脳動的に生きよ! −サヴァン症候群と脳の可塑性−

 

☆奇跡話

 

 交通事故。

 <致命的。いや、もし助かったとしても、植物人間だ。>

 と、どの医者も思ったのだろう。いくつかの病院に断られたあと、最後の病院でその少年の両親は承諾書を書かされた。万が一、後遺症で身体に障害が残っても、医者には責任を問わない、と。

 とにかく、彼は助かった。

 しかし、右脳の損傷はひどく、予想通り植物人間となってしまった。集中治療室で、体じゅう管につながれて、心拍を知らせる電子音の単調な繰り返しを聞きながら、ただ息をし、流しこまれた栄養物を排泄するだけの存在になる

 はずだった。

 恵みとなるのは、その少年の両親の知り合いである科学者たちの言葉だった。

「毎日、語りかけなさい。反応がなくても、とにかく脳に刺激を送りなさい」

 両親たちは、毎日、少年の手を握って語りかけた。少年がどれほど大切な存在であるかを。

 三ヶ月後、彼は意識を取り戻した。

 

☆単調な世界

 

 上記の科学者たちの一人に電総研の松本元先生がいる。僕はこの話を授業で聞いた。以下うろ覚えだが、先生の話を紹介する。

 「有名なバレリーナの人は、一日練習を休むと、身体がなめらかに動かないことが自分で分かり、元に戻すのには何日もかかる。三日も休むと、見ている観客にもそれがわかるようになるそうだ。

 脳も同じで、一日でも刺激のない状態に置かれれば、脳はかなり被害をうけてしまう。

 ところが、集中治療室というのは、刺激の少ないところだ。白い壁の単純な部屋。看護婦は忙しいから、それほどかまってくれるわけではない。植物人間だからといって、反応がまったくないからといって、外部からの刺激をまったく受け入れていないわけではない。そんな所にいたら、自発的に動けない人間の脳は、どんどん機能を失っていくだろう。それでは助かる者も助からない。だから、少年に刺激を与え続けるように言ったのだ」

 みごと、少年は意識を取り戻した。医者には半身不随になるだろうと言われたが、現在、彼は元気に自転車に乗って、学校に通っているという。

 「これは強い刺激を与え、存在を喜び愛情を与えることによって脳の機能が活性化した例ですが、逆に存在を否定されると脳の機能は低下し、発達が遅れます」(文献3)

 

☆六歳のナディア

 「一九七四年の初めに『動作の鈍い、がっちりとした体格の、ぼんやりと微笑んでいる少女』が母親に連れられて、ノッティンガム大学の児童発育研究所にやって来た」(文献2)

 彼女 −ナディア− は六歳であったが、口がきけず、社会的な交流を持つことができなかった。

 研究所で行動について尋ねられると、母親はハンドバックから半ダースの絵を取り出した。「薄明かりで見たその絵は質の悪い紙に青い線で描かれていた。もう一度目を通して見た……私の最初の反応は驚きであり、恥ずかしながら、次の瞬間には疑いをもった……あり得ないことだと思ったのだ」(2)

 三歳の時、ボールペンを与えられた彼女は、いつのまにかその左手を使って、「きわめて高度な線画を」「起用で敏速な動きで」描くようになった。

 「『不器用で知恵遅れの子』は、生命力と動きに充ちた線画を描く、遠近画法をマスターした優秀な描写画家へと変身したのである」(2)

 

☆白痴の天才(Savant Syndrome)

 ナディアは、瞬間的な動作を繊細に捉らえていた。サッカー選手の素早い動きの一瞬をきわめて正確に捉らえることができた。そして、それを絵画として表現することができた。しかも、優れた芸術性を持っていた。

 なぜ彼女はこんな能力を持ったのだろう? このような能力を持つのは彼女だけなのだろうか?

