Q:タイムマシンで時間旅行者が過去に戻って、自分の親を殺したらどうなりますか?

A:親を殺せばその子供である時間旅行者は生まれません。ですが、時間旅行者が生まれなければ当然親は殺されないことになります。よって、子供である時間旅行者は生まれて、その子は過去に戻って親を殺して……と以下堂々めぐりとなります。これを『親殺しのパラドックス』といいます。

 蛇足ですが、タイムマシンで過去に戻れるという仮定が、厳密に時間の順に並んだ因果関係、すなわち因果律を破り、パラドックスを生み出すわけです。これは、パラドックスが生じる=因果律が破られると云う事実そのものが、タイムマシンで過去に戻ることが不可能であると云うことの証明になります。

「要するに……中央の領域はタイムマシンの特性を持っている。空間の外部領域のどんな点からでも、内部に入り、時間を逆行し……それから元の位置に戻ってくることが可能である」

(1974年のフィジカル・レビューに発表されたブランドン・カーターによる
アインシュタイン方程式のカー解についての論文の結びの言葉)

「結局、一般相対性理論は、十分長い自転円筒を建設すればタイムマシンがつくれると示唆しているのだ」

(1974年のフィジカル・レビューに発表されたフランク・ティプラーによる論文
『自転する円筒と汎世界的な因果律違反について』の結びの言葉)

Q:タイムマシンで過去に戻れる場合、因果律はどうなりますか?

A:むちゃくちゃになります。

Scbroedinger's Cat.

kaz(P3pro).
kaz-a@po7.lunartecs.ne.jp

「私が神様って発言は不謹慎だったかしら」

 目の前の自称”神様”は自らの顎に人さし指を当てると、ちょっとだけ考え込むように、頭を少しだけ揺らして見せた。

「あなたの記憶から、赤木さんの言葉を借りましょうか。覚えてる? 彼女ったら病室であなたの問いに、こう答えたのよね。『神はいるわ。いえ、いなければならないのよ。何もしない、ただ見つめるだけの神様が』って。ただ、神という概念も事象の一部でしかないから正確性には欠けるけど、そういう存在だって思ってくれればいいわ」

 また幻覚? それとも妄想のたぐい? それともアタシは本当に壊れたのだろうか。電波が聞こえるようになってしまったのだろうか。電波とお話するようになってしまったのだろうか。それってとても怖い考えなのに、納得してしまっている自分がここにいる。

「困ったわねぇ。まあ、順当な反応とも言えなくもないけど。貴女の精神は正常……とは言い難いところがあるけど、少なくとも、社会の中で許容される範囲の中にあるわよ。もっともボーダーラインすれすれだけど」

 ああ、やっぱりそうだ。アタシは壊れた。アタシの目の前の人物は、アタシの考えを読み取って、それに答えるように、しゃべってる。おまけにその相手は自分のことを神だと断言してる。きっと本当のアタシは今ごろ自傷防止のため白いウレタンで覆われた窓の無い小部屋の中で、布で出来た拘束具で体の自由を束縛されたまま、壁に向かって何かをつぶやいているのか、ネルフ付属の医療施設の脳神経外科個室病棟の白いベッドの上で、大量の鎮静剤を投与され、無反応のまま、濁った瞳で天井を見つめているだけなんだ。

 夢、白昼夢、妄想、幻覚、電波、そういったものの集合体。今まであったすべての出来事はきっとアタシの頭の中でアタシが勝手に生み出した物語。目の前の変な女性も、ここ数日の出来事も、それだけじゃなくて、このマンションでの家族ゲームも、アイツからの告白も、アタシがEVA弐号機の専属パイロットとして使徒と殲滅戦を繰り広げたことも、ネルフもEVAもこの町もヒカリも加持さんもミサトもリツコもレイもそしてアイツのこともすべてが夢。突然壊れて、アタシの首絞めて、勝手に死んだママから逃れるための……

「困ったわねえ、登場シーンからやり直しね。少し強引な手段の方がいいのかしら」

 そんな声が頭の中に響いた後、急にあたりが真っ白になった。

 大根おろしに揚げ玉。ついでとばかりにネギとウズラの黄身。そしてすり下ろしたてのワサビを蕎麦つゆに混ぜる。ざるから一口分だけ箸で取るとつゆに浸して、豪快に音を立てて、すする。

「……」

 そんなアタシを正面のレイが、冷やしたぬきに割りばしを突っ込んだまま、冷ややかな目で見ていた。

「なによ」

「……」

 再度ざるの上から海苔ののった手打ち蕎麦を一口分取り分けると、つゆに浸して豪快に音を立てて、すする。レイが、音を立てずに冷やしたぬきの汁をすすりながら、ちらりちらりとアタシを見る。なんかヤだ。アタシはムシを決め込んで、ひたすら蕎麦に専念。

 不思議だ、レイのやつ全く音を立てずに、冷やしたぬきを食ってやがる。どうすればいったいそんな芸当が出来るのだろう。蕎麦は音を立てて食すのが、正しいマナーだと知らないのだろうか。

「……」

「……」

「……」

「音を立てるなって言いたそうね」

「……」

「……」

「……」

「何か言いたいことあるんでしょ」

「……」

「……」

「……」

「答えなさいよ」

「……」

「答えろってば」

 アタシを無視したまま、レイは両手でどんぶりを持つと、一気に残った汁を飲み干した。そして静かにどんぶりを置くと、その上に割りばしをきれいに重ねて置き、その後彼女は両手の手のひらを胸元で合わてうつむいた。

「ごちそうさま」

 ああ、もう、うがぁあああああああ! こいつのこんなとこアタシ、だいッ嫌い!!

「レぇ……ぃ」

 アタシは最後まで叫べなかった。なぜなら、目の前の、レイの、面を上げたレイの髪の色と瞳の色が突然黒く変わっていたからだった。

「はじめまして、私はユイ。この世界で唯一の存在。だからユイね。ところでお茶でもいかがかしら」

 キッチン・テーブルの前には、いつの間にか、先程まで食べてたはずの蕎麦が片づけられていて、そのかわりに湯飲みと急須。そしてお茶請けに羊羹が並んでいた。緑茶の匂いが心地良い感じがして、自然に手が出て、途中で止まる。

「あら、緑茶はお嫌い。紅茶かコーヒーの方が良かったかしら」

「レイ、アンタ冗談のつもりぃ。アンタの冗談にしちゃぁ、よ、よ、よく出来てるじゃない」

 最後の方、アタシの声が震えてる。もしかして、また、幻覚?

「幻覚じゃないわ、事実。貴女の知っているレイなら、部屋の彼女の机の上で、眠っているはずよ、見てきたら」

 アタシは慌てて席を立つと、部屋の前に立ち、引き戸を力いっぱい引いた。確かにレイがいた。彼女机の上に両手を枕にして、うつ伏せになっていた。もしかしてと思って、最悪な事態を想像して、彼女に駆け寄る。

 首に触れる。脈がある。呼吸もある。両肩をつかんで後ろから力任せに机から引き離すと、イスの背もたれに身体を預けさせて、アタシは彼女の頬を軽く叩く。

「レイ、ちょっとレイ、起きなさい、起きなさいよ、起きろって」

「……い、かり……くぅん」

「アンタ、寝ぼけてんじゃないわよ。いいから起きろ、起きろって」

「いい夢を見てるのに、起こす必要ないでしょ」

 背後からさっきの変な女の声。とっさに振り返る。

「ちょっと付き合ってね」

 さっきの女がそういって、にこっと笑うと同時に、アタシは光の渦に巻き込まれていった。

 懐かしくて、嫌な臭い。血の臭いに似たL.C.Lの臭い。目を開けるとそこにはアタシがいた。赤いプラグスーツを身にまとい、エントリープラグのシートの上で膝を抱え、顔を伏せたアタシがいた。

 アタシの中にアタシの思考がなだれ込んでくる。

『生きてる……』

アタシとアタシが重なる。アタシが一つになる。アタシが弐号機とシンクロしていく。

「あぅ、くぅ!」

 水中衝撃波。アタシの身体が右に、左に、上に、下に揺さぶられていく。

「ぃやぁ! 死ぬのはいや、死ぬのはいや」

 直撃する爆雷。何度も、何度も上下左右に強く揺さぶられる中、アタシは相変わらずシートの上で膝を抱え、顔を伏せたまま。

「死ぬのはいや、死ぬのはいや、死ぬのはいや、死ぬのはいや」

 ダチョウのように頭を隠したまま、現実から逃れる呪文を口ずさむ。

「死ぬのはいや、死ぬのはいや、死ぬのはいや、死ぬのはいや、死ぬのはいや、死ぬのはいや」

「まだ、生きていなさい」

 頭の中で声。

「死ぬのはいや、死ぬのはいや、死ぬのはいや」

「まだ、生きていなさい」

 再び、声。

「死ぬのはいや、死ぬのはいや、死ぬのはいや」

「まだ、死んではだめよ」

 三度、声。

「生きていなさい」

「死ぬのはいや、死ぬのはいや、死ぬのは、いやぁぁぁぁ!!」

 呟きが絶唱に変わると同時にアタシは顔を上げた。

「ママ……ここに居たのね……」

 手が差し出される。アタシの、小さなアタシの手にママの手が重なる。

「ママ!!」

 優しく抱きしめられる幼いころのアタシ。ママの胸の中でアタシは成長していく。身体中に力がみなぎる。もう迷わない。もう怖くない。アタシ、一人じゃない。

「エヴァ弐号機起動、アスカは無事です! 生きてます!」

 そんな声を聞きながら、アタシの意識はブラックアウトしていった。

 ここ何処。目に見えるのはありきたりな湖畔の風景。たぶん芦ノ湖だと思うけど、自信ない。そして湖畔の木陰にたたずむ初老の男性と赤ん坊を抱いた女性。

「ヒトが神に似せてエヴァを創る。これが真の目的かね?」

「はい。ヒトはこの星でしか生きられません。でも、エヴァは無限に生きていられます。その中に宿る人の心と共に」

 再び、声。きっと目の前の二人の会話だと思う。ただ女性の声は、正体不明のあの女の声とうり二つだった。

「たとえ、50億年たって、この地球も、月も、太陽さえなくしても残りますわ。たった一人でも生きていけたら……とても寂しいけれど、生きていけるなら……」

「ヒトの生きた証は、永遠に残るか……」

 映画のように、映画のラストシーンのようにフェードアウトしていく湖畔の光景。まるで夜が来たかのように真っ暗になる。見えるのはたぶん星の光り。全天に輝く星の光り。そんな中、アタシは背中に何か気配を感じて、振り返る。

