新世界訳研究会

聖書から『知識』を論じる(1章,2章)


「新世界訳研究会」代表: 中 澤 啓 介



はじめに


  この小冊子は、『知識』という書物によって、ものみの塔の信仰を学ぼうとしている方々のために、用意しました。

 エホバの証人は、これまで15年間にわたり、『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』という書物を用いて研究生を教えてきました。しかし、昨年11月1日号の『ものみの塔』誌において、「マタイの書24章34節の『この世代』は、文字どおりの意味ではなく、『邪悪な世代』という霊的な意味だ」と、解釈を変更しました。その結果、『楽園』の書物は使えなくなりました。その書物の154頁に、「1914年の出来事を見た世代が終わるまでにハルマゲドンが来る」と、これまで100年間教えてきた、従来の解釈が明確に述べられているからです。

 3年前、1993年の春、友人の草刈定雄牧師は、まもなく「この世代」の解釈は変更される、と断言されました。私は、この言葉を半信半疑で聞いていました。当時私は、ものみの塔の研究生として学んでおりましたので、私の司会者だった村野兄(相模大野会衆の主催監督)と、片岡兄(奉仕のしもべ)に、そのことを尋ねてみました。すると、お二人とも「組織がそのような変更をすることはない」というお返事でした。私は、どちらを信ずべきか迷いました。

 94年の夏、最近出された組織の出版物をじっくり調べる機会をもちました。その結果、私自身も、ものみの塔聖書冊子協会が「この世代」の解釈を変更する準備をしていることは間違いない、と確信するようになりました。

 昨年95年の春、かつては正規開拓者で、今はクリスチャンになった平洋子姉妹(麻溝台会衆、エホバの証人とかかわりをもってから、20年、バプテスマを受けてから13年)に、「組織は、一般のエホバの証人には知らせていないけれど、長老たちには『この世代』の解釈の変更を知らせ、準備していると思うのだけれど」と、聞いてみました。それに対し、「ものみの塔の組織は、しばしば教理を変更してきましたが、その場合は『ものみの塔』誌にのるはずです。また、もしその教理を変更したなら、『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』という書物は、今までの教理が載っていますので、その本も書き改められるはずです。あるいは、他の本を使うようになるかも知れません」という答えが返ってきました。

 そして、結局、草刈牧師、平姉妹の言われたことはその通りになりました。

 組織は、昨年の夏の地域大会において、『知識』という書物を配布しました。そして、この書物がいかにすばらしい書物であるかを、成員に教えました。

 そして、11月に、先の教理を変更しました。

 教理を変更しますと、組織は、各研究司会者に、『楽園』から『知識』に、テキストを変更するよう指示を出しました。そのとき、組織は、「1914年の世代が終わるまでにハルマゲドンが来るという従来の教理が変更になった結果、『楽園』は、もう古くなりましので、新しい書物『知識』に変えます」とは言いませんでした。どのように説明したかご存じですか。

 昨年暮れ、一人の研究生が、ものみの塔の信仰に疑問があるということで、相談に来られました。その方は、研究をはじめてから半年になるのですが、半年ほど学んでいた『楽園』の書物が、突然、『知識』に変えられました。その研究生が、司会者に理由を尋ねますと、「ハルマゲドンが近づいており、もう『楽園』のような本を学んでいるほどの時間がないので、必要で大切なことがコンパクトにまとめられている、もっとすばらしい『知識』という書物を使うように、との指示が組織からあった」というのです。

 驚いたことに、私は、このような説明を数人の研究生から聞きました。判を押したように同じ表現でしたから、組織から公式に通達されたことは間違いないと思います。

 こういうことで、テキストを変えてしまう、否、変えなければならない、ということがどうして起こるのでしょうか。それは、ものみの塔聖書冊子協会が、自らの組織の絶対性を主張することに起因しています。統治体をはじめとする「思慮深い忠実なしもべ」は、神の「唯一の伝達経路」であり、彼らが教えることは、絶対的に真理として受けとられねばならないのです。その権威を保つために、それまで使っていた書物に不都合が生じれば、何等かの理由をつけ、変えてしまうのです。

 一つ面白い話を紹介しましょう。

 あるとき私は、統治体の知恵袋と言われたレモンド・フランズ(1971年から81年まで統治体の成員だった)が、聖書を研究し続けた結果、ものみの塔が教えることは聖書的ではなく、キリスト教が主張していることが聖書の教えである、と確信するようになったこと、その結果、組織から排斥されてしまったこと、彼が執筆した書物は廃棄されたこと、などをお話しました(これらについては彼が著した『良心の危機』および『キリスト者の自由』という書物に明らかにされています)。

 その話を聞いていた元エホバの証人が、自分が経験したことを話してくれました。  「1980年のはじめの頃、書籍研究において、『ヤコブの手紙』という書物を学んでいました。ところが、その書物が終わらないのに、突然、その書物の学びは中止になり、他の本に変えられてしまいました。そのときは、理由を知らされませんでしたので、おかしい、とは思いましたが、そのままになっていました。でも、あの『ヤコブの手紙』は、ダンロップ(彼もまた、後に排斥されてしまう)によって書かれ、レイモンド・フランズが推薦していましたので、その書物の学びが中断されたことが、今、解りました。」

『知識』の特色

 研究用の新しいテキスト『知識』は、これまで用いられてきた『楽園』の本とはかなり違います。このことは、『楽園』と『知識』の両方の目次とを比べてみるなら、一目瞭然です。『楽園』は、キリスト教の教えと対立する点を明確にし、論争的でした。そのような叙述の仕方は、聖書をよく知らない人々に対しては説得力があったのですが、聖書を注意深く読もうとしている人々の説得にはあまり効果がありませんでした。というのは、普通の人が聖書を素直に読めば、『楽園』の聖書の引用はおかしいことがすぐ分るからです。

 しかし、「この世代」の解釈の変更を機会に用意した『知識』は、かなりようすが違います。この『知識』の方は、ものみの塔とキリスト教の教えの対立点を浮き彫りにするより、共通する部分を多く記述しています。その結果、聖書をよく学んでいないと、『知識』で教えられていることがあたかも聖書の教えであるかのように錯覚を起こすでしょう。

 むろん、このことは、ものみの塔の教えが聖書の真理に近づいたとか、キリスト教に近づいた、などということを意味しません。この『知識』という書物は、従来のものみの塔の信仰の根本的な思考の枠組(パラダイム)を変えたわけではありません。ただ、キリスト教との対立点を前面に押し出して論理を展開していないのです。キリスト教を否定するより、自分たちこそほんとうのキリスト教であるとの印象を与えようと戦術を転換したのでしょう。

 このことは、最近の出版物において、ものみの塔のことをキリスト教と呼んだり、エホバの証人をクリスチャンと言及しているのが、以前より目立つことから、明らかです。

 これまでのものみの塔の教育方針は、まず、ものみの塔の信仰の「思考の枠組」から教理全体をガッチリ教え、その「思考の枠組」から聖書を読ませ、研究生たちをマインド・コントロールしていく、という方法をとってきました。

 しかしこの『知識』は、受け入れやすい教えを徐々に教え込み、より早く研究生を共同体の中に入れてしまい、その後、なかなか受け入れにくい教理(聖書が教えていない教理)を教えていこう、とスタンスをとっています。その結果、正統的なキリスト教との共通部分が前面に出てくることになり、組織が説く独特な教えは後回しになるのです。

 組織は、司会者になる人々に対し、『知識』を用いるとき、余分なことを教えたり、脇道にそれたりしないよう、徹底して教えています。この『知識』という書物の流れに沿って、早いテンポで研究を進め、細かな議論には関わらないよう指導しています。そして、バプテスマを早く受けるよう励ましなさい、と教えています。
 まずは、ものみの塔という組織の中に研究生を入れてしまい、その後、じっくりつまずきやすい教理や、ライフスタイルを教えればよい、という魂胆なのです。

研究生になる人へ



 エホバの証人といっしょに、この『知識』の書物を学ぼうとする人は、決していいかげんな態度ではじめないでください。この書物が教えていることと聖書の教えとは、似て非なるものであることを見破るには容易ではありません。

 もしあなたが、聖書に興味をもっているのでしたら、ご自分で聖書を読み、分らないところがありましたら、近くの教会を訪れてください。もし、教会が見つからなければ、私たちのところにご連絡ください。

 読者の中には、『知識』を用いて、エホバの証人に聖書の真理を知ってもらう方法がないだろうか、と考えておられる方もおられるでしょう。確かに、もし聖書を正しく読む(前後の文脈を大切にして、素直に読む、ということ)訓練を受けているクリスチャン(あるいは、エホバの証人のご家族)であれば、この『知識』を用いて、エホバの証人に聖書の真理をお知らせすることができます。この書物で扱われているテーマの多くは、聖書が扱っているテーマであり、キリスト教も伝統的に扱ってきたものだからです。

 もし、この『知識』を用いて、エホバの証人に証詞をしようとする人々は、必ず次のようなことを、司会者と約束してから、研究をはじめてください。

1)必ず、一人で来ていただくこと
もし、あなたが二人の人と対応しなければならない場合には、一人のときより数倍のエネルギーを使わねばならないことを覚悟してください。また、エホバの証人は、仲間の人にさえ、自分のほんとうの姿を見せようとはしませんので、複数で来ますと、証詞することはとても難しくなります。
2)学びを途中で止めないで、終わりまで来ていただくこと
エホバの証人は、研究状態を長老に報告する義務があります。長老は、その人では手に負えない、そのまま続けると危険だと考えると、研究を切るか、他の人を送ろうとします。そのようなことを避けるため、はじめから約束をしておく必要があります。
3)たくさんの質問があるので、それに答えていただきたいと、断わっておくこと
司会者は、できるだけ早いペースで『知識』を学ぼうとします。マインド・コントロールにかけるとは、考えない人間をつくることです。そのためには、余分な質問をさせないようにしてくるはずです。相手のペースにはまってはいけません。
4)聖書が教えていることを学びたいので、聖書を土台に話し合いたいと言うこと
『知識』が教えていることは、聖書そのものが教えていることとは違います。私たちが信ずべきなのは、聖書であって、組織の解釈ではないことをあらかじめはっきりさせておかねばなりません。研究をはじめる前に、「あなたはもし、組織が教えることと聖書が教えることとが違った場合、どちらを取りますか」という質問をエホバの証人にしてください。エホバの証人は、「聖書を取ります」と言うはずです。そして、対話をしているときいつでも、「聖書を取りますね。組織ではありませんね。」と問い続けてください。
5)聖書の解釈は前後の文脈が大切なので、聖書をじっくり読みながら進めたいと言うこと
あなたが、ある聖句を文脈から正しく解釈しようとすると、エホバの証人はつまってしまいます。しかし彼らは、次から次へと他の聖句に飛んでいって、組織の解釈を弁証しようとします。本来関係がない聖句を結びつけて、組織の教えを確信させられているからです。この罠の中に入らないように気をつけねばなりません。
6)『知識』の流れに沿って学ぶことは了解するが、自分が納得いくまで話し合いたいという希望を受け入れてもらうこと
あなたがエホバの証人に質問すると、今は分らないが、後半を学べば(全体を学べば、もう一冊の書物を学べば、など)、理解できるようになると、判を押したような答えが返ってきます。これはマインド・コントロールの手段です。相手のペースにはまらないために、そのときそのときで納得したいのだ、と約束を取り付けておいてください。


