役行者
役行者の生涯
役行者の教え
役行者情報局

■信仰上よりみた役行者の一代記
        − 多くの伝説の中に見る行者像

  1. はじめに
  2. ご生誕について
  3. 幼年時代
  4. 開祖の仏教修学
  5. 葛城山修行
  6. 箕面での受法
  7. 蔵王権現のご感得1
  8. 蔵王権現のご感得2
  9. 諸国歴行
  10. 前鬼・後鬼の帰伏
  11. 金峯山石橋の伝説
  12. 伊豆配流1
  13. 伊豆配流2
  14. ご遷化について
  15. 神変大菩薩の諡号

1.はじめに

 開祖役行者について考えるとき、ひとつの大きな問題があります。
 それは、史実から見ますと、開祖の生涯やその思想はほとんどが判然としないという点であります。開祖はあたかもお釈迦さま同様に、自らの生涯やその言説について文字や書物に書き残してはおられません。だから自筆の書で以て調べる事は叶わないわけであります。周知の如く開祖に関する国史上の確かな記録は『続日本紀』の文武天皇三年(六九九)五月二十四日の条に出る次の記事であります。

 役君小角伊豆島ニ流サル。初メ小角葛木山ニ住シ呪術ヲ以テ外ニ称サル、従五位下韓国連廣足初メ師ト為ス、後其ノ能ヲ害イ、讒スルニ妖惑ヲ以テス。故ニ遠処ニ配ス、世ノ相伝ニ言ク、小角能ク鬼神ヲ役使シ、水ヲ汲ミ薪ヲ採セ、若シ命ヲ用イザレバ即チ呪ヲ以テ之ヲ縛ス。

 この記事の語るところは、「役君小角を伊豆島に配流したこと」「その配流の理由」「小角の呪術に関する世間の噂」の三つを伝えるのみであります。これによって開祖が実在の人物である事、世に知られた優れた呪術家であった事が知られますが、それ以上は伺いしれないのであります。
 しかしながら国史ほどの確たる史料ではありませんが、開祖の伝承はその後、数多くの史書、仏教説話、文学作品また修験道教義書に取り上げられています。平安時代の『日本霊異記』や『今昔物語』『扶桑略記』をはじめ、鎌倉時代の『元亨釈書』『諸山縁起』『金峯山秘密伝』、室町時代の『修験修要秘決』『役行者本記』『三国伝記』、そして江戸時代には『本朝高僧伝』や『役君形生記』『役公徴業録』『役行者顛末秘蔵記』『役行者霊験記』『役行者大峰桜』『役行者講式』などなど枚挙に暇のないほど多くのものが伝わっています。その中には史実とは認め難い伝説の類のものも多いわけですが、伝説として累々伝えられた説話の中にこそ、修験道の開祖と崇められた役行者の生涯とその思想を我々は見つけることが出来るのかもしれません。
 史実だけでは開祖について充分に知る事ができない以上、我々はそれら伝説の中に秘められた開祖像を通じて、信仰的な立場から語る以外にはないということです。
 この点については本編に入る前に、読者諸賢姉各位に、お断りをしておかなければなりません。本稿の表題を「信仰上よりみた役行者の生涯−多くの伝説の中に見る行者像」とした所以であります。

