東京都立大学教授 前田雅英先生の講演録(2001年6月16日)

講演『女性法曹への期待』

1.講演依頼を受けて
2.法理論は実務家がつくる
3.本日のテーマについて
4.女性法曹の増加
5.1975年を転換点として
6.法解釈を変えるもの
7.英米の刑法理論の変化と犯罪現象
8.法解釈における性差
9.強姦罪の法定刑
10.社会が判例を動かす
11.強姦罪解釈と性差
12.夫婦間の強姦罪
13.刑事政策における性差
14.失恋して自殺するのは
15.検挙率の低下が意味するもの
16.女性の社会参加とは
17.母への想い

1.講演依頼を受けて
私は、刑事法学者の中では法律実務家と話す機会が多いといいますか、特に裁判所、それから法務省、検察官の先生方と、研究会や勉強会とか、その後お酒を飲みながらというような形で話をさせていただく機会が一番多い方だと思うのです。今回の話を頂いたときに、「今度女性法律家協会でお話をさせていただく」というようなことを、10期代の先生方にお話をしたら、「いや、それは羨ましいですね。」というふうに、怖い先生方もにこにこしながらおっしゃっておられました。ところが、それから10期ぐらい下の20期代後半ぐらいから30期になるかならないか、現在地裁の部総括になられた方々に話をしますと、「それは大変ですね。」という感じが帰ってきました。それをどう分析するか、どういうことを意味するのかというのは、詰め切っていないというか、詰める必要もないのかもしれませんが・・・・。(笑)
ただ、はっきり申し上げられることは、本日私は心から喜んでお伺いして、お話をさせていただいておりまして、これはもう、うそ偽りも全くないところでございます。
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2.法理論は実務家がつくる
先ほどご紹介いただいて、過分のお言葉をいただいたのですけれども、私の考え方は、自分で勝手に言いふらしているだけで、さほどプリベールしているわけではないのですが、犯罪というものの刑法解釈を実質的に行っていくべきだというものです。実質的に行うというのは、「条文を形式的・厳格に解釈することを徹底するということだけでは今の時代に合わないのではないか」という意味なのですが、別の言葉でいいますと、「法理論は実務家がつくる」という考えともいえるのです。実践を踏まえた個別の価値判断からのフィードバックが理論にとって何より大事だという言い方をしたほうが正確かもしれないのですが、その意味で、実務の先生方にお話しできる機会があったら、私はもう何を置いても伺うのです。
そして、刑事司法実務というのはいろいろな方に支えられている。その総和の上に理論が動いていくのだと考えています。私は、裁判所の書記官研修所でもしばしば講義をさせていただいているのです。事務官の方、それから法務省でも、検事さんではなくて高等科研修といいまして、係長さんクラスの研修、それから副検事さんの研修などは、私が一番たくさんやらせていただいていると思います。その研修の講義の後いろいろな話をさせていただいて、あの検事正は厳しいとかいうような話とか、絶対に外で話はしないのですが、ああ、なるほど、検察事務官はこういう目で見て書類を作るのか、またこういうところに問題がみえなくなるネックがあるのだなというようなことが勉強できるのです。それは決して、ジャーナリスティックな、組織の中でのうわさ話みたいなものを拾うということではなくて、法律がどうかかわることによって犯罪概念が動いていくかというダイナミズムをミクロの視点で見るという感じなのですね。
人間が人間を扱っていく中で使う理論を対象とするわけです。ですから理論も人情の機微に応じたものでなければならないのです。理論がどう使われるか、その使われ方が非常に微妙なことで動いていくプロセスをどれだけ知っているのかが、かなり重要なのです。そのドロドロした部分にかかわり過ぎると理論が見えなくなってしまうのですが、すっきりしすぎた理論は、現実には使えないのです。その意味で、私は、実務の先生方に教えていただく機会が多いことは非常にありがたいと思っておりますし、もっと根本的に、法律というものの基礎にある規範的評価、価値判断の問題は、基本的には学者の仕事ではないと思っているのです。最後は国民の価値判断だと思うのです。もちろん、法適用の場面では、国民にかわってだれかが判断しなければいけないのですが、その仕事をするのが実務家だと思うのです。価値判断をするプロとしての法律家である、その法律家が価値判断をするときに、過去の例とか、いろいろな想定される例とか、外国の例を持ってきて、その価値判断をするときに、「こういう点に注意されたほうがいい」とか、「大体次の予測点としてはこのあたりではないでしょうか」というような大きな図を描かせていただく仕事は学者に向いていると思うのです。
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3.本日のテーマについて
ただ、理論を組み立てる基礎となる規範的評価は、学者個人の価値判断を正面に出すべきではなく、法律家の大勢の価値判断を考慮すべきなのだと思います。ただ、「大勢」をどう見るかが難しいわけです。ただ、少なくとも刑事法に関していえば、昔はドイツを引用して「こうだ」ということが強かったのですが、近時は、判例とか実務の流れに沿った理論に間違いなく動いていると私は思うのです。
法律家が、法的な事実にのっとって価値判断をしていく、そのときに判断主体が男性か女性かというのがどう影響するか、今日はその話がテーマなのです。私は本当のところを言いますと、これはもう男も女も関係ないというのが基本的なスタンスです。同じ人間であるというところは、現在では争いのないところでしょう。
むしろ問題は、その点を踏まえた上で、細かい部分ではやはり男女差の出る部分がある、そして、その差を認識した上で理論なりを考えていくことが重要なのではないかということを、いくつかの例を挙げて申し上げたいのです。それは、性差を超えてしまうから問題だというよりは、男性の価値判断が、無意識のうちに、人間一般の価値判断になっているという面があるということなのだと思います。
先ほど申し上げたように、基本的には法律家が理論をつくるので、判例を読むときには、可能であれば、裁判官の名前を必ずデータベースに入れていきます。弟子たちにもそう指導をするわけです。それは決して思想性がどうだとかそういう小さな問題ではなくて、やはり人間の判断なのだというところが、具体的にイメージできるからです。私はそう考えるのですが、そのときには男女差というのは全くないです。ただ、強姦罪の問題とか幾つかの問題に関しては、やはり性差に関し留意すべき点があるだろうと思うのです。
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4.女性法曹の増加
まず、その前提となる女性法曹の増加の傾向を見ておきたいと思います。現在、裁判官2213人中301人が女性である、検察官は1480人中154人で、法曹全体で平成12年に司法試験に合格した方の27.2%が女性になるということです。これは大変な増加です。そこの一番上のグラフにあるとおりなのですが、折れ線のほうが女性の率で、棒グラフのほうが絶対数なんですね。合格者の枠の問題が動いていますから、両者の線が完全には一致しないのですが、間違いなく増加の傾向をたどっています。3割をもっと早く超すのではないかというような議論もありましたけれども、間違いなく傾向としては3割を超していくだろうということで、これは当然のことなのだと思うのです。国家公務員試験の女性合格者は31.8%ということです。これは、もっと増えていくのだろうと思うのです。
