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「なぜカルト宗教は生まれるのか」書評
投稿者 管理者  内容分類 参考書籍:マインドコントロール 

内容(必須)
なぜカルト宗教は生まれるのか
浅見定雄著 日本基督教団出版局刊

一、信教の自由は憲法の言う通り完全かつ無条件に認められるべきだということ。

二、しかし宗教であろうとなかろうと、他人を傷つける権利は誰にもないこと。

三、まして宗教は、どんな宗教であれ何らかの救済と幸福を説くのだから、第二の原則については『ひと一倍批判されても仕方がない』ということ。

筆者である浅見定雄博士(以下筆者)が、この本の中で挙げている、危険な宗教とそうでない宗教を区別する三つの原則です(『』記号は引用者が追加)。

この本でも指摘されていますが、しょせん宗教とはこの世の価値を捨てたり、社会常識に反して見えたりするものだという一般論があります。
筆者はこの原則に照らして、一部宗教学者の、こういった一般論で第二の原則違反までを弁護する風潮を批判します。

宗教であろうとなかろうと、悪いことは単純に悪い。
それを宗教の名でかえって見えなくさせる「宗教学」とは何なのだろう。
筆者はこのように嘆き、その原因を、無知と知ったかぶりであると分析しています。
しかし宗教学者に限らず、一般や当のカルト信者にも、この傾向はあるように思います。

よくある一般論としてもうひとつ、民族紛争や宗教戦争を取り上げて、宗教はそういったものの原因になる危ないものだ、所詮宗教とはそういったものだという誤解もあります。

こういった一般論から宗教全般に対して用心しても、恐らくカルトに対しては有効でないと著者は警告します。
なぜならオウム事件以後も、相変わらずカルトに関する事件や被害は多い。
筆者はオウム以後、一般は宗教やそれに類するものに漠然と警戒感はもつようになったが、カルトの本質やマインドコントロールについては曖昧なために、いざ自分自身のことになると分からないのではないかと分析しています。

さて、民族紛争や宗教戦争についてですが、本来聖書学が御専門でパレスチナ問題などにも理解があり、J・F・ケネディやM・L・キングの時代にアメリカで学んだ著者は、
『真の意味での民族紛争や宗教戦争なるものは、人類史の中で一度もなかった』し、これからも起きないだろうと言います。

『紛争というものは、民族や宗教の違いからではなく、抑圧と差別、それから利害(特に領土と資源)の対立の結果起こる』

筆者はこのように言い、アイルランド紛争をカトリックとプロテスタントの戦いと言うなら、何故フランスではその戦いが起こらないのか、
パレスチナ紛争をユダヤ教とイスラム教の戦いと言うが、パレスチナでは長い事イスラム教徒とユダヤ教徒が仲良く暮らし、結婚式にも互いを招待し合う風習があったと指摘します。

『人間は宗教や宗派が違うからといって喧嘩したりはしません。喧嘩になるのは、そこに差別や抑圧や利害の対立があるからです』

筆者のこの指摘は、まさに慧眼と言えるでしょう。
だからこそ、たとえその宗教や宗派が生まれた時代に対立があったり、教典自体にその対立が織り込まれていたとしても、
時を経て対立の本当の原因が無くなれば、宗教は融和や寛容の方向へ向かいます。
これが、今日一般的な伝統宗教の姿です。

その変化を堕落と呼び、自らは攻撃性を保って、それを宗教の純血の証と自称する風潮があるなら、それは危険な宗教組織と呼べるでしょう。
伝統宗教の歴史と、今あるカルト宗教の排他性や攻撃性を混同してはいけません。
封権国家や専制君主のもとで、信じるという行為が時には生命に関わる罪になった社会と、
私たちが今暮らしている、信教の自由を保証された先進国とは違うのです。
私たちは他者に危害や迷惑を掛けない限り、どんなバカげた思想信条であれ、その自由は保証されています。

カルトと言うのは先進国病だと、この本でも指摘されています。
理由の一つはこの「信教の自由」であり、それを盾にとり、あるいはつけ込んでカルトは幅を利かせています。
その具体例として、1990年にゴルバチョフの元で「信教の自由法」が成立すると、
カルトが世界中からロシアに流れ込んだ事実が、この本では取り上げられています。

