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歴史のかたち

 戦国一の美女像をみる


 描かせたのは悪女か


写真:お市の方

 思っていた以上の美しさだった。深い優しさをたたえた切れ長の目、漆黒の髪。菊や桐(きり)の地模様が浮かび上がった白い小袖に、腰に巻いた紅色の打ち掛け。対面した高野山霊宝館で、しばらく、肖像の前を動けなかった。

 戦国時代一の美人画と称される、お市の方を描いた「浅井(あざい)長政夫人像」(持明院蔵、重要文化財)。

 その人生はしかし、悲劇的だ。織田信長の妹に生まれ、近江の浅井長政に嫁いだが、戦国の非情で夫は兄に滅ぼされ、三人の娘と生き延びた。再婚した柴田勝家は豊臣秀吉に敗れ、娘たちだけを逃し、三十六歳で自刃。

 敗者の姿が、なぜ高野山に残ったのか。一緒に奉納された長政像には天正十七年(一五八九年)、「有人(あるひと)」が画工に命じた、と記されている。ある人とは、生き残った三姉妹の長女を指すという説が有力だ。淀殿である。

 淀君、と書いた方が通りがいい。だが、「君」は現代の語感からは意外だが遊女らに使う蔑称(べっしょう)であった。母を死に追いやった秀吉の側室となり、やがてはその豊臣家も滅亡させたと蔑(さげす)まれ、そう呼び慣らわされるようになった。

 母をこれほど美しく描かせた娘が、本当にそんな悪女だったのだろうか。

 家族への情愛絵に託し



小谷城跡(滋賀県湖北町)。標高355メートルの本丸跡の眼下に、大広間跡が広がる。淀殿にとって一帯は、父母や妹らとともに暮らした唯一の土地として、生涯思い浮かべることが多かったろう

  四百年前の女性を描いた、もう一枚の肖像画をみる。

 「伝淀殿画像」(奈良県立美術館蔵)。淀殿と伝わる像だ。

 じっと見ているうち、あ、と小さな驚きとともに、あることに気づいた。切れ長の目、筋の通った鼻、小さな口、そしてうりざね顔。一つ一つの部分を取り出してみると、戦国一の美女とされる母、お市の方の像と、よく似ている。

 淀殿の像の制作年ははっきりしないが、母の肖像を参考にそれに似せて描いた可能性は十分に考えられるのではないか。

 だが、全体の印象は大きく異なる。視線の違いだろうか。母と比べ、娘の、この冷たく怖い雰囲気は、どうだろう。

 二枚の絵が象徴するように歴史の中で、淀殿は母とは異なるイメージで語られてきた。

 権力への執着は人一倍で、母の仇(かたき)である豊臣秀吉の側室になることさえ厭(いと)わず、正室おねや他の側室と張り合い、秀吉との間に子ができると、その子に盲目的な愛を寄せた、などと。

 江戸後期に成立した読み物の『絵本太閤記』では、「淀君行状」として、こうある。

 「淀君は■心(としん)深くましゝて日頃政所(まんどころ)の御方へは…勢の及び難きを妬(ねた)ましく口惜しく思ひ暮し給ひしに剰(あまつさ)へ若君の御貌(かたち)太閤に似給はぬとて…私言(ささやき)あへるなど深く恨み思しめし」

 おねが有力な武将たちから慕われるのに嫉妬(しっと)し、そればかりか、子の秀頼が秀吉に似ていないとうわさされていることに激高しているというのだ。

 そういう高慢で勝ち気な性格が、秀吉の死後、徳川家康から人質になるよう言ってきた要求を拒否し、それが大坂冬、夏の陣を招いたと、歴史は、豊臣家を滅ぼした役割まで、この一人の女性に負わせている。

 二月初め、この冬いちばんの寒波が過ぎて、湖北の山あいは膝(ひざ)までの雪に埋もれていた。

 滋賀県湖北町。父、浅井長政の居城があり、淀殿が五歳までを過ごした、小谷山。

 山麓(さんろく)の谷を、雪をかき分けながら進む。最奥部にあった長政の館跡には、杉木立がそびえていた。枝に積もった雪が時折、ばさり、と落下する。

 一帯は、町民六百五十世帯でつくる保勝会が守っている。

 長政は、織田信長と対立した福井の朝倉義景に味方して信長に攻められ滅んだが、保勝会の柴垣勇さん(62)は「長政は盟友だった朝倉を裏切ることはできなかったのでしょう。ここらの人間はとにかく実直だから。淀殿だって、そう」と言う。

 小谷寺には、淀殿の奉納という、袈裟(けさ)姿の長政の小さな木像が安置されていた。

 故郷で、淀殿は、恩義を忘れない、優しい女性として記憶されていた。

 高慢な淀像 覆す心ばえ


大坂城外から移されたという淀殿の墓が大阪市北区の太融寺にある。小さな社の奥にひっそりとたたずむ

 肖像画のお市の方は右手に経巻を握りしめ、夫の菩提(ぼだい)を弔う姿で描かれている。長政十七回忌、お市の方七回忌にあたる天正十七年(一五八九年)に、供養のため制作されたという。