「ヒィ……」

 声にならない悲鳴をアタシはあげた。初号機。EVANGELION 初号機の頭部があった。

 ゆっくりと、アタシのすぐ頭の上を初号機が漂っていく。戦闘の後なのだろうか、胸や腹、背中や足の装甲板、そしてなぜか手のひらに大きな傷が見えた。ゆっくりと、ゆっくりと縦軸方向に回転していくEVA初号機。

 だんだん小さくなり、最後はただの小さな黒い点になり、闇の中に初号機が消えていくまでその姿を見つめていると、今度は背中に光を感じて、アタシは振り返った。

 太陽と、地球と月。まるで宇宙から見た日の出のように、地球に隠された太陽がゆっくりと姿を現していく。青い地球。でも円ではなくて、三日月のよう。光が増すに連れ、青い地球を隠す黒い影の輪郭が明らかになっていく。そうか、月だ。アタシは今、月の裏側から地球を挟んで太陽を見ているんだ。そう思いながら、眩しさに耐えられなくなって目を閉じた。

 波の音がする。

 いつの間に意識を失ったのだろう。そう思いながら目を開くと、また、あの光景。赤く、血の色に染まった海。空にかかる赤い天の川。地表に落下したままの巨大なレイの頭部と石化した量産機。シュールリアリズムの画家が描いたような、非現実そのままの世界。吐き気がする。

「寒い」

 そう漏らしたとき、アタシの腰に手が回され、引き寄せられた。

 血と膿で汚れた包帯に包まれた右腕の感覚が全くない。もう、アタシの意志で動かすことが出来なくなった。

「何……考えてるのよ」

 アタシの頭を首が支えきれずに、横に座るアイツの肩に倒れ込む。口を開くのも、もう苦しい。息をしているのが不思議なくらい。

 髪の毛がかき上げられた。腰に回されていた手が、背中に触れ、耳に触れ、頬に触れた。気持ち良いけど、不快。

「や、め、て」

 嫌よ。まるで別れまでの時間を惜しむ恋人同士みたいじゃない。恋人? やめてよ、冗談じゃない、ヘドが出る。身体が動けば今すぐアンタをコロシテヤル。でも、なぜか、うれしい。

 ここ数日何があったか、何も思い出せない。わかるのはアタシには残された時間がほとんどないって事だけ。何度も吐血して、下血があって、高熱にうなされて、その度にアイツの涙顔に罵詈雑言を浴びせて、アイツの腕に抱きしめられて、眠りについた。

「追っかけてきたら……許さないから」

「……」

「ここで一人で……」

「……あ……」

「ずっと一人で……後悔しながら……生きればいいわ」

「アスカ」

「それが……アンタへの罰」

 潮騒が聞こえない。残された右目も何も像を結ばない。

「……責任……とって……よ……バカシン……ジ」

 それがアタシの最後。二度目の死だった。

 目を開けなさい。

 頭の中で声がした。言われるままに目を開けると、見渡すかぎり闇の中にアタシはポツンと立っていた。

 頭がふらふら動いてるみたい。、平衡感覚が無くて、貧血起こしたときみたいな感覚。突然身体から力が抜けそうになって、倒れると思った瞬間、目の前にあの女がいることに気づく。すると不思議なことに身体の感覚が戻ってきた。

「ちょっと強引すぎたかしら」

「ここ、何処。今の何。アンタ何者」

 嘔吐と奇妙な浮遊感に戸惑いながら、アタシはそれだけを口にした。

「出来れば質問は一つづつにしてね。まず、ここはどこかということだけど……ここは彼岸の彼方。つまり、どこでもない場所。時間からも、空間からも、すべての次元から完全に独立した、事象の特異点。世界の外側。そして、今のは……」

 彼女、自らの顎に人さし指を当てると、ちょっとだけ考え込むように、頭を少しだけ揺らして見せた。

「その前に私が何者か理解してもらったほうがいいわね。アスカさん。最終観測者ってご存知かしら」

 ???

「別名、終末観測者仮説とも究極観測者仮説とも云われる説。聞いたことない?」

「しらない」

「残念ね。知っていたら話が早かったのに。いいわ。ちょっと足下をのぞいてみてくれないかしら」

 言われたままに足下を見ると、アタシの足下、その下に鈍く銀色に光る一本の三角柱が横たわっていた。どこまで続いているのかわからない。まっすぐに延びた三角柱。右端も左端もまるで地平線の向こうまで延びているみたいで……

「何よ、これ?」

「今、貴女が見ている銀色の三角柱が、すべての事象の始まりからすべての事象の終わりへ連なる事象の連続体。その内部はあなた達の存在する宇宙そのもの。宇宙そのものを表す波動関数ψを分かりやすく視覚化したものだと考えてちょうだい。

 ところで、貴女が赤木リツコと話していたことを思い出してもらいましょう。貴女、多世界解釈的量子力学でなく、コペンハーゲン派の解釈を是とする教育を受けたそうね。だったら、シュレディンガーの猫をつかった思考実験=パラドックスと、それに対する回答と意味はしっかり頭の中に入っているはずよね」

「ちょっと、何でアンタ、そんなことなんて知ってるのよ」

「だって私は”そういう”ことが出来る存在だから。今は私の話だけに集中してもらえないかしら」

 まるでアタシをたしなめるような口調で言われてちょっとむかつく。

「コペンハーゲン派の解釈だと”物事の本質は不確定であり、事象は波動関数で表された無数の可能性の重ね合わせである。また、事象の"観測”を行うたびに、無数の状態の中から可能性が最大の状態が実現する。”つまり、箱の中の猫の生死を確定出来るのは、”観測”を行う”観測者”であると。間違いないかしら」

 アタシ、うなずく。

 箱の中の猫の生死を決めるのが箱を開けた観測者なわけないじゃん。箱の中の猫の生死を決めるのは、あくまで箱の中の実験装置に取り付けられた放射性元素が崩壊してアルファ粒子が飛び出すかが問題。実験の仮定条件から放射性元素が崩壊してアルファ粒子が飛び出す確率は1/2。なら、箱の中で猫が死んでいる確率も1/2。だから、箱を開ける前は、猫は死んでいるかもしれないし、死んでいないかもしれないけど”生死のいずれか一方の状態”であるって考えるのが普通、常識ってものよ。でも、量子力学、その主流のコペンハーゲン派の解釈は異なっていて、箱を開ける前、猫は生と死のどちらかに確定しているが、観測者=人間が知らないだけ、とは考えない。箱を開ける前、猫は生の状態50%と死の状態50%が合わさった状態、つまり”生と死の両方を兼ね備えた状態──事象の重ね合わせ状態──”であると考える。そして箱を開けて猫を見た瞬間に、猫の状態は生死いずれかに確定──波動関数が収束──すると主張しているわけ。

 冗談でしょとか、何ソレとか、”生と死の両方を兼ね備えた状態”なんてある訳ないといった突っ込みはやめてよね。信じようと信じまいと量子力学は多くの科学者の検証と実証と論争の中で生き残ってきた理論なんだから、世界はそういうものだって考える以外どうしろっていうわけ。

 ともかく、アタシはうなずく。

「”観測”を行う”観測者”が””事象の重ね合わせ”な”観測対象”の状態を確定することが出来るのなら、もし、貴女が見ている銀色の三角柱の終端。すべての事象の終わり、あらゆる事象の終着点を”観測”した”観測者”はすべての事象、過去、現在、そして未来に”起こった”、”起きつつある”、”起こるであろう”、あらゆる事象の全てを”確定”出来ることになる。それが最終観測者仮説。私は”そういう”存在なの」

 それって、それって、そんな……もしそうなら……あらゆる全ての、この宇宙のあらゆる全ての事象、出来事が全てこの女の意のままになるって事であって……そんな、そんな馬鹿なこと……

「そんな馬鹿なことあるわけない。い、因果律はどうなるのよ!」

 アタシ叫んでた。アタシの常識がそうさせていた。

「因果律?」

「そ、そうよ。因果律。すべての事象の終わりなんてアタシからみれば、果てしなく未来の話じゃない。そんな果てしなく未来の出来事の結果が、時をさかのぼって現在に影響を与えるなんて因果律を破るじゃない。アンタ、すべての事象の終わりを観測したなんて寝ぼけたこといってるけど、それの是非はともかく、因果律は、過去から未来に向けて流れる時間。時間の矢は、絶対的な物。それにシュレディンガーの猫の解釈だって、観測時に猫の生死が決定されるのであって、観測した結果が観測前の猫の状態を”時をさかのぼって”確定することを許しているわけじゃない。だから因果律は破られていない。矛盾よ、矛盾が生じるじゃないの」

