桶川女子大生ストーカー殺人事件

 

【 事件発生 】

1999年(平成11年)10月26日午後0時53分ごろ、埼玉県桶川(おけがわ)市若宮1丁目、JR桶川駅西口のロータリーを挟んだ東武ストア「桶川マイン」の1階入口から10メートルほど南側の所で、何者かがナイフで若い女性を刺して逃げた。女性は桶川市泉台に住む跡見学園女子大学文学部国文科2年の猪野詩織(21歳)で、左胸と右脇腹を刺されていた。その後、救急車で上尾(あげお)中央総合病院に運ばれたが、出血多量で死亡した。

詩織はこの日、午後の講義に出るため午後0時40分ごろ、自転車で自宅を出た。その後、桶川駅から電車に乗り新座市にある大学に向かう予定であったが、桶川駅で自転車を置いた直後に襲われたらしく、荷台に荷物が残っていた。

【 犯行に至るまでの過程 】

1999年(平成11年)1月6日、埼玉県大宮市(現・さいたま市)のゲームセンターで友人と一緒だった詩織が小松和人(当時26歳)ら2人に声をかけられたことがきっかけとなり交際を始めるようになった。和人は自分を「誠」と名乗り、年齢を23歳と偽った。また、和人には東京消防局板橋消防署で消防士を務めている兄の武史がおり、その武史とともに池袋で7軒のファッションヘルスを共同経営していた。だが、詩織にはクルマのディーラーの他に貴金属や不動産も扱う青年実業家だと言っていた。ベンツ2台を乗り回し、収入は武史と折半で月に70〜100万円あったという。

交際を始めた頃、詩織は週に一度、食事やドライブに誘われる程度であり、特に和人に対して不審に思うようなこともなかった。だが、2月に入る頃になると、買い物に誘われるようになり、ヴィトンのバッグやグッチのスーツなど100万円近くのプレゼントを押しつけられた。受け取りを拒否すると人前をはばからず大声で怒鳴られた。また、和人に携帯電話の番号しか教えていないはずなのに自宅にも電話がかかってきたことがあり、こうしたことから詩織は交際を続けていくことに不安を抱くようになっていく。

3月中頃、詩織が和人の住むマンションに遊びに行ったとき、室内にビデオカメラが仕掛けられていることに気付き、和人にその理由を訊くといきなり激怒し、壁にもたれた詩織の顔をかすめるように拳で壁を何度も殴った。殴りながら「俺は親に捨てられたんだ」と泣きわめいた。

詩織は恐くなり別れたいと切り出したが、和人は「俺に逆らうのか」「貢いだ100万円を返せ」「返せなければ風俗で働け」などと脅迫し交際を続けることを強要した。その後、交際を断れば殺されるかもしれないという恐怖心を抱いた詩織に対し和人は間断なく携帯電話をかけ行動を束縛した。

3月24日、詩織は友人に「私、殺されるかも・・・」と相談するようになる。

3月30日、詩織は家族と友人に宛てた「遺書」まで書いた上、和人に会い、別れ話を持ち出したが、和人は自分と別れるなら「家族をメチャクチャにしてやる」「親父をリストラさせてやる」「長男は浪人生だよな。次男はまだ小学生だよね」などと危害を加えることをほのめかして脅迫し、交際を続けていくことを強要した。

4月中旬、さらに和人は「精神的に追いつめて天罰を加えてやる」「お前は2000年を迎えられない」「金で動く奴はいくらでもいる」などといったことを吐いた。

5月18日、この日は詩織の21歳の誕生日で和人からロレックスの時計をプレゼントされるが、受け取りを拒否した。

<5月頃>というタイトルのカセットテープがあり、和人が詩織を恫喝する次のような声が残されている。

<5月頃>

「お前、世の中なめすぎてんだよ、まったくよ。嫌いになって別れてそれで済むと思ったら大間違いなんだ。コケにされて騙され続けてよ。そんな人間どこにいるよ、お前。あん、それでバイバイなんて言う人間じゃねえんだよ、俺は。自分の名誉のためだったら、自分の命も捨てる人間なんだよ。そういう人間なんだよ、それだけお前を愛してたんだよ。それに対してなんだ、テメー、なんだよ、お前。信用なくしただ? ふざけんじゃねーよ、コノヤローテメー。・・・・・・俺は人間ってもんがどんなもんか、テメーに教えてやるよ。わかったかよ」

「分かりました」

「分かったか、コノヤロー。人間てそんな軽くねえんだよ。ちゃんと誠意ある態度示せよ」

 

