Welcome to magicthegathering.comNew to Magic? Click here!
MAGICTHEGATHERING.COM ARTICLES TOURNAMENTS MAGIC ONLINE
Home> Games> Magic> Magicthegathering.com> Products English|日本語

償いの笑み

デヴィッド・A・ペイジ
Translated by Yoshiya Shindo

 籐舟斎(とうしゅうさい)は節棍の一撃をかがんでかわし、鼠人(ねずみびと)の毛だらけの胸に向けて何の情も無く刀を突き刺した。さらに身を翻すと脇差を抜き、群れで襲い掛かる鼠の長い曲がった刃を器用に受け止めた。彼は身をひねり、最初の一体が倒れるよりも早く刀を引き抜くと、大きな輪を描いた刀は鼠の錆び付いた胴丸を容易く切り裂き、肉を深くえぐった。鼠人は甲高い声を上げ、黄色みがかった白目を剥いて横様によろめき、ごぼごぼと喉を鳴らして泥の中に倒れこんだ。

 籐舟斎は身体をひと回しすると、負傷を確認するために一瞬止まった。彼はぬかるんだ空き地の真ん中に、七体の鼠に一人囲まれていた。崩れた壁の大石が彼の右側に散らばり、その周りには死体が小枝のように散らばっている。その壁は、かつては沼居(ぬまい)の見張り場だった。竹沼(たけぬま)の中心地だった沼居も、崩れ去り忘れられて久しい。廃墟の側からは、上天にかかる満月の明かりにもかかわらず、竹林の爪のような影が籐舟斎と空き地に暗く影を落としていた。

 鼠の一団の卑怯な目論見は果たされないようだ。彼らを斬ることで籐舟斎は今夜を永らえたが、これだけの行いの後でも彼の死んだ心は動きもしなかった。彼は落武者(おちむしゃ)だった。遥か昔のたった一つのことで大名に追放され、いまや沼をさまよっている。かつてはその人物を思い浮かべるだけでも怒りが身体に満ちたものだが、魂の奥深くの無情感まで届くものは何もなかった。

 彼は手近の骸に目をやったが、その時奇妙な物が目に留まった。羽が組まれた矢がその首に刺さっていたのだ。それを見た瞬間、彼の中でぼんやりした感情の記憶が甦ってきた。彼は半弓を持っていない。誰かが戦いに手を貸したのだ。侍の弓を持った誰かが。彼はゆっくりと壁際に下がり、武器を構え、竹林の濃い下生えに冷静に目を配った。彼を見張っている戦士はどこにも見当たらない。

 彼はあたりの臭いをかいだが、湿った泥に沼の腐臭が混じった空気からでは、何か別な物を嗅ぎ出すのは不可能な話だった。彼は目を閉じて待った。

* * *

 籐舟斎は根に右足を滑らせ、もう少しで倒れるところだった。彼は病的に細い竹の幹を器用に掴んだ。彼は闇の中の細い足跡を見つめていた。それは鎧を着込んだ彼の三人の兄弟、芳信(よしのぶ)迫也(さこや)牟朗(むろう)、そして黒をまとった彼らの師である憲太郎(けんたろう)のものだった。彼が倒れそうになった物音には誰も気づかなかったようだ。彼は胸をなでおろした。望んでいたのは、何とかして彼らの前に現れることだった。彼はしばし立ち止まった。彼が憲太郎の矢を見つけて以来、それから七日間に起こったことは驚きばかりだった。その時は、彼は自分の影の中にいるようで、まるで夢の中にいるように沼をさまよっていた。

 憲太郎はそのすべてをそんな風に変えてしまっていたのだ。

 籐舟斎の見ている前で、彼らの師は沼の霧の中に消えてしまった。他の者もその後に続いた。後に残された彼は、一人夢から揺り戻されていた。彼は肩越しに向こうを見ると、彼らの後を走ってついて行った。

 彼の周りの霧は重く、それは何かの予兆のようだった。それは彼の皮膚を凍った指で撫でたが、新たに芽生えた目的意識を押しつぶすまでにはいたらなかった。長い間続いていた、彼を覆い包む荼毘のような感触が解けていった。彼は走りながら、自分の償いの記憶へとまた戻っていった……。