 このような約束をエホバの証人はしてくれるでしょうか。最初に申し入れるなら、してくれるはずです。というのは、エホバの証人は、研究生を見つけることが難しいことを誰よりもよく知っています。ですから、もしあなたが研究生になる見込みがあると知れば、上記のような約束を喜んでするはずです。

 最初が肝心です。約束したことをメモに書き、書いたメモを読み上げながら、約束を確認しておく、という気持ちでやってください。通常、エホバの証人は、メモをよく取りますし、また約束を守ります。ですから、このような行動はエホバの証人には違和感を与えるものではありません。もし、このような約束をはっきりさせないで、研究をはじめるなら、あなたの証詞は、相手のペースで進められることになり、証詞の試みは失敗に帰するでしょう。

 実は、エホバの証人は通常は、約束を守ろうとするのですが、約束を反古にすることがあります。エホバの証人は、あなたとの研究の状況を長老に報告しています。長老は、司会者がうまくリードしている間は何も言いませんが、あなたの質問などで窮地に陷ると、研究を止めるか、他の人を送るか、指示を出します。しっかりと学んでいるクリスチャンだと分ると、長老自らが来ることが多いようです。エホバの証人は、そのような長老の指示には、従わねばならないのです。

 あなたは、『知識』の書物を用いながら、あなたの司会者に疑問をもたせようとしているのです。もし、司会者が少しでも疑問をもったなら、そのことを司会者が長老に告げたりしないで、自分で考え、自分で解決するよう、仕向けていかねばならないのです。しかも、そういう事態になるかもしれないと司会者が気づく前に、約束させねばならないのです。しかし、例えはっきり約束したとしても、どこまで守られるかは保証できません。でもとにかく、司会者が約束を守らなかった場合には、司会者の方にルール違反があったことを明確にして、相手に負目を負わせることは必要です。

 もし上記の約束が反古にされたときは、あなたは次の決断をしなければなりません。その司会者との研究を打ち切るか、開き直って、別の人(長老の場合が多い)に証詞をするかです。もし、あなたがこのテキストをじっくり学び、背後で聖書を正しく教えることのできる人をもっているなら、ぜひ、研究を続けるようお勧めします。

 その場合、はじめにあなたのお宅を訪問された司会者との会話とは、ずいぶん雰囲気が違うものになるでしょう。エホバの証人側も、それなりのベテランを送り込んできたわけですから、それは仕方がないことです。しかし、恐れることはありません。例え長老であっても、マニュアルで学んだこと以外はほとんど知りません。キリストにある愛と真実な恵みを証詞続けてくださるようお願いします。

この小冊子の用い方



『知識』を用いて、証詞をしようとしている方は、次の点を注意してください。

1)司会者といっしょに学ぶ前に、『知識』の本をよく読んでおいてください。
準備をしないで、司会者から学んではいけません。もし準備をしておかないと、司会者の質問に対して、本文を読みながら、司会者が望むような答えを捜そうと努力してしまいます。これこそ、マインド・コントロールの第一歩なのです。
2)司会者によく思われようとしないでください。
司会者が親切で、すばらしい人であると、人間はついその人に好かれたいという気持ちをもつものです。そうすると、正しい答えを出すことより、その人を喜ばせようとして、その人が喜んでくれそうな答えを出そうと努力してしまうものです。それは、マインド・コントロールの二歩目となります。
3)この小冊子をよく読み、ここに書いてあることをよく理解しておいてください。
この小冊子は、聖書の正統的な解釈に基づいた質問がたくさん載せられています。自分もほんとうにそう思う、ということを捜し、質問をする準備をしてください。『知識』しか読まなければ、それを批判する情報をもっていない状態になってしまいます。それでは、結果として、自ら情報をコントロールしていることになります。
4)質問することを自分の言葉で、自分のノートに書き写してください。
エホバの証人と話すときには、この小冊子を見せてはいけません。背教者の書物で学んでいると考えて心を閉ざしてしまいます。この小冊子に記されていることを参考にし、ご自分の責任で質問をつくり、ご自分の言葉で質問してください。自分の責任を放棄し、他人の権威に寄りすがるのがマインド・コントロールの重要部分です。相手のマインド・コントロールを解くには、あなた自身の姿勢がマインド・コントロールから解放されたものでなければなりません。
5)会話の主導権を自分が取るようにしてください。
相手のペースに合わせないで、自分のペースで話を進めるよう努力してください。司会者は、普通、はじめは、あなたが話したいように話させてくれるはずです。しかし、そのうち、主導権を握ってしまいます。彼らは、教えに来てあげているのだ、という意識で行動しますので。そのとき、遠慮してはなりません。自分は、証詞しているのだ、という自覚が重要です。相手に主導権を渡すなら、マインド・コントロールの術にたやすくはまりこんでいくでしょう。
6)議論をしないで、質問をしてください。
主導権を取るといっても、司会者を教えたり、間違いを指摘することではありません。また、知識をひけらかすような態度は慎むべきです。あなたが話す目的は、議論に勝つことではありません。人は、議論に負けると、面子がつぶされたと感じ、あなたが言うことを真剣に考えるようにはなりません。あなたは、エホバの証人が、自分の頭  ■で、聖書が教えていることを気づかせるために、話そうとしているのです。この点をどんなときにも忘れないでください。
7)一度にたくさんの話題を話さないでください。
人は一度にたくさんの情報を手にすると、パニック状態に陥ります。すると、ものを考えるのを止め、自分がもっているものを防御するようになります。相手が防御をはじめたなら、その証詞の業は失敗に終わったのです。
8)納得いくまで説明してくれるように約束しておいてください。
自分が納得しないのであれば、諦めないで聞き続けてください。相手が答えにつまっても、同情してはいけません。もし答えを捜して、あちらこちらの聖書を捜しはじめたなら、じっと10分でも、20分でも待ってあげてください。助け舟を出してはなりません。あなたが出した助け舟は、エホバの証人のフレームの中で、理解されるだけで、証詞に効果はありません。どうしても答えが出なければ、来週までに調べてくると、相手に言わせてください。自分が要求してはなりません。
9)問題を残さないようにしてください。
あなたの質問に対し、エホバの証人は、答えにつまると、全体が分れば分る、その問題は後で取り扱う、と言い逃れをしてきます。その場合、確かに後で取り扱われる課題もありますが、実際には、答えがないというのがほとんどです。もし、ある問題に対する解答を引き延ばした場合は、その問題を必ずメモし、いつその問題を取り扱うのかを確認し、先に進んでください。そして、その箇所に来たら、必ず、先の質問を繰り返してください。一つ一つには答えがなくても、何となく真理のように思える、というものがものみの塔の信仰の実態なのです。一つ一つ確かな土台の上に築かなければ、結局、砂上の楼閣にすぎないことを明らかにしてください。
10)新世界訳以外の聖書を用いてください。
エホバの証人は新世界訳聖書を使います。しかし、あなたは、普段使っている聖書(新改訳、口語訳、新共同訳などの公認聖書がよい)を使ってください。研究をスタートさせる前に、自分が使う聖書の了解をとっておきましょう。そして、もし、意味の違いを発見したなら、どうしてそのような違いが生じたのか話し合おうと、約束をとっておいてください。もし、その違いの原因がすぐに分からなければ、自分は書物を調べるなり、牧師に聞いてみるので、司会者も調べてくるよう約束し合ってください。

『知識』の書物を用いて、エホバの証人に証詞するには、最初が肝心です。研究を始めてからでは、遅すぎます。エホバの証人との対話に入る前に、これらのことを心に銘記して臨んでください。もい一度繰り返します。あなたが効果的に証詞ができるかどうかは、研究をスタートさせる前の約束にかかっている、ということです。

エホバの証人は、この『知識』を効果的に用いるにはどうしたらよいかという訓練を受けています。いったん相手のペースにはいるなら、そこから抜け出すには、大変な努力を要します。あなたは、研究という形態を通して、証詞をしているのだということを忘れないでください。


マインド・コントロールの問題



あなたがエホバの証人に証詞しようとして、教理を持ちだし、聖句の解釈をめぐって論争してみても、果を結ぶことはないでしょう。

例えば、エホバの証人は、三位一体論を批判してきます。クリスチャンは、三位一体を指示している聖句を提示します。すると、エホバの証人は三位一体を否定するような聖句をぶつけてきます。クリスチャンもまた、三位一体を指示するほかの聖句をあげます。こうして、議論は延々と続くでしょう。これは、互いに聖句をぶっつけあう「ピンポンゲーム」です。

その結果、エホバの証人は、クリスチャンとは何と理屈にあわないことを信じている人々だろうと思うでしょう。クリスチャンは、エホバの証人は聖書を自分の考えで読み込んでいる人々だ、と確信するでしょう。結局平行線なのです。そして、あなたは、疲れた、無駄なときをすごした、という挫折感に終わるのです。

 もしあなたが、エホバの証人をキリスト教の異端としてとらえ、彼らが信じている教義を聖書から論争するなら正すことができる、と考えているとすれば、エホバの証人の信仰に対する認識を根本から改めねばなりません。そのような認識で、証詞をしようとしているなら、今すぐ止めた方が賢明です。

 エホバの証人自身は、自分たちは聖書を信じている、と思っています。けれども、実はそうではありません。
 組織は、あらかじめ信ずべきことを決めています。そしてそれを支持していそうな聖句を捜し出し、彼らが信じてほしいことが聖書の教えであるかのように見せる努力をします。そのようにしてできあがった「組織が教える教義」は聖句の衣を着せられているので、聖書をよく知らない人が見ると、聖書の教えに見えるのです。

 聖書をよく知っているクリスチャンが、それは聖書の教えではない、と指摘し、そのことに関連した聖句を示した、としましょう。しかし、組織は、あらかじめそのような聖句に対してどのように弁明したらよいか教えておきます。それは詭弁にすぎないのですが、エホバの証人は、その説明を用意した組織に対して絶対的な信頼をもっていますので、その説明が正しく見えるのです。