6月14日、詩織は池袋駅構内にある喫茶店で毅然とした態度で和人に別れる意思を告げた。これに怒った和人が兄の武史、知人のYをともない、午後8時半ごろ、詩織の自宅を訪れた。兄の武史が和人の勤務先の上司、Yが同じ勤務先の社長を装い、その場に居た詩織と母親に対して、「こいつ(和人)が会社の金を500万円横領した。お宅の娘にモノを買って貢いだ。精神的におかしくされた。娘も同罪だ。500万円の半分の250万円を支払え。誠意を示せ」などと言って1時間以上に渡って脅迫した。午後9時すぎに父親が帰宅した。だが、武史はかまうことなく詩織に対し恐喝した。父親は短髪にパンチパーマをかけ、小太りで金のネックレスをしている武史を普通の会社員でないと思い、「話があれば警察で聞く! 行こう!」「女、子どもしかいないところに上がり込んで、一体、何をやっているんだ」「贈られたモノがあるから、持って帰ってくれ」と言うと、武史が「そんなものは要らない」、続けて和人が「返してもらっても困るんだよ」と言い放った。間もなくして、男たちは退散するが、そのとき玄関で「会社に内容証明付きの文書を送り付けるから、覚えておけ!」「ただではおかない!」という捨て台詞を吐いた。詩織はこの日の男3人とのやりとりを相手に気付かれないように録音しておいた。

6月15日、詩織と母親が埼玉県警上尾署に前夜のテープを持参して相談に訪れた。テープを聞いた比較的若い署員が「これはひどい、恐喝だ!」と言ったが、年輩の署員たちが口を揃えて「これは民事かどうか。ギリギリのところだ」「ダメダメ、これは事件にならないよ」「民事に首を突っ込むと、あとから何を言われるか分からないから、こちらも困るんですよ」と言った。

同日、「プレゼントは返してもらっても困る」と和人が言っていたにもかかわらず、和人の仲間の伊藤嘉孝が猪野宅に電話をかけて「田中」と名乗り、「プレゼントは全て送り返してください」と言った。また、これ以降、詩織殺害事件が起きるまで毎日のように1日平均20回も無言電話がかかってくるようになる。

6月16日、詩織、母親、父親の3人で再び上尾署を訪れたが、対応は変わらなかった。さらに、ある署員は諭すように「3ヶ月ほどじゃ、相手の男も一番燃え上がってるところだよね」「そんなプレゼントをもらっておいて、別れると言えば、男も普通怒るよ。あなたもいい思いをしたんだから。これは男と女の問題だ。立ち入れないんだよね」「また、何かあったら、来てください」などと言った。

母親は署員に市役所には無料法律相談所があると教えてもらい、上尾市商工会議所内の無料相談所を訪ねたが、当番弁護士は「・・・でも、娘さんはいろいろ買ってもらていたわけでしょ」と言った。相談に割り当てられた時間は10〜15分程度だった。

同日、詩織は和人から「よりを戻したい」という電話を受け取る。

6月17日、和人から「会いたい」という電話を受け取るが、詩織が「警察の指示で生活しているから会えない」と言うと、和人は「警察?」と激怒し「どこの警察だ?」と問い質したあと、そそくさと電話を切った。

6月21日、詩織は和人から贈られたプレゼントを宅配便で送り返した。この日も詩織は和人から復縁を迫る電話を受け取っているが、断っている。猪野宅の電話番号が変わる。午後11時ごろ、和人が風俗店店員Kと猪野宅前に駐車して、「詩織、出て来い!」と叫んだ。詩織と両親が外に飛び出して車のナンバープレートを写真に撮った。

6月22日、和人の指令を受けた武史が久保田祥史(よしふみ)に詩織殺害の相談をもちかけた。久保田は小松兄弟が経営する風俗店で店長を務めたことのある男だった。武史は何度も頼み込んだ。これまで高い給料をもらって優遇されてきたこともあり、恩義に報いなければならないと考えるようになり、知人の伊藤嘉孝と川上聡を誘って決行することにした。

その後、3人は具体的な計画を立て上尾市に行って詩織の自宅付近や桶川駅などを下見した。武史からもらった詩織本人の写真も確認した。

6月23日、和人から猪野宅の留守番電話に「なんで電話番号変えるんだよ」という伝言が入る。

6月24日、母親が上尾署に出向いて「電話番号変えたのに(和人から)またかかってきたんです」と相談すると、Y主任は「また変えたほうがいいですね」と言った。

7月5日、和人は武史に現金2000万円入りの紙袋を渡した。それからアリバイ工作のため和人は沖縄に行き、しばらく滞在することになった。

7月13日早朝、一見してピンクチラシと見間違うようなB5判の大きさの極彩色の中傷ビラが、猪野宅とその周辺の民家の外壁にズラリと貼られていた。そのチラシには<WANTED 天にかわっておしおきよ!! FREEZE猪野詩織><この顔にピンときたら要注意、男を食い物にしているふざけた女です。不倫、援助交際あたりまえ>などと書かれたキャッチコピーとともに詩織の顔写真と合成なのか不明だが、裸の写真がプリントされていた。詩織の学校、父親の会社の塀にも貼られており、全部で約300枚あった。また、自宅の郵便受けにも約200枚投函されていた。

