒカリの感じていた臭いは、いまここで、わざわざマナとの交際をシンジに薦めている自分の態度からのものだった。自分が本心から、この進言をしているのかどうか疑問だった。

 その疑問に気づくが恐くもあった。急いで、言葉を継ぎ足した。

 「い、碇君もきっと好きになれるよ、マナ、いい子だもん」

 「洞木さんがそんなこと言うなんて思わなかった」シンジは少し怒ったように言った。「アスカのこと知ってるのに」

 「ア、アスカは関係ないと思う……碇君がマナを嫌いじゃなかったらいいんじゃない。アスカだって今更ヤキモチ焼いたりしないわよ。それより『アスカがいるから』なんて理由で碇君がこれからずっと一人でいるつもりだったら、アスカ、きっと怒るよ」

 「どうして? 僕はアスカのこと、大切に思ってるだけだよ」

 シンジは反論した。そして、訴えかけるような目でヒカリを見つめた。

 「そうかしら?」

 ヒカリはシンジの視線を受けとめながら、尋ね返した。

 「そうだよ」

 「アスカと約束したんでしょう……『幸せになる』って」

 「……」

 「アスカのために一人でいるのが碇君の幸せなの?」

 「……いいんだ。僕はそれでも」シンジは言ったが、視線は壁に貼ってあるカレンダーの方に移していた。

 「そんなの認めてくれないよ、アスカは」

 「何だよ、洞木さん……いったい何が言いたいのさ」

 「碇君は、人を好きになるのが恐いの?」

 「!」

 シンジは冷水を浴びたような気持ちになった。反論しようと思ったが、体も口も強ばって、すぐには声を出せかった。

 「人を好きになるのが恐いから、好きになれない。人を好きになれないから、アスカをいいわけにしているんじゃないかしら」

 「い、いいわけになんかしてない。僕はほんとにアスカ一人が好きなんだ……アスカだけでいい」

 「……マナ、泣いてた。ほんとに碇君のこと好きだったんだよ」

 「……」

 「碇君は人からちゃんと愛されることができるのよ、人から愛される人間なの。だから−−」

 「だからって、僕が人を好きになっちゃいけないんだ。僕はひどい人間だから。洞木さん、知ってるでしょ。僕がエヴァでトウジに何したか」

 「あれは……碇君のせいじゃないんでしょう」

 「もっとひどいこともしたんだ。僕、洞木さんには言えないようなことをしてるんだよ……大切な人を傷つけて、そしてこの手で−−」カヲルの微笑みと右手の感触が思い出される。(命さえ奪ったことがあるんだ……)「みんな、本当の僕を知らないんだ」

 「知ってもらおうとした?」

 「するわけないじゃないか!」と、シンジは叫んだ。「そんなこと、できるわけ……誰にも知られたくないことなのに」

 「それじゃあ、本当の碇君の姿を誰も知ることができないじゃない。碇君の全てを知った上で、碇君のこと好きになる人だってたくさんいるはず。碇君はそれだけ人から愛される人間なのよ」

 「そんなわけない。本当の僕なんて、僕は嫌いだよ」

 「……そんなふうに言ってたら、アスカとの約束、永遠に守れないわよ」

 シンジは言い返す言葉が見つからなかった。冷静になれず、思わず口走った。

 「洞木さんだって……人のこと言えないじゃないか」

 「わ、わたしが?」

 「洞木さんが走ってるの、トウジのためなんでしょ」

 「えっ!」

 「どうなの?」

 シンジの目が再びヒカリを捉えた。

 「か、関係ないわ。ただ……鈴原が一人でリハビリ頑張ってるときに……アスカが病気と戦っていたときに……わたし、逃げ出した。鈴原もアスカも、わたしよりもっと苦しかったのに、わたしは逃げた。だから、どんなに苦しくても、頑張って走らないと後悔するって分かったから、走り続けられる。そういうことはあるわ。でも、それだけのことよ。鈴原のためなんて思ってない。わたしが走りたいから走っているの」

 「だからって、ゴールした後、担架で運ばれるような走り方をしなくてもいいはずだよ」

 「あれは……単なるスタミナ不足よ」ヒカリの声が小さくなった。

 「まるで自分を苦しめるために走っているみたいだ」

 「そっ、そんなことない」

 「洞木さんは、トウジよりも苦しい思いをすれば逃げ出した罪が軽くなるって思ってるんだよ。そんなの欺瞞だ。自分を苦しめたり……自分の体をそんなふうに痛めつけたりしてるのを見てたら、トウジきっと怒る。それこそ本物の罪悪だよ」