 そうです。エホバの証人の信仰は、結局、聖書信仰なのではなく、組織信仰なのです。この組織への信仰こそ砕かねばならない第一のことなのです。  クリスチャンが、神は三位一体である、キリストは肉体で復活された、キリストが天使ミカエルなどではありえない、天国には14万4千人だけが行くというのはおかしい、1914年から終わりの日がはじまったなどというのは、全くの誤解である、などと、聖書からいくらでも議論しても、エホバの証人の信仰が崩れると考えてはならないのです。

 実は、そのような一つ一つの教理は枝のようなものです。枝をいくら切り落としたとしても、木は倒れません。幹を切り落とさない限り、枝はまたのびてくるのです。では、ものみの塔にとって、幹とは何でしょうか。それは、聖書を解釈する「統治体」という組織です。彼らが聖書を解釈すれば、エホバの証人にとっては、その解釈が常に正しいのです。

 自分の思考力を停止し、他人の意見は間違いであると断定して、聞く耳をもたせず、組織だけを信じさせてく、というのがものみの塔のマインド・コントロールなのです。エホバの証人に証詞を願っているクリスチャンは、このマインド・コントロールという問題を考慮に入れて対応しなかったならば、空を打つ拳闘になってしまうのです。

 多くの人はマインド・コントロールの本質を心理学的なものに求めています。確かに、マインド・コントロールは多くの心理学的な罠によって現実化されて行きます。しかし、マインド・コントロール自体の中心は、体系的な世界観というきわめて主知主義的なものにあります。オウムで荒れ、統一教会であれ、モルモン教であれ、幸福の科学であれ、その信者と話してみるなら、彼らは例外なく、自分たちの宗教組織が教えている教義「体系」を、100パーセント確信していることに驚くでしょう。この「体系」は、世界に起こるどんな現象、歴史の中に起こったどんな出来事であっても、説明できると思い込まされているのです。この場合、この知的確信は、他人から強制されて信じさせられた、とは誰一人思ってはいないだけでなく、ほんとうにこれほどよく説明できるものはないと、心底から思えるのです。

 では、エホバの証人を自分たち組織の間違いに気づかせるには、どうしたらよいのでしょうか。その方法は二つしかありません。

 一つは、聖書を素直に、文脈に沿いながら、正確に読むよう忍耐深く指導することです。もう一つは、組織の出版物から、これまで述べてきたことの中に見られる矛盾点、調整した点などを指摘することです。

 マインド・コントロールにかかっているということは、自分の意見をもっていない、と言うことです。エホバの証人は組織以外の考えを「独立した思考」と名付け、それは忌むべき高慢なことだと教えています。

 マインド・コントロールを解くとは、結局、この「独立した思考」をもたせること、つまり自分で考える人間になるということなのです。組織に対して盲目的に服従することは、いかに危険で、よくないことであるかを示すことです。

 マインド・コントロールの本質が知的なものだとしても、人々がそれにかかってしまう過程には、心理学的な欺きが利用されます。エホバの証人に証詞する人々は、このからくりをよく知っておかねばなりません。もしそうでないと、あなたもマインド・コントロールの罠にかからないとは限らないからです。

 例えば、研究のはじめのうちは、エホバの証人は、あなたのお宅に来させていただいている、という態度をとりますす。ところが、何回かしているうちに、あなたの研究を手助けするために、来てあげている、という立場を取るようになります。忙しい中を自分のためにわざわざ来てくださっている、そう考えるようになるなら、あなたは、研究中に、その司会者が不快に思うようなことは言わなくなるものです。これこそ、マインド・コントロールの第一歩です。

 あるクリスチャンが、エホバの証人の研究生になりました。彼女は、聖書から一つ一つ反論してエホバの証人の信仰の間違いを指摘していました。ところが数週間後、彼女は病気になり、入院しました。そのことを知った司会者は、すぐに病院にお見舞にかけつけ、留守のお宅に、ご主人とお子さんのための夕飯を届けました。それが一週間続きました。  退院してから、司会者に対するこのクリスチャンの研究態度に変化が見られたと思いますか。ここにマインド・コントロールの巧みな手法が見られることを見抜けますか。

 エホバの証人は、研究のはじめの頃、サタンは、家族や友人たちを用いて、あなたの研究を反対させるだろう、とあらかじめ警告するはずです。それを聞いてしまうと、実際に反対が起こったとき、その反対の意見に耳を傾けるよりは、司会者の言うとおりだった、だから、ものみの塔の信仰は本物だ、と考えるようになってしまうのです。

 あなたの研究が進めば、盛んに集会に誘われるはずです。もし、王国会館を訪れるなら、今までどこに行っても経験しなかったような大歓迎(ラブ・シャワー)を受けます。王国会館で会う人々は、あなたの周囲にいる人たちと、どこか違うという印象を受けるはずです。男性は皆、スーツ姿です。子供たちまでネクタイをしています。人々はにこやかで笑顔を絶やしません。話し方は柔らかく、さわやかな印象をもつでしょう。ほとんどの人々はこのような人と友だちになれたらすばらしいと感じるはずです。そう感じさせることがマインド・コントロールの中に入っていく重要な要素なのだと気づく人はほとんどいません。

 王国会館では、立派な行ないを要求されます。人々は、正しく生きようという願いがありますし、また正しく生きていないという自責の念をもっています。王国会館で要求されていることが神の要求であると見えるようになり、それに向かって努力しなければならない、と考えるようになれば、マインド・コントロールも半分ぐらいは仕上がったと言わねばなりません。

 訪問伝道が義務だと教えられれば、それが聖書の教えかどうかなどと問う以前に、人と比べて奉仕時間が少ないと自責の念や罪責感を感じるようになっていくのです。そうなればそうなるほど、組織の権威は高められ、マインド・コントロールの中心的精神状態「恐怖」が、支配的になってしまうのです。

 マインド・コントロールにかかっているかどうかを判断するのは簡単です。あなたが、この意見は絶対に正しい、疑う必要などないのだ、と思っているなら、それがどんな意見であれ、マインド・コントロールにかかっているのです。

 エホバの証人に証詞するとは、結局、エホバの証人のマインド・コントロールを打ち破ることに他ならないのです。これは聖霊がしてくださる業です。
 ヘブル人への手紙4章12〜13節には次のように記されています。
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」

 ここに書いた質問はサンプルです。ここに書いてある質問以外も、ぜひご自分で考え、有効な質問をエホバの証人にぶつけてみてください。


第1章 あなたにも幸福な将来があります




1節

1.エホバの証人は、ここに記されているような「愛する人の温かい抱擁。親しい友とおいしい食事を共にしながらの談笑。元気よく遊ぶ我が子を見守る喜び」を、ほんとうにすばらしいことだと考えていますか。私が出会った多くのエホバの証人からは、このような生活は、この世的なこと、霊的ではない状態、楽園の生活から見ると無価値なこと、といった印象を受けるのですが、いかがでしょうか。
2.エホバの証人の信徒同志の間、あるいは神権家族の間では、このような姿、行動、状況が、他の人たちと比べ、数多く見られますか。親戚を見回してみてください。学校のサークル活動やボランティアの仲間たちを見てください。
3.エホバの証人は、このような生き方をしているエホバの証人以外の人々を見て、幸福な人たちだと感ずるのでしょうか。また、そう感じることを勧め、励ましているのでしょうか。
4.「次々に起こってくると言われている深刻な問題」とは、具体的にどのような問題を考えたらよいのでしょうか。
5.「多くの人にとっては」と言われていますが、人生をこのように悲観的に見る人は、日本人の中では、何パーセントぐらいの人を想定したらよいでしょうか。
6.そのように悲観的に受け止める人は、エホバの証人の中では、一般の人と比べ、多いと思いますか。それとも少ないと思いますか。

2節

1.神のご意志が「すばらしい環境の中で、しかも最善の状態で、永続する幸福を味わうこと」にあるとは、聖書のどの聖句から言うことができますか。
2.この書物は、「幸福な将来」を問題としていますが、「幸福な現在」はないのでしょうか。
3.現在、すばらしい環境を生み出すように、最善の状態で生きることができるように、永続する幸福を味わうことができるように、努力している人々に対して、神はどのようなご意志はもっておられるのでしょうか。
4.幸福な将来は「知識」がかぎなのでしょうか。神に関するある知識は必要ですが(前提としますが)、知識以上のものが必要なのではないでしょうか。聖書が「知識」を問題にしているようには思えないのですが。聖書のどの句からそのような結論を導き出しているのでしょうか。
5.イエスは「幸いな人」について、マタイ5:3-11において、お話しくださいました。それは、本書において述べられている「幸福な将来」とは大部イメージが違います。イエスが語られた「幸いな人」についても考慮した方がよいのではないでしょうか。
6.聖書はどのような人を「幸福な人、幸いな人」と言っているでしょうか。はたして、この『知識』が述べているイメージと同じでしょうか。次のような聖句から、聖書的な「幸福観」について考えてください。
自分の手の勤労の実を食べるとき(詩篇.128:2)、神と契約を結んでいるとき(エレミヤ書.32:40-41)、神に裁かれない人(ローマ.14:22)、神のことばを聞いてそれを守る人(ルカ.11:28)、見ずに信じる者(ヨハネ.20:29)、受けるのではなく与える人(使徒.20:35)、行ないとは別の道で神によって義と認められる人(ローマ.4:6)、不法を赦され、罪をおおわれた人(ローマ.4:7)、主が罪を認めない人(ローマ.4:8)、試練に耐える人(ヤコブ.1:12、5:11)、義のために苦しむ人(■ペテロ.3:14)、キリストの名のために非難を受ける人(■ペテロ.4:14)、預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人(黙示録.1:3)、主にあって死ぬ死者(黙示録.14:13)、目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者(黙示録.16:15)、小羊の婚宴に招かれた者(黙示録.19:9)、第一の復活にあずかる者(黙示録.20:6)、預言のことばを堅く守る者(黙示録.22:7)、自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者(黙示録.22:14)。

