猫を一匹箱に入れ、箱の中に青酸カリの瓶を入れておく。この瓶の蓋はあるスイッチにつながっており、スイッチはある一定時間の間に放射性元素が崩壊してアルファ粒子が飛び出すと作動する。

 では、その一定時間に崩壊が起こる確率が50%であるとしたら、その一定時間後、猫は箱の中で生きているのか死んでいるのかのどちらなのだろうか?

(シュレディンガーの猫のパラドックス)

 物事の本質は不確定であり、事象は波動関数で表された無数の可能性の重ね合わせである。また、事象の"観測”を行うたびに、無数の状態の中から可能性が最大の状態が実現する。よって箱の中の猫は生と死の二つの状態の間に確率的に広がっており、誰かが箱を開けて観測した瞬間、波動関数は瞬時に一つの状態に収束し、箱の中の猫の生死が確定する。

(量子力学におけるコペンハーゲン解釈による回答例)

 宇宙は波動関数で表された無数の可能性の数だけ存在しており、事象の起こりうる確率とはすべての存在する宇宙の中で事象の観測された宇宙の割合を表す。したがって誰かが箱を開けた時点では、すべての宇宙に存在する観測者のうち半数が死んだ猫を、残りの半数が生きた猫を観測することになる。

(量子力学における多世界解釈による回答例)

Scbroedinger's Cat.

kaz(P3pro).
kaz-a@po7.lunartecs.ne.jp

後編 絶句…(上)

 白い壁。ブラインドの降りた窓。ほのかに香る消毒液の匂いと、壁に取り付けられた、巨大なプラズマディスプレイ。そこに表示されるのは、数値化されたアタシ。

 サンプリングされ、デジタル処理された昨日のある時刻の状態そのままのアタシ。単なるデータと言ってしまえばそれまでなのだけど、ここまでリアルだと、何だか変な感じにさせられてしまう。おまけに、ディスプレイ上のアタシは、ちょっとした操作で、アタシの内部、筋肉、内臓、骨格、循環器系、神経系といった、どうあがいても普段見ることはできない物までも表示されるとなると、たとえここにいるのが医師と患者二人だけなのに、公衆の面前で裸にされているようで、死ぬほど恥ずかしい。体の線がもろに出るプラグスーツのままNERVの敷地内を歩き回っていても、恥ずかしいなんて微塵も思ったことないのに、ちょっと不思議。

「脳神経系異常なし。循環器系、呼吸器系、内分泌系も正常、細菌、ウイルス等の感染も見られず、血圧、血糖値、タンパク、尿酸値等も正常、白血球数並びにリンパ球数値も正常値。ただ消化器系に疲労が見られるようだけど」

 検査入院も今日で終わり。だけどその最後に待っているのは、主治医という名の判事による検査結果という証拠に基づいた、診断結果という評決が待っている訳。おまけにこの裁判、判事と検察は兼任だし、弁護士なんて気のきいた者はいないから、被告人が必死になって弁護しなきゃならないわけで……ああ、憂うつ。

「アルコールは止めなさい」

「ミサトに言ってよ!」

 アタシが悪いんじゃない。この件だけはアタシ悪くない。

 アタシがまだ未成年だってことも、アタシにとっての最後の戦闘一一第15使徒戦一一の結果、左下の第11肋骨と胃の四分の一、脾臓、左腎臓および左卵巣を摘出する羽目になったって事も、ミサトは知っている。なのに、なのによ、アタシ達が潰れるまで無理やり飲ませる酒飲みアザラシが悪い。そうよ、そうに決まってるじゃない。

「責任転換するの」

 あ、やば。この雰囲気だとリツコのお説教が始まる。理不尽だわ、何でアタシだけこんなヒドイ目にあわなきゃならないのよ。ミサトにいいなさいよ。ミサトに説教しなさいよ。今ここにアノ酒飲みアザラシを呼べ! って口答えしたい。でも、リツコって粘着質だから今ここで事を起こすと後が怖いのよねぇ。

