Scene2:裸にすればいい
 
 
 
一時期「日本の実写映画が、アニメや漫画のように世界で圧倒的に支持されないのはなぜなんだろう」って、同じ国土が生み出した、無国籍な架空のキャラクター表現に、実写が負け続ける現状を憂いた仲間内で酒の肴にしながら、分析していたことがあったんです。そこで出た結論が「現実の風景や人物など、現代の日本をそのまま切り取ったビジュアルは、お金を払って頂けるほどの価値を産むまでに至っていないんじゃないか?」。そう考えて突き詰めていったら、貌〈かお〉が気になりだしたんです。その時から。

日本の風景ではなくて、日本の実写映画に登場する人の貌がですか。

貌、ですね。日本人の観客は、もしかしたら同族の観慣れた貌に対して、お金を払ってまで観たいとは思わないのではないか。しかし、ならば「東洋の黄色人種は映画のスクリーン出入り禁止?」かというと、中国や韓国の映画、とりわけ韓国発のエンターテイメント大作は、隣国の見分けがつかない貌であったとしても、娯楽の触媒として充分機能しているではないか。ならば、その貌がいいか悪いかじゃなくて、「日常的な慣れ」こそが、問題なんじゃないか? お茶の間で簡単に観る、日常化した貌の延長上にはエキサイティングな非日常は存在しない、って雰囲気がある。だからお客さんにエキサイティングな体験をしてもらって満足していただくには、なにかの大舞台を設けて、いかに"不慣れなもの"を心地よく提供するかが肝だと思うようになっていった。

樋口真嗣氏インタビュー

ということは「見慣れない人たちで映像をつくればいい」と、いうことでしょうか。

いや。黒澤明監督が演技経験のない財界人をキャスティングして作ろうとした『トラ!トラ!トラ!』は、まさにそのアプローチの極端な例だったみたいですけど、そこまでしなくても、観客にとって見慣れていた人たちを「脱がせて」しまえばいいんじゃないかなと、考えているんです。たとえば普段は服を着ている人が脱ぎましたとか、そういう非日常の出来事ならばそこに値打ちが出るわけで、安心材料が変容することの面白さを提示すれば「じゃあ観てみたいな」と強く思ってもらえるはずだ、と。

なるほど、そういうことなんですか。

あ、「脱がす」っていうのはあくまで象徴的な意味であって、肉体的な上っ面のことではないです(笑)。徹底的に役柄を動かした上で、絵の切り取り方ひとつ変えれば、観る側が答えあわせしようとしている観慣れたテンプレートを壊して、凌駕させる貌で物語を語れるんじゃないか。それさえ出来れば、日本という製作状況下でも充分通用するエンターテイメントを、演技という身体的表現を用いて映像に定着させられるんじゃないか? アニメやコミックといった表現に充分拮抗できる、いやむしろ凌駕できるエモ−ションを作り出せるはずだ、なぜ誰もやらないんだ、誰もやらないなら、と思い込みはじめて……。

福井晴敏さんの小説『終戦のローレライ』を、映画化するにあたってやってみたいということですね。

そうなんです。今はそういう方向に向かって走り出していて止まらなくなってます。いやしかしこうして改めて自分の言葉が自分の耳に入ってくると、心臓がドキドキしてきますねえ(笑)。気がつけばすでに、そんな宴席の机上の空論に、山崎(山崎貴)さんや曾利(曾利文彦)さんといったゼロからビジュアルを構築してきた同業者の皆さんが輝かしい実証を打ち立てていますからね。ですから『ローレライ』では、それ以上を、己に課せざるを得ない。

樋口さんは'90年代に「やりたい作品と出会えば俺は監督をやる」とおっしゃっていましたが、そのやりたいと感じた作品が、福井晴敏さんの、戦争を舞台とする小説だったというところに「そうか、樋口真嗣という人はそういう人だったのか」と感じます。福井さんの作品は単なるエンターテインメントの大作……ではないですよね。

