Online 連載

今月のバックナンバー<傑作選>


第5回<月刊日本カメラ1979年10月号より>
連載・民謡山河(二十二)
祇園祭まである
宮津節(京都)
写真◎須田一政/文◎田中雅夫


 月のバックナンバー傑作選は、月刊日本カメラで1978年1月号より1979年12月号までの2年間つづいた、日本全国の民謡に題材を得た田中雅夫氏の軽妙な文章と須田一政氏のまことに個性的な写真による口絵連載です。
 紹介の連載・民謡山河の10月号は全20ページにもわたり、文章は全文としましたが、写真は19点の中から10点のみとさせていただきました。なお、写真の番号は当時の連載のままです。



 すだ・いっせい
 1940年(昭和15年)東京生まれ。62年東京綜合写真専門学校卒業。演劇実験室「天井桟敷」専属カメラマンを経て、71年よりフリー。日本カメラフォトコンテスト年度賞第1位。76年「風姿花伝」により日本写真協会新人賞、97年写真集「人間の記憶」により第16回土門拳賞受賞。日本写真家協会、日本写真協会会員。東京綜合写真専門学校、東京造形大学講師。

 たなか・まさお
 1912年(明治45年)東京生まれ。東京市立二中(現上野高校)、東京高等工芸(現千葉大)卒業。共同印刷、日本光学工業、興亜写真報国会、銀スタジオなどに勤務。戦後、東京国立博物館技官を経て50年代半ばから日本カメラ編集長を7年間勤める。その後はフリー。写真批評家活動は戦前からで、著書に「写真一三〇年史」「写真におけるリアリズム」「写真東京風土記」「写真をどうつくるか」など。現代写真研究所所長も勤めた。日本民族学会会員。87年11月7日、急性消化管出血のため永眠。

連載取材中に語り合う在りし日の田中(左)と須田の両氏


 都府与謝郡の宮津港で古くから歌われた民謡で、元禄年間には立派な遊廓町が出来て船頭や漁師で賑わい、そうした酒席で盛んに歌われたというから、歌詞も曲調もそうした遊び場のふんい気が濃厚である。まあ折角稼いだ金をすっかりはたいてしまうほど面白く遊ばせたのであろう。歌の文句のあとに「丹後の宮津でピンと出した」とあり、ピンと出したの意味をめぐって、縞の財布が空になった客のためいきという説、幕末の長州事件のとき広島の征長軍本営に軍使としてやってきた長州藩家老宍戸備後守を討伐軍側の宮津藩主松平伯耆守が独断で釈放したので丹後の宮津が備後を出したをピンと出したという説、それに男子の発情の意味という説などがあるが、どれもちょっと説得力に欠けるところがある。

A

 月が出ました 橋立沖に
 金波銀波の 与謝の海



 田一政という男はこの民謡取材のなかにもちょいちょいあっちこっちへ旅行するくせに日本交通公社発行時刻表なるものを持たない。もちろん分県地図なんていうものを取り揃えているはずもないから、どこへ行くにも私が旅程を作製しなければならない。電話で打ち合わせするときなんざ、何とか線でかんとか駅で乗り換えてなんていっても間違えてかんとか線に乗って何とか駅で待ったりして困るので新しい時刻表を買ったときに、一年前くらいの時刻表を一冊彼に進呈したが、どことか線で乗り換えて汽車の来るのを待っていたけれどいつまでたっても来んので駅員にたずねたらあの線は廃止ですわといわれたそうで古い時刻表はあかんなぞといっていたが、時計という物も持たん男で、その割にじゃ五時四十分にあのちょっと可愛らしい娘がいるサテンで会うことにしよう店の名は何ていったかな、まあいいやなんていう約束をすると五時三十五分くらいにその店にちゃんと来ている。

