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人生29歳変動説:あなたの転機はいつでしたか?

1999年5月10日  田口ランディ

 
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 前回掲載した「ととほな人々の生きる道」という原稿に対して、書いた私がびっくりするほどの、たくさんの感想を送っていただいた。そのなかに「私はとほほのとほほだ。どうやったらとほほと能天気に生きられるか悩んでいる。とほほになれなくてとほほとしている」というメールがあった。

 実は私は、こうした内容のメールをときどき……というか、いっぱいいただくのだ。(誰かと比較したわけではないので、多いのか少ないのかわからないのだが、私的には、すごくいっぱいだ)

 メールの内容はさまざまなのだけれど、私には、一つのことに多くの人が悩んでいるように受け取れる。それは「自分を好きになれない」ってこと。自己肯定がうまくできないってこと。

 なので、今回はさらに「とほほのとほほな人の生きる道」について考えてみました。

 以下に私が書く話は、まったく眉唾な話であり、何の科学的根拠もないですよ、ということをまずお断りしておきますね。そして、こういう非科学的な話なんか大嫌いだ……という方は、読まない方がよいかもしれない。

 ええと、私は10年間、編集者をやってきて、数多くの文化人、名士、タレントさん、学者さんなどなどに、取材という名目で会ってきた。で、その経験を通して、とても不思議に思うことがあったのだ、それを私は「人生29歳変動説」と呼んでいる。

 いろんな人の話を聞くと、かなりの確率で……というか、びっくりするような確率で、29歳で人生の転機を迎える人が多いのである。29歳には何かある、とつねづね思ってきた。そういえば、ブッダが出家したのだって29歳だった。

 この29歳の転機というのは、その人の天職というものと非常に深く関わっている。29歳で、自分の価値観や、携わっている行為に対して疑問を持ち、そして疑問を解決すべく行動した人はその後、32歳の時に別の転機と遭遇するのだ。

 で、この32歳の時の転機が、自分の天職を決めていく。その後、35歳、38歳と順調に自分の人生の意味を見いだし、42歳前後で迷いが出る。

 この40歳代の迷いというのは、身体の変調という形で表出したり、もしくは女性に恋をしてしまう……というような形で現れたりするのだが、とにかく心と身体が動揺し、それを経験することによって、本当に自分が望んでいる生き方とはどんなものかを再確認し、それが完了すると50歳から「奉仕」というものを仕事の中心に据えて、生き始めるようなのである。

 ちなみに、女性の場合はもうちょっと変則的だったりする。男性社会の中で生きている女性の場合は、やはり29歳で転機をが来ることが多いようだ。でも、社会から一度リタイアして結婚してしまったりすると、これがもう予測のしようがない。女の人生の方が、定義しづらい。

 出産を契機にして、女性の運命は、どっちに転ぶか見当もつかない。どうも女性というのは、子供を産むという行為を通して、男が一生かかって成し遂げることを、一気にやってしまうようだ。

 29歳で自分の人生の転機をつかんだ男が、その後に最終的に目指すのは「世界のために一隅を照らし、人を育てること」であり、それは女性の子育てと似たようなことなのだ。

 男が60年かけて到達することを、早い女性は20代でやってしまうわけで、じゃあ、子育てが終わってしまった女性は何をするのかというと、問題が個別すぎて、私にはよくわからない。

 もう一度断っておくけれども、これはあくまで私の、取材経験に基づく単なる迷信であり、統計的な根拠も、科学的な根拠も何もない。ただ、いろんな人にインタビューすると、みんななぜか29歳を自分の人生の転機にしているなあ、と思っただけだ。

 もちろん例外だってたくさんあるし、私は全世界の人にインタビューしたわけではない。たまたま、私が会った人の多くが、29歳を転機として語ったのだ。

 
●29という数のもつ力

 古神道に詳しいという、音楽家の宮下富実夫さんにお会いした時に、なんと宮下さんが私と同じことを言いだすのでびっくりした。宮下さんっていうのは、音楽療法の元祖であり、あの安室奈美恵さんも胎教のために宮下さんのCDを聞いていた……というお方だ。

 「言葉にも言霊があるように、数にも数霊があるんですよ」と宮下さんは言う。

 で、数字は十進法であり、9で転換する。だから9は物事を転換させる力をもっていると言う。確かに、数字は生活に密着した記号であり、そこに人間がなにかしらの象徴的意味を見いだしているとすれば、数霊という存在も理解できなくもない。

