ヤングコミック (初期劇画雑誌バージョン)

創刊号表紙
昭和39年、東京オリンピックに沸いた新聞の片隅に、大学生が漫画を読むという非難の論調が現われた。 子供のものであった漫画なのに、最高学府の大学生が何故?今では当たり前の光景だが当時はイエローカード付きの社会現象としてマスコミは取りあげたのだ。
背景として戦後生まれのベビーブームの団塊の世代が大学受験の時期を迎え、漫画を読む習慣をそのまま続けていた事が挙げられる。
少中学生相手の少年雑誌では内容的にもの足らない読者と、日活アクションをベースにした貸本屋向けの漫画単行本で育った読者へ向けて、 この昭和41年から43年にかけて青年むけコミック誌が続々と創刊された。
口火は昭和41年の「コミックマガジン」。 翌42年7月には「漫画アクション」が週刊誌で創刊され、そして8月1日に少年画報社より「ヤングコミック」が月刊でスタートした。
43年には「プレイコミック」「ビッグコミック」が創刊。 また中小の版元より次々と青年劇画誌が創刊され青年誌の一大ブームが始まったのだ。
創刊9月号(定価70円、10万部発行、62.7%)園田光慶、小島剛夕、佐藤まさあき等の 人気劇画家をそろえた陣容ながら、先発のコミックマガジン、アクションに追いつけず、 数字的に厳しいスタートであったが、翌43年2月には月2回刊へレベルアップし 読者の要求に応える体制を作る。
だが、無理矢理の隔週刊は売り上げ減を招き、同年5月、創刊編集長が更迭、 スタッフが刷新されることとなる。同時に内容の変更も数多くなされ、表紙イラストの変更(タイガー立石の起用)、 マイクハスラー(望月三起也)をはじめ新進気鋭の作家が登用された。

タイガー立石の
最初の表紙

上村一夫の
最初の表紙
上村一夫、宮谷一彦、真崎守、かわぐちかいじ、 青柳裕介、そして「ゴルゴ13」の原作を担当し、さいとうプロを辞めたばかりの小池一雄と神田たけ志のコンビが 「御用牙」連載を開始し、ヤングコミックの大躍進が始まった。
勝新太郎主演で映画にもなった「御用牙」が毎号40ページ。「同棲時代」で人気絶頂の上村一夫が表紙と 「アモン」をはじめとする女性シリーズ連作。真崎守の流れ者シリーズ。宮谷一彦の先鋭的なアナーキー連作。 青柳裕介の土俗的な四国シリーズ。小松ゆうきちの遊侠もの、そしてかわぐちかいじの右翼血風伝。 今見ても質、量とも充実している内容によりビッグ、アクションと並び称される青年コミック誌の雄として 「ヤンコミ」の名は全国に響き渡る。
昭和48年1号で40万8千部(77.4%)。50年の1号でも同じく 40万8千部を発行し40万部の大台をクリアーした。
大ヒット作の「御用牙」の人気に陰りの出はじめた 昭和52年には石井隆の「天使のはらわた」が連載開始して気を吐いたものの、万を持して発表した 「暴力湾」の失敗と「御用牙」終了後に始めた「夜叉神峠」の不発が尾をひき52年に30万部を、 53年春には20万部を割る発行数となる。
その上54・55年の他社によるヤング誌創刊(ヤングジャンプ、ヤングマガジン) にも有効な手を打てず、更に部数を減らして昭和57年2月で一時休刊する事となる。
内容を劇画より漫画っぽいものに改めて2ヶ月後に復刊するのだが、落ちはじめた勢いに歯止めをかけるのは難しく、 昭和59年11月をもって休刊し、12月より「ヤングコミック4DK」として4コマの月刊漫画誌として再スタートする。
そして昭和62年10月、増刊からスタートしてすでに4コマ誌として定着している 「まんが笑ルーム」に後を託して休刊した。創刊以来21年、かつての青年誌の雄も、二度三度とむこう傷を負い、雑誌の舞台からその姿を消していった。
雑誌として保存しにくい中綴じでもあり、全盛時代のヤングコミックは、古本店でも高価がついている。 特に増刊ヤングコミックは編集者や作家の間で評価が高く追随する亜流を数多く産んだ事でも有名となった。
現在、まんだらけ発行の「まんだらけZENBU」に当時の編集者でもある岡崎英生氏の「ヤングコミック風雲録」が 連載中である。

平成2年8月、旧タイトルを使用して「ヤングコミック」が月刊誌として復刊するが、内容は若者向けながら 主力がお色気雑誌であり、往年の心意気や覇気は伺う事のできない別の雑誌として登場した。
(次回へつづく・・・)
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