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          新 T-thai(定退)


            第2章  パヤオ、バンコク新生活編

その4、パタナーの卒業

タイの滞在日数の期限30日が近づいたので、パスポートの切り替えの為メーサイに
行く事になった。
 

1年ほど前から滞在期間を約2ヶ月間にしたので、期限前に必ず一回はタイから出
国しなければならない。
来年末には55歳になり年金ビザの権利がもらえるが、完全移住でないと手間が掛
かる割に、それほどメリットはないようだ。
 

観光ビザ(60日)は手続きが面倒だし、費用も高い、メーサイならわずか5ドル(また
は250B)で、買い物ついでに切り替えができる。
 暫く前は、このミャンマーとの国境は紛争の煽りで閉鎖され、チェンコンまで行かなけ
ればならず、時間的にも経済的にも大きな負担だった。
 

11月下旬の北タイの朝の冷え込みは厳しく、暖かくなる10時近くに家を出た。
乾季に入ったパヤオは、連日青空が広がり、周りの小高い山並みも朝日が昇り輝
いている。
車も少なく、快適な道を80〜90キロくらいで走るが、村の集落に入ると60キロほど
に落とす。

 
建設中のタイ側イミグレ

メーサイは何度も訪れているが、パスポートの切り替えは今回で二度目である。
出足が遅かったのでメーサイに着いたのはお昼過ぎになっていた。
国境手前1.5キロほどにあるイミグレで出国スタンプを貰い、橋の上のミヤンマーイ
ミグレで5ドルを払うと1日入国がOKになる。
 

タイ側の橋の入り口付近には、新しいイミグレーションのような建物が建設中であり、
これが完成すると、国境の雰囲気もがらりと変わってしまうだろう。
ノンビリとしたメーサイ、タチレクの国境も時代の流れと共に、これから大きく変わっ
て行く事になりそうだ。
 

2時間以上も掛けてメーサイに来たのに、このまま帰ってはもったいないので、買い
物ついでにタチレクの市場をブラブラした。
相変わらず、籠を持った雑貨とエロCD売りが付きまとう。
前回、エロCDで見事に騙されたが、タチレくの籠持ちは悪質で全員つるんでいるの
で、相手にしない方が良い。
 

ゴミゴミした賑やかな市場で、バイクツーリング用の丈夫な軍の迷彩服を探すが、殆
どが偽物のようである。
中国製?の、丈夫そうなジャケットがあったが2600Bといやに高いので諦める。
 


左が50B,右が80B、やはり高い方が味が良い?

お土産にナーチャとパタナーに服地を買い、ミャンマーウイスキー大瓶5本(50B3本、
80B2本)を買うが、重くてどうにもならず帰ることにする。
 

橋の袂のタイのイミグレに行くと、若い日本人の二人連れが私の前に並んでいた。
話し掛けるとチェンマイに住んでるそうで、折角メーサイまで来たので今日はチェンー
セーンに泊まる予定だという。
少し立ち話をした後、バイクに戻り走り始めるが、チェンライ近くで日が傾き始めてし
まった。
 

北タイの今頃の季節は日暮れが早い。
一気に気温が下がり、薄手のジャンパーでは寒さが身に堪え、結局家に戻ったの
は、日も暮れた6時過ぎになっていた。
どうも、この寒さですっかり風邪を惹いてしまったようだ。
 

アーカム夫婦はまだ農作業から戻っておらず、娘のパタナーが一人で夕食の支度を
して待っていた。
 

初めてパヤオを訪れて以来、彼女とは2年以上も家族同然の付き合いになるが、もし
彼女がいなければパヤオでの生活も、かなり味気のないものになっていただろう。
むさくるしい家でも娘が一人いると、何となく明るくなるのは、自分の娘も、他人の娘も
変わり無い。
 

2年以上も前に初めて彼女を見たときは、人見知りをする17歳の田舎少女という印
象であったが、暫く前近くの村にフェーンができてから、少しづづ女らしく成長していく
様子を感じていた。
 

私が昔の彼女と別れ1人になって暫くしたある日、ナーチャが何を血迷ったか「再来
年、パタナーが学校を卒業したら一緒になってくれないか」と切り出した事があった。
暫く、ポカーンと空いた口が塞がらなかった。
 