 そして宮下さんは、かのように断言した。「29歳の時には、どんな人にも数霊が開くんですよ」

 「はあ?どんな人にでも、ですか?」「そうです。数霊が開き、本質的な人生への扉を叩くチャンスが、誰にでも平等に開かれます」

 「ふーむ、確かに私も社会的な成功を収めた人に取材すると、なぜか29歳で転機を迎えた人が多いんですよねえ」

 「29歳の時に、自分の人生について考え、自分を信じて勇気をもって行動すると、天職への道を歩み始めることができるんです」「ふーん」

 もちろん私は半信半疑である。「じゃあですねえ、29歳の時に扉を叩きそこなった人は、どうなるんでしょうか?」

 すると宮下さんは、あっさりと言うのである。「もうダメですね」

 「はあっ?」「すべての人に与えられた平等なチャンスを見送ってしまったわけだから、迷いの多い人生になりますねえ」

 「そりゃあ、あんまりじゃないでしょうか?」「いや、でも、来世ってのもありますから、あせらなくても大丈夫ですよ」「そうは言っても……」「わははははは」

 この時、私は必死になって、自分が29歳で何をしたか思い出そうとした。そして、パソコンネットワークを始めたことを思い出して、なんだか心底ほっとしたのだ。

 私はかように気が小さい。来世とか言われたって、そんな先の、あるかないかわからないことに希望をつなぐ気には、私にはとてもないれないのである。

 
●されど転機は誰にでもある

 ここまで読んできて「俺は29歳の時に、何もなかった」という人が、きっといらっしゃるのではないかと思う。

 「私は29歳の時に、とりたてて何もなかった」と、今、自分の記憶を検索しながらエピソードを探している人がきっといらっしゃるのではないかと思う。もしくは、まだ29歳になってない……という人、今まさに29歳だという人。

 そうなんだよ、いろんな人がいるわけ。宮下さんには宮下さんが生きるための神話があり、そしてブッダにはブッダの神話があったのだと思う。

 それを表現することができる人が神秘を語るのだが、神秘とは個人的な出来事なのである。ある人に起こっても私に起こるとは限らない。だって、神話は人それぞれだから。

 29歳にとりたてて何もなかった、どんな転機も訪れなかった人は、たいてい「でも、30歳のときにあったな」「28歳のときにあったな」とか言うのである。

 私はこの話をずいぶんといろんな人にしてきたが「自分に転機がなかった」という人には、一人も会ったことがない。本当に一人もである。人間はみんな、どっかでなんかしらの転機を経験しながら、そして生きている。それは事実なんだ。人に聞かれれば「転機」というのは絶対に見つけられる。

 でも自分の人生は、自分しか経験していないから、その転機の目撃者は自分だけなんだ。これがすごくて悲しい。自分の人生の目撃者は、自分しかいない。

 だから、目撃者である自分が信じられないと、自分の人生そのものが信じられなくて、自分の転機ですら、人に聞かれて「そういえば……」と思い出す程度なのである。

 そこで、私はこう考えてみることにした。

 つねに意識的に生きている人は、自分の転機を自覚している。というよりも「転機にしてやる!」という心意気のようなものがあり、積極的に転機にしている。

 無自覚的に生きていると「そういえば、あれが転機だったのかなあ」という程度の認識で生きている。でも、どちらにしても転機はあるのだ。

 どちらにしても「転機はある」というのが、すごいことだなあと思うわけだ。自覚しようがしまいが、転機があるのだ。そして人生は流れていく。

 世間的に成功する人は「転機よ来い!」とばかりに生きているし、そうでない人は「あれ、今って転機だったんだっけ?」と生きている。それでも転機はあるのである。どんな人生にも気前よく。

 ただ「とほほに生きる」私たちには、誰も質問なんてしてくれない。「あなたの転機はいつでした?」なんてことを一般人はめったに聞いてもらえない。聞かれないから、意識もしなくなるのだ。でも、聞かれれば、やっぱりある。

 私が、パソコン通信で自分のことについて書きだしたのは、自分の人生を意識化したかったからなのかもしれない。だって私は一般人で、無名な女なので、誰も何も聞いてくれなかった。

