組織局
誰がコピーしたのか存じませんが、22派の中国語版を見つけました!
真宗二十二派(+α)&本山紹介
既存の真宗系宗教団体を網羅した分類については、福原亮厳博士による《真宗二十二派》(『真宗二十二派七十五学者述真実の宗教』永田文昌堂、1986年)が有名であるが、ここでは、本山を中心にその系統を再分類し、あわせてその後の変動をも取り入れてみた。
(宗派名の後の番号は、福原亮厳博士の分類番号による。)
本山 |
宗派名
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所在地 |
備考 |
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リンク |
龍谷山本願寺 |
浄土真宗本願寺派(1) |
京都府 |
通称【西本願寺】 |
詳細 |
公式 |
円頓山興正寺 |
真宗興正派(4) |
京都府 |
正式名称【興隆正法寺】 |
詳細 |
公式 |
出雲路山豪摂寺 |
真宗出雲路派(8) |
福井県 |
通称【五分市本山】 |
詳細 |
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山元山護念院
証誠寺 |
真宗山元派(9) |
福井県 |
通称【横越本山】 |
詳細 |
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本願寺 |
門徒宗一味派(18) |
北海道 |
興正寺系 |
詳細 |
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霊鷲寺 |
仏眼宗(11) |
神奈川県 |
管長の菊池静流は、真理カウンセラー? |
詳細 |
公式 |
大菩提寺 |
仏教真宗(17) |
熊本県 |
根本霊場 |
詳細 |
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(なし) |
浄土真宗親鸞会 |
富山県 |
西本願寺と対立する在家団体 |
詳細 |
公式 |
本山 |
宗派名 |
所在地 |
備考
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リンク |
真宗本廟 |
真宗大谷派(2) |
京都府 |
通称【東本願寺】 |
詳細 |
公式 |
大谷本願寺 |
(寺務所のみ) |
京都府 |
東本願寺内事、大谷家内 |
詳細 |
TEST |
本山東本願寺 |
浄土真宗東本願寺派 |
東京都 |
【浅草門跡】 |
詳細 |
公式 |
本願寺 |
(財)本願寺維持財団 |
京都府 |
伏見区に宗教法人設立 |
詳細 |
公式 |
中野山専照寺 |
真宗三門徒派(7) |
福井県 |
通称【中野本山】 |
詳細 |
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歡喜踊躍山浄興寺 |
真宗浄興寺派(12) |
新潟県 |
正式名称【浄土真宗興行寺】 |
詳細 |
公式 |
岩船山願入寺 |
原始真宗(19) |
茨城県 |
大本山;【大網門跡】 |
詳細 |
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稲田山西念寺 |
浄土真宗(単立) |
茨城県 |
別格本山;【稲田御坊】 |
詳細 |
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長生寺 |
真宗長生派(13) |
神奈川県 |
総本山 |
詳細 |
公式 |
方今道平等院 |
浄土真宗同朋教団(15) |
石川県 |
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詳細 |
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本山 |
宗派名 |
所在地 |
備考
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リンク |
高田山専修寺 |