* * *

 籐舟斎が頭上の壁の石が動く音に気づいた時には、すでにほとんど手遅れだった。ここの構造からいって、逃げ出すわけにも行かないだろうし、誰かが通りがかることも無いだろう。彼の失敗は高くつきそうだ。おそらくこの哀れな命ほどに。

 黒い影が彼の頭上に渦巻き、宙返りの弧を空に描いた。籐舟斎は反射的にかがんで戦闘体勢をとった。

 十二(しゃく)ほど向こうに、人影が同じような格好で地面に降り立った。左肩から下がった半弓は、その矢の持ち主が彼であることを示していた。腰の銀色の刀と脇差は、ほとんど漆黒の闇の中でさえ光っているようだ。彼の黒と赤の胴丸には、戦闘の傷や沼の跳ね返りの後はまったく見られなかった。こいつはただの沼の武士じゃない。

 その男は立ったままこちらを見ているが、先に動こうとはしない。

 籐舟斎は彼の鳶色の瞳に敵意を感じたが、あえてそのまま待った。

 「何が望みだ?」 彼の声は沼の冷えた空気に単調に響いた。ここの人物が彼に望むものは一つしかない。命だ。籐舟斎は自分からそれを奪おうとするものをことごとく倒してきた。最初は復讐心だったが、後に彼を包んでいたのは孤独感だ。

 「俺が誰だかわからないのか?」 男は背筋を伸ばし、猫のようににやりと笑った。

 「憲太郎。」 籐舟斎はその名をつぶやいた。「誉れを汚す者の討ち手か。」 憲太郎の戦士としての技は伝説だった。彼は様々な地へ赴き、落武者や生きている価値が無いと思う者を切り捨ててきた。戦いで彼を下したものは、人であろうと獣であろうといなかった。噂では、彼は強大な炎の神を独りで屠ったとのことだ。

 「そうとも。」 憲太郎は刃を交差させ、敵として面した相手に頭を下げた。

籐舟斎の心にわずかばかりの安堵が浮かんだ。彼はその思いに浸ったが、やがてそれも消えた。憲太郎が償いに訪れたというなら、二年遅きに失している。彼は頭を上げた。名高い敵との命を懸けた厳しい戦いが始まるのだ。彼と家族の名誉を注ぐための戦いが。それもここで終わるのだ。しかし、彼に安堵を与えた声は、いまや口の中に灰の味で広がっている。

 「その気があるのなら、前に出て戦えばいい。」 口元に笑みを浮かべ、憲太郎は両の刃を宙に振るった。

 籐舟斎には失うものは無い。彼は前に出た。

 憲太郎は攻めに出ようとはせず、ただ彼を見つめていた。

 籐舟斎は戸惑いながら左に円を描き、距離を詰めた。そして侍の後ろに回ったとき、相手が向きを変えないのをみて少し驚いた。侍は一対一で戦う際に背後から襲わないのは事実なのだが、落武者には知ったことではない。籐舟斎は円を描く歩を止めると、男と目を合わすべくその場に待った。

 憲太郎は、まるで彼が何かの試験に受かったかのようにうなずくと、刃を回しながらこちらに突っ込んできた。彼の動きはあまりに速く、構えを取っていた籐舟斎ですら、攻撃を払うのがやっとだった。鋼が鋼とかち合い、刃と刃が滑り合う。息を感じるほどの間合いで、憲太郎は籐舟斎の武器を横に払うと、切っ先を彼の喉元に突きつけた。

 籐舟斎はその場に固まり、世界は死んだように静かになった。彼は憲太郎の暗い瞳を覗き込んだが、やがて膝立ちに崩れ落ちた。すべてを受け入れる心境が彼を覆っていた。終わったのだ。