社会ではなくカルト内部において、むしろ「信教の自由」は保証されていないと言えるでしょう。
この点において、不幸にもカルトの犠牲になった人たちに、もっと公的に手を差しのべる動きがあっても良いだろうにと思います。

『宗教はかけがえのない人間の救済と幸せを説くのですから、その宗教で一人でも傷つけられた人が出てきたら、宗教学者はその訴えに徹底して耳を傾ける義務があります』

筆者のこの指摘は正しいと、私は思います。
ましてその宗教を率いたり勧めている人間はなおさらだと思いますが、
それをせずに『自分たちは悪くない』『仮に悪い行為があったとしても、自分たちの組織は悪くない』と強弁するのが、カルトの特徴のひとつなのかも知れません。

また、以下は長年統一協会問題に取り組んで来られた筆者の、彼らのキリスト教としての歪んだ教義と、それへの場当たり的対策への批判を、一部引用させて頂いたものです。
教義の検討は創価学会等でも行われている旨、聞き及んでおりますが、
過去への反省と被害実態への真摯な改善がなされない限り、教義だけをいくら取り繕って体面を良く見せても仕方ないのです。



> 日本聖書協会は、1987年にカトリック・プロテスタント共同の「新共同訳聖書」を完成した。
> 一方、統一協会は、教祖文鮮明が霊界で「イエスをはじめ、楽園の多くの聖賢達と自由に接触し、密かに神と霊交なさることによって天倫の秘密を明らかにされた」
> と称する『原理講論』(1993年までの版)の中で、文鮮明の教えを論証するのに、もっぱら「新共同訳」以前の「口語訳聖書」を使っていた。

> しかし彼らは、「口語訳」も一つの翻訳に過ぎず、聖書の本当の原典はギリシア語(新約)とヘブライ語(旧約)のテキストなのだということを理解していなかった。
> そのため彼らは、韓国では韓国語訳を、日本では日本語訳を、その言葉づかいの些細な点まで「証拠」として『原理講論』に引用していた。

> 本当は、文鮮明がせっかく霊界まで行って直接神の言葉を聞いたのなら、ついでに聖書の原典とは何かも神様から教わって帰れば良かったのだ。
> 新共同訳にも沢山の欠陥があり、私はそれを「研究ノート」として自分の大学の紀要に発表したこともある。
> しかし私たちにとっては、翻訳はあくまで一つの試みに過ぎず、必要な時には原典を問題にするから、
> 口語訳が新共同訳に変わったからといって、それによって聖書の引用を変更したり撤回する必要は全く生じない。

> ところが1987年以降、世間には次第に「新共同訳」の方が多く出回り始めた。
> すると『原理講論』の中で「口語訳」なら証拠になったはずの聖書の箇所がトンチンカンになるという、何とも滑稽な事態が生じてきた。

> いや、このあと実例(※引用者注:ここに紹介させて頂いたのは、筆者が本書で指摘されている、ほんの一部です)で証明する通り、
> 多くの場合『原理講論』の聖書引用の間違いは「新共同訳との食い違い」というような高級なものではない。
> その大部分は、私たちが統一協会信者のカウンセリングをする時に、「口語訳」聖書の時代から失笑してきたものである。

> ではなぜ彼らは、この問題を「新共同訳による聖句の引用」の問題だと思ったのか。
> それは新共同訳が出たため、彼らは従来の口語訳と新共同訳を読み較べてみる必要を感じた。
> それで聖書のテキストそのもの(と言っても翻訳テキストだが)を読んでみる羽目になった。そしたら今更、沢山の間違いに気付いたという訳である。


統一協会は動揺して密かに内部検討を始め、1992年と1993年に文書としてまとめています。以下はその報告から。
まずは92年報告より、彼らの聖書解釈がそれまでいかにいい加減だったか、筆者の指摘の一部をご紹介します。


●ヨハネの黙示録22章13節(『原理講論』50ページ)

「私はアルファであり、オメガである。最初の者にして最後の者。」

> 原文はただこれだけの単純な文章であり、ここでの「私」がイエス・キリストだということは、翻訳聖書でも素直に読めば小学生にでもわかる。
> 六行後にちゃんと「私イエスは…」と書いてあるからである。

