第1部

「はじめに」

このメモは、多くの人が記録した南条あやの断片を集めて再構成した形を取っている。
そして、ここに集めた多くの記録は、南条あや本人が意図して触れなかった事柄や、周囲の配慮やいろいろな思惑によって、公表されてこなかった事実も含む。
これは、ある意味で南条あやが日記内では決して描くことのなかった、もうひとつの記録とよべるかもしれない。
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この記録の意義は、三つに要約できる。
ひとつにこれは、残されたものが正確に事実を記憶するため。
もうひとつにこれは、死んでしまったものの身の上に何が起こったのか検証するために。
最後にこれは、あやが書けなかった、彼女と第三者との間に何があったのかを、確認するために。

そして、今このようにして、このメモを公開することは、南条あや日記を読む際、公平でないベクトルでの見方を防ぐという目的がある。
公平な見方とは、客観的な事実を知っていただいた上で、読まれた個人が、だした答えでよいのである。まずは、事実の提示が先決であり、その為にこのメモは公表される。

そして、このメモはおそらく、あや本人の記述したものを除き、一番事実に即して、書かれたものである。一部、推測として断って書いている以外は、基本的に事実のみをなるべく客観的に描写しようと努めた。

本記録は、Aya's Black Childrenのヰワヲが行ったが、ネット関係の様々な方のお書きになった南条あやに関しての文書を、承諾を得て参考又は、引用している。
また、詳しいお話を、あやの父親や親友をふくめて何人かの方に伺った。
この文書の責は、全てAya's Black Childrenにある。
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1.「南条あやである前に」

"南条あや"というのは、彼女の本当の名前ではない。ネット上のハンドルネームであった。
彼女が"南条あや"というハンドルネームで過ごした期間は、1998年5月下旬からと、1年に満たなかった。

この話は"南条あや"である前まで遡る。

1992年、彼女は小学校6年生であった。
彼女はクラスメイト全員のからいじめを受け登校拒否になっていた。
父親と相談して、区立中学には進まずに、私立の中高一貫の女子校を受験して入学する。

『塾の月謝、父の苦労を思って「中学では絶対にいじめられる立場にまわってはダメ。
失敗することは許されない」 と友達を作って頑張ろうとしていた矢先に、友達と喧嘩をしてしまってオドオドしてしまったら、 あっという間にクラス中に悪い噂をながされて孤立してしまいました。』
(別冊宝島445自殺したい人びとネットアイドル遺稿・いつでもどこでもリストカッターより)

最初のリストカットは、その中学1年の時でった。
はじめは、クラスの同級生の同情を引くためのいわば狂言のリストカットといってよいものだった。
そして日々がたつにつれリストカット癖は「何かの儀式」とがいうようになっていったという。


彼女は、幼い頃から父親と二人暮らしであった。
父親は常に娘のことだけを思って生きてきた様な人だから「手首きるのはやめろ」と何度も率直にしたこともあった。
しかし、彼女のリストカット癖は、既にもう止めることが出来ぬほどになっていた。
高校1年生の頃には、静脈のリストカットまでエスカレートするようになった。
彼女の父親は、格別、娘に関して心配していた。
子供の事を24時間心配しているようなそんな感じの人である。
事実、18歳の高校卒業まで、門限は夜8時であったし、あやも言いつけを堅く守っていた。
何処か外に出るときは、何かあったときのために父親の携帯電話を持たされていた。
あやは、そんな親に見守られ保護されて育った。

父親がいかに娘のことを考えていたか、日記のふとした小さな記述に読みとれる。

10月7日の日記。
『父曰く、「夜仕事から帰ってきたら死んだように眠っていたので死んでいるかと思って脈を計った」とのこと。それにも気付かずに眠っていた私。』
また11月1日の日記には、 「…ええと、今日は完全な健忘を起こしていたようです。ネットをやりながら私は枕に足を向けて眠ってしまったらしいのです。それで、横で麻雀ゲームをやっていた父が私を持ち上げて正しい姿勢にして、パソコンの電源を落としてくれたらしいのです。全然分からなかった…。」とあった。

無論、愛情の行き違いが無かったというのではないが、父親は父親なりにきちんと娘を育てようとした。

思春期には誰でも反抗期というものがあるのが普通である。
独立心が芽生え、親に逆らうようになる。
父親によると、彼女には反抗期というものがなかったという。
それはおそらく父親と娘の二人きりが、広くはないアパートに寄り添うように暮らしていたという状況もあったのだろう。
父親は夜、イタリアンレストランを経営している、だから夜は一人きりで過ごす。
たぶん一人が多い生活だから、なお反抗する事などなかったのだろう。
実際、中学高校と仲の良かった彼女の親友は、彼女がいかに父親と仲が良かったのかを話す。
TVゲームに父親をわざわざよび二人して麻雀ゲームをやったり、ふざけてあっていたという。

親に守られて、自活する手段を持たない一少女が、親に反抗出来ないのは、いうまでもないことだ。
しかし、いつまでも親への反抗期というものが訪れないでもなかった。
人は反抗期を経験して自立していく。
彼女のそれは、密やかに静かにやって来た。
そしてそれはただひとりあやの心の中での出来事だった。

はじめての親への反抗は、たぶん自分だけの「秘密」をもつということではないだろうか。
高校2年生の頃、彼女は父親にねだりパソコンを買ってもらった。
たった1人の家族の父親にも言わぬ「秘密」は、パソコンとネットワークの中にあった。

いろいろなサイトを渡り歩いた。
見知らぬ人ともチャットで知り合った。
彼女の世代を包むサブカルチャーとも出会った。
アンダーグランドなものにも興味があったから、ネットの流れに身を任せていたら、いわゆる精神系クスリ系サイトに行き着いた。
そうして精神系のチャット友達も増えていった。
彼女はそこではじめて娘を心配して、時にはうるさく言う親のいない自由を知る。
そして、貪るように興味のあったクスリの知識も貯め込んでいく。
ある日、あやはあるクスリ系サイトに行き着き、そのサイトの管理者(仮にM氏と呼ぶ)から、日記を連載しないかと持ちかけられることになる。
98年5月28日から日記は連載された。

