「いじめ・全能感・世間」


                                                                                                      内藤朝雄

 

 

                        (1995年 『季刊 人間と教育』第7号、労働旬報社: p.70−82)
                                                                                                  


(リーダー)   いじめは、さまざまな秩序がせめぎあうなかで、いじめタイプの秩序が他を潜在化させつつ独自の位置を占めているのだから、いじめの秩序を徹底的に破壊し他の秩序が繁茂する条件をつくりださなければならない。その破壊すべきいじめの秩序とはどんなものか。

0・はじめに

 「いじめ」を手がかりにして、人々がリアルな体験を生きる場としての「世間」を見ていく。すると子どもの「世間」であれ、大人の「世間」であれ、群であることの特徴的で構造的な「いきがたさ」「いきぐるしさ」が浮かび上がってくる。
 以下、第1節で基本的観点を提示する。第2節で、「いじめ」中学生たちの「世間」を理論的に概観する。第3節では「山形マット死事件」をめぐる地元での聞き取り調査を紹介する。


 1・基本的観点――「いじめ」のとらえ方(p.70−72)


 「いじめ」をしているある中学生は教師に抗議する。「いじめは良くないと思うが…やっている人だけが悪いんじゃないと思う。やる人もそれなりの理由があるから一方的に怒るのは悪いと思う。その理由が先生から見てとてもしょうもないものでも、私たちにとってはとても重要なことだってあるんだから先生たちの考えだけで解決しないでほしい」。別の中学生は非難する。「いじめられた人はその人に悪いところがあるのだから仕方がないと思う。それと先生でもいじめられた人よりいじめた人を中心に怒るからすごくはらたつ。だから先生はきらいだ。いじめた人の理由、気持ちもわからんくせに」(竹川,1993:117-120)
 中学生たちは独自の体験構造と自生的秩序を生きている。彼らは彼らに特有の「よい」「わるい」を体得しており、それに対してかなりの自信をもっている。中学生の言いたいことを筆者なりに代弁してみよう。「私たちの体験のリアリティから遠い知識としては、いじめは確かに悪いのだろう。けれども、そのような普遍的な人権やヒューマニズムの善悪の彼岸にもっと大事な、私たちの気持ちがひとつのノリとなった共同体の美学=倫理がある。だから、いくらあなたが強者でも、一方的に前者の立場から後者の立場を切って捨てるな。」
 多くの「いじめ」論者たちは、特定の倫理秩序の崩壊をもたらしながら構造的に「いじめ」を生んでいる集団の体質のようなものを問題にする一方で、大人から独立した「子どもたちなりの世界(そして倫理秩序!)」を尊重すべきことを自明視する(一例としては、前掲引用文の次頁)。この二つはまったく同じものの別の言い方に過ぎないにもかかわらずだ。この「……なりの世界」をとりあえず自生的秩序と呼んでおこう。おそらく彼らは、次の二つの先入観に囚われている。@自生的秩序は単数である。A自生的秩序は自生的秩序であるがゆえに尊重しなければならない。
 それに対して筆者は、(顕在的あるいは可能的な)さまざまな自生的秩序がせめぎ合い淘汰し合う生態学的な場で、あるタイプの自生的秩序が他を圧倒した局面として、「いじめ」の場を考える。「いじめ」タイプの自生的秩序は、そうであり得たかもしれない別のタイプの自生的秩序群を潜在化しつつ、独自の位置を占めて存立する。この観点からは、「いじめ」タイプの自生的秩序を生態学的劣位にもっていきつつ破壊することが、他のタイプの自生的秩序の繁茂の条件として要請される。またその逆も然りである。校則自由化(リベラリスト)勢力に対して、教師と結託して秩序維持のための「いじめ」暴力闘争を展開する「つっぱり」グループは、自生的秩序の生態学的布置のなかで自分たちがどこに位置しているかをよく心得ている。
 筆者は、「いじめ」の場としての自生的秩序を徹底的に破壊しなければならない、という立場を取る。そのために、この破壊すべき自生的秩序のメカニズムを徹底的に明らかにする必要がある。
 これまで暫定的に自生的秩序と呼んできたものを、システムとして捉えてみよう。自生的秩序とは、@人々が社会や自己や他者を体験する枠組(社会の中での心性)と、Aその枠組において体験されながら生起するコミュニケーションが連鎖・集積して自生する社会秩序(心性に基づく社会)とが、B相互に他を産出しあうシステムである。自生的秩序のこのシステム論的表現を、心性-社会(イントラ・インター・パーソナル)システムと呼ぼう。ここでいう体験の枠組とは、外的社会関係のなかで内的関係表象構造が働く仕方である。
 ところで「世間」という日常語は、「社会がどうできているか」についての体験構造と自己や他者や関係(の存立)を体験する構造とが、不可分に結びついた全体としての、ある特有の体験構造を含意している。筆者は、心性-社会システムをこの二重の体験構造の特有の内実に焦点を当てながら扱うとき、それを索出的に「世間」と呼ぶことにする。
 筆者はわれわれの多くが属する心性-社会システムあるいは「世間」の内実を、次のような「いじめ」に関連する事象を読み解きながら具体的に確定しようと試みる。すなわち、@「いじめ」と呼ばれる迫害が実際に生起する仕方そのものが、そして、A身近な生活体験領域に「いじめ」が(話題としてあるいは事件として)さし挿まれる事態に応答するさまざまな営為が、問題となるシステムの特有な形を反照的にくっきり浮かび上がらせるだろう。筆者は、最初に定義した「世間」を、典型的な事例において「いじめ」関連事象から照射されて浮かび上がる特徴からだけ純粋化し、以下ではそれを「世間」と呼ぶことにする(理念型の索出的な絞り込み)。これは、一定の染色液から染め出された神経系だけから成る蛙の標本のようなものだ。どこにでもいる蛙のありふれた性質は、このような珍しい標本を通じて、はじめて明確化することができる。この作業によって、無限に多様な現実が、一定の形において「見える」ようになる(「中学生」や「地元の人々」は、このような理論モデルの担い手である限りにおいて、次節以下で問題となる。すべての人が均一に、当論考で問題となるような生だけを生きているわけではない)。


