著名な作家やスポーツ選手、芸能人などの名前を検索サイトに打ち込むと、「えっ、こんなに!」と驚くほどたくさんのホームページにヒットします。そのほとんどは、ファンがファン同士の交流や情報交換を目的に立ち上げているホームページ。一般に「ファンサイト」と呼ばれるものです。

ファンサイトがあるということは、熱烈なファンがいる証拠。ファンサイトの存在に励まされている作家やタレントもたしかにいるでしょう。
しかし、作家やタレントが喜ぶかどうかは、あくまでもそのサイトの内容次第。ファンは「応援」のつもりでも、その「善意」が裏目に出て、作家やタレントに多大な迷惑をかけてしまう場合もあります。

特に問題になるのが著作権。ASKACCSにも「雑誌に載っているタレントの写真をスキャンしてファンサイトに掲載してもいいか?」「応援しているミュージシャンの曲をホームページのBGMに使ってもいいか?」といった質問が数多く寄せられていますが、写真も音楽も著作物。著作権者の許諾なくして勝手に使うことはできません。

「悪口を書いてなければ許される」と考えている人もいるようですが、それとこれとは別の問題。たとえ「悪口」があったとしても、批評、批判の範囲内ならば「言論の自由」と見ることもできますが、著作物の無断利用は明らかな違法行為です。たとえその目的が「そのタレントを応援するため」「そのミュージシャンの曲を広く紹介するため」であってもです。

また、著作権者から「無断転載をやめてほしい」との申し出を受けながらも、そのような行為を続けているのであれば、それは一種のストーカー行為といえます。

今回はファンサイトのこのような問題について、評論家の柄谷行人氏にお話をうかがいました。柄谷氏は、実際にご自身の著作物をホームページ上に無断で転載されるという被害にあわれています。
その事件の中で柄谷氏が強く訴えているのは、「作家にとって作品を公表することにはどういう意味があるのか」という問題です。
ファンサイトをこれからつくろうと考えている人、すでにファンサイトを運営している人は、ぜひ、この問題について一度じっくりと考えてみてください。



●柄谷行人氏のプロフィール

●柄谷氏の著作物無許諾転載事件の経過についてはこちらをご覧ください。



編集部 柄谷先生の過去から現在までの、雑誌への寄稿、単行本などの原稿が無許諾で個人のHPに掲載されるという事件がおきました。この事件について伺いたいと思います。今回の無許諾掲載の情報はどのようにして入手されたのですか。
柄谷氏 私が教えている大学の元学生だった人から聞きました。私自身は、ちらっと見ただけです。2チャンネルとかそういうのを見る趣味がありませんので。
編集部 作家の方は雑誌に寄稿された原稿を単行本化するとき、推敲に推敲を重ね、場合によっては大幅に書き換えることもあると思います。今回のように、雑誌掲載の時の原稿をアップロードされたということを、著者としてどのようにお考えでしょうか。
柄谷氏 ずいぶん前ですが、私は、私の或る論文に関して、それをpublishしたのかどうか(英語で)聞かれて、Noと答えたために、話が混乱したことがありました。
その質問は、雑誌か新聞か何かにそれを載せたのか、という意味でしたが、私は、それを「本として出版したかどうか」という意味だと思って、NOといったのです。その論文は雑誌に載ったものなのですが、日本語では、雑誌に発表することを出版するとはいわない。雑誌に論文や小説を出版するという言い方をしない。だから、「まだ本にしていない」という意味で、私はNoといったわけです。

そのことがあってから、私は出版(publishment, publication)ということが、印刷ではなく、publicという概念に由来するのだ、ということを考えるようになりました(あとで、それについて取り上げます)。日本語で考えているだけでは、わかりにくいことが多いですね。「著作権」の著作とか著者などもそうですが。
とはいえ、雑誌に書くのと、それを本にするのは違います。確かに、雑誌に載せることは、他人の目にさらすことであり、パブリックにすることです。しかし、一度公開したからといって、それを書き直してはならないという理由はない。実際、雑誌に発表したものを単行本にするとき、著者が推敲するのが普通です。特に、私の場合はそうです。

だから、これから本にするかもしれないもの、あるいは自分のサイトに載せるかもしれないものを、ウェブで勝手に公開されたら、営業妨害だという気持もありますが、それ以上に許しがたいのは、自分が不十分だと思っているものが、あらためて公開されてしまうことです。他人にとっていいものだと見えるかもしれないが、著者にとっては、それは耐え難いことなのです。隠しはしないが、わざわざ見せたくもない、というようなものが誰にでもあるでしょう。