まだ仲の良い人とのチャットなどでは本名を使っていたが、ここではじめて彼女は"南条あや"を名乗った。

"南条あや"は、このようにして誕生して、「南条あやちゃんの日記」は、ネットに載った。
しかし「南条あやちゃんの日記」の中に、かつての仲の良かった親子の姿は、無くなっていた。
そこには、ままならぬ父親との確執と齟齬が描かれていた。
それこそが遅れてやって来たあやの思春期の小さな反抗だったのかもしれない。

いま、父の飾った南条あやの祭壇の周りには、小さいころからの仲の良かった楽しそうな二人の親子の写真がたくさん並ぶ。
それが地上にたった二人しかいない親子の姿だった。


2.「父と娘と何かの思惑」

あやの日々を綴る日記は、ネットワーク上で少なからずの人の興味をひいたようである。
日記の中で彼女は、リストカットしてしまうことや父親との確執、生活や学校での出来事などを、おもしろく読ませた。

そして精神科に通院したいという彼女の長い間の夢は、ひょんな事から叶えられることになる。
余りの体調の悪さに見かねた学校の先生の勧めもあり、精神科を受診することが可能になったのである。
そして1998年の夏、南条あやは某大学病院の精神科閉鎖病棟に入院していた。
リストカットのしすぎが原因は重度貧血の治療のためであった。

入院中、彼女は思春期特有の家での息詰まる父親との対峙という状況から脱したせいか、楽しげですらあった。
病院では、なにをしなくてはいけない、という義務から解放される。
小さな頃から父親と2人だけの生活だったので、看護婦や他の患者など、 いろんな人が自分を気にかけてくれるのが嬉しかったのではないだろうか。

特に、母親からの愛をよく知らずに育ったあやは、何かと気にかけてくれるやさしい担当看護婦に初めて母親を感じたのかもしれない。

入院以前、夜は、レストランを営業している父が不在になり、あやは当然のように独りで過ごさざるを得なかった。
そして、入院して初めて大勢で過ごす時間がもて、楽しむ事が出来たようである。
就寝前には必ずといっていいほど、あやを中心として患者達による麻雀が開かれていた。
彼女は精神科に入院する事に引け目など持っていなかったので、学校の友達の面会なども度々あった。さらに、インターネットの友人数名によるお見舞いオフ会などもあった。

あやは、入院中ひっきりなしにノートに日記を付けていた。
それは、 偏執的とも思えるほど日々の出来事と自分の事を熱心に記録したものだった。
手書きでびっしりと書き込まれたノートは、全部で4冊になった。
熱心に日記を書き進める姿はまるで、病棟を取材する記者のようであった。
なお入院中の日記は、あやの死後、入院レポートとして、本サイトにアップされたものである。

入院中、ネット上で親しかったある友人に、あることを漏らす。
"南条あや"という名前でM氏のサイトで日記を公開している、ということともうひとつ、 M氏ともう一人の編集者T氏の手で南条あやの日記を単行本にする計画があるという事であった。
そして、あやは入院の際に、その編集者T氏からデジタルカメラを渡されていた。
後になってこれらの事実と合わせて考えると、あやの入院によって何かの思惑かが動こうとしていた事が感じられる。
また、ネットの親しい友人達とのチャットやメール交換には、まだ"南条あや"でなく本名を使って活動していたが、 その頃「ハンドルネームは、これから"南条あや"一本でいきます」と宣言していたという。
これは何かの決意の表れだったのか。

ともあれ全ては、ただ一人の親さえ知らぬところで、ひそかに進行していた。


3.「メディアの幻想」

10月に入り南条あやは、卒業を控えての出席日数の問題もあり、病院を退院した。
病院に慣れ親しんだせいもあり、退院は彼女にとって向き合わなければならない「現実」に戻るつらいことであったようだ。
退院当初はそんな事もあり、ふさぎ込みがちであった。

10月7日の日記には
「家に帰って父が出勤すると病院での楽しい思い出、看護婦さんが優しかったこと、なんだかんだで主治医が一生懸命やってくれたこと、でも今は周りに看護婦さんもいないし一人なんだ…って思って一人泣いて泣いて、どうして良いのか分からす家中を駆けずり回ったり棒きれで体中を叩いたり剃刀でおでこを切ってみたりと大分錯乱しています。」とある。
また同日の記述には通っていたクリニックでの主治医の診察で「M先生には悲しくて悲しくてしょうがない。泣いて暮らしていると現状をそのまま話しました。そうしたら、 今まで一人になって淋しくなかったというのが感覚の麻痺であって、病院生活によって「一人は淋しい」という正常な感情を蘇らせた。だから一人になって悲しいのは正常なことです。と言われました。」と記している。

しかし、あやは退院してしばらくすると、世界は、大きく広がっていた事に気づく。
ネットでの交友や活動もまた広がった、日記の連載も再開した。いろいろな、精神系のオフ会にも顔を出すようになった。
11月5日には、日記を連載していたM氏のサイトにファンクラブも作られた。
その間にも密かに日記の単行本化の話は進んでいた。
そして、彼女はマスメディアにデビューすることになった。

あやのマスメディアへのデビューは、彼女が日記を連載していたサイトの管理者M氏の手によるものである。
アンダーグランド系な「GON!」という雑誌が初めての舞台となった。
南条は、その雑誌を好んで読んでいたし、 アンダーグラウンド的なものに興味を持っていたからそれは、わくわくするようなことだったに違いない。
1998年12月号の精神病特集と題された特集の一部に彼女が掲載された。
ちなみに11月19日の日記のタイトルは、 「ほら、私GON!に載ったんだよ(カミングアウト状態)」というものだった。
しかし、当然のことのようにライターであるM氏の手により報酬は大幅に削られていた。

つづいて1999年1月発売の別冊宝島「おかしいネット社会」でリストカットネットアイドルとしてライターの石野環氏からこのインタビューを受けている。
「(GON!に載ったことについて)連載が始まったときは、友達に自慢して回りました。 (中略)『みんなすごいねー』って言ってくれました」と語っている。
また、そこでは、ネットでの日記連載にいたる経緯がインタビューの形で紹介された。

また3月10日の高校卒業式の日には、フジテレビの「インターネットな女達」という番組の取材を受けている。(あやの死後1999年8月30日に放送された)

