対話に向けて

樋口 久・著

エホバの証人もいる。エホバの証人の教義に賛成しない人もいる。両者が話す。例えば、 三位一体説。エホバの証人は、キリストの神性についての聖書の記述を大抵認めない。 キリストと神とが別々であることを示しているような聖書の部分を並べる。三位一体の 教義は間違っているという主張をするパンフレットを持ち出す。

一方、これに納得できない方の人は、明らかにキリストの神性を示しているような聖書 の部分を並べる。『新世界訳』ではこれが明らかに弱められている。そこで、その新世 界訳というのはいけないですよと言うことになる。さらにまた、エホバの証人が持ち出 したパンフレットにいちいち反論を加えたパンフレットまで持ち出す。

エホバの証人の方は、これだからキリスト教世界は困る、と感じる。だからこそ『新世 界訳』は正確なのだ、と説く。相手の方は、これだからエホバの証人は困るんだ、と感 じる。ギリシア語の聖書原典を持ち出す。話し合いはつづくが、何か心やすらぐ交わり というものではない。和やかでない。お茶もお茶菓子もなかったりする。あっても、何 かおいしくない。

ここに対話はない。あるのは、正しいのは自分であり、間違っているのは相手であると いう前提である。自分の正しさを納得させたい。相手を言い負かしたい。何しろ自分は 正しいのだから。

しかしお互い、こんな気持ちが自分を動かしているということも認めたくない。そこで、 それぞれ、自分は聖書の真理を相手に伝えようとしているのだ、と思いこもうとする。 これはやってみると結構うまくいく。何しろ内心そう思いこみたいと感じているのだか ら当然である。そこで傍目には神学論争をやっているような図になる。しかし、繰り返 すが、ここにあるのは本当の対話ではない。お互いに意見を述べあっているが、根本的 に相手を信頼している所がない。何かすれ違う。漠然とした不全感。共感の欠如。そも そも共感というのは、自分の心の底からの気持ちを伝えてこそ生まれるのである。とこ ろが自分で勝手に正しいと思う(ことにしている)考えの体系に頼っているのではそん なことは望めない。

こんなわけで、神学論争をするのはある意味で簡単である。特に、エホバの証人の教義 の場合、どうひいき目に見たってかなり無茶苦茶な論理なのだから、この矛盾や誤りを 突くだけなら余程楽である。しかし、これを当の相手に伝えるとなると、話は別である。 それどころか、やっと論点は伝わりかけても、結局個々の教義は本質的にどうでもいい ものであったことを悟る。いわく、聖書全体に照らせばこれがとにかく正しいのです。 いわく、我々はこうして誤りを素直に認めるのです、だから我々は正しいのです。いわ く、個々の理屈はどうでも、とにかく我々の業(わざ)を見てください。我々は聖書に 従っているから正しいのです。

早い話、言い負かしても仕方がないのである。このあたりの細かな事情については、こ のホームページに掲載されている他の文書にも詳しい。

結局のところ、月並みであるが、腹を割って話してこそ、何かが伝わる。自分が正しい と思っている(ことにしている)体系を振り回すのではなく、自分と、相手とが、対峙 する。なぜ、この人はこれ程までにこの教義にこだわるのだろう。あるいはわが身を振 り返り、なぜ、私はこれ程までにむきになって相手を論破しようとしているのだろう。 神学的に正しいとか間違っているとかはまず置いて、そんなことを考え、相手にもそれ が伝えられるようなことになれば、少しは空しい議論が減り、代わりに基本的な信頼関 係というものが現れてくるのではなかろうか。さらにわが身を振り返り、私の方に高圧 的な態度があるから、この人は抵抗しているだけなのかも知れない。ひょっとしたら、 この人はいつも周りから押さえつけられているのかも知れない、だからこれだけはゆず るまいと感じているのかも知れない。こういうことを考える心の余裕が出てくれば、こ れこそ相手のためを思っていると言えるのではないか。

もちろん、これが正解、という態度などはなかろうし、自分の心の底からの信仰につい て伝える、というのもそれほど簡単ではない。けれども、これは、決して伝わらないと いうものでもないと思う。だからこそ、エホバの証人問題に取り組んでおられる教会関 係その他の方々の努力には本当に尊いものがある。もちろん、エホバの証人を「救済」 してあげよう、正しい道に進ませてあげよう、という気持ちには、落とし穴もあり得る。 この可哀想なエホバの証人を正しい道に導いてあげよう。何しろ自分は正しいのだから。 こういう気持ちに基づいての話し合いが仮にうまくいき、「救済」にこぎ着けたとして も、心理的には一つのカルトから別のカルトに移ったに過ぎない、ということもあろう。 いかに人生長いと言っても、これは大いなる時間の無駄である。それはさておき、自分 の神学体系をひとまず置き、進んでエホバの証人と対話しようという人たちの姿勢は評 価されるべきである。何しろそうしなければ対話は先に進まないのだから。なぜなら、 少なくとも今のところ、エホバの証人は積極的に心を開いているとは言えないからであ る。そしてそのことによる一般家庭における不幸には、無視できないものがある。

エホバの証人の側にも、進んで対話を受け入れる余裕が必要である − こう書くと、 すぐに「そんなことできるはずがない!」と思う人もいるかも知れない。「ものみの塔 教会の教義と違うようなことには、耳を傾けてはいけないことになっているんだか ら!」そうかも知れない。それはわかる。しかし、私はこうも思う。その人がエホバの 証人であれ、はたまた部外者であれ、そう思った瞬間に心を閉ざしている。対話を拒否 している。

もちろん、あくまでも対話を拒否すると言う人がいるのであれば、無理にとは思わない。 物事には適切な時というものがある。いやひょっとしたらないのかも知れない。いずれ にせよ、変に無理をしたって仕方がない。しかし、自分が正しいと思っている(ことに している)考えに合わないものをわざわざ遠ざけてやっと得られる安心感は空しい。は たまた今こう聞かされて「これはサタンの巧妙な罠なのでは」などと考えるびくびくし た警戒心も空しい。「エホバの証人の教義の誤りを示してやろう」という気持ちも空し い。「キリスト教世界はサタンに操られている」と思い続け、これを訴え続けるエホバ の証人はすばらしい、と思い続けるのも空しい。

もちろん、自分の考えや感覚だけがいつも正しいなどと思うのは論外であるが、しかし、 本当に自分が心から感じることの他に、頼るものなどありようがないではないか。神が 実際に現れるとすれば、聖書のページの間でもなく、ましてやものみの塔出版物の中で もなく、そこである。本当の気持ち、心からの感動というのは、その定義上あなたを裏 切らない。そして他の誰をも裏切らない。これを確認して、本当の対話が始まる。

言うのは簡単。そう言われるかも知れない。しかし、我々は、人間に対する、自分自身 に対する、そして神に対する、素朴な信頼というものをもっと安心して持っても良いん じゃあないでしょうか。エホバの証人の皆さんに、そしてその周りにいる皆さんに、こ う伝えてみたかったのである。


この記事は樋口 久氏の投稿によるものです。樋口氏への連絡はつぎの宛先にお願いいたします。

Q-Higuchi@ma2.seikyou.ne.jp

エホバの証人情報センターのホームページへ  1