柄谷氏 |
ずいぶん前ですが、私は、私の或る論文に関して、それをpublishしたのかどうか(英語で)聞かれて、Noと答えたために、話が混乱したことがありました。
その質問は、雑誌か新聞か何かにそれを載せたのか、という意味でしたが、私は、それを「本として出版したかどうか」という意味だと思って、NOといったのです。その論文は雑誌に載ったものなのですが、日本語では、雑誌に発表することを出版するとはいわない。雑誌に論文や小説を出版するという言い方をしない。だから、「まだ本にしていない」という意味で、私はNoといったわけです。
そのことがあってから、私は出版(publishment, publication)ということが、印刷ではなく、publicという概念に由来するのだ、ということを考えるようになりました(あとで、それについて取り上げます)。日本語で考えているだけでは、わかりにくいことが多いですね。「著作権」の著作とか著者などもそうですが。
とはいえ、雑誌に書くのと、それを本にするのは違います。確かに、雑誌に載せることは、他人の目にさらすことであり、パブリックにすることです。しかし、一度公開したからといって、それを書き直してはならないという理由はない。実際、雑誌に発表したものを単行本にするとき、著者が推敲するのが普通です。特に、私の場合はそうです。
だから、これから本にするかもしれないもの、あるいは自分のサイトに載せるかもしれないものを、ウェブで勝手に公開されたら、営業妨害だという気持もありますが、それ以上に許しがたいのは、自分が不十分だと思っているものが、あらためて公開されてしまうことです。他人にとっていいものだと見えるかもしれないが、著者にとっては、それは耐え難いことなのです。隠しはしないが、わざわざ見せたくもない、というようなものが誰にでもあるでしょう。
以前にも、私の著作をウェブに載せる人がいました。しかし、その人は途中で許可を求めてきました。もちろん、やめてもらいました。そのとき、こういうことをいった覚えがあります。私の著作を広めたいという気持は有難いけど、世の中には「有難迷惑」ということがあるのです、と。
今回のケースは、それと違って、たんに「迷惑」でした。何しろ、「柄谷行人を解体する」という題でやっているのだから、迷惑させようとしているのでしょう。とはいえ、その意図が最後まで、よくわかりませんでした。結局、思ったのは、その人は一種のストーカーだということです。本人に特に悪意があるわけではない。しかし、ストーカー的な人こそ最も厄介なのです。弁護士を通して法的に詰めていかなかったとしたら、今回の事態は解決していません。 |