3節

1.箴言2:5は「神についての知識」について言及しています。箴言2:1-5は、どのようにしたらその知恵を見い出すことができると述べていますか。
2.そこで言われていることと、この『知識』の書物で教えていることと同じだと思いますか。
3.「神についての知識」と「神が持っておられる知識」の間に混乱があるように思えます。箴言は、神に関して私たちがもっている知識を問題にしています。ところがこの『知識』の書物では、「万物の造り主が持っておられるに違いない知識」で、神が被造世界や人間に対してもっておられる知識を問題にしています。「神についての知識」と言うとき、どちらを問題にしているのでしょうか。
4.詩篇147:4の「神が星に名をつける」という記録から、『知識』は神の知恵を問題にし、それを考えるように勧めています。しかし、詩篇147:4の「名をつける」とは、「支配している」という意味で、「その神を賛美せよ、礼拝せよ」と文脈は教えています。するとこの『知識』が主張している以上のことを教えていることになりますが、どう思いますか。
5.マタイ10:30は、「頭の毛」という、人間にとって最も小さなものを例示しながら、神が人間の細部に至るまで、み心をとめておられることを伝えています。その事実があるからこそ、神が「人生の重要な疑問に対してより良い答えを与えることができる」方だと、この『知識』は、論じているのですが、この論法は少々回りくどいと思いますが、いかがでしょうか。
6.神は、人間に対してご計画をもち、人間の間に起こっているすべてのことをご覧になっているので、「人生の重要な疑問に対してより良い答えを与える」ことができるのではないでしょうか。

4節

1.二人の車を修理している人の話は適切な例えでしょうか。男のどちらがメーカーの説明書もっていたという前提で話を進めていますが、二人とも説明書をもっていなかった場合もあるでしょう。あるいは二人とももっていたのだが、一人は説明書を理解できず、他の人は理解できたという場合もあるでしょう。説明書をもっていた人が意味を理解できず直せなかったけれど、もっていなかった人がそれまでの経験を生かして直すことができたのかもしれません。どちらかが、必要な道具がなかっただけなのかも知れません。例えを、ある事柄を理解するのに用いることはよいのですが、あることがらを論述する土台のように用いるのは、ふさわしくないと思うのですが、いかがでしょうか。
2.「道理にかなった」とはどういう道理でしょうか。例えば、神は人間を創造されたので、とか、神が人間に関心をもっているので、という道理なのでしょうか。
3.「聖書全体は神の霊感を受けたもので、教え、戒め、物事を正し、義にそって訓育するのに有益です。」(■テモテ3:16)という聖句のどこが、「神についての知識を授けることを目的としている」という文章と関連があるのでしょうか。 聖書の目的は、むしろ前節の「その[聖なる書物]は、あなたを賢くし、キリスト・イエスに関する信仰によって救いに至らせることができます」という文章に述べられています。この『知識』の書物で教えていることと、大部違うように思いますが、いかがでしょうか。
4.次節17節の「神の人が十分な能力を備え、あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるため」という言葉も、聖書の目的を表しています。それによれば、聖書の目的はどのように要約することができるでしょうか。聖書が主張していることを、できるだけ厳密に解釈し、聖書が主張していることを読みとって、教えていくことが大切だと思いますが、いかがでしょうか。

5節

1.「聖書に収められているに違いない、すばらしい知識の宝」とは、すぐ後で言われている「平安で幸福な生活を送るのに助けとなる教え」と同じでしょうか。それは具体的にどのようなものを考えているのでしょうか。
2.詩篇103:14は、「わたしたちの限界」について述べていますが、「わたしたちの必要」については触れていません。限界について主張している聖句をあげるのであれば、必要を教えている聖句をも、あげた方がよいと思うのですが、いかがでしょうか。
3.イザヤ48:17は、「神の民に益することを教える」と教えています。しかし、それは「平安で幸福な生活を送るのに助けとなる教えを与える」というのとはニュアンスが違のではないでしょうか。次節の18節には、平安という言葉が出てきますが、この『知識』の書物で言おうとしている脈絡とは違います。どうしてこのような引用をしているのでしょうか。

6節

1.「有名な歴史上の人物であるイエス・キリスト」という表現は、イエスに対するエホバの証人の理解を適切に表現したものでしょうか。それとも、一般の人々がもっている理解におもねた言い方でしょうか。
2.「この特色」とは、何を指しているのでしょうか。前節の「わたしたちの胸の躍るような良い便り」ということを指しているように見えるのですが、そう解釈してよいでしょうか。そして、それは、イエスの言葉の中の「永遠の命」を指しているのでしょうか。
3.ヨハネ17:3の「知識を取り入れる」という言葉は、ギリシャ語のギノースコーです。この言葉を「知識を取り入れる」と訳しているのはこの箇所だけですが、どうしてこのように訳したのでしょうか。
この言葉は、ヨハネの福音書において、少なくとも50回出てきます。そのうち36回は「知る」(1:10、48、2:24、25、4:53、5:42、6:15、69、7:26、27、49、51、8:28、32、55、10:14、15、27、38、11:57、12:9、13:35、14:7、9、17、20、31、15:18、16:3、19、17:7、8、23、25、19:4、21:7)と訳されています。他には、「分る」が7回(3:10、7:17、8:43、52、10:6、13:12、18)、「気づく」が3回(4:1、5:6、21:17)、「会得する」(8:27)、「気に留める」(12:16)、「理解する」(13:7)がそれぞれ一回づつです。それぞれの箇所で、訳し変えた理由を推測できる場合もありますが、そうでない場合もあります。新世界訳は、できる限り逐語訳をしたと言っているのですが、ギノースコーについてはどのような翻訳原則に従ったのでしょうか。

4.「永遠の命」はどのようにしたら手に入るのでしょうか。この『知識』の書物で教えていることと聖書が教えていることとは一致しているでしょうか。 次の聖句は、ヨハネの福音書が「永遠の命」について触れている箇所です。新世界訳聖書で引用してみました。一つ一つの聖書箇所を開いて、ごいっしょに考えてください。
3:15■それは、彼を信じる者がみな永遠の命を持つためです。
3:16■「というのは、神は世を深く愛してご自分の独り子を与え、だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで、永遠の命を持てるようにされたからです。
3:36■み子に信仰を働かせる者は永遠の命を持っている。み子に従わない者は命を見ず、神の憤りがその上にとどまっているのである。
4:14■だれでもわたしが与える水を飲む人は、決して渇くことがなく、わたしが与える水は、その人の中で、永遠の命を与えるためにわき上がる水の泉となるのです」。
4:36■刈り取る者は報酬を受け取って永遠の命のための実を集めています。こうして、まく者と刈り取る者とは共に歓ぶのです。
5:24■きわめて真実にあなた方に言いますが、わたしの言葉を聞いてわたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を持ち、その者は裁きに至らず、死から命へ移ったのです。
5:39■「あなた方は聖書によって永遠の命を持てるようになると考えて、それを調べています。そして、これこそわたしについて証しするものなのです。
6:27■滅びる食物のためではなく、永遠の命へとながく保つ食物のために働きなさい。それは人の子があなた方に与えるものです。父、すなわち神は、この者の上に[是認の]証印を押されるからです」。
6:40■というのは、子を見てそれに信仰を働かせる者がみな永遠の命を持つこと、これがわたしの父のご意志だからです。わたしはその人を終わりの日に復活させます」。
6:47■きわめて真実にあなた方に言いますが、信じる者は永遠の命を持っているのです。
6:54■わたしの肉を食し、わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち、わたしはその人を終わりの日に復活させるでしょう。
6:68■シモン・ペテロは彼に答えた、「主よ、わたしたちはだれのところに行けばよいというのでしょう。あなたこそ永遠の命のことばを持っておられます。
10:28■そしてわたしは彼らに永遠の命を与え、彼らはいつまでも決して滅ぼされることがなく、だれも彼らをわたしの手から奪い取る者はいません。
12:25■自分の魂を慈しむ者はそれを滅ぼしますが、この世において自分の魂を憎む者は、それを永遠の命のために保護することになります。
12:50■またわたしは、[父]のおきてが永遠の命を意味していることを知っています。それゆえ、わたしの話すこと、[それは、]父がわたしにお告げになったとおりに話している[事柄]なのです」。
17:2■それは、あなたがすべての肉なるものに対する権威を[子]に与え、そのお与えになった者に永遠の命を与えるようにされたことに応じてです。
17:3■彼らが、唯一まことの神であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること、これが永遠の命を意味しています。

7節

1.『知識』は、神が人の体にすばらしい能力を与え、かつ、それに呼応する自然を創造されたということは、人間がそれらを永遠に享受することを望んでいるはずだ、と推論しています。そしてそれは道理にかなっている、と主張しています。この推論は、すばらしいものだから永遠であるはずだ、という論理に基づいており、飛躍があることは明らかです。むしろ聖書は、「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続く」と教えているのではないでしょうか。
私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。(ローマ8:24)
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(■コリント4:18)

2.この箇所は、永遠の命がこの地球上にあることを前提として、論理を展開しています。自分が主張したいことを「道理にかなっています」という言葉で展開させるなら、どんなことでも言うことができます。信仰とはそのような推論を組み立てた結果、出てくるものを信じることなのでしょうか。それとも、そのことについて聖書が教えていることを、素直に読み取って信じていくことではないでしょうか。
3.『知識』の書物は、「道理にかなっているのではないでしょうか」と問いかけ、次には、「実際のところ、...意味し得るのです」と断定します。疑問を投げかけているので、研究生に考えさせようとしているように見えるのですが、実際にはそうさせていないのです。一応考えさせるポーズを取りながら、実際には、著者が意図している方向に導いてしまうのです。これは巧みなマインド・コントロールの手法ではないでしょうか。