 あそんなわけで今回の宮津節行きも私が日程を作ったのだが時刻表地図を見ると、新幹線で京都へ、山陰本線に乗り換えて綾部、そこで舞鶴線に乗り換えて西舞鶴、そこで宮津線に乗り換えて宮津と三回も乗り換えなくちゃならんわけで、その乗り換えのたんびに、一時間とか一時間四十分とか待ち合わせなんていうふうになっている。その待ち合わせのたんびに駅前食堂でビールばかり呑んでいたんではしょうがなくもないか、どうする一政君、とにかく行ってみましょう、で切符を買いに行くと駅の切符販売係がハテネ宮津だね、京都から直通の汽車があったはずだよ、口のききかたは少々荒っぽいが親切に京都を午後一時何分だかに出て宮津に三時五〇分に着く汽車を探し出してくれて、それに乗って丹後の宮津にピンと着いたのである。ヤレヤレ。
 にかく時刻表も引っ張り出して旅館案内の京都宮津のところを見ると茶六本館と茶六別館とがあり、一政くん本館と別館とどっちがいいだろう、そりや本妻宅より別宅のほうがいいんじゃないかしらってんで電話で申し込んでおいたのでそこに着く。

6
 六別館は海岸べりにあって二階の窓から天の橋立が見え、部屋は床の間も違い棚もあり、簾(すだれ)障子の夏座敷になっていて、この分じゃ値段も高そうだけれど芸者でも踊ってくれると映りがいいだろうななんて考えているとアラコンバンワ、、オオキニなんていいながらその芸者くんが現われ、ハテ怪しやなと一瞬ぎくりとしたけれどこれは怪しくもなんともないので、宮津節が聞きたいので然るべき婦人を頼むよと宿屋に申しつけておいたわけで、から子、から代という豆腐屋の姉妹みたいな名前の芸者が来てくれたのである。うつりがいいかどうか早速踊ってもらったのが挿入写真Aで、なかなかよろしいでしょうが。旅館のおかみさん、というと何だか裏長屋のやまのかみ並みに聞こえるかもしれないが、やまのかみは鄙語ニ妻ヲ嘲罵シテ呼ブ語と大言海にあり、おかみさんは官庁、主君、夫人などを意味するオカミから転じて他人の妻の敬称となり料亭の女将をオカミというのと同源とこれも大言海にあるなぞとここで大槻文彦大先生を持ち出すことさらさらないが、とにかくそのおかみさんも席にいて口絵写真6のごとくお銚子が空になったと見ればさっと手もとに下げ、間のいいタイミングで女中さんが新しいお銚子をもってくる。高校野球の監督と選手みたいにあれはサインでやってるのかもしれぬ。関東には銚子川口てんでん凌ぎという言葉があって銚子の港の川口はなかなかの難所で自分の船を操るのが精いっぱい、他人なんかかまっちやいられねえということだが、宮津の港では盛んにおかまいくださって銚子の数がふえるいっぽうである。このおかみさん、少しふけてるけれどご覧の通りの美女で、色で迷わす浅漬茄子か、旨そうだなあなぞと思うのは不謹慎で、じゃ宮津節をおねげえしやすか、から子さんが三味線テン、ツン、から代さんがえへん、おほんと声の調子をととのえ、いや三味線と歌が反対だったかもしれないな。ま、いいや聞きましょう。













  二度と行こまい 丹後の宮津 縞の財布が
  空となる(丹後の宮津でピンと出した)
  天の橋立 日本一よ 文珠菩薩に知恵の餅
  行こか戻ろか 橋立なぎさ いとし宮津の灯が

  招く

 このところまで同じ調子できて、ちょっと口説調になって、

  丹後縮緬 加賀の絹 仙台平には南部縞 陸奥
  の米沢 江戸小倉 丹後の宮津でピンと出した


 謡研究の竹内勉氏の説くところによると、ハイヤ節とか出雲節の普及に功績のあったのは北前船で、これは大阪と北陸や出羽との間を運航した回船で、大阪から砂糖・塩・雑貨などを積んで瀬戸内海から下関へ出て日本海に入り、途中商売をしながら走った。船は千石船といわれるもので十四、五人が乗り組み、総売上げの一割が船員の給料だったが、そのほかにホマチと称して船頭たちが自由にさばいていい品物を一割くらい積み込んだらしい。ホマチはいまでもタクシーのタクシーの運ちゃんなんかが少しはホマチもなくっちゃなんて使ってる言葉で元来は帆待ちである。だから北前船の入る港は一隻でも入るとうるおったもので港の彼女たちは腕によりをかけてサービスにつとめたので、折角のホマチもここで使い果たして縞の財布が空になったのである。宮津節の最初の文句の、二度と行こまいは行くまいじゃないかと思っていたが土地で歌われているのは行こまいである。多分訛であろうが、このほうが何となく情調があって結構である。