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2.ご生誕について

 ご開祖がいつ、どこでお生まれになったかという点については古来より諸説が伝わっています。
 まず年時の問題ですが、主なものを列記しますと、日本霊異記=舒明帝。元亨釈書=舒明天皇六年。修験指南抄=継体天皇三年己丑降誕。修験修要秘決・修験三正流義教=舒明天皇聖徳三年辛卯十月。修験心鑑抄=舒明天皇三年辛卯。王代記・役行者本記・役行者霊験記・深仙灌頂系譜=舒明天皇六年甲午正月一日。役行者講式=舒明天皇甲午十月。役行者顛末秘蔵記=天智天皇四年。秘蔵記註=天智帝三年十二月二十八日。などがあります。
 これらの説の中には一考を顧みるべきものもありますが、いずれにせよ、今日、其の一々を学究的に正すには確たる史料が乏しい中、困難な事であります。そこで、元亨釈書や役行者本記などに示され、現在一般的な通説とされている「舒明天皇六年(西暦六三四年)一月一日」の説に沿って考えていく事と致します。
次にご生誕地ですが、これについては、日本霊異記=大和国葛城上郡茅原村之人。元亨釈書=大和葛木上郡茅原村。役行者本記=大和国葛城上郡茅原郷矢箱村。修験修要秘決=和州葛城郡茅原村。などを始め、多くの書が「大和国葛城郡茅原村」を以て其の生地と定めています。もちろん、秘蔵記の如き紀州の出とするような突飛もない異説を載せるものも無くはありませんが、通説に依りたいと考えます。
 但し、ではその茅原村の何処なのか、そしてそれは現在のどこを言うのかというといささか問題があります。大峰縁起によりますと、役行者の誕生所は「東は小山を限り、西は葛木の峯を限り、南は新井郷を限り、北は興田を限る」四至であったと伝えており、大変な広範囲であることが知られます。また私聚百因縁集には「所生ハ葛木上郡矢箱村、産時造ル所ノ堂ハ茅原寺ナリ」と記されており、開祖の邸宅と産所とを、区別した伝もあります。
 そのうえ、なにしろ一千三百年以上昔のことでありますので、現在我々が見聞する地形や境界とは随分違っていたことでしょうから、此所、彼所と確定するのが難しいのもやむを得ないことでしょう。
 それ故、ここでは役行者生誕の地とされる吉祥草寺(御所市大字茅原)や金峯山寺の蓮華会で蓮の華を採集する大和高田市奥田の善教寺・福田寺行者堂(蓮華は開祖が産湯を使ったと伝える弁天池で採集する)周辺などを中心に、それら現在も開祖有縁の地として伝える葛城山麓一帯を生誕の地と考えることに止めて置きたいと思います。
 次に開祖の家系について考えます。続日本紀には「役君小角」と出るだけですが、日本霊異記では「役優婆塞者、賀茂役公氏、今高賀茂朝臣者也」と明かされ、また元亨釈書でも「役小角者賀茂役公氏ニテ今ノ高賀茂朝臣ノ者也」と記されるなど、その他ほとんどの開祖の伝記が賀茂氏の役公と伝えています。当時、葛城山麓に住していた有力な豪族には賀茂氏がありますが、開祖の家はこの賀茂氏の系統を引いていたものと推察されます。賀茂氏は葛木の山の神である高鴨神を祭祀する一族であり、開祖の家は役の語から考えて、この賀茂氏宗家ではなく、例えば役行者本記に「其ノ父ヲ大角卜名付ケ、世々聲韻ノ曲二長ゼリ、故二大角卜字ス、此ニハ腹笛ヲ曰フ、小角、此ニハ、管笛卜云フ、常二只呼ンデ小角卜曰フ、此処家雅楽ノ君ナリ」と記すように、高鴨神の祭祀を司る宗家の賀茂氏に、雅楽か何かで以て仕えた一族であったと見られます。ちなみにここに記される如く、大角・小角という名はもともと楽器の名から由来している事も知られます。
 この役行者の役については、開祖が鬼神を使役したという伝説に関連させて説明をしたもの(本記=小角、役と名づく。鬼神を役使する故に役君と称す。徴業録=役公氏、先哲謂う、公道徳を以て鬼神を役使す、故に世人之を称して役公民と曰う。など)や、木の葉衣のように「役も又賜氏なるべし」といった説明もありますが、これらは開祖に対する篤い崇敬の念のあらわれの一つと見て取ることができるでしょう。
 次に両親についてですが、今紹介した本記には、「幼名ハ大角、長ジテ高賀茂真影麿ト名ヅク、子卜為シ、白専女卜婚合ス、真影ヲ十十寸麿ノ君卜為ス、是小角之父母ナリ、小角出生之後、大角ハ離別シテ、出雲二帰ル」と記されています。しかしこの記述については文献によって食い違いがみられます。私聚百因縁集には「父高賀茂間賀気麻呂、同氏白専渡都岐麻呂を母と為す」とあり、役君形生記には「父は高賀茂間賀介麻呂と云い、母を高賀茂白専渡都岐麻呂と云う」、徴業録には「父は賀茂の間賀介麻呂、母は渡都岐氏、或いは白専渡都岐と作す」など細かい所で一定はしていません。また金峯山寺の蓮華会の時、蓮華を採取する大和高田市奥田地方の伝承では、母の名を刀良売(とらめ)としています。
 この他、父母の名前がまちまちなだけでなく、中には修験修要秘決や修験心鑑紗などのように「母には夫なく霊夢を感じて誕生す」というものまであります。しかしながら本稿では父を高賀茂間賀介麻呂とし、母を白専女とする現在の通説を採用させていただきます。
 ところでお釈迦さまのお誕生に際して、生母マーヤ夫人は身体の中に白象が入る夢を見て懐任されたとか、出産は右腕の脇からお生みになったとか、様々な奇端が語り継がれているように、昔の高徳偉人には多くの逸話が伝わっています。
 開祖の誕生についても同様に、沢山の不思議な説話が残されていますが、その代表的なものは母が金剛杵(独鈷杵)を呑む夢を見て懐妊したという話であります。これは本記、形生記、徴業録、役行者伝記など多くの文献に伝えるところであり、すでにその生誕の時から、開祖が非凡であり、偉大な人であったことを教えています。先に紹介した修験修要秘決や修験心鑑抄などのように「母には夫なく霊夢を感じて誕生す」というのも、開祖の常人でないことを語りたいが故の伝承であったことが推察されます。

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3.幼年時代

 開祖のお名前について、役行者本記によると「小角は幼名なり、敢えて成長しての諱にては無し」とあります。確かに開祖は、役優婆塞、役行者、行者さん、神変大菩薩など、いろいろと尊称されていますが、諱に当たる名は何処にも伝わっていません(*1)。小角と書いて、オヅノあるいはオヅヌと呼ぶ名のみであります。本記に云う如く、諱は無く、終生を小角で通されたのでありましょうか。ただ幼名について講式秘訣に「故に金杵麻呂と曰う」と出、また三正流義教には日本正法伝を引いて「皇極天皇御宇三歳甲辰、金杵麿御年十歳、身の丈四尺八寸なり」などと伝えています。これらはいずれも母が金色の独鈷杵を飲む夢の見て懐妊したという説話からの命名であるようです。 ところで前項で、高徳偉人には不可思議な話が伝わっていて、開祖の誕生についても同様にいくつかの奇瑞があったことを示しましたが、幼年時代にも神童の誉れ高き常人ならぬ話が、数多く残されています。 有名な説話を紹介しますと、開祖は四、五歳の頃より他の子供と交わらず、常に泥や土で以て仏像を造ったり、草木を集めて堂社の形をつくっては礼拝されていたとか、また七歳の時には、おかしな文字を書かれていたので父が戯れを叱ったところ、奈良京の僧がその字を見て、これは梵字であると言われ、皆が驚いたとか、開祖のその非凡さを教える話は役行者本記、形成記、秘蔵記、徴業録等ほとんどの伝記に記されるところであります。  ここで注目すべき事があります。これらの説話が教えているのは、ただ単に開祖が幼年期から優れた人であったと言うだけではなく、宗教的資質に極めて高い人であったという点であります。仏像を造られたとか、梵字を習わずに書かれたとかいう説話の意図がそこに現れているのではないでしょうか。そしてそれが後年、修験道の開祖と尊崇される活躍につながって行く伝記作成上の意図が読みとれるところであります。 (*1)幼名小角の名の由来については、修験心鑑抄序=牛角を呑むを夢見ての故に小角と名づく。役行者顛末秘蔵記=我れ麒麟の一角に象づくり小角と名づく。修験三正流義教=頂上に独鈷形あり、依って以て小角と名づく…などいろいろな説が伝わっていますが、前稿で示した通り、楽器の名に由来していると考えたいと思います。また小角をどう読むかということについても、オヅノやオヅヌ以外に、本居宣長のオカヌ説、木の葉衣のオズミ説など異説がありますが、本稿では金峯山寺の読み慣わしに従って、オヅヌを採用しました。

