胡蝶之夢

夢と現実との境が判然としないたとえ。

荘子が、蝶となり百年を花上に遊んだと夢に見て目覚めたが、自分が夢で蝶となったのか、蝶が夢見て今自分になっているのかと疑ったという「荘子{斉物論}」の故事による。

(三省堂・大辞林)

Scbroedinger's Cat.

kaz(P3pro).
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前編 Halation Ghost.

 バタバタとウルサイ足音に奇声、おまけに自己中的な音程の外れた鼻歌。どうやら無能な保護者様がようやく帰ってきたらしい。全く今何時やらと思いながら夢から現実に引き戻されたアタシは、枕元に手を伸ばした。

 ゲ、夜明け前。勘弁してよ全く。こんな時間に帰ってくるな、どうせなら日が昇ってから帰ってこい!

 そう心の中でぶうたれながらアタシは寝直すつもりで目を閉じた。だけどなぜか眠れない。気になる。気になってしょうがない。枕元の時計の音が気になってどうしても眠れない。

 アタシは再び目を開ける。天井を向いたまま手を伸ばして、うるさい目覚まし時計をむんずとつかむと、そのまま床へ投げ捨てようとして……あれ、アタシこんなアンティークな目覚まし時計持っていたっけ?

 そう思いながら時計を裏返すと、そこにははっきり”REI AYANAMI”の文字。な〜んだレイのかぁ……はぁ? レイってなんで、なんでレイの、ファーストの、優等生の目覚まし時計がここにあるのだぁ。レイの物がここにあるのはアタシとレイが同居しているからであって、ち、ちょっとまて今アタシとレイが同居してるからって納得しかけたけど、アタシが同居しているのはバカシンジと上官であるミサトとであって、それもネルフから命令を受けたから嫌々仕方なく……そうじゃないぞ、アタシが退院後、保安上の理由から今まで通りここで暮らすことになって、その後マヤのところで暮らしていたレイが諸般の事情でここにやって来て……はて? 退院後ってアタシ何時入院したんだっけ。

 ううむ。あまり思い出したくないけど、第15使徒との戦闘でアタシは瀕死の重症。一ヶ月近く生死の間をさまよった後に、意識を取り戻したら、すべてが終わっていたという、アタシとしてはとんでもなく間抜けで不本意な状況になっていたんだっけ。

 そうそう、それで、アタシったら腹立ち紛れに、最終使徒との決戦で入院したシンジを、動けないことをいいことにリハビリと称してさんざんいじめたんだけど、そうしたらとんでもないしっぺ返し食らったんだ。

 あの日はリハビリのプログラムを終えたあのバカを車イスに乗っけて病院の敷地内に連れ出したんだよね。人気のないところに置き去りにして帰ってやろうと思っていたんだけど、何を勘違いしたのかあのバカったら……今思い出しても死ぬほど恥ずかしくて、そのくせとっても幸せになれて、でもあの時のシンジったら卑怯だよ。アタシ、アタシ、あいつの前で、あいつの告白聞いて、アタシの病室に毎日来てたって、アタシを守りたいから戦ったって、アタシのこと好きだって真剣な顔でいってくれて、アタシ、アタシ、自分でもどうしていいかわからなくなって、逃げ出そうとして。足が動かなくて、気がついたらあいつを車イスの後ろから抱きしめてて、なぜか涙が止まらなくて、何度も何度もあいつの耳元でありがとうって繰り返して、繰り返して……まさかこのアタシが……

 アタシは時計を枕元に戻すとシーツの中に潜り込んだ。おまけとばかりに枕もシーツの中に引きずり込む。

 結局いつもより寝過ごした揚げ句に、レイに起こされ、また借りを作ってしまうなんて……最低。

***

 最低な朝を迎えたときには最低なことが続くもので、高校には遅刻ぎりぎりで到着予定の計画が見事に破綻。校門前で生徒手帳を取り上げられて、お説教コース決定になっちゃったとか、抜き打ちのテスト、それも古文・漢文というアタシにとって最も装甲板の薄い所に急降下爆撃を受けて、見事撃沈。おまけにお昼休みの井戸端会議じゃあ、霧島・山岸の二人に日曜日の件で、女の友情より男をとったってさんざん突っ込まれて、なだめるのに大変だったとか、同じ日にデートしていた――シンジと一緒に目撃したから間違いない――ヒカリはいつの間にか逃げちゃったし。