 嵐が過ぎ去るまで、黙って頭を下げるアタシ。なんて健気なんだろ。

「とにかく医師として忠告します。将来肝硬変への道を進みたくなければ」

「わかったわよ、成人するまでお酒は口にしないから、それに……」

 もう、ミサトとは別れるのだから。そう続けるはずだったのに、アタシの口はそこで止まった。

「ん、なにかしら」

「なんでもないわよ。で、アタシが倒れた原因は」

「ヒステリーの発作」

 身も蓋もない一言が帰ってきた。

「なぜ発作を起こしたか説明が必要かしら」

「いらない」

 わざわざ他人に説明してもらうまでもない。アタシにはわかりきっている事。そして、頭で理解していてもどうしようもない事であり、アタシがアタシとして生きていくためにはあえて意識してコントロールしながら、自分を取り巻く世界となんとか折り合いを付けていかなくてはならない事の一つが、アタシの心の表層に現れただけの事。

「アタシはこれからどうすれば良いわけ」

「しばらくの間カウンセリングを週二回必ず受けてもらう事になるわね」

 やっぱりそうなるわけか。予想できた事だけど、面と向かって言われて嬉しいものじゃない。

 アタシが黙っていると、目の前のリツコが机の上から一冊のファイルを抜き取った。そして彼女は足を組み直すと、開いたファイルを太ももの上に置いた。アタシの憂うつ度が一気に上がる。これから彼女アタシのカウンセリングに取り掛かるつもりらしい。勘弁して欲しいわよ、全く。

「一つ質問していいかしら」

「なに」

 やる気の無いままアタシはぞんざいに答えた。

「なぜ、シンジ君と寝たの」

 いきなり直球勝負な質問。やっぱりこれか。

 アタシの脳裏にいくつかの選択肢が並ぶ。まずごまかす手は無理だ。寝たんじゃないヤられたって主張もたぶん通らないだろう。だいたいアタシから合意のうえってニュアンスでばらしたわけだし……ホントはちょっと違うけど。

『好きだからに決まってるじゃん』って言い切って、逆切れするのが一番かなとも思うけど、今のアタシの立場や状況を考えると、また薮をつついて蛇を出しかねない。いっその事発作でもおこしてやろうか、なんて気にもなるけど、また病室送りは勘弁ねがいさげ。

「赤木リツコ先生。申し訳ありませんけど、アタシ、今の質問に関して答えるつもりはありません」

 アタシは静かに言い切った。

「なぜ? 私が彼の義母だからかしら」

「はっきり言ってそうだからです。アタシ、この件についてあなたに話せるほど信頼関係が確立していると思っていませんから」

 無言のままアタシを見つめるリツコの目。それを正面から受けるアタシ。この緊張状態に終止符を打ったのは、意外にもリツコの深いため息だった。

「確かに医師と患者という立場以外の要素が絡みすぎているわね。いいわ、今の問い掛けは無かったことにしましょう。ただ、私の後任のマヤとは、そういった微妙な問題を話しあえる信頼関係を早急に構築してあげてちょうだい」

 アタシもちょっとため息。とてもじゃないけどあの時のことなんて、絶対に口にできない……ちょっと待った。今、リツコなんて言った。

「ちょっと、リツコ、今なんて言った。マヤってどういう事」

「あら、連絡していなかったかしら。次回から伊吹マヤがあなたを担当することになったわけ。お願いだからあまり苛めないであげて」

「聞いてないわよ。全く、そう言う事なら、いの一番に言ってよね。無責任じゃない。それに……」

「それに何」

「べつに」

 はぐらかした後、一つ聞いてみた。

「リツコはアタシの担当降りた後、どうするわけぇ」

「白衣を脱ごうと思って」

 マジ!

 白衣をぬぐって、医者をやめるつもりなんだ。もしかして、結婚を機会に家庭に入るってやつぅ。にあわない。全くにあわない。

「勘違いしているみたいね。結婚したからって、家庭に入るつもりじゃないわよ」

 そうアタシにリツコは釘を刺す。

「今度ネルフで新しいプロジェクトをスタートさせるの。今後そちらに全力を傾けるつもりだから、仕事の整理をしたまでの事」

 そして彼女は一冊のファイルを取り出した。

「アスカ、シュレディンガーの猫のパラドックスは知っているわよね」

「あったり前じゃない」

 突然何を言いだすかと思えば、シュレディンガーの猫なんて、これでもアタシ大学卒業しているんだから。

「なら、量子力学的多世界解釈は」

「あれでしょ、猫が生きている確率が50%というのは、多数の宇宙が存在し、その中で猫が箱の中で生きている宇宙が50%あるということだと解釈するやつでしょ。もっともアタシはそんなの大げさすぎて信じてないけど」