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4.開祖の仏教修学

 さて、それでは開祖はどのような形で、何時頃に本格的な仏教の修学をなさることになるのでしょうか。  前稿で述べたように、幼少の頃より深く仏法を敬う念の篤かったという説話が残る開祖ですが、仏教修学については、諸書によって一定せず、役行者顛末秘蔵記に見る「小角人と成り、仏教に帰す」とか、修験修要秘決に見る「七歳より始め慈救呪を誦し、毎日百万遍す、学んで儒釈二典を究め、行じて六度を修す」などといったように、幼き頃よりの発心と修学は記していても、どのような形で行われたかについてはあまり詳しく触れていません。この中、役君徴業録では「十七歳、叔父願行に随い出家得度す」と伝え、修験三正流義教では日本正法伝を引いて「春三月元興寺に入る、此の寺に住する人高麗の僧に慧灌法師あり、金杵麿、法師に仏法を問い給う云々」という記述を伝えています。ただこれによって開祖の元興寺修学が確かなものであったかどうかというのは別の問題であります。 例えば日本霊異記や本朝高僧伝をはじめ多くの文書が伝えるものに、開祖が孔雀明王の呪法を修したという伝承がありますが、実はこの孔雀明王法の依経となる漢訳の孔雀明王経(仏母大光耀孔雀明王経)がわが国に伝来されるのは、開祖在世の頃よりもう少し後であったようで、史実として開祖の孔雀明王法修法を扱うことは少々問題の生ずる所であります(*2)。  かくの如く現代の視点から、考証的にのみ開祖の伝承を見てみますと、今の仏教修学や孔雀法の件だけでなく、多くの事柄に問題が生じてまいります。しかしながら我々が求めている開祖のご生涯やその思想というのは、単に史実だけで処理しきれない信仰的な働きを持つ開祖像であります。 徴業録では先に紹介した開祖の仏教修学に続けて、「初め四諦の法を聞き、次いで辟支仏を学び十二因縁を観ず、而して謂う、羊鹿は下劣、吾大白牛を取らんと、鈴を振って葛木山に入る」と記しています。羊、鹿とはつまり声聞・縁覚の二乗のことで、大白牛とは大乗菩薩道のことですが、ここに見るように、我々が開祖の仏教修学を考える時、最も大切なのは、開祖が仏教修学の末に得られた結論が、小乗に依らず大乗を求めて山の修行に入られたというその精神であります。開祖の発心が大乗菩薩道の実践にあったこと、これは山林修行に身を置かれつつ、常に済度衆生を旨とされた開祖の生涯を貫く不動の精神であったと見ることが出来るでしょう。 (*2)この孔雀明王経の漢訳本の最も整ったものは唐の不空(七〇五〜七七四)訳ですが、それ以前に東晋帛尸梨蜜多羅(?〜三四二)訳の孔雀王雑神呪経や鳩摩羅什(三四四〜四一三)訳の孔雀王呪経、僧伽婆羅訳(五〇六〜五二〇訳出)の孔雀王呪経などがあります。不空訳本の伝来は開祖在世より後年となりますが、すでに開祖の当時には数多くの雑密部の経典や儀軌が伝えられています。これらのことを考えると、必ずしも開祖の孔雀法修法が否定されるものではないでしょう。

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5.葛城山修行

 幼年期を葛城山の麓、茅原の里で過ごされた開祖が修行発心の念固く、いよいよ山林での修行に入られるに当たって第一歩とされたのは、幼き頃より朝夕に仰ぎ見た葛城の山でした。  これについて役行者本記では、十三歳の頃から毎夜葛城の峯に登り、暁になって家に帰られる事が常であったと記し、家を捨てて此の山に入られたのは十七歳としています。役君徴業録も同様に入山は十七歳としていますが、役君形生記では葛城山には幼き頃より毎夜入山しては法喜菩薩を拝したが、家を捨てての修行は三十二歳のこととしています。時期に少し異説がありますが、いずれにせよ「藤の皮を衣とし、松の葉を食と為す」(本記)、「藤皮を衣と為し、松葉を食に充てて、六波羅蜜を修す」(徴業録)というような修行の日々を送られた事と推察されます。  ここで葛城山について少々説明をしておかなければなりません。現在葛城山というと、吉野金峯山から見て、右の峯を指し、左の峯を金剛山と呼んでいますが、古くは奈良・大阪府県境の金剛山地から、大阪・和歌山県境の和泉山脈に及ぶ逆L字形の山系の総称を指していたようです。故に開祖当時は金剛葛城両峯を区別なく葛城山と呼んでいたものと思われます。  この山での修行で開祖は金剛山(葛城山金剛の峰)に法起菩薩の浄土を開かれます。これについて本記は「親しく法喜(正しくは法起)菩薩に対し、三昧を発得す」と伝えています。もともと法喜菩薩と金剛山のつながりは深く、徴業録には「葛城山は華厳所謂金剛山法喜菩薩の浄土なり」と出、形生記には、「葛城山は即ち金剛山なり、華厳経に曰く、東方に山有り金剛山と曰う、一菩薩有り号して法喜と曰う、一千二百人と倶に説法を為す、故に此山を以て法喜の淨刹と為すなり、所謂法喜は役行者の密号なり」と書かれています。これは華厳経菩薩住処品に説く法起菩薩の浄土金剛山が、わが国の葛城・金剛山に当てることを示したもので(*3)、後に開祖が法起菩薩と同体であるという信仰の一説にもつながっていくこととなります。 開祖の修行はまだまだ続きます。形生記や徴業録などの書が伝えるところでは、十九歳の冬、紀州熊野から大峯に入峯した開祖は、修行という修行、苦行という苦行を行じ、不可思議な力(神通力)を得られ、そのうわさに時の帝が開祖を召されてその効験に驚き、朝廷の役人達も神人と尊敬したと伝えています。 そしていよいよ開祖の宗教的境涯は高まり、箕面山での龍樹菩薩からの受法の時を迎えることとなります。 (*3)「東北方に処有り。清涼山と名づく。乃至、海中に処有り。金剛山と名づく。昔より已来、諸菩薩衆、中に止住す。現に菩薩有り。名けて法起と曰う。其の眷属諸の菩薩衆、千二百人と倶に常に其中の住し、法を演説す」という『八十華厳経』中の「第四十五菩薩住処品」の文によっています。