 人の話はいっぱい聞いた。それが職業だったから、でも相手は私の話なんか聞いてくれなかった。だけど私だって、話したかったんだと思う。自分の人生について。話すというよりも、語りたかったのだと思う。自分について。

 
●話すことと語ること

 私はよく、インタビュー原稿をまとめる時に「●●氏は、こう語った」と書く。

 でも、普通の人と話している時に「山田さんがこんなこと語ったんだよ〜」とは言わない。そういう時は「しゃべった」とか「話した」とか言う。

 人生は「語る」である。人生を「しゃべる」とは言わない。語ると話すは別の行為だ。そして、私たちは時々「語りたい」のだ。「語らない」と自分がわからなくなる。自分を見失ってしまう。なぜだかわからないけど、人には「語る」ことが必要なように思う。

 たとえば「私の転機について……」自分の人生がどうで、こうで、ああなって、そして転機があったのよ。そうやって語りたいのだと思う。語らないと自ら意識できないことが、たくさんある。

 人生の目撃者は自分だけだから、自分が常に経験の主体だ。だけど、時おり主体を離れて、自分の人生を客体として語ってみることが、人が生きるためには必要なのだという気がしてならない。

 語るは騙る、に通じる場合もある。時には、語ることに嘘が混じる。それが大切なんだなあって思う。語る……は物語に通じるのだ。自分の人生を物語ること、自分の神話を語ること。それがいま、とても必要とされているような気がする。

 インターネットの普及とか、電話とか、ファクシミリとか、情報伝達の手段は猛烈な勢いで増えた。それによって、いろんな人の人生が暴露されて、テレビでもうんざりするくらい、人の生き様が紹介されて、そして、いろんな人が自分について語る。それを耳にしたり目にしたりする機会が増える。

 だけど、圧倒的に多くの人は、誰からも質問されない。いくら露出する人間の数が増えたとはいっても、圧倒的に多くの人は「その他大勢」であり、誰も目撃しない人生を淡々と生きているのだ。そして、語る機会は奪われていく。

 たまに人生を語ろうと思うと、子供たちはさーっと部屋に逃げてしまう。過去を語ろうとすると、孫に疎んじられる。自分の夢を語ろうとすると「お母さん、いい年して何言ってんのよ」と言われてしまう。

 友達に「人生は29歳の時に、すべての人に平等に数霊が開くんだよ」と語ったら「アンタ何か変な宗教にでも入ったんじゃない?」と言われた。私が語ると変な人と思われる。だが、音楽療法家の宮下さんが語ると説得力をもつ。そこが違うのだ。

 私は今この瞬間だって「29歳人生変動説」なんて書いたら、理系の読者から「根拠のないインチキを書くな」という怒りのメールが来るのではないか、とおびえている一般人だ。私が語ると騙りととられる。一般人が自分の人生を物語ると「騙り」ととられるから、恐ろしくて口をつぐんでしまうんだ。

 だけども、やっぱり語りたいし、聞いてもらいたい。そして、あまりにも長いこと語らないと、たったひとりで、この淡々とした人生を生きていく力、生活者のバカ力が、萎えてきてしまうのだ。

 
●物語る力

 石原慎太郎さんにロングインタビューをしたことがある。おととしの冬だった。

 とにかく語る語る、語りまくる。すごいパワーである。あれだけのお方だと、人生はすべて物語である。小説家だし、あらゆることを物語にしてしまう力がある。まるで太陽だ。自分が中心。まずは自分が一番。自分をさしおいて他人にかかずらわっている輩は「くだらねえ」のである。

 そして、さらにすごいのは「まあ、あんときはああ言ったが、あれは見栄だから」というセリフが、ポンポン飛び出すのである。

 さらに話の合間に感想を言おうとすると「黙って俺の話を聞け」と怒るのである。

 そして延々と語るのだ。語りつきない。私のような小娘を相手にしてでも世界を語る。うらやましいなあと思った。今を生きるために自分を物語る力、そういうパワーをもっている人は、うっとおしいくらいに自分を愛している。

 実は、私は卑屈な人間なので、石原さんのように自分のことを心底好きで、自分を愛している人間ってのを見ると、うっとおしく感じる。ひがみである。でも、ひがむって事は、やっぱり私は自分をもっと好きになりたいんだなあと思った。