「因果律ねぇ」

 彼女、自らの顎に人さし指を当てると、ちょっとだけ考え込むように、頭を少しだけ揺らして見せた。きっと、考えるときの癖なのだろう。その後、アタシの目の前の空間に二つの図形が現れた。一つは円筒。ただし上下に長い、とてつもなく長い円筒。上端も下端も確認できないほど長い円筒。もう一つはリング。ドーナツのようなリングだった。

「こっちはティプラーの円筒。もう一つはアインシュタイン方程式のカー解。つまり理論的に可能なタイムマシンの存在は、因果律の絶対性を否定していることにならないかしら?」

「でも、それはあくまで一般相対性理論での話であって……熱力学の……第二……熱力学の第二法則がある!」

「熱力学の第二法則をもちだしても、過去から未来に向けて流れる時間、時間の矢は、絶対的であるということの証明にはならないわ。確かにコーヒーにミルクをこぼせば、いずれ全体に拡散してしまい、その後何があろうとコーヒーとミルクが自然に分離することはない。エントロピーを使って表現すれば、コーヒーの中にミルクを落とした状態がもっともエントロピーが低く、コーヒーの中にミルクが拡散した状態がエントロピーがもっとも高い状態になる。でも、それだけなの。だって、あの数式には時間を示す変数tは無いのよ。

 因果律は存在しないのよ。あくまで経験則であって、理論的な裏付けなんて無いわ。その証拠に主要な物理法則は時間に対して対称性を持っている。

 それに……貴女『シュレディンガーの猫の解釈だって、観測時に猫の生死が決定されるのであって、観測した結果が観測前の猫の状態を”時をさかのぼって”確定することを許しているわけじゃない』って云ったわよね。その通りよ。だって、世界には”過去”も”未来”もなく、ただ”観測”によって確定された”現在”が連なっているだけですもの。

 あなた達は私と違って”事象の重ね合わせ状態”そのままを理解することが出来ない、”観測”して波動関数をいったん収束させなければ世界を認識できないのよ。世界は常に不確定。いい換えれば、全ての可能性が”事象の重ね合わせな──シュレディンガーの猫を例にすれば、生と死の両方を兼ね備えた──”状態でしか存在できない。でも、あなた達が見ている世界は、確定しているだけでなく、”過去”と”未来”を区別している。このパラドックスは、記憶が生み出しているの。あなた達の記憶がね。いいかしら、ある状態の世界、すなわち、いったん”観測”を行って波動関数を収束させ、Aという事象を確定させ,さらに、別の”観測”を行って波動関数を収束させ、Bという事象を確定させた場合、事象Bは事象Aより時間的に後であると記憶が錯覚をさせ、暗黙のうちに了解してしまっている。これが時間の正体。

 反論はまだあると思うけど、そろそろ私を”そういう存在”だと認めてくれないかしら」

「わかったわよ、認めてあげるわよ。それで最終観測者様とやらが単なる女子高生になんの用なのよ!」

 強がり。そんな口調。意固地にならなきゃやってられないって感じ。

「お茶にしない」

 受け流すかのような感じで浮かべたその女の優しげなほほ笑みに、アタシ、ちょっとだけ吸い込まれるような錯覚を覚えた。

 気づくとアタシ達はマンションのキッチンに戻っていた。アタシの前にテーブルを挟んで座り、何がうれしいのか、にこにこしているあの女。目の前には、先程と全く同様に湯飲みと急須。そしてお茶請けに羊羹が並んでいた。緑茶の匂いが心地良く感じられて、自然に手が出て、途中で止まる。もしここで紅茶にしてって注文したら……やめよう。きっとそう口にした瞬間、目の前にティーセットが並ぶ事は間違いないし……あれ、いつの間にだろ、アタシ、目の前の女の事、そういう存在だと受け入れている。

「あら、緑茶はお嫌い。紅茶かコーヒーの方が良かったかしら」

「い、いえ」

 止めていた手を動かして、湯飲みを手のひらに収める。咽がカラカラに乾いていたことに気づいて、始めに一口だけ口つけて、少しぬるめだったから、一気に。

「落ち着いたかしら」

 照れくさくなる。何なごんでいるんだろ。そう思って、話を切り出した。

「さっきのアレ、何よ。何でアンタ、アタシがEVAの……愚問ね。でも、アレ、アンタがアタシに見せたんでしょ。いったい何よ。何故あんなもの、あんな、アタシが死ぬ悪夢見せたわけ」

 変な女、ユイだっけ。彼女はふっとアタシから視線をそらす。

「貴女にとって……真実だったから」

 どういうこと?

「実際にあったこと。そして、実際にはなかったこと」

 それって、もしかして!

「ここ数日貴女を悩ませた悪夢も、”そういう”たぐいのもの」

 ……そうなの……だったらアタシ、何?

「真実であったことに興味あるかしら」

 アタシは無言で頭を縦に振った。

「人類は一度滅びたのよ」

 そう前置きして彼女は語り始めた。

『零号機の喪失と綾波レイ』

『最後の使徒と終わりの始まり』

『戦略自衛隊に蹂躙されるネルフ』

『人類補完計画という名の愚行』

『弐号機起動』

『量産機の光臨と引き起こされる撃鉄』

『ミサトの死。リツコの死』

『蹂躙される弐号機。アスカの最初の死』

『最後の引き金を引くシンジ』

『第弐使徒リリスよるサードインパクト』

『世界が悲しみに充ち満ちていく。むなしさが人々を包み込んでいく。孤独な人の心を埋めていく』

『寛容と拒絶』

『一枚の写真』

『さよなら……母さん』

「ここまでが私が”そういう”存在ではなかったころの記憶。その後は、永劫、久遠と言う言葉そのままの長い間、一人宇宙を漂い続けたの。

『でも、僕はもう一度会いたいと思った。そのときの気持ちは、本当だと思うから』

 あの時のあの子の言葉と表情が心の支えだった。それでいいのだと、後はリリスが、レイが、世界を再構築してくれる。あの時、あの場所で起きたことは誰の記憶にも残らず、ただ、多くの人の心の奥底に何かを残して、退屈で、平凡で、善意と偽善の入り交じった素晴らしい日々が続いているのだと、信じる事が出来たから一人でも寂しくなかったわ。

 いつの頃かは忘れたけど。私が”そういう”存在になったことに気づいたとき、一番最初に行ったことは、わかるでしょ。私が立ち去った世界であの子がどう生きたのか確かめたかったの。そして私は間違いに気づいた。リリスも女だということを忘れていたのよ」

 一枚の写真が渡された。アイツがいて、アタシがいて、三馬鹿の残り二人がいて、ヒカリがいて、ミサトが、リツコが、みんながいる集合写真。あれ、レイがいない。いた。人影に隠れて彼女の特徴ある髪の毛だけが小さく写っていた。

「……嫉妬なの。彼女、そう云ったわ。最後にすがって拒絶されたのに、碇君が選んだのは弐号機パイロットだったって。身を滅ぼしてまで、自我崩壊から碇君の心をすくい上げたのに、碇君と一つになったのに、『いいんだ』って、『ありがとう』って、そう云って私の中からでていったのって。だから、世界を、壊れた世界をそのままに、あの二人だけを残したの……って」

 アタシの耳に潮騒が聞こえる。波打つ水の色は青ではなく赤。血に染まった海。

「世界を再構築したのは私。ある時点での波動関数を収束させ、新たな事象を新たに人の記憶の中に定着させることで、あなた達の因果律──原因と結果──に新たな方向を持たせて、構築され、上書きされた世界。この世界はあの子が、シンジが望んだ世界を土台に私が修正を加えて成立させたの」

 黙ってアタシは急須に手を伸ばすと、アタシの湯飲みにお茶を注いだ。

***

 あの女は、ユイと名乗った最終観測者=神様は、勝手に言いたいことを言うだけ言って立ち去った。残されたアタシは何をしてよいか分からず、ただぼんやりとテーブルの上に残された、店屋物のどんぶりと蕎麦のザルを見つめていた。

 困惑。混乱。不条理への怒り。諦め。予定調和。推測の現実化。裏切られたという思い。そして無気力。

 頭の中、真っ白なのに、何にもする気起きないのに、足が勝手に動いて、立ち上がって、手が勝手に動いて、テーブルの上の物をまとめて、また、足が勝手に動いて、玄関まで移動して、手が勝手に動いて、玄関ドアを開け、手にしていたどんぶりとザルを置き、ドアを閉め、再び足が勝手に動いて、気づくとアタシ、洗面所の鏡の前に立っていた。

 鏡の中のアタシ、青白くて無表情。無理やり笑顔つくってみて、笑顔って何だっけって自分に問いかける。

 着ていたタンクトップに手をかけて脱ぐ。その場でブラを外すと、洗濯機の蓋を開けて洗濯槽へ。頭の中、真っ白なのに、機械的に手が、指先が、足が動いて、赤い髪留めを外し、履いていたショートパンツと下着を脱くと、洗濯槽へ入れた。

 いつもより熱めに設定しているはずなのに、熱さも冷たさも感じぬまま、雨のようなシャワーの滴の中に立ち尽くす。

『”神様”にも懺悔が許されるとは思わない?』

 あの女がアタシの前から消え去る前の最後のたわ言を思い出した。

 指を握りしめ、拳を作って震える利き腕。アタシ、怒ってるんだ。本気で、本気で怒ってて、だから、妙に覚めてて、現実感なくて、頭の中真っ白なんだって気づいた。

 こんな世界壊れてしまえ。

 アタシの中に、心情を表現する言葉が戻ってくる。

 神様だろうが何だろうが、誰の許可得て勝手なことするのよ。

 人類が滅びたからって、人が多く死んだからって、だったら何故よ、何故よ。歴史を、過去を、世界を改ざんできるのなら、セカンドインパクトだって無かったことに出来るじゃない。EVAだって無かったことに出来るじゃない。ママだってあんなことにならなくて済んだじゃない。だったら、だったら、アタシ、アタシ、こんな苦しい思いをせずに済んだのに。心も身体も、ボロボロになること無かったのに。アタシ、普通の女の子でいられたのに。パパとママと三人で普通に暮らしていたはずなのに。

 この世界、アイツが望んだ世界なんでしょ。アイツにとって都合の良い世界なんでしょ。勝手な夢の世界なんでしょ。アタシが、アタシが、いつも、いつも、アイツの、あの馬鹿の、馬鹿シンジのこと目で追っているのも、アタシがシンジに全て任せっきりなのも、いつもいつも馬鹿シンジのことが頭から離れないのも、全部、全部、シンジが望んだ世界だからなんでしょ!