マスメディアへの露出は雑誌「GON!」の、3月17日発売の4月号「精神科に通う現役女子高生あや入院編」掲載が、生前最後のものであった。

マスメディアへの、登場はすべてM氏が用意したものだった。
あやは、その用意された舞台に立てば、よいだけだった。

最初はただのちょっと変わった女子高生の日記でしかなかったものが、好評を博すことになった。
やがて周囲の思惑も加わり、マスメディアにまで登場した。
そして次第にマスメディアの中で虚像の"南条あや"が誕生したという感じがする。
やがてそれは成長して「ネットアイドル」として一人歩きしはじめることになっていった。

しかし、「ネットアイドル」などという幻想を、一番それをさめた目で見ていたのは、南条あや当人であったのかもしれぬ。
あきらめがちな、あやは、ただマイペースで淡々と、未来への夢や希望さえ見ずに、静かにしらっとした視線でそれをみていたという気がする。

無論、目立ちたがり屋でもあったから、自分の文章が世に出ることについて喜びもしたろうし、また楽しみにしていたろうとも思う。

しかしあやは、ただ淡々と、リストカットしてしまう自分や、自らに襲い来る極度の不安と鬱、生とタナトスを揺れ動くそんな自分と、ままならぬ状況を笑いながら、日記に記しつづけていくしかなかった。
自分の影を「ネットアイドル」に育てたマスメディアに、夢や希望をみるには、あまりにあやは、多くの問題を抱え込みすぎていた。

別冊宝島「自殺したい人びと」の掲載用の原稿「いつでもどこでもリストカッター」は 3月22日電子メールで宝島社に届けられていたという。
その8日後の3月30日にマスメディアに「ネットアイドル」とよばれた、女子高校生南条あやは、死去した。

「ネットアイドル・遺稿」として載った別冊宝島「自殺したい人びと」は、5月に発刊された。


4.「目覚めぬ眠りの時とその前に何があったのか」

1998年11月から翌年1999年3月までの間の時期、あやは、二人の男性と交際した。
そのひとり(※筆者相馬ヰワヲである)は、あやに婚約指輪を贈っていた。
この高校3年の後期を通して、 彼女自身はしっかり恋愛を楽しみ、愛する人がちゃんと近くにいて、愛されていた、という事実が、 重要ではないかと思われる。
そのふれあいが、彼女を幸福に少し近づけられたのだったら、 それは無駄なことではなかったろうと思える。

生前父親は、娘がネットアイドルなどと持ち上げられたり、"南条あや"として雑誌に登場したり、インターネット上で日記を連載したりしているとは、一切、知り得なかった。
今、思い返してみるとあのような不幸な結果に終わった原因の一端は、そこにもあったという気がする。あやが父親にさえ秘密にしていたということにも。

確証をもって、M氏とあやの関係が変化してきたのは、1999年1月であった。
精神系サイトを自らも運営しているライターのA氏は、

「私はある雑誌の自殺関連の企画の話しをし、南条あやを編集者に紹介しようと思うんだと言った。M氏(※イニシャルは本文編集の際、こちら側で伏せ字とした)は、まだあやちゃんは何も分かってないから仕事は請け負えない、マネジメントも出来ない、締め切りも守れないし、と次々理由を述べて申し入れを拒絶した。その時ほど才能の差というものを感じたことはない。南条本が売れれば印税で私も・・・というM氏の言葉に私は南条は才能あるゆえに、いつか潰されるな・・・と正直に言って思った」

と自らのサイトの日記で証言している。

また2月に宝島社の別冊宝島「自殺したい人びと」の企画の席でこの様な出来事があったと、A氏は記している。

「この歓談中に、ただ一度だけ南条が饒舌になった時がある。私の話しだ。私は彼女の進路先が気になって、南条に卒業後なにするのか聞いてみた。すると南条は、へっへーん♪っと指輪を見せて20歳になったら結婚するんだ、私がいるんだと明るく語った。同席していたM氏がその突然の告白に吃驚していた。瞬間に私は、これはマズイかも・・・と真剣に思った。師匠のM氏に言ってないこと・・・私はその場の雰囲気の妙な行き違いに気付き慌てた。それをうち消すかの如く南条は饒舌になって語り始めた。ローリング・ストーン女子高生南条に行き場のようなものがあることにほっとした。そして幸せそうに南条のおのろけ話が続いた」

しかし、これ以降、南条あやとM氏の間では決定的に何かが変わったのである。
日記の更新もまばらになり、それまでついていたM氏のあやの日記に対するコメントもつかなくなった。
そして、なによりもM氏のあやへの態度が、目に見えて冷たくなったということである。
そしてそれは、ちょうど、3月に入りM氏の単行本計画は、暗礁に乗り上げたという時期とも前後する。
原因はM氏と協力者の編集者T氏との間の事で、詳細は不明である。
しかし、もしかしたらこの単行本企画の進行具合と婚約者である私の登場が、何らかの関係があったのかもしれない。

また、ある会議の席上、M氏が
「あやちゃんの日記を更新するのは、ホントに大変でいやなのよねぇ」
と、他の参加者の前でにさかんに嫌味をこぼされたそうである。
あやは、このような事を言われて泣きたくなったと、私に告白している。
また、更新がたいへん、というM氏に配慮してあやがした対応に対して、このような事実もあった。
M氏が自分の仕事に忙しそうなので、あやは1999年3月4日の日記の最後に「南条あやからのお願い」として以下の文面がつけたのである。

「南条あやからのお願い 私がGON!や宝島等の本に載せさせていただいたお陰で、様々なメディアから私に対して 取材の申し込みが舞い込んできているそうです。しかし、その窓口が全てM様(※イニシャルは、本文編集の際、こちら側で伏せ字とした。) になってしまい、M様に大変な時間と労力を割いてしまっていただいている結果となっています。M様の本業にまで大きな支障が出てきてしまっているご様子です。本当に大変申し訳ないと思っているので、 もし、今後そのような取材の問い合わせ等がございましたら、直接南条あやのアドレスに御問い合わせ願えますでしょうか。どうかよろしくお願いします」

M氏は、何故かこの部分全部を勝手に削除して日記に載せていない。
これは、どういうことを意味するのだろうか?

