Scene3:長いことお世話になりました
 
 
 
しかし「オロチ」の後、神村さんはプロへの道は歩まず、学業に復帰したそうですね。

あのですね。「オロチ」に携わってはいましたけど、でもやはり自分がこの業界でやっていく人間ではないと、たぶんずっと思っていたんですよ。

結局、僕は絵も描けないし、話も書く人間じゃない。映像にしろイベントにしろ、アマチュアとしてはかなりのめり込みましたが、これを職業とすることは、リアルに考えることができなかった。やってる最中は、エンドルフィン出っぱなしで非常に楽しかったんですけど(笑)、その夢からは醒めたくなかったんですけど、いつか醒めるのだろうとは意識していた。しかしDAICON4までは、醒めた自分のことは考えないようにしてたんでしょう。

「オロチ」のころには、夢の時間は一旦終わったと頭で考えつつも、なんとなくモラトリアムってました。留年して親に怒られて、突発的に「このままゼネプロに就職してやる」と思ったこともあったんですけどね(笑)。結局それでは、自分が職業としてリアリティを感じていない方向に逃避することになってしまう。だから最終的には、「ちゃんと大学を卒業して就職しよう」と決めたんです。

だから僕は、一応大学優先で、「オロチ」には少々ハンパなかかわり方をしていたんです。監督の赤井にしてみれば、僕に対して「責任者をやるといったくせに、腹が据わってない」という不満はものすごくあったと思うし、僕自身も全力投入していた赤井に対して、申し訳ない気持ちがずっとありました。

神村さんは無事に大学を卒業し、1987年にNTTに就職したそうですが、当時からNTTといえば理系、文系ともに学生にとって非常に人気のあった会社。しかも結構お堅いイメージの企業でした。映画活動という世界からサラリーマンの世界に入った当時、どのように感じていらっしゃいました?

いや、技術職でしたから、仕事に堅苦しい感じはありませんでした。しかもこっちは学生のころから映画制作やらイベント運営やらの経験を積んでいますから、ある意味、世の中をなめてかかるようなスタンスが身についていたんですよ(笑)。わりとどんな世界でもなんとかなる処世術は、体に染み込んでいましたね。

神村靖宏氏インタビュー

なるほど、そうでしたか。

ただ東京に就職にすることになったので、大阪のゼネプロの連中とは、もうこれで縁は切れてしまうと思っていたんです。「長いことお世話になりました」という気持ちで上京してきました。ガイナックスは東京にありましたけど、知人も多くはなかったですから。しかしそうしたら数ヵ月とたたずに、そのゼネプロ自体が東京に出てきた(笑)。しかも当時の勤務場所から歩いていける距離に、ゼネプロが越して来たんですよ。

で、結局、ワンダーフェスティバルだなんだで「人手が足りない」と言われると、「はいはいー」と手伝いに行ったりすることになりました(笑)。『ふしぎの海のナディア』('90)の初回放映のときなんかはですね、やっぱりガイナックス作品の記念すべきNHK初放映ですから、第1回目はやっぱりオンエアで見たいと思っていたんですよ。しかし自宅のある八王子まで帰ったのでは、オンエアに間に合わないものだから、帰宅途中の吉祥寺で電車を降りて、「すみません、テレビ観せてもらいに来ましたー」とガイナックスに入って行った。そしたら武田が「ああ、ええところに来た、アンテナつないでくれやー」と(笑)。

そうこうするうちにまたハートに火がついてしまったわけですな。

東京へ来て4年目くらいに、武田が「来ないか」と誘ってくれたんです。ある時期、武田と山賀がしきりに「アカデミー賞をとる」と言ってたことがあったんですよ。もちろん話半分で聞いていましたけど、そのとき「アカデミー賞」という単語には、ものすごく惹かれるものがありました。「DAICONを世界一のイベントにする」という掛け声と同じ響きが聞こえたんですよね(笑)。そうしたらさすがに、好奇心を押さえられなくて……。NTTでの仕事は面白かったし、充実感も持てるようになっていたけれど、先のことがわからないという点で、好奇心がガイナックスに軍配を上げさせた感じ。幸いNTTでは仕事も人間関係もうまくいっていましたから、「ここで辞めても逃げたことにはなるまい」と自分にOK出しをして、ガイナックスに入社しました。