 嫌いよ。嫌いよ。そんなの、そんな世界壊れてしまえ。

 知るんじゃなかった。首を縦に振るんじゃなかった。

 Curiosity killed the cat.

 あの女に出ていけって叫んで、追い出せばよかった。

 もう、戻れないよ。だって、知っちゃったんだもの。戻れない、知る前のアタシにはもう戻れない。どうあがいても戻れない。夜が明けて、世界が動き出して、レイが、ミサトが、シンジが、シンジが父親のところから戻ってきたら、アタシどうすればいいのよ。何を話せばいいのよ。どう振る舞えばいいのよ。

「ばかぁ!」

 叫んだら全身の力が抜けて、その場にズルズルと座り込んでしまった。浴室の天井と、降り注ぐシャワーの滴。なぜか頬を伝わる滴が塩辛かった。

 お腹に、下腹部に鈍く重いものを感じながら、アタシは下着の上にビックサイズのTシャツだけを着て、浴室からさまよい出た。リビングとキッチンの電気を消すと、部屋の前に立つ。『アスカ&レイの部屋 無断で入るもの、すべての望みを捨てよ』と書かれたプレートのぶら下がるドアを開ける。

 部屋の蛍光灯をつけて、レイが机の上でうつ伏せて寝ているのを見て、慌てて電気を消す。そのままアタシ夢遊病みたいにふらふらと歩いて、ベッドの上に腰掛けた。

 何も考えられない。何も考えたくない。両手で髪の毛をかき上げて、頭を抱えて、このまま何もしないでいたら全ての問題が解決するんじゃないかと思えて、うずくまる。

 生理終わったはずなのに、何よこの感じ。下腹部に手を伸ばしてさすってみるけど、全然ダメ。だけどこの不快さは、アタシが今感じているこの世界への不信感そのものに思えて。いらだってくる。面を上げる。レイの寝ている姿が目に入る。

 アタシの耳に潮騒が聞こえる。波打つ水の色は青ではなく赤。血に染まった海。

 立ち上がるアタシ。足音忍ばせて、寝ているレイの、彼女の背後に立つ。

『……嫉妬なの。彼女、そう云ったわ』

 両腕がゆっくり伸びた。

 コロシテヤル。コロシテヤル。コロシテヤル。

 真っ黒な感情がアタシを覆い尽くす。

 コロシテヤル。コロシテヤル。今度はアタシがコロシテヤル。

 アンタにコロされたアタシが、今度はアンタをコロシテヤル。

 アタシの手が彼女の細い首に触れた。このまま絞めれば……復讐……

「そう……よかったわね……い、かり……くん」

 アタシはその場から逃げ出した。

 何故アタシココにいるの? 晴れ渡った空に淡い光の帯。天の川が見えた。

 逃げ出した先がベランダなんて、お間抜け以外何者でもない。

 どうしよう。どうすればいいのかなぁ。どんどん深みにはまっていく気がする。壊れかけたあの時だってここまで酷くなかった気が、ん、そうかな、比較できない。それとも、アタシ、壊れてしまったのかな。ホントは壊れていて、全て、全て、アタシの妄想。だったらいいなぁ、楽だもの。でも、そうだったら、きっと、あの馬鹿、アタシのために泣いてくれるかなぁ。それともアタシのこと捨てちゃうのかな。やだなぁ……はは、はは、あははは、あははははははは。

「きゃん」

 首元に冷たいものが当てられた。

「なぜ、笑っているの」

「レイ、あんた……」

「これ、飲む?」

 差し出されたのはミサトご用達の缶ビール。恥ずかしいところ見られた照れ隠しに、それを彼女の手からもぎ取る。

「隣、いい」

 レイはアタシの返事を聞かずに、横にしゃがみ込むと、何処に隠してあったのか彼女も缶ビールを、それもアタシに渡したものより大きな500ml缶。それを平然と開け、口を付け、ミサトみたいに流し込んだ。

「飲まないの」

 そういわれて、アタシも慌ててプルトップを起こして口を付ける。冷たいビールが咽を潤していく。おいしい。

「私も……知っているの。明日になれば……忘れてしまうけど」

 知ってるって何を

「世界の真実」

 アンタもしかして、始めから……

「彼女、来てたのね。私には分かるの。今の私、今だけ私、ヒトではなくリリスでもあるから。落ちるわよ、手から」

「え、あ、うん」

 慌ててアタシ、落としそうになっていた缶ビールを持ち直した。

「彼女、云ったわ。『”神様”にも懺悔が許されるとは思わない?』と。貴女は無言で頭を横に振った。寂しいの。彼女、神様だから。神様には誰にだってある権利、好きに、自己責任で好きに生きる権利、無いもの。全てを背負って存在しなければならないもの。生も死も、最も重いものを背負って存在しなければならないもの」

「だからといって世界を勝手に書き換えて……」

「それと毎日毎日世界の何処ででも行われている決定とどう違うの?」

???

「ここに高速道路を造ります。ここに空港を造ります。あなた達はこの土地を明け渡して、出ていってください。保証はします。かわりの土地は準備します。どう違うの」

「それは……」

 アタシ、とっさに反論できなかった。

「世界の何処でも何らかの決断が行われ、決断の対象となる人の人生をその人の意志とは関係なく変えていく。反対運動を起こすのも、賛成して新しい場所で新しい生活を始めるのも、それまでの人生を大きく変えることにかわりはない。それを、そういう政治形態を、社会制度を受け入れているのに、貴女は何故、彼女の決断、彼女の行動、世界の再構成を受け入れられないの」

「……」

「碇君のこと、好き、嫌い、どちら」

「……な、何を」

「世界は書き換えられた後、彼女、いっさい干渉してない。わかるの。私だけはわかるの……碇君のこと、好き、嫌い、どちら」

 リリスが、レイがアタシのこと見つめてる。真顔で聞かないで欲しい。んなこと口に出せないわよ。

「心は、感情は、常に、常に、揺れ動く波。もし彼女が貴女の記憶を操作したとしても、その影響が、今、現在まで続くと思う? 自分自身を洗脳しないかぎり、揺れ動く心を、感情を、固定することは不可能だわ。特殊な状況下で無いかぎり」

「……そう、な、の」

「そう」

 アタシ、残っていたビールを飲み干すと、そのまま缶をベランダに転がした。

「もう一本いる?」

「うん」

 受け取った時、こいつ何処に隠し持っていたのかなって考えて、やめた。だって、彼女もいつの間にか新しい缶ビールを手にしているんだもの。”そういう”ものだと思って考えないことにした。

 馬鹿みたいに思えてくる。あれほど嫌っていたこの世界が、それはそれで良いんじゃないかと思えてくる。アタシ、酔っちゃったのかな。でも、たかだか一本で酔うほどヤワじゃないんだけど……

「さっきアタシ……」

「気にしてない。明日になったら忘れるから」

「ありがと」

「なぜ」

「いいの」

 二本目。半分ほど一気に。やっぱり酔ってる。心が軽い。なんか変。だからかもしれない。アタシ、彼女に前々から思っていたこと聞いてみた。

「あのさあ、何でアンタ、妹なのよ。アンタだってアイツのこと好きなんでしょ。それとも何、何か裏で考えてるわけぇ」

「いいの、それで」

「なんでよぉ。もしかしてそれが謝罪なんて考えているんじゃないでしょうね。もしそうだったら」

「だったら?」

 アタシは迷わず

「ぶん殴る!」って宣言。

「あなたらしいのね。でも違う。私、貴女が考えている以上にずるくて卑怯だから」

 両手でビール缶もって、飲み口を見つめる彼女。目が髪に隠れて、表情が隠れて、薄気味悪い笑顔を浮かべていそうで、ちょっと怖い。

「私、貴女のこと嫌い。昔より、今の方が嫌い。大嫌い。でも、うらやましい。貴女の強さがうらやましいの」

「やっぱ未練あるんじゃん」

「未練、無いわ。私にはあるもの。碇君との新しい絆があるもの。心は、感情は、常に揺れ動く波。たとえ今日まで恋人同士でも、明日は破局が来るかもしれない。恋人から他人。絆は切れるわ」

「そんなのあたりまえじゃん」

「怖くない? 貴女は怖くないの? 私は……怖い。だから私は妹なの。碇君の妹。碇君が死ぬまで切れない絆なの。それに、貴女と碇君が別れたら、次は私。私が碇君と一つになるの……うらやましい?」

「それが未練って云うのよ、ば〜か。それに」

「それに?」

「アタシゼッタイ、何があってもゼッタイ、アイツを手放さないからね。アタシの魅力で、アイツの心釘付けにして、アタシ無しだと生きていけないようにして、アイツを全部アタシのものにするの。誰がじゃましたって、誰がなんて云ったって、そうするんだから、ゼッタイゼッタイそうしてやるんだ! もう一本!!」