午前8時半すぎ、母親は被害を受けたことを申告するため上尾署を訪れた。母親は応対した刑事第ニ課長の片桐敏男に「すぐに来てください」と懇願したにもかかわらず、片桐は「すぐには行けない。家に帰って待っていてください」などと答え、簡単に事情聴取しただけで母親を帰らせた。その後、片桐の部下である刑事第ニ課係員の本多剛がもう1人の課員と猪野宅に出向いて実況見分を行なった。

7月15日、詩織と母親は上尾署を訪れた。このときは片桐と本多が応対し事情聴取を行なった。詩織は和人から何度も電話があることや無言電話もあること、6月21日の深夜にも和人が車で自宅周辺を徘徊していたことなどを説明した上で早く和人を捕まえてほしいと訴えた。ところが片桐は詩織に対し「警察は告訴がなければ捜査できない」「嫁入り前の娘さんなんだし裁判になればいろいろなことを訊かれて辛い目に遭うことがいっぱいありますよ」「告訴は試験が終わってからでいいじゃないですか」などと言った。

7月20日ごろ、都内で<大人の男性募集中>と記載された詩織の顔写真と電話番号入りのカードが大量にバラまかれる。インターネットにも同様の書き込みがされた。

7月22日、試験を終えた詩織と母親が上尾署を訪れた。約束通り告訴に応じてもらうつもりだったが、応対した片桐は「今日は事件があって担当者がいないので、また改めて来てもらえますか」などと言った。

7月29日、詩織と母親は改めて上尾署を訪れた。応対した片桐と本多、別の係員が詩織から事情聴取を行なった。そして、やっと詩織の名誉毀損の告訴状を受理した。詩織は「犯人は小松和人しか考えられない」と言ったにもかかわらず、告訴状には<誰がこのようなことをしたのかわかりません>と記されていた。でも、これでやっと警察は捜査してくれるものと思っていた。だが、その後、警察が動いた形跡はなかった。詩織は何度も上尾署に電話を入れて捜査の状況を訊いてはみるものの、署員たちの要領の得ない答えが返ってくるだけだった。

8月23・24日、父親の勤め先に397通、その親会社にも391通もの誹謗中傷の手紙が届いた。内容は詩織が不倫や援助交際しているとか、父親はギャンブル好きでその上、借金地獄などとでたらめなものだった。父親はその封筒全部を上尾署に持って行って、「警察から犯人に接触してください! 脅迫ですよ! なんとかしてください!」と言ったが、署員はまともに取り合わず、「全部切手貼ってますね。いいコピー用紙を使ってますね。これは金がかかってますよ。たいしたもんだ。相手側に警察が出向くのはケースバイケースですのでね」と言った。

8月30日、片桐はようやく上司である上尾署の刑事で生活安全担当次長の茂木邦英に決裁をあげた。だが、茂木は片桐に対し事件記録を片桐の机に放り投げ、怒った口調で「犯人が特定されていないんだから何も告訴状を取らなくても被害届で捜査すればよかったんじゃないか」(実際は詩織が犯人を和人と特定している)と言った。茂木は上尾署の未処理の告訴件数が増えてしまい成績が下がってしまうことに腹を立てたのである。

その2、3日後、片桐は詩織らから被害届を提出してもらうことにした。そしてこの被害届を受けて捜査を開始したということにすれば県警本部に報告する義務を回避し、告訴事件として迅速な事件処理を迫られることがなくなると思い、本多に対し「あれは告訴ではなく、被害届でよかった。被害届を取ってきてくれ」と指示した。

被害者が「告訴」すると、警察は必ず送検しなければならないが、「被害届」の場合は、当事者同士の話し合いで決着すれば、必ずしも送検しなくてもいいことになっている。

9月7日、本多は猪野宅を訪れ、詩織から被害届を提出してもらった。

9月21日、本多は猪野宅を訪れ、応対した母親に「告訴を取り下げてもらえませんか?」などと頼んだ。母親は告訴は取り下げられないと言うと、本多は「告訴状は犯人が捕まってからでも間に合います。また簡単に出せます」などと言った。

刑事訴訟法237条2項では「告訴の取消をした者は、更に告訴をすることができない」と規定されており、本多の言うことは明らかにウソであった。

のちに、詩織の供述調書中、加害者を「告訴」する旨の記載を被害の「届出」に書き換えた。また、片桐らは実況見分調書の作成日を遡らせたり、重要な証拠物を領置していなかったにもかかわらず領置したかのごとく、領置調書や捜査報告書、実況見分調書、さらには母親の供述調書まで書き換えた。

