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全共闘世代

リストラの波に沈黙

 

防石ネットをタテに学生のたてこもる法学部3号館にせまる機動隊=1968年9月4日、東京都千代田区の日大で

 橋を渡ると、名産のカキの看板が目に入る。瀬戸内海に浮かぶ広島県・倉橋島。人口約一万五千人という過疎の町、音戸(おんど)町で、日大全共闘議長だった秋田明大(54)は、一人で自動車整備工場を営んでいた。

 油に汚れたつなぎの作業服姿。ひげに白いものが交じる秋田は「闘争に感慨はない。自分の持っているものすべてをかけた。学んだものと言われても言葉にするときっとうそになる」と話した。

 バリケードにゲバ棒、アジ演説。一九六〇年代後半の全共闘運動は学内問題からベトナム反戦、その米国のベトナム攻撃に日本が協力する土台の安保条約への反対をも射程に入れ、広がった。

 日大では三万人の学生が大衆団交に集まり、運動の象徴となった。秋田は二十六年前、郷里の広島に戻り、親類の自動車工場で働き始めた。「きつい仕事なのに給料が安くて、バブルといっても別世界に感じてた。最近、世界がやっと自分に近づいてきた気がする」

 その不況、リストラの波がいま、五十代を迎えた全共闘世代を直撃している。東洋大で全共闘に加わり現在、運輸会社で退職を迫られ、係争中の松島義雄(54)もその一人だ。

 九九年四月に退職を勧告された。当時、二人の子どもはまだ学生だった。猛烈社員だった。上昇指向もあった。労使協調の組合役員もやった。リストラは人ごとと思っていた。

 「就職後、学生時代に非難していた世界が実際にはさほど悪くない、と感じた。給料は予想以上に上がった。気づくと、きばを抜かれていた」

 退職勧告された日、松島はかねて新聞で知っていた東京管理職ユニオン(東京都新宿区)に電話した。退職を拒み、職場は営業職に配転されたが月一回、本社前で抗議行動を続ける。同じ境遇の仲間二人が加わり、松島は「歌を忘れたカナリアだったが、正義感がよみがえってきた」という。

 しかし、松島のような例は少数派、と同ユニオン書記長の設楽清嗣(60)はみる。九三年に結成された同ユニオンは千件以上の争議を解決、いまも一日五件の相談がある。

 設楽は「日本と同時に学生反乱のあったフランスでは活動家は就職の道を閉ざされた。しかし、日本では企業に吸収されたうえ、十分に活用された。そして、いま捨てられている」と指摘する。

 「元全共闘でも会社の秩序に大半が心理的に管理されてきた。だから、うちに相談に来ると会社のしがらみやプライドを捨て、一人の人間に戻れと気合を入れる。でも戻るのは半数以下だ」

 派手な闘争後の同世代の沈黙を秋田は「昔やったから、またやるというもんでもないでしょう」と受け流す。ただ、こうも付け加えた。「全共闘が暴れたせいか、日本は若いうちにエネルギーをちょん切られる世の中になった。でも、そのツケは必ず回ってくる」(敬称略)  (「日米安保50年」取材班)

全共闘世代と日本経済 全共闘運動が終息していく六九、七〇年の完全失業率は戦後最低の一・一%。この世代は高度成長の後半で就職し、バブル期を含む日本経済の「黄金期」に働き盛りを迎え、現在、リストラの波の直撃を受けている。


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