引き揚げ婦女子の悲劇(後編の四)

 
 痩身の田鶴さんのどこに、こんな度胸が隠されていたのだろう。幼児と婦人三人を引き連れての大移動が始まった。北京行きの切符の入手は困難をきわめた。やっと乗った各駅停車は立錐の余地もない。門司からは真っ黒に塗られた連絡船で。アメリカの潜水艦に怯えながら燈火を消し漆黒の朝鮮海峡をジグザグ航法で渡る。早朝釜山にたどり着き、やがて鴨緑江を越えれば満州。駅のホームで鶏の丸焼きや饅頭を売っているのを見たら、どっと疲れが出た。北京まで10日間の苦難の旅だった。

 何をする間なく8月15日を迎えた。戦争に負けたとは言え、北京の日本軍が武装解除されるでもなく、しばらくは市民の生活に何の変化も起こらなかった。しかし10月、米軍と国府軍が進駐して来た頃から治安が次第に悪化して日本人への暴行、強盗が目立ち始める。
 終戦の翌年から日本人の引き揚げが開始された。今まで忠実に仕えてくれた三人の中国人との涙の別れは辛かった。
 昭和20年2月、厳冬の北京を後にする。吹きさらしの無蓋車に乗って天津に着き、駅に隣接するアンペラ小屋に収容されて集団生活が始まった。土間にござを敷きローソクを立てての夕食、電気がないので暗くなれば就寝。家族6人が頭と足を互い違いにして寝るありさまは敗戦国民の哀れさだった。天井の隙間からは月や星が眺められて寒さに震えた。夜間は女性の外出は厳禁で小屋の中にバケツを二つ備えて用を足した。給水は1日3時間、食器洗いがやっとで水不足には辛い思いをさせられた 1箇月後塘沽に移動、米軍のLST(戦車揚陸艦)で山口県仙崎港に着く。ここでDDTの白い粉を頭から浴びせられた。
 それでも渡辺家が早い時期に帰国できたのは幸運だった。満州奥地から引き揚げて来た人、ソ連軍の侵攻と引き揚げが重なった人たちは悲惨だった。ソ連兵や現地の中国人は無抵抗の日本の民間人に掠奪と暴行の限りを加えた。集団は散り散りになり、飢えと疾病で多くの人の命が失われた。中でも日本人婦女子の惨状は想像を絶するものがあった。特にソ連兵は日本人の女性とみれば見さかいなく襲いかかった。殆どが銃口を突きつけての強姦、輪姦であり、その実態についての記録は数多く残されている。ソ連兵は満州だけでなく欧州においても、現地の住民を対象にしたレイプで性欲を処理するのが慣行であった。
 ようやく満州から陸路朝鮮に入り、半島を南下するに際しここで再び現地人男性による凌辱が繰り返されたのである。不法妊娠者の数から医師の試算するところでは、被害者は少女から中年婦人に至るまで約5,000人に及んだと推定される。
 日本国内では、「戦争と性」が語られるとき被害者は善良なアジア人、加害者は必ず悪辣な日本人と言う呪縛の構図が出来上がっている。しかしその逆も数多く有ったのだと言う事実に対しては、うっかり口にできない重苦しい空気が澱んでいる。事実の認識が歪められている社会では「戦争」の現実を見る眼も曇らざるを得ないだろうし、性欲を処理する仕方に於て日本人も外国人も変わりが無かったと言う、至極当り前な事実でさえ見えなくなってしまうのだ。有るがままに歴史を見る眼が日本の政治家やマスコミに少しでもあったなら、慰安婦問題、戦後補償、謝罪等の論議はもっとバランスのとれた、国民の良識で納得できる方向に展開していたことだろう。

 

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