対話に向けて その2:エホバの証人であることの魅力

樋口 久・著

エホバの証人の仕掛けは、簡単である。誰かが出てきて俺の言う通りしろという。 この「誰か」が本当は誰なのかよくわからないが、とにかく、え?と思って話を聞 くと、何しろ俺の言うことは聖書に基づいてるんだからと言う。聖書は絶対であり、 俺に逆らう奴は聖書に逆らう奴だ。

これだけである。実にわかりやすい。組織の歴史も、またその構造も、すべてこれ だけでできている。それが何百万人もの信者を抱える大組織になった。もともとが こんな無茶な論理で動いている組織であるから、それは内部でも色々ともめ事があ る。各会衆レベルで起こる人間関係のいざこざには目を覆うようなものがあったり する。

当然教義レベルでも問題がある。俺は正しいというのがそもそもの前提であるから、 滅茶苦茶な内容が、もの凄く幼稚な論理に織り込まれて展開される。余りのことに 目をぱちくりさせていると、これを信じない奴は聖書を信じない奴だ、となり、あ ろうことか仲間外れになる。信者でなければたとえ家族でも仲間外れである。これ は子供の仲間外れとは比べものにならない、桁外れの冷たさで、人間関係が見事ズ タズタになるようにできている。悲劇は数知れない。

俺の言うことを聞けと言った奴が全面的に悪者かというとそうでもない。第一それ が誰なのかよくわからない。よくわからないうちに、とにかく俺の言うことは聖書 の言うことだ、という一点張り。

考えてみれば、別に誰も耳を貸さなければ良かったのであるが、現実にはやはり耳 を貸し続ける人がいる。それでは一体こんな事がどうして起こるのか。耳を貸す人 にはそれなりの理由があるはずである。これを考えてみようというのが、あなたの 今読んでおられるこの話の内容である。

なお、この話を読み、「ふざけている。エホバの証人をバカにしている」という反 感を持ち、いささか気分を害する人がひょっとしたらいるかも知れない。何だかあ らかじめこんな断り書きを入れるのは興ざめのような気もするのだが、とにかく、 私にはそのような意図がないことを、ここにはっきりと記しておきたい。ふざけて いるように見えるところがあるとすれば、それはわかりやすさを旨とした私の文体 の問題であり、気持ちの上では存外真面目なのである。また、エホバの証人をバカ にしているように見えるところがあるとすれば、それは誤解である。(バカにすべ き相手は、始めから相手にしないのが普通である。ところが私は彼らと対話すべき だと言うのである。)私の意図は、エホバの証人の心理を笑い飛ばし、エホバの証 人でない人の心理も笑い飛ばしたところにこそ、対話の可能性を見ようというもの である。

自分の文章の解説は、つまらない。何しろ、まあ一つ、読んでみてください。

1 「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」

本当に空腹でたまらない。そんなとき魅力的なのは、次のうちどれであろうか。

1)海老フライ定食
2)ビッグマック
3)「人はパンだけで生きるのではない」というイエスの言葉

好みがあるから、1番と2番にはお好きな食べ物を入れて頂いて構わないが、とに かくやはりイエスの言葉を食べるわけにはいかないのが現実である。

さて、次のうち魅力的なのはどれだろうか。

1)おいしいもの食べ放題で、病気もなく永遠に生きていられる楽園(しか も、もうすぐやって来る)
2)神の眼鏡にかなって初めて入れてもらえる、いつ来るとも知れぬ天国 (いつ来るかも、また入れてもらえるかどうかもわからない)
3)地獄

迷わず1番を選ぶエホバの証人を笑うことはできない。ついでに言うと、楽園には 必ずしも入れると決まったわけではない。「地獄」は本当は地獄ではなく、永遠の 苦しみの場所ではないということを変にムキになって力説するエホバの証人も、や はり笑うわけにはいかない。

ところで、人間は群をなして暮らす。いかに人間嫌いでも、人付き合いゼロ、所属 皆無というわけにはいかない。それでは次のうち、自分の所属グループとして魅力 的なのはどれだろうか。

1)きちんとした格好をして、思いやりのあるように見える人達
2)好ましい人も嫌な人もいる、要するに普通の人達
3)ホームレスの如く汚い格好をし、憎み合い、いがみ合っている人達

エホバの証人は1番を選び、特に「のように見える」というところにその選び甲斐 を見いだす。あるいは「思いやりがあるという事にしている」と言っても良い。今 の世の中、誰に本当に思いやりがあるものやらわからないことが多いのであるから、 これは自然な人情である。

もっと極端な例を挙げて悪のりしてみたい気もするが、残念ながらもうこれ以上続 ける必要もない。おわかりの通り、高い精神性とか霊性とかいうものよりも、目に 見えておいしく格好良く楽しいものが好まれるのである。それ自体悪いことではな い。これが人情というものである。普通なら自分でもそうとわかる。そこで反省し たり、あるいはまたそれならいっそのこととばかり享楽の世界に身をまかせて帰っ てこなくなったりする。