10月16日深夜、2台の車が猪野宅の前に停まり、カーステレオで音楽を大音響でガンガン鳴らした。このとき、母親が証拠にするため2台の車を写真に撮り、110番通報したが、結局、犯人を捕まらえることはできなかった。

10月26日(犯行当日)午前8時ごろ、池袋で久保田祥史(当時34歳)、伊藤嘉孝(当時32歳)、川上聡(当時31歳)の3人が集まり、川上の運転するマークUの助手席に久保田が乗り、伊藤がリベロに乗って桶川に向かった。

午前9時、桶川に到着。伊藤が猪野宅から少し離れた路上に車を停めて詩織の行動を見張った。

午後0時40分、伊藤から久保田の携帯電話に詩織が自宅を出て駅に向かっているという連絡が入った。川上は車を桶川駅の方へ移動して駅近くで久保田を降ろした。

午後0時53分ごろ、久保田は詩織が自転車を降りたところに背後から近づき右脇腹を突き刺し、詩織が振り返ったところで、さらに左胸部を刺して逃げた。その後、伊藤は武史(当時33歳)に電話して「久保田がやった」と報告した。

【 その後 】

午後5時ごろ、武史は久保田、伊藤、川上の3人に対し赤羽にあるカラオケ店に来るように携帯電話で連絡した。

午後6時ごろ、3人がカラオケ店の個室に到着。武史は7月5日に和人から沖縄に出発する前に渡された2000万円のうち、久保田に1000万円、伊藤と川上にそれぞれ400万円を手渡した。残りの200万円は7月13日の中傷ビラの印刷費用などに消えていた。さらに、武史は遅れて到着した中古車販売会社経営のYに犯行に使用した2台の車の処理を指示した。

その頃、上尾署に捜査本部が設置されたが、その後の記者会見で詩織が当日身に付けていた遺品について、「バッグはプラダ」「靴は厚底ブーツ」「黒いミニスカート」などと意図が感じられる具体的な説明した。

さらに事件から2週間ほど経った頃、週刊誌やワイドショーが詩織に対するデマ報道を流し始めた。「ブランド依存症の女子大生だった」「キャバクラ嬢だった」「風俗嬢だった」・・・こんな酷い殺され方をする人には何か理由があるはず、という前提があるように感じられる内容が多かった。

詩織は事件が起きる1年ほど前に2週間ほどアルバイトしたことがあった。大宮市(現・さいたま市)内の通称・南銀座商店街にあるその店はクラブやキャバクラとはほど遠いごく普通のスナックだった。だが、ある雑誌がその店を「風俗店」と決め付けたことがデマの起点になっていた。その店には1人で働くには心細いという友人に付き合うような形で勤め始めたのだが、結局、お酒を飲んだ人の相手はできないという理由で、2週間分のアルバイト代も受け取らずに辞めたという。

しかし、詩織の作られたイメージは勝手にひとり歩きを続けた。「女子大生でありながら風俗嬢で、男遊びが激しく、男にいろいろなおねだりをし、貢ぎものを受け取っていたのに、あるときから手のひらを返したように冷たくしたため、男の怒りを買い、遂に殺されてしまったのだ」と。世間は自ずと「被害者にも問題があった」という見方を強めていくことになる。

12月19日、殺害実行犯の久保田祥史が殺人容疑で逮捕された。

12月20日、小松武史、伊藤嘉孝、川上聡の3人が殺人容疑で逮捕された。

2000年(平成12年)1月9日、殺人罪で武史ら4人が起訴される。

1月16日、中傷ビラ配布の実行犯ということで名誉毀損容疑で新たに8人(小松兄弟が経営する風俗店の店長や従業員など)が逮捕され、武史ら4人が再逮捕された。小松和人は詩織の殺害に関与したという証拠がないということで殺人容疑ではなく名誉毀損容疑で指名手配された。

1月27日、和人が北海道の弟子屈(てしかが)町の屈斜路湖で水死体で発見された。捜査本部は自殺と断定した。湖畔に遺留されたバッグの中には遺書めいたメモが入っていた。また、宿泊していた北海道内のホテルから所持品を実家に配送していたが、その所持品の中にも両親に宛てた遺書(メモ)があった。遺書には「4000万円の生命保険があるので安田生命から受け取ってください」といった内容の文面があった。和人の携帯電話の通話記録から詩織殺害事件の翌日の27日夕方、安田生命池袋支社に電話していることが分かっている。このことから事件直後から自殺する決意をしていたと思われる。