国家公務員の場合は、新聞でも随分批判的な記事が見られます。「女性の課長が何でこんなに少ないのだ」、「女性の局長がどうしてこれしかいないのだ」というような議論が表面に出てきています。国家公務員で女性が入ってくるようになったのは、特に刑事の世界に関連する警察庁などでは随分新しいことでして、非常に遅れている。その意味で課長がいないのはやむを得ないのだと思います。ただ、間違いなく警察庁などの世界でも変わってきていると思います。一番最初に入られた方が平成元年採用ですから、まだ課長に就くようなポストではないですが、評判も高いですし、仕事もきちっとされています。どんどん増えていっているということなのだと思います。
ですから、大きな流れとしては、ごく自然な形で女性が広い意味での法律の世界の枢要な役割についていくことは間違いない。これは男と女の差がなくなっていくということに基本的には原因があります。どちらも同じように能力に応じて進出していく。それについての特別なハードルがあるわけではないのだと私は思うのです。司法研修所の世界で余り女性の任官者が増えると問題だから、女の検事はクラスに1人しか出さないのだというようなうわさが流れて、女性の修習生の間で随分恐慌を来したとかいう話もうわさでは聞きましけれども、そんなことはないのです。ただ、検察教官の方とも話をしていて、「優秀な法曹を法務省に迎えたい」という基本は間違いないと思います。能力をそのまま評価して採っていく。本音の部分でといいますか、司法行政上の要請で何らかの考慮が全く働いていないかといえば、それは私のような外の人間からはわからない部分もあるかもしれませんけれども、大きな流れとして女性を特に制限して採るというようなことはないでしょうし、少なくとも司法試験に関しては全く対等なのです。
このような女性の習修生の増加の背景には、女性の志願者がどんどん増えているという事実があります。この頃ちょっと伸び率が落ちてきて、全体の中で大体2割が女性です。先ほど申し上げたように、3割近く合格するのです。ということは女性のほうは合格率が高いのです。これは標本の数が少ないのででこぼこが出てしまうのですが、折れ線のほうが合格者率です。これはならして考えれば、3〜4%ですか、志願率に比べて女性の合格率のほうが高くなっているというのが一貫して続いていると思うのです。ただ、逆に女性のほうが優秀だと結論づけるというのはまた早計であって、それだけ女性のほうが受けるときにきちっと準備されて受けている面もあるかもしれないのです。
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5.1975年を転換点として
ただ、やはり間違いなく増加の傾向にはあるのだと思うのです。その左のものは全く脈絡がないのかもしれないのですが、大学進学における男女比です。後でもちらっと出てくるのですが、1975年というのは日本の社会の転換点だったと私は思うのです。「点」で捉えるというのは本当に非科学的なのですが、戦後社会が大きく変わるのは、どういうわけか75年ごろに見えるのです。大きく変わっていく指標というのが幾つか出てくるのです。
その一つのことなのですが、高校進学率がほぼ全員になってくるのは大体このころです。それと大学進学率が4割、30%〜40%になっていくのもこのころで、ただ、90年代に入ると女性の大学進学率のほうが男性の大学進学率よりも上回っている。こういうふうに高等教育を女性が受けるようになって、法学部に女性が進むようになってきて、女性の法律家が増えていくというのはこれは必然だと思います。これは、今まで社会に、「女性は文学部に行けばいい」、「法律家などというのは女に向いていないのだ」というようないろいろな議論があったのが、自然に消えていって、もっと基本的には女性の社会進出がふえて、女性が社会に出たときにどういう仕事をすことが最も合理的かと御自身で考えたときに、法律の道に進みたいと考える方がある程度の率になったというのが自然だったのだと思うのです。
こういう中で、女性の法曹が増加していくわけです。75年ごろに日本の社会、戦後社会が大きく変わるといいますか、75年以降の社会体制の基盤が完成し、その後の30年で基盤が崩れていくのだと思うのです。私の頃はといいますか、大先生がたくさんいらっしゃるので、「私の頃は・・・・」などという言い方は本当に僭越で、またピントの狂った話になってしまうのですが、農業が一番多かったのです。やはり社会を動かしていくのは農業であり、漁業である、要するに第1次産業ですね。しかし、この場にいらっしゃる習修生の方には、社会科で習ったときには、第1次産業が5%だというくらいの数字を習ってこられた方もいると思うのです。もう大きく第1次産業が減っていって、第2次産業が中心になって、さらに第3次産業がわっと増え出すのが、ある程度の線に行くのがやはり75年です。そのころに向かって、実は女性の社会進出といいますか、就業者の割合は減っていくのです。
第1次産業において女性がいかにコミットしていたかなのです。1ページの一番下の右側のグラフですけれども、女性の就業者は75年のころが一番低いのです。それから、じわじわと増えていく、それはある意味で、本当の意味で女性の社会進出が始まっていったということなのだと思うのです。75年以降、じわじわと女性の就業者の割合が増えていくのです。経済が成長し、75年に高度経済成長が終わって、そのころある程度豊かになって、豊かになったところで女性は家庭に入るのだみたいな議論もあったわけですけれども、そうではなくて、社会に出る女性がだんだん増えていっている。そういう中で、ただ新しい問題として家庭の像がどう変わっていくかという問題が出てきたのだと思うのです。
この辺は、ご専門の、しかも大家お揃いになっていらっしゃるのに、私が関連することを申し上げるのはちょっとぞっとするので、簡単に進めていきたいと思うのですが、刑事の側から気がついたこととか、ちょっとグラフをいじっていて気がついたことを申し上げておきたいと思うのですが、犯罪検挙者に占める女性の割合の点ですです。やはりここでも75年がポイントだと思うのです。そこまで女性の割合が上昇を続けて、そこで大体動きがとまる。そして全体の2割になるのです。2割といってもデコボコがあります。ただ、全犯罪者の中の大体2割が女性だというところまでは、この後、もちろんどんな結果かはわかないのですが、「五分の一が女性」という線が固まる。このころから特に女性の検挙者の占める割合がふえた原動力として、10代の犯罪、少年、少女の犯罪が非常に大きな割合を占めているのです。
そして少女の犯罪の増加との絡みで非常に興味深いデータが、10台の中絶実施率のグラフなのです。これは厚生省のデータなのですが、人口1000人に対する中絶実施件数です。戦後、中絶は犯罪以上に暗数が多いとされており、厚生省の発表した数値にどこまでの科学性があるという批判は当然出てくると思うのですが、官庁統計を一応前提としてということで、そして、暗数の割合がそんなに動かなかったということを仮定して見てまいりますと、やはり75年が転換点なのです。75年から急には少女の中絶数の割合が上昇をはじめる。それまでは全中絶数の2%に達していなかったのが、今は十代が12%なのです。別のほうから見ますと、現在、中絶実施者は妊娠可能年齢の女性1000人中、大体今10人になりました。戦後初期は50人だったのです。10人となったということは、5分の1になったということです。戦後中絶件数は減り続けた。ただ、10代の女性の中絶のみが増え続けた。千人中10人になったということなのです。つまり、成人と10代との中絶実施率が完全に同じになった。ごく最近のことです。ですから、要するに全女性人口の中で妊娠可能な人口の中の12%ぐらいが10代ですから、全中絶数の体の12%を十代が占めるということになったということは、完全に20代以上と等しくなったということなのです。