ところがエホバの証人の場合、自分が単においしく格好良く楽しいものを求めてい るに過ぎないとは決して思わない。それは他の人、「世の人」のことであって、自 分はその逆だと思っている。なぜそのような心理的曲芸ができるのか。これが次の 話である。


2 「永遠の命に導く知識」

知識は力と言われる。知識がすべてではないが、あるに越したことはない。誰しも 知識を持っていたい、増やしたい。しかし、上に見た、目に見える格好良いものを 求める心理に基づけば、「誰しも知識を持っていると感じたい、見せたい」あるい は「正しい知識に触れていると感じたい」というのがより正確なところであろう。 これが曲者となる。

自分たちが正しい知識によって導かれていると思っていないエホバの証人はいない。 何しろ集会には出ている。書籍の研究もしている。ページの下の方や章末にある内 容復習クイズに一つ一つ答えていくたびに知識が増えていくような実感がある。あ のクイズ、考える必要はない。まるで色の違う箱にそれぞれの色のボールを仕分け して入れていくような、要するに作業なのである。つまらないと言えばつまらない が、作業の終わりにはささやかな達成感が味わえる。1回でも集会を逃し、研究記 事の復習クイズをする暇がなかったりするだけでその分知識が増やせなかったよう な、不安な気持ちが持てるようになれば、立派なエホバの証人である。

「私には沢山知識があります」と公言してはばからないエホバの証人はいない。自 分は謙虚だと思っている、あるいは謙虚であるべしと思っているからである。しか しそれでも人様の家の戸をたたいて教えてあげましょうという神経を獲得するに 至ったわけである。普通、知識のある人は、自分の知らないことがまだまだ山のよ うにあるというのもよくわかっているから、自分には知識があるとは思わない。知 識のない人も、やはり自分に知識があるとは思わない。しかしこの場合、何しろお いしいもの食べ放題で、病気もなく永遠に生きていられる楽園がかかっている。逆 らえば仲間外れ。自分に知識があると思うのも、これでなかなか大変なのである。

しかし言うまでもなく、自分が知識を持っているという自覚だけでは不十分である。 その知識が何かしら「良いもの」でなければならない。普通、何が良い知識なのか ということは決め難いが、エホバの証人の場合簡単である。次の知識のうち、どれ が良いものかと言えば:

1)神の言葉である聖書についての知識
2)カント哲学についての知識
3)「ちびマルコちゃんによる福音書」についての知識

もちろん1番である。2番の哲学などというのは世の知恵である。(おまけに哲学 は自分でものを考えるという活動であるから、まずいのである。)3番は、怪しげ で、何か聖書を冒涜するもののようであるから、近寄ってはいけない(無論この3 番は私の空想の産物であり、実在するものではない)。

要するに、聖書に関係する知識が良い知識なのである。そしてもちろんこれは、本 当に聖書に関する知識というよりは、組織内で通用する知識に限られる。具体的に 言うと、組織の出版物である。外部にすぐれた本があっても、世の知恵であるから、 見ない。必ずやサタンの所産である。組織の出版物が聖書に基づいているのである から、これで十分。これを退けるものは聖書を退けるものである。たとえ聖書に合 わない内容であっても。

この最後のところが凄いのであるが、何しろ逆らうとシャレにならない。背教者、 排斥、仲間外れである。おいしいもの食べ放題で、病気もなく永遠に生きていられ る楽園もパーである。「今週の研究記事って、本当に聖書的かなあ」などとは、た とえ思っても口に出してはいけない。いや、思うようでは修行が足りない。とにか く全部聖書的で正しい、これだけである。簡単なことである。かくして正しい知識 は積み重ねられていき、霊的に強められていく。あふれる知識を胸に、家から家へ と宣べ伝えるという仕掛けである。

とにかく自分の知識は霊的であって、その求めるところは清く正しい。世の人の知 識はサタンに惑わされたものであって、見かけは良いけれどもその求めるところは 物質的なものであり享楽的なものであり最後には偉大なるバビロンと共に滅びるこ とになっている。いかにも漫画的で幼稚な考え方であるし、自分のやっていること を振り返って見ている様子もない。しかし、これを本当に笑えるものかどうか。

誰だって、自分の考えに合うような本を選んで読んでいる。聖書を読もうという人 なら、自分は何かしら「高い」ものに触れているという気持ちを持つ。ああそれに ひきかえ世の中にはつまらんテレビ番組があると思ったこともあるかもしれない。 基本的には、エホバの証人とあまり変わるところがない。

ただ、普通はそのことについて自覚を持つことができる、反省ができる。聖書を読 みながらもつい不謹慎なことを考えて情けなかった。つまらんテレビ番組をあざ 笑っていたが結局はそれを見ている自分に気がついた。こういうのは何でもない、 本当にごく普通のことである。しかしこの普通のことをしてしまったのでは、エホ バの証人としての信仰生活は成り立たない。楽園がパーになり氷のように冷たい仲 間外れ攻撃を受ける。そこで、もう一つ別の曲芸が必要になる。それが次の話であ る。