真宗高田派(3) |
三重県 |
別名【専修阿弥陀寺、無量寿寺】 |
詳細 |
公式 |
北本願寺 |
真宗北本願寺派(14) |
北海道 |
(越前法雲寺の流れ?) |
詳細 |
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本山 |
宗派名 |
所在地 |
備考
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リンク |
渋谷山仏光寺 |
真宗仏光寺派(5) |
京都府 |
正式名称【阿弥陀仏光寺】 |
詳細 |
公式 |
総本山浄光寺 |
淨土真信宗浄光寺派(16) |
福岡県 |
《まことのじょうどしんしゅう》と読む |
詳細 |
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本山 |
宗派名 |
所在地 |
備考
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リンク |
遍照山天神護法院
錦織寺 |
真宗木辺派(6) |
滋賀県 |
通称【木部本山】 |
詳細 |
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- その他の系統(【真宗五派】以外の系統、または系統不明のもの)
本山 |
宗派名 |
所在地 |
備考
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リンク |
上野山誠照寺 |
真宗誠照寺派(10) |
福井県 |
通称【鯖江本山】 |
詳細 |
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大法輪台意光妙教会(20) |
福岡県 |
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詳細 |
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和の教会 |
和の教会(21) |
石川県 |
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詳細 |
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ハニベ岩窟院 |
ハニベ岩窟院念仏会(22) |
石川県 |
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詳細 |
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遣迎院 |
浄土真宗遣迎院派 |
京都府 |
天台宗系 |
詳細 |
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瀧光徳寺 |
中山身語正宗 |
佐賀県 |
眞言宗系;大本山 |
詳細 |
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一心山昌玲寺 |
真宗一心山昌玲寺派 |
東京都 |
興正派系;本願寺派へ加入準備中? |
詳細 |
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※上記宗派名後番号中、(1)から(10)を【真宗十派】と称し、親鸞聖人御誕生八百年、立教開宗七百五十年を勝縁として【真宗教団連合】を結成し、互いに協調関係をとっている。
※真宗十派以外の本山に関しては、《本山となるべき特別の由緒を持つ寺院》と、《かなりユニークな教義を持つ教団》との二種類に大きく分けることができます。
両者は、分けて考えてしかるべきでしょう・・・・。
(福原先生は、一体何を考えて「ハニベ岩窟院」等を真宗二十二派に数えたのだろうか・・・???)
⇒ どうやら、『仏教宗派辞典』(東京堂出版)に掲載された22派が、真宗二十二派の語源になったらしい。
詳細データ
- 龍谷山本願寺(本派本願寺)
- 所 属:浄土真宗本願寺派本山