私もナーチャも、パタナーにフェーンがいるのは既に知っており、村でも、その仲は
周知の事実であった。
どうもナーチャは、パタナ−の相手の男を、好ましく思っていなかったらしい。
 

近隣の村の若者は殆ど働き先も無く、かと言って農業の手伝いをする訳ではなく、親
から、せびった金でブラブラしている事が多かった。
パタナーのフェーンも同様で、毎日のようにバイクで仲間たちと遊びまわっていた。
 

こう言う若者を、快く思っていないナーチャは「仕事もない村の若者に、娘を取られる
位なら」と思ったのだろう、どうもお鉢がオヤジの私に回ってきたらしい。
 

ナーチャには「パタナー、ミーフェーンレーウ、マイトンディークワー」と相手にしなかっ
たが、後日パタナー 本人に冗談半分にそのことを尋ねると、「母から何も聞いてない
し、私にはフェーンもいる」と涙をポロポロ流して、大泣きしたのにはビックリしてしま
う。
 

聞いたのは少し軽率であったが、この話は、やはりナーチャの独り善がりの思い込
みであった。
私は、勿論35歳も年下のパタナーを、フエーンの対象として見た事は無く、タイと日
本の習慣や考え方の違いに、今更ながら驚いてしまった。
 

その後のパタナーに対する私の接し方は、彼女のほうから要望があった時のみ、そ
れに応じるという形をとってきた。
年頃の娘に変な噂が立たないよう、私は結構気を使っていた。
 

「パソコンを教えてほしい」、「病院まで送ってほしい」、「パヤオまで用事があるので
バイクに乗せてほしい」等には応じたが、私の方から「どこかに行こう」等の誘いを掛
けたことは、二年間一度もなかった。
 

その後もパタナーのフェーンからは毎日のように電話の呼び出しがあり、学校が休
みの日は、たびたびデートにも楽しそうに出掛けていた。
「こりゃ〜、来年の卒業と同時に結婚か」とも思っていたが、前々回パヤオを訪れて
以来、少し彼女の様子が変わってきた。
 

休日の前日などには「チェンライの滝を見に行きたい・・パヤオ市に遊びに行きたい」
と、積極的に私に声を掛けてくるようになったのである。
どう言う風の吹き回しかと、信頼できる村の消息筋に確認したところ、どうも最近フェ
ーンと別れたらしい。
 

そう言えば、たびたびあった電話も最近は掛かってこなくなった。
噂によると、フェーンは来年チェンマイでパタナーの友人と結婚するらしい。
ショックのあまり、しばらく落ち込んでいたようだが、この頃は立ち直ったせいか、か
なり明るくなってきた。
 

村での結婚前の男女関係を見ていると、年頃の娘は大抵複数のフエ−ンを持ってい
る事が多い。
どの程度の関係に進んでいるか知るよしもないが、村の中央情報局の話では、お相
手の入れ替わりは結構激しく、狭い村なので、すぐに噂になるとの事である。
 

昔は、15、6歳で結婚する娘も多かったが、最近は高校へ行く割合が増え、娘達の
平均結婚年齢は20歳前後に上がっているらしい。
来年20歳になるパタナ−は気立てもよく可愛いのだが、タイの男は、見てくれ優先で
相手のフェーンが多い為か、最終選考の段階でパタナ ーは洩れてしまったようであ
る。
 

タイの男は、私の知る範囲では、かなり浮気者だ。
親戚の中にも手当たり次第と言う者 もおり、私がタイに来るたびに相手が変わって
いたりする。 (ほんとは,羨ましいのだが)
 

パタナーの相手の男も、あんなに熱心に誘いを掛け、散々その気にさせといて、後
は「ポイ」という変わり身の早さである。
でも、それは、この国では普通の事でもあり、日本の男も、タイに遊びに来ると、どう
言う訳か同じになるらしい。
 

