COLUMN  岡田利規に関する二三の出来事

岡田利規の造形的舞台が想起させるもの
柳澤 望

80年代的小劇場演劇から変わりばえのしないような演劇作品にはうんざりする私だが、チェルフィッチュの舞台には、何か新鮮なものがあって、初めて見たあとすぐに、岡田さんの作品をもっと見てみたくなっていた。
岡田さんの作品の魅力は、その造形性にあるのではないか、と思う。造形性といっても、型にはめ込むようなものではなく、形が生み出されてくるような造形性、とでも言うか。



チェルフィッチュの作品を初めて見たのは、昨年の5月、ダンスの領域にむけて派手ではないが実験的で革新的な作品を発表している手塚夏子さんとの合同公演でだった。そのとき渋谷の画廊ル・デコで披露された小品「マンション」は、おおよそ次のようなものだった。

いまふうの若い男二人が、いかにもだるそうに立ちながら、ぼそぼそと会話を続けている。銀行のお金を引き出せなくて困ったとか、お店に店員が居なくて困ったとか、部屋を探していて困ったとか、埒もない話が始まっては終わる。語る二人の仕草は、所在なげなままである。

やる気のないコントと言った趣もある作品だったが、ふらふらとしながら立ち話をする虚ろな様子、とでも形容したくなる印象を与えた役者の身振りは、感情表現や仕草の再現として成り立つ演技によって支えられていたのではなかった。

演出家として、岡田さんは、何か音がしたらその方向をしばらく見るように、という指示を役者に与えていたのだという。画廊で上演されたこともあり、ビルの外から電車や自動車の騒音が漏れ入り、観客が笑ったり、音を立てることもあった。
指示に従おうとする役者の仕草には無意識な動きがいろいろと紛れ込んだに違いない。その結果として、ふと会話が途切れた間になされる仕草などに何か妙な確かさがあるような印象が残ったのだ。確かにこれはどこか上の空でありながら落ちつかなさが抜けない現代の若者的身体の形である、と納得できるような。

ここでは、役者の身体は、ある条件に置かれることで、ある形を取ってしまうようなものとして用いられている。

身体を、表現を行う主体としてではなく、可塑的な媒体として捉えるような岡田さんの視点。ありもしない架空の場面を再現しようとして、型にはまった説明的な演技を戯曲から引き出して配置するような演出とは全く違う、役者の細かな身振りから場面の形が生み出されてくるような岡田さんの演出の姿勢。

それを、表現性や再現性から区別して、とりあえず「造形性」と呼んでみたいと思う。

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岡田さんの造形的な舞台は、単なる再現的リアリズムとは違う。

例えば、他人の所在なさなんかに人は普段注意していない。いわゆるリアルな演技、というのは、普段の生活には大量に紛れ込んでいる雑多な仕草の枝葉を刈り取ってしまった所で成り立っている。

ここで問題にしたいある種リアリズム的な演技のリアルさというのは、現実感を醸し出すために余分なものを削ぎ落とした所に成り立っていて、普段の生活で人が気付き意識している範囲の中にきれいにおさまるような仕草や表情の情報を効率良く伝えるようにできているようなものだろう。いわば、日常の限定された現実感覚に見合ったリアルさである。

だからこそ、人は、役者の演技が巧みであればあるほど、それが演技であることに気付かずに通り過ぎる。そこで、所在なさが演技で表現されたり再現されたりするときはたいてい、彼は所在ないのだ、と読みとれるようなサインが身振りや表情で示されているだろう。
人は、演技を見ることを忘れ、演技を読みとっている。演劇に縁遠くても、CMやドラマなどを瞬時に読み終えるために、この手の演技に目を慣らしている人がほとんどだろう。

岡田さんの作品では、普段人が注意していないような身振りの方が、逆に強調される事がある。だから逆に、所在なさそうな身体の形が、身振りの造形としてきわだつ。

ここでは、肌触りや肌理の水準から、造形性という言葉を理解してほしい。素材の材質感も、布や木材の表面の微細な構造から生み出されるものなのだから。

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「マンション」の次に見ることができたのは、昨年九月にタイニイ・アリスで上演された「三日三晩、そして百年。」という作品だった。時間的にも、舞台の広さから言っても、より大きな規模のものだが、役者は若い男と女の二人だった。