 ナディアのような知能的な障害を持ちながらも特異な才能を示す人々は、結構たくさんいて、そういう人々のことを、「サヴァン症候群」と呼んでいる。サヴァン症候群については、ダロルド・A・トレッファート著「なぜ彼らは天才的能力を示すのか」に沢山ケースが載っている。

 「ジェレミーは、鉄道線路のわきに立って貨物列車が通りすぎるのを眺めただけで、どんなに長い編成の列車でも、その内有蓋貨車が何台あったか、ただちに言うことができる。ところがジェレミーは強度の自閉症で、数をかぞえることができないのだ」(1)

 「レスリーは本格的に音楽を習ったことがなかったが、…どんなジャンルの曲でも、どんなに長く複雑な曲でも、一度聞いただけで演奏することができた。ところが彼は、食事のときにナイフやフォークを持つことすらできず、…レスリーは盲目で、重度の精神障害を持ち、脳性麻痺だった」(1)

 この本には他に、ドラマになったりして日本で有名な「山下清」も紹介されている。具体的には映画「レインマン」の、散らばったマッチを一瞬の内に数えるシーンを思い浮べてもらうと、わかりやすい(見ていない人はすみません)。

 ただ、ひとくちにサヴァンといっても人それぞれで、その能力についてまとまった傾向があるというわけではない。平方根の計算が得意な者もいれば、何月何日が何曜日か即座に答えられる者もいる。音楽が得意な者もいれば、絵を描く者もいる。彼らに共通な特徴があるとすれば、それは異常ともいえる記憶力だという。その他の能力(特に抽象思考)にくらべて、記憶力だけが突出しているのだ。

 彼らの優れて異常な能力は、その突出した記憶能力に関係あると思われているが、それが説明として当てはまる場合とそうでない場合とがある。例えば、ナディアは一瞬の動きをとらえることに、優れた記憶能力 ―まるで写真のような記憶「直観像」を使っていると考えられるが、一方それを紙の上に表現し、しかも芸術性を持たせる能力はそのことだけでは説明がつかない。

 

☆補償と強化

 サヴァンが障害を持ちながら、なぜそのような能力を持つに至ったかについての説明のひとつに「補償と強化」がある。

 ナディアの場合で考えてみよう。彼女は障害を持っていて、人との交流がほとんどできない。彼女は、自分の主張したいことを充分に表現することができず、自分を認めてもらう機会はほとんどない。行動の面でも、何をやってもなかなかうまく行かない。そういったとき母親から渡されたボールペンはどういった意味を持つだろう。おそらく、彼女は紙の上に着けられていくインクに、他の行動では得られない喜びを見たのだろう。自閉的な傾向も手伝って、彼女は絵を描くことだけに没頭していく。何度も何度も描きつけていくうち、持って生まれた才能があったのか、彼女は見たものを自由に紙の上に表現できるようになっていった。それはまた新たな喜びとなっただろうし、それを見た母親の反応も彼女にとっては喜びになったはずだ。

 ある障害によって失われた機能(他人との関係など)を、今持っている自分の能力で補う「補償」と、それが達成したときの喜び「強化」。この補償と強化が彼らに特異な能力を持たせた。これが、「補償と強化」の考え方である。

 

☆十歳のナディア

 三歳児とは思えない才能を開花させたナディアの運命はその後、母親の死によって転機をむかえる。

 自閉症と診断、「重症低能児」とされた彼女は、特殊学校に入った。学校は彼女に喋ることを教え始めた。言語の獲得はゆっくりしたのものだったが、一応の進行を見せた。しかし、一方で彼女の絵の才能は失われていった。校長が満足そうに語っている。「彼女が絵を描くのをやめてから、言語と社会性がどんどん進んでいる」(2)

 一○歳になる頃、ナディアは絵の才能もなく、言葉もたどたどしい平凡な少女へと変わってしまった。このことについて二つの対立する意見を紹介しよう。

 「著名な児童心理学者はナディアの例に関してこう結論している。『ナディアの才能の損失の代償として、言語能力が得られるのであれば、その言語が保護された小さな世界の人びととかろうじて交流できる程度に過ぎないものであっても、彼女のためにその代償を払ってやるべきだ』」(2)

 「我々のもとには、天分を取り除かれてただの障害児になってしまった少女が残された。こんなおかしな治療があるだろうか? …天才が我々に何を示してくれるかをもっと理性的に考察し、それが不注意に破壊された時には悲劇を感じることこそがつとめであるべきだ」(1)

 