 2・「いじめ」中学生の「世間(p.72−78)


 青木悦はある中学校で浮浪者襲撃事件について講演をした。大人たちが「人を殺したという現実感が希薄になっている」といったことを話しているとき、中学生たちは反感でいっぱいになった。ほとんどの生徒たちは挑戦的な表情で、上目づかいににらんでいる。突然女生徒が立ち上がり「遊んだだけよ」と強く、はっきり言った。まわりの中学生たちもうなずく。「一年のとき、クラスで“仮死ごっこ”というのが流行ったんです。どちらかが気絶するまで闘わせる遊びなんですが、私は『ひょっとしたら死んでしまうんじゃない? やめなさいよ』と止めました。そしたら男子が『死んじゃったら、それはそれでおもしろいじゃん?』というんです。バカバカしくなって止めるのをやめました」。「ほんとに死んじゃったらどう思うだろう?」耐えかねたように一人の教師が言った。「あっ、死んじゃった、それだけです」。別の生徒が続ける。「みんな、殺すつもりはないんです。たまたま死んじゃったから事件になってさわぐけど、その直前まで行ってる遊びはいっぱい学校の中であります」。彼らは優等生にも見える普通の中学生たちだった。(青木、1985)
 以下で「いじめ」中学生たちの「世間」を理論的に概観する。上の事例だけでなく筆者が目を通した多くの事例を背景に論じているが、今回はそれらをひとつひとつ引用しながら挙示することはできなかった。


 〈全能感希求といじめの関係〉(p.73−74)