> この「私」を、統一協会は四十年近く、イエスではなく創造者なる神(私たちの言い方ではイエス・キリストの父なる神)のことだと教えてきた。
> 口語訳を(あるいは韓国語訳を)、前後の文脈も考えず、いいかげんに読んでいたのである。
> 聖書の箇所を前後の文脈抜きに断片的に引用して自分たちの教えの「証明」に使うのは、統一協会に限らず、
> エホバの証人・ものみの塔から「ハルマゲドン」のオウム真理教まで共通して見られる現象である。


●ヨハネによる福音書14章11節(『原理講論』66ページ)

「私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私もあなたがたの内にいることが、あなたがたにも分かる。」

> これも前後を読めばイエスが弟子たちに語られた言葉だから、「私」とはイエス、「父」とは神、「あなたがた」とは弟子たちのことである。

> ところが『原理講論』はこの「私」も「父なる神」と考え、この箇所を、人間がイエス・キリストではなく神そのものと一体になって「神性を持つようになる」証拠だとした。
> こんなことは、新共同訳が出版される前でも、聖書を注意深く読んでいればとっくに気付いたはずのことである。


●ヨハネによる福音書3章16節(『原理講論』80ページ)

「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」

> 『原理講論』はここから「信じる者が」という一句を取り出して、そこから「信じるかそれとも信じないかは、あくまでも人間自身の責任なのである」
> という「責任分担説」を展開する。神は人間に5%の責任分担を与えたという珍説である。(『原理講論』243ページ)

> 「信じる者が」とあるだけで「信じるか信じないかはあくまで人間自身の責任だ」という意味になるのなら、
> 日本語では「生まれる者が」と言うと「生まれるか生まれないかはあくまで本人の責任だ」という意味になり、
> 「死ぬ者が」と言うと「死ぬか死なないかはあくまで本人の責任だ」という意味になってしまう!
(※引用者注:カルトは入信を促す際、この『原理講論』の箇所に似た論理をよく用いますね)

> なお『原理講論』は、同じ頁に「エフェソの信徒への手紙」(以下エフェソという)2章8節とロマ書5章1節を挙げている。
> しかしエフェソ2章8節は信仰が人間の責任分担ではありえないということを強調している箇所である。
> 「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。」
> こんなに明瞭な人間の責任分担(自力救済)否定の言葉があろうか。
> ロマ書も同じである。5章はそのすぐ後、人間がまだ罪人であった時に(つまり責任分担など果たせなかった時に)
> キリストが十字架に死んでくださったから人間は救われたのだと言っている。


●マタイによる福音書4章1〜11節(『原理講論』345ページ)

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため霊に導かれて荒れ野へ行かれた。…イエスは言われた『退け、サタン』」

> 有名な「荒野の誘惑」の場面である。イエスは「悪魔」即ち「サタン」に誘惑された。ところが『原理講論』だと話は逆になる。
> 「人間がこのような試練を“神”から受けないで“サタン”から受けて」、しかもそれに負けるようではだめだ。
> だから「世界的カナン復帰完成者(救世主)」には、サタンではなく「神の方から試練をする」。
> イエスは神から試練を受けたのであり、サタンからではないと言うのである。
> でも、聖書自身がこんなにはっきり「イエスは悪魔から誘惑を受けるために」と言い、「退け、サタン」と言っているのだから、どうしようもないではないか。


筆者は、かのハーバード大学神学部博士課程でG・アーネスト・ライトらに師事、学位を得た旧約聖書学と古代イスラエル宗教史の権威です。
現在は第二専門としてカルト問題を扱っておられ、むしろその分野で有名な方ですが、
だからと言って、筆者がその修めた専門知識を振りかざしているように感じるとしたら、それは誤解です。
むしろそうなら、まだ統一協会の間違いにも一片の救いが残されていますが…


> 私はこの(一連の)コメントを書くにあたって、聖書の原典と語句索引以外、研究書は一冊も使わなかった。
> こんなことには、私たちの言う「研究」など一切必要ないのである。


↑これが現実です。
つぎに93年報告から、統一協会側の言い分と、それに対する筆者の指摘を、数例ご紹介しておきましょう。



統一協会側:「キリスト教の正典の主要部分となっている新約聖書には、もっとたくさんの旧約聖書からの引用の不適切があるのに、それは十分過ぎるほどの信仰の対象となっている」