3月には、テレビ取材も決定していた。
あやと編集者T氏の間で報酬の分配率などが同席者K氏によって決定された。
また、取材が急遽決まったため、口頭でのマネージメント契約と今後の売り出し方等が話し合われたという。
その後、同席者だったK氏があやに単行本について、聞いたそうである、その時のあやの答えは、 「出ても出なくてもいい」というものであったという。
もしかしたら単行本が暗礁に乗り上げていたことを、あやは察知していたのかも知れない。

確実な事は1999年3月に入ってからM氏とあやの関係かなり悪化していた事というであった。
あやは「あっち(M氏)が、部屋を作って日記を連載しないかと言い出したのに……」 と不満を漏らしていたし、怒ってさえいた。
そして高校卒業を期に南条あやのホームページを4月から独立させる、という話になったのである。
それが、3月15日前後であった。

3月10日に高校生を卒業した彼女は、
「怖いのです。何にもなれない自分が、情けなくて申し訳なくて五体満足の身体を持て余していて、どうしようもない存在だということに気付いて存在価値が分からなくなりました。」(1999年3月11日の日記より) と書き記している。

事実当時、彼女は、不安を抱え何処か危うかったような気がする。
今、考えればこれが、その後の不幸な結果へと繋がる予兆であったという気もするのだ。

1999年4月1日のサイトオープンを目指し、3月20日前後より、新たな南条あやのサイト作成の実作業をあやと私の2人で始めた。
「南条あやの保護室」という名前は、あやが名付けたものであった。
来る日も来る日も一台のデスクトップコンピュータで代わる代わるWebページ制作ソフトで、 リンクを張り直していくという単調な作業の繰り返し。
文章があまりに多いので、2人して交代でないと、精神的にやっていられなくなる。
このサイト制作期間中もあやは、ネットには顔を出したり、メールフレンドにメールしていたり等 とふだんと変わらぬ顔もみせている。
ただ、日記の更新だけは、止めざるを得なかった。

3月28日日曜日、この日は、精神系のネット友達による南条あやの卒業祝いのオフ会が、下北沢のカラオケボックスで行われた。
ネットの友達の人数は、合計で8人くらいであったという。
そしてあやの表情は、決して明るいものではなかったと、 あやと親しいネット友達は、証言する。
カラオケボックスでは、あやにいくつかのプレゼントが贈られた。
ところが間もなくすると、 それぞれが好き勝手な事をはじめたのだという。
「南条あやの卒業祝い」といった雰囲気はあまりなかったように感じられたという。
あやは言葉も少なく、ただ何曲も何曲も歌い続けていたそうである。
帰宅する時の彼女は、決まった門限を破ろうとする事もなく、 ダラダラしている他の人達とは別に、ひとりで帰っていったという。
それがインターネットの知人との最後の別れとなった。
そして、2日後に使用される膨大なクスリは、既に彼女のカバンの中にあった。

3月29日月曜日、この日も私の家でのサイトのリンク張り直し作業があった。
早朝からの連日の作業が、堪えたのか、あやは私の家に上がり込んだとたん、 ファンヒーターの前でごろんと横になって眠ってしまったかのように動かなかった。
たぶん昨日のオフ会の疲れだろうと、とりたてて気にもせず、私もベッドで寝ころび眠りに引き込まれていった。
今となればおそらく、あやはこの時こそ、側に私がいて欲しかったし、そして自分の身を案じてもらいたかったのだろうとわかる。
私が目を覚ましたとき、あやの姿はなかった。
既にあやは帰った後だった。
その夜、私にあやからの3編の詩ともう1編の詩が、深夜に電子メールで送られてきた。

私はそれを、サイト掲載目的のフィクションの文学と捉えてしまっていた。
そして、それが私に対する最後の救命信号であったと知るには、あやの最期の日を待たねばならなかった。
その夜、あやの父親は、今後のことをどうするのかと訊ねたという。
パパのレストランの手伝いをするのじゃダメなの?と泣きながらあやは、父親にいったという。
そして3月30日火曜日、私は昨日ろくに話しもできないで返してしまったことを悪く思い、 サイト制作作業を休みにして、カラオケにでも誘おうとあやの携帯電話に掛けてみた。
普段であれば、留守番電話サービスに用件を入れれば、折り返しすぐに掛かってくるのだが、その日は違っていた。
私は誰か友達と会っているのだろうと思い、あやの親友のYさんに電話を掛けてみることにした。
そこでその長い悪夢の一日の始まりを知ることになる。

後で分かったことなのだが、午前11時くらいにあやは、学校へ絵の具を取りに行くと言って、 家を出たと父親はいう。
その時、いつも父親の枕元に置いてあるスポーツドリンクが、 妙に薬臭かったと父親は後に証言しており、後もその妙な匂いのしたスポーツドリンクは捨てずに保管していた。
もしかしたら、あやが睡眠薬か何かの薬を、父のスポーツドリンクの中に混入させたのかも知れないという。

12時10分位にあやは、携帯電話から親友のYさんに、
「これから死にに行く」
と電話したそうである。
「そんなの許さない」
必死に止めるYさん。
居所さえいわない、あやとの押し問答は30分くらい続いた。
Yさんには、微かに電話を通して、商店街に流れる音楽のようなものが聞こえたという。
そして、止めるYさんに譲らないあやは、最後に、
「じゃあ、自殺に失敗したらメールするね」
と泣きながらも笑ってそう言い残し電話を切った。

その後、私はYさんに電話連絡が付いて、事の次第を知ったのである。
そして、あやの自宅に電話して、父親に理由を説明して取り急ぎ、心当たりのある場所をあたってもらった。
父親はもしかしたら学校の屋上かも知れないということで、そこに行ってみた。
しかしあやの姿は見つけだせずにいた。
私の家は、南条の家からだいぶ離れていることもあり、またあやの携帯電話に入れたメッセージから、 応答があることも考えられたため、自宅を離れるわけにもいかず、ただ待つ他はなかった。
携帯電話の電源はオン状態のままで、メッセージも入りきれない程になっていた。
その間、Yさんと連絡を取り、あやの行きそうな場所の目星をつけようと試みていた。
昔、あやが好きなオンライン小説があり、そのいやなラストシーンが頭をよぎる。
主人公は、自殺で亡くなってしまうのだが、その場所は湖という設定だった。
その話は、Yさんもあやから聞いて知っていた。
Yさんはとりあえず、 いろいろな湖の管理事務所に電話して、それらしい人物がいなかったか聴いてみたのだが、 あまりにも手がかりが漠然としすぎていた。