 でも、いちばん最低だったのがミサトが有給休暇ってシンジに告げてなかったおかげで、シンジは材料が足りないとつぶやいた結果、夕食のメニューが変更されちゃったこと。せっかくのジャーマンハンバーグが作り置きのカレーに変わってしまった。

 とにかく今日アタシに降りかかったすべての災難は全部ミサトの責任。アタシがアタシの責任でそう断言してやる。

「喜べ、諸君。今夜は重大発表を行う」

 うるさいなぁ、ミサトは黙ってビール飲んでりゃいいのよ。そう思いながらアタシは前に座る我が家の主夫に声をかけた。

「シンジぃ、お醤油取って」

 するとそこに割り込み。

「お兄ちゃん、ソース取って」

「ウスターソース?」

「うん」

 アタシの前のソース差しが宙に浮いた。

 こらぁ、シンジぃ。アタシよりレイを優先するのかぁ。下を向いてテーブルの奥で腕を震わせながら親指を握り込むアタシ。一度だけ深呼吸して面を上げると、げ、レイの悪趣味。絶対やめてぇ、見ているだけで食欲が失せる。

「ちょっと、レイ。サラダにソースかけるのやめてよ」

「なぜ?」

 わかりきってること聞かないで、このぉ非常識娘がぁ。

「だから、あんたの好みを押しつけないでっていってるの」

「なぜ、押しつけになるの」

 こいつわ!!

「ポテトサラダにソースをかけるならねぇ」

「レイ、取り皿に自分の分を取ってからソースをかけるようにしてくれないかなぁ。そうすればアスカも怒らないと思うから。それに」

「それにって、お兄ちゃんも非常識と思っているのね」

「そんなこと無いよ、その辺は好きずきだけど、アスカはカレーにお醤油垂らす方が好きみたいだし、僕は福神漬けよりらっきょうの方が」

「シンジぃ、カレーにお醤油垂らすののどこが非常識っていうわけ。あんたこそカレーの中に生卵入れてかき混ぜて食べるのやめてよね。見てるだけで食欲なくすじゃない」

「これは、トウジがこうやって食べるとうまいっていってたから、ちょっとやってみただけだよ。気にさわったらゴメン」

「……もう駄目なのね……」

「だあ! 私の話を聞けぇ!!」

 切れたミサトの声と手にしていた缶ビールをテーブルにたたきつける音が響き渡った。そして……

「何よあんたたち、なに、何なのその目は」

 アタシは殺意のこもった目でミサトを睨み付けた。どうやらシンジもレイも同じらしい。当然よ!

「ミサト!」

「ミサトさん」

「葛城三佐」

「いったい私が何をしたというのよ、そんな目で私を見ないでよ」

 アタシたちは睨み付けたままテーブルの一点を指さす。見事につぶれた缶。テーブル上に広がる黄金色の液体。あ〜あ、対面にいたレイなんて髪の毛にまでかかっちゃって。

「ごみん」

「ところでミサトさん、重大発表って何ですか」

 テーブルの上がようやく一段落して、いったん洗面所に消えたレイが席に着きなおしたら、今度はシンジがミサトに声をかけた。放っておけばいいのに、ど〜せくだらないことなんだから。