> 冗談ではない。92年報告で紹介したようなでたらめな引用が、新約聖書には『原理講論』より「もっとたくさんある」とは、いったいどういう数字にもとづいて言うのか。
> たしかに新約聖書における旧約聖書の引用の中には、現代の聖書学から見て「不適切」に思えるものがある。
> しかし――ここからが大切なポイントである――、統一協会(のようなカルト)以外のキリスト教では、
> そういう引用箇所を新約聖書の中から取り除いたり「訂正」をしたりは絶対しない。
> 新約聖書の引用自体は永久にそのままにして研究し、その言わんとする趣旨を理解しようとする。
> ところが統一協会は、神から文鮮明への啓示であるはずの『原理講論』そのものの引用自体を「訂正」したり「検討」したりしようとしているのである。


統一協会側:「“聖書は真理そのもの”と見る立場はキリスト教会においても少数派となって来ているのが現状です。同じことは原理講論についても当てはまると考えなければなりません。
原理講論も、“それが真理そのもの”ではなく“それとの対話において真理を感得するもの”だと考えられるからです。
このことは原理講論の総序において、すでに述べられていることからも理解できます。」

> そういう立場が今本当に「キリスト教会においても少数派となって来ている」のなら、私個人としては非常にけっこうなことだと思う。
> しかし実際は、統一協会とかエホバの証人とか、他にも超保守的な「キリスト教」が、今かなり盛んで困っている。
> この系統の人たちは、聖書の一言一句がみな事実であると言い張り、進化論の大筋さえ認めない。

> 聖書の真理性と信仰上の権威についてなら、私の属する日本キリスト教団の「信仰告白」でも「聖書は、神の霊感によりて成り……信仰と生活の誤りなき規範なり」と言っている。
> ただ「一言一句機械的に」とか「信仰と生活以外の自然科学や歴史学についても規範である」とか、そういう馬鹿げたことを言わないだけである。

> ところが統一協会は、いざとなるとアダムとエバの性的堕落もその後の血統も、
> 聖書に書いてあること――と言っても全部文鮮明が歪めて解釈した作り話だが――はすべて歴史的事実だと教える。
> そうでないと文鮮明による「血統転換」(集団結婚式)も有り難くなくなってしまうからである。
> そのため統一協会の出版物は、途中では聖書の歴史的・批判的研究も引き合いに出して見せるが、
> 最後には必ず、超保守的体質を暴露する。アダムとエバもノアの洪水も史実だとする立場である。

> …『原理講論』も「真理そのものではなく」「それとの対話において真理を感得するもの」だと「原理講論の総序においてすでに述べられている」というのは真っ赤な嘘である。
> (中略)『原理講論』の「総序」の言い分をたどってみよう。まず聖書は「真理それ自体ではなく、真理を教示してくれる一つの教科書」にすぎない。
> したがって「それ(=聖書)以上に明るいともしび(=原理講論)が現れたときには、
> それを機として、古いともしび(=聖書)の使命は終わるのである」(『原理講論』30ページより)


結局、本書に指摘されている結論通り、『彼ら幹部は統一協会の教えが「真理」だから信じるのではなく、
別の目的(例えば霊感商法)のために必要なので、信じているふりをしているだけ』なのでしょう。
その別の目的のために、「真理」という名の「強迫観念」に駆り立てられる被害者の存在は、統一協会に限らないと思います。

また、本書には『マインドコントロールの恐怖』の著者スティーヴン・ハッサン氏が来日された折りの、筆者との対談も収録されています。
本書で指摘され、嘆かれているカルトに対する日本の社会やマスコミの実情は…残念ながら今日に至っても、あまり改善が見られていません。
この点についても、本書の指摘は未だ新しさを持って私たちに警鐘を鳴らしています。
『マインドコントロールの恐怖』と併せて、本書もお読み頂ければと願います。


関連資料・リンク、補足説明等
関連リンク
http://www.cnet-sc.ne.jp/jdcc/
http://www.toride.org/asami/cult.htm

関連書籍
スティーブン・ハッサン著、浅見定雄訳『マインドコントロールの恐怖』(恒友出版/1993)

西田公昭著『マインドコントロールとは何か』(紀伊國屋書店/1995)

J・C・ロス、M・D・ランゴーニ共著、多賀幹子訳『カルト教団からわが子を守る法』(朝日新聞社/1995)

『新宗教 教団・人物事典』(弘文堂/1996)

その他多数

記入日時 2003/08/20/16:42:42  No.6
記入者 春田の蛙  URL

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