IndyCar Flash

インディカーの歴史(CART&IRL)
 インディカーの歴史は1909年に実業家のカール・フィッシャーによってインディアナポリス・モーター・スピードウェイが建設されたことに端を発しています。これは全長2.5マイル(約4km)の長方形のレース専用コースで、当時は路面に煉瓦が敷き詰められていました。その後通常の舗装に改修されますが、そのなごりで今でもインディのコースのことをブリックヤードと呼んでいます。

 1911年5月、メモリアルデー(戦没者追悼記念日)に記念すべき第1回インディ500マイルレースが開催され、2度の世界大戦による中断はあったものの、以後毎年実施される国家的なレースとして位置づけられてきました。そしてインディ500の誕生とほぼ同時に現在のCARTやIRLのシリーズの前身にあたる全米ドライバー選手権が始まりました。しかし、常にインディ500マイルレースはその最高峰に位置づけられるレースであり、シリーズで優勝するよりもインディ500で優勝することの方が名誉なことでした。現在でも、インディ500のチャンピオンはシリーズチャンピオンとはまた別格のステイタスを持っているようです。そもそも、インディカーという名前の由来もインディ500マイルに出走する車のことをこう呼んだことからきているわけですから、どれだけインディ500という存在が大きいものであるかが伺いしれます。当時はAAA(アメリカ自動車協会)が管理運営していましたが、1955年のインディ500で3連勝を狙うビル・ブコビッチ選手が事故で死亡するという事態が発生。この年には他のレースでも大きな事故が重なるとともにヨーロッパでもル・マンで観客ら80名以上の死者を出す事故が起こるなど、世界的に大事故が続発しました。このためモーター・レースに対する批判的な世論なども巻き起こり、AAAはこの年限りでレースの統括役の座を降りてしまい、翌年からUSAC(ユナイテッド・ステイツ・オート・クラブ)がその役目を引き継ぐことになりました。

 ヨーロッパではやはり1900年代初頭から現在のF1の前身にあたるグランプリ・レースが開催されるようになっていましたが、1950年代以降次々に新しい技術が開発されるに従い、世界最高峰のフォーミュラ・レースとして着実にその足場を固めてゆきました。しかし保守的なUSACの管理下にあったインディはなかなか体質の改善ができず、それが参戦するチームやドライバーの不満を徐々に募らせていったのです。その結果、1978年にインディカー・チームの組合的な組織であったCART(チャンピオンシップ・オート・レーシング・チームズ)がUSACに造反して独立、79年からUSACとは別に独自のインディカー・シリーズを始めるようになったのです。結局、多くのスター選手を擁するCARTに独立されたUSACは80年以降独自のシリーズを続行することができず、インディ500の主催者としての地位を保全する形で引き下がることになります。

 以後CART陣営は、それまでオーバル・レース1本で運営されてきたシリーズにヨーロッパ的なロードコースや市街地コースなどを加え、F1をお手本としながらもそこにアメリカ的な発想を加えた近代的なレース・シリーズを作り上げてきました。その名もインディカー・ワールドシリーズと銘打たれたCARTのシリーズは国際的にも注目を集めるようになり、FIAもF1グランプリを脅かす存在と見なして非常に警戒心を持ったと言われています。事実、この当時FIAではインディカー・シリーズの出場者には国際ライセンスの発給を行わないことを宣言するなど、あからさまにCARTに対する嫌がらせ的な対応をとっています。