3月4日、『ザ・スクープ』(テレビ朝日)で「桶川女子大生殺害事件の真相 第1弾」放送される。

3月7日、参議院予算委員会で民主党議員の竹村泰子が桶川の事件について質問したが、警察庁の林則清刑事局長が「いいかげんに扱ったことはないと承知している」と答える一方で「消極的な印象を与えるような言動、対応があったならば、大変遺憾なことだ」と話した。また、竹村が不適切な対応を取ったとされる同署の刑事の現在の部署について「予告してある質問」と追及したのに対し、林局長が「存じておりません」「怠慢でございました」と頭を下げたことをめぐり、審議がストップする一幕もあった。警察庁田中節夫長官が代わって「怠慢という答弁は誠に不適切。調査していないので後刻報告する」と釈明した。

3月8日、参議院予算委員会で警察庁の林則清刑事局長は、桶川の事件について、捜査員が「公判でプライバシーが明らかになってもいいのか」「告訴は容疑者がつかまってからでもできる」などと被害者らに言った事実を認めた。林局長は「告訴を下ろせという印象を与える発言は極めて不適切だ」として、埼玉県警にさらに確認を進めるよう指導したことを明らかにした。

3月10日、埼玉県警が調査プロジェクトチームを設置。

3月17日、参議院予算委員会で警察庁の田中節夫長官は桶川の事件について「上尾署の刑事二課員が告訴の取り下げを依頼したと受けとめられるような不適切な発言をしたことが判明した」とする中間報告を行った。田中長官は「いかなる真意であれ、真摯に被害を訴えてきた方に対し、捜査に消極的であるかのような言動を取ることは極めて不適切だ」と述べた。

4月6日、埼玉県警が調査報告書を発表した。

埼玉県警の刑事二課長の片桐敏男警部(当時48歳)、刑事二課捜査第一係長の古田裕一警部補(当時54歳)、刑事二課捜査第一係員の本多剛巡査長(当時40歳)の3人を調書改ざんの虚偽有印公文書作成容疑などで書類送検した。古田係長の指示で本多係員が調書を改ざんし、片桐課長が了承していたとされる。

片桐敏男、古田裕一、本多剛の3人を懲戒免職処分
西村浩司埼玉県警本部長(当時55歳)を減給100分の10(1ヶ月)
茂木邦英県警刑事部主席調査官(当時48歳/当時・上尾署刑事生活安全担当次長)を減給100分の10(4ヶ月)
横内泉刑事部長(当時40歳)を減給100分の5(1ヶ月)
渡部兼光上尾署長(当時55歳)を減給100分の10(2ヶ月)
山田効上尾署刑事生活安全担当次長(当時46歳)を減給100分の10(1ヶ月)
塩原兼定同副署長(当時59歳)と川口幸3県警監察官(当時57歳/当時・上尾署副署長)を戒告などの処分となった。

西村埼玉県警本部長が猪野宅を訪れて謝罪した。

5月18日、ストーカー規制法(ストーカー行為等の規制等に関する法律)が成立。

9月7日、浦和地裁(現・さいたま地裁/以下同)は虚偽有印公文書作成、同行使容疑に問われた片桐敏男と古田裕一に対し懲役1年6ヶ月・執行猶予3年、本多剛に対し懲役1年2ヶ月・執行猶予3年を言い渡した。

10月26日、詩織の両親が小松武史ら計17人に慰謝料など約1億1000万円の損害賠償請求訴訟を浦和地裁に起こした。この日は詩織が殺害された日で一周忌に提訴に踏み切った。

11月24日、ストーカー規制法が施行された。

12月22日、詩織の両親は埼玉県(埼玉県警)を相手取って警察の責任を追及する約1億1000万円の国家賠償請求訴訟を浦和地裁に起こした。

2001年(平成13年)3月3日までに、桶川の殺人事件の刑事裁判を担当する浦和地裁(中込秀樹裁判長)の刑事部所属の男性判事(当時47歳)が公判で居眠りをしていると傍聴人から指摘された。判事は「居眠りはしていないが、誤解を受ける行動があったかもしれない。申し訳ない」と答えているという。中込所長は「病気かもしれないが、指摘を受けること自体が遺憾。病院での検査を待ち、配置換えも検討する」と話している。事件の公判は合議制でこの判事は傍聴席から見て左に座っている。公判では、ほおづえを突くような姿勢を見せたほか、目を閉じたまま上体を揺らすこともあったらしい。

5月1日、浦和市、大宮市、与野市が合併して人口約103万人の「さいたま市」が誕生した。同日、浦和地裁も「さいたま地裁」に名称変更された。

7月17日、さいたま地裁は求刑通り殺害実行犯の久保田祥史に懲役18年、見張り役の伊藤嘉孝に懲役15年を言い渡した。後に久保田が控訴した。小松武史と川上聡の2人に対する刑事裁判は2人が起訴事実を否認していたため分離公判が遅れていた。