演技の水準において「三日三晩、そして百年。」で印象に残ったことのひとつは、ウェイトレス役の女優が、スカートをはいた自分の腿のあたりを落ちつかない様子で触る仕草を癖のように繰り返した事だ。
それは、なるほど喫茶店を訪れた見慣れない問題含みの客とどのような距離を取っていいのか分からず戸惑う身体の形である、と確かに納得されるような印象を与えるものだった。

普段、人は自分が行っている仕草を意識しない。落ちつかない時にする仕草の癖みたいなものは、無意識になされるものだろう。だから、無意識な癖を意識的に演技しようとすると、ある種の誇張のようになってしまうはずだ。ものまねを楽しむように誇張自体を喜ぶのでないなら、演技の誇張は嘘臭く見えてしまうだろう。

あるいは、演技の洗練によって、高度の意識のコントロールによって、癖の演技を自然に見せるということもあるかもしれない。だが、それはある種の様式化だろう。
そういう風に演技を練り上げる仕方を塑像的と呼べるとしたら、岡田さんの演出における演技の水準の造形性という言葉で私が言いたいのは、すでにある身体条件から身振りの形を切り出してくる、いわば彫像的なものだ。

落ちつかなさの印象を与える仕草は、ありがちな仕方でリアルな演技を見慣れている目には、ある種の不自然さとして、あるいは、雑音のようなものとして目に立ったかもしれない。

「三日三晩、そして百年。」で、女優にどんな指示がなされていたのかは知らないのだけれど、無意識な身体のこわばりが生む雑音のような仕草を造形することは、おそらく、身体を、ある種の姿勢や身振りが形として生まれてくるような条件に置くようにしてなされていたのではないかと思う。

観客がそこから所在なさを感じたとしたなら、仕草の意味を読みとったという以上に、身体が置かれた形を身体によって感受するという仕方でなされたに違いない。
普段の生活でも、人は相手が緊張していることを仕草から読みとっているのではなく、相手の身体に対置されたその人の身体が、すでに相手の身体の形に応答した形を取ってしまうことが、緊張の雰囲気として意識されるという事だろう。

造形的なものとしての舞台とは、読みとられ解釈される舞台ではなく、触知されるように見られる形として立ち上がってくる舞台なのである。岡田さんの造形的舞台には、日常の現実感覚が見過ごしている身体の形が雑音の様に露呈されている。

塑像的鍛錬は、超絶した身体を要求するかもしれない。
だが彫像的な造形の確かさは、どんな身体でも常に発している雑音を切り取る仕方に関わっている。
それはむしろ、検索、発見、編集、加工、といった技術に近い感覚を要求するものだろう。

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「三日三晩、そして百年。」は、赤旗を持っているように指令されたまま待機し続ける末端の左翼活動家と、店主の留守を任されているウェイトレスが、旗の置場所に困ったり、飲み物や食べ物を探すのに困ったりしている間に淡々と時間が流れてしまう、というような情景を描いて行く作品だ。それぞれの場面の間延びした時間は、暗転ごとに断ち切られる。暗転はクラシックのピアノ曲の一節が繰り返し流される事によって、アクセントを付けられる。

同じ喫茶店の一室が舞台であって、テーブルがひとつに椅子がふたつというシンプルな舞台構成だ。舞台上の時間は、台詞の上では奇妙にも100年経過してしまうらしいが、舞台中央の喫茶店のセットの壁にはオフィスや教室にあるようなアナログ時計があって、それは実際の時間を刻んでいる。役者それぞれの身体が、現実の時間を生きているように。そして、喫茶店のセットは広い舞台の中央にコンパクトにまとめられていて、その周囲には素の舞台の何もない空間が残されている。

こういう展開や舞台の構成にも、造形性を認める事ができると思う。舞台の成り立ちについて特に説明がされるわけではないが、舞台作品の構造は、明示的に可視化されている、ということだ。

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役者によって語られ交わされる言葉の水準においても、造形性について語ることはできるだろう。一方においては、口調の選び方、他方においては、語られる事柄の選び方。そのどちらにおいても、岡田さんの造形的感覚は一貫しているように思える。
言葉の響きに対しても、言葉が示す意味あいや観念、言葉が描くイメージにしても、それらを徹底して素材として扱おうとする姿勢がある、と言えると思う。