「アスカはコペンハーゲン解釈派なのね」

「理論物理学の担当教授がそっちだった事もあるけど、だいたい宇宙が多数あるって言う考え方が不自然なのよ。アタシが無限に存在しているなんて想像するだけで気持ち悪いったりゃありゃしない」

「あら、言い切るわね。不自然といえば、コペンハーゲン解釈の立場での波動関数の収束の方が不自然でなくて。波動関数の収束は他のあらゆる物理現象と全く異なって、瞬間的に、超光速の現象として起こると解釈するほうが気持ち悪くないかしら」

「だって、世界ってそういうものなのだからしょうがないでしょ」

 思考停止だなと思うけど、実際、それ以外に言い様がない。結果としてコペンハーゲン解釈もしくは多世界解釈のどちらを採用しても、シュレディンガー方程式を立てて波動関数を計算すること自体は変わらないし、また最終的に観測される結果も同じ。だから両者の間に存在する差は波動関数をどうとらえるかという解釈の問題でしかないのだけど……でも何故リツコはこんな話を始めたのだろう。

「リツコ、何故こんな話をするわけ。アンタ何たくらんでいるのよ」

 アタシの問いへの答えとして、彼女は一枚のペーパーを差し出した。手を伸ばして受け取る。そこには『MAGIを継ぐもの。量子アルゴリズムをアーキテクチャとした、新しい情報処理システムの構築』と書かれてあった。

「MAGIシステムこと第七世代人格付与型人口知能は当時AIの抱えていた難問、たとえばフレーム問題や推論の前提ならびに制限条件となる常識の学習に対する一つの回答として生まれたものだわ。だけど、人格を付与したために情報の処理時間の高速化には限界が生じることになる。この辺わかるかしら」

「まあね」

 リツコの言いたいことはアタシにだって分る。人格を付与するということは、パーソナリティを持つということにほかならない。だから、日によっては、まるで気分が乗らない時に宿題を片づける時みたいに、処理速度ががた落ちしたり、推論する分野で、得意、不得意が生じたりする。もっとも、直感のようなものが働いて、一気に求める解を導き出したりすることもある訳。つまり、どうしてもアーキテクチャ上処理速度が安定せず、全体を高速化しても推論のムラっ毛がボトルネックとなって思ったように処理速度が上がらないということなのだ。

「最小の情報単位であるビットが0か1かといった背反的事象を、シュレディンガーの猫のパラドックスに対するコペンハーゲン解釈のように0と1の重ね合わせ状態で扱える量子アルゴリズムを採用すれば、この重ね合わせ状態をつかって並列処理を行える。多世界解釈的にいえば、たとえ一つのプロセスしか処理できなくとも、世界自体が並列に存在しているから全体としてみれば並列処理を行っていることになるわ。そこで、MAGIにたいしてある推論を行わせる場合、多世界解釈的世界観によれば、この世界においてMAGIの機嫌が悪く、演算速度がでない場合でも、別の世界では直感によって最も有効な解にたどり着いている可能性を否定できない。そこで光子が一つしかない場合の二重スリットの実験に対する解釈のように、世界の重ね合わせによって、MAGIの機嫌が悪い世界を消し去るように波動関数を収束、コペンハーゲン解釈流に表現すれば、計算機内部に広がる波動関数の重ね合わせ状態を、観測者の観測によってMAGIが直感で最も有効な解にたどり着いている状態へ波動関数を収束することができれば、演算速度は劇的に改善されることになるわ」

 分らない事ないけど、何となく眉唾物。問題点は……

「理論は分るけど、うまく行く訳ないじゃん。そもそもそんなに都合よく波動関数を収束できるわけない。それ以前に、計算終了までどうやって波動関数を収束させないでおくわけぇ。おまけに誰が波動関数を観測によって収束させるのよ。神の視点に立った観測者が必要になるじゃない」

「合格」

 唐突にリツコは言った。そして、「あなたの居場所を作ってあげましょうか」とアタシに告げ、にっこりと笑った。

「アタシの居場所って、どういう意味よ」

「あら、あなた自分の事になるとそこまで鈍くなるの? この場であなたを指さして、I need You と言えばいいかしら」

 どうやらアタシは、リツコにスカウトされているらしい。

***

 待合室の長イスの上。アタシの右にはスポーツバック。この中には入院中に着ていた寝巻きや下着が押し込まれている。正面には受付とナースセンタ。そしてアタシの左では七十過ぎのお婆ちゃんが、頭を上下に船を漕いでいる。