女性の社会進出が進む、それから社会のいろいろな自由化が進む、性に関してのいろいろな制限というものがなくなっていく中で、ある意味で自然なことなのです。ただ、少女の犯罪の増加時期とパラレルだということは、「規範の喪失」という点で軌を一にしていると思います。そして、私は単純に自由化さえしておけば少年達が良くなるという問題ではないと思っています。昭和30年代の「倫理」、そして、10年前までの韓国に妥当していたような倫理を強調すれば解決するという問題では、もちろんないのです。
私が感じているのは、家庭の中で母子の関係の問題、母親の役割の伝承の問題なのです。少年犯罪の事案に関する「ミクロの研究」は、ほぼ共通して、犯罪少年の育った家庭の問題性を指摘します。私は、家庭の中でも「親」の役割の再構築が非常に重要なことだと考えております。ちょっと持って回ったような言い方になって恐縮なのですが、後で結論の部分でそこにつながる話をさせていただきたいと思います。
要するに70年代から社会の流れが変わって、ただ、これは決して病的な状況ということではなくて、ある意味で自然の流れでこうなっているということなのだと申し上げたいのです。こういうことを前提に、やはりより法律家に女性が進出していく必要性が高まっているということを私は次に申し上げていきたいと思うのです。
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6.法解釈を変えるもの
― 理論か犯罪状況か ―
「法解釈における性差と女性法律家の必要性」というところです。先ほど、判例を読むときに女性の法律家が関与したからこの判決はどうこうということは、私は全く考えないということを申し上げました。これはもう掛け値なしにそうなのですが、ただ、問題によっては、状況によっては、差がつくのです。基本は男女全く同じだと私は思うのですが、ちょうど同じ建物を見るときに、西側から見るのと東側から見るのとでは異なったものになっているのです。それはある意味で、見ている面が違えば違うのは当たり前なのですが、同じ建物の正面を見るときに、西側から歩いてきて正面に立って見たときの印象と、東側から歩いてきて正面に立ったときにその正面が見える印象とは違うということがあり得るのです。そのくらい微妙な差が問題になる局面では、やはり男女差ということをまだ考えていかなければいけない部分が残るだろう、その意味で「象徴として」と書いてあるのですが、強姦罪の解釈などに関しては、私は男女の判断の差というのは、やはりきちっと考えていかなければいけない問題としてまだ残されているのではないかということです。
その前提として、ちょっとお話がもとに戻ってしまうことになるかもしれないのですが、先ほど申し上げた国民の声をくみ上げる仕事としての法律家、法解釈というのは最終的には国民が決めるのだということの一番わかりやすい例が、いつも申し上げることですけれども、イギリスの刑法解釈です。刑法の世界では、修習生の方もいらっしゃるから、こういう話をすると、ちょっとぎらつくかもしれないのですが、刑法の世界というのは、先ほど会員の方が私が時間が空いているのでお相手してくださったのですが、実はそのとき申し上げたのですけれども、結果無価値が何だ、行為無価値が何だとか、一番けんかするところなのですよ。昔でいえば、新派が何だ、旧派が何だとか、けんかばかりしていたのです。いや、本当はそんなことはなくて仲がいいのですよと言いたいのですれども、本当にけんかしていた先生もいたと聞いています。
私の指導教授の世代を見ていても、本当に学問的論争は厳しいですね。伝え聞く話では、もっとその上の世代、牧野先生や小野先生の世代、瀧川先生の世代などは物すごいものがあったらしいのですが、それは僕らは見ていない世界です。
建前としては、私なども結果無価値が何だか、いろいろ言っているのですけれども、本音のところでは、特にこの頃思うのですけれども、結果無価値か行為無価値は、きっとこれは本当はどうでもいいことに近いのかも知れません。具体的事案を前提として処罰範囲をどこまで持っていくかという結論ですね。それが、先ほど申し上げた法律家としての知恵といいますか、国民の常識がどれだけ汲み上げられるかの勝負だと思うのです。ただ、それを安定的に行うということと、それを説明するという点から、理論的なことも重要になるわけです。スッキリと割り切れる大所高所からの議論、公式から演繹してくる議論はその意味では魅力的です。
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7.英米の刑法理論の変化と犯罪現象
結果無価値、行為無価値で一番激しくある意味で争われるのは、未遂論とか共犯論なのですけれども、例えば未遂犯で一番はっきり差がつくのは、不能犯をどうするかみたいなところです。主観説は、本人が危険なことを考えていれば処罰するということになりやすい。不能犯でもある程度の部分処罰するのを広げていこうとする。客観説を極端に徹底していけば、未遂は結果が起こっていないのですから、結果無価値が欠けるので無罪となるわけですね。少なくとも具体的な結果発生のかなり高い確率が要るとかというような議論をするのです。
どちらが正しいかという形で、非常に激しく争うのですが、イギリスでは、基本的に客観主義的な未遂理論だったのですけれども、不能犯処罰をしていいよという主観説に立った規定が出てきたのです。その流れの裏を見ていきますと、偉い、日本でいえば団藤先生に当たるような、小野先生に当たるような、例えばウイリアムズが説を変えたというようなことはないのです。また学説で激しく論争されたわけでもないのです。犯罪状況が非常に悲惨なことになって、それからIRAのテロとかいろいろ起きて、やはり結果発生の危険性の低い段階で処罰しないと困るという意識が強まったのだ問い思うのです。それで国民がそういう法律をつくれということになり立法が動いたのだと思うのです。
共犯従属性、独立性に関してもにたような動きがあったのです。日本のの新派、旧派は共犯論においても非常に激しく対立しました。牧野英一先生等の独立性説に対して、小野先生以下の従属性説が優越していく。簡単にいえば、新派が負けて独立性説はいなくなって、日本はみんな従属性説になってしまったわけです。実務も従属性説です。イギリスもずっとそういう議論をしていたのですが、独立性説の法律が出てくるのです。そそのかしただけで十分処罰に値するのだという議論になってくるのです。ここでも、そそのかされた正犯者が結果発生の危険性を一定程度以上高めたところまで処罰を待つ必要はないと考えるわけです。そういう形で、処罰化の動きが共犯論にくみ上げていったるのです。
適正手続という意味ではお手本の国という面もあると思うのですが、英米、特にイギリスではご承知のように、黙秘権を事実上否定する可能性のある法律ができました。これも刑事訴訟法や憲法の「理論」が変わったのではないのだと思うのです。
大阪教育大附属小学校の事件がありましたね。あれで思い出すのは、アメリカのレーガン大統領狙撃事件なのです。事案は大分違いますけれども、同じような責任能力に関する理論的動きが生じたのです。アメリカで何が起こったかというと、かなりの州で責任能力規定を外してしまうのです。故意、過失があればそれだけで処罰していい、是非善悪の弁別能力すら要らないというような立法ができてしまうのです。そこまでいかないまでも、是非善悪がわかれば、行動制御能力は必要ないという州刑法がたくさんできます。ただ、行動制御能力は不要だとするということは、日本の非難可能性の判断において重要な位置を占める他行為可能性を要求しないことになる。そこで日本では、「何てアメリカ人はだめなのだ」、「理論的に規範的責任論が正しいのであって、他行為可能性のない者を処罰するのは、責任主義を放棄することであって刑法理論の根本を踏み外すものだ」ということになるわけです。アメリカの刑法は間違えた理論に立脚していると言うことなのです。しかし、アメリカ人から見たら、「余計なお世話だ」、ということなのだと思います。「我々は我々の常識としてここまで処罰しなければいけないから、こういう危険な障害者に関しては病気でも処罰します」ということなのだと思います。こういう選択をして、それが「理論的にあなたは間違いだ」と言われても、アメリカ人は痛くもかゆくもないないのです。我々はそういう理論をとらないということなのです。
