妄想ノオト

今月のカヲ:音と言葉と・・・。もう音も言葉も解りません・・・。


2000年08月

(08.13)

 
えー御心配なく。生きて居りました。
 仕事もサボりつつやって居りました。

 ただ万年アダルトチルドレンな私は、どうも考え込む事が多いもので。
 悟った振りは、大嫌いなもので。


 フルトヴェングラー御大のあの「面食らう」指揮に、ある奏者が畏れ多くも
 「どうやって入ったら良いのですか?」
 と訊ねたら、御大曰く、

 「もう待てない、もう待てない・・というときに、出てらっしゃい・・・」

 そのものズバリ、
 「オーケストラを指揮して演奏するという行為は、正にセックスのようなものだ」
 とのたまったのは、バーンスタイン先生。

 つまり、そういう事。


 コンテ切った。
 こんなコンディションでよく切れたなあ、という位テンポ良く切れた。

 「アングルフラット、ロング、フィックスで!」

 やっぱりこっちの方が合ってるのかなあ。        

(08.15)

 
<「結局、めんどくさいのが好きなんでしょ?」>

 やっとこさ「I.W.G.P.」と「QUIZ」コンプリート。最近撮ってあったもの観てなかったもんなあ。ライブで「フードファイト」観てたりすんだけど。

 結論言って、どちらも脚本が尻つぼみで痛み分け。やっぱり「内ゲバ」。

 「QUIZ」後半の本の悪さには流石に辟易(何?N村、「今更」って?)してしまい、またその露悪的嘘臭さが武器になる筈の「つんく的」演出センスが欠乏し、福澤とかいう素人がのさばって来た時点で(しかしある意味彼の個性と作品とが奇妙な化学反応を起こし、完璧なまでの不快を表現していたのは確か。日本でこれ程の演出的不快感を出し尽くせるのは「ゲートキーパーズ」と福澤だけか)、「こりゃダメだ」と観念。しかし最終回は「ANSWER」として意外とすっきり納得。 「結局家族愛がテーマかよー」という思いもあるが、落とし方として妙に気持ち良かった。しかし竜雷太のつくづく余計な事!
 で結局、今井夏木は降ろされたのか?使い潰されたのか?一番気になる・・・。

 「I.W.G.P.」は予想通り、ストーリー展開が図式として余りに明快になって行く分、それまで築いて来た筈の「めんどくせえ」気分とその演出とに齟齬が生まれ、堤の遊戯性が一人歩きしてしまった感が強い。それでも最終回では、堤が取り敢えずこのままってのも何だから冷蔵庫に残ってるモンみんなぶち込んじゃえ!!みたいな気合が序盤から伝わり、決闘シーンでは大ナタでフィルムを切ったような荒々しいカッティングで押し切り、その捻じ伏せ具合になかなかの快感。出ていた役者も良かったんだろうね。長瀬君も。

 さあ、「ケイゾク」後のドラマ界、何が出て来るかしら?
 「フードファイト」?・・・かもね・・・。


 いきなりトランペットを衝動買い。なんじゃこりゃ!?

(08.20-1)

 
夏はただ暑く、
 我放心す。

 週末ヒロシマ、行けるかな?
 会社には「行きてー」って言ってるんだけど。

(08.20-2)

 
こっそり「さくや 妖怪伝」観に行く@祇園会館。

 人少ねー!!期待してなかったけど。
 冒頭、いきなり思う。
・・・石井輝男?
 あの安っぽさ爆裂の照明!のこのこ動く着ぐるみ!あのタイトルのフォント!そして丹波先生!!
 あ、なんだー、石井輝男かぁ。これで何もかも納得。出来るか!!

 責任は殆ど原口智生。市川や深作やら、時代劇マインドも持っている所を見せたいのか、しかし照明も美術も(これが松竹京都?「御法度」とえらい違い・・・)、カットを切るタイミングからフレーミングに至るまで、途轍もなく中途半端。こうなるともう技術ではなく、監督としての才能の問題としか言えない。
 折角塚本晋也を持って来た中盤の猫又シーンも恐ろしい程の盛り上がりのなさ!どうしてフィルターかけるとかして妖怪造形の安っぽさを誤魔化さないの!?まるで無策。
 安藤希の使い方も下手。止め画にすればしっかり決まる顔立ちなんだから、ていうかそれだけでキャスティングしたんだから、どうしてあんなに沢山台詞を吐かせるの!?最低でも腹からしっかり声出せば随分と変わるものを、それすらさせない。演出のエの字も見えない。歩き方くらい練習出来なかったか?
 そして御待たせ致しました!!劇中で松坂慶子が歌う挿入歌!!キャッホー!!一番やってはいけない事を・・・。
  という訳でこれじゃ樋口先生の仕事も生かされない。終盤の巨大松坂シーンも樋口特撮とすれば余りに月並み。しかも今回は「ナメ」の構図を生かし切れていないから、巨大感すら出ていない(広角ショットも少なかった気が・・・)。合成バレは画面動で何とか誤魔化そうとして、でもエッジが見えてしまう。富士山の合成は流石に良かったけど。
 脚本も合わせて、全てにおいて中途半端。何より、特撮マインドも時代劇マインドも、そういう「志」というものが感じられない、不愉快なフィルムだった。そんなに予算がないならちゃんとバカ映画然として開き直れば男前だったのに(「妖怪大戦争」にしたかったんだって?それでも足りないよ)、それすらしていない。ガッカリ。
 河童アイリスもスベってたし・・・。