「じつわさぁ、ちょ〜ち恥ずかしいんだけど」

 ミサトの目がアタシたちを順番に見つめた後に立ち上がって声高く宣言した。

「私こと葛城ミサトはこのたび縁あって結婚することになりましたぁ、きゃ〜はずかしぃ」

 なにが恥ずかしいだぁ、ったく。おまけに顔を両手で隠して首を振って見せるなんて三十路に両足つっこんで抜けなくなったオバンのやることかよ、ケッ。

「もちろんお相手は、ご存じ加持リョウジ氏であります。言っちゃった、言っちゃった。つ〜いに言っちゃった」

 あ、そ。その辺飛び跳ねてろ。

「ちなみに式と披露宴は来月の今日。場所は駅前のプラザホテル。あんたたちの席も準備してるからもっちろん出てくれるわよね、ね、ね、ね。お祝いなんていらないからさぁ」

 やっぱ、パツキンリツコの入籍で焦ったなぁ。

「おめでとう」

「おめでとう」

「……おめでとう……」

 ついでになげやりな拍手を追加。ぱち、パチ、ペチ。

「ちょっと何よ、私が決死の覚悟で告白したのにぃ。ナンなのそのリアクションのなさは、そりゃまあ突然だったから、クラッカーと一緒に花吹雪、おまけにくす玉アン〜ド横断幕、そのまま、宴会、えびちゅでカンパ〜イなんでいわないけどさぁ、せめてもうちょっとみんなで喜んでくれたっていいじゃないのぉ」

 ナニのたまってるのだか、このばか女。

 毎日毎日アタシたちのこと忘れて夜遊びにふけっていたくせに。おまけにこの間なんて結婚式場のパンフレットをわざわざリビングに解るように隠したりとか、披露宴の見積もりに対する回答のFAXをわざわざそのままにしておくとか、他人に聞けない文章の書き方とかいうハウツウ本の案内状の書き方なんてページにわざわざ折り目をつけておくとか、へったくそな作家の伏線みたいなまねして祝ってもらおうと強制するところが鼻につくのよ。

 しかしクラッカーに花吹雪、くす玉に横断幕だって、ミサトって披露宴の時スモークの中をゴンドラに乗って降りてくるタイプとはねえ。ああ、加持さんかわいそう。ここはやっぱり当日に『卒業』の逆パターン、花婿強奪でも仕掛けてやろうかしら。

 何となくちらっとシンジの方を見る。冷蔵庫からビールを出して、いじいじしているミサトへのフォロー中。レイは……見なきゃ良かった。まだビールを頭にかけられたことを恨んでるなぁ。

 に〜げちゃお。

「ご馳走様」

 アタシは席を立つと、そのまま風呂場に向かっていった。

「レィ、お風呂あいたわよ」

 一声かけてアタシは冷蔵庫へ、買い置きの牛乳パックをこじ開けてそのまま口を付ける。

「アスカ、ちょっち悪いけど着替えてこっちに来てくれない」

 声のした方を向くと引き戸の向こうでミサトが手招きしていた。いったいなんだってんだろ? アタシとしてはこの神聖な時間をじゃまされたくないのだけど。

「ちょっち散らかってるけど、勝手にスペース見つけて座ってちょうだい、あ、これ、座布団ね」

 ちょっちね、はいはい。足をほうき代わりにしてゴミを排除。差し出された座布団を床においてその上に座り込む。うげ、もう一度お風呂入り直そうかなぁ。

 アタシの前にミサトが正座。つられてアタシも正座。日頃のあの姿を見慣れているだけに、まじめな顔のミサトにアタシなんだか気後れしている。

「ゴメン」

 ななな、何よ何、何だっていうのよ。なんでミサトがアタシに土下座なわけぇ。

「ち、ちょっとミサト、恥ずかしい真似やめてよ。なんであんたそんなことするのよ。話見えないじゃん。きちんと説明してよ」

「最後まで保護者として責任とれなくて……ゴメン」

 そうか、ここ、コンフォート17マンションはアタシたちの家ではなくなるんだ。

***

 次の朝、アタシは寝不足のままベッドから抜け出した。何となく身体がだるい。そのまま部屋を出ようと、絨毯の上に敷いてある布団を跨ごうとして、足が止まった。

 体を丸めて眠るレイ。彼女の顔にアタシの陰を落とさないようにしながら覗き込んでみる。薄い唇から漏れる寝息。頬に残る涙跡。それを見た途端におへその下が重くなった。嫌な感じ。