このような議論をしていくときに、私は、出発点はやはりその国、その時代の国民の意識なのだとつくづく思います。それを超えた客観的な価値があるかどうかというのは、やはりこれは社会科学にとって、もちろん哲学においてもそうですが、大問題なのです。ただ、少なくとも国民の声で動いていく現実をやはり謙虚に受けとめて、今まで考えてきた理論のどこがどう違うのかというようなことを考えていく必要が少なくともあると思うのです。
従来の理論を金科玉条のごとく「正しい」と考えて、そこと合わないような社会は間違いだという「思い上がり」は許されないのです。後でもお話ししますが、刑事司法は大きく変わろうとしています。なぜ変わるかといえば、犯罪状況が戦後考えられない段階に突入しようとしているからなのです。本当に信じられないのですが、犯罪率や検挙率の変化は異常です。もちろん、新しい事態が起こったら、それに飛びついて、熱が出たら熱冷ましだけ飲んでおけばいいということは、法律家のやることではないのです。今までの我々の知恵を生かしながら、そして先輩の積み上げてきたものを生かしながら、どう対処していくかということなのだと思うのです。
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8.法解釈における性差
― 強姦罪の量刑をめぐって ―
その意味で、話をまたもとに戻しまして、状況に対応して、それから国民の常識的なもので、強姦罪、女性の意識の問題も私はかなり動いていると思うのです。それをくみ上げて動かしていくときに、法律をつくるレベルで女性がある程度コミットすればいいというだけでは、私は足りないと思うのです。具体的に事案を見て、判断をしていく。その作業に、女性が男性と同等に進出してくることは、非常に重要です。
ご承知のように、そもそも裁判というものは裁判官1人ででき上がるものではなくて、まず検事が起訴するかどうかのところで選別が行われています。日本では起訴すれば99.9%有罪になるわけで、検察官は「裁判官」の役割も果たしているのだと指摘されることも多いわけです。しかし、その前提の段階で、弁護士さんがどうコミットするかによって、事件の動き方はまるで変わってしまうのです。
その中で、強姦罪ですが、もちろん先ほど言った意味で弁護士さんの中での女性の割合が増え、それから検察官の女性の割合が増えたということとつながってなのですが、私は裁判官の中で女性の割合が増えたことも強姦罪の量刑の変化をもたらしているのではないかということを講演したことがあるのです。2000年の1月だったと思います。そのときに使ったグラフが、横のページに行ってしまうのですが、3ぺージのグラフになるのですね。これは、もう公になった統計なのですが、最高裁の事務当局が出している統計をもとに量刑がどう変わっていったか、これはもっと拡大すればわかりやすくなるのですが、やはり間違いなく強姦罪は重くなっていると私は思います。
ほかの犯罪ですと、事件数が増えたから、それに対応するために重くなっていくという傾向が出てくるというのはよくあることなのですが、強姦罪の場合には、凶悪犯の中で最近強盗などが増えているのですが、強姦は、件数自体はそれほど増加傾向があるわけでもないのです。その中で、間違いなく刑が重くなってきている。それと執行猶予がつく率が間違いなく落ちてきているのです。こういう流れはいつから動き出したのかというのは難しいと思うのです。私はやはり、昭和60年ごろからじわじわと変わっているのではないかなというふうに考えています。
それに対して、男性の裁判官の反応は微妙なのです。「実は私はこういう話をしているのですけれども」と言うと、男の部総括裁判官たちは大体みんな怪訝な顔をするのです。要するに彼らから見れば、男の判断は若干男の側に立っていて、古い感覚でいて、処罰範囲を押え込んでいる、といいますか、刑法軽くしているのではないかという言い方をされている――まあ、実際そう言っている面もあるわけですが−−かなりの先生が共通して返ってくる答えは、「合議して、結論を言ってごらんなさいと言ったときに、女性の陪席のほうが必ず強姦罪の量刑は軽いですよ」、こういう言い方をされる先生が多いのです。合議の微妙なことまで私にはわからないので何とも申し上げられないのですが、その合議の雰囲気とかは、大体右陪席だって裁判長から見れば10期ぐらい下、左陪席なんて入りたてで、研修所の教官よりもっと上の先生が部総括でいるわけですよね。そういうときに、どういう磁場が働くのかはわからないのですが、女性が合議に加わっているということだけで、性的な問題に関して「健全な視座」が入りやすい気がするのです。女性が男性より健全だということを申し上げたいのではなく、両者がそろっている場で議論することにより生じるある種の「緊張感」の重要性ということなのです。
量刑判断というのは、学者から見て一番難しいところです。先ほど申し上げた法律家から見て実務を眺めていて、我々が素人だと一番感じるのはやはり量刑のところだと思うのです。事件を経験していかなければできないというところがある、その意味で過去の例からいって、軽い例を陪席の女性の方が言うというのは想像できないことはないと思うのですが、私はやはり少なくともそういう直接的な、陪席の方がこういう重い刑にしてくださいと言うから重くなるということはないかもしれないけれども、女性の裁判官が入ることによって議論の基調が動いていくという面があるのではないかなというふうに考えています。とにかく、性犯罪の量刑は、間違いなく重くなってきてはいるのです。
人格的に尊敬申し上げる立派な法律家とお話をしていても、男性ばかりの場合には、たまに「おやっ」と思うことがあるのです。裁判官、検察官、弁護士さん、研修所で教官されている方など、非常に立派な方だと思うのですが、ただ、強姦罪などの議論に関していうと、やはり非常に俗な古い形の偏見を持っていらっしゃる方がいないわけではないと思うのです。女の人はやはりこうでなければいけないとか、女の人にもスキがあったのだみたいな感じを、非常に開明的な裁判官でもされることはあるのです。飲んだときに非常によくわかるのは、教官室の先生の中に女性がいて、飲み会に女性が入ってくると、やはりそこは雰囲気が違うのです。微妙な差なのですが……。(笑)男性の会のほうがおもしろいという世界もあるのですが、女性ばかりのほうがおもしろいという世界も逆にあるのだとは思います。ただ、これからは、一緒の世界が中心になっていかざるを得ないのです。
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9.強姦罪の法定刑
もう一つ強姦罪に関して印象的だったことは、法定刑の問題なのです。女性法律家協会の先生かどうかわからないのですが、女性の弁護士さんなどの書かれたものを読ませていただいて、強姦罪の刑が軽すぎるという議論があります。刑法の世界では強盗と強姦は非常に似た形で講義するのです。暴行・脅迫を加えて、それによって被害者自身の反抗が抑圧されて、片一方では財物の奪取、片一方では姦淫行為に至るという構造が似ているのです。常に比較して講義するのですが、刑は強盗の下限が5年で、強姦は2年なのです。物の盗まれた強盗が5年なのに、強姦が2年というのは軽過ぎるのではないかという指摘は、ある意味で当然のものだと思います。性差別をなくしていくという意味でも、強姦罪の法定刑は上げていくべきなのだという議論もよくわかります。