 現実感が無い。書き割りで描かれた世界に一人いるようで、落ち着かない。頭の中をリツコが言った言葉が反響して回る。

『あなたの居場所を作ってあげましょうか』

 今のアタシにとっては殺し文句だ。

 約一ヶ月という執行猶予付きで、今の心地よい住み処から追い出されるアタシ。学生という名の不安定な身分では新しい住居を自分の好みで選ぶ事も、その前に今のアタシは、保護者=後見人の許可なく一定以上の財産の処分さえ出来やしない。いや、国籍だってアタシは現在アメリカとドイツの二重国籍状態だし、本当は外国人登録書を常に携帯しなければならない身分。それだけじゃない。あまり認めたくないことだけど、EVAのパイロットであったという事実が、アタシをこれからもずっとネルフという組織のカゴの中に閉じこめられた鳥にしてしまっている。

 もし、リツコのスカウトを受ける条件として、アタシを取り巻くさまざまな呪縛、住居、財産、国籍、その他について交渉すれば、彼女達はベストといわないでもベターな環境を整えてくれることは間違いないだろうと思う。大人の事情に振り回されるアタシにとって、この状況を打破するチャンスなのは間違いないのだけど、なんだかヤダ。

 ミサトの結婚宣言が持たらした現実と折り合いをつけることに失敗して、ヒステリーをおこして倒れたアタシに、絶妙なタイミングで持ちかけられたリツコからのお誘い。考えすぎだと思う。すべては偶然。ただちょっとナーバスになっているだけ。そう考えるのが自然だとは思うのだけど、気にくわない。タイミングの良さが、気にくわない。なにか、計算された意図の様なものが感じられて、気にくわない。

 ふと、シンジとレイの顔が浮かんだ。もしかしてあの二人のところにもアタシが受けたようなお誘いが……それはないな。レイにしてもシンジにしても、特に人より優れた特技があるわけじゃない。アタシにしても、この年で大学出というのは人より優れているということになるのだろうか。昔のアタシなら、間違いなくそう信じきっていたけど、今はとてもじゃないけどそう思えない。ただ、リツコがあんなことを言いだすということは、そっちの方面にアタシが向いていると彼女が判断したわけで、少しは誇れることなのかもしれないけど……何逃げてるのよ、認めちゃいなさいよ。怖いんでしょ。また裏切られるのが怖いんでしょ。

 そうよ、怖いわよ。認めてあげる。いろいろ言いわけしてるのは、怖くて怖くてどうしようもないからなのよ。今度失敗したら、今度期待にそえなかったら、そう考えるだけで足がすくむし、震えが来る。あの頃の嫌な記憶が、疎外感が、再び戻ってくるような気がして怖いのよ。

 相談したら?

 相談相手って誰がいるのよ?

 いるじゃない、いつもつるんで馬鹿やってる三人。彼女達アタシのためにわざわざ見舞いに来てくれるぐらい親しいんでしょ。

 マナ、マユミ、ヒカリのこと? 冗談でしょ。

 冗談言ってるつもりはないけど、少なくとも話の聞き手にはなってくれるんじゃなくて。

 嫌よ! なんでアタシがアタシの弱み、欠点をさらけ出さなきゃならないのよ。

 あら、ずいぶん欠点さらけ出していると思うけど? まあ、彼女達が嫌なら嫌でいいわ。でも、アナタが依存しきってる相手には相談しなきゃね。

 誰よそれ!

 ずっと会いたいと思っているにもかかわらず、今無理やり頭の中から押し出して知らないふりをしている人。アナタにとってつねに一番近くにいるのに、一番恐怖を感じている人。アナタがアナタを見てくれてると信じたい人。アナタがいつか見捨てられるんじゃないかとおびえてる相手。アナタの同居人の一人、碇……

「惣流・アスカ・ラングレーさんですね」

 自問自答を繰り返していたところに、いきなり頭上から名前を呼ばれた。反射的に頭を振って声のした方を見上げると、地味なスーツをまとった女性が立っていた。

「惣流・アスカ・ラングレーさんですね」

 彼女がアタシに見せたのは、ネルフのロゴの入ったIDカード。

「お車の準備ができています。どうぞこちらへ」

 振り向くと、待合室の後ろにもう一人女性が壁を背に立っていた。確か彼女は警備部の……名前は思い出せないけど、顔は見たことがある。その彼女も、アタシの方へ移動を始めた。やっぱりこういうのって鬱陶しい。