 言い切って、二本目を飲み干して、アルミ缶握りつぶして、思いっきり外へ投げ捨てる。資源ごみの不法投棄。知るかそんなこと。

「……不安なのね……」

 三本目。手渡されたときの一言が突き刺さる。

『アンタが全部アタシのモノにならないなら、アタシ何もいらない!』

 夢、現実、どちらでもいい。叫んでいたアタシが脳裏によみがえる。

 アタシ、アイツじゃないもの。アタシが人形じゃないように、アイツも人形じゃないもの。他人だもの。しょせん他人だもの。何考えてるのかわかんないもの。アイツ何考えてるのかわかんないもの。何も云ってくれないんだもの。Kissしてって言わないとKissしてくれないんだもの。アタシから言わないと抱いてもくれないんだもの。

 もしかしたら、アタシよりレイの方が、アタシよりマナの方がって、いつもいつも考えて、捨てられるんじゃないかって、怖くなって、一人で泣きそうになるもん。一人はいやだもん。

「アタシ、つよくないもん」

「……強いと思うわ」

「アタシ、つよくないもん」

「……不安を抱えられるだけ……強いと思うわ」

「ぜんぜんつよくないもん」

「血縁という絆に逃げた私より……強いわ」

「ば〜かぁ」

 三本目を一気のみ。空になった缶を投げつけた。

「嫌いよ。前から思ってたけど、アンタなんか、アンタなんか、嫌い、嫌い、だいッ嫌い。卑怯者ぉ。戦いなさいよぉ。上がってきなさいよぉ。アタシと同じ土俵に立って、アイツを賭けて戦いなさいよぉ」

「イヤ」

「レ〜イ!」

 ひっぱたいてやろうとおもって、手を振り上げたら、身体のバランスが崩れた。アレ、力が入んない。何だかふらふらしてる。まぶたが異様に重いぞぉ。もう、ダメかも。

 世界が突然真っ暗になった。

 気がつくとアタシは、

「ここ何処」

「ベランダ」

「どしたの、アタシ」

「いびきと寝言」

「へ、変なこと……言って……なかったぁ」

「内緒」

「レ〜イ!」

 起き上がって問い詰めようとしたら、即真っ暗。そのままアタシ、後頭部から彼女の膝に倒れ込んだ。

「貧血ね」

 そうかも。生理終わったばかりだし。

「しばらく横になっていなさい」

 再び渡された缶ビールをアタシは、額の上に立てる。冷たくて気持ちいい。夜風がふわりとやさしく触れて、くすぐったい。

「夜が好き。夜は平等だから。日の光は影を生むけど、夜の帳は全てを包むもの。老いも若きも、美しきものも、醜きものも、全てを包む優しさがあるの。だから好き」

「アンタ、酔ってない」

 彼女、アタシを無視してまた缶ビールを開けた……もしかして……うわばみさんなの。

 目を閉じると、背中が、コンクリートに触れている背中が、冷たくて、気持ち良くて、でも、このまま寝ちゃったら、間違いなく風邪引きさんだなって。学校休んで、みんなに優しくしてもらおうかなって、ガキみたいなこと考えていることにちょっと腹が立って、だから、ゆっくり身体を起こした。

「もう、いいの」

「大丈夫みたい」

「そう、よかったわね」

 立ち上がって背伸び。こわばった身体が音を立てた。

「今何時」

 問うアタシ。

「後三十分で明日」

 明日か、怖いな。

「心配ないわ」

 まるでアタシの心を読んだかのようなタイミングだった。

「なんで?」

「今日の続きが明日だと限らない」

 え?

「ここ数日の出来事、明日になれば誰も覚えてないもの。貴女も、私も、碇君も、誰も覚えていない。誰もそれがあったことを知らない。”そういう”ことだから」

「アイツね」

 ユイと名乗ったあの女の顔が浮かんだ。

「ええ、彼女の」

「身勝手よ」

「優しさよ」

「ふんだ、だったらなんでアイツはココに来たのよ。神様なら神様らしく天国で寝てろって」

「永劫、久遠。全ての事象が終わりを迎え、次の神様が定まるまで、たった一人の孤独な神様。神様だって、誰かに話を聞いて欲しいときがあっても良いとは思えないかしら」

 孤独。心に刺さる言葉。

「……寂しかったのかな」

 小さくうなずいて、空を見上げた。

 孤独かぁ。絶対の孤独。考えるだけで背筋が冷たくなる。アタシにとって、絶対の恐怖。

 だからかな。だからあの女、アタシの前に現れたのかな。ま、いいか。

 アタシを見上げるレイは、ほほ笑みを浮かべていた。アタシ、はっとして、きれいだなって思って、ちょっと嫉妬。

「ほら」

 照れ隠しを兼ねてレイに手を差し出す。

「風引く前に寝るわよ」

 アタシの手をつかんで立ち上がるレイ。あれだけ飲んでいながら、顔色一つ変えてない。おまけに空き缶がない。全くない。これも”そういう”ことなんだろうな。

「全ては明日。明日になればきっとうまく行くの」

「何それ、予言?」

「いいえ、必然」

 また彼女、微笑んだ。

***

 バタバタとウルサイ足音の後に玄関ドアを力任せに閉める無粋な音。しばらく間をおいてアスファルトの上をスピンしていくタイヤの悲鳴。どうやら無能な保護者様は早出らしい。全く今何時やらと思いながらアタシは、枕元に手を伸ばした。

 ゲ、夜明け前。珍しいこともあるものだ。あのミサトが今出社なんて。今日は雨、それとも雹。でも、保護者気取って途中で投げ捨てた無責任女なんて、途中で事故って入院しちゃえ。

 そう、心の中でぶうたれながらアタシは目を閉じた。だけど気になる。気になってしょうがない。枕元の時計の音がどうしても気になって仕方がない。

 アタシは再び目を開ける。天井を向いたまま手を伸ばして、うるさい目覚まし時計をむんずとつかむと、そのまま床へ投げ捨てようとして……あれ、アタシこんなアンティークな目覚まし時計持っていたっけ?

 そう思いながらカレイドスコープを模した目覚まし時計を裏返すと、そこにははっきりママの名前が。見間違いかと思って、左手で目をこすってみる。個性的で、妙に読みにくい筆記体だけど、確かに、確かに、ママの名前。頭が重い。記憶がはっきりしない。眠れなくて飲んだ睡眠誘導剤の副作用かなぁ。そう思いながら、ぼやけた頭でアタシは手を伸ばしたまま時計を見つめる。何か引っ掛かるのだけど、思い出せない。

 見つめていた時計の秒針が三度時計板の上を回ったころ、アタシの頭の中で引っ掛かっていたものの一部が、転げ出た。

 待てよ、今日、アタシ、何か朝から予定があったような。そう思いだして、そっとベッドから抜け出す。布団で眠るレイを起こさないように注意しながら、学習机の一番上の引き出しを開け、スケジュールの確認のために手帳をとりだそうとした。中にあったのはA4サイズの封筒。アタシの通う第三東京市立第壱高等学校の校章がロゴ代わりに入った事務封筒。夕べ、ミサトの部屋に呼ばれて、手渡されたもの。中には学生寮への入寮申込書一式。それを見た瞬間、白い靄のかかった頭の中が一気に晴れ渡った。

『最後まで保護者として責任とれなくて……ゴメン』

 そういってミサトは土下座した。

 最後まで責任とれないのなら、最初からするなぁ! とは口に出さず、違う、アタシはその時完全に頭が真っ白になって、何も考えられずにいたんだ。

 いま、思い直してみれば当然のこと。当たり前。だけどアタシは今の生活、無責任な保護者と、すべてを任せっきりなアイツと、お邪魔な侵入者との家族ゲームが、高視聴率なソープ・オペラのように延々と続くと。もちろん主人公はアタシ。

 でも、現実は……世界はそうじゃなかった。

 バカみたい。アタシってバカみたい。血を吐いて、内臓の、体の一部を失ってまで学んだ当たり前のこと『世界の中心はアタシじゃない』という真実をすっかり忘れていたなんて……アタシがいちばんバカ。

 頭が真っ白なまま、ミサトのいいわけとこれからの話を聞いて、気持ちの整理が出来ないまま、まるで幼児がふてくされるように、ベッドに入って、シーツの中に潜り込んで、明日目が覚めたら今日の話は全部うそでした。もしくは、朝起きたらすべて夢でした。なんてご都合主義なことを考えながら、目を閉じても眠れるわけが無く、無理やり眠ろうと睡眠誘導剤を飲んだのが夕べの出来事。

 書類の入った事務封筒と、手帳を持って、アタシは布団の中のレイをまたぐと、ベッドの上に腰を下ろした。

「帰ろうかなぁ……」

 思わず口からこぼれた言葉にアタシ自身がいちばん驚いた。どこにアタシは帰るというのだろ。生まれたのはThe United States of America.育ったのはFederal Republic of Germany.そして今いるのはここ、来年にはこの国の正式な首都となる第三新東京市。

 アタシが生まれた国は、そこで生まれたというだけで、国籍をくれたけど、それ以外は何もしてくれなかった。

 アタシが育った国は、アタシの父が国籍をもっていたというだけで国籍をくれた。そして、父と母が丘の上で永遠の眠りについた後、アタシに偏った知識と偏ったプライドと、ねじ曲がった存在理由を与えてくれた。