8節

1.「地球と人間の将来」についての聖書の教えを一言で要約すれば、「楽園」でしょうか。むしろ、地球の破滅と新しい天地の創造ではないでしょうか。イザヤ65:17、22、■ペテロ3:13、黙示録21:1などを開いて、ごいっしょに考えてみてください。
2.新世界訳のルカ23:43は、「今日」という言葉を「わたしとともにパラダイスにいる」にかけないで、「あなたに真実に言います」にかけています。ものみの塔聖書冊子協会から出版しているギリシャ語聖書王国行間逐語訳を見て、どこにカンマがあるか、確認してください。あるいは、他に出版されているギリシャ語テキストを見てください。そのように読んでいるテキストは一つもありません。ゲルデンハイスは、「今日」を「真実に言います」にかけようとする人がいるけれど、「今日」という言葉が強調されているわけではないので、全くありえないことである、と述べています(Norval Geldenhuys; Commentary on the Gospel of Luke, (London:Marshall, Morgan & Scott, 1969) p.615))。このような信頼されている注解書のコメントに対して、新世界訳の翻訳委員会は、どのように答えるのでしょうか。
3.死の間際にある男はイエスが「パラダイス」という言葉を言われたのを聞いたとき、「アダムとエバの幸福な状態を思い出したにちがいありません」と、『知識』は述べています。あなたは、その男が、ほんとうにエデンの園を思い出した、と思いますか。
4.一世紀のユダヤ人は、「パラダイス」を、どのように考えていたと思いますか。
(コメント)
「するとイエスは彼に言われた。『今日あなたに真実に言いますが、あなたはわたしと共に、パラダイスにいるでしょう。』」と訳した新世界訳は、他の翻訳と違い、「今日」という言葉を「パラダイス」にかけないで、「言います」にかける。
ギリシャ語原文は、エイペン・アウト、アメーン・ソイ・レゴー、セーメロンとなっている。参照資料付きの聖書の脚注は、WHの本文にはセーメロン(今日)の前にカンマがあるが、文脈に沿って、そのコンマを省いて訳した、と解説している。
大文字写本にコンマが出てこないことは確かであるが、ウエストコットとホルトという本文研究家は、その事実を十分に踏まえた上で、カンマを打っている(ギリシャ語聖書王国行間逐語訳参照)。すべての写本を、もっとも正確に比較検討して作成された『クルト・アラントによる修正三版』のギリシャ語テキストによれば、新世界訳のような読み方をする可能性は全くない。それは今日の本文批評学からは、まったくあり得ない読み方である。
では、なぜ新世界訳のような訳文が出来上がったのか。理由はきわめて簡単である。エホバの証人は、魂の不滅を信じないので、死んでしまえば終わりである。もし、パラダイスがあるとすれば、それは死後ではない。とすれば、地上楽園を想定しなければならなくなる。そのような教理を標榜するなら、イエスが「今日パラダイスにいる」と言うはずはないのである。
イエスによる「真実に言います」という表現は、ギリシャ語では4通りの言い方がある。まず、話す相手が複数で、一番一般的なのは、アーメン・レゴー・ヒューミンでカンマが続くケースである(直訳すれば、真実にあなた方に言います、となる)。マタイ5:18 6:2,5,16 8:10 10:15,23,42 11:11 13:17 17:20 18:3,13,18 21:21 23:36 24:2 25:12,40,45 26:13 マルコ8:12 10:15,29 14:9 ルカ18:17 ヨハネ1:51 5:19 6:26,32,47,53 8:58 10:1 12:24 13:16,20 14:12 16:23 などにその用例が見られる。
次は、カンマで区切らず、語られた内容をホティという言葉で表すケースである(直訳すれば、真実にあなた方に次のことを言います、となる)。マタイ16:28 19:23 19:28 21:31 24:34 24:47 26:21,34マルコ3:28 9:1,41 11:23 12:43 13:30 14:18,25 ルカ4:24 12:37 18:29 21:32 ヨハネ5:24,25 8:34 10:7 13:21 16:20 に出てくる。
三番目は、話している相手が一人の場合で、アーメン・レゴー・ソイの後ろにカンマが続く(直訳すれば、真実にあなたに言います、となる)。マタイ5:26 ヨハネ3:3,5 13:38にその例が見られる。
第四番目は、話す相手が単数で、話された内容をホティで表すケースである。マルコ14:30 ヨハネ3:11に見られる。
これらいずれの場合も、「真実に言います」という句は、独立句として出てくる。新世界訳の翻訳においても、ルカ23:43を除いては、すべて独立句として訳出している。しかし、この箇所だけは、後ろの「今日」という言葉を語った内容につけないで、「言います」を修飾していると解釈している。
ところで、イエスが悪行者に語られた言葉は、「今日」でなければならない理由はあるだろうか。地上に復活するということを、他の日ではなく、その日に言わねばならない理由は特別にはない。
むしろ、悪行者の一人は、イエスが「ご自分の王国に入られるとき」のことを念頭に置いている。すると、イエスは、王国に導くのは、「今日」という時だよ、と返答されたのである。そう理解すると、「今日」は「言う」ではなく、「パラダイスにいる」にかけなければならない。 『聖書から論じる』424-26頁は、次のように論を展開している。
1)魂の不滅という考えはギリシヤ的なもので、2)一世紀のユダヤ人には一般的でなかった。3)もし一般的であったとしても、イエスはパリサイ人たちを批判していたのだから(マタイ15:3-  ■9;9)、そのような考えに同調されるはずはない。4)使徒2:30-31によれば、イエスはハデスに行っており、パラダイスではない。5)伝道の書9:5および9:10は、そのハデスは意識のないところである。6)イエスが天に帰るのは、復活してから40日後のことである。7)悪行者は、新生や聖霊を受けていないから天に行くはずはない。このように論理を展開して、次のような結論を導出する。
「イエスはその悪行者の悔い改めた恭しい態度をご覧になり、その悪行者を復活させられて地上の命を受け、パラダイスで永遠に生きるにふさわしいことを証明する機会を与えられる何十億もの人々の一人に含めることができるとお考えになりました。」(426頁)
この論法は、聖書の時代背景を全然知らない人の言葉である。まず、ギリシヤ的背景をもつ霊魂不滅は、聖書が言う「霊の不滅性」とは異なる。また、一世紀のユダヤ人が共有していた「霊の不滅性」を、イエスがパリサイ人たちを批判していたことを根拠に批判していたはずだと論ずるのは乱暴である。伝道の書の言葉は伝道の書全体の文脈に沿って、正しく解釈しなければならない。聖書によれば、イエスに信頼する者は誰でも、新生を経験し、聖霊を受けることができる。ペンテコステ以降に起こる聖霊の傾注がイエスとともに十字架につけられた悪行者に与えられる、というわけではないが、イエスは、イエスに信頼を表明したこの男に救いを約束されたことは、イエスのところに来た他の人々の例から当然のことである。

9節

1.「地球全体が美しく喜ばしい場所になるまで楽園の境を広げて行くことになっていました」という表現は、楽園ではない場所(美しくはなく、喜ばしくもない場所)が存在することを前提としているように思えますが、そう解釈してよいのでしょうか。
2.もし、そう解釈するのでしたら、「神は自分の造ったすべてのものをご覧になったが、見よ、[それは]非常に良かった」というみ言葉(創世記1:31)と、矛盾するのではないでしょうか。
3.創世記1:28の「従わせる」という表現は、「美しく、喜ばしい場所にする」という意味でしょうか。この言葉は、神ご自身が所有されている支配権を委ねた、ということであって、「美しく、喜ばしい場所にする」と理解するのは、読み込みすぎだと思いますが、いかがでしょうか。

10節

1.「楽園」という言葉で、「イエスは将来のことを話しておられた」、と言うのは確かです。しかし、この『知識』の書物は、その将来の楽園の中味を、悪行者が頭の中に描いたこととして紹介してしまったのです。それは、言うまでもなく、エホバの証人が宣べ伝える「地上の楽園」の光景です。『知識』という書物が、いかに巧みな叙述の仕方をしているか、驚くべきことではないでしょうか。
2.新約聖書には、ここ以外に、「パラダイス」という言葉は二回使われています。その一つは、■コリント12:4です。それは「第三の天」と言われている場所で(12章2節)、神の御座のことです。もう一か所は、啓示2:7です。そこで言われている「神のパラダイス」には、「いのちの木」があります。啓示22:4から、この「いのちの木」があるのは、新しい天と新しい地です。イエスは悪行者が「ご自分の王国に入られる時には」という願いに答えて、「パラダイス」という言葉を使われました。これらの状況を考慮するなら、イエスが言われたパラダイスは、イエスが王として支配している「神の御国」のことを指しているのではないでしょうか。
3.何を根拠にして「イエスはこの地球という住みか全体が楽園になることをご存じでした」と言うのでしょうか。イエスが語られた言葉や教えの中から指摘していただく必要があります。もしそれができなければ、『知識』という書物は、イエスに対して勝手な解釈をしていることになると思いますが、いかがですか。
4.イザヤ55:10-11は、神の言葉の確かさを教えています。しかし、この言葉は、バビロンからの解放が主として念頭に置かれています。ところで、この『知識』という書物は、地球に対する神の最初の目的は、楽園の拡大にあったと説明し(聖書からそのことが証明されているわけではありません)、イザヤの言葉を、その勝手なものみの塔の解釈に当てはめるのです。これでは、ものみの塔の信仰は、聖書が主張していないことをでっちあげ、直接関係のない言葉をもっともらしく結び付けてつくられたものにすぎない、と結論づけられるのではないでしょうか。
5.『知識』という書物は、「そうです。確かに楽園は回復されます。」と、そのことを保証している聖句をあげることなく、自分たちが言いたいことを断定します。例え、聖書に書いてないことであっても、あることを繰り返し、繰り返し伝え続けるなら、読者の頭の中に、ものみの塔の「思考の枠組」が形成されていきます。しかもそれが、巧みに聖句の衣を着させられて提供されるなら、聖書を知らない人にとっては、聖書が教えている真理であるかのように見えてくるのです。このような手法こそ、人々がマインド・コントロールとして、警戒するように言っているものですが、あなたはそれに対してどう思いますか。

11節

1.イザヤ35:5-6は、終末の神の国を描写しています。通常、福音的な聖書学者たちは、この預言を千年王国時代の光景と解釈します。このような聖句を、ものみの塔の神学のフレームで利用することは可能です。しかし、10節には、「シオン」が出てきます。従って、もしこの箇所を文字どおりに解釈するのであれば、ユダヤ人の回復を基調とした千年王国に適用して読む方が、自然だと思いますが、いかがでしょうか。
2.啓示21:3-4は、1節と2節から新しい天と地のことです。もし、これを現在の地球と考えますと、太陽も月もない(23節)、夜もない(25節)という描写はどうなるのでしょうか。エホバの証人は、ある箇所を文字どおりに、他の箇所を象徴的に解釈しようとするでしょう。しかしそれでは、自分たちに都合のよいところは文字どおりに、都合が悪くなれば、象徴的に解釈するということです。そのようにすれば、実は、言いたいことを何でも言えるようになります。そのような聖書解釈の態度は、正しいということができるでしょうか。