 中学生たちは「世間」のなかで、自己感覚を救済するために全能感ノリを希求している。全能感とは以下のメカニズムで生じる錯覚である。@現実的にどうしようもない無力・欠如状態に長期的におかれ、認知情動図式のすりかえ加工を過剰に行うことで、Aどうしたら充足できるかの認知情動図式が壊れて漠然化する。Bその漠然化のために、何をしてもリアリティがずれた感覚に苦しみ、慢性的で漠然とした空虚感とムカツキにとりつかれる。この状態が全能感存立の構造的基底である。Cこの状態にあって、無限の何かを望んでいるかのような漠然とした感覚が生じる。Dそして、この望みがかなえられた(とすればそうであろう)状態をなぞる(かのような)錯覚にふけるようになる。この錯覚が全能感である。
 この全能感希求が体験構造にくい込めばくい込むほど、すなわち、全能感希求に準拠して内的表象構造を組み、認知情動図式を作動させればさせるほど、認知情動図式は漠然化し壊れていく。この破壊による欠如が、ますます最初の全能感希求を昂進する。
 全能感は、@一定の筋書(内的表象構造)のかたちをとり、Aそれが他者の表情や身振り(外的現実)でもって具現(マッチング)されなければ、錯覚としてすらリアルに体験することができない。
 「いじめ」中学生の全能感の筋書は、「完全にコントロールするものと、完全にコントロールされるもの」というものである。それには「王者と奴卑」「思いのままに創造を遊ぶ神とその玩具」「嗜虐コントローラーと崩れ落ちる被虐者」といったヴァリエーションがある。これらの筋書を具現する素材として「おもちゃ」身分の者が使用される。
 全能感を体験するために特にこの筋書が選好されやすいのは、過去にコントロールされ痛めつけられた体験を、投影性同一視でもって癒すためでもある(基底的な原因は、「学校とは心と心が共振し融け合う場(コミューン)である」という状況定義に対して、拒否権の行使が認められていないことである)。すなわち、「いじめ」る側は、痛めつける役を生きながら同時に、自分が現に痛めつけている相手の中で「過去の痛めつけられた自己」をもう一度生きる。例えば、自分が痛めつけているにもかかわらず、痛めつけられている「相手=過去の自分の投影先」を見てむしょうにイライラする。そして、ますます痛めつけ、えらぶって超越や達観をおしえさとしたりし、またイライラして痛めつける。こうして相手をさんざんいじくりまわしたあげく、やっと、「いじめ」られているのではなく「いじめ」ている自分を心の底から確認し、過去のみじめな自分から少し離脱したような気になることができる。
 「いじめられっ子」という容器は、「過去の痛めつけられた自己」を入れると「現在の痛めつける自己」を返してくれる。これは単なるうっぷん晴らしというよりも、痛めつけられて半壊した自己を修復しようとする営為でもある。
 中学生たちは、全能感筋書を具現して自己を補完する他者、自己の延長として情動的に体験される他者、すなわち「おもちゃ=自己対象」を切実に必要としている。自己感覚の欠如から全能感ノリを求める者は、そのノリを自己(の補完)として生きているので、おうおうにしてその全能感の場を、つかの間の「生命」のようなものと感じる。このつかの間の「生命」感覚が、中学生たちの美学=倫理=規範を支える中心である。
 他者を「おもちゃ=自己対象」として使用しながら、この集合的な「生命」としての全能感ノリを、リアルな体験としてつくり出す共同作業が、「遊び」である。中学生が「いじめ」を「遊び」というときの「遊び」とは、彼らの体験構造と自生的秩序を構成する重要な営みなのである。


 〈いじめられる子は「人格」ではなく「おもちゃ」扱い〉(p.74−76)


 これまで述べたように、自己の欠如を補完するために、打てば響くように恣意に応える「おもちゃ=自己対象」として他者を「使用する=遊ぶ」共同作業によって、全能感ノリを共振的に調達し合う自生的秩序を中学生たちは生きている。この自生的秩序のなかで、体験構造は集合的に陶冶成型されて、独特の倫理秩序をなぞるようになる。体験構造にもとづくコミュニケーションの連鎖・集積の効果が翻って体験構造を再成型する反復運動から、感情連鎖の秩序ともいうべき独自の倫理秩序が自生する。
 ここでの倫理秩序は、事象を論理に従って理念と符合することで妥当性を指示するような論理の秩序ではない。それは集合的なノリの美学がそのまま倫理でもあるかのような情の秩序である。
 この秩序の中で「いじめ」られる身分の者は、その場その場で全能感ノリをもたらす「おもちゃ=自己対象」としてのみ存在意義がある。「おもちゃ=自己対象」に対しては、「独自の人格」を前提すること自体が不自然であり、命令によって動かすことがもっとも自然な接し方である。女子中学生が「気絶するまで闘わせる遊び」という命令的な言い方を、大人たちの前ですらごく自然な感覚でしたのは、このようなニュアンスにおいてである。また、「死んじゃったら、それはそれでおもしろいじゃん」「あ、死んじゃった、それだけです」といった発言も驚くに値しない。「死の実感がない」と言われる中学生たちの言動は、彼ら独自の倫理秩序に整合的な帰結である。むしろ、その時その時の感情連鎖の場とは独立して普遍的に「人間の生命」が尊いなどということの方が、「世間」を生きる中学生にとっては不自然な感覚である。彼らにとっては、つかのまの全能感ノリこそが「生命」であり、その結果、「おもちゃ」身分の「人間」が死ぬか生きるかなどは取るに足らないことなのである。
 「世間」の中学生は、集合的に成型された体験構造=倫理秩序、あるいは特有の「よい」「わるい」を体得しており、それに対して自信を持っている。この倫理秩序に従えば、「よい」とは、全能感希求に準拠した「みんな」の感情連鎖の段取りや秩序にかなっている、と感じられることである。例えば「いじめ」は「よい」。大勢への同調は「よい」。「わるい」とは、自分たちの共同作業の効果としての全能感ノリを外した、あるいは踏みにじったと感じられ、「みんな」の反感と憎しみの対象になることである。自生的秩序のメンバーとしての陶冶が十分になされている場合、中学生たちは、そのような「わるい」者を「いじめ=遊び」の「おもちゃ=自己対象」として流用するために段取りを再設定し、思う存分痛めつけはずかしめ、新たな全能感ノリを享受する。「わるい」相手が強い場合は、漠然とした空虚感やムカツキが身をさいなむ。個人の尊厳や人権といった普遍的ヒューマニズムは「わるい」ことであり、反感と憎しみの対象になる。彼らにとっては、その場その場で共振する「みんな」の全能感ノリを超えた、普遍的な理念に従うことや、生の準拠点を持つことは「わるい」ことである。また、「みんな」と同じ感情連鎖にまじわって表情や身振りを生きない者は、「わるい」。