10月26日、詩織の命日に当たるこの日、さいたま地裁は詩織の両親が小松武史ら17人に慰謝料などの損害賠償などを求めた訴訟で名誉毀損行為への関与を認めた5人に対し計490万円の支払いを命じる判決を言い渡した。17人のうち1人とはすでに和解が成立していた。

11月16日、さいたま地裁は詩織の両親が小松武史ら17人に慰謝料などの損害賠償などを求めた訴訟で殺害実行犯の久保田と見張り役の伊藤の2人に対し計9867万円の支払いを命じる判決を言い渡した。民事訴訟継続中の被告は残り9人となった。

しかし、被告たちに支払い能力がほとんどなく、中には「月1万円のローンでお願いします」という者もいて、その条件を受け入れるしかなかった。

2002年(平成14年)3月29日、実行犯の久保田が控訴を取り下げ、懲役18年が確定した。

6月27日、さいたま地裁は運転手役の川上聡に対して求刑通り懲役15年を言い渡した。

刑事裁判では詩織殺害に関わった4人のうち、久保田祥史(懲役18年)、伊藤嘉孝(懲役15年)、川上聡(懲役15年)の3人の刑が確定したが、小松武史被告人は現在も公判中である。

2003年(平成15年)1月29日、さいたま地裁で詩織の両親が埼玉県(埼玉県警)を相手取って警察の責任を追及する約1億1000万円の国家賠償請求訴訟の判決公判が開かれる予定。

[ 警察不祥事関連事件 1 ]

1999年(平成11年)12月5日、栃木県芳賀郡市貝町にある山林で日産自動車栃木工場に勤める須藤正和(19歳)が死体で発見された。いわゆる「栃木リンチ殺人事件」である。同日、殺人と死体遺棄容疑で逮捕されたのはリーダー格のA(当時19歳で無職)、B(当時19歳で正和と同じ日産自動車栃木工場に勤めていたが交通事故を起こして休職中)、C(当時19歳で無職)の3人と前日の12月4日に自首して同じ容疑で逮捕されたD(当時16歳で高校生)の4人の少年だった。

4人は正和を殺害するまでの約2ヶ月間(正確にはDだけが11月26日から参加)、宇都宮市内のラブホテルや都内・渋谷のホテルを転々としながら正和を監禁し、丸坊主にしたうえ、眉をそり落とし、顔や腹を殴る蹴るの暴行から「熱湯コマーシャル」「火炎放射器」などと犯人らが名付けた凄惨なリンチへとエスカレートさせていった。さらに、サラ金や友人、知人から借金させ、合計728万3000円を脅し取っていた。

同年9月下旬、正和の父親は正和が突然、行方をくらまし友人などから借金を重ねていることを知ることになるが、何かの事件に巻き込まれたのだと思い、石橋署に捜査の依頼をしたが、署員は「息子さんは仲間と自発的に同行しているようで事件性は見られないから捜査するわけにいかない」と言って放置した。同年11月25日、取引銀行から父親に電話がかかってきた。防犯カメラに被害者が映っている、顔じゅうにヤケドし、3、4人の男に取り囲まれて金を下ろしにきた、という内容だった。正和の母親は石橋署に電話をかけ、そのことで相談したが、電話に出た署員は「もしかすると刑事事件になるかもしれないなあ」と言うだけだった。

11月30日、正和の両親はBの母親とCの父親の4人で石橋署に出向いた。いつも応対する署員が出てきて、「なんなんだ、須藤さん、この騒ぎは。日産からも大勢、人を寄越したりして。一体、今日は何の用で来たんだ」と言った。父親は怒鳴りたい気持ちを抑えつつ、取引銀行からの電話の内容を伝え、ビデオテープを取り寄せてもらうように必死に頼み込んだが、署員は面倒くさそうに、「あのね、銀行のビデオテープを取り寄せるには事件が発生していることを証明し、裁判所の許可を取らなければならないんですよ」と言い放った。そのとき、父親の携帯電話のベルが鳴った。正和からだった。父親は署員に電話機を差し出し直接、事情を聞いてくれるよう頼んだ。署員が電話に出ると、「あんまり心配かけるんじゃない、早く帰って来い」と言った。正和が「あんたは誰ですか」と訊くと、署員は「石橋だ、石橋警察だ」と答えた。その直後、署員は「あれ、電話が切れちゃったよ」と言って父親に電話機を返した。父親はこのときの署員の不用意な会話が正和の死を招いたと考えた。口封じのために正和が絞殺されたのではないかと。後日、その殺害は2日後の12月2日だったことが判明する。リーダー格のAの父親は事件発生時は栃木県警氏家署の交通課の係長であったが、そのため捜査をためらったという見方もあった。