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6.箕面での受法

 宗教者、とりわけ修行者にとって、師匠より師資相伝、法を受け継ぐことはたいへん大切なことであります。顕教であれば釈迦如来より、密教であれば大日如来より師資相承断絶することなく、師匠から弟子へ師匠から弟子へと、その法が正しく伝わっていくことが正法を正法たらしめる根拠となるものなのであります。  開祖の場合、この師資相伝の法について、史実として眺めた際には、それを明らかにすることは困難なことであります。しかしながら今日に伝わる開祖の伝記のほとんどのものが、箕面山に於ける龍樹菩薩からの密法受法の説話を伝えています。  少々長くなりますがその代表的なものを掲げますと、元亨釈書には「小角甞て摂州箕面山に在り、山に瀧あり、夢に瀧口に入り龍樹大士に謁し覚めて後伽藍を構う」、役行者本記には「斉明帝四戊午四月五日、摂州箕面山頂上の瀧に臨み、信心を凝らし至誠勤修するに直ちに龍樹大士の浄土に昇至す、人有り曰う、誰人か、小角と答う、(中略)時に徳善大王座より起ち香水を取って頂上に注げば龍樹菩薩は極大甚深の印明を授与す、是れ頓に九界を超越して直に妙覚地に至る頓至の秘奥なり、之れを受けてすでに還る、是れ七月三日なり、此の間八十余日を経、云々」、また役君形成記や私聚百因縁集には「小角歳十九、茅原の里に居る、有る時五色の霊光小角の頂を照らす奇異の思いをなし、光を追うて行けば則ち摂州箕面山の瀧に至る(中略)童子小角に告げて曰う、此瀧穴に入れば必ず龍樹菩薩に逢い奉るべし、(中略)覿面に本有灌頂の法を相承す、爾時大聖無價の寶珠を以て役氏に授く」などなどかくの如く、詳しくその相承の様子を伝えているのです。龍樹大士とは八宗の祖と尊崇される大乗仏教の基盤を確立したナーガルジュナ(二世紀〜三世紀)のことで、特に密教では密法付法の第三祖として、南天鉄塔を開き金剛薩タに面授して金剛界・胎蔵界の大法を受法されたとされる大菩薩であります。  もちろん龍樹菩薩は西暦二世紀頃、南インドで活躍された方で、開祖と時空を共にすることは歴史上の事実としてありえないわけでありますが、ほとんどの開祖伝記が語るこの箕面受法は、葛城山や大峯連山での開祖のご修行によって、その宗教的境地が昇華して龍樹菩薩と融合され、大いなる悟りが開かれたことを教えているものと思われます。開祖のご生涯やその精神を考えるとき、この箕面受法は、後に述べる御本尊金剛蔵王大権現感得譚と並ぶ、非常に重要な奇瑞譚といえましょう。

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7.蔵王権現のご感得1

 吉野金峯山寺の開創は開祖役行者の金剛蔵王大権現感得に始まります。この蔵王権現感得は開祖の生涯にとっても、非常に重要な出来事であります。宗教家にとって、ご本尊の感得とは宗教的人格を決定する一大事であるからであります。  この感得譚について金峯山秘密伝では次のように伝えています。 「昔役優婆塞。天智天王御宇白鳳年中。開金山大峰而勤求佛道。祈末代相応佛尋濁世降魔尊。于時大聖釈尊忽然現前。示護法相。行者白言。邊土衆生不堪見佛身。強強衆生所不応也。願示所応身。時釈尊忽然不現。更千眼大悲尊自然即涌現。行者亦白。今尊五部具成佛大悲拔苦尊。雖為無双柔軟形體故尚所不応悪世也。于時大聖化滅亦彌勒大悲尊自然影現。行者亦白言。大聖此釈尊補處大悲與楽尊也。此土縁深。雖爾末代尚不応。願現降魔身。其時寶石振動。從盤石中金剛蔵王青黒忿怒像忽然涌出。即住盤石上。于時行者大歓喜敬重奉崇。」 …(昔役優婆塞、天智天皇御宇白鳳年中、金山の大峰を開き仏道を勤求し、末代相応の仏を祈り、濁世降魔の尊を尋ぬ、時に大聖釈尊忽然として現前し護法の相を示す、行者白して言う、辺土の衆生佛身を見るに堪えず、強強の衆生には応ぜざる所なり、願わくば所応に身を示し給えと、時に釈尊忽然として現れず、更に千眼大悲の尊即ち自然と涌現す、行者亦白す、今の尊は五部具成の仏、大悲抜苦の尊、無双柔軟の形体なりと雖も、故に尚悪世には応ぜざる所なり、時に大聖化滅して亦弥勒大慈尊自然に影現す、行者亦白して言う、大聖は此れ釈尊の補処、大慈与楽の尊なり、此の土の縁深し、爾ると雖も末代尚応ぜず、願わくば降魔の彌現れ玉えと、其の時寶石振動し盤石中より金剛蔵王青黒忿怒の像にして忽然して、涌出し即ち盤石の上に住す、時に行者大いに歓喜し敬重し崇め奉る) この秘密伝の伝承が基本となって金峯山寺の寺伝では「役行者は金峯山上に於いて一千日の修行に入られ、衆生救済の道を求められて、濁れた世の中に最もふさわしいご本尊仏の出現を祈られたところ、最初に釈迦如来が出現されました。行者は、世の中は乱れており、この日本の人々には釈迦如来の本当のお姿は見ることが出来ないと考えられて、更に祈りを続けられていると、次に柔和なお姿の観世音菩薩が出現されました。しかし行者は、末法悪世の人々にはなおふさわしくないとして、また祈りを続けられると、今度は弥勒菩薩は出現されたのですが、行者は、願わくば悪魔を降伏させる御姿を示して頂きたいと、なおも祈られたところ、天地がにわかに揺れ動き、ものすごい雷鳴と共に大地の間から、忿怒の相もすさまじい金剛蔵王権現が出現されたのであります。行者は、これこそ末世の民衆を救うために求めていた守護仏だと、そのお姿を桜の木で刻まれたのであります。」と伝えています。  吉野山が桜の名所となるのも、この寺伝によって蔵王権現のご神木が桜の木であるという信仰が広まったが故であります。また釈迦・観音・弥勒の本地仏は、それぞれ過去現在未来の三世救済を示しており、この役行者のご誓願が、現在金峯山寺で広宣している三世救済信仰の基盤となっています。