 〈「いじめ」を生む中学生の「世間」の成り立ち〉(p.76−78)


 さて、上で述べた陶冶あるいは集合的な倫理的成型は、普遍的理念の内面化ではなく、痛めつけ・痛めつけられる体験と利害状況とに即応した、ナルシシズムや自己対象関係の成型を通じてなされる。これまで述べたような「世間」は、個人に対して圧倒的に強大なものとして体験される。例えば、平均的な中学生にとっては、「世間」から自他の境界線を引いて人格をガードするのは不可能であり、その風向きに従って付和雷同的な心理状態になるしかない。また「世間の目」は、一挙手一投足のみならず、心の奥襞まで絶えずのぞき見し続けているように体験される。そのような「世間」がひそひそ話をする気配やおそれを感じると、自分にも予測不能でコントロール不能な恥辱的自意識や、「何をされるかわからない」という不気味な気分が生じてくる。実際、中学生の「世間」は露骨な暴力の可能性にも満ちている。このような「世間」に十分に陶冶された者たちは、自己利益追求のための手段として、「世間」の体験構造を巧妙に利用して他者を圧迫する。
 このような「世間」に対して個人は、その辛さや悲しみを美に転化してリアリティをすりかえるしかない。そして、このような生存の美学を、「世間を泳ぐ」生活技能に織り込みつつ「タフ」になり、その「タフ」になるということ自体を美学的に自負することで現実の惨めさを否認する。個人は、このようなすりかえの迷宮を生きるしかなくなる。実はこの「タフ」の自負が、「いじめ」られる者は情けないからいけないのだとか、「いじめ」られた者は今度は強くなって「いじめ」る側になればいいという、「世間」の美学=倫理秩序を支えている。実際、「いじめ」をする者の多くは、この「タフ」の美学を生きている。彼らは、自分を痛めつけた嗜虐者が「タフ」の美学を教えてくれたというふうに体験加工する代わりに、「タフ」になれない「情けない」者には「むかつい」てしまい、攻撃せざるを得ない。
 たとえ「情けない」という印象を与えなくとも、「世間」の美学と体験加工を感情連鎖として生きない者は一般に、中学生の「世間」では「まじわらない」「わるい」「むかつく」者とみなされ、「いじめ」暴力の対象となる。「世間」に陶冶されて生存の美学を生きる人はおうおうにして、自分たちと美学を共にし合うことなく「世間」に対してうまく自他境界を引くことに成功して幸福そうに見える者を、目の当たりにしただけで被害感と憎悪を爆発させる。そして、相手が楽しんでいる幸福をはずかしめ、破壊し尽くさねば気がおさまらない。
 「世間」に十分に陶冶された者は、広範囲の他者(=容器)たちの中で自己が生きられてしまう。自己(の存立)を他者の中に体験してしまった上で、その他者が自己補完の筋書を外した、と感じる場合、何か辱められたような被害感と憤怒が生じる(多くの事例によれば、「いじめ」っ子はしばしば、「相手に…の気持ちでいられた」という被害感を、行為の正当化に用いる。学校教師はしばしばその言い分を受け入れる!)。「比較」という筋書がそれに混入する場合は、「相手から奪われたせいで自分がみじめになった」ような気になり、相手を破壊することで「取り戻」そうとする。いずれにせよ、実行可能であれば執拗な復讐衝動が生じ、それが不可能な場合はみじめな気分になる。
 「世間」の辛さや悲しみを美にすりかえる傾向は、実は前述の欠如からの全能感希求の一局面である。つまり、認知情動図式をいったん漠然化し、あらゆる具体的で多彩な惨めさや苦しみを単色の全能感希求にすりかえた上で、もう一度「世間」の美学=倫理秩序に従って全能感筋書を人々と共に生きる、というわけである。この陶冶された全能感希求が構造的に「いじめ」を生み出すシステムの根幹に位置することは、すでに論じた。
 これまで論じた自生的秩序の大枠は次のようなものである。生きがたい迫害的な現実をそれでも生きるに値する現実につくりかえる「したたかで」「しなやかな」体験加工のワザとして、人々は全能感ノリや美をめざし、それを生活技能に組み込む。その集合的な営みにおいて、全能感ノリや美は、倫理や正義の代わりに用いられるようになる。そのような人々のコミュニケーションの集積が、最初の生きがたい欠如と迫害をもたらす当の現実を再生産してしまう。このような自生的秩序の構成要素として、これまで論じたような、「いじめ」をせずにはおれなくなる体験構造が組織されている。
 「世間」は「いじめ」を生み、「いじめ」は「世間」の自己産出の主要な端緒となる。「世間」というシステムは、その作動の効果として、当のシステムの端緒を再生産する。このシステムは、人間に苦しみを与え・その苦しみに対して悶える人間が噴き出す膿を流用することで・さらに最初の苦しみを再生産し、そのまわり続けるサイクルに寄生して生き延びている。