内閣府の男女共同参画会議で、私もちょっと呼ばれて話をしたことがあるのです。ここにお示ししてあるデータなどももちろん使ってということなのですが、強盗と強姦は確かに強盗のほうが重過ぎるという面があるかもしれないけれども、具体的運用としてはそう困ったことではなくて、片一方で傷害致死罪は2年〜15年何ですね。傷害致死が2年、殺して2年なのです。だったら、そんなにアンバランスではないのではないかというようなことを申し上げたのです。これは、法務省との議論でよく出てきた点です。法務省としては、刑法改正は大問題ですから、そう軽々に考えていただいては困るという意識があると思います。それも非常によくわかるのです。法改正は従来本当に大変でした。
先ほどのお話でも出てきたのですが、最近のDV法案はあのスピードでよくできたと思うのです。もちろん内容にご不満のある方がいらっしゃるのはよくわかるのですが、立法ができたということは画期的なことだと思うのです。その前の児童買春もそうでした。ストーカーもそうでした。児童虐待もそうでした。間違いなく、構造的に立法の歯車の動き方が変わってきたと思うのです。私も、法務省と同じように、法を改正するのは物すごく困難だ、だから私の持論の一つには、法律家が解釈によって妥当な線を導いていく、立法作業より解釈作業が日本にとっては重要なのだという議論をしてきたのです。その流れからして、強姦罪の法定刑を上げるというのは無理する必要がないのだという講演をしたのです。
ただ、講演のとき厳しい質問が出ました。女性の検事さんなのです。法定刑が低いことが現実にいかに強姦の処罰の足をひっぱているかを全く理解していないという批判でした。法務省と話をしていて、法定刑を上げる必要はないという点では一致していましたから、後ろから味方に斬りつけられたという気がしました。先生は何もわかっていないのだ、法定刑が2年だからいかに我々が苦労しているのか。理解のない次席や3席が、強盗と比較したりして、「これだけこの事案にこの求刑はないでしょう」というようなことを言ったりする。、「何を言っているのだ、刑法の条文を読んだのか。強姦の法定刑は2年なのだよ」ということを言うということなのです。そう言われたら、私はもう、「ああ、そうなのですか」と言うしかありませんでした。もちろん私はその女性の検事さんを恨んでなどいません。むしろ、すてきな方だなと思ったんです。あれだけ自信を持って犯罪に立ち向かう姿勢には、魅力を感じました。ですから、その質問以降、私は少しトーンを変えたのです。もちろん言われたから変えるというわけにはいかないので、いろいろ調べてみて、いろいろな意見を聞いて、法定刑の下限を挙げるという選択肢も考えなければいけないということです。
もちろん、強姦罪の法定刑を変えろというふうに急に旗を振って動くつもりはないのですけれども、ただ、非常に微妙な差なのだけれども、法務省の中でずっと議論してきて、男性の検事さんたちと議論してきた人、それから私に面と向かって非常に厳しく批判された女性の検事さんのお言葉、それからその後、お若い女性の検事さんたちに別の機会にちらっと聞いてヒアリングする内容などを総合しますと、やはりまだまだ女性の法律家が増えていって、ごく自然な形で女性の痛みがわかる形で議論して、その上に立って自然に法定刑が上がっていくなら上がっていく、いろいろな解釈が変わっていくなら変わっていくということで動きが出てくるのだろうなというふうに考えています。
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10.社会が判例を動かす
強姦罪の解釈論について触れたいと思います。
保護法益論、これは実はわいせつ犯罪・性犯罪全体に関しては非常に激しい議論があったわけですが、強姦罪に関しては、ほとんど争いがなくて、女性の人権といいますか、性的自由を選ぶ権利といいますか、行動の自由も含めてになるのだと思いますけれども、性的自由、個人法益に対する罪だ、社会法益、風俗に対する罪ではないのだということはかなりはっきりしているのです。ただ問題は、「性的自由」をどれだけ実感を持って理解できてきたかというところだったと思います。
団藤先生などは非常に開明的で、フェミニストで女性の側に立つ先生だと思います。その意味で性的自由というのは非常に大きいという考え方だと思うのです。ただ、これまでの議論は、やはり、非常に抽象的で観念的といいますか、昔から女性の自由というのは非常に大事だとはおっしゃるのだけれども、判例が出していた当時の暴行・脅迫の意義の解釈とか、こういうものはやはり原則としてそれを肯定する解釈論を展開してこられたのです。
これは従来の学者の見解の特色なのですが、憲法レベルとか大きな理論としては、両性の平等などを、かなりはっきりおっしゃるにしてもも、強姦の具体的な事案についてはあまり突っ込んだ議論はしなかったと思います。強姦の解釈論、業績は意外なほど少ないのです。教科書などを書く段階でいけば、やはり判例を踏まえて従来のあり方の線から少し前に出る程度であって大きく前に出ないのです。
それはそれで、法律学のよさというか、余り革命的なことでいっていたら、よりどころがなくなって、法律のメリットといいますか、法律というツールの持つメリットだと思いますので、保守性というのはそれはそれでいいのです。ただ、問題は、具体的に被害者の痛みをどこまで解釈の際に考慮してきたのかという点なのです。「性的自由」を強調することと、非常にアンバランスなのです。レジュメに最判昭24年 5月10日(刑集3・6・711)、大阪地判昭和39年6月11日(判タ163号206頁)を紹介しておきましたけれども、これらの判断には、やはり古い感覚で「女性の側にも責任がある」というニュアンスがかなり強かった面があろうと思うのです。ただ、学者の側はそういう問題すら意識しないで、ただともかくもう完全に両性は平等になったし、女性の性的自由は保護されなければいけない、強姦罪は非常に重要な人権侵害なのだということは書くのです。しかし、それによって判例などが動くことはないのです。何がやはり判例を動かしていくかというと、やはり女性の側の動き、それから社会の評価、考え方の変化にあるのだと思うのです。
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11.強姦罪解釈と性差
暴行・脅迫というのは犯行を著しく困難にする程度でなければいけない、強盗の犯行を抑圧する程度よりは軽くていいのだ、ではどの程度軽くていいのだ、そこのところで、男女間の微妙な機微があるから、ある程度強姦罪の成立判断というのは非常に難しいのだということです。
そこに大阪地判昭和39年6月11日(判タ163号206頁)が引用してありますけれども、「被告人が相手方である女性の頭髪を引っぱり、「俺に恥をかかせるか」等言って、同女をホテルに連れ込んで性交しても、判示のような事実関係の下においては、その暴行・脅迫は相手方の犯行著しく困難ならしめる程度の強度のものであるといえない。」もちろん専門家からして、「判示のような事実関係」というのが書いていなければ、これは何を言っているかわからないということなのですが、女性はホステスなのです。そういう関係でお客に来て、暴力団関係だったと思うのですけれども、相手に対してきちんとした接待をしないということで恥をかかせるということなのでしょうが、やはりわずかですが、そこで垣間見られるのは、水商売のようなことをやっているのだからこんなことになったって仕方ないではないかという感覚みたいなものが入っていたのだと思うのです。本当にわずかの差なのだと思うのですが、じわじわと私は動いてきているのだと思うのです。そこにスーパーで万引きした女性に強姦罪が成立したという47年の例とか、平成9年の名古屋の例などもそうなのですが、判例は少しずつ動いているのです。