そのうち、Yさんとあやの父親が合流する事になった。
私は自宅を離れるわけにもいかず、 あやの携帯電話をコールして応答を待つしかなかった。

そして、偶然にも何百コール目かに、電話は奇跡的につながった。
あやが搬送された国立病院東京医療センターの看護婦が出たのであった。
しかし、看護婦は詳しい状況はプライバシーもありいえないとの一点張りであった。
それと前後して、私へあやの父親とYさんから、収容先が分かって、そちらに向かっている最中であるとの電話があった。
しばらく、助かったのだと胸をなで下ろしていた。
しかし最悪の知らせがYさんより電話で私に伝えられることとなる。

Yさんは、泣いていた。

それが、南条あやの死亡の知らせであった。

私はタクシーで、もう暗くなった小雨混じりの道を国立病院東京医療センターへと急ぐ。
私がつく頃、あやはもう既に治療室から運び出された後であった。
霊安室に小さく横たわる、 あやは触れるとまだ暖かかった。
まるで、ただ、そこで眠っているかのようであった。
しかしどんなに呼んでも、叫んでも二度とその瞼は、開くことはなかった。
あやの「生」と「タナトス」の間を揺れ動く振り子のような心は、ぷつりと振り切れてそして終わった。


後になって、分かったことを付け加え、ここで、あやの最期の時になにがあったのか、再現してみた。
全てが明らかになったとき、すべての物事が、いかにマイナスへマイナスへと、作用していったかが分かる。
Yさんと電話で話し終わるとあやは、通っていた女子校の近くのカラオケボックスに一人で入店した。
そこのカラオケチェーンは、時間終了がきても通知などはしないシステムの店であった。
そして、飲み物を2回注文している。
1回目の飲み物は全部飲んだが、2回目の飲み物は手がつけられずにいた。
方法の詳細は分からないが向精神薬を何種類かを多量に摂取した。
そして、この向精神薬のうちのいくつかは、吐き気止めとして作用してしまっていたのだった。
そうして、3時間のうちにあやは意識の喪失、心停止を迎えたのだった。

しかし、向精神薬の大量服薬では数時間のうちに心停止をむかえることがなく、 6時間程度の昏睡の末に死亡にいたるのが通常である。
あやの知識の中には、それがあったはずである。
もしも、狂言自殺をやろうとしたのであったらたぶん、あやの計算には自分の体の異変が入っていなかった。
あやが3時間たらずで心停止に至ったことが問題となり、 翌3月31日、毒物使用の有無等を調べるため東京都監察医務院において司法解剖がなされた。
結果は、5月10日に死体検案書という形で出された。
直接死因は向精神薬中毒であった。
また、司法解剖の結果は、意外なものだった。
あやの心臓は肥大しており、弁にも穴が開いていた。
リストカットや瀉血によって心臓が弱っていたとのことのである。
また貧血状態で、大量に服薬してしまったのも薬が体に早く回ってしまう事につながってしまった。

死因は検案書では、推定自殺とされていた。
しかし、本当に自殺を図ったのか果たして狂言自殺の末の事故なのか、本当のところは、今でもわからない。
そして全てに「なぜ」という疑問がついて回ることになる。
そして、この一件に関わった私を含め、全ての人の胸につかえて、とれぬ思いは、
「自分があやを追いつめたのかもしれない」
という自責の思いであったのかもしれない。

しかし、確かな事は、あやは最後まで携帯電話の電源を切っていなかったということだ。
おそらく大量のクスリを飲む最中も、彼女の目の前で携帯電話の着信音は鳴り続けていたはずである。
あやの亡くなったカラオケボックスのその同じ部屋に、私とYさんは、一緒に行ってみる機会があった。
曲が流れ出すと自然と照明が落とされ、壁に蛍光塗料で描いてある魚の絵がブラックライトで浮かびだした。
こんな小さな部屋で、歌の好きだった少女は好きな歌を歌ながら、寂しく独りで死んだのだ。
あやが死んだ時期、桜の花はこれからという頃だった。


5.「死者の沈黙」

南条あやは、この様にして死去した。
私はこの事をM氏に3月31日メールで知らせた。
メールの表題は「訃報」であった。
当時、あやが毒物使用の可能性があったため、警察も動き出そうとしていた。
インターネット上では、無用な混乱を避けるため、とりあえずあやの死は公表されず。
M氏のサイトから他のサイトへのリンクは、全てきられる事になった。

4月1日、通夜や格式張った葬儀は行わず、ごく内々で荼毘にふされることとなった。
斎場には、あやの同級生らが、たくさん訪れ最後の別れとなった。

その日、私は、M氏へメールでサイトへの南条あやの訃報をネットの知り合いの方に伝える文章の掲載を、依頼した。
それは、「あとがきにかえて」という題名でM氏のサイトに掲載された。
そしてサイトの掲示板は、書き込みが出来ないリードオンリーの措置がとられることになった。
4月2日には、ネット上では早くもあやの死去は多くの人に知られることとなった。
通夜や葬儀が、とりたてて行われなかったということもあり、その後も、 南条宅へは、ネットの知人らによる、まとまった人数でのご弔問が幾度もあった。

あやの死後、私は、既にひとりで膨大な量の新サイト移設作業を続ける見通しがなくなり、サイト制作業者への依頼を考えていた。
ただ新サイト設立は、あやの最後の願いとしてつづけることは決めていた。
そして4月3日、私に南条あやファンクラブの会長だったK氏より、サイト制作を手伝いたい旨の要請があった。
もしかしたら、手伝ってくださる人がいるならば、自分たちで作れるかもしれないという淡い期待もあった。
私は他の人の心に、南条あやを少しでも伝えることができればいいと考え、 とりあえずサイト制作スタッフの募集をM氏のサイトの掲示板で呼びかけてみる事にした。
そして4月中旬、有志の多くのスタッフを得て、本サイトの制作グループの原型ができたのである。
そして制作グループの名前を、Aya's Black Children(あやの黒子達)、ABCとしゃれでつけてみた。
4月18日「南条あやの保護室」は、暫定オープンすることになった。