 3・「山形マット死事件」をめぐる地元での聞き取り調査(p.78−82)



 1993年1月13日夜、山形県新庄市立明倫中学校の体育館で、用具室に立てて巻いてあったマットに逆さに突っ込まれた形で、同中学1年生児玉有平君の死体が発見された。しばらくして、7人の少年が逮捕・補導された。この事件は、日本の学校・地域の「陰湿」な体質を背景とした「いじめマット殺人」としてセンセーションを引き起こし、地元には報道陣が殺到した。筆者は同年の5月と8月、そして翌1994年の8月に、地元明倫学区を中心に聞き取り調査を行った。
 最初は事件の背後にある子ども集団の「いじめ」体質を調査する目的だった。ところがしばらくするうちに、事件そのものの「真相」が雲散霧消してしまった。裁判は不可解な経過をたどった。事件の近傍に位置する人たちからは、聞き取りを拒否された。結果として、調査対象はもっぱら事件には関わっていない近隣の大人たちとなった。この事件を枕に行った聞き取りから、人々の「世間」が鮮やかに浮き出てきた。それは、子どもたちの「世間」と同形の体験構造に貫かれていた。前節の理論は、「子どもの世間」にも「おとなの世間」にもあてはまる。
 児玉家は幼稚園を経営する、モダンな感じの、仲睦まじい裕福な家庭であり、かなり目立つ立派な家に住んでいる。自宅も隣接する幼稚園も、デザインが非常に美しい。有平君の父親の児玉昭平さんも裕福な家の生まれで、理想主義的なことを真顔で話す珍しいタイプである。家族の団らんが趣味で、外で酒を飲まないで家で飲む。十数年前に新庄に移ってきた。児玉家の人は全員標準語を話す。子どもたちは「自律的な個人」となるべく育てられた。有平君は授業中に手を上げて発言し、学校行事でも目立っていた。
 このような児玉家に対する妬みや反感も多かった。家の塀には「ころしてやる」と落書きされた。生意気だという近所の老人もいた。児玉家を貶めるための、根も葉もないデマがまことしやかに囁かれた。事件に対して、「あそこの育て方なら当然」という近所の主婦の声もあった。容疑者の身内の子どもたちは、、児玉家の玄関前で有平君の妹をとりかこみ、「兄ちゃん殺されてうれしいか」と罵った。第一節で筆者が中学生のために行った代弁は、「いじめ」を「殺し」に置き換えれば、そのまま地元の大人たちにもあてはまる(「現実」には事件の事実関係は、何から何までわからなくなっている。だが、筆者が聞き取りをした地元の人たちの体験構造のなかの「記号」としては、事件は「殺し」である)。
 「遊んでいただけだ」と「やった子どもたち」を弁護する近所の主婦は、有平君の死を「飼っていた虫をうっかり死なせたようなものだ」と言う。「人間の死に重みを感じていない」と記者たちに言われて、彼女は憤懣やるかたない。筆者はよく地元の人から、「せっかくおさまってきたのを、ほじくりかえすな」と言われた。だが「裏切り者」に対する憎悪はもっと激しい。明倫中のある父兄が事件に関して正義派的な発言をした。すると、その妻が学校関係の母親の集まりで執拗な嫌がらせや集団シカトをされた。彼女は、精神的なショックで耳が聞こえなくなってしまった。
 以下で代表的な二つの事例の要約を紹介する。(方言による錯綜した会話を、筆者が翻訳・整理した)