ここには引用しなかったのですが、青森の判例などもかなり女性の側に立ったといいますか、女性の側から見てよくわかるような判例が出てきているのです。また、研究会でご一緒した警察の研究所の方が調べられて、なるほどと思った研究があります。それは、強姦罪の被害者がどういう思いを持っているかという調査なのです。関連するものがいろいろあるのですが、中でも直接報告をおうかがいしたその研究は、非常に印象的だったのです。科学警察研究所がやった聞き取り調査だったのですけれども、かなりの人が死に近い恐怖心を感じたということなのです。DVの調査でもかなりの率の人が死ぬかと思ったみたいな非常に危険を感じたということがあるのです。それとまたちょっとニュアンスが違う問題なのですけれども、強姦のときに女性がどういう苦痛といいますか、どういう不安感を持つか。それは今はやりの言葉で言えば、PTSDみたいな問題もそうなのですけれども、どういう影響を後々及ぼしていくかというようなことを伺っていて、やはりそこのところのわかり方みたいなものは、もちろん教育すれば男もわかっていくというところもあるのかもしれませんけれども、性差がわずかに残っていくところなのだろうなという感じはしたわけです。さらに、派手な格好をした女性より、抵抗されそうもない、泣き寝入りしそうな女性がねらわれるなどの結論も、これまでの、「男の側から見た常識」を覆すものだったのです。
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12.夫婦間の強姦罪
「錯誤と準強姦」の問題も微妙です。これは犯人と性的関係を持たなければ病気が治らないとだまして姦淫したものを準強姦で処罰するかどうかで判例が非常に割れた事案があるのです。ここでも私は非常に印象的だったのは、非常に自由主義的で、進歩的で理論的な先生が、やはり法解釈としては、準強姦罪というのは強姦なのだから、実際に暴行・脅迫が加えられたと同程度に相手の自由意思を抑圧して、自由意思を無視して姦淫することが必要なのだということで、準強姦罪の成立を否定された。これは厳格解釈からいってある意味ではよくわかることはわかるのですけれども、被害者の側に立って考えたとき、そういう観点も入れたときには、説得性が弱いなと感じていたのです。「女性は、冷静・厳格に性的自己決定を行うものだ」という女性像というか、男性からの期待が含まれているようにも感じたのです。
抽象論として、普通の強姦と同程度のという議論を立てる、それはいいのですけれども、では、「同程度」をどう当てはめるのでしょうか。この議論の中には、やはり処罰に値するだけの法益侵害性があるかどうか、もちろん条文の枠内でそれが説明できなければいけないわけですけれども、そこの実質的な評価抜きに結論は出てこないのです。その際に、「計画的に性的関係を持つようにしくんだ行為」を全体として女性の利益の侵害と評価できるかということです。その際には、女性裁判官の方が「ふしだらでない自己決定」を要求しがちだという事実があるのならそれはそれでよいのですが、その判断を男性が忖度して行うだけでは不十分なような気がするのです。その事案に対する結論をつくっていくときの法律家として、やはりある程度の割合で女性が入っていくということは私は重要なことなのだろうなというふうにこのときも感じたのです。
夫婦間の強姦の成否に関して、有名な広島高裁松江支判昭和62年6月18日(判時1234号154頁)があります。この判決は要するに、夫婦の関係が破綻していれば強姦だけれども、破綻していなければ強姦にならない。この場合は、夫婦関係が破綻しているのだから、強姦になるのだというような言い方をしたということで、普通の夫婦間には強姦罪は成立しないということを認めた判例なのではないかというふうな批判をされることが多いのです。ただ、私はそれに関しては、裁判官の側に立って言えば、裁判官としては与えられた事件についての結論をきちっと出すことと、それについてどういう理屈づけで書くかというのとはレベルが違って、少なくともこの判決は強姦罪の成立を認めたのです。この判決は、「普通の破綻していない夫婦の場合には一切強姦を認めない」とはいっていないのです。批判説は、ちょっと言い過ぎなのだと思っています。むしろこの判決をどう読んでいくかということも、その判決をどう説明していくことが今後この問題について議論を展開することにとって、正しい方向を導けるかという政策的なことに結びついてしまうのだと思うのですけれども、私は、この判決でやはり夫婦間にも強姦罪の成立を認めた判決だということを、第一義的に強調していくほうが合理性があるのだと思います。
それに対して、いや、そんなことをいったって、学者の書いたものは原則として夫婦間に強姦罪は成立しないとあるではないか、夫の強姦罪不成立説が注釈刑法に書いてあるではないかという議論があります。事実そうなのですけれども、私は、それは少し古い注釈書でして、今はもう変わっていると思います。通説は、もう破綻しようがしまいが、夫婦間に強姦罪の成立の余地があるということが当然の前提になっていると思います。私などは少なくとも教科書にそう書いているし、今実務家に一番権威がある「大コンメンタール」、強姦罪の部分は最高裁判事の亀山先生が担当されたわけですが、もう10年ぐらい前の段階で、やはり強姦罪の成立があるのは当然だと考えているということなのだと思うのです。こういう形でじわじわとですが、変わってきているのです。変わってくるときに、これから動いていくときに、自然にきちんとした価値判断ができるためにも女性の法律家の役割というのは重要なのだということを申し上げておきたいと思うのです。
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13.刑事政策における性差
「刑事政策における性差」のところに移りたいと思います。まず、弱者保護は当然必要です。また、性差に従った対応は必要です。当たり前といえば当たり前なのですが、なぜそういう言い方をするかというと、男女平等ならば、保護の程度も男女平等でいいのではないかみたいな議論をする向きも全くないわけではないということなのですね。ただ、それは全然違うと思うのです。
法益の性質に合った保護が必要なのです。同じ人ならば、差別があってはいけない。しかし、刑法上も老人に対しての保護や子供に対しての保護は、別異に扱う。遺棄罪でも誘拐罪などでもそうです。同じ暴行・脅迫を加えても、被害者が男性か女性かでは、強盗罪の成否に差が出る場合もあるわけです。女性を特別に保護する行為を解釈などに入れるということはある意味で当然です。それに対して、法律家は飲んだりすると、法律家というのは、特に裁判官はそうなのですが、機密保持ということで特定の場所で飲むんです。飲んでいると周りは裁判官しかいないという世界です。だから、特に10期代の先生は、法律家なのだけれども、本音のところでかなりのことをおっしゃっていますね。
「女性は本当に弱いのか」と書いてありますが、「法曹キョウサイ」というのは、これは公務員共済組合の「共済」ではないのです。「恐ろしい」という字と「妻」という字を書くのです。(笑)かなりの人が恐妻家に見えます。飲んでいるときに、30期代の一見亭主関白風の法曹が「私は恐妻家ではもうナンバーワンを自認していますので、この辺で失礼させていただきます」と言って、周りの先生も「そうですよね」と言って「皆で恐妻組合でもつくりましょうか」という冗談を言っていたところに、10期台の大先輩がいらして、「何を言っているのだ、男のつき合いができないのか」という趣旨のことをおっしゃいました。ただ、こういう「男の世界」を強調する世代に、以外に「法の下の平等徹底主義者」が多いのです。女性は本当に弱いのかとか、平等なのだから同じ程度の保護しか与えなくていいのではないかみたいな、形式論と結びつく場合も多いのです。