「マンション」は、同じ話が延々繰り返されている様に進行するが、語られる内容は少しずつディテールがずれていく。その繰り返しとずれから、語られているらしい出来事の輪郭が少しずつ浮かび上がってくる。投げやりな会話の単なるバリエーションと見えた言葉も、それぞれの連関においてはっきりした映像を描くように造形されていたのだ。

「三日三晩、そして百年。」に登場する男が、自分は社会主義と共産主義の違いが分からなかったので党派の先輩がジャガイモにたとえて教えてくれた、と語る場面がある。比喩の具体的イメージは、理論がわかっていれば比喩として機能するが、革命理論がわからない男にとっては、比喩の具体性だけが残る。

男は、理論を理解している先輩から「おまえはわかってないなあ」と言われながら語られた事を、要約しないで模倣し再演するようにまるごと語る。ここでは、語られた事をそのまま繰り返す男は、観念を理解しないままに、自分が語られたことを語られたがままにウェイトレスに語るという事になっているのだが、もともとの先輩の言葉として書かれた言葉がそのまま男の語りのなかに投げ出されているので、語り直す男にには見えていない言葉の背景にある観念は革命理論について多少の知識を持った観客にとっては理解可能である、という関係が成立してくる。

「三日三晩、そして百年。」の舞台で語られた事柄が、左翼運動の頓挫だったり、グローバル経済が街角の情景を画一化していく事であったり、現実の歴史的、社会的な事柄と結びつけることができる内容を持っていたのは事実だ。だが、作品と現実との結びつきは、言葉の内容においてだけでなく、理解されるかされないかとは関わりなく語りと語りの間に投げ出される言葉、という位相においても捉えることができる。

舞台において言葉は、内容が伝えられる媒体である以上に、歴史的に使われてきたという事実を担った素材なのである。

「三日三晩、そして百年。」で、男と女の間で繰り返された対話は、ぎこちなく言葉の感触を確かめながらなされているような印象を残した。
なかなか言葉によって描き出せない事もあるし、一度口にされた言葉が、言葉にされてしまった事の意味を推し量れない事もある。
岡田さんが書く言葉は、このような、言葉を取り囲む言葉でないものの余地もまた舞台の上に響かせているだろう。

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「三日三晩、そして百年。」では、赤旗の旗立てになるものを探すがなかなか見つからず、結局テーブルの上の花瓶に赤旗をさすことにする、というナンセンスな展開もある。

赤旗を汚したりしたらいけないから、しっかり持っていなければならないと命じられている男はかたくなに命令を守り続けるが、手が疲れてきて困ってしまう。壁に立てかけたりしたら、なにかの拍子に倒れて汚してしまうかもしれない。赤旗を持って立ち続けようとしながら疲弊してゆく男にウェイトレスも困惑してしまう、という、ある種不条理劇的展開とでも言おうか。

この不条理な問題は、非常識に解決される。暗転前には、祝日に掲げられる国旗サイズの大きな赤旗だったものが、暗転後にはお子さまランチの日の丸サイズに変容して花瓶にさされる。その一方、暗転前に花瓶にさされていた小さな花は花瓶から抜かれることになり、暗転後には人の身長ほどに変容してウェイトレスが持って立っている、というナンセンスな展開なのである。
言葉や観念としては交換可能、変換可能な旗と花が、事物そのものとして変換されてしまう、という対象の扱いを、造形的な操作と言うこともできるだろう。

劇中の現実において、赤旗の縮小と花の拡大という変容がどのように起こったのか台詞では説明されないが、暗転が時間的に離れた場面と場面をつなぐという舞台の約束事と、旗の問題が解決されたという会話の連続性が、突然の非常識な変容というイメージを描き出す。

ここでまず問題なのは、ナンセンスな変容が何を表現し、象徴し、寓意しているのか、と考えたりする以前に、そのようなイメージの造形がそれ自体としてしっかり鑑賞できるように提示されている、ということであり、そして、舞台上に展開する現実として観客の脳裏に描き出されるものが、舞台を構成する演劇的要素の造形から立ち上がってくるものであることが徹底して明示されていること、である。