〈聞き取り事例・1〉(79−80)


 近所の主婦のAさんは、児玉さんとは面識がない。だが、「かあちゃんたちの間柄(うちら)」のなかで、「児玉さん」をリアルに体験している。
 Aさんは言う。「かならずしも、やった子どもたちが悪いとは言い切れない。親も金持ちぶって成金上がりだそうだ。金貸しをしていて、人からよく思われていない。自分たちだけ金で家族をハワイに行かせて、おみやげも買ってこない。幼稚園を改修した後、子どもたちの姿ではなくて、直したところのビデオばかり親に見せた。オレはこんなふうに大きくしているんだ、って感じが前面に出ている。言葉にしても、東京出身でもないくせに標準語を話すなんて『いいふり』としか思えない」。
 実際には児玉さんは、金貸しでも成金でもない。問題のビデオは、改修の説明会のビデオである。だが、「かあちゃん」たちは、あらゆる素材をつかまえては、このように体験しようと身構えている。この構造は子どもたちの間にもある。有平君も兄のC君も家族がタクシーで外出するのを子どもたちに監視されていた。あとでしつこく、どこに行ったのかと問いつめられ、喋らされた。有平君が「フランス料理を食べに行った」と答えると、妬む子どもたちはその言葉を、「おまえらには食えないだろう」というふうにリアルに体験する。それが、「児玉のうちの憎たらしいガキが言ったこと」として流布される。
 Aさんは「こんなわけで児玉の子どもが殺された」とオチをつけて語るとき、声を出して笑う。「あそこのうちは家族全体が『かわいげ』がない。人間は、金持ちでも、気がしっかりしててもいいけれども、どこか、『かわいげ』があればいい。『おれたちは特別なんだ』って心の中で思っている親子は、人から見れば『かわいげ』がない。親の姿勢とか、児玉君の『かわいげ』のないところが引き金になったんじゃないかって、ここらでは言っている。いじめられる子どもには、どこかいじめられる原因がある。子どもらしくねえ子どもって、『かわいらしくない』っていうべしな。親も加わっているとなると、今度、ウフフフフ(大笑い)。こっちの人は人情的なところがあって、来る者は拒まず、『まじわって』行こうという気持ちがある。だけど、親の気持ちの出し方が、あれではね。子どもが殺されたことに関してはかわいそうだと思う反面、親の態度、フッフフフフ(笑い)。『朱にまじわれば(赤くなる)』って言いますでしょ。こんなふうになったのは、親の気持ちがとけ込まなかったからだ。親も多少なりとも、『朱にまじわる』という気持ち、『地方にまじわる』って、『同じ』って言うんだけど、そういう気持ちがあれば、殺すまでいたずらが昂じなかったんじゃないか」。
 Aさんは、「子どもたちの気持ち」を説明する。「いじめたくなるような子どもがいて、いじめているうちに、ここらでやめておくかなぁという気持ちが出てくるかもしれない。でも、なおかつやりたくなるような気持ちがだされると、例えば@『同じ』気持ちが出されないと、A『まじわらない』で特別な気持ちでいられると、Bしっかりして自分の我が道を行くっていう気持ちでいられると、Cいじめてもそのいじめに乗ってこないでなお毅然としていると、子供心に、もっとやってけっかな、って気持ちになる(笑い)。そういうわけで、死に至るまでとことんやってしまったんだろう。殺そうと思って殺したわけではない」。


 〈聞き取り事例・2〉(p.80−82)