4月12日、M氏が南条宅を弔問の為に訪れた。
あやの死後からそれまでの間に、あやの父親は本人が生きていれば、決して知らされるはずのなかったであろう、 「南条あやの日記」の存在を知ってしまっていた。
問題は、なぜ日記がインターネットで、連載され好評を博し、また雑誌GON!やその他のメディアに登場するまでになっていて、 保護者に伏せられていたか、であった。
あやの父親には、悪意ある第三者の介入としか受けとれなかったのも、しかたのないことだった。
M氏は少なくとも、あの弔問の場所で納得のいく説明を、あやの父親にすべきだったし、 それが出来ないのであれば、誠意ある姿勢を見せるべきであった。
また弔問の席でM氏はあやの日記の共同著作権を主張された。
これは、「南条あやの保護室」に日記掲載が事実上、行えないことに等しいことであった。
また、あやの父は、M氏の出版計画とは全く別に、あやの生前の希望を、自分の手でかなえてやりたいと、 あやの日記の出版を望むようになっていた。
しかし、それもできないことになってしまう。
その弔問の席では、M氏より本サイトの入院レポートにあたる、あやが入院中に書いた手書きのノートが父親に返却された。
しかし、それは全部で4冊あるべきのうち、1冊を欠いていた。
残りの1冊のノートと入院中のデジタルカメラの画像データは、 紛失したということで未返却であった。それが、以降M氏対ABCとあやの父親の長い間の確執のもとになる出来事であった。

紛失したとされる手書きの日記は、98年8月11日半分〜98年8月21日 のもので、本サイトの入院レポートでは、無理矢理「なつやすみ」としている部分である。
その部分には、8月11日と8月16日と、ちょうどM氏と面会している記述があるはずなのだ。
一枚の大型封筒に入れられ、ひとまとめにされていた手書きの日記のうち、なぜ3冊目だけぬけて紛失してしまったのだろうか。
そして、自ら「南条あやの編集者」として名乗り、また「Writer&Editor;」と名刺に肩書きをつける人間が、 原稿であるはずのノートを紛失するということがあるのだろうか。
また、入院日記の単行本出版に向け動いていたはずのM氏がどうしてノートを紛失できたのだろうか、疑念は深まっていくばかりだった。

そして、4月12日の弔問以降、M氏には、一切の連絡が付かない状態になる。
後になって分かったことだが、南条あやの死後、M氏は2度にわたり、某出版社を訪問し南条あやの出版の企画を話している。
それも、遺族であるあやの父親の同意もなく黙ってのことであった。
ABCとあやの父親は、手書きの日記1冊とデジタルカメラのデータをいわば、 質だねにとられM氏の主張する共同著作権なるものを呑まされることになるところであった。

はなしは、もつれ込み6月3日、ようやく、ある出版社の編集者が間に入り、M氏とあやの父親の協議が行われた。
協議は午後1時〜午後5時までと長時間にわたった。
結果、あやの日記の著作権は、あやの父親のものとなったし、新サイトへのあやの日記の掲載も問題なく行えるようになった。
だがこれは、あくまで正当な姿に戻っただけのことなのである。

そして、全ての物語の構図が見えたときある事実が浮かんだ。
リストカット癖のある少女がいた。
彼女はインターネットを彷徨っていて、M氏のクスリ系サイトに行き着いた。
そこで管理者のM氏から文才をかわれて、日記を連載しないかと話を持ちかけられる。
目立つことが好きだった事もあって少女は日記の連載を、快諾する。
そして、少女は南条あやと名乗った。
やがて、日記の連載は好評を博しはじめる。
しかし、瀉血とリストカットのしすぎが原因の重度の貧血で、 精神科に入院することとなる。
おそらく推測だが、M氏らからアドバイスがあり、入院中も日記を克明に記すことになった。
そして、病棟の映像を撮るために、デジタルカメラが渡された。
M氏の手による入院日記の単行本化の話は、入院中からでていたことであった。
入院は、彼女にとっては楽しい出来事だった。
しかし、学校の出席日数のこともあり、10月になると退院しなければならなかった。
実際、退院してみるとあやの周りの世界は、より広がっていた。
日記の連載も再開した。
オフ会にも参加するようになったし、ネット上での交友関係も広がった。
ファンクラブさえできた。
そして、いつしか恋愛もするようになった。
ついには、M氏の手でマスメディアにデビューを果たすことになった。
M氏は、南条あやの本の出版で当てたいと思っていたことは、事実であった。

様々なメディアにこれから、登場していくという時に、あやは突然20歳で結婚する約束の男性がいることを告白した。
あやの恋愛の相手は、いつの間にか私ヰワヲに変わっていた。
推測だが、M氏はこの事態を歓迎しなかった。
それは、おそらくあやが自分のコントロール下から抜け出す事を意味した。
その前後、M氏の出版計画は暗礁に乗り上げる。
たぶん、M氏はこの時点で、南条あやにメリットを感じなくなり、切ることを決断したのであろう。
3月に入り、M氏はあやのページを独立させようと、あやにそのことを伝えた。
卒業したあやは、将来への不安と焦りでかなり不安定な状態となっていた。
それでも、私と2人、自分の新サイトを作る作業は続けていった。

3月30日、狂言自殺の末の事故なのか、自傷の延長だったのか、理由は分からないが、あやは、突然死去することになった。

南条あやの死後なお、M氏は日記に共同著作権を主張し、あやの本の出版したいため裏で出版社をまわっていたのだった。


おそらく南条あやは、M氏に見いだされなかったら誕生していなかったろう。
そして、南条あやはM氏の手によってマスメディアに登場したこともまた事実である。
最後の1年は、あやにとり激動の期間だった。
そしてその間の大半、あやはM氏の思惑通りだったであろうし、 本人もそれを楽しんでさえいた。
しかし、それが当人にとって、本当に幸福な事だったのかどうか、わからない。
なぜなら死んでなおも、利用されようとしていたことを考えると、一少女の運命にしては、あまりに残酷で救いがなさすぎるからだ。
あやの本当の気持ちがどうだったのかは、もう分からない。
死者は沈黙したまま答えてくれない。


「南条あやとして」

南条あや本人について触れたいと思う。
たぶん、私はこの後、あやについて書くことは無いだろうと思う。
それは、自分の中にあるべき事で、あえて書くべき必要性の無いことだと思うからである。