所在地:京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町
門 主:大谷光真(即如)
総 長:松村了昌
末 寺:10,353
教 師:28,894人
信 者:6,940,487人
開 創:天正19年(1591)、顕如
- 建 物:書院550坪(桃山期建・寛永九年桃山城より移築。襖絵は、狩野探幽了慶興意他)
- 黒書院及び伝廊(明暦三年建)、北能舞台(天正九年)、唐門(桃山期建・寛永八年桃山城より移築、日暮門と称す)、飛雲閣(桃山期建・寛永五年聚楽第より移転、襖絵は、狩野永徳山楽元信らの筆)【以上国宝】
本堂(阿弥陀堂)594坪(宝暦十年)、御影堂(祖師堂、大師堂)933坪(寛永十四年)
玄関浪の間虎の間太鼓の間(いずれも桃山期建・寛永九年伏見桃山城より移建)、南能舞台(橋掛付天正九年建)、黄鶴台(廻廊付桃山期建・寛永年間聚楽第より移建)、鐘楼(元和六年建、銅鐘は、元太秦の広隆寺のもので、久安六年の銘)【以上重文】
御影堂前正門(正保二年)、太鼓楼、総門、阿弥陀堂門、大関門、経蔵(天輪蔵)、護持堂茶所その他
-
- 寺 宝:親鸞聖人画像(鏡の御影と称し、鎌倉期専阿筆・付安城御影及びその副本)
- 熊野懐紙(正治二年後鳥羽天皇宸翰以下11通)、三六人家集三七帖(平安期作)、観無量壽經註阿彌陀經註(ともに鎌倉期親鸞筆)【以上国宝】
慕帰絵詞10巻(室町期隆昌久信筆)、雪中柳鷺図(室町期伝趙仲ぼく筆)、善信絵二巻(鎌倉期作)、伏見天皇宸翰御歌集(歌九九首正和年間作)、証如極官関係文書三幅二巻、銅鏡(平安期作)【以上重文】
六字尊号、教行信証六帖、消息三通、三経往生文類、弥女譲状(いずれも親鸞筆)
浄土論註(親鸞加筆)、唯信鈔、微御釈(共に親鸞写)、安心決定鈔、歎異抄(共に蓮如写)、浄土三部経四帖(存覚筆)、上宮太子御記(覚如筆)他多数
- 説 明::
- 宗祖親鸞の滅後、末娘の覚信尼は、親鸞の孫如信と共に高田門徒の顕智をはじめ諸方在住の遺弟とはかり、東山大谷にある墳墓のほとりに仏閣をたて、親鸞の影像を安置した。これが本願寺の起源【大谷廟堂】である。
(この時、亀山天皇より【久遠実成阿弥陀本願寺】の号と勅額を賜ったといわれる。)
覚信尼の孫である覚如は、親鸞の真弟(孫で直弟子)の如信より真宗の血脈を相承し、大谷廟堂を寺院化し、一宗の本寺とした。
以後順次血脈相承し、第八代蓮如の時に教線を広げて、山科に本願寺を再建、今日の隆盛の基礎を作る。
信長との石山合戦を戦った後、豊臣秀吉は、十一世顕如に寺地を寄進して現在地に本願寺を再建した。
顕如遷化後、長男の教如が一時寺務を執るが、慶長二年母如春尼が顕如の遺言(譲り状)をもって秀吉に訴えでたため隠居し、三男准如が十二世となる。
(後に、教如は、家康より寺地の寄進を受けて別立。東本願寺開基となる。)
江戸時代、《三大法論》等を経て、学事多いに興隆し、また明治維新に当たっては率先してこれを推進した。
明治以降も進んで西洋化を試みるなど、絶えず旧態以前とした仏教界の機構改革への牽引役となる。
烏丸通りに位置する東本願寺に対して、通称【西本願寺】と称する。
- 真宗本廟
- 所 属:真宗大谷派本山
所在地:京都府下京区烏丸通七条上ル常葉町754
門 首:大谷暢顕(浄如)
宗務総長:能邨英士
末 寺:8,834
教 師:17,010人
信 者:5,533,146人
開 創:慶長七年(1602)、教如
境 内:
- 建 物:本堂760坪、御影堂1350坪、大師堂門(大門)、宮御殿(大宮御所の一部を下賜)
- 黒書院白書院(大阪の戸田猶七寄進)、大寐殿(本願寺正殿で壁画は竹内栖鳳筆)、勅使門、鐘楼、玄関、小書院、接見所、茶所、絵画所、土蔵、使丁堂ほか
- 寺 宝:坂東本教行信証六巻(親鸞筆)【国宝】
- 淨土文類聚鈔、一念多念証文、唯信鈔文意(以上親鸞筆)
親鸞木像(常葉の御影)、同(蓮位房伝授)、同(教如作瞻仰の御影)【以上重文】
蓮如一期記(兼俊筆)、報恩講私記(蓮如筆)、聖徳太子奉讃(覚如筆)、六字名号、一枚起請文(共に法然筆)、後奈良後陽成孝明天皇宸翰浄土三部経一部四冊および和歌短冊10枚、諸神本懐集(存覚筆)、毛綱(両堂再建時、巨材を引く為用いた諸国の女性信徒の頭髪で作られた太綱)