 宮津盆おどりというのを歌って聞かせてくれた。
  あらし吹きだす 京街道 いろを染めだす 紺屋町
  来るか来るかと 浜見れば 浜の松風 音ばかり
  [はやし]あいやえ あいやえやそれ 今朝出た船は どこの港へ ソーレ着いたやら


 踊り唄であってもア、ソレ、ヤートナソレ、ヨイヨイヨイなんていうのではなく、ゆったりとしてしんみりとした哀感があって、二番目なぞは越後獅子の浜唄の部分と文句もほとんど同じでまことに味わい深い。そのあと両からちゃんに宿のおかみさんの三人で輪になって宮津節と盆おどりを踊ってくれ、こちらもすっかりいい気分になって宮津の芸者の総上げといこうじゃないかねえ一政ちゃんというと彼おかみさんに真面目にここの芸者は何人いるかとたずねる。から子だかから代だかが四十八人よ、私びっくりして酔いが醒めかかるとおかみさんがここは始終八人なんですよお客さま。

 の日はどうしたって天の橋立で、それもやっぱり船で行かなくちゃというんで宮津から天橋立経由一の宮行きというのに乗ると口絵写真13のような若い女性が同船していたりして、いつも群れ飛ぶカモメさえなんて歌いたくなるような気分だったけれど見渡した範囲ではカモメは一羽も見あたらないし、第一この船は遊覧船であって連絡船ではないしなんてラチもないこと考えているうちに、船が通るたびに橋のほうが半回転するという世にも不思議な廻旋橋なんてところを通過してたちまち一の宮に着き、ここへ着くっていうと百人が百人ケーブルカーかリフトに乗って股のぞき名所の傘松公園へ行き、口絵写真7のごときポーズを取り、ごていねいにもそれを絵によって表示したのが口絵写真9で、見ていて面白いのは団体で来た中年のオバサンクラスで、いずれもスカートをたくしあげ(大言海にたくしあげは手でまくりあげることとある)一人がたくしあげるたびにその恰好が大体において珍にして妙なるものであるから、こっち側のほうではキャアキャアの騒ぎ、私はここで天橋立股のぞき非処女説を思いつき、撮影中の一政カメラマンにどうも見ていると未通女、処女は股のぞきをせんようだ、これを研究して学位論文を書くというのはどうだろうと話しかけたが実にくだらんという顔付きでどっかへ行ってしまい、そのうちにおかしかったのは、新婚さんらしい二人連れの新郎ほうがこの石の台上にあがって股のぞきしていると、何を思ったのか新婦が自分の股からのぞかないで旦那の股のところに首を逆さにしてくっつけてのぞきこんだので、あたりからたちまち奥サーン何をのぞいてるんだようの声あって一同爆笑、下手なテレビの喜劇ドラマよりよっぽど面白かった。こういう場合須田一政は絶対といっていいくらい股のぞきなどしないのは自分の姿かたちが蝦蟇に似て見苦しいと信じているからで、見苦しいのは同様であるが、物好き野次馬根性でまさる私は必ずのぞいて見るわけで、その結果分かったのは天の橋立をかかる高所から逆さまにのぞくと、天のの天が見えなくなって松八千本という細長い砂洲を中心に周辺の山水がまことにフレーミングよく見えるのである。以前は股のぞきのことを股倉眼鏡といっておったが、たしかに双眼鏡で見るような感じである。京都国立博物館に雪舟が八十歳を過ぎてこの地に到って描いた国宝天橋立図という絵が所蔵されているが、そのスケールの壮大は写真の及ぶところでなく、気をつけて見れば、いや気をつけなくても一見して分かるのは雪舟が描いた視点というか視座というか、それは対岸の山上なんていう所ではなく、まさに空中にあって橋立を含むすべての景観を見おろしていることである。橋立を見物したあと博物館へまわってこの絵を鑑賞するとこれは大変にいい勉強になるはずです。