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8.蔵王権現のご感得2

 前稿では金峯山の根本文献である金峯山秘密伝を中心に、開祖の蔵王権現感得譚を見てみましたが、この感得譚には他の説もあります。 例えば役君徴業録や峰中秘伝などでは、蔵王権現涌出に先立って現れたのは釈迦・観音・弥勒ではなく、弁財天と地蔵菩薩が出現したと記しており(*4)、両峰問答秘鈔では、蔵王権現が最初は柔和忍辱の童子形であらわれたと伝承しています。このほか役君形生記や行者伝記などのように、秘密伝での釈迦・観音・弥勒の出現順が弥勒・観音・釈迦に変わっているものもあり、その他数多くの異説が伝承されています。  さて、これら諸説の中で特に注目すべきは、蔵王権現と釈迦如来が一体であるとする本尊観であります。  これについて秘密伝では 「今雖為三身差別此即釈迦三密一佛萬徳也。此一心具三密。三佛即帰一心。故三佛合現一身。此為金剛蔵王也。即為大聖釈迦所変也。」…(今三身(三身とは釈迦・観音・弥勒のこと=筆者注)差別を為すと雖も此れ即ち釈迦の三密一仏の萬徳なり。此の一心三密を具す。三仏即ち一心に帰す。故に三仏合して一身に現ず。此れ金剛蔵王と為すなり。即ち大聖釈迦の所変と為すなり)と記しています。  また役行者本記は「最後に身を現じたるは青黒忿怒にして右の手に金剛杵を執り、左の手には刀印腰に押す、小角瞻仰して拝す、即ち偈を説いて曰く『昔在鷲峰名牟尼 今於海中金峰山 為度衆生現蔵王 今世後世能引導』」と書いております。同様に形生記には「昔霊鷲山に在って妙法華経を説き、今、金峰山に在って蔵王身を示現すと、行者拝して金峰山に安置す」とあらわしており、釈迦=蔵王権現とする本尊観が力説されているのです。 これらの文書が語る、蔵王権現が釈迦如来と一体であると云うこの本尊観こそ、開祖の思想の核心であり、引いては現代に於いて我々がご本尊を拝するときに保持すべき信仰であろうと考えるものであります。  ところで蔵王権現湧出について注記しておくことがあります。古来より金峯山寺では役行者が蔵王権現を感得されたのは山上ヶ岳山頂の湧出岩で、出現された蔵王権現が立たれた場所が現在の山上本堂内々陣・龍穴と伝承されています。湧出岩は山上本堂庭前の高台に位置し、今まであまり知られていませんでしたが、今回の大遠忌を記念して、大峯山寺の手で聖地保全の手が加えられることになりました。また内々陣龍穴は秘密中の秘所として、未だ人の進入を許さない場所であり、現本堂も秘所を覆うように建てられています。此処は先年の山上本堂解体修理の際も、手を加えられませんでした。 (*4)この峰中秘伝で伝える話では「熊野から金峯山にと修行してきた役行者が涌出ケ岳で、この山は三世の諸仏が集まる所と観じ、岩面に向かい自己の守護仏を求めて二一日にわたって祈念をこめた。すると七日目に容姿端麗な弁財天が現れたが、その姿では守護仏に適さないとしてこれを現在の坪の内の天の川に流したところ、天河の弁財天となった。次に一四日目には地蔵菩薩があらわれたが、これまた柔和な姿ゆえ、本尊には適さないとして吉野川に流した。これが川上の勝軍地蔵である。いよいよ最後の二一日目、大日・釈迦・阿弥陀一体の荒神の御姿があらわれ、右足をあげて天にのぼろうとした。これを役小角がひきとめて、末代まで三世の衆生を救う守護仏として祀った。これが蔵王権現である」とされています。これに類する伝承は大峰山寺の先達や天川村の人々の間で今も語り継がれており、その他の文書にも見られます。

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9.諸国歴行

 箕面山で龍樹菩薩より法の相承を受け、金峯山においてご本尊の感得を成し遂げられた開祖は、一所に安住されることなく、いよいよ地方教化のため、諸国を巡り、霊山高峰を開踏されるのであります。  現在、わが国で霊山とされるほとんどの山が役行者の開山伝説を伝えていますが、これらを単なる伝説として扱うのではなく、そこには開祖に対する時代を超越した篤い信仰心の発露があったと見ることができるでしょう。  この諸山歴行について役行者本記は次のように伝えています。