- 説 明:
- 親鸞の滅後、末娘の覚信尼は、東国の親鸞の門弟と共に、東山大谷に廟堂を建立し、建治三年、廟堂及びその敷地を門弟に寄進して、自らは、その留守職として御真影の御給仕に勤めた。
覚信尼の死後、親鸞の縁者源尹なるもの大谷の横領を企み、また覚信尼の末子唯善、廟堂の私有化を企むも、門弟ら相計って、よく廟堂を護持し、或いは再建す。
覚信尼の子孫である八代目留守職蓮如は、宗祖の遺風を慕って、よく御同朋御同行の輪を広め、親鸞の真影まします本廟を中心とする大教団を形成した。
蓮如の築いた同朋教団は、権力者信長の前に一端は屈したものの、天正十九年豊臣秀吉より寺地の寄進を受け、ついで慶長七年徳川家康より現在の境内地の寄進を経て今日に至る。(この間、留守職家の私的な跡目争いにより教団は東西に分裂する)
明治以降、清沢滿之、曾我量深、安田理深等の英才を輩出し、近代日本仏教界をリードすると共に、同朋主義の顕現に努め、昭和62年には、従来宗門とは別に存在した《宗教法人本願寺》を解散して宗派に吸収し、念願の【宗本一体】を達成した。
以後、この真影まします堂宇を宗門崇敬護持の中心として、【真宗本廟】と称する。
また、堀川の西本願寺に対して、通称【東本願寺】とも称する。
長年内局と対立した二十四代闡如の遷化後、後継者をめぐって混乱したが、平成八年十一月、闡如の三男浄如が二十五代門首に就任し、御真影の御給仕に専念することとなった。
- これによってようやく、長年の混乱の元であった【歴代中心史観】から【本廟中心史観】に完全に移行して永年の紛争を収拾した。
平成15年には、長年の懸案であった井波別院の正常化を果たし、大谷家を相続した大谷光道氏(浄如の弟)との間の裁判も余すところ内事立退き裁判だけとなり、紛争の完全終結も秒読みの段階に入った。
-
- 大谷本願寺(本願寺寺務所)
- 所 属:浄土真宗(東派)
所在地:京都府下京区烏丸通七条上ル常葉町754
門 跡:大谷光道(秀如)
寺務長:河村晃一
末 寺:(不明)
教 師:(不明)
信 者:(不明)
開 創:昭和五十四年、闡如
建 物:なし(大谷家仏間等を暫定的に使用)
寺 宝:東本願寺宝物の内、大谷家所有と認められるもの(大谷派との間で調停中)
- 説 明:
- 宗祖親鸞は、九十年の生涯をかけて、一所に留まること無く伝道にいそしみ、お念仏の輪を広げ、同信同行の人々と共にお念仏を喜ばれた。
親鸞滅後、真弟(孫で直弟子)の如信は、北関東に留まり、みずから念仏の輪を東北地方まで広げた。
また、三世覚如は、二世如信に面授口決、血脈相承して、本願寺を称し、宗典を著して祖師の宗風をよく顕彰した。
五世綽如は、明徳元年、北陸へ巡化して越中に瑞泉寺を建立し、六世巧如は加越に教線を広げ、七世存如も北陸を遊化して越前に西光寺を造営した。
八世蓮如もまた、自ら全国を回り、大いに寺運を興隆させた。以後、次第相承して、累代教化に勤しみ、近年に至って二十二世現如もまた、みずから北海道へ赴いた。
しかしながら、二十四世闡如、ブラジルへ赴くこと有りといえども、未だその任をなさず。かえって、近代思想の教団への流入は、象徴【門首制】を敷行して、法主の宗教活動を禁じ、あまつさえ歴代の業績を抹殺して、本願寺解散の暴挙を行う。
ここに、祖師は必ずしも大伽藍を欲せず。本願寺歴代の使命は、微力なりともみずからお念仏の御同行と直接触れ合うことにある。と、二十四世闡如が大谷派の新宗憲を拒否して、本来の本願寺を存続させる為に設置した寺務所。
闡如遷化後は、遺言(譲り状)によって、四男秀如が二十五世を相続した。
東本願寺の法宝物は、大半が秀如の所有となり、大谷本廟の参拝権も認められたようですが、近いうちに長年活動の拠点であった大谷派本山内の住宅からの立退きを迫られるようです。
- 浄土真宗東本願寺派本山東本願寺(旧称;東京本願寺、浅草門跡) やたらと長い名称ですが、正式名称だそうです。
- 所 属:浄土真宗東本願寺派本山
所在地:東京都台東区西浅草1丁目5番5号
法 主:大谷光見(聞如)
執務長:立花記久丸
崇敬寺院:324(『浄土真宗独立寺院名簿』による)(平成八年より、崇敬寺院の中から新たに末寺を選定)
教 師:(現在調査中?)
信 者:(現在調査中?)
