サイエンスの未来
第9回 「微生物とバイオテクノロジー」
 プレゼンテーション講演-3

分子の世界の右と左

立体的な原子の配列に由来する
分子の世界の右型と左型を識別すると、
微生物が創造する不思議な世界が見えてくる。

東京大学大学院 総合文化研究科 広域科学専攻教授
黒田 玲子


 

電子顕微鏡でも観察できない分子構造の右型と左型

 人間に右手と左手があるように、分子の世界にも右型と左型があり、これを化学用語では「キラル(左右非対称)」と呼んでいます。分子の右型と左型は、電子顕微鏡で観察しても小さすぎてわからないのですが、特別な光を用いると簡単に識別することができます。
 光には進行方向があり、進行方向に対して垂直に電場と磁場が振動しています。そこに「偏光板」という板を挿入すると、光を特定の面の中だけで振動する「偏光」に変えることができます。
 2つの偏光板を直角に組み合わせて、2番目の板が回転するような仕組みをつくり、その間に右型の化合物と左型の化合物を置くと、偏光面を回転する方向がまったく逆を示します。右に回転する性質を右旋性(dextrorotatory)、左に回転する性質を左旋性(Iaevoro‐tatory)と言います(図1)。
 分子の世界の右と左は、実は立体的な原子の配列に関係しています。このことに初めて気づいたのが、パスツールです。パスツールはワイン工場の樽の底から「酒石酸」を取り出し、水に溶かして偏光面の回転を観る機械にかけると、偏光面を右に回転することを発見しました。ところが、酒石酸と同数・同種の原子をもつ「ブドウ酸」は、まったく回転しなかった。
 そこで、ブドウ酸の結晶は靴下のように左右対称であると考えて、実験室でブドウ酸の結晶をつくってみると、予想に反して靴のように右型と左型の結晶が同じ数だけ入っていました。
 その後、スカッチがパスツールの実験を追試したところ、結晶は靴下のように左右対称になっていました。果たして、パスツールの実験は間違っていたのでしょうか?実は、酒石酸分子のナトリウム・アンモニウム塩は、温度が27。C以上ではスカッチのように左右対称な結晶になり、27℃以下ではパスツールのように右型の分子と左型の分子がそれぞれ結晶をつくるのです。


(図1) 右型と左型の化合物では、偏光面を回転する方向が逆になる。



化合物とDNAの相互作用をCDスペクトルから解明

 化合物に普通の光を当てると、右型も左型もまったく同じスペクトル(吸収曲線)を示します。ところが、特別な光にらせん状に進む偏光を当てて「CD(円偏光二色性)スペクトル」を測定すると、右型と左型でスペクトルの符号が逆転します(図2)。
 われわれはCDスペクトルを用いて、化合物とDNAの分子間相互作用について研究しています。DNAの二重らせん構造には、メージャーグルーブ(主溝)とマイナーグルーブ(副溝)がありますが、化合物がどちらの溝から塩基配列を読んでいるのかが、ポルフィリンのような特殊化合物の場合にはわかりつつあります。
 左右対称な分子構造をもつポルフィリンをAT配列のDNAに近づけると、CDが励起されて、プラスのピークを2つもったCDスペクトルが測定されます。化合物とDNAの割合を変えていくと、ピークの大きさも変化します。その変化は、化合物がDNAの2つの溝のうちどちらから情報を読んでいるのかを反映していることが、さまざまな実験から突き止められました。


 

(図2) CD(円偏光二色性)スペクトルを測定すると、右と左で異なる符号を示す。

 

(図3) 人工的に合成した薬の中には、右と左を分けていないものが、476種類もあった。


化合物の生物に対する作用は右型と左型で大きく異なる

 このように化合物の右と左を識別するには、特別な光が必要なのですが、微生物はいとも簡単にこれを識別します。パスツールは右型の酒石酸と左型の酒石酸を混ぜた培地で、青カビのl種を培養したところ、右型の酒石酸だけを栄養源として取り入れて分解することを発見しました。
 DNAやRNAを構成する糖は右(D)型の糖「D‐デオキシリボース」から成り、タンパク質を構成するアミノ酸は左(L)型のアミノ酸「Lアミノ酸」からできているつまり、われわれ生物は左右非対称な分子からできていることになるわけで、相手に右と左の違いがあると当然、作用も変わってきます。
 たとえばカルボンという物質の右型と左型は、一方はキャラウェーの香りがするけれど、もう一方はスペアミントの香りがします。また、妊娠中のご婦人がつわり止めに飲んだサリドマイドも右と左の違いがあって、動物実験により一方だけが奇形を生んだことがわかっています。
 右型と左型は推理小説を楽しく読むための道具にもなります。パトリシア・コーンウェルの『証拠死体』(講談社文庫)には、咳止め薬の有効成分「デキストロメトルファン」のl異性体「レボメトルファン」を飲んで自殺するという話が出てきます。
 これを読んで心配になるのが、右と左の違いのある薬がどのような割合で市販されているのかということです。93年の統計(図3)によると、「人工的に合成したもの」のなかには右と左を分けたものが61種類あるのに対して、分けないで右と左が両方入っているものは467種類もありました。


微生物による物質生産では左右非対称の間題は生じない

 実験室で化学合成した物質は「不斉合成」という特別な工夫をしない限り、右型と左型の分子が同数できます。ところが、遺伝子工学を用いてクロー二ングすれば、一方しかできません。たとえば大腸菌の中に人間のインシュリン(ペプチドホルモン)を生産する遣伝子を入れて、大腸菌につくらせるといったことが可能です。
 タンパク質内のアミノ酸ではありませんが、特異な例として乳酸があげられます。久しぶりに運動したときに、筋肉痛になることがあります。このとき筋肉の中でつくられる乳酸はL型なのですが、乳酸菌が生成する乳酸は、菌の種類によってL型かD型になる、あるいはL型とD型を同数つくる場合があります。これは菌の種類によって、もっている乳酸脱水酵素「LDH」が異なるためです。
 L型の乳酸をD型に変える「ラセマーゼ」という酵素をもつ乳酸菌もいます。原核生物の細胞壁にあるペプチドグリカン(糖ペプチド)はD−アミノ酸からできていますが、実はこの物質は、他の生物の酵素にアタックされないようにラセマーゼによってわざわざL型からD型に変えているのです。
 微生物の能カを利用した物質生産では、右と左の問題は生じません。人間にとって、バイオテクノロジーがこの点に関してはいかに安全でやさしいか、おわかりいただけたかと思います。



(講師プロフィール)

黒田 玲予(くろだ・れいこ)
 宮城県出身。お茶の水女子大学理学部卒業。束京大学大学院理学系研究科博士課程修了。英国ロンドン大学などを経て、86年東京大学教養学部助教授、92年より現職。キラル分子の相互作用やDNAの塩基配列認識機構を生化学的、構造化学的に研究している。