 事件が起きる何年も前、B君は有平君の兄のC君を執拗に「いじめ」ていた。そのことを知った父の昭平さんは、学校に乗り込んでいった。それで、「いじめ」ることができなくなった。有平君の死後、B君は学校でC君と顔を合わせた。そのときB君は、居合わせた仲間に「昔トロイやつがいたから、ガツンと一発、社会勉強させてやった」という内容のことを言った。息子からその話を聞いた昭平さんは学校に抗議した。B君は教師に指導され反省文を書かされた。また、教師はこの件についてB君の親に報告し、何度か電話で話をした。筆者はこの件について、児玉家・「いじめ」の目撃者・後の暴言の目撃者・指導した教師に、事実確認を行った。B君の家にも聞き取りをした。そこでは、家族全員と話ができた。
 B君一家の言い分をまとめてみよう。
 「C君をいじめてはいない。このことで先生から電話がかかってきたこともない。C君を友人に紹介しただけで、言いがかりをつけられた。C君は、いままで目立たないようにびくびくしてきたのが、紹介されて、またいじめられるのではないかと、過敏に反応しただけだ。児玉家は過敏で反応が大げさすぎる」「ちょっとした耐えなきゃいけないことも、いじめにはいる」「ちょっとブルジョワ、ブルジョワ階級ぶってるんじゃないか。ちょとのことでも」「成績で競争することもいじめでしょう」「だからあそこの家は極端だと思いますよ」。
 ここで「だから」とつなげるように、イメージの「こざね」とでも言うべき個々の物語の断片を、強い情動を随伴させた迫力のある表情と声とアクセントと頷きあいで、連想的に貼り合わせていく。その間、定期的に「だれから聞いたか」「どこまで知ってるのか」の追求をさしはさむ。「そこらへんの情報源はきちんと出してもらわないと、今度逆に、児玉さんじゃなくて、周りの人間傷つけられるからねえ。児玉さんちだけが被害者でないからなあ。一つの事件が起きれば加害者側も被害者だから、言ってみれば」。
 一家は、いじめなら自分たちの方が、よっぽどひどいことをされてきたと切々と訴える。「いじめのおかげで成長できて良かった。いじめる人は先生だ。その人が知恵をつけてくれるから。そうして利口になっていくから。Bはいじめのおかげで大人っぽくなった。相手の顔色をうかがって場の雰囲気を察知できるようになった。それに対して、児玉さんのようなうちは過保護で何も知らないで終わってしまう。児玉さんの家の子は耐える力がない。そのように育てたのは教育者として失敗だ。いじめられるのは幸せだ。いじめられもしないものは、存在感がなく世の中から抹殺されてしまう。」
 一家は話の途中何回も、「事実というのはわからない」「事実というのは話す人・見る人・聞く人の角度によってどうにでもなる」「主観のちがいでどのようにもうけとれる」といった、哲学をつぶやく。兄は「自分たちが言ってることもうそかもしれないよ。本当かどうかなんてわからないわけでしょ」と唐突に言う。その直後に「おたくではじめて、ちゃんとした生の声を聞けました」と言われて、兄は「うち、隠さねえから」といい、父が「うちは馬鹿正直で通っているから」といったりする。母は「うちは、いいものはいい、わるいものはわるい」と言う。
 母と兄弟は、「世間」に対しては、何をされるかわからないから、注意深くしながら、気迫で相手を押し返すことが重要だという哲学を話す。「良く思われないと何をされるかわからない。会社だって学校だってどこでもそうでしょ」。
 「あんたたちだってそうでしょ」。B君一家がしつこく同意を求めることがらは、このことだけだった。それに対して、筆者が「えっ、そうなんですか」と言うと、激怒する。「あんた、知ってるくせに知らないふりをしている」。
 その後電話で、多くの人から事実確認をしたことを告げ、再びB君の件を尋ねた。「馬鹿野郎。おめえは世間を知らねえんだ。警察を呼ぶぞ!」といった罵声が返ってきた。
青木悦1985『やっと見えてきた子どもたち』あすなろ書房
竹川郁雄1993『いじめと不登校の社会学』法律文化社
 (参考文献は、紙幅の都合で十分に挙示することができなかった。また、当論考で「自生的秩序」と言っているのは、ハイエクとは別の意味においてである。小見出しは、螺旋状に蛇行して読みづらい筆者の文章に対して、編集者の方がつけてくださったものである。)

 

 

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