 口直しにV.エリセ「ミツバチのささやき」やっと観る。

 ていうかこれ、夜観ると必ず眠くなる。奇麗なシーンが穏やかに続いて、それだけかなぁ、と。しかしこの映像、記憶にへばりつく粘着力というのが物凄く、頭の中でフアーッととめどなく膨らんで行く。後から効いて来る三年殺しのような逸品。
 最近ずっと意識している映像の「光と影」を手っ取り早く掴もうと思えばやっぱりレンブラントかフェルメールだろうが、エリセも同じ方向性で画を捉える。しかし私の感性とイマイチ合わないのは、そのトーンが青ではなく、赤に統一されていたからだろうか?
 いずれにせよ白眉はどうあっても主役のアナ・トレント!虚空を凝視するその眼差しは「無垢」なんて生ぬるい麗句で収まる訳がなく、見てはいけない現世の真実を鷲掴みにするような不穏な凄味で圧倒する。迷った夜の森で幻のフランケンシュタインと出遭った時の、あの振り向き様の表情等は、「ポネット」なんかじゃ決して真似出来ない別格の美しさ。
 そしてこの映画、闇が素晴らしい。「北の国から」もそうだったが、逆光を恐れない。夜は顔が見えなくなるギリギリまで照明を抑える。夜は暗くて当たり前なの!当たり前の事をやろうよ。みんな。


 アナのように、長々と夜空を見上げたり、ヒトの心の襞の奥まで読み取ろうと、じっと、見つめ続けたりというのは、子供の特権なのだろうか?
 いや、大人になってもずっとやるのって、疲れるんだよな、致命的に。

  影絵なんてありきたりかも知れない。でも、解ってないと撮れない。

(08.22)

 
子供が子供だった頃
 いつも不思議だった。

 なぜ 私は私で
 あなたではないの?

 なぜ 私はここにいて
 そこにいない?

 時の始まりは いつ?
 宇宙の果ては どこ?

 この世の生は
 ただの夢?



 W.ヴェンダース「ベルリン・天使の詩」。美しい映画である。
 「パリ、テキサス」より遥かに良い。

 素晴らしくシンプルで、作為臭がなく、だからこそ深い。

 ただ見つめる天使。
 生と存在の絶望に喘ぐ人々に寄り添うも、その哀しみを共有する事も出来ず、何かしらの決断と意志をもって見守るでもなく、放心にも似た、ある意味「用意された」絶望、いや、虚無、いや、それをも超越した、言葉にし難い「何か」を胸にそっと秘め、 ただ、見つめる天使。

 この姿をメタレヴェルで、即ちヴェンダース自身の、映画自身に対する態度として捉え、彼を「映画に対する答えを持っていない」と嘲笑した者がいた。その浅薄さにこそ、われわれはあの天使と同じ眼差しを向けるしか他ない。あの眼差し。それは北野映画のあの眼差しであり、「もののけ姫」のアシタカのあの眼差しであり、「ミツバチのささやき」のアナの、あの眼差しと、必然的に同じ意味を持つものである。

 天使を主観としたあのクレーンショット、空撮の何という哀しみ。「人間の苦しみを伝えるには、先ずカメラが苦しまねばならない」と語ったのは「ショア」のクロード・ランズマンだが、総ての意味と情感がただ、カメラワークのみによって語られているというだけで、これはただ「素晴らしい映画」としか語り様のない映画なのである。

 ベルリンに漂う「いま」と、そして沈殿して山と積もった「歴史」を総覧していながら、天使は「いま」「ある」という事に、「意味」がそこに「ある」という事に、限りない無垢な憧れを掻き立てられる。無知故の憧れではない。「絶望以上」の地から「絶望」を見つめ続けた、「虚無」に立つ者の実に「純粋」な「答え」なのである(勿論、先の「答えを出してない」等とぬかした者に、この映画が見えている訳がない。きっと天使をも、生涯一度も見た事がないのだろう)。

 唯一惜しむらくは、彼の得た「意味」を、男女の愛という形で無理にはっきりさせてしまった事。そんな限定の仕方をせずとも彼にとっての「いま」は充分実り多きものとなったではないか。最後一緒になるサーカス女性も喋り過ぎ。あんたが一々総括せんでも良い。