 アタシは無言で立ち上がると、彼女達の後ろをついて行った。

 窓の向こうに赤い夕日、そして夕焼け雲。

「本部に確認が取れました、500メートル先の交差点でトラックと乗用車の玉突き衝突により渋滞、あくまで偶発的なものとのことです」

 防弾ガラスの窓を開ける訳にもいかず、クーラー全開の車中で現状報告を聞きながら、アタシは窓の向こうの景色をじっと眺めていた。本来なら、車で10分程の距離なのに、事故のせいで、この場に30分以上足止め食らっているのが、非常にむかつくのだけど、内心ほっとしている部分もあったりする。

 会いたくない。今、会いたくない。こういうとき、同居してることが恨めしくなる。

『ただいま』

『お帰り』

 その後いったい何が起こるのだろう。まさか、ミサトの馬鹿がクラッカー鳴らしてそのまま宴会に突入ってことはないと思うけど、その方が楽かな。なし崩し的に日常が戻ってくるような気がするし。でも、それはあくまで問題の先送りでしかなくて、本質的な解決にはならない……ちょっと待ちなさいよ、何でアタシがあの馬鹿を気にして、頭の中でシミュレート何ぞしなきゃならないのよ。そう思いなおしてアタシは窓の向こうから目をそらし、後部座席のシートに座り直すと、一眠りするつもりで目を閉じた。

『アンタが全部アタシのモノにならないなら、アタシ何もいらない!』

 ダメだ。目を閉じると、昨夜の夢を思い出した。最悪、最低な気分。アタシは目を開け、軽くシートから腰を浮かせて座り直すと、窓越しに外へ目をやった。

 雨、雨垂れ、滴、第三東京市名物の夕立。アスファルトの上で水が小魚のように跳ね回り、その向こうでオフロードバイクに乗ったライダーが空を見上げ、罵りの言葉を空に向かって吐くかのように中指を空に向けて突き立てて見せた。

 雨。窓の向こうに赤い夕日が見えるのに、雨。天気雨、きつねの嫁入り。太陽が見えているのに雨だなんて、そんな中途半端さはアタシには受け入れがたいものがある。まるでいつもどっちつかずで、人の顔色伺ってるアイツみたいで。煮え切らない今のアタシみたいで。

 雨。雨の夜。気まぐれな台風が駈け抜けた夜。二人で過ごした嵐の夜。アタシはあいつに我慢できなくなっていた。アタシのこと好きって言ったくせに、それからアタシのこと触れもしなかったあの馬鹿。アタシがどんな我が侭いっても、どんなに傍若無人に振る舞っても、あの馬鹿ったら黙ってアタシに従って、笑っていた。そんな態度に不満をつのらせていくアタシ。

 覚悟は出来ていた。ある意味それが当然だと思っていた。怖いけど、求められれば答えるつもりだった。ううん、それだけじゃない、アタシだって、求めていたのに、アタシだって、望んでいたのに、なのに、なのに、あの馬鹿は……大切だから、責任取れないから。違う、そうじゃない。アタシは人形じゃない。アタシは人形じゃない。だからアタシに触れて欲しい。触れて、触って、手を握って、肩を抱いて、抱きしめて、Kissして、そして……馬鹿。

 夕方降り出した雨が、夜半に嵐に変わったあの夜。アタシはあの馬鹿を挑発して、それでものってこないことに逆切れして、押し倒したのはアタシの方からだった。

 泣けてくるような情けなさと、切り裂かれるような心の痛みのなかで、アタシは女になった。その時のことを思い出すと死んでしまいたいほど恥ずかしくなる。

 最初に泣きだしたのはシンジ。アタシの上でごめんって泣きながら繰り返していた。そんな姿に嫌悪感を感じて蹴飛ばしたのはアタシ。その瞬間世界がモノトーンになって、こんな馬鹿に惚れられたアタシ自身が疎ましくなって、この場で死んでやろうかとさえ思い込んでいた。