☆世界は言葉によって切り取られている

 人間には「直観像」という能力がある。直観像は、言ってみれば写真のような記憶のことで、見たそのままを細部まで覚えており、それを頭の中に写真があるように思い出すことができる。

 ただこの能力は実際には子供の頃にはあっても、大人になるにしたがって消えてしまうという。

 物を見るとき、あるいはそれを記憶するとき、おそらくかなり言葉の影響をうけている。現代思想に大きな影響を与えた記号学の祖であるソシュールは、「ラング」によって、世界が分節化されているという(ここでいうラングは言葉と同じものと考えていい、厳密には違うが)。

 「ラングは、われわれと世界を媒介する関係の網目である。コップはコップという実体としてわれわれの眼に入ってくるのではなく、コップを他と区別し、理解するのである」(4)

 ナディアは言語の発達が遅れていた。そのために彼女は上記のような言葉で世界を切って、見ることをせず、ありのままを受け取ることができたのだ。このありのままを受け取るのが「直観像」であり、言語の獲得と平行して失われる。ナディアの才能は、言葉を知らないから、花開いたといえなくもない。

 ライワル・ワトソンはいう、「教育というものは、人を既成のイメージに作り変え、人間の従来の間違いも忠実に再現するコピー人間を生産することにその全勢力を費やしているように思える。『我々と異なった、われわれを脅かす者になるよりは、粗悪な模造品になってくれた方がいい』とわれわれは思っているようだ」

 「私は言語という物を高く評価しているが、他のすべてのものを犠牲にしてまでも尊ぶものではないと思う。特殊な人びとに対するわれわれの態度を私は非常に憂慮している。(中略)彼らは抑圧された元型のように無意識層から浮上してきて、無意識の潜在的な力を我々に想起させるのである。彼らにその機会を与えれば何かを伝授して貰えるかも知れないのに、われわれはそれをほとんどしない」(2)

 

☆得るものと失うもの

  また彼は、テニスボールを反転させる少女−クラウディアのことを取り上げている。彼女は空気の入った状態を保ったまま、テニスボールの表と裏をひっくり返した。毛のはえた表面が内側になり、内側だったところが表面になる。そんな嘘のようなことができたという。

 その彼女が学校に行くようになると、「ときどき彼女はテニスボールを投げたりころがしたりして遊ぶが、その物体の名称も機能も固定され定義された現在、クラウディアはテニスボールに自由な形を与えようとは夢にも思わない。彼女はやっとわれわれの仲間入りをしたわけだ。

 子供の明晰な知覚をこのように曇らせることをこれ以上続けることは悲しいことであり、もしかしたら我々にとって致命的なことかもしれない。住んでいる掟に馴む前に、宇宙の真理を垣間見て、真理に手が届きそうになる瞬間が確かにあるはずだ」(2)

 ライアル・ワトソンは、われわれが持つ固定観念を植え付けて、子供の持つ自由な発想を制限しているという。

 確かにそうだろう。

 しかし、それが僕は悪いことだとは思わない。成長というものは、自分の持っている可能性の中から、自分にとって必要な物を選び出すことであり、必要なものの中には、社会の固定観念に合わせる能力も含まれると思うからだ。ナディアも、芸術を高く評価する文化にいなければ、天才と呼ばれることはなかったはずだ。

 ただ、その人にとって喜びとなるものを他人が奪うとしたら問題だ。ナディアが絵の才能を発揮しそれによって喜びを感じていたとしたら、そしてそれを教育者が奪ったのなら、それは許されるべきことではないだろう。

 ただ、僕は教育がそれほど大きな力を持つとは思っていない。子供の才能が伸びるかどうかは、親(または同等の人)の愛情と信頼がかなり影響されるからだ。

 

☆POWER OF LOVE

 盲目の天才と呼ばれたトムは、やはりサヴァンとして音楽の才能を持ち、演奏旅行までおこなっていたが、始終付き添っていた人が死んでしまうと、ぴたりと演奏をやめてしまったという。「それは愛着と愛情、そして喪失のしるしにすぎないのである」(1)