 こまで来たんだから白砂青松の長っ細い砂洲のほうも少し歩くかとそっちのほうへ行くと海水浴客で大賑い、若い女の子がはみ出しそうな乳房をゆらゆらさせながらボールに興じたりしているのは三景より絶景なりと口絵写真8のように熱心に激写しているアマチュアカメラマンがいたり、ほんとに実在したのかどうかあやしいところもあるけれど寛永九年に父の仇をこの天橋立で討ちたおしたと伝えられる岩見重太郎記念の撮影セットがあって軽佻浮薄の徒は必ず口絵写真14のように穴から首を出したり、本人はいっぱし毒蛇退治の剣豪のつもりかもしれないがハタから見れば馬鹿に苦労なし天下泰平の図としか思えない。橋立駅近くの文珠堂にある和泉式部の歌塚に
 橋立の松の下なる磯清水 都なりせば汲まましものを
なんていうのがあるが、和泉式部なんて人は恋の彷徨、男性遍歴、一日だって男がいなくちゃ狂っちゃうみたいな、いま流にいうと翔んでる情熱歌人だから松の下なる磯清水なんていうのはどうも丹後の宮津でピンと出ないという感じ。

 津節の帰りは京都へ寄ろうかというの初めからの考えで、ついでといっては何だが祇園祭を見ていこうというのである。私は京都は百遍以上来ているのだがこの祇園祭だけは一度も来ていない。なにしろ祇園さんのお祭りの日イはなア、そりゃ暑うおまっせ、おそれをなしてついぞ行かなんだが、いまはそんなことをいってる場合ではない、艱難汝を玉にす。







 都へ着いて木屋町高辻の定宿国家へ行くと馬の写真で有名な高橋一郎君が夫妻で待っていてくれはって、十分にもてなしくれはって、それから宵山の見物に出かける。今年は三十基ほどの山と鉾が出ることになっており、鉾は町家の二階と渡り廊下でつながっており山も鉾も堤灯があかあかとともっている状況は挿入写真Bによってご想像ねがいたく、祇園囃子を聞きながら人波にまきこまれ次第に興奮していくのも結構なもんですウ。宵山は一名屏風まつりといって山鉾の建つ町まちの家の“店の間”と呼ぶ通りに面した座敷を美しく飾りつけ、先祖伝来の屏風や家の宝を並べて道行くおおぜいの人に見せるのである。口絵写真2は屋島の那須余一、口絵写真15は衣川の弁慶であろう。どこへ行っても人がやたらにぞろぞろ歩いていて、人だかりがしているのをのぞくと小学校四年五年六年といった子供五、六人が合唱するように南観音山のお守り出ていますウ、明日は出ません今晩かぎり、お信心のおん方さまはローソク一本どうですかアなんてやっている。あちこちに散らばっていた須田、田中両名に高橋さん夫妻が一緒になったところで一休みしまひょうかと祇園町のつる居という写真の連中なんかがよう行きはる酒場へ行くと、ようお越しやすといつ行っても全然年を取るのを忘れてしまったような美人姉妹が愛想よく水割りなぞ作ってくれる。挿入写真Cは妹のひろ子さんというのであるが、昔から美人皮一重という言葉があり、いくら特製の美人でも皮一枚はぎとれば並み天丼と変らないというんだがこの人なんかひと皮やふた皮はぎとってもやっぱり美人なのではないであろうか、などと心のなかで思ったことを私はすぐ口に出すほうだから、アラいややわと全然いやでなさそうに笑い、明日のご巡行ご覧になる席ありますのかと聞くからありませんなというと、ほならウチがいい席ご一緒にご案内しますわ、そりゃおおきにと出発点の市長さんのくじ改めが真正面に見えるいい席でひろ子さんと二人で、じゃなくておっかさんとか大事な客筋とかいろいろごちゃごちゃと見物したのであります。口絵写真3・4はその祭風景、5と10は街頭スケッチてなとこでコンチキチンも結構だったと、まあそういうわけなのである。







連載 1  第一回 木村伊兵衛連載対談
連載 2  第二回「ランド博士物語−永遠に科学の夢を追い求めて」
  新川幸信 <日本カメラ別冊「ポラロイドの世界」より>
連載 3  第三回「名機を訪ねて」<戦後国産カメラ秘話>連載−1・ニコンF(前編)
連載 4  第四回【たい談・てい談】─連載6「写真て、面白いふかーい仕事だ」
  


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