ではないですね。

政治小説的な要素や、ミリタリー的な魅力に惹かれたということでも、ないのでしょうね。

では、ないですね。

言葉にして口に出してしまうと、シンプルというか、恥ずかしい言葉になってしまいますけど、もともと極限状況における誇りに満ちた決断、人間の責任ある行動というものを、きちんと描いてみたいと考えていたんです。「重大な決断を下さなければならない」という極限の状況において、人間が、男らしくかっこ良く振る舞うとはどういうことだろうか。そこを突き詰めてみたかった。今までもその領域を描いた作品はいっぱいありました。ところが最近では、邦画はおろかアメリカ映画でも見当たらない。それでイライラしていたときに、福井さんの小説『亡国のイージス』と出会ったんですよ。ありきたりな表現ですが、その時に乾ききっていた魂をわし掴みにされて、思いっきり揺さぶられた。そしてごく自然に「自分が観たいもの、作りたいものが、ここにあった」と、感じたんですよ。責任感、っていう言葉だとズレてしまうかもしれないけど、人の誠実な行動。その行動が福井さんの小説では、アクションスペクタクル作品の中に、登場人物の行動原理としてきちんと織り込まれていた。そこにものすごく共感をした、というよりも魂が共振しましたね。
 

 
亡国のイージス
 
『亡国のイージス』 福井晴敏著
 
1999年発表。強力な防衛能力を持つ絶対の盾、イージスシステムを搭載した海上自衛隊の護衛艦「いそかぜ」が、突如反乱を起こし、東京湾に侵入。密かに搬入していた大規模破壊兵器により首都圏を人質にとる。先制攻撃を行うことができない元の僚艦を撃沈、航空自衛隊の戦闘機を撃墜するいそかぜに、日本国家は否応なしに「戦争」という現実をつきつけられる。しかしこの事態に対して日本政府の高級官僚、政治家は、事態を打開する決断を下すことができず、次々と打つべき手を逸して行く。万策尽きたかの状況の中、日本国家に残された希望は、強い責任感を持つ叩き上げの先任伍長と、諜報機関に所属する孤独な工作員の青年の二人の男だった。自分に絵を教えてくれた祖父を父親に殺された少年、絵を趣味とする自衛隊の下士官、国家に息子を奪われた高級将校、祖国に絶望した北朝鮮の工作員など、様々な男たちの熱いドラマが、首都圏全住民の死という極限状態を舞台に描かれる大作。
 


『亡国のイージス』と出会い、そこで「この作品を映画にしたい」と感じられたわけですか。

いや。冷静に考えて、あの作品そのものは「やりたい」という気持ちがあっても、これは映画にはならんだろうと考えてました。その最大の理由は、これは笑い話にしかならないんですけど、一本の映画にまとめられないほど長いこと(笑)。そして、もうひとつの大きな理由は、あの小説のラストシーンに出てくる絵なんですよ。

『砂の器』('74)という映画は、日本の映画史に残る名作ですが、私はあの作品に、作り手の底知れぬ度胸を感じます。あの映画のクライマックスにかかる交響曲、あれって実在しない、小説世界の中にしか存在しない音楽ですよね。その音楽を映画では、実際にオリジナルでつくって、物語の中心に持ってきています。先に曲があったわけではなく、後から音楽を入れることを前提に作品を構築している。それが見事に成功していますが、ものすごく勇気のいるつくり方だと思います。『亡国のイージス』では物語のラストに登場人物が描いた絵が出てきますが、この小説では、その一枚の絵がラストシーンのものすごく重要なファクターになっている。でも、その絵は小説の読者がそれぞれに抱く脳内映像だから、映画として、万人の心を動かす映像として表現することは俺にはできない。『砂の器』のような大胆さは、音楽でなら成立するかもしれないけれども、画は違う。『亡国のイージス』のあのラストシーンは小説じゃないと、文字世界じゃないと成り立たないものだ。作品が長いということに関しては、仮に短く構成することができたとしても、最後のその絵の場面で、実際に絵を見せて、お客さんの気持ちを引き寄せることができないなと考えて諦めたんです。

しかもあの作品の場合、それ以外にもポリティカルな問題が山のようにありますから、「うーん、どうしたもんかねえ」と悩んでいた。そこで、とにかく作者の福井さんに会ってみようということになったんです。福井さんに直接お会いして、あとで考えると図々しいこと言い出したもんだと戦慄するんですけども、「『亡国のイージス』のような映画をつくりたい、ついてはあらためて作品を考えてもらえないでしょうか」とお願いしたんですよ。

そこから生まれてきた作品が小説『終戦のローレライ』だったわけですね。

最初にこちらのほうから、福井さんに三題噺のような感じでお題を提案して、そこからなにか物語を考えられないか、と構想を始めてもらったんです。