南条あやは、かなり変わった少女だった。
本人の日記を読んでいただければわかるように、すぐにリストカットしてしまうし、 (おかげで左の手首の傷は引きつってぼろぼろだった) クスリが大好きで、何処に行くにも、いつも大きなクスリ入れのタッパウェアが鞄に入っていた。
クスリの話をすると目を輝かせていたし、カラオケと焼き肉が大好きだった。
歌を唄うことが好きで中でもCoccoの曲は、カラオケで十八番だった。
注射器を学校の保健室から盗んだり、偽名を使って3つ子となりきり献血したりと、とにかく突飛な行動が多かった。
公園に行けば必ず木に登ろうとしたし、病院の消毒液の香りが好きで、 家に遊びに来れば携帯しているスプレーで、まき散らしていった。
個性的なのだといってしまえば、そうなのかもしれない。
しかし、あまりにもあやは、個性的すぎた。
代入不可能なほどに。
その代入不可な個性で、自然にでてきた言葉が日記となった。
個人的に日記を読んでみて、妙に惹きつけられるのはそのおかしな個性のせいだろう。

一見、読めばそのあやのその妙な個性に、つられ引き込まれてしまう。
みんなが喜んでくれるから、日記をつづけられると、あやは語ったことがあった。
読んで喜んでくれ、笑ってくれれば、それがあやの本望だったと思う。
あやは本来、明るい少女だったと思う。
けれど不安定で敏感である種の危うさも持っていた。

それは、彼女の心に、極度の不安と鬱があり、 また「生」と「タナトス」の間を振り子のように揺れ動く心せいだったからであるように思う。
あやは、日記の上でそれを笑った。
そういう自分を理屈をこねたりせずに笑いとばした。
笑いながら楽しく生きたかった。
笑うということで、ぎりぎりまでかろうじて「生」を肯定出来たのだと思う。
ままならぬ状況も、揺れ動く不安定な自分のこころさえも、笑いながら。
そして、その日記を、みんなが楽しんでくれた。
それで充分だった。
それ以上あやが、多くを望むことはなかった。
そんな、あやの中の笑わないとやっていられない癒えぬ傷をもつ魂が、痛々しいかった。
またそうして幸せそうに誤魔化しながら生きていく、あやのそんな生き方を危ういな、と本気で心配せずにはいられなかった。

そんな危うい生き方の代入不可の個性は、彼女の本質的な孤独から生まれたのだと思う。
おそらく、幼い頃から独りで過ごすことの多かった少女は、孤独であった。
孤独な故に、独特の敏感過ぎる感性をもち、その感性ゆえ変わり者として、いじめの対象になってしまった。
誰でも親であったら自分の娘が特殊なマイノリティであって欲しいとは思わないはずだ。
あやの父親もそうだったから苦労して、娘を中高一貫の私立を受験させた。

あやは一見、元気で物怖じしない、人なつっこさがあった。
人なつっつこさは、寂しさの裏返しだ。
通っていた学校では、変わり者であっても、精神系ネットに入れば共通項でくくられる似通った傷をもつ人間関係が出来た。
夜、人恋しくなれば、話の合う人たちと、チャットしあえたりメールなりの交換で寂しさを紛らわすことが出来た。
そのネット上で、日記を連載し南条あやとして振る舞うことの最も安らげたのかも知れない。

また1998年10月24日の日記には、こんな事が書かれていた。

「その友達の新築のきれいな家には「自殺しない」という約束をしないと遊びに行ってはいけないそうです…。(私は家の新築の匂い好き☆)私は「卒業するまでは自殺しないよぅ。」と言います。
「卒業までぇ!?このバカッ!もっと希望を持って生きろ!!」と言葉の応酬が始まるのです…。
これもまた日々の楽しみ…。
まぁ、取り敢えずのとこ、卒業してしばらくは死なない予定なので約束半分…。
よっぽどのことがない限りこのままノウノウと生きていきます…っていうか1999年7月に何があるか見届けたいし、 何もなくても2000年になる晦日の瞬間は是非見たいですね。
どんな騒ぎになるんでしょう。
2000年になる瞬間を見られるなんて今生きている特権の一つかもしれないと思う私でした。
その前に事故で死んだりするかもしれませんけどね。
(←ここが友人に悲観論者と言われるゆえん)」

今、振り返るとあまりに皮肉な内容となってしまった。
しかし1998年11月8日の日記であやは、こうも書いている。

「タイムスリップしてこの壊れていた頃の(現在も壊れてますけど)私に会って、話をしたいです。中学生で、浅いリストカットを始めた頃に精神科に通っていたら私の手首にこんなに深い傷は残らず、白く筋が残っていたくらいですんだことでしょう。美しいとは言えなくても、同級生のような、女の子のキレイな手首でいられたことでしょう。半袖を着て、オシャレもできたことでしょう。でも、今の自分も好きだから。今こうやってパソコンの前に座っているのも、過去の思い出があるから。傷があるから。だから私は、この傷を勲章とは思えなくても汚点だとは思いません。」

「生」を肯定した、傷ついた、そのままそうあってしまう自分さえ肯定した言葉だと思う。

おそらく、そうした「生」の肯定も、日記の上で南条あやとして振る舞うことで安らげた結果だった。
そして、高校を卒業した彼女は同じような安心できる行き場を必死に探していた。
18歳であった南条あやは年齢よりもっとずっと、ずっと幼い子供であった。
その孤独な幼い子供の魂は、保護される必要があった。
それは新サイトを「南条あやの保護室」と自ら命名したようなのように、守られ、保護された何処かであった。
確固とした行き場所でさえあれば、それは、おそらく結婚という形でもよかったのだった。
あやにその探していた行き場を与えられなかったことは、たぶんこの先私を長くにわたって苦しめるだろう。

あやは、絶えず襲い来る不安と鬱、「生」と「タナトス」の選択をいつも迫られていた。
日々の生と死の戦いの中、 そんな自分を笑ってかろうじて「生」を肯定できた。
薬を飲みながら、時間稼ぎをしながら。
あやは、事故死でも自殺でもない、ぎりぎり闘って、闘い抜いてそうして力尽きた結果なのだと思いたい。
だからあやの日記は他ならぬ、あやの「生」の記録なのだと思う。


第2部

「――残酷な世界の続き2003――」

2001/08/13 Webサイト「南条あやの保護室」は、メモリアルサイト化となり 一切のサイトの更新を終了した。
それに伴いWebサイトを共に作ってくれた Aya's Black Childrenのスタッフの役割は終了した。
ABCは「解散」ではなく「散開」という形をとなり、それぞれの 生活に戻っていった。
ただスタッフ同士がいつまでも、連絡を取れる 関係を理想として「散開」という言葉でサイト構築を終了した。