3 「わたしたちの奉仕の務めを果たすための組織」

目に見える、神の組織。誠にエホバの証人的な概念である。何しろきちんとした格 好をして、思いやりがあることにしている人達の集まりである。色々なことが起こ る。

人が集まれば、力関係、上下関係が生まれる。当然のことである。エホバの証人の 場合、特に見事である。古典的な会社ドラマを見る思いがする。上司と部下とのい ざこざ、平社員同士の妬み合い、足引っ張り、そしてオフィス・ラブ。すべて発生 する。さらには現場の状況に合わない幹部の指令、これを実行した事による問題、 その結果としての責任のなすり合い、そして声の大きい者が勝ち、声の小さい者が 涙を飲むというお定まりのストーリー。すべて発生する。

これほど見事に典型的な組織であるから、出世するに越したことはない。最低でも まずは特別開拓者ぐらいにはなり、奉仕に努める。その際には例えば次のような点 に気を使う。

1)奉仕に時間をとり、欠かさず報告するが、その時機会をとらえては自分 がどれほど奉仕に喜びを感じるかをさりげなく表現する
2)集会ではやたら発言せず、タイミングを見計らってその日の話に合った 聖句を皆の前でさらりと紹介する(無論あらかじめ準備しておく)
3)人前で祈る機会を逃さない

この手のことはいくらでも挙げられるが、要するに人にどう見られるか、特に長老 にどう思ってもらえるか、というのがポイントである。

かくして長老となり、監督となっていく。それなりの貫禄もついてくる。周りもそ のように振る舞う。良い気分である。巡回監督ともなれば、あちこちの家に大きな 顔をして泊めてもらえ、その上贅沢を言える。あの家の飯はまずいなどと言う巡回 監督もいる。朝食に不平を言うなど朝飯前である。もちろんこの場合、朝飯前に不 平を言っているのでちゃんと好みの朝飯が出てくる。とにかく役得なのである。

ここからはほとんど夢物語であるが、統治体のメンバーともなれば、豪華な生活で ある。ブルックリンには協会所有の高級ホテルや建物がいくつもある。ここに住め る。ここに飽きれば、大会に出席するということで、望めば世界中大概どこへでも 行ける。奉仕がらみは嫌だなと思えば、一か月以上のバカンスを、これまた協会が 世界中に所有する豪奢な場所で過ごすことができる。まさしく地上の楽園である。 高い給料をもらっているようなエホバの証人はいませんということになっていて、 これは確かに、現金を手渡されてはいないということで真っ赤な嘘ではないのかも 知れないが、何しろ豪華な生活を保証されているエホバの証人はいるのである。こ うなったらやめられるわけがない。またここまで出世したい人も途中でやめるわけ にはいかない。

また、うまいことにやめにくい。何しろ、

1)やめる → 氷の如き仲間外れ、楽園の夢は木っ端微塵
2)やめない → 正しい知識に満たされて地上の楽園に一直線

である。この選択に悩む人があるだろうか。しかも、これほど物質的なものを追い 求めながらも、自身には霊的なものを追い求めていると、いやそれを得ていると、 言い聞かせ続けられるのである。


4 笑ってしまって大丈夫

以上のようなエホバの証人の曲芸的な心理や行動について、これはエホバの証人で なくても、誰にも身に覚えがあるのではないか、だから笑えないのではないか、と 書いてきた。でも、やっぱり、余りにも無茶苦茶でおかしい。こういうときには、 やはり笑ってしまうべきである。あざけり笑うというのではなく、誰かが変な格好 をしているのを見てつい吹き出してしまうようなもので、これは自然なことである。 人の振り見てわが振り直せというのはその後で十分である。自然な衝動をこらえつ つ、わが身を反省するなんて、できるものではない。

むしろこの笑えるということこそ、わが身を振り返れるということであり、いわゆ る我に返ることである。誰かに滅茶苦茶なところがあり、これを笑い、よく考える と自分にも同じようなところがあり、これを素直に認めてまた笑う。これが健康か つ重要なことなのである。自分にも身に覚えがあるから笑えない、というのは、結 局自分にも存在する同じようなところを認めたくない、ということである。わだか まりの残ることである。あなたの方がおかしい、と言い合うのではなく、お互い人 間ですねえ、と言って笑い合うところに対話の糸口は生まれ得る。

無論私とて、エホバの証人との対話が簡単なものだとは思っていない。自分の状況 を笑い飛ばすには結構勇気がいる。笑ってくれないかも知れない。問題の多くは深 刻でもある。笑うどころではない。それはよくわかっている。ではあるけれども、 少なくともあなたの心に余裕がないことには、

非エホバの証人: 「あなたは組織に惑わされて間違っている」
エホバの証人: 「あなたの方こそサタンに惑わされて間違っている」

というパターンをその本質から打ち崩すことはできない。であってみれば、少なく ともエホバの証人に嫌悪感を持ったり、憎悪の牙をむいたりするのはやめて、まず はその無茶苦茶さ加減の可笑しさを素直に感じて笑って見ませんか。


この記事は樋口 久氏の投稿によるものです。樋口氏への連絡はつぎの宛先にお願いいたします。

Q-Higuchi@ma2.seikyou.ne.jp

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