勿論女性の方も、それは同じ事で昨日は「散々その気にさせといて」、次の日はコロ
ッと心変わり する場合も多い。
貞操観念のメチャメチャな娘もいれば、反対に純真で天使のような娘もいる。
不思議と、この国は平均的な中間層が少ないと思うのは、私だけであろうか。
 

何事も、対極の幅が広い国で、良く言えば、「超個人主義」の国であり、悪く言うと「節
操無用国」とも思える。
 もっとも、日本のように中道が常識として扱われる国ではなく、柔軟性に富んだ「おお
らかな国」と言うべきかもしれない。
 

今回パヤオに来て暫く経ったある日、ナーチャから1年前の蒸し返しのような話があ
った。
「パタナーが来年の3月に卒業するので、相談に乗ってほしい」と言うのである。
 

「パタナーの卒業後は大学に行かせるか、早々に結婚させたい」。
「大学に行かせるには、お金も無いので、もう一度結婚を考えてくれないか」と言う。
また、勝手なナーチャの思い込みと思い、その場は笑ってやり過ごした。
 

後日パタナーとパヤオまで遊びに行った時、行き付けの湖畔近くにあるカオソーイの
美味しい食堂で、やんわりと聞いて見た。
「パタナーは大学に行きたいの、それとも早く結婚したいの」と聞いた私に対し、「大
学はお金も掛かるので、出来れば何処かで働くか結婚したい」と言う。
 

でも今は、フエーンと別れたので結婚する相手もいないそうだ。
「パタナー、サマイコーン、ローンハーイ、ジャムダイマイ(昔泣いたこと覚えてます
か)」と聞くと「ジャムダーイ(覚えてる)」と言う。
 

また泣いたら、どうしようかと躊躇したが、「お母さんが、また同じ事を言ってるけど、
パタナーは知ってるの」と聞いてみた。
「知っている、卒業したら一緒にバンコクに行ってもいいですか」。
 

「い、いっ緒に行きたい」と言う意味が、最初どういう意味なの、良くかわからず聞き
間違いかと思い、再度聞き直した。
彼女は来年(今年)20歳になるし、もう子供ではない。
 

「パタナ−と私は、35歳も歳が違うんだけど」と言う私に彼女は「マイミーバンハー、
マイペンライ」と答えた。
「テーワー、でもね〜」と、少し、うろたえ気味の54歳の私に対し、19歳の彼女に動
揺の様子は全く見られなかった。
 

少し頭を冷静にして考えれば、不動産の名義の書き換えの件や、その後の話が、ど
うも出来過ぎて いると思うのは、私だけではないだろう。
ナーチャやパタナーとは2年以上の付き合いで、お互いの気心は知れて?いるが、
これまでの一連の経緯から、ナーチャ母娘の思惑の匂いがしないでもない。
 

不動産の名義書換が済みホッとしたとたん、また新しい問題ができてしまい、何の為
に、名義書き換えしたんだか判らなくなってしまった。
常識的に考えれば、パタナーが本気でいい年こいた「ジジィ」を好きになる筈はない。
 

タイの田舎では、娘は親の意向に逆らわない例が多いとも聞いていた。
ナーチャ母娘は単に私の事を「カモネギオヤジ」と考えている訳ではないと思うが、何
となく下心があるように思えるのも事実であった。
 

まだまだタイの田舎では、「日本人神話」(お金持ち)が生きており、日本人と一緒に
なれば一族は安泰という風潮が残っている。
私には、そう言うナーチャ、パタナーの気持ちも良く判るのである。
もう別にパヤオの家など、私にはどうでも良いのだが、最後は気持ちの良い終わらせ
方をしたいとも思うのである。

 
とりあえず、その場はお茶を濁し、暫く様子を見ることにした。
帰りにパヤオの市場で買い物をしたあと、家路に着いた。
いつもはバイクに乗りながら交わす、カタコトのたわいのないおしゃべりも二人とも終
始無言のままであった。
 

それまでは、フェーンでもなく、娘でもなく、しいて言えば年の離れた友人という私達
の気楽な関係は、この日を境に少し変わることになってしまった。
 

彼女が卒業するまで少し間があるが、この話を無かった事にすれば、パタナ−は卒
業と同時に、バンコクのランナハーンに働きに行くつもりらしい。
 パタナーの話では不景気で高校を卒業しても、事務系の仕事は中々見つからないそ
うだ。
 