12月4日、16歳の高校生のDが警視庁三田署に自首した。これで事件が発覚した。Dは少年院送致の保護処分となったが、12月20日、東京家裁がA、B、Cの3人を逆送。宇都宮地検が殺人および死体遺棄容疑で起訴した。2000年(平成12年)4月、Aの父親が県警本部の通信指令課に異動になる。6月1日、宇都宮地裁でAに無期懲役、7月18日、Bに無期懲役、Cに懲役5〜10年の不定期刑(いずれも求刑通り)が言い渡された。Aは控訴したが、2001年(平成13年)1月29日、二審の東京高裁は控訴を棄却した。2月13日、上告申立期限が切れて無期懲役が確定した。4月23日、正和の両親は服役中のA、B、Cの3人と保護者ら計8人を相手取り総額約1億5300万円の損害賠償を求める訴えを起こした。

2000年(平成12年)7月11日、Aの父親の警部補は退職願いを提出し受理された。7月27日、県警本部長や石橋署の署長、両親に「警察は事件にならないと動かない」などと応対したとされる石橋署の生活安全課長など関係者9人の処分を発表した。だが、その中でもっとも重い処分が石橋署の生活安全課長の停職14日間というあまりにも軽い処分であった。なぜ、警察は動かなかったのか。元警視庁警官で現在、ジャーナリストとして活躍している黒木昭雄が取材を通して得られた事実を元に推理、著書『栃木リンチ殺人事件』(草思社/2001)にそのことについて詳しく書かれています。

[ 警察不祥事関連事件 2 ]

1999年(平成11年)12月21日、京都府伏見区の日野小学校の校庭で遊んでいた小学2年生の中村俊希君(7歳)が殺害される事件が発生した。現場には犯行声明文を残しており、その文の最後には、<私を識別する記号→てるくはのる>とあった。12月23日、学校から約300メートル離れた公園で血のついたズボン、ジャンパー、手袋、ナイフ、目だし帽、自転車などが発見された。自転車は大阪府枚方(ひらかた)市の店で購入されており、防犯登録の名義は架空だったが、住所は現場近くのビデオ店になっていた。12月30日、現場から約4キロの地点にあるホームセンターの防犯ビデオに遺留品と同型の複数の商品を購入した若い男が映っているのが分かった。

翌2000年(平成12年)1月中旬、捜査本部はすでに伏見区の自宅浪人中の岡村浩昌(21歳)をマークしていた。2月5日午前7時ごろ、6人の捜査員が岡村宅を訪ね、任意同行を求めた。だが、岡村は突然で失礼だ、友人と約束がある、などと言って拒否したが、説得した結果、近くの公園でなら話してもいいと言い出したので、午前8時20分ごろ、向島東公園に場所を移し説得を続けた。午前10時半ごろ、岡村の母親も公園のベンチに来て説得した。午前11時50分、岡村は突然ベンチから立ち上がると、持っていた黒いリュックサックを捜査員に投げつけてスーパーに逃げ込み、そこから数十メートル離れた13階建ての団地から飛び降り自殺した。追跡してきた警察は飛び降りる10分前に、屋上の岡村を見つけていた。だが、上がり口の扉に鍵がかかっていて手間取り自殺を制止できなかった。いずれにせよ任意同行を拒否され逃走を許したことなど京都府警の稚拙な捜査は非難を浴びた。

[ 警察不祥事関連事件 3 ]

2000年(平成12年)1月28日、新潟県柏崎市で9年2ヶ月に渡る女性監禁事件が発覚した。1990年(平成2年)11月13日に新潟県三条市で行方不明になった当時小学校4年生(当時9歳)がこの日、保護された。女性は19歳になっていた。略取・監禁致傷の疑いで逮捕された柏崎市四谷、無職の佐藤宣行(当時37歳)はその1年前の1989年(平成元年)6月13日に下校中の小学4年の女児に乱暴しようとして逮捕され、懲役1年・執行猶予3年の有罪判決を受けていたにもかかわらず、犯罪者リストから漏れていたことを県警は明らかにした

2002年(平成14年)1月22日、新潟地裁で懲役14年、同年12月10日、二審の東京高裁では懲役11年の判決となったが、同年12月24日、検察側、弁護側ともに判決を不服として上告した。この事件では柏崎署が何度か監禁女性を発見できる機会がありながら見逃していたことが判明。さらに、発見時、新潟県警本部長、関東管区警察局長などが温泉旅館で麻雀していたことや発見後の保身のための虚偽発表などがあった。

2000年(平成12年)2月26日、県警本部長が引責辞任。2月29日、関東管区警察局長が引責辞任。3月2日、県警と国家公安委員会が刑事部長ら虚偽発表などに関わった9人の処分を発表。3月7日、県警が初動捜査ミスに関わった5人の処分を発表。4月27日、接待麻雀に参加した幹部3人の追加処分を発表。