開 創:天正十九年(1591)、教如
境 内:4250坪
建 物:本堂642坪、霊堂42坪、大谷ホール132坪、御遠忌記念会館115坪、茶室紫雲亭他
- 寺 宝:本尊阿弥陀如来(鎌倉期作都重宝)
- 金銅シャム釈迦如来像、箱根山の御真影(宗祖自作)、九字名号(伝宗祖作)、絵伝三幅物四幅物二組、西藏大藏經(和本)230冊、茶室紫雲亭替襖(棟方志功作)13枚他
- 説 明:
- 宗祖親鸞の滅後、末娘の覚信尼は、みずから土地を寄進して、諸方在住の遺弟とはかり、東山大谷にある墳墓のほとりに仏閣をたて親鸞の影像を安置して、自己の子孫をしてながくその御給仕の任に当たるべく発願した。これが本願寺の起源である。
覚信尼の長男覚恵の長男覚如は、東国の親鸞旧跡を巡拝し、彼の地で如信(親鸞の長男の長男)より真宗の血脈を相承し、大谷廟堂を寺院化し、一宗の本寺とした。
七代存如の後、門下の大勢は、正妻の子応玄を本願寺住持に推挙したが、存如の弟如乗(井波瑞泉寺住持)の尽力により、存如の長男蓮如が本願寺の法燈を継いだ。
八代目法主となった蓮如は、本願寺を吉崎、山科と移転させ、教線を拡大し、分裂していた門弟諸流派を統合して、よく本願寺の寺運を興隆させた。
蓮如の後、実如・証如と相続し十一代顕如の時、本願寺は門跡に列せられた。
顕如が亡くなると、長男教如が後を継いで門跡となったが、教如は、秀吉の命により故有って、弟准如に本願寺を譲って隠居した。
しかるに、長男教如を慕う人多く、表門に参る人少なくとも、教如のいる裏門には、絶えず参詣の列のできるありさまであった。
この樣子に目をつけた徳川家康は、関ヶ原の合戦の後教如に近づいて、本願寺住持に戻るように勧めたが、本願寺の内紛をもくろむ家康の真意を見抜いた教如は、これを断り、別に一宇を建立したき旨を申し述べたという。
これによって、「同じこと」という本多佐渡の守の入知恵も有って、家康は、京都六条烏丸の地に広大な寺地を用意し、教如に寄進した。
これが、【東本願寺】の起こりであり、以後【長男相続】を旨として法燈を次第相承し、二十四代闡如に至った。
しかるに、戦後教団の内外を席捲した【唯物論思想】は、教団の中に【真人社】なる教団革命組織を誕生させ、やがて政治結社【直道会】と名を変えて、時流に乗り着々と勢力を拡大し、ついに宗門を乗っ取るまでに至った。
闡如は、本願寺を宗派より独立させてこの窮地を乗り切ろうとするが、今一歩のところで第三者より妨害が入り、やむなく失敗に終わった。
闡如の長男、本願寺法嗣興如は、この本願寺独立に呼応して昭和57年自ら住職を務める東京本願寺を独立させ、あくまで京都の闡如を支えたが、勢いに乗る改革派は、昭和62年12月16日、長年の懸案であった本願寺の解散を強行し、本願寺の法燈を完全に抹殺してしまった。
ここに興如は、既に独立していた東京本願寺において、本願寺の法燈の継承を宣言し、紛争によって独立した三百余の末寺と共に【浄土真宗東本願寺派】を結成した。
平成八年、新たに「宗規」と「憲章」を定め、従来の崇敬寺院とは別に「末寺」制度を設けた。(平成八年十月末現在で末寺証親授109箇寺)
興如光紹が遷化して、法嗣である長男の聞如(もんにょ)が法燈を継承、さらに名称を「(宗)東京本願寺」から「(宗)浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」と改称して(内、末寺は109、今日に至る。
なお、東京本願寺の前身は、真宗大谷派浅草別院。宗祖700回忌を期に東京本願寺と改称した。
- 本願寺
- 所 属:浄土真宗本山(財団法人本願寺維持財団)