 そっと立ち上がったアタシは部屋を抜け出す。

 キッチンではいつものようにシンジがフライパンを握っていた。その横では文化鍋がカタコトと音を立てていた。アタシは音をたてぬようにつま先立ちで洗面所に逃げ込む。

 蛇口をひねる。勢いよく水がほとばしる。手に受けた水を力一杯顔にたたきつける。二度、三度と繰り返す。

 寝間着代わりのタンクトップがびしょぬれになった。でも、手は止まらない。

 馬鹿みたい。アタシって馬鹿みたい。何やっているんだろ。

 アタシは洗面所で顔を洗いつつけるアタシを後ろから観察していた。まるで金縛りにあった時みたい。現実感が喪失していく。

 理由? 解ってる。解っているのに思考の大部分がそれを拒否している。

 嫌な臭いがした。腐った血の臭いがした。それをきっかけに分裂していたアタシが統合される。

 早い。予定は四日後のはず。アタシはあわてて引き戸をあけ、それをひっつかむと隣接する浴室に駆け込んだ。

 処理を終えたアタシは、何度も何度もためらった後キッチンの食卓へ向かった。かかとを落とさずつま先だけで歩く。食卓のアタシ専用の椅子を引く。床と椅子の足が擦れて大きな音を立てた。

 呼吸が止まった。背筋が硬直した。椅子を引く手がふるえて手元が狂った。また大きな音がした。

 その場から走り出したい衝動に駆られる。今、この場から消え去りたい。

 アタシはそっと正面を向いた。今あいつが振り向いたらどうするの、今あいつが声をかけてきたらなんて答えればいいの。心臓が早鐘のように鳴り響き、頬が妙に熱っぽい。

 エプロンをしたシンジは相変わらずフライパンをガスコンロの上で振っていた。だめだ、後ろ姿とはいえ今、アイツを見るのは辛すぎる。だからアタシは下を向いたままイスに座ると食卓の上に伏せた。

 ミサトが結婚。新婚家庭にアタシたち三人が居座るわけにはちょっとね。したがって、アタシたちはここを出ていかなければならない……でも、どこへ?

 シンジの選択肢は一つ、アイツには両親がいる。

 レイの選択肢は二つ、保護者であるマヤの元に戻るかシンジと一緒に。

 そしてアタシは……どこに行けばいいのだ?

 そもそもアタシがここにいることがイレギュラーなのだから……ああ、昨夜とおんなじ思考ルーチン。どんどん深みにはまっていく。体が重い。息が苦しい。嫌い、こんなの……イ・ヤ・ダ。

「…スカ、悪いけど」

 自分の名前が呼ばれた気がした。反射的に面を上げると、その先に猫背なシンジがアタシを見てた。

「手伝ってくれると助かるんだけど……」

 すまなそうにアタシの見るシンジ。

「いいけど」

 生返事一つ。

「で、何すればいいの」

 両手でテーブルを押し下げるようにしながら、アタシはゆっくり立ち上がった。

「う〜んと、何を頼もうか……」

 シンジは何かを探すように、左右を見回しながらすっとぼけたことを言った。ちょっとカチンとくるアタシ。

「バカァ! 人に物を頼むんなら、ちゃんと指示だしなさいよ!」

「ごめん」

「ごめんって……いいわよもう」

 アタシは何かを言おうとして止めた。シンジの目の下に大きな隈ができていることに気づいたからだ。きっとシンジもアタシやレイと同じように眠れぬ夜を過ごしたに違いない。

「ところでまだぁ、さっきから待っているんだけどなぁ」

 イスに座り直して、あえてそっぽを向き、ぶっきらぼうに言い放つ。

「ごめん」

 再びシンジがあやまった。でもアタシは聞こえぬそぶり。こんなとき素直じゃない自分が嫌になる。そしてまた堂々めぐりの自己嫌悪。

 結局この後、このよどんだ空気を作り出したミサトは起きてこず、アタシもシンジもいつもより遅く起きてきたレイも、一言も口をきかずに学校へ行くことになった。

***

「それでは今日はここまで、そろそろテストの準備をしとけよ」

「起立、礼、着席」

 アタシはイスに座った途端、机にうつぶせる。授業の合間、たった五分間の休み時間。それでもこんなときはとっても長く感じるわけで、誰からも話しかけてもらいたくないわけで……