私はWebサイトを完成させるに当たり、多くの人間と出会うことなしに それを作り上げることができなかった。
Aya's Black Childrenに一度でも在籍したメンバーはスタッフリストにある名前より はるかに多い。
当時の自分を振り返ると、憑き物のようにある種の狂気を孕みながら ただがむしゃらに進んでいくしかなかった気がする。
それにいやな顔ひとつせずについてきてくださったスタッフには本当に感謝したい。
制作の現場では、(自らの責任において)Aya's Black Childrenスタッフの皆さんに 不愉快な思いを強いてしまったり、理不尽な押しつけ、 方向性の違いからの離別や齟齬や誤解などもあっただろうと思う。
このようなことについて、私はABCスタッフの皆さんに 深く心中より反省し謝罪致したい。

私はどうみても組織的な人間では無いし。
ましてや30人以上もいた Aya's Black Childrenを引っ張っていける器ではなかった。
やがてABC内での齟齬などで離れていくスタッフも出てくることにもなる。
いつも思っていたのは、私にもっとまとめる力があったならということだった。


サイトに訪れる人が多くなるにつれ、また他のいろいろなサイトにリンクが 張られるようになってくると、状況は変わり始める。
単行本の出版やテレビや雑誌などのメディアへの露出もあってか 同様なサイトの中でも驚異的なアクセス数となった。
そして、なんのためなのか、目に見えての嫌がらせも増えてきた。
ある場所では、当サイトの動向がネットウォッチングの対象にされ、またある場所では、私やスタッフ達のプライバシー暴露や誹謗中傷が目に付くようになってきていた。

はじめは、私などは「名前も名のることもできない連中」と相手にしないことにしていた。
しかし、その誹謗中傷もエスカレートして、故人である「南条あや」に 対して及んだとき、私は「いらだちとひたすらの無力感」と「その人間性への吐き気にもにた思い」を覚えた。
故人南条あやを持ち上げろなどとは言わない、誹謗中傷を書いてさえよい、しかしどこぞの「匿名の人々」たちは、死者に対する最低限の配慮というものをもっていたのだろうか? 人により、南条あやのその短かった人生の評価や価値は別れるだろう。
批判をするなとは言わない。しかし、最低限の死に去ってしまったものへの配慮はなされるべきではないのか? そのような者に、「もしあなたの傍のもっとも大切な人が亡くなったとき、その人に 対して誹謗中傷や陰口をたたかれたらどうしますか?」 そのように噛んで含んで説明しなければ解らぬことへの「いらだちとひたすらの無力感」だ。
そんなこともわからないほど、愚かしく無知なのだろうか、あのヒトたちは。
そしてそれが匿名でなんの責任も負うことのない者の言葉であれば「そういう人間性への吐き気にもにた思い」もやむことはない。

実際に他にもサイトの事実誤認やなりすましでの書き込みなどもたくさんあった。
かなりの数の問題となる人々がいたが、例を出すと、「南条あやの日記」に登場するAちゃんという人物が私相馬ヰワヲだということである。

実際のAちゃんなる人物は存在しない。
日記にかいてもらっては困ると、いう人たちがおり、しかしどうしても日記に登場させたいとき、彼女はAちゃんという人物で表現していた。
その中には私も含まれているが、無論後3名ほどの特定されたくないという人物の話も入っている。

そして、自らが南条あやの婚約者だと公言するものもいた。
その彼は自衛官として任務中に南条あやの死を知り、病院まで駆けつけたという。
では南条あやの死に際し、霊安室に駆けつけた時、誰と誰が居て、どのような状況であったか述べることができるのだろうか? ここまで来れば笑ってしまうしかない。

さて、私が一時期「南条あやの保護室」を停止させた理由を述べなければならない。
ある時期、私自身のプライベート情報などが、あらゆる関連サイトにながされた時期があった。

そして故人でもある南条あやもそこでネタにされていた。
私のパソコンへの度重なるクラッキング。
私個人への物理的嫌がらせ。
そして2002年春私は混乱していた。
そんないわれなき中傷のなかサイトをそのまま守り続けるか、私が混乱のなか真の意味での狂気に足を踏み入れてしまうか? 混乱していくなかで、私はこの2つ以上の選択肢を考えられぬところまで、せっぱ詰まっていた。

結果から述べると残念ながら私にはもはや「南条あやの保護室」を守ることのできない状態になっていた。皆さんとの約束であった「メモリアルサイトとしての南条あやの保護室」は私には、もはや不可能と判断するしかなかった。
このときほど苦しいときはなかった、自らの作ったものを殺すに等しいことであるのだから。

そしてこのことは、約束を果たせずにいた私ヰワヲの判断であるのだから、どのように責任を追及されても、私には一切反論の余地はない。

現在、本サイトはAya's Black Childrenのes+氏と南条あやの父君の手によって管理運営されている。
特にes+氏の労力とありがたい配慮、多大なる犠牲について、私は本当に感謝しているし、氏のご苦労を 考えると頭が上がらない。
私がこれ以上、Webサイトに関わろうとしないのにはいくつかの個人的な事情がある。

あやが死去する直前に送られた詩がある。


名前なんかいらない
起きなくてはいけない時間に起きて
しなくてはならない仕事をして
名前を呼ばれるなら
誰にも名前を呼ばれたくない
何もかもを放棄したい
そして私は永遠に眠るために今
沢山の薬を飲んで
サヨウナラをするのです
誰も私の名前を呼ぶことがなくなることが
私の最後の望み



この詩をもっと理解していたら、ひょっとしたら私はこのWebサイトを作らなかったかもしれない。
南条あやの最後の望みは「誰も私の名前を呼ぶことがなくなること」だった。
それすら私にはわからなかった。
たぶんこの先も、彼女が「忘れ去られること」はないとおもう。
「誰も私の名前を呼ぶことがなくなること」の婉曲な裏返しが本当の望みであるのなら 私の行為も間違ってはいなかったように思う。

しかし死者は何も語ることがない。
この世界は果てしなく、おかしくて残酷で、そして哀しいままつづいていく。
私はその問いかけをつづける。
もしかしたらこのサイトがたとえ少なくとも誰かのためになるのなら、それは南条あやの死に際しての 思いとは、少し異なったことになるが、続けられるべきだろう。


2003年5月31日
Aya's Black Children相馬ヰワヲ


モドル