 「死ぬ準備はできている。」 ここに至って、彼の名誉と名は保たれるのだ。彼の麻痺した魂の奥深くで悲痛が渦巻いている。

 「殺す準備はできてないんだがな。」 憲太郎は刃を納めた。「お前は落武者だ。」

 籐舟斎の悲しみは鈍い怒りへと変わっていった。「名誉ある死すら与えぬというのか?」

 「無意味な死に名誉など無い。俺はお前の敵じゃない。」 彼は振り返り、古い壁の隙間の穴へと歩いていった。

* * *

 籐舟斎の顔は赤らんでいた。憲太郎にあっという間に武装解除されてしまったことを思い出したからだ。憲太郎に彼を殺す意思が無いことが明白となったとき、それでも籐舟斎の身体の中には怒りの種が残されたままだった。その時は、彼は憲太郎の目的とか、笑む猫がどれほど賢いものなのか理解に苦しんでいた。 「食え。」 彼の隣で苔むした丸太の上に座り、一欠けの焼き麦を差し出してきたのは、硬い表情の芳信だ。

 籐舟斎は彼を見つめた。

 芳信は彼の直前に憲太郎に雇われていた。彼や迫也や牟朗は、籐舟斎と同様に笑む猫に拾われていた。そこには何がしかの兄弟愛というものが生まれていた。

籐舟斎はうなずいて礼をすると、周りを順番に見渡した。いくら師の能力が噂ほどだとしても、五人で鬼を討つのは難しいだろう。神河にいるものなら誰でも、それが軍勢を打ち負かした話は聞いたことがある。憲太郎は一列の神に座り、脚を組み目を閉じて瞑想に耽っていた。彼は意識があるようには見えなかった。籐舟斎には彼の内なる平衡がうらやましかった。

 彼の周りに風が吹いている。籐舟斎はその風を吸い込み、少しむせた。空気はここに至る上でより腐臭を増している。まるで鬼の闇の魂の穢れに影響されているかのようだ。

 いた……。

 籐舟斎は蛇のような声に目をしばたいた。他に気づいたものはいないようだ。

 やつらには聞こえぬ。やつらは強すぎる。しかしお前は……。

 籐舟斎は刀に手をかけ、周りの森を見回した。

 私はそこにはいない。しかし、いずれ会うことになるだろう。他はお前を助けられぬ、籐舟斎よ。

 彼は息を呑んだ。恐怖に喉が詰まった。

 芳信は目を細めて彼を見つめた。

 「大丈夫だ。」 籐舟斎はそっけなく手を振った。他には教えられない。自分の弱さを明かしてしまえば、戦場で信頼を得られなくなるだろう。秘密は外に出さないようにしなくては。彼はゆっくりと深呼吸し、自分を陥らせようとしている重苦しい予兆から立ち直ろうとした。

 すぐだ……。

 恐ろしくはないぞ、鬼め。籐舟斎は嘘をついた。

 鬼は答えなかった。

 籐舟斎は頭からそいつを追い払い、昔の記憶に安堵を求め始めた……。

* * *

 憲太郎は空き地の中ほどの小さな土の山の上で止まった。他の三人の侍は、傷だらけの胴丸と兜に身を包み、森の端に立って待っていた。彼らは身構えた体勢のまま前を見つめていた。

 籐舟斎は立ち止まったまま、武器を抜きたくなる気持ちと戦っていた。彼は憲太郎の目的を知らなかった。しかし、戦場で彼の名誉を傷つけ、その償いの機会をも失することは、名誉ある者の行いではない。籐舟斎の心配とは別に、彼は好奇心が頭をもたげているのにも気づいていた。

 「来い。」 憲太郎は片手で招いた。

 籐舟斎は大またで空き地に進み、周りに他の侍が集まるのを見ていた。彼らは数歩の間を置いて止まった。

 「彼らも侍だ。」 憲太郎は片手の武器で指し示しながら言った。「しかし、彼らとて常にそうだったわけではない。彼らもかつてはお前と同じ、落武者だった。俺は彼らにお前と同じ機会を与えたんだ。名誉を取り戻す機会だ。」

 籐舟斎は周りを見つめた。しかし彼らは動きもせず、瞬きもしないようだった。よく見てみると、彼らの戦を経た鎧は沼の泥や埃にまみれていた。彼らがここに長いこといるのは明らかだ。自分と同じように。しかし彼らは共に立ち、侍らしく振舞っている。