「アスカぁ寝不足? それとも二日酔い?」

 この声はマナだな。悪いけどアタシそんな気分じゃないって意思表示してるっていうのに、無神経なやつ。

「もしかして腰でも痛いの? さては夕べシンちゃんと」

 ああ、もう。神経逆なでするな。アタシはかったるく右手を持ち上げ、どこかに行けとばかりに手を振った。

「態度悪いぞアスカ。わかったわよ、まったくぅ」

 捨てぜりふと遠ざかる足音。ああ、これでうるさいのが消えたと思ったら、

「アスカ、気分悪そうだけど大丈夫?」

 あらららら、今度はヒカリちゃんですかぁ。親切からだとわかっているのだけど、それゆえに腹が立ってくる。

「ほっといてくれる」

 顔を上げずに、ぶっきらぼうに答えた。

「わかった。けど、何かあったら言ってね」

 サンクス。やっぱヒカリは……

「碇君! またアスカと喧嘩したんでしょう。理由はともかくアスカに謝りなさい!!」

 アタシここで笑うべきなんだろうか?

 ここはアタシのモノだった弐号機のエントリープラグの中。そして表示されている風景は、記憶違いでなければ、たった一度戦闘を繰り広げ、両腕切断の後に、首を落とされるという完膚無きまでの敗北を食らったジオフロント。

 どうやら今アタシは机の上にうつぶせたまま眠っているらしい。目に見える光景からの結論。

 夢、こんな悪夢を見るなんて、アタシずいぶんと落ち込んでいるなぁ。もうあの頃のわだかまりは消えたと思っていたのだけど、深層心理の中ではまだくすぶっているなんて……

『Erst!』

 夢の中のアタシが叫ぶ。

 赤い体液に染まるアタシの弐号機。

 内蔵電源の残量は後3分と11秒。

『どをわぁぁーーーー!!』

 掛け声とともに白きEVA、量産型を地底湖に押し倒すと、肩からプログレッジブ・ナイフを取り出し、頭部に突き立てる。残り後7機。

 次の1機に目標を定め、夢の中のアタシは弐号機を駆らす。

 雄叫びをあげ、プログレッジブ・ナイフを振りおろすと量産機の右腕が宙に舞う。

 それにもかかわらず突撃してくる量産機。アタシはステップを踏んでかわすと、腕をそれの首にからめ、そのまま力任せにねじ曲げた。

 ごきっという鈍い音。首の骨を折ったという感覚。

 殺気! 上!

 今潰した量産機を盾にして、そいつの一撃をかわす。

『でぇぇぇーーー!』

 崩れた体制から蹴りを出し、相手の胸元にヒットさせる。そのままアタシは倒れ込むと、地面を転がり、潰した量産機が手にしていた武器を手中に収めた。

『んんぅーー! はぁぁぁーーー!!』

 力いっぱい手にしたものを、地面すれすれに振り回す。そいつの両足が身体から離れ、身体が重力に引かれて倒れ込む間に、アタシは立ち上がると、それの頭を踏みつぶした。

 え、なんだ、なんだこれは、こんな、こんな戦闘、アタシは知らない。アタシは、夢の中のアタシはいったいどういう状況下なんだ?

 活動限界まで後1分。

 後ろからアタシの頭をつかんでいた量産機の腕をへし折り、ひるんだスキにそいつを前から向かってくるやつへ投げ飛ばす。同時に前方へ走り出すと、アタシは体重を右手に乗せ、二体重なった量産機の胸元を抜き手で貫く。

 量産機の、EVAの、使徒のコアがつぶれる時の独特の音と感覚を右手に感じとると、力任せに腕を抜き、アタシは振り返った。あと1機。

「こ! れ! で! ラストォーー!!」

 アタシは前方にA.T.フィールドを展開。最後の1機が投げた武器がそこに衝突、不思議なことに空中で停止する。そしてそれは従来の形状からモーフィングをはじめ、まるで2本の朱に染まった針が中途半端に絡み合ったような二股の槍になると、一気にA.T.フィールドを侵食した。