12節

1.『知識』は、詩篇37:9を将来の楽園の光景を示す句として引用しています。しかし、詩篇37編を、1節からじっくり読んでください。この詩篇が、ダビデの時代の「悪を行なう者」と「義なる者」について語っていることは明らかではないでしょうか。
2.9節は、「エホバを待ち望む者たちは、地を所有するものとなる」と述べています。ところで、8節で「怒りをやめ、激怒を捨てよ」と語りかけられている人は、ダビデ時代の人でしょうか。それとも地上楽園で復活してきた人々が念頭に置かれているのでしょうか。もし前者であれば、9節で語られている人も、ダビデ時代の人ではないでしょうか。すると、ダビデ時代に、エホバを待ち望んだ人は「地を所有する」ことになるのでしょうか。ものみの塔ではそのようなことは、教えないと思うのですが。
3.29節は、「義なる者が永久に地を所有する」と述べています。25-26節はこの「義なる者」が、ダビデの時代の人々であることを示しています。すると、ダビデ時代に「義なる者」である人が、地上の楽園を相続することになってしまいます。ものみの塔は、ダビデ時代の人は、どれほど正しく生きたとしても、死ねばそれで終わりであって、「地を所有する」ということは無いのではないでしょうか。
4.「ほんのもう少しすれば」という表現(10節)を、地上に楽園が到来する時と解釈するのは正しいでしょうか。
5.「地を所有する」という表現は、回復した楽園に永遠に住むことができると言う意味なのでしょうか。ヘブル語では、契約の祝福に与るという意味がありますが、そのように理解すべきではないでしょうか。
6.箴言2:20-22は、箴言2章の結論です。すると、1-19節に記されている正しいことを行なう人が「地に住み」、そうしない人は「地から断ち滅ぼされる」ということになります。もし、ここに出てくる「地」を将来実現する「地球上の楽園」と解釈すると、この地上で箴言2:1-19に記されている戒めを守るなら、楽園で生きられることになってしまいます。ものみの塔は、そのようなことを教えないと思いますが、いかがでしょうか。例え、この箴言2:1-19を守ったとしても、旧約聖書の人々は、死んでしまえば、それですべてが終わってしまい、「地に住む」などとは教えないのではないでしょうか。

13節

1.詩篇46:9を、将来起こるであろう「地球上の楽園」の姿を描いていると考える根拠は、どこにあるのでしょうか。むしろ、神の絶対的な力、権威、勝利を宣言した表現、と単純に取るべきではないでしょうか。
2.もし、『知識』の書物のように解釈するのであれば、8節の「主は地に荒廃をもたらされた」(新改訳)も楽園の姿と解釈しなければならなくなるのではないでしょうか。   ■9;新世界訳は、この8節を「神が驚くべきことを地に置かれた」と訳していますので、神がすばらしいことを行なったと誤解する人がいるかも知れません。新世界訳は、ヘブライ語シャマーを(8節は複数形のために、シャモートとなっている)、通常「驚きの的」と訳出していますが、この語は「荒廃」(desolation)、あるいは「恐怖」という意味です。この言葉が、すばらしい驚き、感嘆の驚きに対して使われているケースはありません。
3.『知識』は、詩篇72篇が将来の地球上の楽園のことだと解釈しています。はたして、その解釈は正しいのでしょうか。表題は誰について歌ったものとしていますか。また、20節は誰の祈りだと述べていますか。
4.この72篇は、理想の王について述べており、地上の王を越えた未来の王(キリスト)を読み取ろうとする福音的聖書学者もいないわけではありません。しかし、その場合でも、この詩篇の言葉の中に、どのくらい神の国の描写を読み取るかは、きわめて慎重にしています。
5.例えば、1節は「王」と「王の子」について言及しています。「王の子」とはその王の継承者という意味ですが、王をキリストと解釈しますと、王の子は誰になるのでしょうか。このように、すべてをキリストと読んでいくことはできないのです。
6.さらに、この詩篇を地上の楽園として読むなら、神の民の中にも「苦しみ」が存在したり(2節)、苦しんでいる民や貧しい民がいること(4節)になってしまいます。果たしてそう読んでよいのでしょうか。
7.1-8節には、王に対する多くの祈りがささげられています。もし、この王がキリストであるとすれば、このような祈りがささげられなければならないというのは、とてもおかしく見えるのですが、いかがでしょうか。

14節

1.イザヤ65:21-22は、神の国の姿を描写しています。しかし、『知識』の書物のように、「家を建てる」というようなことを、文字どおりに解釈しない方がよいのではないでしょうか。もし、家を建てることを文字どおりに解釈するのであれば、前の20節も文字どおりに解釈しないと一貫性がなくなります。すると、楽園で生きている人も死ぬことになってしまいます。それでよいのでしょうか。
2.さらに、22節の後半は、楽園の神の民の生きる日数は「木の日数のように」なると述べています。現在より長生きしますが、それでも永遠ではなくなってしまいます。それでよいのでしょうか。
65:20の後半において、新世界訳は、「罪人については」というヘブライ語原文にはない句を挿入しています。これは明らかに誤訳です。直訳は「百才に到達しないで死ぬ人は呪われている」です。

15節

1.詩篇72:16が、ハルマゲドン以降の「地上の楽園」に言及していると、どうして言えるのでしょうか。
2.穀物のことを、このように文字どおりに解釈するのであれば、8-15節もまた、地上楽園のの描写と考えるのでしょうか。そうしますと、キリストの敵も存在し(9)、キリスト以外の王も(11)、貧しい者、苦しんでいる者や助けてのない者(12)などもいることになります。14節には、「虐げ」、「暴虐」、「血」などが出てきます。14節の「彼が生きながらえるように」という祈りは、長寿を願う祈りですが、このような祈りをキリストにささげるというのは、不自然だと思うのですが、いかがでしょうか。
3.「健康に良い食物」という表現は、どこから出てくるのでしょうか。「健康に良い」という言葉を入れることによって、詩篇72:16が、この地上の延長上の世界であるとの印象を与えていないでしょうか。聖書が直接言っていないことを、少しずつ加えることによって、聖書のメッセージを曲げてしまう(違った印象を与えてしまう)危険性を感じませんか。
4.『知識』の書物では、詩篇67:6は、「地上楽園」のことに言及していると解釈しています。すると、この節に出てくる「わたしたち」というのは、地上楽園で生きている人々になってしまいます。この詩篇67篇を1節からじっくり読んで、「わたしたち」が、いつの時代に生きている人々なのか、考えてください。私には、自然に読むと、一般的な神の祝福について述べているのであって、地上の楽園について述べているようには思えないのですが、地上の楽園と読まなければならない理由はあるのでしょうか。

16節

1.マインド・コントロールの手法の一つは、聖書に出てこない観念を、聖句をまとわせながら繰り返し使って、その観念を聖書的な真理と錯覚させてしまうことにあります。「楽園の地で永遠に生きる」という文章こそ、研究生にたたき込みたい観念なのですが、ここでも何げなく繰り返して使っています。このような記述の仕方に、マインド・コントロールの手法を読み取れるのですが、あなたはどう思いますか。
2.詩篇37:29において「永久に」と訳されたヘブライ語は「ラアド」です。このヘブライ語は、いつでも文字どおりの「永久」を意味するとは限りません。例えば、詩篇9:19では、「柔和な者たちの望み」(新世界訳は、「いつまでも」と訳し、貧しい者にかけていますが、原文は「柔和な者の望み」にかかります)、詩篇21:6では「王に対する祝福」、詩篇22:26では「賛美する人々の心」、アモス1:11では、「エドムの怒り」に対して使われています。これらの用例から、この句は、「かなりの長い期間」というほどの意味であることが分ります。
3.詩篇37篇が将来の地上楽園に言及していると解釈することは不自然です。それについては、12節のコメントを参照してください。
4.『知識』の書物は、地上楽園で生きる人々の「大きな喜び」を、イザヤ35:1の聖句から説明しようとしています。しかし、イザヤ35:1の「荒野と水のない地域」あるいは「砂漠平原」という表現は、神の恵みから見捨てられたものの代表例としてあげられており、地上楽園で生きる人々の喜びよりはるかに大きな、被造物全体の楽しみ、喜び、栄光を伝えています。なぜでしょうか。それは全被造物の贖い(ローマ8:18-21)が含まれているからです。

17節

1.「楽園での生活が訴えるものであれば」と、ここでもまた、地上楽園を前提として話しを進めます。ある言葉や概念を、聖書から明確に弁証しないで、繰り返し使うことによって、その言葉や概念を既成の事実であるかのような錯覚に陥らせることは、読者を欺く手法であると思いますが、いかがでしょうか。
2.ダニエル2:44が言う「ひとつの王国」とは、どのようなものでし:11-13)、などが述べられています。これらの聖句と、この『知識』が教えている「神に関する知識を取り入れるなら永遠に生きる」との主張とは、一致しているでしょうか。

18節

1.「今でさえ」という表現は、将来の地上楽園に対比される、現在の地上の生活においてさえ、という意味です。聖書が、将来の永遠の命を大切にしていることは言うまでもありませんが、その永遠の命を受けた者は、現在の生活を、きわめて重要なものと受け止めているはずです。聖書は、単に「非常に気がかりな、人生に関する深遠な疑問に対する答えがあります」という程度のものではないと思うのですが、いかがでしょうか。
2.ここでは、ローマ15:13および33節が引用されています。『知識』の著者は、「聖書の導きを受け、神との親しい関係を養うなら」という文章を支持するためにこれらの聖句を引用したのでしょうか。それとも、「神だけが与えることのできる平和」、あるいは「平和を楽しめる」という文章に対してでしょうか。ローマ15章で述べていることは、「平和」という言葉が出てくる以外、この文脈とは関係がありません。普通、ある言葉がたまたま出てくるからといって、その聖句を紹介するようなことはしません:11-13)、などが述べられています。これらの聖句と、この『知識』が教えている「神に関する知識を取り入れるなら永遠に生きる」との主張とは、一致しているでしょうか。
3.17-19節、そして下のコラムにおいて、「知識」の重要性が繰り返されています。正しい信仰には、知的理解を欠かすことはできませんが、「永遠の命に導く」のは「神に関する知識」ではありません。聖書は、イエスに対する信仰が、永遠の命に導くと教えているのではないでしょうか。

19節

1 聖書を、「神についての知識を収めた書」と規定するのは、正しいでしょうか。むしろ、イエスを証詞している書物ではないでしょうか。ヨハネ5:39-40を読んでみてください。


第2章 神についての知識を明らかにする本



1節

1.『知識』の著者は、聖書を「人間に教訓的で導きとなる本」と規定しています。聖書をそのような書物ととらえることは、正しいでしょうか。
2.聖書は、神がご自身を表された書物、神が人間の歴史の中で行なわれた出来事の記録、あるいは、人間に救いの道を指し示す書物、などと規定した方がよいと思うのですが、いかがでしょうか。
3.ものみの塔の出版物は、「道理にかなっています」という表現をよく使います。道理にかなっているというのは、人間の通常の理性的判断をした場合、異論はない、ということです。すると、前世紀から今世紀にかけて繁栄した自由主義神学と同じ方法論になります。キリスト教は、聖書が教えていることであれば、不合理であっても信ずる、という立場を取るのですが、エホバの証人は、理性的に納得できないことは、信じない、という立場を取ります。どちらが聖書と、神に対し、正しい姿勢だと思いますか。
4.「人間には導きが必要だ」という場合、どのような内容を考えて言っているのでしょうか。神や救いに関しては、超自然的な導きが必要です。しかし、科学や学問で究明すべきことは、人間の責任で解明していくことを要求されており、超自然的な導きを必要とはしません。