 籐舟斎は憲太郎に視線を戻した。

 「どうやって?」 確かに彼は真実を話しているのだろう。しかしその言葉の中にはそれ以上のものがあった。

 「鎧と武器を外し、ここの中央に立て。」 憲太郎が後に下がると、小さな四角い石があらわになった。彼はそれを指し示した。

 「なぜ?」 籐舟斎はここ数ヶ月、胴丸を脱いだことがなかった。

 憲太郎は何も言わなかった。

 籐舟斎の魂の片隅はそれに従う叫び声がしていた。それが彼の無意味な放浪や魂の抜けたような現実を終わらせるのだと。残りはその事実に無関心だった。彼は肩をすくめ、大小と胴丸を外すと地面に放った。彼は石の上に進んだ。

 その時、彼の足元から稲妻のような力が走り、彼の足は岩に吸い付いてしまったようになった。腕は胴の横で固まり、まったく動くこともできず、なすすべもなかった。

 憲太郎は脇差を抜いた。

 「殺すつもりなら、なぜ前にそうしなかったのだ?」 籐舟斎は詰問した。斬るつもりなら、なぜ一筋の希望をわざわざ自分に残すのだろうか?

 「殺すために連れて来たのではないと言うのに。」

 「ならば、何故?」 籐舟斎はもがくのをやめた。

 「助けてやるためだ。」 憲太郎は一息ついた。「一つだけ答えろ。」

 「何を?」

 「何故お前は名誉を失ったんだ?」

 籐舟斎は怒りに毛を逆立てたが、今の立場に見合っていないのも事実だった。その質問は、彼の前に一連の記憶の波を呼び戻した。彼の身体の中で怒りの玉がうねった。

 「私が大名ではなく家族を選んだからだ。」

 憲太郎の目に影がさした。「違う。」 彼は籐舟斎の胸に刃を走らせた。刃は着物と胸をわずかに切り裂いた。

 傷口から血がにじみ、籐舟斎の緑の上衣に染み込んだ。彼はたじろいだ。

 「いかなる陽の下にこのような真似を!」 彼の怒りは無力さの壁の向こうで激しく渦巻いていた。

 「何故お前は名誉を失ったんだ?」 憲太郎は質問を無視して言った。

 「大名の命に従わなかったからだ!」 怒りの大渦が、長い間彼の精神を守っていた壁にひびを走らせた。

 「違う。」 憲太郎は再び刃を走らせた。傷が胸で十字を描いた。

 籐舟斎は苦痛に歯をきしらせ、侍に襲い掛からんとする想いはひびを押し広げ、無力さを本能の感情へと変えていった。

 「何故お前は名誉を失ったんだ?」

 「侍の道を外れたからだ!」 ひびはさらに広がり、怒りが噴き出した。

 「違う。」 憲太郎は脇腹に刃を突き出した。

 籐舟斎は叫び声を上げた。壁は完全に崩壊した。無力さは形を失い、憲太郎の行いに対する怒りがあふれ、血となって身体を駆け巡った。彼は積年の憎悪に激しく目を広げ、身体中に自己嫌悪が満ち満ちた。彼の魂は復讐を叫んだ。

 彼の血の一滴が地に落ちると、大地が揺るぎ始めた。魔法の力が彼の身体をとどめていなければ、彼はその場に倒れてしまっただろう。石は内側に向けて崩れ落ち、引きおろされていく籐舟斎の脚の周りを囲んでいく。飲み込まれないように必死ともがく彼の体を流れる怒りは恐慌へと変わった。

 それは彼の膝までが泥に埋まったところで止まった。

 憲太郎は笑みを浮かべながらうなずいていた。

 「何をした?!」 籐舟斎の胸は、息をするのも苦しいほど締め付けられていた。「裏切りの報いはきっと受けるぞ!」

 「お前の血が沼の飢えを呼び覚ましたのさ。」 憲太郎の目は彼に挑みかかるようだった。

 「俺を生け贄にする気だな!」 籐舟斎は笑む猫の首を絞める様を思い浮かべた。

 「何故お前は名誉を失ったんだ?」

 「何故名誉を失ったかを聞くのに、沼の黒き心臓に俺を与えるのか!」 彼は吼えた。

 憲太郎の笑みはしかめ面へと変わった。「俺は単に聞いただけだ。沼に身を捧げたのはおまえ自身だ。」

 見えない縛めと戦う籐舟斎の額から汗が流れ落ち、目に入った。こんな事をしても無駄だ。彼には呪文は破れない。助かるためには、この裏切り者の問いに答えなくてはいけない。そんなものがあればだが。時間は失われつつある。泥は腿の中ほどまで来ている。彼は全力を振り絞って、彼の中に燃えたぎる赤い炎と失った名誉を考えることに集中した。