 喜びの対象である人が死んでしまった。それは彼にとって大きなショックだったのだろう。同様にナディアも母親の死によって、その才能を失っていったのかも知れない。

 なぜ失ってしまうのかは、はっきりとしないが、才能が獲得されるには、「愛情」が必要だとトレッファートはいう。

 「サヴァンは私たちのなかにいる天才である。彼らは絵画、音楽、彫刻などの才能を通じてわたしたちの世界を明るくしてくれた。そのほかにも彼らから学んだことがある――偉大な才能は病気や欠陥と共存しうること、弱みに屈するより強みに重点を置くことが大切であること、レッテルを貼ることは抑圧につながり、信じることこそが促進につながること、無条件の愛は不利な状況における最大の救済であること、などである。」(1)

 

☆能動 VS 受動

 一九六三年 A.ハインとR.ヘルドは空間認識能力の形成と能動・受動の関係を調べた。内側に縞の描かれた筒のなかに生後間もない子猫を二匹入れる。筒の中央には支柱を立て、そこに回転する腕木を付け両端に子猫を付ける。一匹は自由に動くことが出来るが、もう一匹はゴンドラに乗って自由に動けない。このようにして数週間過ごさせる。どちらの子猫も視覚的に入ってくる情報は同じはずだ。しかし、自由に動き回れるネコに比べて、ゴンドラに乗ったネコは空間認知能力がかなり欠落している。

 つまり、同じ刺激を受けていたとしても、能動的に意欲をもっていなければ、空間認識能力といったかなり基本的な能力ですら、身につかないのである。

 冒頭の松本元もこんなことを言っている。

 「脳は意欲を高めると、良く働くコンピュータなのです。頭の良いひとを育てるには、そのひとの存在を喜んでやることが大切です。それが脳の活性化につながってきます」(3)

 いま、僕たちの住む日本は受動的に生きることの方が快適である。テレビ、雑誌などのメディアは欲しくない情報までも提供してくれる。おまけに流行まで作ってくれる。流行に乗れば会話にも苦労しない。学校は決められたことを、ただ黙々とやることを求めてくる。そのほうが楽に課題を片付けられるからだ。

 中島らもの「今夜すべてのバーで」という小説につぎのような場面が出てくる。アル中で入院した主人公が、医者にアル中の原因を聞いている。

「スタイナーの考えによると、アル中の基になっているのは “ドント・シンク――考えるな”という人生の脚本なんだ」

「人生の脚本?」

「これは幼児体験に根ざしている」

「またか」

「子供は親と交流する際に、たとえば自分の思い通りの好きなことをしていると、親から叱られてしまう。そのうちに、子供は自分が本質的には親の望むような“よい子”ではない、ということに気付いてしまうんだ。で、子供はありのままにふるまうことをやめて、自分なりの“よい子の脚本”を採用し、それにしたがって行動し始める」

「アル中の場合はどうなるんですか、その脚本は」

「アル中の場合、たとえば親の言っていることと事実の間に、明らかに相違がある。矛盾が多い家庭に育つわけだ。子供はそれに気付くからそれを指摘する。すると、子供は黙ってなさい、とか、生意気を言うな、とか叱られる。この際、子供にとって一番いい脚本は“考えるな”という脚本なわけだ。アル中になるのは、この“考えるな”という脚本にぴったりのやり方なわけだよ」

 あなたは、普段、考えていますか?

 能動的に生きていますか?

 

参考文献

1.ダロルド・A・トレッファート( Darold A. Treffert)高橋健次訳、「なぜ彼らは天才的能力を示すのか」1989、草思社

2.ライアル・ワトソン( Lyall Watson)木幡・村田・中野訳、「生命潮流」1979、工作舎

3.松本元、日経サイエンス91年2月号P.10(広告)

4.別冊宝島44「現代思想・入門」1984、JICC出版

5.「最新脳科学」1989,学研

 

(初出:筑波大学園祭人間学類企画「意識をめぐる冒険Returns」1992)

補足: 書名など忘れましたが(「愛の脳生理学」とかです^_^;)、松本先生の話は新書で出ています。

 サヴァン症候群の話の説明で出てきた言葉と視覚の関係については、一応専門ともからむので、さらに、もうひとつ議論してみたいところではあるのですが、、、それはいま準備中です。できたら、WWWで発表します。


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 −>中澤宏光 hnakazaw@human.tsukuba.ac.jp

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