 アタシが今いる場所。第三新東京市。ここでアタシは世界の中心から蹴り落とされ、プライドという服をはぎ取られたうえに、現実という名の冷たい刃で切り刻まれ、体の一部を失いながらも、二つのものを奪い取った。縄張りと、アイツ。

 アタシが帰る場所は多分ココなのだろう。父と母の眠るあの丘の上じゃなくて。

 でも……

 優しい音がする。聞きなれた音が聞こえてくる。毎朝、毎朝無理やり聞かされるオルゴールの音がする。When You Wish Upon A Star.カレイドスコープを模した目覚まし時計が目覚める時間だと語りかけてくる。

 何しようとしていたんだっけ、アタシ。そう、そうよ、今日のスケジュール。確か今日は……。慌てて手帳を開く。あちゃぁ、今日、早出じゃん。付属病院で定期検診の後、リツコとのカウンセリング。

 再度時計に目をやる。手帳の約束時間と見比べる。まずぅ、夕べ睡眠誘導剤なんて飲むんじゃなかった。検査結果に影響が出るって、説教確定してるのに、遅刻なんてしようものなら猫耳ぐらいで済ませてもらえない。

 アタシは慌てて立ち上がると、急いで部屋から出ようとして、何かに足をぶつけた。まずぅ、レイをふとんごと蹴飛ばしちゃった。起こしちゃったかなと思いながら、タオルケットをかけ直そうとして、手が止まった。レイの頬にわずかに残る涙の跡。

 そっか、アンタも、アンタもアタシと同じなんだ。

 タオルケットをかけ直すと、足音を忍ばせてアタシは部屋から出ていった。

 中身がほとんど空っぽな通学鞄とともに校門をくぐると、四時間目の終了を告げるチャイムが鳴った。グラウンドの隅、バスケットコートの周辺で、体操服の集団がクモの子を散らすように行動し始める姿をちらっと横目で見ながら、アタシはグラウンドを横切り教室へ向かう。

 靴箱の中には相も変わらず数通のラブレター。つまみあげてごみ箱に捨てて、アタシはちょっと速足で階段を駆け上がる。

「おっはよ」

「あ、アスカ、重役出勤」

 鞄を机の上にほうり投げると、アタシは女の子三人でお弁当つついている所に割り込んだ。

「何か変わったことなかった」

「べっつにぃ」

「アスカこれ」

 ヒカリから手渡されたのは、アタシのお弁当箱。

「ダンケ。でもなんでヒカリが」

 近くのイスを引き寄せて、ヒカリの横に場所を確保。

「碇君に渡してくれるように頼まれたの」

 アタシは弁当箱を開きながら、ヒカリに声をかけた。

「で、今、あの馬鹿はどこにいるわけぇ」

「三馬鹿トリヲプラスワンなら今ごろグラウンドじゃないかなぁ。アスカぁ、サンドイッチ一個ぉ」

 すがるような口調で答えたのは、正面のマナ。アタシがつまんだサンドイッチに彼女の視線がくぎ付け状態。

「ぜーったいイヤ、もったいないもん。第一アンタには防腐剤がいっぱい入った焼きそばパンが、お・に・あ・い・よ」

「くぞー、私だって、私だって……ぐれちゃル」

 勝手にすねたマナは無視して、サンドイッチを頬張る。おいしい。

「相田さんと鈴原さん渚さんの三人に引きずられていきましたから間違いないと思います。そろって早弁してましたし、学級対抗のレクリエーションマッチも近いことですから」

 斜め前のマユミが物静かに口を挟む。

「バスケットだっけ、あの馬鹿達この暑いのに元気よねぇ」

 アタシはそう感想を述べると、二つ目のサンドイッチを頬張りながら、窓の外へ視線を向けた。

 うわさ話とファッションと、人気ドラマの展開の批評と予測、今週の占いに意味のない言葉遊びに参加して、楽しいけど心はちょっと。でも、何だか落ち着く感じ。今この場に、この教室の中に、レイもシンジも居ないことを神に感謝しながら、ミサトとリツコがアタシの心にもたらした衝撃から目をそらす。

「ところで六時間目の古文、実力判定の小テストですけど……大丈夫ですか」

 マユミのよそよそしい小さな声が、ダイエットの話で盛り上がっていたその場の空気を一瞬にして変えた。

「げ」

「まじぃ」

「忘れてましたね」

 最悪、何でこんなときに。まずーぃ、非常にまずい。古文担当のインケン森口がにっこりしながら課題の山を出す光景が瞬時に浮かぶ。

「ヒカリ」

「マユミぃ」

 アタシとマナの声が重なる。

「ノート貸してぇ!」

「いいか、二次方程式の一般形、すなわちax2+bx+c=0を因数分解して解の公式をちゃんと導けるようにしておけよ。解の公式を丸暗記するだけじゃ全く意味がないからな。テストに出す。さて、次に……」

 数学の山中のだみ声が響く中、アタシはヒカリから借りた古文のノートで内職中。でも全く何も頭の中に入って来ない。さっきから、午前中にリツコが話したことが頭の中で駆け回っている。

『白衣を脱ごうと思って』

『今度ネルフで新しいプロジェクトをスタートさせるの。今後そちらに全力を傾けるつもりだから、仕事の整理をしたまでの事』

『I need You.』

 カゴの鳥。ほんとは違う意味かもしれないけど、アタシはネルフというカゴの中にこれからずっと捕らわれ続けるのは、明白な事実だと思う。もし、アタシが将来この町を離れて、どこかの企業にOLとして就職したとして、もっともそんな未来像なんてちょっと想像できないけど、ネルフなり、この国の政府機関なりの身辺警護という名の監視の目がつきまとうことは間違いない。なら、このままリツコの提案を受け入れて、もっとも、徹底的にアタシに有利になるように交渉するつもりだけど、将来決めちゃったほうが良いかもしれない。でも……

 学校……やめようかな。

 いい考えかも。リツコの話了承して、学校やめて、どこかのマンションで一人暮らし始めて、雑用その他もろもろは、今まで通りアイツに……妄想のたぐいだわ、これって。

 顔を上げて横に動かして、教室の一角に目を向ける。ヒカリかぁ、彼女今家がごたついてるらしいし。視線を動かして別の一点を注目。寮生の鋼鉄は二股状態だっけ、男の子二人に言い寄られてる贅沢もの。でも彼女いわく「本命は別。でも鈍いから振り向いてくれなくて、頭の中ぐちゃぐちゃ」ってため息ついてたの知ってるし。マユミはマユミで、新聞ざたのスキャンダルに父親が巻き込まれてる最中だから……ため息一つ。誰も相談相手に向かないよね。

 机の上に両肘ついて、天井見上げて、ついでとばかりにシャーペンを鼻と上唇の間に挟んで、唇つんと突き出して、ナニやってるんだろ、アタシ。そう思って視線を下げると目に入るのは、ぽややんで、三馬鹿トリヲプラスワンの一角で、同居人で、下僕で、アタシに惚れてて、ヤっちゃったお相手。

 アイツには帰る場所あるんだよなぁ。アタシと違って血縁いるんだよなぁ。心底嫌ってるらしいけど。どうするんだろアイツ。

 机の中に手を入れて、携帯電話を握り込む。親指だけのタッチタイプでショートメールを発信。するとアイツの肩がびくっと震えて、周りをきょろきょろ見渡して、おっかなびっくり下を向いて、アタシの方をちらっと向いた。もちろんアタシは知らないそぶり……ちょっと待った、待ちなさい、待ちなさいよ。アタシはいきなりパニックになる。『話がある。放課後屋上で』って打ったけど、面と向かってアタシアイツに「これからどうするの」って話をするのぉ、そうなったら絶対「アスカは?」って聞かれることは明白なわけで……無理だ。無理よ。無理無理。今アタシ混乱してるし、パニックだし、精神的に不安定だし、結論出てないし、どうなるかわかんないし、頭の中真っ白。

 間抜けなアタシが真っ白な灰からよみがえったのは、六時間目の終了を告げるチャイムと同時だった。

 丸い給水タンクの延びた影を見つめながら、コンクリートの壁に背中を預けて、右横の階段と屋上をつなぐ、ごつい鉄のドアが開いてあの馬鹿が現れるのを待つ間、アタシは頭の中を駆け巡る言葉を一つにまとめることが出来ずにいたりする。

 逃げ出せばよかったかなぁ。今の率直な感想。逃げ出したところで、行く当てって全くなくて、帰る先は今はあのマンションの一室しかなく、そうなるとどうしてもアイツと顔を合わせなきゃなんないわけで、顔を合わせれば話をしなきゃいけなくなって、すると絶対これからどうするかという話題に触れなきゃならないから……ため息。

 足を引き寄せ、膝を抱えて、ドアの方を向いたまま膝の上に頭を乗っけると、長く延ばした髪がくすぐったく感じる。この髪、短く切ったらアイツどんな顔するかなと想像して、やめた。レイと一緒はやだ。うん、絶対やだ。何度目だろう、ため息。

 錆びついたものが擦れる独特の嫌な音を立てて、ドアが開いた。慌ててアタシは足を投げ出す。

「遅いじゃない」

「ごめん」

 情けなく謝るアイツには目を向けず、アタシはスカートをはたきながら立ち上がった。アイツの横を黙って通り抜け、転落防止のフェンスまで歩く。どう話を切れだしていいのかわからなくて、いつもより早い鼓動の音に戸惑いを感じながら、これ以上先にいけない場所まで来ると、うつむいたまま振り向いた。