「天智帝九年(注には小角三十七歳) 庚午七月、大峰を発し、三日して出羽国羽黒山に到る、其れより月山湯殿金峰鳥海山等、経歴二十二日して和州に帰山す、凡里数三千百里なり。  同帝十年辛未五月、上野の赤城山、二荒山、伊夜彦山、立山、白山、越智山、日枝山、愛宕山等に到る、経歴四十余日して金峰に還る。  天武帝白鳳二年(注には四十歳)癸酉六月、伊勢に至り、両皇宮に詣で、二見之浦、熱田、猿取、峰堂、白峰、富士、足柄、雨降、箱海、天木、走湯、江島、筑波、三岫、浅間嶽、駒嶽、御嶽、南宮、鳳凰山、膽吹、石山、笠置等、経歴四十余日して八月上旬葛城山に帰還す。  同七年(注には四十五歳)戌寅八月、西州に赴く、八栗嶽、背振山、彦山、高羅、霧島、足摺、石槌、鹿児山、檍原、高千穂嶽、速日嶽、小戸瀬戸、木綿山、宇狭山、阿蘇山、朝蔵山、御笠山、宗像山、表景山、盤国山、厳島、武部山、湯山、黒髪山、彌高山、樞垂山、青山、赤山、八上山、手間山、杵筑社、大山、国山、橋立、大山、大江山、北峰等経歴して、十月下旬大峰山に帰す。  同十一年(注には四十九歳)壬午四月、大峰を過ぎ、熊野に到る、三山皆其の神に謁し、三栖山、百重山、真形、飽美山、悉く経歴し、箕尾、毘陽山、摩耶、荒山、伊駒山、常に遊戯の地とす云々」

 この他、本記に記載はありませんが、それぞれの寺伝として、開祖の開基を伝えるものに、洞川龍泉寺、前鬼山の諸坊、玉置山高室院、鷲峰山金胎寺、室生山室生寺、神峰山神峰山寺、竹生島寶厳寺、三徳山三徳寺、伊予石中寺など、列記すれば切りがないほど、全国各地の寺々山々が開祖の伝承を語っているのです。

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11.前鬼後鬼の帰伏

 役行者に付き従う者として、前鬼後鬼の二侍者は良く知られるところでありますが、この二鬼が開祖の弟子となった説話は、開祖奇瑞の伝承の中でも興味深いものの一つであります。  開祖に関する伝記類の多くがこの説話を扱っていますが、この中で代表的な二つの話があります。  一つは役行者本記などが伝える説話で略述すると次のような話であります。  役行者三十九才の時、伊駒嶽(生駒山)に登り苦修練行していると、ある日夫婦の二鬼が来てひざまづいて言うには、「吾はこれ天手力雄の末裔であってこの山に住み、未だ人間に下らないので、なお神通を有する。今行者は果位の菩薩であってこの身を現し有情を利益し給う。請い願わくは随侍をゆるしたまえ、永く敢えて背かない。これ祖神の遣わしめ給う所であるから」と。行者はこれを聞き喜んで随侍をなし、夫を善童鬼と名付け、妻を妙童鬼と名付け、また前鬼後鬼とも名付けて、諸国開拓に用いられた。今行者の尊形の脇士となっているのはこの二鬼であり、二鬼は行者の命により、金峯の奥に住んで、永く修行者を擁護することになったのである。 次に、今一つの説話として徴業録や形生記などの伝承があります。こちらの方がよく世に知られところです。続いて略記してみます。 行者が生駒山の断髪山に登られた時(徴業録には行者二十一歳とある)、山中に赤眼、黄口という夫婦の鬼が住んでいて、それに鬼一、鬼次、鬼助、鬼虎、鬼彦と名付ける五子があった。この鬼が付近の人の子を捕らえて食うので、人々は困っていた。行者は山中に入って、二鬼の最愛の子である鬼彦なるものを捕らえて鉄鉢の内に匿された。二鬼は顔色を変えて驚き四方を捜し求めたが更に見えない。遂に行者の所へ到って愛児の行方を尋ねた。その時行者が言われるのに「汝らと雖もわが子を愛してその行方を求めるではないか。然るに何故に人の子を捕らえて食らうのか」。二鬼曰く「我ら初めは禽獣を捕らえて食うていたが、禽獣尽きて無いので終に人の子をとって食らうのである」と。行者更に教戒して云うに「汝らよ、不動明王は空中にいまして、火焔 然として、眼は電の如く声は雷の如く、金剛の利剣を提げ、三昧の索を持って常に悪魔を降伏されるのである。汝らももし改めなかったならば、かの明王の怒りに遇いて必ずや後悔するであろう」と。二鬼大いに恐れ驚き行者に哀 を請うたので、行者は二鬼に不動経の見我身者発菩提心以下の偈を授けて誦せしめ、教訓を垂れ随身とせられた。彼らは逐に悪心を転じて善心となり、深く行者に帰伏し、果実を集め水を汲み、薪を拾って食をなし、行者の命に従い山野開拓の為に尽くしたという。 ただこの話は、釈尊伝の中の釈尊が鬼子母神を教化した伝説と余りに良く似ていて、伝記創作上の作意が強く感じられます。 本記の伝承、徴業録の伝承、いずれにしても、どちらが正しいかなどは明らかに出来るものではありませんが、常に開祖に付き従う二鬼の姿を思うとき、この二鬼帰伏の説話は興味深く思い起こされます。  ちなみに、大峰山中の前鬼山の宿坊(往昔には五坊が存していましたが、現在は小仲坊を一宇を残すのみとなっています)は、役行者本記に記される行者の命によって修行者の世話をしたという、この二鬼の子孫と昔から伝説されています。