学会レベルでもあるのです。夫に対するDVの問題を指摘する学者がいます。DV法というのは憲法上の規定のこともありましたが、夫の暴力ではなく、配偶者の暴力なのですねですね。しかしもちろん、実質的眼目は女性保護ですよ。だけど、学会の中などでは、いや、夫だって同じようにいじめられるんだ。老人になれば、介護されずにいじめ抜かれる男性は多いのであり、悲惨なことになるのだということを強調されるかたがいます。事実、数はそんなに多くないのですが、介護につながる痴呆の段階になった男性を介護しない女性の問題というのがないわけではないと思うのです。それはそれで、法律家としてきちんと取り組まなければいけない問題なのですけれども、男女に関してDVの問題は同じなのだ。同じように、五分五分なのだという議論をするとなるとそれは、やはり誤りだと思うのです。やはり、ちょっとどうなのかなと思います。その辺のことは理論として女性の保護ということはきちっと考えていかなければいけないと私は思うのです。
これからストーカー、児童虐待が動きだし、DVは11月から動かしていくわけです。そのために男女共同参画局で専門委員会ができて、私も末席を汚しています。ここにいらっしゃる女性法律家協会先生方も中心になって動かしていらっしゃいます。これから女性への性暴力の問題はもっと前に進んでいくと思います。その問題を考える上でも、21世紀の最初に、ちらっと前に振っておいた刑事司法が大きく変わっていく問題とリンクして考えていかないといけないのです。女性法曹の参加の問題もそこに大きくつながってくると思うのです。
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14.失恋して自殺するのは
ちょっとタイミングがずれてしまったのですが、私がちょっと研究をしていて、おもしろいデータが出てきたのです。自殺のデータなのですけれども、失恋をしたときに死ぬのは男なのか女なのかというデータです。警察庁のデータのとり方が変わったもので、75年を挟んでその前半の部分と、厳密には64年までなのですが、それと78年以降とでまた同じ集計をやり直したのですが、比較してみるとはっきり差がつくんですね。1960年代までは、失恋したら女性が自殺していたんです。それが今はむしろ男が自殺している。これは私は、やはり女性のメンタリティーという問題は、男もそうなのですけれども、社会がそういうふうに役割機能みたいなものをつくり上げているのだと思うのです。その役割がやはり大きく変わったのだと思うのです。
これはやはり基本的には、実質的な意味で女性が社会参加するようになったことが大きな原動力になっているのではないかと思います。男が死ぬようになったことはいいことですとか、悪いことですということではなくて、事実として変わったという事実を指摘したいのです。周りを見ていても、女の人は結婚できなくても何も言われないわけですが、男は「おれはこのまま一生結婚できないのではないか」とすごく焦っているのがいます。男の場合は適齢期という言葉はさすがに使わないですけれども、女性の場合には適齢期という言葉は死語になってしまっている、そういう中で、やはりまだそういう古いことを言っているから、結婚できないのでしょうが、研究してこれからずっと家庭を持ったところで、女性が一緒にいてくれないと自分の将来は非常に暗いのではないかということばかり考える。要するにやってもらうという感覚がまだ非常に強いです。
それはそういうふうに教える親とか家庭環境とかいろいろ個人の問題があると思うのですけれども、社会の意識、役割分担というのが大きく変わっていく、そういう流れの中で児童買春、児童虐待、ストーカー、DVなどが出てきたのです。
その前提となる犯罪状況の話をしておきたいと思います。認知件数がここ十年で急激に増えました。はっきりしているのですが、90年まで減ってきたのが、完全に転換した。増え出したのです。この増え方は、私は初め、95〜96年までは気にしていなかったのです。このくらいは、長い歴史の中で変動があるのだろうなと思っていたのですが、ごく最近まで追ってみると、これはかなりシリアスな状況になっているということなのだと思うのです。
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15.検挙率の低下が意味するもの
もっと恐ろしいのは、検挙率の低下です。我々日本は検挙率60%で、40だ30などといっている欧米諸国よりはるかに高いと言ってきたのですが、実は日本の刑法犯の検挙率は20%を割ってしまっているのです。ことしの1月から4月の統計、最新のものをもらって調べたら、18%なんです。5件に1件は捕まらなくなったのです。地域差がものすごくあったものですから、以前から10%台の件はありました。北海道とか埼玉とか宮城とか、大体事件の割に警察官が足りないところですね。そこが低いと言っていたのですけれども、日本全体が18%になってしまったのです。だけれども、もっと恐ろしい数字は強盗なのです。強盗の検挙率が48%なんです。ずっと90%以上捕まっていたのがです。この検挙率の低下は何を意味するかということです。
基本は、つまりいろいろな政策を見ても、私は警察に向かってもいろいろ発言しているのですが、基本は事件数に対して警察官の数が足りないということなのだと思うのです。検挙率が落ちたではないかと言うと、警察庁の答弁は必ず、「いや、先生、そんなこと言ったって、逮捕している人数、この数を見てください。これだけやって、これだけの人数で、これだけ弁護士さんなどが厳しいことを言う中で、書類をきちっとつくらないといけない。検事だって物すごくうるさいのだ、その中でこれだけやっているではないか、人数分の仕事量がそんなに減っているわけでも何でもない。むしろ増えているのです」。だけれども、国民としては検挙率が落ちたということを納得する理由にはならないですね。
よく見てみますと、実は刑法犯全体の認知件数のトレンドは、1975年で転換していたのです。刑法犯全体と凶悪犯とのずれというのは主に窃盗ですね。窃盗が大きく影響してしまっているかと思うのですが、間違いなく高度経済成長が進む75年までは犯罪が減り続けていたのです。それが増え出した。そしてついに、我々が肌で感じやすい、強盗、強姦、殺人、放火が増え出してしまった。もう、かなりの水準まで犯罪率が来てしまっているのです。これについては、ピッキングとか外国人犯罪だとかいろいろな事情があると思うのですけれども、先ほど申し上げたマンパワーの問題として、犯罪がこれだけふえているのに対して、それに対してどういう形で臨んでいくか、社会の大きな戦略として考えたときには、非常に難しい問題にぶち当たってくるのだと思います。
先ほど申し上げたストーカーの問題とかDVの問題、これは検挙率をむしろ引き下げる作用をすると思います。実際どういう形で影響しているかというと、警察庁の中でこういう課をつくって、それだけ任務が増えて、刑事事件に割り当てうる警察官は減ってきます。やはり刑事の人間が少し減ってくるのです。もちろん今は管理部門とか機動隊の部門とかを動かしていたりするわけですけれども、やはり相談業務みたいなものを物すごく増やしていくのです。
DVなどに関しては、警察はあまり表に出ないで厚生労働省の相談所で、婦人相談所系のところに頑張っていただかなければという議論もあり得るのですが、私は、実際運用していくとなると、警察の仕事がやはりふえていく可能性が高いと思います。少なくともストーカーに関しては、物すごく負担が増加しています。それから児童虐待で家庭に入っていくということに関しても負担増になっていると思うのです。
非常に評判の悪かった埼玉県警は、桶川の事件があったので、逆に物すごく厳しいプレッシャーをかけて相談をきちっとやっているそうです。ですから、勤務の量が物すごく増えています。そちらに人を割いていっている。もともと埼玉は日本で2番目に検挙率が低かったのです。それがそういうふうにシフトしていったときにどうなるか。私は、短期的には増員とかいろいろな手当てとか、ほかの振り向けとかいろいろあるのだと思うのですが、大きな意味では流れとしては、犯罪の数がこのまま増え続けていったら、どうやったってパンクする。犯罪をどう防いでいくか、それから犯罪を防ぐ要因として、純粋の刑事司法を構成する検察官、警察官みたいなもの以外にもマンパワーを考えていかなければいけない、いろいろな意味で発想を展開していかなければいけないという状況になってくると思うのです。