所在地:京都市山科区上花山旭山町 8−1
門 主:大谷光輪(楽如)
門 跡:大谷暢順(經如)
末 寺:(不明)
教 師:(不明)
信 者:(不明)
建 物:本堂、納骨堂他
寺 宝:(不明)
- 説 明:
- 弘長二(1262)年十一月二十八日宗祖親鸞聖人が善法院にて入滅すると、翌二十九日末娘覚信尼らは洛陽東山にて荼毘に付し、同山麓鳥辺野の北大谷に遺骨を納めた。
文永九(1272)年冬、覚信尼は自ら土地を寄進し、吉水の北に廟堂を建立し遺骨を掘り渡し影像を安置した。これが本願寺の起こりである。
寛正六(1465)年一月、延暦寺西塔の衆徒の手により大谷本願寺を破却され、八代蓮如は、寺基の移転を余儀なくされ、各地を転々とした後、文明年間に本願寺を山科に再興した。
天文元(1532)年八月、山科本願寺は、六角定頼・法華宗徒等によって焼かれ、翌天文二年七月、十代証如は、寺基を石山の坊舍へ移した。
天正八(1580)年四月、信長と和睦した十一代顕如上人は、寺基を紀州鷺森へと移転し、次いで、和泉貝塚・大坂天満・京都堀川と寺基を移転した。
慶長七(1602)年二月、徳川家康より寺地の寄進を受けた十二代教如上人は、本願寺の寺基を烏丸六条へ移した。
昭和62(1987)年12月16日、真宗大谷派は、本願寺を解散し、本願寺の歴史と伝統を消滅させてしまった。
平成八年一月、二十五代楽如は、本願寺を復活させ、寺基を宗祖ゆかりの地、東山上花山に移転した。
- 平成 年、京都市伏見区に、楽如の父經如が宗教法人「本願寺」を設立して寺基を移転。經如が門跡となる。
經如が門跡で、息子の楽如が門主、いったいどちらが宗主にあたるのか、部外者にはよく分かりにくいです。
一心山昌玲寺(真宗一心山昌玲寺派)
山口昌玲(女)新潟豪農の娘。戦後、宗教法人令ができた時に創立した。本人は興正派で得度。離婚暦あり。
(別れた元夫、西本願寺布教使。よく活躍するも日本刀を差して歩く変わり者。)
山口昌令はおとこまさりで、明大、日大、東大大学院などを出て、板橋市議会議員なども勤める。故市川房江などとも付き合いあり。寺の前に捨てられていた女の子を育てる。(M子)。この子は長じて昌玲とうまく行かず、高卒で寺を出る。昌玲、昭和六十一年孤独のうちに没。八十六歳。
一人息子(嫡出子)藤村公久氏(西本願寺布教使)世襲制とする寺法により二世として入寺するも、身をもちくずしていたM子、暴●団をつれてくる。寺檀家、役員などとも争いになる。(億の財産をめぐり)。
東京地裁、判決により勝訴するも、反対派の脅迫ひどく(闇の集団、)、そのため藤村氏は心労により半年後に没。五十七歳。本山に迷惑はかけられないと、藤村氏、僧籍を返上して戦っていたので、なくなったときは、僧にあらず。毎日新聞刊「宗教を現代に問う」に藤村氏のこと出ています。
藤村氏の所属寺は、大阪 八尾の光蓮寺( 勧学 稲城和上の寺院?)であった。
そのあと、奥さんが鉄道自殺で亡くなる。
その後、二人の息子は、西本願寺中央仏教学院を出て、現在二人で昌玲寺を運営している。(三十才ぐらい)。二人の所属は、小平市 本願寺派 S恩寺。
ゆくゆくは西本願寺に所属するものと思われる。
注:インターネット上で見つけた情報を元にを無断で掲載させていただきましたが、念のため一部を伏字にさせていただきました。
宗派に属さない単立寺院の陥りやすい危険性を表す事例とも考えられます。
設立者が立派な方でも、代替わり後、宗教法人の特権を狙う闇の力に狙われて、この様なめに会う可能性があることに留意しましょう!
二人のご子息のご尽力によって、昌玲寺が立派に再建されることを期待しております。(如宴)