 石原さんに会った時に、私は久しぶりにひがんだ。この人はなんて自分の人生が好きなんだろうって。うらやましかったんだと思う。あまりに好き放題に生きていて楽しそうで。

 「石原さん、本当に人生が楽しそうですねえ」と言ったら、「あんたも、好きに生きたらいいじゃないですか」と言われた。

 ごもっともである。

 くそう!私だって人生を語ってやる、と思った。語れば元気になれるのだ。

 それは私の直感だった。語ることで人間は自分という物語を再構築し、そして、今、生きている自分を好きになれる。人は身体と同時に、言葉で編まれた自分(神話的自分と私は呼んでいる)を持たなければ、楽しく生きていけないのだと思う。

 それは「29歳で数霊を開いた自分」でもいい「30歳で女神のような女性に大恋愛した自分」でもいい、「光と風を感じながら日々を美しくいきる私」でもいい。神話的自分がいて初めて自分を愛せるようになるのだ。

 
●というわけで、あなたの転機はいつでした?

 語る場、というのが家庭や共同体の中にあったら、本当は一番いいのに、と思う。

 たとえそれが騙りであっても、嘘であっても、のほほんと受け止めてしまえるだけの度量が家庭にあったら、多くの人は、自分の嘘を越えていける。「あんときは嘘ついた」と、すらっと言える自分の、なんという気持ちよさと思う。

 話す場はあっても、語る場は少ない。今「語り」は一般人に門戸が開かれていない。だから自費出版がもてはやされるし、素人がテレビに露出する。でも「語り」は消費対象にされてしまうと、本来の「カタルシス」を失う。「語り」は経済になってはいけない。「語り」は「祈り」のような行為なのだ。

 私はニフティ・サーブの中で「ライティング・フォーラム」というフォーラムを主催しているのだけれど、このフォーラムはまさに、自分を物語るためのフォーラムだ。

 会議室の書き込みも、「されど我が人生」の百花繚乱だ。「とてもこんなクサイ書き込みにつきあえない」という人も多い。そういう人は去る。そして、残った人は人生を語る。

 あんまり流行ってもいないフォーラムで、書き込む人もごくわずかだけれど、それでもネットワークのなかの辺境の地に「自分を語る場所」というのを築いてみたかった。

 私は、語り合う……というのがあまり好きじゃない。語りとは一方的なものだ。会話とは違う。その点、不特定多数の相手に一方的に自分を表現するパソコン通信は「語る」のに向いていると思ったのだ。

 さて、あなたの人生の転機はいつでした? それはどのように起こって、今のあなたがここにいるのですか。語ったことありますか。

 私も実は、こうして語ることで、日々の淡々とした生活を支えている。ともすれば埋没しちゃいそうになる日常を「良き日」として再認識するために、日々書き続けている。私は自分のことしか書けない不器用な書き手だ。他には何もできない。語るのは、まず、自分のためだ。

 自分について語るとき、人は自分に優しくなれる。自分についてしゃべる時は、けっこう自分に冷たい。ダメな奴だと謙遜し、人生ロクなことなかったよなあ……としゃべる人が多い。それはしゃべってしまうからだ。人生はしゃべっちゃいけない。語らないと。

 人生について語る時、なぜか人は自分を愛するように語る。そして自分を愛するように語れた時、自分が自分を好きだったことに気がつく。語ることは、自分が自分を憎んでいないこと、愛してることを教えてくれるからいいんだ。

 だから、語るほど元気になる。人生は語らないとあかん。必死で語っていると、自分のために泣けてくる。ああ、あたしって、こんなにがんばって今まで来たんだな、って。そういう自浄の力を「語り」はもっている。

 とほほのとほほだと思ったら、語りましょう、しゃべらず。多くの人は、しゃべりすぎて自分を傷つけている。語ることは自分を傷つけないのに。だってそれは祈りだから。祈りだから、つぶやくだけだっていいのだ。書くだけだっていいのだ。誰かに語ることを前提に、頭のなかで考えてみるだけでも、効果はある。

 さて、質問。人生の転機はいつでしたか。もしかして29歳でしたか。それはどんな転機でしたか。そして、その時に何を選択しましたか?

 
田口ランディ

 筆者へのメールはrandy2@newsjpmsn.comまで。

 
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