 「何故お前は名誉を失ったんだ?」

 「大名が不当にもそれを俺から奪ったからだ。お前が俺を無理やり助けようとしてるのと同じだ!」 彼の魂は、憲太郎の罪が償われることを渇望していた。

 憲太郎の顔が曇った。「違う。」 彼は再び刃を振るった。今度は左の脇腹に傷が走った。

 今度の傷は深く、血が彼の周りの湿った土に滴り落ちた。石が再び揺らいだ。籐舟斎は彼の足元の飢えを感じていた。それはまるで、長い土の舌を踵に巻きつけているかのようだった。彼は肩まで沈み込んだ。彼の周りの土の圧力に、彼はほとんど息ができなくなっていた。

 「残りの時はもう無いぞ。」 憲太郎は膝をついた。

 「嘘は言わん!」 籐舟斎の声はしわがれ、哀れさを増していた。

 「嘘を言っているのはお前自身に対してだ。」

 籐舟斎を絶望が襲った。これが答を出す最後の機会だ! 彼は目を閉じ、心かに渦巻く混沌を追いやった。

 大地は彼の肩の上で波打っている。息を吸う事はもはやほとんど不可能なことになっていた。

 「何故お前は名誉を失ったんだ?」 憲太郎の顔に悲しみが浮かんだ。

 大名は家族を助ける代わりに、彼から名誉を奪い去り、彼を落武者にした。彼らは何の過ちも犯していないというのに、大名は彼らの命を求めたのだ。名誉を失っているのは彼だ。

 泥が顎のところまで来た。

 「何故お前は名誉を失ったんだ?」

 籐舟斎は失望に歯を食いしばった。彼は人生において不名誉な行いをしたことなど無い。哀れな男一人の気紛れのために、彼がここまで貶められる謂れは無い。彼は目を開き、憲太郎の目を再び睨んだ。

 「私は名誉を失ってなどいない!」 彼の内には真実が輝き、長い間彼の魂を凍りつかせ、責め苛み続けていたすべての闇を引き裂いていった。何とか地中から這い出ようとする彼の目からは、涙が止め処なくこぼれ落ちた。彼は再び生きることを許されたのだ。

 憲太郎は微笑み、立ち上がった。

 籐舟斎の顔を土がくすぐった。彼は息を吸い込み、鼻を土が被ったところで息を止めた。いまや彼自身が作り出した牢獄の扉は開いた。彼の名誉は取り戻されたわけではない——それは思い出されたのだ。笑む猫はその事実をずっと知っていた。

 憲太郎は両の手に刀を握ると、地面に突き刺した。地面が揺れ動き、石がきしみ合う音が静寂を切り裂いた。憲太郎はそのまま地面を刀で貫き続け、ついには柄のみが地上に見えるまでになった。

 闇が籐舟斎を被い始め、視界はかすみ始めた。

 「彼を解き放て!」 憲太郎は刀を捻った。

 大地は振るえ、籐舟斎はすさまじい力で上に押し出された。彼はそのまま宙を舞い、どさりと地面に放り出された。瞬く彼の目の前には憲太郎が立ちはだかっていた。彼の猫のような笑みは驚くほどの誇りを覆い隠している。

 「お前は償われたのだ……侍よ。」 彼は手を差し伸べた。

 籐舟斎は灰に息をためたままで、闇が退いていくにつれ、彼の傷が完璧に癒されていくことに気がついた。彼は憲太郎の手を掴み、彼が引き起こすに身を任せた。憲太郎の笑みは広がっていった。