「怖かったんだ」

 その時シンジの泣きながらの独白がアタシの心に突き刺さった。

「気づいていたけど、怖かったんだ。この関係が壊れる事が、もし駄目だったら、断られたら、拒絶されたら、何度も何度も考えて、踏み出そうと思ったけど、それでも怖くて、このままじゃいけないと思って、伝えなきゃ変わらないのに、でも、でも、また捨てられるんじゃないかと、イラナイって言われる気がして、毎日毎日顔会わせているし、わかってくれるとは思っていたんだけど、ごめん、アスカに恥かかせて、情けない僕で……」

 何かが頬を伝わっていった。

 馬鹿。

 言葉が漏れた。

 目の前で泣くシンジにではなくアタシに向けられた言葉だった。

 馬鹿。

 もう一度言葉が漏れた。

 アイツは気づいてたと云った。アイツはアタシの思いに気づいていたと云った。なのに……アイツはアタシに手も出さずに、自分で……

 馬鹿、莫迦、バカ、ばか、ばか、ばか、ばか、ばか、ばか、ばか、ばか、ばか……

 馬鹿なのは、この世界でいちばん馬鹿なのはアタシだ。同じ間違いを、同じ間違いを冒したアタシだ。

 ファーストキス。わがままなKiss。残酷なキス。あの後アタシの行動は、アイツの心を切り裂いた。きっとその傷が……

 泣きながら座り込んだままアタシに背を向けるアイツの後ろに立つと、アタシはアイツを背中から抱きしめた。

 涙が頬を伝って落ちる。アタシの涙がアイツの頬に落ち、アイツの涙と一つになって、アイツの頬を滑っていく。

 鏡。虚像と実像。裏と表。そしてアタシとアイツ。材質は同じ。根っこも同じ。同じ世界観を共有し、同じ悩みを抱え、同じ問題に直面しながら、内と外、内罰的なアイツとヒステリックなアタシ。似た者同士なアタシ達。

「ごめんなさい」

 なんのためらいもなく謝罪の言葉が飛び出した。同時にアイツを抱きしめるアタシ。

「ごめんなさい」

「ごめんなさい」

「ごめんなさい」

「ごめん……なさい」

 振り向くアイツ、目をそらすアタシ。

「僕が……悪いんだ」

「そんなこと……な……い」

 アイツの瞳の中にアタシがいる。みっともないアタシがいる。裸のアタシがいる。なぜか心地良い。

 触れ合う肌、絡み合う指、重なる唇、同期する心音。甘い痛み。

 ……やばぁ。何白昼夢に浸っているのだろ。車の窓に映ったアタシの顔、なんかH。欲求不満なのかなぁ。この前ヤったのはたしか、レイが同居する前だから……

 突然の急発進。とっさに左手を窓と額の間にいれて激突を避けると、運転席をにらみつけ、抗議の雄叫びをあげようとした。するとフロントガラスの向こうに、赤い回転灯。そしてサイレン音。わざわざ警察に先導させるなんて、職権乱用。でも、誰の指示だろう。

 ま、いいか。とにかく、覚悟を決めなきゃ。覚悟を決めて、これからどうするか、アタシを取り巻く関係者と話し合わなきゃいけない。いやでも、気が乗らなくても、どんな結果になろうとも。

 車のドアが開き、アタシは右手にスポーツバックをもって降り立つ。警備部の一人はアタシに軽く頭を下げると、そのまま車に戻り、去っていく。

 コンフォート17マンション。見上げた先の部屋がアタシの場所。そして、今日の決戦場。平常心、平常心と言い聞かせて、いつものように玄関ロビーをくぐる。

 たった一人のエレベータ。繰り上がっていく回数表示。それを見ながらアタシはアタシの心に平穏を取り戻そうと暗示をかける。大丈夫、乗り切った、覚悟できてる。何があっても怖くない。

 通路を抜け、玄関ドアの前に立ち、ポケットをまさぐって、電子ロックのキーカードを取り出すと、スロットに通す。

「ただいまぁ。今帰ったわよ!」

 返事はなかった。

「ちょっと、誰かいない……のぉ」

 変だ。部屋の、室内の空気がなぜか臭う。玄関先に置かれてるいつもの芳香剤、ラベンダーの香りじゃない。この臭いは、そうだ、しばらく動かしていなかったエアコンを久々に稼働させたときの臭いと同じ。空気の中に黴の胞子が混ざった臭い。さては、また酒のみアザラシが部屋で青黴黒黴の繁殖実験でもやらかしたっていうわけぇ。最低じゃんあの女。あ〜あ加地さんも苦労するわねぇ。