2節

1.エレミヤは、エルサレム崩壊前後に活躍した預言者です。ものみの塔は、そのエルサレム陥落を、紀元前607年と考えているのですから、「今から2,500年前」ではなく、「今から2,600年前」とした方がよいのではないでしょうか。
2.聖書は、エレミヤを、「預言者」と呼んでいますが、「歴史家」と呼んでいる箇所はあるでしょうか。あったら教えてください。もしなければ、どうしてここで、「歴史家」と呼んだのでしょうか。
3.『知識』の著者は、人間が自分自身を治めるのに失敗した、ということを保証する聖句として、エレミヤ10:23を引用しています。しかし、エレミヤの言葉は、預言者としての経験から、人生は自分が思うとおりにおくれるものではなく、神のみ手に握られていることを強調しているのです。この箇所のように、聖書が必要だということを述べるための伏せんとして引用するのは適切だと思えないのですが、いかがでしょうか。
4.「この言葉の真実さ」とは、エレミヤが語った言葉を指し、人間が人間を支配できない状況を、『知識』の著者は考えています。しかし、エレミヤの言葉の真意は、人生は神のみ手の中にある、ということですと、この文章は意味が通じなくなりますが、いかがでしょうか。
5.ウイリアム・H・マクニールという歴史家は、どのような方なのでしょうか。また、この文章の中で、「大胆な試み」と言われていることは、具体的に何を指しているのでしょうか。
6.マクニールの歴史観は、大変悲観的なものです。そのように悲観的に見る人もいるでしょうが、歴史を発展的にとらえ、楽観的な歴史認識をもつ人々もたくさんいます。エホバの証人は、どうして悲観的な見解のみを紹介するのでしょうか。

3節

1.「賢明な指導」とは何に対する指導を指しているのでしょうか。個人の信仰の問題に対してであれば、「聖書はその必要のすべてを満たしてくれます」と言って差し支えないでしょう。しかし、前節で取り上げられたような社会の問題に関してであれば、そこまでは言えないと思うのですが、いかがでしょうか。
2.聖書を、「貴重な遺産を受け継ぐために行なうべき事柄の大要を述べた法律上の文書」になぞらえています。「法律上の文書」という表現を使うことによって、専門家の解説者が必要であるかのような印象を与えています(次の質問を参照してください)。私は、そのような解説者は必要ないと思いますので、遺産相続人のために用意された「遺書」、あるいは、「約束の文書」に例えた方がよかったと思うのですが、いかがでしょうか。
3.「経験のある人の援助を求めるでしょう」と文章は、自分一人で聖書を読んだのでは理解できないことを前提にしています。聖書はそのようなものでしょうか。パウロの手紙を受け取った一世紀のクリスチャンたちは、誰か解釈者を必要としたでしょうか。ペテロはパウロの手紙には難解なところがあることに言及していますが、だからと言って、誰か援助者を必要とする、と述べているでしょうか(■ペテロ3:15-16)。
4.使徒17:11は、ベレヤの人々が、パウロの語ったメッセージを聖書からチェックしたことを報じています。この際、彼らは誰か援助者を介して、調べたでしょうか。それとも自分たちの目と耳とで判断したでしょうか。
5.私たちが、この『知識』の書物が教えていることや、『ものみの塔』誌や『目ざめよ!』誌が教えていることのひとつひとつを取り上げ、聖書からチェックすることは正しいでしょうか。ものみの塔聖書冊子協会は、そのようにすることを勧め励ましていますか。それとも、そうされることを恐れていますか。

4節

1.聖書を「神について明らかにする本」と規定しています。ヨハネ5:39によれば、イエスは、聖書をどのような書物だと教えたでしょうか。■テモテ3:15によれば、パウロは、聖書が書かれた目的は何だと教えているでしょうか。
2.「学識のある多くの人々」とは、どのような人たちを指しているでしょうか。組織が出版した『聖書−人間の言葉か神の言葉か』には、聖書を信じる著名な学者たちが、たくさん紹介されています。例えば、F.F.ブルース、ラルフ・マーチン、ケネス・カンツァー、グレアソン・アーチャー、レイモンド・ブラウンなどです。これらの学者は皆、三位一体を信じる福音的な学者たちであることを、どう思いますか。

5節

1.ものみの塔は、人間創造の年代を割り出すために、聖書の年代を逆算して、4026年という年代を導出しましたが、この計算方法には問題はないでしょうか。
2.ものみの塔の計算方法が正しいとした場合、「人類史の3,500年」は、クロス王の解放の年代になります。ここでは、マラキ書が書かれた年代が問題となっているのですから、「3,600年」とした方がよいのではないでしょうか。
3.「イスラエル人が西暦前16世紀に一国民として出現した」という文章は、イスラエルの民の出エジプトとカナンの地の侵入を指しています。今日の考古学は、これらの出来事が13世紀初頭に起こったことを明らかにしています。エホバの証人は、このような考古学的成果をどのように評価しますか。
4.聖書に出てくる年代を、単純に逆算して、さまざまの出来事の年代を割り出すだけでなく、さまざまの考古学的資料をも突き合わせて、聖書の年代を決定した方がよいと思いますが、いかがでしょうか。

6節

1.■テモテ3:16に出てくる「聖書全体」という表現を、この『知識』では、旧約聖書と新約聖書の両方を含めた聖書全体と理解しています。しかし、ここでパウロが言及している聖書とは、前節によれば、テモテが「幼いときから親しんできた聖書」のことであり、旧約聖書を指しています。実際、新約聖書は未だ存在しませんでした。「聖書全体」と訳されているギリシャ語は、直訳すると、「すべての聖書」です。それは、旧約聖書39巻全部、という意味であって、『知識』が述べるように、新約聖書をも含めたすべての聖書と読み込むのは、文脈を無視していると思いますが、いかがでしょうか。
2.「聖書の二つの部分は互いに補足し合い、見事に調和しており」という文章は、間違いではありません。しかし、ものみの塔は、両者の本質的相違を区別せず、平面的・画一的に、同一価値を帰する傾向があります。もし、この文章を、ものみの塔のニュアンスで理解するのであれば、正しいとは言えません。新約聖書は、旧約聖書に比べると、非常に多くの斬新的啓示(後になってより明らかに神のみ心が示されること)が含まれているからです。
3.『知識』の著者が主張する「全体を貫く一つの主題」とは、次節から、主権論争を指していることは明らかです。しかし、それがほんとうに「聖書全体のテーマ」だと言えるでしょうか。

7節

1.聖書全体を貫くテーマが、「人間を支配する神の権利は正当なものであることが立証され、神の愛ある目的が神の王国によって実現する」ということである(エホバの証人は、これを「主権論争」と呼んでいる)と、どの聖句によって主張できるでしょうか。
2.創造者なる神が被造物である人間を支配することが、正当な権利であることは当然です。それに対して誰が疑っているのでしょうか。誰に証明する必要があったのでしょうか。どのようにして証明したのでしょうか。
3.「神の王国によって実現する」という主張の、「神の王国」の中味は何でしょうか。キリストが、144,000人と共に地球上の大群衆を治めるということでしょうか。それとも、その王国が、エホバ神に返されることを指しているのでしょうか。
4.もし旧約聖書と新約聖書を貫く主題を一つだけ上げるとしたら、「神が人類と結ばれた契約」あるいは、「神が人類の罪を赦すためになされた贖いのみ業」ということになるのではないでしょうか。あるいは、「神は王として、人類を支配している」と主張する人もいるでしょう。あなたは聖書全体を読んでみて、どれが一番ふさわしいと考えますか。

8節

1.「聖書は神の目的のあらましを述べている」と説いていますが、そのことを支持する聖句はどこにあるでしょうか。「神の性格を明らかにしている」聖句の方は、上げているのですから、そちらも上げるべきだと思いますが、いかがでしょうか。
2.箴言27:11の語り手は、前の10節の「父の友」という表現から、神ではなく、人間の父のことを言っているのではないでしょうか。もしそうだとすれば、ここに引用したのは間違いということになりますが、そう考えてよいでしょうか。
3.この箇所は、聖書が主張していないことを聖書が主張しているかのような印象を与えるため、工夫がこらされています。まず、神が感情をもっているお方であることを、聖句によって証明します。次に、人間がちりに帰ることを聖句によって説明します。そしてこの二つを結びつけて、普通では思いつきもしない一つの結論を導出します。つまり、神は情け深い性質をおもちだから、人間を塵に帰してそれでおしまいにしてしまう、などということは考えられない、むしろ、地球上に永遠に住まわせるはずだ、となるのです。このような論理の展開の仕方を、どう思われますか。

9節

1.神の基準は、律法あるいは教訓となる実例によって示されている、と『知識』の著者は述べます。しかし、詩篇や箴言などは、人間の体験や知恵を通して神の基準を示していますし、また、預言書などは、神からの直接の指示を取り次いでいます。『知識』は、どうしてそのようなことには触れなかったのでしょうか。
2.『知識』は、実例から原則が教えられ、その原則から基準が示される、と教えています。しかし、聖書はむしろ反対のことを教えているように思います。つまり、神は最初に原則をお示しになり、イスラエルの歴史はその原則どおりに神によって扱われている、と。あなたはどちらが正しい理解だと思いますか。
3.■コリント10:6より、「古代のイスラエル人の歴史の中で起きた特定の出来事を、わたしたちの益のために記録させておられました」と理解することは正しいと言えましょう。しかし、イスラエルの歴史が記録された第一の目的は、「従う者には祝福が、従わない者には呪いが与えられる」という原則(申命記28-29章)が、その通りだったことを確認させることにあったのではないでしょうか。
4.「その出来事の登場人物になり切ることができます」とまで言うのは、言いすぎでしょう。「登場人物の状況や、気持ちをある程度理解できます」ぐらいの表現にしておいた方がよいのではないでしょうか。
5.「しかし、極めて重要な次の疑問の答えが必要です」という文章の中の「しかし」という句は、その直前で述べてきたことを否定するのが普通です。ところが、内容的には、それから述べていることと、前の文章で述べていることとは、関係はありません。ですから、「しかし」という接続詞は、ふさわしくありません。ものみの塔の文章が分りにくいのは、このような点で論理的なないことが多いからではないでしょうか。
6.もっとも、聖書の記録が霊感によって書かれたことを確信するなら、聖書の記録を模範や警告として受け止めやすくすることは事実です。しかし、その場合でも、必然的なことではないことを踏まえて表現すべきでしょう。