 80年以降、共同歩調を取りながらもレースに対する考え方に根本的な違いを持つUSACとCARTでしたが、ついに96年に決定的な決別のときを迎えてしまいました。USACの全面的支援を受ける形でIMS(インディアナポリス・モーター・スピードウェイ)代表のトニー・ジョージがもうひとつのインディカー・シリーズであるIRL(インディ・レーシング・リーグ)を旗揚げしたのです。そして、IRLの公式レースのひとつとしてのインディ500マイルレースについては、その33台分のグリッドのうち上位25台まではIRLのポイントランキング順で決定するという、実質的にCART側のチームやドライバーをインディ500から締め出してしまう政策を打ち出しました。CARTは対抗策としてインディ500開催日と同日にミシガンでUS500を開催し真っ向からこれに立ち向かう姿勢を打ち出しましたが、結果としてインディ500が例年と変わらぬ40万人近い観客の動員に成功したことにより、オーバルレースを中心とするアメリカの伝統的な「興行としてのレース」展開を志すIRLはいよいよ自信を強め、97年以降さらに大幅なレギュレーションの変更を進めるなど、独自の路線を歩き始めたのです。

 CARTでは以前使用していたインディカー・ワールドシリーズという名称を、97年からはCARTワールドシリーズという名称に変えてシリーズをスタートさせました。さらに98年からは新たにFedExをタイトルスポンサーに迎え、「FedExチャンピオンシップシリーズ」というシリーズ名を採用しました。また、その一環としてCARTシリーズに参戦するマシンのことを“チャンピオンシップ・カー”(チャンプカー)というブランドネームで呼ぶことになったのです。

 しかし、アメリカ国内では絶対的な人気を持つイベントである「インディ500」に対抗しようとしたCARTの目論見は結局は失敗に終わり、97年にはCART側がインディ500と重ならないようなレース日程を組むなど、真っ向からの対決姿勢を弱めたこと、さらにインディアナポリス側がCARTに対する締め出し措置を若干緩める方針を提示するなど、一定の歩み寄りとも言える動きもありました。その後幾多の紆余曲折を経ましたが、ついに99年終了時点で両者の間で一定の合意がなされたと言われ、IRL側が2000年に開催されるインディ500にCARTのチームのエントリーを認める方針を打ち出しました。もちろん、これはCARTシリーズにインディ500が復活するものではなく、あくまでもゲストのような形でエントリーできるというもので、エントリーするためにはIRLが求める車両レギュレーションなどに沿った形での対応をする必要があったわけです。

 そして2002年、アメリカのモータースポーツ勢力図が大きく書き換わりはじめます。以前は圧倒的に強いと思われていたCARTですが、コンペティションが激しくなるとともにエントリー費用も膨大なものとなり、豊富な資金力を持つチームでないとエントリーすること自体が困難となってきていたところに、ITバブルの崩壊によるアメリカ経済の不振が追い討ちをかけたのです。アメリカ国内でのマーケットを睨んだスポンサーやチームが「インディ500」を擁するIRLへの鞍替えを検討するようになったのです。2002年にはCARTの老舗チームであり、2001年のCARTチャンピオンドライバーを擁するペンスキーがIRLへ転向。チップ・ガナッシもIRLにも自らのチームをエントリーさせるなど、CARTからIRLへという流れが出てくるようになります。
 そして2002年中旬以降、レギュレーション改訂のもつれなどから、トヨタ、ホンダの両エンジンサプライヤーが2003年にはIRLへ転向することを発表すると、一気にCART離れの傾向が強まります。これまでCARTの顔ともいうべき立場だったベテランのマイケル・アンドレッティがIRLへ、そしてチップ・ガナッシも完全にIRLへ転向といった具合です。
 CARTは2003年からはフォードエンジンによるワンメイクのシリーズとして、コストなどを大幅に削減して生き残りをかけての戦いを余儀なくされたのです。

 一方IRLは2003年から自らのシリーズにIndyCarというネーミングを復活させ、IndyCar Seriesという名のもとにレースシリーズを展開してゆくことを発表しました。常にF1を意識しながらハイパフォーマンスなマシンと独特のコースコンビネーションを売り物に世界のトップカテゴリーを目指し、その結果、参戦費用の高騰という副次的現象に悩まされ、経済の低迷とともに勢いを失ったCARTに対して、あくまでもアメリカ国内のオーバルレースに固執しながら低コストのフォーミュラシリーズを展開してきたIRLが、自らの手にIndyCarという称号を取り戻したのだとも言えるかも知れません。

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