 アタシは靴を脱ぐために足首に手をかけようとして、別のことに気づいた。土間に綿ぼこり。それも尋常な量じゃない。そして、床にも。まるで数ヶ月以上掃除していないような状態に見える。

 ちょっと待って、また、またなの。アタシは指先が震えるのを意識しながら、ゆっくりと上半身を起こした。

 薄汚れた壁紙。積もりに積もった綿ぼこり。黴臭い空気。アタシのよく知るマンションの一室はまるで、荒れ果て、住むべき主を無くして、そのまま捨て置かれた様に変化していた。

 うそ、うそよ、幻覚。発作。緊張が引き金になっただけ、平常心なんてうそっぱちよ、ホントはホントは、怖い、怖い、怖くて怖くて……い、い、いやぁあああああああああああああああああああ!

 アタシは悲鳴を無理やり口の中に押し込むと、振り向き、逃げ出そうとして、玄関ドアに手をかけた。ざらついた感触。手のひらに付く赤錆。黄色く変色した新聞紙と広告チラシが、腐食した新聞受けから音を立てて落ちると、土間に溜まった誇りを巻き上げた。

 なぜよ、なぜ開かないのよこの扉は。なぜアタシだけこんな目にあうのよ。助けて、助けてよ、誰か、誰か、助けてよ。誰か……

「帰ってきたのね」

 唐突に声がした。

「連絡あったけど、遅かったのね」

 レイだった。夕立に遭ったのか、洗面所のドア越しに、シャワーの音と一緒にレイの声がした。

 レイの、彼女の声とともに、アタシを取り巻く世界は、アタシのよく知るコンフォート17マンションの玄関先に変わっていた。

「渋滞に巻き込まれたのよ」

 アタシは荒々しく靴を脱ぎ、そのまま部屋に戻ろうとした。

「洗濯物、出して」

「わかってるって」

 苛立ちを隠さずに言い放つ。待てよ、何でアイツが出てこないんだ。アタシは立ち止まってレイいる洗面所のへ向き直った

「シンジは」

「いないわ」

「夕飯の買い出しってわけね」

「いいえ」

 どういうこと?

「どこいったのよ。アタシが帰ってくるって連絡あったんでしょ。何でアイツがここに居ないのよ!」

「彼、父親のところ」

 アイツ何でそんなところにいるわけ?どういうこと? それって、もしかして……頭の中が真っ白になる。

 体が浮遊感に包まれた。青い雲、白い空。そしてメッキの剥げたシャワーヘッド。

「もう、私がいる理由がないわ」

 アタシの目はただ空を流れていく白い雲だけを静かに見つめている。体がだるい。ここ数日何も食べてない。さっきまで聞こえていた蝉の鳴き声がしない。湿った風がアタシの前髪を揺らす。臭い。悪臭。腐臭。雨水と泥と赤錆と青粉とアタシの腐敗臭が鼻につく。

 アタシは見捨てられた。アタシには価値がないから。アタシには存在していい理由がないから。誰もアタシを必要としてくれない。誰もアタシをアイしてくれない。

 アタシはここで朽ち果てていく。誰も気づかず、野ざらしのまま。水に溶け、土に帰り、消滅し、人々の記憶からも消え、アタシという存在は始めから無かったことになる。

「誰も私を見てくれないもの」

 アタシには価値がないから。生きていて良い価値がないから。アタシはこのまま朽ち果てていく。このまま。このまま。こ、の、ま、ま。

「何を見てるの?」

「え」

「天井に何かいるの? ゴキブリ?」

 真横にレイが立っていた。首にタオルをかけて、ショーツ一枚。彼女の髪から滴がたれて、アタシの肩を濡らしていく。

「ちょっと、あんた、くっつかないでよ。アタシまで濡れちゃうじゃない。それに何よ、その格好」

「碇君、いないもの。気にしないで。それより、大丈夫? 顔色、悪いけど」

「うっさいわね」

「大丈夫みたいね。なら、これ」

 手渡されたのは、電話の子機。

「夕食、店屋物だから。私、マッハ軒の冷やしたぬき」

 アタシはレイから渡された子機をしばらくじっと見つめていた。

***

 大根おろしに揚げ玉。ついでとばかりにネギとウズラの黄身。そしてすり下ろしたてのワサビを蕎麦つゆに混ぜる。ざるから一口分だけ箸で取るとつゆに浸して、豪快に音を立てて、すする。