10節

1.神の霊感を受けていれば、「その助言は常に最新のものであるはずです」ということができるでしょうか。霊感を受けていれば、権威がある、間違いがない、などと言えます。しかし、最新のものである、とは言えません。例えば、旧約聖書の言葉は、すべて霊感を受けていますが、そこから得られる助言の多くは、当時の時代背景の中での啓示として読むべきであって、「常に最新である」などと思い込んで、読むなら間違ってしまいます。
2.■テモテ3:16-17によれば、「神の人が十分な能力を備える」のに、あるいは「全く整えられた者となるために」、何が必要だと言っているでしょうか。この聖句は、聖書だけでは不十分だと、言っているでしょうか。
3.エホバの証人は、聖書だけを研究しようとはしません。いつも、聖書を解説してくれるグループや書籍を、聖書と同等、否、聖書以上の位置に置いているように見えるのですが、いかがでしょうか。もし、あなたは、聖書の教えと組織の教えとが矛盾した場合、あなたは聖書を取りますか。

11節

1.『知識』は、「その原則は最初に書き記された当時と全く同様、今日でもあてはまることが明らかになります」と述べています。確かに、聖書の原則の中には、今日にも当てはまる原則もあります。しかし、今は廃棄されるべき原則もあります。旧約聖書の食物の規定、祭の規定、市民生活の規定などです。当てはまる原則だけ取り上げ、このように断定的に表現するのは不正確だ、とのそしりを免れないと思います。あなたはどのように思いますか。
2.英国とインドは、ガンジーが言ったとおり、「キリストが述べた教えについて意見の一致を」見ることができたのでしょうか。それとも一致を見ることができなかったのでしょうか。一致を見ることができなかったとすれば、それぞれは、キリストが教えた教えを、どのように見たのでしょうか。どこで食い違ってしまったのでしょうか。
3.山上の垂訓は、いつの時代に生きる人であれ、耳を傾けるべきメッセージです。そこに示された原則を実践するなら、人間の間に生じている多くの問題を解決することができるでしょう。ではなぜ、現実には、キリストの教えに基づいて、この世の中の多くの問題が解決していないのでしょうか。人間にとっての根本的な問題はどこにあるのでしょうか。
4.主権論争の立場に立って歴史を理解するエホバの証人は、「全世界の問題をも解決することになるでしょう」というガンジーの言葉を、支持することができるのでしょうか。
5.山上の垂訓から、問題解決のための基本的精神を導出することはできます。しかし、具体的に問題を解決するのには、そのような精神的なあり方だけでは不十分です。例えば、日米間に見られる貿易摩擦の問題を解決するには、山上の垂訓のどの原則を、どのように用いればよいのでしょうか。

12節

1.「イエスは真の幸福を見いだす方法を示されました」と述べています。イエスが山上の垂訓の中で教えた「幸福を見いだす方法」とはどのようなものでしょうか。それは現在のエホバの証人が教えている「幸福を見いだす方法」と同じでしょうか。
2 「紛争を解決する仕方」についてはいかがでしょうか。個人的な争い、エホバの証人と他の宗教をもっている人との争い、国際間に見られる戦争に対して、エホバの証人がイエスの教えとは違う態度をとっていることはないでしょうか。
3.「祈り方」に対してはいかがでしょう。新世界訳においてさえ、この山上の垂訓の中では、エホバ神に祈ることを教えてはいません。イエスの教えとものみの塔の教えとは、ずいぶん違っていると思いませんか。
4.「物質上の必要物に対する最も賢明な態度」についても、考えてください。マタイ6:20は、自分の宝をどこに積むよう、教えていますか。エホバの証人は、「天に宝を蓄え」ているのでしょうか。

13節

1.「聖書は山上の垂訓や他の記録の至る所で、わたしたちが自分の状況を改善するために行なうべきことや避けるべきことをはっきり教えています」という文章は、聖書が道徳の教科書であるかのような誤解を与えてしまうのではないでしょうか。山上の垂訓をはじめ、聖書にあるさまざまな戒めを道徳の教科書のように読むことは正しくないと思うのですが。
2.「聖書が述べる諭しは、私がこれまで大学で読んだり研究したりしたどんなことよりもはるかにすぐれていることが分かった」という表現は、大学教育の無価値性を語っているように思えます。しかし、大学で学ぶことと、聖書から学ぶべきこととを、この人の言うように、平面的に比較することは愚かなことではないでしょうか。両者は、問題にする領域が違うのです。
3.「聖書は実際的であると共に現代的である」と述べていますが、「現代的」なのではなく、「現代にも通じる真理を明らかにしている」と言うべきではないでしょうか。
4.「聖書は信頼できるか」という小見出しが、10-13節のタイトルとしてつけられています。しかし、ここで述べられていることは、山上の垂訓(その他の戒めも)が現代にも通じる、ということにすぎません。このような内容で、あなたは「聖書は信頼できるか」という問いに答えたことになると思いますか。
5.「聖書が信頼できる」ということを説得するのに、あなたでしたら、他にどんな証拠をあげることができますか。

14節

1.「聖書は...科学的にも正確な本です」。こういう表現には、注意深さが必要だと思うのですが、いかがでしょうか。例えば、聖書の執筆者は、自分が見たとおりの表現(現象学的表現)を用いています(伝道者の書1:5の、「日は上り、日は沈み」と表現参照)。従って、聖書は科学的に正確な本だ、と断定する場合には、このような現象学的表現を排除するものではない、と条件付きで言わなければならないのです。聖書を厳密に解釈する人々に対しても配慮する必要があります。
2.「地の天蓋」というヘブライ語、フーグ・ハアレッツの直訳は、「地の円」です。このフーグという言葉の動詞フーグは、ヨブ26:10において、地平線上に太陽が上っては沈む場合の「半円を描く」という意味で使われています。名詞形は、ヨブ22:14で「天の回り」、箴言8:27は「深淵の面に円を描く」において出てきます。これらの用例は、必ずしも、地球が球体であることを証明するものではありません。

15節

1.■列14:25は、エジプトの王シシャクと、イザヤ36:1は、アッシリヤの王セナケリブと、結びつけて、イスラエルの歴史を叙述しています。これらが歴史的記録である限り、それは当然のことであって、このような記述の仕方をしているから「正確で信頼できる」と主張するのは、論理に飛躍があると思うのですが、いかがでしょうか。
2.ルカ3:1-2は、ヨハネの出来事と、皇帝テベリオの出来事とを結びつけて記述しています。このことを取り上げて、「正確で信頼できる」という主張の根拠にするのは、論理に飛躍があると思うのですが、いかがでしょうか。

16節

1.成就した預言が聖書の霊感の証拠である、とすれば、統治体がした預言が成就しなかった場合、統治体は霊感を受けていないことを証明している、と言えると思いますが、そう考えてよいでしょうか。

17節

1.イザヤ44:27は、ユーフラテス川の源が、枯れることを預言しています。しかし、「人造湖に流れ込ませて川を干上がらせた」とまで言えるのは、どうしてでしょうか。
2.エレミヤ50:38も、一般的な日照りの預言です。どうして「人造湖に流れ込ませて川を干上がらせた」とまで言えるのでしょうか。
3.イザヤ45:1の聖句は、「不用意なことに、バビロンの川の城門の警備が行なわれていないこと」を、述べているのでしょうか。単に、敵の城門が開かれる(落城して、敗北したことを意味する)ことを言っているにすぎないのではないでしょうか。

18節

特に異論なし。

19節

特に異論なし。

20節

1.「地上の楽園」を聖書が約束している事柄と断定していますが、ほんとうにそうでしょうか。
2.「聖書こそ、永遠の命に導く、神についての知識を明らかにする本」と主張していますが、ヨハネ5:39-40はそのように言っているでしょうか。あるいは、■テモテ3:15は、この書物のような言い方をしているでしょうか。

21節

1.「神についての知識を見いだすために聖書を注意深く調べてみてください」と述べていますが、使徒17:11のベレヤの人々は、どのようなことを中心に聖書を調べたのでしょうか。使徒17:2-3を合わせて読みながら、考えてください。
2.神がまず求めていることは、「考え方や行動の調整をすること」でしょうか。新約聖書がまず求めていることは、イエスを信じること、受け入れることではないでしょうか。

22節

1.「聖書の研究に反対する」と述べていますが、家族が反対する場合は、そのほとんどが「ものみの塔の信仰内容と研究方法」に対してです。彼らは、聖書を学ぶことに反対しているのではなく、その信仰のカルト性に対してなのです。この区別をすべきだと思いますが、いかがでしょうか。
2.イエスが否認する、と宣言されたのは、イエスとの結びつきを告白しない人のことです。すると、『知識』の著者は、聖書の研究をしたなら、イエスとの結びつきが起こる、という前提に立っていることになります。それでは、永遠の命を受けるには、神についての知識を取り入れることが必要だ、というこれまでの主張と違ってしまいます。あなたはどう思いますか。
3.もし誰かが、「あなたがカルト教団に関係している」と言った場合、その人が定義する「カルト教団」とは、どのようなものでしょうか。
4.ここでは、ものみの塔がカルト教団ではないという前提に立っていますが、ものみの塔は、カルト教団についてどのような定義をしているのでしょうか。
5.この『知識』の書物を学ぶことは、「実際には、あなたは神とその真理についての正確な知識を得ようと努力しているだけ」でしょうか。むしろ、ものみの塔の聖書解釈に基づく、ものみの塔の教理を学ぼうとしているのではないでしょうか。
6.■テモテ2:3-4で「真理」と言われている内容はどのようなものでしょうか。続く5-7節を読んで考えてくださいませんか。
7.「道理をわきまえた話し方」というのは、どのような話し方でしょうか。多くのエホバの証人は、反対する人をサタン呼ばわりし、耳をかしません。それは道理をわきまえた話し方と言えるでしょうか。

23節

1.「神からの知識に依存しています」という表現は、み言葉と『知識』の書物が教えようとしていることとを混同しているのではないでしょうか。
2.「聖書を毎日読む」と言っていますが、聖書だけでよいのでしょうか。聖書を自分で解釈して読んでもよいでしょうか。
3.詩篇19:11は、律法を守ることが祝福をもたらす、と言っています。しかし、この『知識』は、聖書を読むなら、ということに適用しています。全くの見当違いとは言えませんが、意味を少しづつずらして適用していくことは、結局、聖書の意味を曖昧にしてしまうことに通じるのではないでしょうか。



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