[ ストーカー関連事件 1 ]

2000年(平成12年)4月19日午前8時ごろ、静岡県沼津市のJR沼津駅北口にある市営第2自転車駐輪場で登校途中の日大三島高校3年の大嶽万記(おおたけまき/17歳)が胸や腹など20ヶ所を刺されて死亡した。同日夜、万記と交際していた静岡県裾野(すその)市、無職の平栗(ひらぐり)秀正(当時27歳)が出頭して殺人容疑で逮捕された。万記の部屋から<切れると恐い><脅されている><もう付き合えない>と平栗への恐怖心をつづったメモが見つかっており、平栗がしつこく交際を迫った末に長期間に渡ってストーカー行為に及んでいたと見ている。平栗は1992年(平成4年)、20歳のときにも交際をめぐるトラブルから同じ手口で女性(当時19歳)を待ち伏せし包丁で全身30ヶ所以上刺すという殺人未遂事件を起こし、翌年、懲役2年6ヶ月の実刑判決を受け服役していた。

[ ストーカー関連事件 2 ]

2000年(平成12年)4月19日、NHKのアナウンサーの久保純子(当時28歳)の両親に対し「純子さんと付き合わせろ」「殺すぞ」などと電話で脅したとして、東京・北区、無職の男(当時33歳)が脅迫の疑いで逮捕された。調べによると、男は久保アナの結婚報道を知った後の同年2月下旬から両親宅に<結婚者と別れて自分と付き合ってくれ><純子さんのブルマ姿が見たい>などと、久保アナへの思いをビッシリ綴った手紙を送付。3月下旬からは「ぶっ殺すぞ」「100万円用意しろ」などと早朝、深夜を含め数十回に渡る嫌がらせ電話をかけていた。同年1月24日、久保の28歳の誕生日で大安のこの日、結婚届を提出していた。相手は大手広告代理店「電通」の社員(当時29歳)。2人は慶応大学の同級生だったが、名前だけは知っていたという程度だったという。

ストーカー事案に関する警察への相談件数は、1997年(平成9年)は6134件、1998年(平成10年)は6032件、1999年(平成11年)は8021件だったが、2000年(平成12年)は2万6162件と前年の約3.3倍に増えている。2001年(平成13年)は2万5145件。

『FOCUS』(新潮社)のカメラマン、後に同誌の記者に転じた清水潔が桶川ストーカー事件を取材。その後、『遺言 桶川ストーカー殺人事件の深層』(新潮社/2000)を刊行。2001年(平成13年)日本JCJ(日本ジャーナリスト会議)大賞を受賞する。これを原作としたドラマが2002年(平成14年)10月28日、日本テレビ系列の『スーパーテレビ特別版』で「実録ドラマ 遺言・桶川ストーカー殺人事件」というタイトルで放送された。テレビ朝日系列のニュース番組『ザ・スクープ』のキャスターの鳥越俊太郎が桶川ストーカー事件に対する取材姿勢が評価されて2001年(平成13年)の日本記者クラブ賞を受賞した。その一方で、『FOCUS』の実売部数の激減のよる休刊(2001年8月7日号が最終号)、『ザ・スクープ』の視聴率低迷による番組の打ち切り(2002年9月末)という個人的に残念なニュースもあった。

参考文献・・・『桶川女子大生ストーカー殺人事件』(メディアファクトリー/鳥越俊太郎&取材班/2000)、『虚誕 警察につくられた桶川ストーカー殺人事件』(岩波書店/鳥越俊太郎&小林ゆうこ/2002)、『人はなぜストーカーになるのか』(文春文庫/岩下久美子/2001)、『栃木リンチ殺人事件』(草思社/黒木昭雄/2001)、『事件 1999−2000』(葦書房/佐木隆三+永守良孝/2000)、『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)、『毎日新聞』(2000年3月8日付/2000年3月9日付/2000年3月18日付/2000年4月6日付/2000年4月19日付/2000年6月22日付/2000年10月26日付/2001年3月4日付/2001年10月26日付/2001年11月16日付/2002年6月27日付)

関連サイト・・・三流ジャーナリズムの部屋(清水潔のサイト) / フォーカス休刊のお知らせ / 鳥越俊太郎の「あのくさ、こればい!」 / テレビ朝日報道番組「ザ・スクープ」存続を求める会 / ザ・スクープ / 桶川ストーカー殺人事件 / RONの六法全書 on LINEストーカー行為等の規制等に関する法律 / 須藤光男・洋子のホームページ 「栃木リンチ殺人事件」 / 女性監禁事件・県警不祥事関連

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