「……どうするの」

 声が出なかった。

「どうするのよ」

 二度目は小さくだけど声が出た。

「え」

 間抜けな返事が返ってきた。キレた。

「だから、これからどうするのよ」

 ちょっと涙声だった。

 声が聞こえてくる。意味をなさないだみ声が風に乗ってグラウンドの方から聞こえてくる。きっと野球部の部員達の練習中の掛け声。それに混じってはしゃぐ声が聞こえてくる。これはきっと下校中の帰宅部の連中。でも、聞きたい声は聞こえやしない。

 何故だろ、震えてる。視線の先には、履いてる靴と靴下とスカートの一部と小刻みに震えてるアタシの足。

 聞かせてよ。返事してよ。何か言ってよ。いつものように間抜けな声聞かせてよ。耐えられない。こいつアタシのことなんてどうでも良いと思っているわけ。何で黙ってるのよ。馬鹿の癖に、馬鹿の癖に、馬鹿シンジの癖にぃ。

「あ」

 何。

「アスカは……どう……するの」

 あ、アタシぃ。

「帰っちゃうの」

 どこへ。

「ど、ドイツに」

 ……キレた。

「何でアタシがドイツに帰んなきゃいけないのよぉ!」

 気がついたら叫んでいた。

「バッカみたい、何でアタシがドイツに帰んなきゃいけないのよ。理由ないじゃん」

 フェンスを背もたれにして、アタシとアイツは打ちっ放しのコンクリートの上にしゃがみ込んだ。風が心地いい。

「だって、アスカだけがミサトさんの部屋に呼ばれて出てきた時に、書類らしきもの持ってたし、その時真っ青な顔してたし、そのまま部屋にこもって出てこないし、朝起きたらミサトさんもアスカもいなかったし、レイに聞いたら「知らない」って云うし、多分ネルフだとは推測したんだけど、何故呼ばれたかわからなくて、それでもしかしたらと思っちゃって、そしたらアスカが深刻な顔して屋上にいるから、それでそれで……」

 前言撤回。鬱陶しくなってきた。

「ほっんとアンタ馬鹿だわ。勝手に勘違いして、勝手に不安になるなんて。アタシに一言聞けば済むことじゃない」

「だからさっき聞いたんだけど」

「なんか云ったぁ」

 軽くシンジの頭をひっぱたいて、プイっと横を向く。馬鹿シンジが、馬鹿シンジが、馬鹿シンジが。無性にいらいらして腹立たしいったりゃありゃしない。

「ところで、アスカはどう……するの」

「どうって、アンタ何聞いてたわけぇ。ドイツになんか帰んないわよ」

「いや、そうじゃなくて」

「へ」

「どこで暮らすの」

「アタ、アタ、アタ、アタシは……たぶん……女子寮」

 つっかえ、つっかえ、途中で舌を噛んだ後、最後は擦れるような声でアタシは答えた。

「ほ、ほら、アンタが云ってた書類ってこれよ、これ」

 今度は必要以上に大声で喋っているような気がする。ああ、もう何でコノ、コノ、鞄って開かないのよ。留め金壊れているんじゃない。何慌ててるのよ。何で頬が暑いのよ。何で汗がたれてくるのよ。焦って、慌てて、指ちょっと金具で引っかけて、ようやく鞄を開けて例の書類をとりだすと、シンジに手渡した。

「み、ミサトがさあ、手配したらしいんだけど、アレいわく、やっぱりアスカも女の子だから一人暮らしってわけにはいかないっしょ。って」

 アタシなんで、喋りながら両手振り回しているんだろ。

「は、初めはネルフの官舎にするつもりだったらしいんだけど、あ、空きが無いらしくて、そ、それに、ミサトが云うには、学校の女子寮を、た、体験しておくのも、人生経験だと思うからって、こ、コッチにしたって。ま、全く身勝手よね、あの酒のみアザラシってばさぁ」

 アタシ、何しゃべってんだろう。い、いつ、アタシったら学校の女子寮に入るって決めたのよ。昨日から誰にも相談できずに鬱々としていたのは何だったわけ。そ、それより、いいの、ホントにいいの、こんなことしゃべっちゃったら、決定事項になっちゃうんじゃないの。どうする、どうするのよ、アイツったら、アイツったら、アタシの話疑うなんて絶対しないと思うし、このままだと、このままだと既成事実に……決めたぁ!

「つ、つまり、アタシはココの女子寮に入るってわけよ。わかったぁ、理解したぁ、アンタが心配することなんてこれっぽっちも無いんだから」

 決めちゃったらなぜかすっきりしちゃった。

「なによ」

 アイツがアタシを見ていた。

「なんか文句あるわけぇ」

 再び軽くシンジの頭をひっぱたいて、アタシはプイっと横を向く。自分がバカだと思えてくる。

「アンタはどうするのよ」

 横向いたままアタシは聞いた。

「帰るんでしょ」

 嫌みっぽく言ってみた。

「一人暮らししようと思って、まだ誰にも言ってないけど」

 カチンと来た。腹が立った。偉そうだと思った。馬鹿シンジの癖にと思った。ムカついた。

「なんでよ。アンタ血縁いるんでしょ、父親いるんでしょ、帰ればいいじゃん!」

 気がついたら、アタシの鼻とアイツの鼻が触れていて、両手はアイツのシャツの襟を握りしめてて、アイツの目がちょっとおびえてて、慌ててアタシは手を放した。

「ごめん」

「いいんだ」

「だから、ごめん」

「いいんだ」

「だから謝ってるでしょ、ごめんって」

「もう、父さんのことはいいんだ」

 何か食い違ってる気がする。

 風が冷たくなってきた。日没まであとどれくらいだろう。一時間、それとも三十分。フェンスが背中に食い込んでちょっと痛いけど、アタシはその場に足を投げ出して、空を見上げながら、シンジの話に耳を貸していた。

「この前、母さんに会いに行ったんだ。行きがけに副司令から教えてもらった、母さんの好きだった花を両手に持って。広い共同墓地を歩いていたら、母さんの墓がある場所の前に誰かが立ってた。父さんだった。父さんが、先に来てた。先に来て、ポケットに両手を入れたまま、だまって、僕が近づくのも無視して、じっと母さんの墓を見つめていたんだ。

 僕も父さんのこと無視して、今ここに誰もいないって言い聞かせて、母さんの墓に花を供えて、そのまま立ち去ろうと思ったけど、出来なかった。思わず口にしちゃったんだ「母さんを……裏切ったな」って。

 殴られたよ。本気で。奥歯が折れたぐらいだから。血の味がして、悔しくて、立ち上がって、睨みつけたら、父さんと目が合ったんだ。初めて見る目だった。あんな目をした父さん見たこと無かった。怒ってるって感じじゃなくて、言葉じゃ言えないけど、父さんうつむいて、視線そらして、一言僕に、「すまなかったな、シンジ」って。

 何も思わなかった。だから何って感じで。うれしくも、悲しくも、何もなかった。

 その場を立ち去っていく父さんの背中を見つめながら、なぜか僕の目には父さんが小さく見えて、いつもより、いつもより小さく見えて……もしかして父さん、母さんに謝っていたのかな、母さんの前で泣いていたのかな、あの目はそういう意味だったのかなって、そう思えたとき、何か付き物が落ちたような気がしたんだ。

 父さんのこと嫌いだと思う。昔より、今の方が嫌いだと思う。でも、以前のように嫌いだって言い切れないんだ。うまく言えないけど」

「そんなことあったんだ」

 相変わらず空を見上げたまま、感想らしきものを一言。アタシの前で血縁、親との話をするなんて。心の底に黒いモノが生まれた。

「うん」

「これからもめるわよ、アンタ覚悟できてる」

「……自信ない」

「手伝ってあげない」

「僕のわがままだから」

 拒否したら、泣きつくかなって思ったのに。期待外れ。アタシの中で心の底の黒いモノが大きくなる。

「アタシがなぜ、ドイツに帰らないかわかる? 帰っても誰もいないのよ。両親も、親戚も、友人も、おかえりって言ってくれる人は誰もいないの」

 顔を上に向けたまま、目だけ動かして、シンジを見た。驚いたのか間抜けな顔がさらに間抜けになってた。

「アタシが物心ついたころの話。アウトバーンって知ってるよね。最高速無制限の高速道路。そこである夜トラックが横転したの。そこに後続の車が追突。運転していた男と助手席の女は即死だった」

「それって」

「まだ、話半分。運転してたのはアタシの父親、でも、助手席にいたのはアタシの知らない女。警察からの通報を聞いた母さんは、泥棒猫って叫んで、家の中をめちゃくちゃにして、アタシの首絞めて、首を吊ったの。残されたアタシはじっと母さんが揺れるのを見てた。一晩中。

 二人の墓は今も共同墓地の丘の上にあるわ。神の前で永遠の愛を誓ったんですもの、もちろん隣同士仲良く眠ってるはずよ。これで話は終わり。二人は幸せに暮らしました。なのにアタシには目覚まし時計一つしか残してくれませんでした」

「あ、あの、そのぅ、ご、ごめん。知らなかった」

「当たり前よ、今まで誰にも話したことないもの。知ってたらアンタをこの場で半殺しにしてたかもね」

 さりげなく言って、空を見上げた。風が、さっきより冷たくなっていた。一番星が輝いていた。独りぼっちで、輝いていた。

 しばらくして、シンジを見たら、アイツ、膝を抱えて、何か遠くを見ていた。

「なぁに考えてんのよ。もし、アタシに同情してたり、やっぱり父さんと仲直りしようなんて考えているんなら、殴り倒すわよ」

 そしたら、シンジのやつ、相変わらず膝を抱えたまま、顔だけアタシの方を向けて、「寂しくなるね」って、笑って言った。

 心の底の黒いものが消えて、別のものが沸き上がってくる。

 帰ったとき、『おかえり』って返事が返ってこなくなるねって。『いってきます』と言って、『いってらっしゃい』って返事が返ってこなくなるねって。寂しそうな笑い顔だった。

 アタシ、怖くなった。これから生きていくことが怖くなった。

「……うん」

 うなずいたふりして、表情を隠した。足ががたがた震えてる。寒い、日が暮れて、風が強く冷たくなったから? 違う、そうじゃない、そうじゃなくて……

「ア・ス・カ?」

 ダメ、もうダメ、イヤ、イヤ、イヤったらイヤ……押さえきれない。

「アタシ、アタシ……一人は嫌ょ」

 完全に涙声。

 差し出された白いハンカチ。シンジの顔、見れない。泣き顔なんて見せたくない。

 アタシ、アンタにココにいて欲しい。

 How I wish, how I wish you were here.どれだけ、アンタにいて欲しいか。どれだけ──どれ程、アタシがアンタにココに──アタシのそばに──いて欲しいか。朝も、昼も、夜も、ずっと。

「……責任……とって……よ……バ、カ、シン……ジ」

 境界線みたいな身体がじゃま。身体なら一ッコでいい。愛してる。愛なんて、恋なんて、単語の意味しか知らないけど、アタシ、アンタをアイシテル。他人だからアイシテル。ゼッタイ、ゼッタイ、アイシテル。

 肩を抱かれて、風に吹かれて、手のひらと手のひらが重なり合って、指と指がからみあって……SEXより気持ちいいKiSS.