 淀殿とすれば、もっと早くに両親の供養をしたかったはずだ。しかし、日本中世史・女性史を研究する京都橘女子大学長の田端泰子さん(63)は「天正十七年だからこそ実行できた」とみる。この年、淀殿は秀吉の嫡子、鶴松を生んだ。

 後世のイメージを排して、客観的に文献をたどれば、それまでの淀殿は、秀吉の手紙にも登場しない、目立たない存在だった。「子を生んでひと息ついてようやく供養を実現したところに判断力の確かさを感じる」

 鶴松は三歳で亡くなるが、その後、秀頼を出産し、淀殿は豊臣家で地位を確立する。

 近年の女性史研究で、淀殿が生き残った浅井家の者を家臣や女官として豊臣家で登用していたこともわかってきた。五歳で父を、十五歳で母も失った少女はその後も、一族の長として責任を果たしていたのだ。

 ただ、父母の肖像が残る高野山には淀殿の名は伝わっていない。絵は、淀殿の妹・初(はつ)の婚家の菩提寺があったため奉納されたのではと口伝されているだけだ。井筒信隆・高野山霊宝館副館長(57)は「徳川家が強大になって、高野山はそれまで関係の深かった豊臣家とのつながりを曖昧模糊(あいまいもこ)にした。徳川と最後まで戦った『淀君』の名はなおさらだった」と話す。

 その徳川家と、淀殿は秀吉の死後十七年にわたって対峙(たいじ)した。後年は「気鬱(きうつ)」からくる胸の痛みや頭痛に悩まされた。今でいう心的外傷後ストレス障害(PTSD)だったとされる。

 それでも、冬の陣では「着武具、番所改給、随之女性三四人着武具云々」と記録にある。自ら甲冑(かっちゅう)をつけ、同様に武装した女房を従え、大坂城内を激励して回ったというのだ。田端さんは「秀頼の後見というより、城主そのもの。大きな責務を果たそうと力を振り絞った。後に徳川の視点から仕立て上げられてきた従来の悪女の評価は改められるべきだ」と指摘する。

 ――二枚の肖像画をもう一度みた。お市の方をどう描くかは淀殿自身が画工に指示を与えたことだろう。優しい心は母の姿に託して、自分は厳しい視線で現実に立ち向かったのか。

 そう考えると、戦国一の美女像は、淀殿の心ばえを映しているように思えた。

■=
文・沢田 泰子
写真・追野 浩一郎
地図:小谷城跡

覚えがき

 淀殿については同時代の記録が少ないため不明な点が多い。天正元年(1573年)に小谷城が落ちた後、同10年にお市の方の再婚とともに越前・北ノ庄城に入るまでや、翌年の落城後、同17年に鶴松出産のため淀城に入るまでの“空白”も埋まっていない。だが、最期は史上に明らかだ。元和元年(1615年)、47歳で迎えた大坂夏の陣で、小谷城での父、北ノ庄城での母と同じように、敵が迫る中、自分の城(大坂城)で自害した。

見どころ

 小谷城跡(国指定史跡)へは、とりでの一つだった金吾丸跡まで車で上り、そこから徒歩約15分で大広間や本丸跡に着く。春は桜の名所としても有名。山麓の清水谷には寺院や武家屋敷の石碑が立つ。小谷寺は浅井家の祈願寺で、真言宗の寺院。小谷城の落城に際し、長政の姉、昌安見久尼が3姉妹をかくまったとされる実宰院(浅井町)には、淀殿寄進と伝わる尼の座像がある。


この1冊と歩く覚えがき 縁の深い 姉妹と 申せます

  「それぞれに夫を持つ身となり、しばしのほどは分れ分れに暮しておりましたが、年寄ってこの方、幸いにお近くで過ごすことができるようになったのでございます。よくよく縁の深い姉妹とは申せますまいか。どうぞ、いっそのこと、いつまでもこのまま、お側におりますことをお許し下さいませ」
 ……初が言外に云おうとしていることは、茶々にもよくわかった。小谷・北ノ庄と二度の落城に、ともに危難をくぐり抜けてきた二人である。……初一人が姉を残して、安らかな境地へ逃れ出る気には、到底、なれないものとみえる。

安西篤子「淀どの哀楽」より

  浅井長政とお市の方の間に生まれた三姉妹、淀殿(幼名茶々)と初、江(ごう)(または江与(えよ)、小督(おごう)とも呼ばれる)は、お市の方が柴田勝家と再婚して住んだ越前・北ノ庄城落城後、それぞれの道を歩んだ。二女・初はいとこの京極高次に嫁ぎ、実子はなかったが、姉妹の中で最も長生きした。三女・江は三度目の結婚で徳川二代将軍・秀忠の正室となり、三代家光、後水尾天皇の中宮となる和(まさ)子らを生んだ。
 三姉妹の確執を描く劇などもあるが、初は豊臣と徳川の和平交渉に奔走し、大坂夏の陣では落城前日まで淀殿に付き添った。江も、淀殿が長政追善のために京都に建立した養源院を再興させた。姉妹の確かな絆(きずな)をうかがわせる。

2005年02月22日  読売新聞)
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