 籐舟斎の顔は、その前の行いを恥じて赤らんだ。

 「命をお助けいただきました。」 彼は深く頭を下げた。

 「ではその借りを返す法を教えよう。」 憲太郎は他の侍を指し示した。「望みとあらば、仲間に迎えたいんだがな。」

 「何をすればよいのですか、師よ。」 と籐舟斎は言った。

 憲太郎の笑みは消えたが、籐舟斎が敬語を使ったことは受け入れたようだ。「沼の端に、偉大なる陽の神、天羅至(てらし)を祭った古い社がある。数十年前、強力な鬼がそこを守っていた法棟(ほうとう)を殺し、それが建っていた地に呪いを与えたんだ。奴の汚辱と闇はあまりにも深く、それは沼に染み込み、竹沼とその周りの地を飲み込んでしまったのさ。俺たちはこれからその鬼を倒し、社を取り戻しにいこうと思っている。そうすれば、この地を覆う闇も晴れるだろう。」

* * *

 籐舟斎が命かけて仕える事を誓った日から八日、彼らが進んできた道のりの中で、彼が己が判断を悔いたことはなかった。笑む猫は彼に再び目的を与え、名誉と共に死ぬ代わりに、それと共に生きることを与えてくれたのだ。その思いに支えられた彼の決心は揺るぎの無いものであり、鬼への恐怖も感じることはなかった。

 鬼の思考が彼を妨げた時からは数刻たっていたが、恐怖に対する明白な感覚は、その生き物がだんだん近くになっていることを物語っていた。彼らが歩を進めていく中、木々は捩れ異形を成し、葉はまるで血の様に樹液を垂らしている。泥はますます深くなり、道もやがて浅い水に覆われた。

 憲太郎は手を上げ、一団を止めた。彼は静寂の中、しばし耳をそばだてた。

 芳信と迫也は先導の右に位置を取り、牟朗が左に進む側を素早く籐舟斎が続いた。

 「構えておけ。」 憲太郎は素早く言った。

 ようやくだ。闇の中からの鬼の声が彼の心を追い詰めていた。

 とげとげしい笑い声が沼に響いている。

 侍の一人は素早く刀を抜き、暗い森の向こうを覗き込んだ。

 籐舟斎は自身の大小を鞘から抜いた。彼は他もその声を聞いている事実に少しほっとした。

 確たる死が待つばかりよ、とそれはあざ笑った。

 我らに名誉あらば、勝利に導かれん! 籐舟斎は挑みかかろうとしたが、鬼に対する疑心暗鬼が彼の意識の中に蛆のように湧き出してきた。

 「あそこだ。」 憲太郎は枝を押しやり、その向こうを指差した。

 籐舟斎は侍の師の目線を追った。

 小さな石の社が沼の中から建ちあがっていた。墨のような水の中から半分腐った竹が伸び、その根はうねりながら窓に這いこみ、壁にひびを走らせてそこを抜け出している。入り組んだ木の枝は格子の様に入り口を阻んでいた。

 「ここは邪悪の気配が強いな。」 芳信はつぶやき、 緑の兜の影で瞬きをした。

 牟朗は苦々しげな声を上げたが、籐舟斎もそれにはまったく同意だった。迫也はうなずいただけだった。

 憲太郎は彼らを見てにやりと笑った。彼はそれぞれを眺めると、最後に籐舟斎に目線を止めた。「わかっていて欲しいんだが、この先何が出てきても、俺はお前たちと戦えることを誇りに思うよ。」

 心の底からの決意が籐舟斎の身体に広がり、この地を重苦しく覆う恐怖を振り払っていった。いつでも来い。

 「よし。」 憲太郎の顔から笑みが消えた。「ちょっと長居しすぎたようだ。」 彼は周りに頷いた。

 迫也と牟朗は半弓を構え、藪の中へと隠れた。籐舟斎は刀を構える。

 憲太郎は武器を引き抜くと、膝までつかる沼の水の濃い藪の中を進んでいった。彼が進むたびに水面に波紋を広げ、社の壁に当たっていった。

 籐舟斎は左側に位置をとったままその後に続き、芳信が右についた。泥は彼の足に粘りつき引き込み、歩みを難しくさせている。

 憲太郎は戸口の近くに止まった。

 籐舟斎は大きく息を吸い込み、彼の隣で待機した。

 何十人もの子供の泣き叫ぶような甲高い声が沼に響き渡っている。それは彼の魂を引っかき揺さぶった。奥底まで凍らせるようなその声に、彼は今にも叫びださんばかりだった。しかし何とか彼は無言で耐え抜いた。鬼などに好きにさせるものか。

 「死に行く気分はどうだ。」 それはあざ笑った。おぬしの死はかく苦痛に満ちるであろう、籐舟斎!

