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ひと駅ひと物語 大阪環状線めぐり 
森ノ宮駅 <16>

スタンドの名残のコンクリートに囲まれた日生球場跡地
開設 1932年4月21日
 「野球場があってええことはあんまりなかったね。けど、なけりゃあないで寂しいなぁ」

 森ノ宮駅から西へ約三百メートルほどの所に戦前から住む清水隆司さん(67)が言った。

 野球場は、近鉄バファローズが一九九六年までホームグラウンドとして使った「日生球場」のことだ。「森之宮球場」と呼ばれることもあった。

 「このへんは空襲で何にも無くなったんですがね。一トン爆弾の穴だらけの所で、土地の買い占めが始まった。戦後すぐですよ。公園にする言うてたけど、できたのは球場やった」

 「球場が、この街の戦後を支えてくれた」と胸を張る住民もいる。その場所から拍手と歓声が消えて、もう六年がたった。

 日生球場が完成したのは、五〇年六月三十日。バファローズのもう一つのホームグラウンド「藤井寺球場」には八四年まで照明設備がなく、ナイトゲームは日生球場で行われた。

 メーンアクセスが森ノ宮駅。駅員の仕事には、野球にまつわるものが幾つもあった。

 プラットホームには、その日の対戦カードを知らせる看板があり、そこに相手チーム名を差し込む。五イニング目が終わるころ、試合終了後の駅の込み具合を予想するのに観客を数えに行った。ファン同士のけんかの仲裁すら仕事だった。毎試合、駅員を二人増やして備えた。

 「近鉄ファンの私には、ええ仕事でしたなぁ」

 七六年からちょうど二十年間、森ノ宮駅に勤めた山岸博文さん(52)が笑った。

 電車の中や駅では、ファンに囲まれる選手の姿もあった。電車で“通勤”していたのだ。七〇年入団の投手、神部年男さん(59)もその一人。

 「登板の日は、ファンから『頑張れよ』と声がかかるんです。敗戦の夜は、怖々電車に乗ったんですが、励ましてくれる人の方が多かった」と懐かしむ。

 八一年十月四日、西本幸雄監督の引退試合は圧巻だった。

 ダブルヘッダーで行われた阪急ブレーブス戦。西本監督は阪急でもさい配を振るったから、この日は、両チームのファンが「名将」を見送る試合だった。

 山岸さんは「駅員の応援がいると駅長には言うたが、『どうせ消化試合や』と取り合わん。その結果が、球場から『駅で客を止めてくれ』と言ってくる始末やった」と振り返る。

 電車を降りた客がコンコースですし詰めになり、「試合の切符買うてきたのにどうしてくれるんや」と、球場入りを阻む駅員に至る所でかみついた。

 プロ野球があったころ、飛んでくるボールに窓ガラスや屋根瓦を割られた。行儀の良いファンだけではなかったし、応援合戦で、電話すらできない夜もあった。でも、この町の戦災の傷跡を覆い、活気を与えてくれた球場の存在は大きかった。

 「マンションになるとか、スポーツセンターになるとか、この間、そんなうわさばっかり聞かされましたんや。何がほんまかわかりませんがな」

 清水さんがいらだたしげに言う。球場の跡地利用は、めどすら立っていない。球場があった場所を囲む高い塀の中は、夏草が生い茂っていた。街にぽっかりと開いた「大きなまあるい空き地」がこの次、この街をどんな風に変えてくれるのか。

 現在、JR和泉府中駅に勤める山岸さんが独りごちた。

 「森ノ宮駅の若い後輩たちは、球場があったことすら知らんかもしれん。教えてやりたいなぁ。あんなスリリングな、楽しい仕事があったことを……」

   (次回は大阪城公園駅)

<保線>

 大阪環状線の保守点検作業は終電後、午前1時前から同5時前までに集中して行われる。担当するのは請負会社の作業員約20人で、JR西日本天王寺保線区の社員数名が監督にあたる。

 短時間で一気に作業を完了させるため、作業員は休憩時間をとることもできない。能率的に進められるよう、作業計画は作業員一人ずつの動き方まで綿密に計算して立てられている。

 総延長48.5キロのレール交換は20年周期、同65キロの架線の張り替えは10年に一度行われ、毎日の保守点検作業で古い所から少しずつ取り換えられている。

 この連載は原則として毎週日曜日に掲載します。ご感想、大阪環状線をめぐるエピソードなどがあれば〒530・8551読売新聞社会部「環状線」係へお寄せください。ファクスは06・6361・0733。電子メールはo‐naniwa@yomiuri.com


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