造形性が常識を越えた所で作品世界を成り立たせている。
あるいは
造形性こそが、常識が見逃している世界の成り立ちへと向けられた視点を浮かび上がらせようとする。

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私がチェルフィッチュを知ることができたのは、「マンション」が、手塚夏子さんとの合同公演で上演されたからだ。手塚さんが岡田さんと組んで公演をしてみよう、と思わなければ、チェルフィッチュの舞台を見ることも無かっただろう。

ダンスの領域で作品を発表してきたグループであるニブロールの舞台に手塚さんが出ていたこともあり、一時フランスやアメリカにまで追いかけてニブロールを見ていた私は手塚さんの仕事にも注目していた。そんなわけで、手塚さんが組んでみようと思う演劇も面白いに違いない、と期待していたのだ。

おそらく、手塚さんは岡田さんの作品を見て、自分の手法を想起したのだろう。
ここで、想起を引き起こしたのは、表面的な類似とは別のものに違いない。

手塚さんは、「私的解剖実験」という作品のシリーズを上演し続けている。それは、自分の身体の細かな部分に意識や感覚を集中させたり、身体の筋肉のごく一部分だけを動かそうとして、そこから起こる身体の変化が全身に伝播してゆく過程をそのまま舞台に投げ出してしまったりする、というような作品だ。

そんな手塚さんのダンスは、大雑把に外見だけを描写すれば、指先が微かに振るえていたかと思うと、顔が妙な緊張と共に笑いとも何とも名状できない表情で痙攣しはじめ、やがて身体全体がぶるぶると震え出している、なんて風に記述できるようなものだったりする。

しかし、問題は、その震えや表情の変化が、でたらめな震えでもなければ、意図的に作られた型でもなく、自分の身体への厳密な指示から生み出されてくるという事だ。この観点から「形が生み出されてくるような造形性」という言葉を、岡田さんの作品と手塚さんの作品の双方に当てはめることができるかもしれない。この言葉が、手塚さんと岡田さんが合同公演へと駆り立てたものを的確に指示できるものかどうかはわからないが。

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「三日三晩、そして百年。」には、ウェイトレスがミルクを注ぐシーンがある。それは、照明も他の場面とは違う冷ややかな色調で、他の場面とは違って女優一人が舞台の真ん中に居る。まるで、ひとつだけ違う色調で撮影され現像されたフィルムが挿入されているかのようである。

舞台を見てしばらく後、岡田さんと話す機会があり、このシーンはフェルメールの絵のように美しかった、なんて感想を言ったことがある。こういう大袈裟な誉め言葉を、岡田さんは即座に退けた。岡田さんはそれだけ誠実なのだけれども、「三日三晩、そして百年。」は、私にとってはフェルメールの作品を想起させるものだった、ともう一度言ってみたい。

あのような感想を私が抱いたのは単なる主題の共通性が誘った連想に尽きるものではなく、あのような感想につながった想起は、造形を徹底する姿勢がもたらしたものなのだ、と。

私が言いたいのは、岡田さんが劇作し演出したチェルフィッチュの作品の完成度の高さや質の良さが、芸術史を飾る傑作に匹敵する、というような事ではない。
そうではなく、岡田さんが造形を徹底する意志のスタイルが、作品を通じて私の感受性にしっかり刻印されたので、造形が徹底された様々な作品に触れるときにだけ開かれる経験の領域に岡田さんの作品の印象もまた及んでいる、という事が言いたいのだ。



【Profile of COMMENTER】柳澤望
法政大学大学院博士過程在籍。専攻はベルクソン哲学。
研究の傍ら、『美術手帳』をはじめとした雑誌に舞台芸術関係の文章を書いてみたり、フリーペーパー『CutIn』に演劇のレビューを書いたりしたこともあるが、舞台関連の文章を発表するようになったのは「商品劇場」のブックレット執筆したことがきっかけ。
2001年からダンス学校PASでダンス批評という授業を担当。 2003年にはディー・プラッツのダンスフェスティバル『ダンスが見たい!4』でアフタートークの司会も担当する。
舞台芸術関連のMLエウテルペも主宰。細々と継続中。