「……」

 そんなアタシを正面のレイが、冷やしたぬきに割りばしを突っ込んだまま、冷ややかな目で見ていた。

「なによ」

「……」

 再度ざるの上から海苔ののった手打ち蕎麦を一口分取り分けると、つゆに浸して豪快に音を立てて、すする。レイが、音を立てずに冷やしたぬきの汁をすすりながら、ちらりちらりとアタシを見る。なんかヤだ。アタシはムシを決め込んで、ひたすら蕎麦に専念。不思議だ、レイのやつ全く音を立てずに、冷やしたぬきを食ってやがる。どうすればいったいそんな芸当が出来るのだろう。蕎麦は音を立てて食すのが、正しいマナーだと知らないのだろうか。

「……」

「……」

「……」

「音を立てるなって言いたそうね」

「……」

「……」

「……」

「何か言いたいことあるんでしょ」

「……」

「……」

「……」

「言いたいことあるなら、言いなさいよ、レイ!」

「……美味しくない」

 へ? 意外な返事が返ってきた。

「そ、そうなの。でもあんたがそれを指名したんだから、アタシのせいじゃ無いわよ」

「……シンジと一緒に食べたときは、美味しかったのに」

 レイが聞き捨てならないことを言った。アタシには記憶が無い。確かに二三度三人もしくは四人であの蕎麦屋には行ったことがあるけど、その時レイが冷やしたぬきを注文した様な記憶がアタシには無い。

「レ〜イ。それいつの話なのかなぁ」

「……」

「答えなさいよ」

「……」

「答えろってば」

 アタシを無視したまま、レイは両手でどんぶりを持つと、一気に残った汁を飲み干した。そして静かにどんぶりを置くと、その上に割りばしをきれいに重ねて置き、その後彼女は両手の手のひらを胸元で合わせた。

「ごちそうさま」

「アタシを無視するなぁ!」

「シンジが三つの時だったかしら」

 ???

 今のって冗談なのかと思う。でも、レイが冗談言うとは思えない。だって、彼女の頭の中の辞書に冗談という項目があったとしても、あくまでそれは冗談という単語の解説であって、実際にふざけて言ったり、その場を和やかにさせたり、ごまかしたりする目的でそれ相応の言葉を選ぶようなことが出来るとは、今までの経験上思えない訳であって……

「冗談?」

「いいえ。でも、もしかしたら私が今そう言う前はそのような事象は無くて、今私がそう言ったから、それが事象として該当する過去の一点において、成立したかもしれない。なぜなら、世界の基本が不確定原理であるがゆえに、私が今存在している訳だから、私が何かを行うたびにあなた達の因果律に影響を与えることは、私の存在理由からして自明なこと。それに……」

「なにわけワカメなこと言ってんのよ。レイ、あんた熱でもあんの?」

「いいえ、あなたの言うレイ、すなわちこの時空における碇レイと言う少女なら、そうねぇ、彼女の自室で机の上に俯せて夢を見ている最中としておきましょうか」

 そんなバカな。慌ててアタシ達の部屋のドアを開ける。

 居た。確かにレイが居た。机の上に両手を重ね、そこに頭を置き、顔をこちらに向けて、幸せそうに眠っているレイが居た。

「レ、レイ!」

「起こしちゃかわいそうよ」

 アタシは慌てて振り向く、するとそこには変なこと口走っていたレイが、違う、レイじゃない、今ならはっきり言える。彼女、レイじゃない。だって、彼女の 髪の色も瞳の色も黒く変わっていたから。

「だれよ、アンタ! アンタだれよ!!」

「落ち着いて、こちらでお茶と一緒におしゃべりでもどう? 手間はとらせないわ」

 次の瞬間、アタシはキッチンテーブルを挟んで彼女の向かいに座っていた。

「EPR相関によるテレポーテション理論のちょっとした応用。いったん素粒子レベルに分解されて再構成された感想は?」

「あ、あ、んた、ダレ」

 アタシが口にできたのはそれだけだった。

「私が誰かという問いに答えることって、あまり意味はないのだけど……初めまして、惣流・アスカ・ラングレーさん。私、この世界の神様です」

 アタシはただ、ただ、絶句するしかなかった。

後編の(下)に……また恥をかかせおって。