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16.女性の社会参加とは
そういう中で、私は、女性の社会参加の一つの大きな役割として、犯罪抑止にコミットしていくという課題が出てくるのだと思うのです。基本的には少子化が進んで、労働力が足りなくて、女性の社会参加の必然性がより強まる、それは教科書どおりなのだと思います。ただ、問題は社会参加することによるデメリット、それと犯罪をどう結びつけて考えていくかということなのだと思うのです。少子化すると、日本に外国人労働者を入れるべきだという議論が強まります。私みたいに犯罪の観点からいって、外国人は必ずしも入れればいいという問題ではないと言うと、もう経済評論家とか経済界の代表から批判されるのです。何を考えているのかと。今の日本の大学生というのはレベルが低くて使えなくて、例えばITの世界ではインド人も入れてどんどんやらなければいけないとか、単純労働者を入れなくて日本の雇用政策をどう考えるのだとか、そういう議論ばかりするのですが、生産とかGNPが何だとか、GDPが何だとかということばかり言って、社会全体のこと、社会の安全のこととかを考えなくていいのかという気がするのです。
もちろん、外国人を押え込めばいいというだけの問題ではないと思うのですけれども、私は、日本にいる人材をいかに、より有効に活用していくかというのを考えるのが先ではないか。日本の大学生は使い物にならない、IT技術は外人に頼るなどというのですが、本当なのかと思うのです。日本人の数学の勉強は、昔は高校生のレベルはすごく高かったのに、何でいつのまにかいろいろな国から見てこんなに劣ってしまったのか、そこには政策ミスがあったのではないかという議論もあり得るでしょうが、日本人がそんなに使い物にならないとは思わないのです。男も女も。たとえ、技術水準が少し落ちているとしても、落ちたのなら、また上げればいいではないですか。ここでも大きいのは、やはり女性が社会の中に参加していって、日本人の中でもまだまだマンパワーが残っているのだ、もっと有効に使っていくのだということを考えなければいけないということなのだと思うのです。
それともう一つは、参加するときに家庭というものをどう維持しながら、社会参加をしていくのか、これがキーポイントだと思うのです。犯罪の増加に関連して申しますと、犯罪の4割以上は間違いなく少年犯罪なのです。その少年犯罪というのは、やはりほとんどの場合が家庭に問題があるとされているのです。これは間違いないでしょう。自民党でも、社民党で、共産党でも、そこは認める事実なのです。その家庭をいかに正常化するかということを同時に考えられたら、社会に出て女性が働けばいいということだけの旗を振ってもしようがないということなのだと思うのです。その中でいかに母親としての仕事を認めながら考えていくか、これはもう刑法学者の枠を超えた議論になってしまうのです。
もう時間がなくなってしまっているので、最後のまとめに入りたいと思います。
読売新聞で、非常に優秀な女性裁判官のことが載っていました。スーパーレディのことが書いてありました。私はすばらしいと思いますし、見ていて本当に皆さんすごいスーパーウーマンばかりだと思うのですけれども、今の話にだけつなげてみますと、もう前に座っていらっしゃる大先生の時代は、女性法律家というのは注目されるし、物すごいプレッシャーの中で、最先端で男以上に働いておられるのです。それだけで疲れがたまると思います。だけれども、これからは、男と女とほとんど差はない。それが原則です。それと、子育ては忙しいわけです。男が半分子育てをすればいいという議論にはそう簡単には賛成できません。ただ、法律の世界というのはある意味で主婦の社会進出が一番やりやすいのだと思うのです。同業者同士の結婚が多いですよね。手の内が全部ばれてしまうという意味では、同業者同士が結婚するから恐妻組合という話につながってくるという問題もありますが、だけれども、今の状況であれば、家庭で子供をきちっと育てながら、やりやすい仕事の典型は、法律家なのだと私は思うのです。ただ、法律家だけがそれをやれたからといって、日本全体の家庭の問題解決には全然なりませんので、考えていかなければいけないし、もうこれがまさに皆さんに考えていただきたいことだと思うのです。
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17.母への想い
最後に「フェミニストなのかマザコンなのか 母への想い」という言葉を書いたのですが、私は自分でフェミニストと思ったこともないし、だけれども、もちろん女性は好きか嫌いかといえば好きなのですが、やはり決定的に私にとって影響を与えているのは母なのだと思います。その意味で、マザコンであるということは否定しません。時間ないといいながらこんな話を始めて申しわけないのですが、私は法律学で大事なのは具体的な結論だということをいつも申し上げておりますけれども、もう本当に先生方を前にして僭越なのですけれども、法律学、法律とは一番大事なのは人がわかる、人間というものがわかる。つまり相手の気持ちがわかるということだと思っています。ということは、苦労したことがあるかどうかが法律家としての価値の程度を決めているのではないか。その意味では、成績が優秀だからといって良い法律家になれるとは限らないのだと思います。
やはり法律論でも、理屈で言い負かしても相手を説得できるとは限らない。最後の最後のところはやはり相手の立場に立てるかどうかだと思います。人間はだれかの世話にならないと生きていけないのです。赤ちゃんのときはお母さんがいないと生きていけないのだと思うのです。私などは、先ほど経歴を紹介していただいて、どこに苦労をしたところがあるのだと思われるでしょうが、確かに苦労していないのですけれども、少しだけ苦労したことがあります。このような講演で話したことはないのですが、私の法律学は少し苦労してから、やはり変わったと思います。母親が脳梗塞で倒れた以降、僅かではありますが考え方が変わったように思うのです。
寝たきりになってもう20年になります。以降私は原則として、旅行をしないのです。介護がありますので。こんな言い訳は、通常のサラリーマンには通用しないことはよくわかっています。ただ初めは、まさに暗然たる気分でした。あの母親が口をきけなくなってしまったのですから。今は、人が考えるより遥かに気楽にやっています。大変でしょうと言われても、20年やっていますと、大変でも何でもないのです。むしろ、家にいるから仕事ができたのだと思います。夜中まで起きていたから、雑文ばかりなのですが、量だけはたくさんあります。一年の内、学会が日だけは家を空けますが、あとは私は家を空けないんです。どんな仕事でも泊りません。鹿児島の結婚式に呼ばれたって、飛行機で行って帰ってくるのです。
大変ではないのですが、介護というのは毎日なのです。介護を売り物にした政治家が、週に1回母親の介護のために九州に帰るというので、私は何となく空々しい感じがしました。寝たきりの患者は病院からも帰されてしまいます。大変だったのは女房です。そもそも、親と一緒に住むこと自体が敬遠されがちです。ですから、女房には絶対に頭が上がらない。常に顔色をうかがいながら生きてきたわけです。(笑)それ以前は、お袋の顔色をうかがいながら生きてきたわけです。病人がいて苦労したということより、そのような生き方が、私の法律学の性格を規定しているのかも知れません。とにかく、何とかかんといってみても最後は地が出ますし、理屈でごまかしてみても、結局は生きざまを問われることになるわけですからね。
ちょっと時間を過ぎてしまって申しわけなかったのですが、以上で終わらせていただきます。(拍手)
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