彼女の同級生達は、奨学金制度等を利用して、約半数位が進学するらしいが、貧し
い家の娘は、バンコクに働きに行く割合も多いと聞く。
何年かすると、彼女らの多くがカーイトア(売春)に手を染め、ソンクラーンに村に戻っ
てくる。
 

運の悪い子は、すでにエイズに感染しており、そんな娘はこの村にもゴロゴロいる。
私が住み始めた2年半でエイズで死んだ村の若者は、十数人に達しており、今なお
死を間近に見つめる娘達がいる。
 

私が学費を全て負担すれば4年制の大学に進むことになるが、いずれにしても卒業
と同時に彼女とはお別れである。
たとえ大学を出ても一流大学以外、仕事はほとんどなく、高校卒と偽って就職する例
も多いらしい。
 
 
パタナーや田舎の若者達に、将来の夢や希望を聞いても、前向きな返事はあまり返
ってこない。
目標は貧乏から抜け出すことだけであり、日本の若者とは少し考える次元が違う。
 

若者達の夢は、せいぜい「バンコクかチェンマイに行って働きたい」程度であり、貧乏
な家庭に育った若い娘の夢は、とにかく、お金持ちと結婚する事でもある。
この際、年齢差などどうでもいい事なのである。
貧しい農村では貧乏と言う足かせが、若者に将来の夢など見ることを許さないのであ
る。


お寺の池に飛び込み、イヌカキでアヒルを追いかける愚かな犬。
この犬は私に、良く似ている。

パタナ−に私への愛情を求めると言うのは、この歳では「もう無理」と言う事は良く判
っている。
彼女自身、自分と家族の将来を考えた「人身御供」的な、気持ちが大きいのかもしれ
ない。
 

綺麗ごとばかり並べてもしょうがないが、パタナーの本心は、たぶん「貧乏から抜け出
せるなら、オヤジでも仕方がない」と言うのが本音だろう。
私の本音も「若くて良い娘なんだから、貰えるものは貰っておきたい」が本心なのであ
る。
 

こう言う事を書くと、また何処かの掲示板で叩かれそうだが、叩く側の気持ちも少し判
るような気がする。
時間と金に余裕ができた、私ら年配者が、今タイで好き勝手にやっているのは事実な
のである。
 

あまり本音を書くと、また問題が生じるので、この位にするが、タイの田舎や北タイの
少数民族の村々では、日本人で小金があれば、たとえ80歳の老人でも、孫より若い
10代の嫁を貰う事が可能である。
 

先のない爺さんのほうが、レオレオ、ダーイ(早く逝く)ので、好まれる傾向も確かにあ
る。
私が知っている最高年齢差は51歳であり、北タイの少数民族の村では60歳位の年
齢差もあると聞く。
何年か我慢すれば爺さんは昇天し、彼女や家族に、お金と自由が手に入るのである。
 

貧乏から抜け出すには「金持ちと一緒になる」しか道はないと思う娘と家族、そして日
本老人の色ボケニーズが、過渡期の貧しい北タイで合致したのである。
こういう色ボケ老人達を非難するのは簡単だが、北タイ農民の貧しさの前には何を言
ってもあまり説得力はない。
ここは日本ではなく、タイなのである。
 

確かに、金の力に物を言わせ、15歳前後の田舎娘や、少数民族の娘を囲うという
のは、たとえ相手が望んだとしてもエゲツない行為に変わりはない。
貧しさにつけこむ、そのやり方は非難されても仕方のない事だろう。
 

この老人達と同じような行為をしようとしている私は、今回の一件は笑って、やり過ご
すのが、一番正しい姿勢なのかも知れない。
しかし、この問題は昔の彼女や親族との絡みもあり、一歩対応を間違えればパヤオ
での生活全てが、破綻してしまう恐れもある。
 

不動産の問題が片付いたと思ったら、思わぬ方向に話が進み始めてしまったようだ。
パタナ−卒業まで既に4ヶ月、突然の話に小心者の私は戸惑うばかりである。
 

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