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12.金峯山石橋の伝説

 奥駈修行や蓮華入峯修行で、まだ夜の明けきらぬ吉野山を出発し、町並を通り抜けて、ようやく上千本花矢倉辺りまでたどり着き後ろを振り向くと、蔵王堂を真ん中に尾根伝いに続く吉野山の眺望が眼下に広がります。そして眼を更に転ずると、金剛葛城の山容が吉野山の後方間近に泰然として見えています。  私はこの風景に接する度に、役行者伝の中の、金峯山石橋架橋の伝説を思い浮かべずにはいられません。開祖ならずとも、金峯山から葛城山に橋を架けたいという衝動に駆られるような、いや手の届くような位置に佇む葛城山はすぐにでもこの地(吉野山)から橋が架けられる、そんなふうにさえ思える眺望なのです。 さて、この金峯山石橋の説話は次に扱う開祖の伊豆配流事件への要因として、日本霊異記はじめ、役君形生記や徴業録などの開祖伝に伝えられる有名な挿話であります。それらによると、役行者が葛城山から金峯山にかけて石橋を架けよう、諸々の鬼神を使役したが、一向に仕事が捗らない。怪しんだ行者が問いただすと、葛城の峯の一言主神がその容貌が醜いため、昼間働かないからであった。怒った行者はこれを呪縛し、深谷に繋いだ。そこで一言主神は、行者は国家を窺うものとなして讒言し、これによって行者は伊豆島に配流された…というような内容であります。 一言主神讒言の件については次稿に譲りますが、葛城山の麓でお生まれになった開祖が、葛城や箕面山の修行の後、金峯大峰で苦行されたという足跡が、正にビジュアルに感じられる説話と云えるでしょう。 なおこの石橋伝説に纏わる地名として岩橋山があります。これは葛城山を構成する支峰の一つで、葛城山と二上山の間に位置する標高658メートルの山ですが、開祖が葛城山から金峯山に橋を架けようとした所として、地元では伝えられています。

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13.伊豆配流1

 開祖の晩年期で最も大きな出来事は伊豆配流の事件であります。これは国史である続日本紀にも記されているところであります。本稿の序説でも引用しましたが、続日本紀の文武天皇三年五月二十四日の条に「役君小角伊豆島に流さる、初め小角葛木山に住し呪を以て称せられ、外従五位下韓国連廣足これを師とす、後に其の能を害い、讒するに妖惑を以てす」と記しています。  ところで、開祖の伊豆配流事件で、その直接の原因となる朝廷への讒言は一体誰が行ったのかということでありますが、これには古来より三説があります。  一つは前述の続紀に言う韓国連廣足と伝えるもので、私聚百因縁集などもこれに依っています。二つめは日本霊異記をはじめ、金峯山本縁起や本記・形生記等ほとんどの開祖伝記で扱う説であります。前稿で金峯山石稿の伝説を取り上げましたが、そこで述べましたように、一言主神が讒言したとするもので、史料的にはこれが最も多い伝承であります。  もう一つは役行者顛末秘蔵記に伝える異説であります。ここには「専ら役優婆塞を毀る者は徳光法師、法圓眞儀、道眼大僧都、泰澄大師、玄坊、吉備大臣、不比等なり」として、徳光法師をはじめ玄坊や不比等など当時の有力な人々が讒言者として挙げられています。  三説それぞれに見るべき所がありますが、国史である続紀に依って、韓国連廣足の讒言によるものとみておきたいと思います。  この韓国連廣足は、続紀の天平四年(七三二)十月十七日の条に「外従五位下物部韓国連廣足を典薬頭と為す」とあり、また一説には宮廷の典薬寮の呪禁師であったと記されるほどの優れた人物でありますが、この廣足が師と仰ぎ、ついにはその能力を妬むほどのお力を開祖は持しておられたのであります。  そう見てみますと、廣足説と先の二説とは微妙に関連しているように思われます。一言主神は開祖の役氏が仕える高鴨神系の葛木の山神で、所謂古神道の神であり、秘蔵記の言う徳光法師らは時の中央勢力の有力者であります。開祖のお力が大きければ大きいほど、その活躍の話は朝廷に届くことになりますから、こういった既成の勢力から妬みを持たれ、讒訴されたとしても、不可思議なことではなかったでしょう。そういった背景が開祖の伊豆配流事件には潜んでいたことを、諸説が教えているのかもしれません。  ところで神通力に秀でた開祖でありますから、讒訴によって官吏が捕縛に来た時、行者は飛行して捕らえることが出来なかったと説話は語ります。そこで官吏は一計をめぐらし、その母を捕らえてたため、行者は自ら縛に就いたと云われています。開祖伝ではこのように度々お母さんの話が出てきますが、この開祖と母堂のことに関しては注目しておく必要があるでしょう。

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  十二、伊豆配流2  開祖が讒言によって、伊豆大島配流となるのは、通説では文武天皇の三年(六九九)とされています。徴業録によれば、泉州から船出し、大島に向かわれたと記していますが、もちろん詳しくは不明です。  さて、開祖は配流先の大島にてどのような日々を過ごされたのでしょうか。徴業録には「昼は則ち禁を守り、夜は必ず霊地に遊ぶ。最も富士の神秀を愛す。或いは海を蹈んで往き、或いは虚を歩いて還る。その疾なること飛鳥も及ぶべからず云々」とあります。つまり昼は捕縛の身であるという禁を守って岩窟か何かの牢で謹慎されていたようですが、夜になるとその得意の験力によって牢を抜け、飛行して富士山などの霊地に修行に行かれていたようです。また本記によると「ここに居ること三年。昼は禁を守り、夜は天木、走湯、箱根、雨降、日向、八菅、江の島、白金、富士山等に通い、毎朝暁時に島に帰る」とあるよう、修行の地は富士山周辺に留まらず、毎夜各霊地を巡っておられたと伝えています。 更に徴業録では開祖が大島に居られる間、竜灯が富士の山巓に点ぜられたり、伊豆の海中に五重の宝塔が現出したといった、奇瑞譚も書いています。  いずれも開祖の高徳を讃えんが為の伝説とはいえ、傾聴すべき説話の一つと云えるでしょう。 大島配流中での開祖に関して、本記などの伝記は更に次のような事件を書いています。 行者は大島で謫居しているにもかかわらず、なお讒言者はこれを誹謗したので、逐に誅戮としようということになって、行者を斬刑に処そうとしたところ、刀は段々となって折れてしまい身を損なうことはなかった。行者はその刀を取り寄せ、舌でこれをなめると刀は飴のようになった。使者は都に帰り、これを帝に奏上した云々。 開祖の奇瑞の一つとして興味深いものがありますが、ただこの説話は日蓮上人の話を思い起こさせる、あまりによく似た話であります。  文武天皇五年(701)に開祖はようやく其の罪を許されて、都へ戻ることになります。徴業録や秘蔵記によると許された理由は、先の刀身段々壊の話とあわせて、この年、近畿において時ならずして霜雪が降り、五穀が実らず、また人馬も多く死んだ。文武天皇は深くこれを憂いておられたが、ある夜夢うつつに麗しい童子が現れ、何の為に無実の聖者が配流されたのか、これが為に人民悩み多く天候が時を得ないのであると告げたので、大いに驚かれ、調べてみると、行者の威徳は優れ、全く無実の罪であることが明らかになり、使いを送って行者は許された…と記しています。また開祖の帰洛のようすについて、本記は「同五年正月、小角の罪を免れる。王使伊豆に赴く。小角既にこれを暁了し、水上を歩く。王使を遠州の地に待って、使に向いて言わく、流謫を免がるを知る故に出向いて恩免を謝すものなり。使黙して言無し、途を共に洛へ帰る。使件の由を奏す。帝、小角を慰労し家冠を賜う云々」とも記しています。