以前にも、私の著作をウェブに載せる人がいました。しかし、その人は途中で許可を求めてきました。もちろん、やめてもらいました。そのとき、こういうことをいった覚えがあります。私の著作を広めたいという気持は有難いけど、世の中には「有難迷惑」ということがあるのです、と。

今回のケースは、それと違って、たんに「迷惑」でした。何しろ、「柄谷行人を解体する」という題でやっているのだから、迷惑させようとしているのでしょう。とはいえ、その意図が最後まで、よくわかりませんでした。結局、思ったのは、その人は一種のストーカーだということです。本人に特に悪意があるわけではない。しかし、ストーカー的な人こそ最も厄介なのです。弁護士を通して法的に詰めていかなかったとしたら、今回の事態は解決していません。
編集部 今回の事件は明らかに著作権侵害ですが、ネット上でのこのような事件は今後も発生することが予想されます。今年5月に「プロバイダ免責法」が施行されましたので、侵害を受けた場合の救済はされやすくなると思いますが、ネットが持つ可能性と背反する部分として、先生はどのようにお考えですか。
柄谷氏 今回の事件を起こした人物は、「雑誌に載ったものはすでに公的なものであり、著者が私有することはできない、ゆえに、それをウェブに載せるべきだ」と思っているようです。しかし、著者にはそんな義務はないし、他人が勝手にそうする権利もない。もちろん、著者は、一度そういうものを発表したという事実性を否定できません。しかし、証拠として、出版物があるわけですから、読みたい人は探して読めばよい。この点で、ウェブ上の著作とは違います。

アメリカの学界でも、ウェブで発表されたものは学問的業績として認められない。ウェブでは、いつでも書き直せるため、そして、それが書き直されていないという証明もできないため、「事実性」(歴史性)をもたないからです。もし学問的な業績にしたかったら、数部印刷し製本して、国会図書館に送っておけばいいのです。実際に出版しても、ほとんど売れないのだから、そのほうが金がかからないでいいと、私は思います。(編集部注)

奇妙なのは、大勢の人の目にふれるウェブ上の著作よりも、ほとんど人が読まない数部の本や雑誌のほうが、「パブリック」だということです。それは、「パブリック」ということが、多くの人の目にさらされるということではなく、オリジナルを勝手に変更できないということ、変更してもよいが変更したことが明示されるということを意味する、ということです。(ところで、今回の事件を起こしたかの人物は、勝手に、私の著作を適当に削ったり要約しています)。

作品を勝手に変えてはならない、そして、変えた場合にそのことがわかるようにする、ということは、普通そう思われているように、オリジナルが偉い、とか、個人(私)に独自の尊厳があるからではなく、それがパブリックにされたもの、つまり、他者との関係において存在したものだからです。それを否定すると、publishment ということが成立しない。

一般的に、私有財産に反対して、まるで、著作権など無視することが革命的であるかのようにいう人がいます。だから、今回のようなことをやっても、悪いことをしたという気持がないのです。しかし、ここに大事な問題があります。

マルクスは、「コミュニズムとは、私有の否定であり、個体的所有の再建である」といっています(『資本論』)。この奇妙な言葉は、まともに理解されたことがありません。実際、コミュニズム=私有の否定=国有化だと思われているからです。実際、そのような考えを実行した国家においては、個体的所有というか、個人の個体性(単独性)がまったく抑圧されたのです。

しかし、このマルクスの言葉は、著作権に即して考えれば、一番わかりやすいと思います。つまり、「私有」は著作財産権にあたり、「個体的所有」は著作者人格権に当たります。前者を否定することが、後者を否定することになってはならない。むしろ、後者こそが著作権法の目標でなければならない。

たとえば、フリーソフトウェアの運動は、知的所有権全部を放棄しているように見えますが、名誉(固有名)を重視し、また使用目的の指定(ライセンス)のような制限があります。決して、でたらめではありません。インターネットによって、私有財産としての知的な私有権が成立しにくくなる、ということは、結構なことです。しかし、問題はそれが同時に「個体的所有」(=著作者人格権)をも破壊する可能性があるということです。だから、われわれは今後、インターネットの時代に、いっそう注意深くなければならない、と思います。

(以上のインタビューは、編集部より柄谷氏に文書にて質問し、柄谷氏より文書にて回答をいただいたものです)