 その生き物の言葉が彼の精神に突き刺さり、籐舟斎は凍りついた。彼はなんとか耐えようとしたが、震えは止まらず、手は汗をかいていた。彼は刀の柄を握り締めた。

 「我らの命が望みなのだろう、神よ!」 憲太郎は堂々と呼ばわった。「しかし死ぬのはお前の方だ!」

 「我が社の壁をおぬしらの血で染めてくれん!」 流れ出してきた憎悪が彼らを包んだ。

 絡み合った竹は蛇のようにうねり、ゆっくりと分かれて真っ暗な入り口を明かしていった。その闇の中から現れたものは、悪夢そのものだった。戸口から伸びた影は身体にまといつき、恐るべき高さから彼らを見下ろしている。顔には皮膚が無く、むき出しの骨に尖った鋭い歯が並んでいる。うねるような筋肉に囲まれた分厚い肩は両の壁をこすり、長い角は歩くたびに天井を削っていた。周囲には恐ろしい髑髏が取り巻くように浮かんでいたが、その空ろな目がにらんだ先は籐舟斎だった。その空虚な穴の中から、恐ろしいばかりの知性と燃え滾る憎悪の炎が彼に向かって噴き出している。

 手を貸せ、籐舟斎。おぬしに与えんとせしおぞましき事避くるには最後の時ぞ。

 籐舟斎の脚は凍りついた。何故自分だけを狙うんだ?

 「ここを離れろ!」 憲太郎は戦う間合いに退いた。

 憲太郎の決意に力を得て、籐舟斎は位置についた。鎧の鳴る音を聞くに、芳信も同じ位置についたようだ。

 「おぬしらの肉に角突き立てん!」 鈍く光る牙をきしらせながら、鬼は怒り狂ったように敵を引き裂かんと宙を爪で薙いだ。

 芳信は叫び声を上げると、陣を離れて森の方へ走り出した。

 「芳信!」 憲太郎が叫んだ。

 逃げようとした侍は不意に立ち止まった。彼は戻ろうとはしなかったが、これ以上沼を逃げることもしなかった。

 彼奴から死なん。鬼の思考が籐舟斎に届いた。野獣は周囲の静寂を粉々にするような叫び声を上げると、社から飛び出し、 彼らの上で弧を描いた。

 やめろ! 籐舟斎は素早く反応し、刀を宙に向けて突き出したが、鬼はその更に上だった。

 迫也と牟朗が隠れ場所から飛び出した。弓がはじかれ、 矢がうなりをあげて的へと飛んだ。長い矢は何本か鬼の分厚い皮に弾かれたが、一本がその隆々たる右足に食い込んだ。濃い黒い体液が傷口で泡となったが、鬼の速度が衰えることは無かった。それは芳信の目の前に降り立った。

 芳信は刀を振り上げて攻撃を払おうとしたが、鬼は両の手で彼の胸を掴み上げだ。おぞましい音が響き、鎧は押しつぶされ、肋骨が粉々になった。哀れな侍は口から血を吹き出した。それは鬼の分厚い胸の筋肉を染め、水の中へと滴った。

 籐舟斎の内側では怒りの炎が燃えていた。彼は飛沫を上げて鬼に突っ込んだ。こいつのはらわたをえぐってやる。

 「おぬしらの死は甘露なり!」 鬼は彼のほうに向きを変えた。他を屠るのを助けよ、籐舟斎。声は心の中に忍び込んでくる。

 「耳を貸すな!」 憲太郎は鬼の右腕に深手を負わせ、そこから血が飛沫き飛んだ

 「死すべきときは、名誉と共に死す!」 籐舟斎の信念は、鬼が手傷を負ったことで自信を得た。彼は右に回りこむと上に突きを見舞い、左の二の腕に刀を突き刺した。

 「不実なる籐舟斎よ!」 それは腕を曲げると、籐舟斎の刀を彼の手からもぎり取り、 彼に向けて一本爪の足をけりだしてきた。

 籐舟斎が後に飛び退ると、鬼の巨大な足が彼の上を掠めていった。彼は倒れこんだ。水中に沈んだとき、べとつく水が口に入り込んできた。彼はもがき、手を突いて起き上がると胸糞の悪くなるような水を口から吐き出した。顔から粘液を拭い取り、瞬きをして視界を取り戻す。彼の目が再び焦点を結んだとき、そこには迫也と牟朗が半弓を落として戦いに参加している光景があった。彼らは憲太郎と共に鬼の周りを囲み、踊るように素晴らしい速さで斬りかかっている。