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14.ご遷化について

役行者のご遷化について役行者本記は次のように述べています。  行者は大宝元年(七〇一)五月初旬(伊豆大島より赦免帰国されてから四ヶ月目)、葛城山で護摩を修せられ、暫くはそこに留まっておられたが、それより箕面に行き、さらに箕面より熊野に詣で、熊野権現の元現に遇われ、数日間停錫され、それから大峰に帰って護摩を修し、ついで千原寺に往って、本行という弟子に言われるに「我年今や六十八歳となった、本寿は限りはないが、化寿は今に至った。が、決して汝らは悲嘆するでない。我が法が世に遺っている以上、夫れを以て群生を教化するがよい。即ちこの法に遇うものは吾に遇ったと同じである。我が心は常に大峰にあって、たとえ此の土を去っても魂はここに止まって他には移らない…」との旨を告げられ、それより母堂を連れて箕面に往かれ、磬を鳴らして寂静の旨を聖衆に告げ、大宝元年六月七日の暁方に、母堂を鉄鉢にのせて微笑して隠没せられたと、記されています。  この本記記述を元に考えたいと思いますが、遷化に関しては、ご生誕の時と同様に諸説異説が有って、一定しません。  まず寂滅の年月ですが、先の本記のほか、日本霊異記、扶桑略記、修験心鑑抄、修験修要秘決集、徴業録、形生記等、多くの文献が文武天皇の大宝元年説を採っていますが、その月日となると異なりがみえ、霊異記は正月、扶桑略記は正月一日、心鑑抄・修要秘決集は三月七日などとなっています。ただし現在の通説として、本記や徴業録に記されている六月七日が一般化しており、金峯山寺に於いてもこの大宝元年六月七日を祥忌日として、毎年六月七日を開祖感謝日に定めています。  大宝元年以外の説としては行者講式に持統天皇の八年(六九四)、秘蔵記に元正天皇の養老七年(七二三)などが散見しますが、没年については大宝元年であまり問題はないといえるでしょう。 次ぎに遷化の場所及びその状態についてですが、これには元亨釈書・扶桑略記などの如く、箕面において母を鉄鉢にのせ海を渡り入唐したとか、心鑑抄の如く海を渡り去って居住を知らずとか、また秘蔵記の如く大峰深山において入滅いたのに、一七日を過ぎずして紀州の商人が摂津において行者にまみえ、天竺に行くと聞いたので、棺を開いてみると行者の遺骸はなく、納衣錫杖鉄履のみが残っていたとか、沢山の説が見いだせます。 年次の問題も含めてそれらの説の真偽を判定するすべを何も持たない今日の我々ですが、遷化に関してはその模様が深いベールに包まれれば包まれるほど、開祖のその神秘性が深まるのかも知れません。

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15.神変大菩薩の諡号

 役行者亡き後、役行者が示された山林トソウの修行の道は、多くの先哲行人に受け継がれ、修験道の教えを徐々に確立するに至ります。そしてその法脈は、千年の歴史を刻んで、赫赫として受け継がれていくのです。  寛政十一年(一七九九)正月、役行者一一〇〇年遠忌を迎えるに当たり、聖護院ではその旨を朝廷に上表し、時の光格天皇より「神変大菩薩」の徽号を贈られます。幼少を聖護院で過ごされた光格天皇が、役行者のその業績を讃え、報恩の気持ちを以て、下賜されるところとなったのであります。

 勅。優婆塞役公小角。海嶽抖ソウ之巧。古今辛苦之行。前超古人。  後絶来者。若夫妙法明教之施四海也。非以神足僊脚之遍五方乎。是  以千年之久、馨香愈遠。衆生之仰瓜?益盛。天女霊夢不空。神龍嘉  瑞爰応。因示特寵。以贈徽号。宣称神変大菩薩。 寛政十一年正月二十五日

…勅す。優婆塞役公小角は海嶽抖ソウの巧、古今辛苦の行、前は古人  を超え、後は来者を絶す。若し夫れ妙法明教の四海に施すや、神足  僊脚の五方に遍きを以てに非すや。是を以て、千年の久しく、馨香  いよいよ遠く、衆生の仰ぐ、瓜?益々盛なり。天女の霊夢空しから  ず、神龍の嘉瑞ここに応ず。因って特寵を示し、以て徽号贈る。宣  しく神変大菩薩と称すべし。 寛政十一年正月二十五日

 多くの勅書はその一部のみが天皇自身の揮毫であるのに対し、今も聖護院に現存するこの「神変大菩薩」下賜の勅書は全文が光格天皇自筆によるものであります。いかに天皇が役行者に帰依されていたかを、見事に語っているといえましょう。  役行者は千年の時を経て、神変大菩薩になられました。最澄は伝教大師、空海は弘法大師、そして大峰中興の祖・聖宝は理源大師となられましたが、役行者は希なる大菩薩のなられたのであります。 そこには正に上求菩提下化衆生の菩薩道を実践する、役行者のご誓願が称号として、如実に顕されているとも言えるのでしょう。  (完)

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