「ん、どうした惣流」

 一瞬アタシは今どこにいるのかわからなくなっていた。状況を把握しようと、わずかに視線を左右に動かす。汗が頬を伝って絶え間なく机の上に落ちていく。

 ここは教室。今は授業中。教壇に立つのは数学の山中だから、2限目というところだろう。念のために時計で現在時を確認。間違いない、2限目終わるまで10分足らずって所か。

「顔色悪いぞ、おい委員長」

「いえ、一人で大丈夫ですから」

 そういってアタシは席を立った。ヒカリの目が一人で大丈夫って問い掛けてたけど、今ちょっと一人になりたかったから、大丈夫って軽く目で答えて、そのまま教室から出ていった。

 PTSDが再発したのだろうか。またあの頃のようにフラッシュバックに悩まされ、心の中を解剖されるようなカウンセリングの日々が始まるって訳。

 ブルーな気分のまま廊下を歩く。まったくこの惣流・アスカ・ラングレー様がねぇって心の中で強がりを言ってみるけど、自分が精神的な脆さを抱えてるって自覚があるだけに、なんの慰めにもならない。ついでに相変わらず下腹部が鉛を含んだように重いから、どんどん落ち込んでいくわけで、ああもういや、早く保健室に行って、精神安定剤もらって、落ち着いたら教室に帰ろう。そう思って、少し意識して歩みを速めた。

 速足で階段を下りると、ちょうど雲が途切れたのか、南向きの窓から日が差し込んできた。アタシの重くじめついた心も晴れてくれないだろうかと思って、窓越しに空を見上げる。

『殺してやる』

 そのままアタシは立ちすくんだ。

『殺してやる』

 視界が、赤く、染まった。

『殺してやる』

 焼けつくような痛み、それをかばうように片手で顔を覆う。するとアタシの意志に関係なくもう一方の手がまるで空をつかむかのように延びていく。

『殺してやる』

 心臓の鼓動と怨嗟だけが体中に響き渡る。

『殺してやる』

『殺してやる』

『殺してやる』

『殺してやる』

『殺してやる』

 延ばした腕の先端から付け根に向かって激痛が……

 授業の終わりを告げるチャイムが聞こえた。再び頬を汗が伝わって落ちていく。のどがガラついて声が出ない。怖くて、恐ろしくて、このままアタシ壊れていくんじゃないかと思えてきて、今まで積み上げてきた常識が崩れ落ちるような音が聞こえたような気がして、何もできずに立ちつくしていた。

 静まり返っていた周囲が突如騒がしくなった。訳がわからぬまま衝動的に駆け出すアタシ。

 どれだけ走ったのか覚えていない。ただこれ以上走れないと感じて、立ち止まって、肩で息して、何度も何度も床を見つめたまま、唾を飲み込んで、一息ついて、周囲を見回したら、そこは校舎の屋上だった。

 何だか一気に身体から力が抜けちゃって、その場にしゃがみ込んだ。両足を前方に投げ出し、上腕だけで上体を支えてみるけど、結局支えきれずに、打ちっ放しのコンクリートの上にまるで大の字に寝そべるような形になった。

 アタシ、どうしたのかな。もしかしてこのまま壊れちゃうかも。

 そんなことない。絶対そんなことない。いろいろあって、混乱して、アタシのいちばん弱いところを突かれて、ナイーブになってるだけ。アタシがやるべきことは今後どこに住むことになるのかをきっちりあのロクでもない保護者と話し合うことと、再発かどうか確かめて適切な処置を受けること。ちょっと乗る気がしないけど、これが正論だと思う。

 再び浮かんだネガティブな思考を、頭の中から無理やり切り捨てて、理性的な答えを引きずり出すとアタシは上体を起こした。

 額や首にベタっと汗で張り付いた髪の毛がうっとうしい。とにかくこの汗をどうにかしようとしてポケットをまさぐりハンカチをとりだす。まずはじめに額の汗をふき取ろうとして、手の動きが止まった。

 人さし指と中指の付け根から延びる一本の大きなミミズ腫れ。それはまるで腕を引き裂くかのように手首から二の腕、肘を通り制服の袖の中へ消えていた。

 なによこれ、なに、一体なんだっていうの、これって何?