 今が絶好だ。鬼は手一杯だ。彼は水の中を探り、水面のすぐ下に浮かんでいる芳信の身体を探った。彼は立ち上がると、仲間の脇に回った。絶望が彼を包んでいた。彼は芳信を自ら引き起こした。彼はすっかり白目を剥いている。あばらから流れた血は胸に染み、着物と鎧を汚していた。彼の死はほとんど疑いようが無い。

 籐舟斎は友の刀を手に取ると、その身体が沼に沈むにまかせた。正義の怒りが彼の中で弾け、内側から彼を焦がしている。彼が再び立ち上がったとき、牟朗の身体が空を飛んでいるのが目に入った。侍の身体は大きな音を立てて樹に激突し、そのまま滑り落ちると藪の中に消えた。

 「恐れもせぬ、疑いもせぬ。」 籐舟斎は芳信の刀を痛いほどしっかりと握った。

 鬼は憲太郎の刀をかわし、迫也の脇差を弾き飛ばした。籐舟斎はすさまじい怒りに駆られるまま前へと突進した。

 鬼は迫也に肩から当たっていった。骨の折れる音が鳴り、侍は膝をついた。鬼は巨大な拳を振り上げた。

 憲太郎は迫也を突き飛ばし、刀を鬼の脇に突き出した。

 籐舟斎は迫也が激戦の中から外れた場所に出たのを見て安堵した。

 鬼がよろける。籐舟斎、手を貸さぬか!

 手を貸すとはこのことか? 籐舟斎は脇差を投げた。それは鬼の胸に突き刺さり、柄の根元まで肉をえぐった。

 憲太郎は刀をひねった。

 鬼は真っ黒な体液を噴出し、その上から血を吐いたかと思うと、その場に膝をついた。

 「名誉ある死者のために!」 籐舟斎は鋭い突きを鬼の胸に見舞った。彼の刀はあばら骨の間に突き刺さった。穢れた力がその生き物から噴き出し、刀を伝って籐舟斎の手を焼いた。彼は武器を手放すとよろけて数歩下がった。

 鬼は真っ暗な眼窩で彼を見下ろしていた。その身体が震えると、皮膚の下の肉が突然萎えていった。彼の身体に石の様なひびが走り、そこから四方に走った裂け目が急激に身体を覆っていく。そしてついに、それは粉々に崩れ落ち、ばらばらと水の中に落ちていくとそのまま見えなくなり、後には何も残らなかった。

 籐舟斎はあえいだ。鬼に対する重苦しい憎悪が晴れていくと、苦痛は和らぎ、意識もはっきりしてきた。

 地が揺らぎ、闇の覆いの中から一筋の陽の光が社に差し込んだ。それは刹那ごとにどんどん明るくなっていった。竹はしおれて、水と土と藪のある沼の中央へと場所を空けていった。籐舟斎の心には暖かさが満たされ、安らぎが彼の傷を癒した。

 ゆっくりと、その場は他と変わらない昼の明るさへと戻っていった。すべてが済むと、社は彼らが最初に見たときとはほとんど似かよらない姿となっていた。それが建っているのは磨かれた小石の広場の真ん中だった。籐舟斎は憲太郎と迫也の間に並んでその前に立った。

 憲太郎は振り向き、それぞれに代わる代わるににやりと笑うと、ゆっくりと真面目顔に戻った。三人の侍には言葉は要らなかった。今は牟朗と芳信の安らかなるを祈り、彼らの犠牲に名誉を与える時だ。憲太郎が倒れた身体へと向かうと、籐舟斎も何のためらいも無くそれに続いた。



WHAT'S NEW CORPORATE INFO WHERE TO BUY INTERNATIONAL SUPPORT SITEMAP PRODUCTS


Hasbro.com