 「……」

 「もうやめなよ。普通に走ればいいじゃないか」

 「碇君の普通とわたしの普通は違うわ」

 「洞木さんだってトウジのことをいいわけにしてるんだ」

 「えっ!?」

 「楽しいことや気持ちいいこと……幸せだって感じることを怖がってる。だから、自分で自分を苦しめて怖いのをごまかしているんだ」

 「そんなこと……」

 ヒカリは自分の足を被っている毛布に視線を落とした。

 「洞木さんだって、誰かを好きなろうとしてないくせに」

 「……」咎めるようなシンジの声に、ヒカリは無言で恐れを感じた。

 「洞木さんだって、自分が嫌いなくせに」

 「……」悔しさを感じた。

 「洞木さんだって、何が幸せか知らないくせに……何も知らないくせに」

 「……」怒りを感じた。「い、碇君は……何を知ってるって言うのよ!」

 「知ってるよ!」

 「嘘!」

 「嘘じゃない!」

 「碇君、何にも知ろうとしてないじゃない!」

 「僕はちゃんと知ってるよ!」

 「何を!?」

 挑戦的なヒカリのつぶやきに、シンジは声を詰まらせた。しかし、瞬間的に『負けたくない』と思った。言い返した言葉は−−

 「キ、キスしたことある?」

 「な、何を……」

 「キス。洞木さん、知らないでしょ」

 「……碇君は、したことあるの?」

 「あるよキスぐらい」

 (どうせアスカに『された』んでしょ。何強がってんの、バカみたい……)ヒカリは声には出さないで頭の中にそんな言葉を並べていた。

 「してみる?」

 「……え?」

 「キス、してみる?」

 ヒカリの戸惑いを見て、シンジはさらに問いつめてみたくなった。変な優越感がシンジを突き動かしていた。

 「わ、わたしと?」

 「うん」

 「あの、でも……」

 「僕とじゃ嫌?」

 「そういうわけじゃ……」

 「やっぱり……トウジなんだ……自分を虐げて走っているのも、トウジに許してほしいからなんだ」

 「わたし、そんなつもりで走ってるんじゃない!」そう叫んで、ヒカリはきっとシンジを睨み付けた。

 「……」シンジもヒカリを睨み返した。

 「……いいわよ、キスしよ」

 「え?」

 「しよ」

 「……ほ、本気?」

 「ええ」

 「怖くないの?」

 「……怖いわ」

 「じゃ、無理だよ」

 「怖くったってできるわ、キスぐらい……」ヒカリの意地。そして、僅かな好奇心。「できるわよ」

 「……いいの?」シンジの優越感。そして、もやもやとした欲望。

 「いいわよ」

 ヒカリが答えてから、数秒後、シンジが動いた。ヒカリの両肩に手を置いて、正面から向き合った。

 「目、つぶってよ」

 ヒカリはまるで苦いものを飲み込むときみたいにしっかりと瞼を閉じた。シンジがヒカリにゆっくりと顔を近づける。

 

 5センチ、4センチ、3センチ、2センチ……

 

 ヒカリがぎゅっと閉じた瞼の隙間から涙をにじませているのが見えて、シンジはとうとう動きを止めた。

 「……もういいよ」

 シンジの言葉を聞いて、ヒカリは目をゆっくり開けた。

 「……なんで?」

 「やめとこうよ」

 「やめる必要なんかないじゃない」

 「やめようよ……怖いんならさぁ」

 

 「…………怖がってるのは碇君でしょう!!」

 

 ヒカリは再び目を閉じた。次の瞬間、ヒカリの手がシンジの頭を掴んで引き寄せた。

 「!」

 顔と顔がぶつかったような不器用なキスだった。シンジは頬を伝う湿った感触にはっとした。怒りとも悔しさともとれる表情で、きつく閉じられたヒカリの瞼の隙間から、一滴の涙が伝っていた。


続く
川原にメールを出す
メールアドレスはikedarさんのをお借りしております。
subject(件名・タイトル)を「kawahara」にするなど、
川原宛であることを明記していただけるとありがたいです。

アスカ「・・・気持ち悪い

Crow「・・・いいかげん聞き飽きましたよ、そのセリフは・・・(-_-;)」

アスカ「女にキスしようとして怖気づいて、挙句の果てに女の方からキスされるなんて・・・情けない。不甲斐ない。気持ち悪い

Crow「・・・言ってる内容のわりには、あんまり不機嫌そうではにのはナゼ?」

ヒカリ「・・・ふんだ、よく言うわ・・・碇君のファーストキスを奪った挙句、うがいなんてしてのけて碇君を傷つけたのはアスカじゃないの。最低よ(-_-メ)」

Crow「・・・な、なんかヒカリ君、キャラが違いませんか・・・?(・・;)」

ヒカリ「・・・別に(-_-メ)」

アスカ「ふっふ〜ん、シンジの方からキスしてくれなかったんですねてるのよ。横恋慕はつらいわね〜(^_-)」

ヒカリ「・・・・・・」

Crow「い、いやな沈黙・・・(^_^;)」

アスカ「その点アタシなんて、ちょ〜っとからかってやればシンジなんてお手の物よ。それこそ、キスはもちろんことあ〜んなことこ〜んなことまで・・・>^_^<」

ヒカリ「な、なんですってぇ!? ちょっとアスカぁ!!! アンタ、そんなこと碇君としたのっっっっつ!!?(>_<)

アスカ「ぐぎ・・・がが・・・ち・・・ちょっ・・・ヒ、ヒカ・・・苦し・・・(~o~)」

Crow「わああ、ち、ちょっとヒカリ君、アスカ君の首が、首がしまってるって!!! お、落ち着いて・・・(@_@)」

ヒカリ「これが落ち着いていられるかぁ!!! 殺してやるううううぅぅぅぅぅうっっっっ!!!(>O<)

Crow「ひいい、殿中でござる、殿中でござるう〜〜〜〜〜っっつ!!!(+O+)」
戻る