 アタシは恐怖を無理やり押し込めながら、目の上、まぶたとまゆ毛の生え際の辺りを指でなぞった。鋭い痛みが走って、反射的に手が離れた。そして、人さし指と中指の先には、少量だけど、赤い色、血、血がはっきりとついていた。

「い、い、いやぁああああああああああああああああああ」

 何よ、何、何よこれ。こ、これって何よ。アタシ、アタシどうしたの? いったいアタシに何が起きているのよ。変、絶対変、間違ってる、何かが、何かが間違ってる。

 アタシの前にアタシがいる。頭を抱え、髪を振り回し、錯乱しているアタシがアタシの前にいる。なら、今、アタシを見ているアタシは……誰。アタシ誰よ、アタシ誰、アタシ……だ……レ。

 アタシは恐怖に駆られて一度そらした視線を再びアタシに向けた。するとそこにはアタシが転がっていた。

 アタシ。プラグスーツを着てエントリープラグの操縦席にもたれ掛かったまま動かないアタシ。裏切られ、陵辱され、蹂躙され、世界のすべてに憎悪を向けたままコトキレタアタシ。

 惣流・アスカ・ラングレー……だったモノ。

 再びアタシはアタシだったモノから目をそらし、静かに両手を伸ばし天を見上げた。白い雲と青い空がパズルのピースに変わり、天を覆い尽くしていく。右手にからむ風が、音、音楽、一連の主題を奏で、左手にからむ風が、1全音高い調に転じて主題を奏で、さらに右手にからむ風が、再び1全音高い調に転じて主題を奏でていく。

 M.C.エッシャーのだまし絵の様に天を覆い尽くす白と青の二つのピース。ハ短調から、ニ、ホ、嬰ヘ、変イ、変ロと各短調を終過してハ短調に終始する J.S.BACH のカノン。

『何を望むの』

 天が白い光に覆われ、アタシはその光に耐えきれず目を閉じた。するとその中から唐突な問いがアタシの元にもたらされた。

『あなたは何を望むの』

 再び天から問いがなされ、アタシは静かに目を開いた。圧倒的な光量の中にたたずむシルエット。だれ、ママ?

 違う、ママとは違う。ママとは全然違う。誰、誰だろう。輪郭はアタシが知っている誰かに似ているのに、思い出せない。

『あなたはこの私に……何を望むの』

 アタシはその問いに答えようと……

「何故ココにいるの?」

 唐突に頭の上から声がした。

「あなたは何故ココにいるの?」

 聞きなれた声。この声は……レイ!?

 恐る恐る面を上げると、そこにはレイが不思議そうな顔をして立っていた。

「何故ココにいるの? 碇君、いいえお兄ちゃん達貴女のこと探しているのよ」

 そういって彼女は、屋上のフェンスを背にしゃがみ込んでいるアタシの視線に合わせるかのように、ちょこんとしゃがみ込んだ」

「さ、さが、探してるって?」

 何だか妙におかしくて、唐突に安堵感に包まれて、それでもなぜか全身ががたがたと震えて、歯の根が合わず、口の中であご骨が音を立てる中、ようやくそれだけをアタシは口にした。

「保健室にいないから、だからなぜ……そう、熱があるのね」

 彼女は手を伸ばして、アタシの額に触れると一人納得したかのようにつぶやいた。そしてアタシの制服のポケットに手を突っ込むと、携帯電話を取り出した。

「碇君、私。見つけたわ。場所は第弐校舎の屋上。それと誰か……」

 携帯電話ごしにシンジとしゃべるレイの声を聞きながらアタシの意識は暗い闇の中に落ちていった。

中編に続くなんて……無様ね。