 これを観て、自分がいま、ここにあるという「憶測」を、自分がまだ性懲りもなく「信じて」いるという事に気付いて、無性に泣けた。

(08.24)

 
吹奏楽はトランペットが総て。この夏確信する。
 ただ内容的には「アニメは美少女が命」と同じなので、御間違えなく。
 いいや、そんな事。

 アタマ沸いてらぁ。
 アホ相手は、もう疲れた。


 相米慎二「お引越し」。期待程ではなかった。

 何せ、ヘタすりゃこれ「普通の映画」だもん。

 ワンシーン・ワンショットが身上の筈のワンショットが短い。ていうかカット多い。カメラに暗めのフィルターかけて変に日本映画し過ぎ。役者が上手過ぎ(桜田淳子は流石に良かった・・・って実生活とリンクしたとしか思えない気合。宗教に走りたくもなるわな)。どうもね、普通の映画なんだわ。ずっと。

 あの「跳んだカップル」を観てしまって以来愛して止まない、ながーいショットを伸び切ったパンツのゴムみたいにぴーんと張って、その中で素人同然のアイドル役者を放り込んだ時の取り付く島のなさ、バツの悪さがそのぴーんと張ったパンツのゴム、もとい画面の絶対的長さが持つ緊張感と相俟って生まれる、不思議な位の禍々しいテンション。 「高度に映画的なホームビデオ」と言った事もあるのだが、そのイライラウズウズするような緊張感がここにはまるでない。つまり、折角の「ヘタウマ」子役・田畑智子(「私の青空」!)を絡ませるには、中井貴一や桜田では荷が重すぎた、いや、軽すぎたのだ。
 カメラワークもいやらしいドリーを繰り返す。TVドラマじゃあるまいし。栗田豊通の入れ知恵?彼のカメラは上品過ぎるしなぁ。

 後半になって「あの」長い坂道とか「あの」オートバイとか出て来るのだが、やはりバシッと嵌まるものがない。田畑が訳も解らず走っているのも効果が薄い。ラストの田畑入水シーンなんか妙に情緒臭くなってしまって、オイこれで終わりかよ!と思っていたら、

 「おめでとーございまーす!!おめでとーございまーす!!」

 やっと相米節復活。

 この突然ラリったかのような意味不明の台詞、あるいは行動が、クライマックスに向かって高められた情感の圧縮に作品の外界から火花の様に放たれた時、作品が映画として成立しているそのステージをも覆すような物凄い振動をもって作品が揺さぶられ、観る者の動揺が増幅しそして間髪入れず、 その倍化された緊張感は何時の間にか作品の内的カタルシスへの爆発エネルギーに転化されてしまっている。あの見事なまでの反則技だけは、本作でも健在であった。田畑が両手ブンブン振り回して「おめでとーございまーす!!」と言ってる姿に比べれば、東大学長が褒めちぎってた「女の顔」なんてのは野暮野暮。いやまぁ、可愛いんだけどね。


 ヒロシマ、行けそうもありません。
 アニメのアニメーションたるを存分に謳歌させているその同じ空の下で、アニメの掃溜めで汚物まみれになっています。
 憐れみ下さい。

(08.27)

 
またしてもプロとして恥ずかしい仕事が意外と早く終わって午後暇になったのでお、こりゃいけると思って佐渡ちゃんのヤングピープルコンサート@京都コンサートホールへ。
 場内埋め尽くしたあどけない子猫ちゃん達に酔いしれ音楽そっちのけでそれに見とれ、溜まってんのじゃ許せ。
 入り口で配られた指揮棒片手に子猫ちゃん達が佐渡ちゃんと一緒に棒振り大会!ををを、ちんたいばーん!
 演奏自体は大味。ていうかどうしても曲がズタズタにカットされるのでそういう意味でも物足りない。
 しかし一曲終える毎にぜいぜい言ってトークもたどたどしい佐渡ちゃん見てると、改めてバーンスタイン先生の偉大さを確認。勿論、面白かったけどね。

 その後十字屋に寄ってV.エリセのDVDセットを買っちまう。
 あれ?いや、「エル・スール」が観たかったので。

 かつてある女友達に、俺の動脈には演出家の血が、静脈には指揮者の血が流れていてぇ、なんて話をしたら、
 「じゃ、両方やればいいじゃない?それしかないわよ!」
 と言われた。出来るか!

 しかし、今やどちらも瘤が出来放題です。
 じきに破裂するっしょ。
 へっ。

(08.28)

 
「AUFTAKT」実に半年振りの更新です。
 しかし第一回より、更に苦渋の気持ちで文字に向かってるような気が・・・。

 俺は呪われてるのか??
 がびーん。

(08.30)

 
友人サイト「Pants-aholic」 とか「imaki」 とか覗いてると、ああ、俺もう真っ当なオタクにすらなれないのかも知れないなぁと思い、一寸焦る。
 映画だけは観てますが、本は読まねぇズラ。「映画狂人」くらい。きゃはは。

 


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