「帰ろうよ」

「ちょい待ちなさいよ、もう」

 アタシの先を歩くシンジの背中、血がにじんでた。汚れたシャツの上からわかるくらいに。

***

 ライスシャワーの集中豪雨の中、ブーケが空を舞い、高くのばしたアタシの右手に収まりかけた瞬間、それは横からかっさらわれて、四捨五入すれば三十路の癖に童顔なのを利用してサバ読みまくってるアタシの主治医の物になった。それが、ちょっとどころかひじょう〜に悔しくて、ドサクサ紛れに思いっきり足を踏んでやったら、笑顔で足の甲をピンヒールの先で踏み返された。完全に頭にキて思わず「いかず後家になっちゃえ」と呪いの言葉を投げつけた日から約一ヶ月。

 披露宴が終わり、引き出物が配られ、最後の最後、出口となった通路に新郎と新婦が立ち、招待者たちが一言二人に挨拶をしていく中、アタシのせいでちょっと千鳥足のシンジに肩を貸しながら、アタシは登場シーンにゴンドラを使った本日のヒロインと罵詈雑言飛び交う舌戦をぶちかました。翌日、空港にてハニームーンという美名の裏で子孫繁栄生殖行動に励むであろう二人を見送る際、こともあろうにレイから、アタシとシンジがなぜ今日も昨日と同じ服だということを追及された揚げ句、何かに気づいたミサトに、出発までの間、昨日の逆襲とばかり苛められ、からかわれた日から約一ヶ月。

 シンジはアタシに話してくれたように一人で生活を始め、レイは新婚家庭を嫌ってマヤのところへ戻り、アタシはリツコとその旦那から数年のモラトリアム期間とある密約を奪い取ると、高校の女子寮の二階、八畳一間ほどの一室を縄張りとして、新しい生活を始めて一ヶ月。

 初めの二週間は、栄養価とバランスだけはとれているけど、ただ、ただ、ただ、ただそれだけでワンパターンな寮の夕食と、良い意味で純和食、ほんとは全く手間のかかっていない、たとえば、炊いただけのご飯と、お湯で味噌を溶いて、化学調味料で誤魔化した味噌汁と生卵に海苔、そしておしんこなんぞというふざけた朝食に怒り狂いながら、寮内の人間関係の把握と門限だのなんだのといった規則に神経をすり減らすことで、過ぎていった。

 次の一週間は最悪。アタシの悪いところが全て出た。二面性、ペルソナ。突っ張って、強がって、大丈夫なふりして、学校ではアイツのこと、ワザと無視するそぶり見せて、アイツが気を使ってるのわかるのに、あえて意地をはって見せたりして、部屋に戻って、一人膝を抱えていた。

 その次の一週間は……さすがにやばいと逆襲。

 そして今日は土曜日。明日から連休。お気に入りのワンピースを身にまとい、右手に洋服とオシャレなランジェリーとタオルとバスタオルとその他もろもろ御泊まりセットを突っ込んだ旅行バックぶら下げて、陰謀と謀略と嘘と学内ネットワークへのちょっとした介入という不法行為ぎりぎりの作戦行動の末、なんとかせしめた外泊許可証を錦の御旗に、女子寮の玄関を後にしたアタシは、期待で高鳴る胸のポケットから、極秘ルートで入手した一枚のカードキーを取り出し、表札を再度確認して、玄関の扉を開けた。

 中を見てアタシ……

後編 絶句…(下)

「な、なに、なによこれぇ」

 フリーズして、リセットして、再起動して、割り込みかけて、叫んだ。だって、だって、だって土間にも廊下にもごみとホコリ。途中で買ったスリッパが汚れるぅ。それに、段ボール箱が転がっていて、その中に、げ、紙くずとか雑誌とか乱雑に突っ込んであって、どう見てもごみ箱代わりにしているとしか思えない。

 冗談でしょ。横のドアを開けると洗面所。いや〜な予感がしながらも洗濯機の蓋を開けると……見るんじゃなかった。

 慌てて飛び出て、とにかくいったん荷物を置こうと左右を見渡す。ゲ、ゲゲ、キッチンの洗い桶には、鍋やら、汚れたお皿やら、コップやら、いろんなものが山積み状態。おまけにリビングには、空のペットボトルに一升瓶。ゲーム機。コンビニの開き袋。DVDのケース。漫画に週刊誌に、ミサトなら『おっとこのこだものねぇ』なんて云いそうな、その手のたぐいの本が数冊。

 いったい何があったっていうの。アタシの知ってる馬鹿シンジは、きれい好きでまめな馬鹿シンジは何処に、何処に消えたわけよ。

 アタシ、今にも、き・れ・そ・う になりながら最後の部屋のドアノブに手をかけた。

 力いっぱい開く。ドアと壁がぶつかって大きな音を立てるけど、無視。上下左右を見渡すと、八条ほどの部屋。フローティングの床に絨毯。イスと学習机と大きめの本棚。チェロのケース。窓にはブラインド。そしてシングルベッド。その上には人一人分の膨らみ。

 時計を見ると、午前十時まで後八分というところ。

 アタシ、指を慣らしながら、ゆっくりとベッドに近づく。白い枕の上に黒い髪。夢の中をお散歩中って訳。上等よ、上等じゃない。拳、それとも蹴りかしら。肘や膝、踵って選択肢もアリよねぇ。けど、ここはやっぱり……

 にっこり笑って。ベッドの端にひざまずいて、手を伸ばして、頭を近づけて、頬に触れて、髪をかき分けて、耳たぶをもてあそんで、指で挟んで、耳元で、

「起きろ! 馬鹿シンジぃ!!」

 叫ぶと同時に思いっきり耳を引っ張った。

 あの馬鹿が悲鳴を上げて、何が有ったかわからず、左右に頭を振る間に、アタシはベッドの上から降りて腕を組んで、あの馬鹿を見下ろす。

「ようやくお目覚めぇ、馬鹿シンジぃ!」

「あ、あれ、あれ、な、なんで、あ、アスカ、何で」

 間抜け。間抜けな顔がもっと間抜け。

「一つ聞きたいんだけどいいわよね」

「何で、何でアスカが」

「質問してるのはアタシ!」

 頭ごなしに強く言って、主導権握って、にっと笑って、尋問開始。

「アタシの知ってるこの家の家主は、家事についてだけは”無敵のシンジ様ぁ”だったと思うけど、記憶違い? それともアンタ誰? 別人?」

「そ、それは……」

 さ〜て、どんないいわけ聞かせてくれるのかなぁ。

「ゆ、夕べ、トウジとケンスケとカヲル君が来てて、それで、ちょっと、は、ハメを外しすぎちゃって、徹夜しちゃって、そ、それで、片づけるの後にしようと」

「一晩でこんなになる訳ないじゃない。ここ、まるでミサトの部屋みたいじゃないの」

「それ、ちょっと、言い過ぎだと、思うけど。ついそうなっちゃうんだよ。一人だと、一人しかいないと、つい、おっくうになって、いいや明日でって思っちゃって。それで、まあ」

 あきれたぁ。ここ、あの馬鹿どものたまり場になってたなんて。最低。

「それに、きれいに片づいていると、何だか寂しくて。散らかってると、懐かしくて、アスカやミサトさんが居るように思えて、たった一ヶ月でおかしいよね。これってホームシックて言うのかな」

 ば〜か。ホントこいつ馬鹿シンジ。でも、ちょっと、安心。寂しかったのアタシだけじゃなかった。

 アタシ組んでた腕を下ろして、ベッドの端に腰掛けた。

「……散らかしに来てあげるわよ。アンタの部屋アタシが散らかしに来てやるって言ってんのよ。聞いてる。返事は」

 そしたらアイツ、返事のかわりに……Kiss.

 そして、アタシ……思いっきりビンタ。

「ヒゲ、剃ってよ。ちくちくして、気持ち悪いんだから」

 洗面所へすっ飛んでいくアイツ。一人残されたアタシはアイツのベッドに寝転がる。アイツの匂いが、きもちいい。

 アタシ、見知らぬ天井を眺めながら、一つのことだけ考えていた。

 ヒゲ、のばしたら承知しないからね。馬鹿シンジぃ。

God's in his heaven , All's right with the world.