AUFTAKT

作・山本 寛

<1st.movement:カタロニアの栄光



Tempo Di Mercia  

 (チューニング、B(変ロ)の音) 
 
 じゃあいい?始めるよ。もう時間だし。・・・今日こんだけ?しゃあないか、二高祭二週間前やもんね。・・・タッキーは?彼役員じゃないんでしょ?・・・しんどいから帰った?あ、そう(苦笑)・・・じゃ今日低音なしか・・・ノリコは後から来るんやんね?・・・ま、いいや。ほんじゃマーチから。・・・いくよーそこおしゃべり止めて。止めてって!・・・今日からそろそろホンマのテンポにするからね。・・・コチ、コチ、コチ、コチ、これくらい。ムチャ早い?うそーCDこれくらいやって。・・・アカン、負けたれへん。だって先輩来たら多分このくらいにするって。・・・じゃいくよー。最初っからね。・・・コチ、コチ、コチ、コチ、イチ、ニー、サン、ハイ!・・・コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、ハイ止めてー。止めてーっ。ベードラ、ちょっと遅れてるよー。合わせて。今日タッキーいないから四分刻んでんのあんただけなんやわ。それしっかりせんと全体のテンポがキープ出来ないからね。・・・ホルンの裏打ちもでけへんし。じゃちょっとベードラとホルン、後そうだスネアも、一回やってみて。・・・シ ンバルはいい。・・・テナサク途中から裏打ちなん?じゃあ入って。・・・いくよー、Aから。コチ、コチ、コチ、コチ、イチ、ニー、サン、ハイ!・・・コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、(笑)ちょっと、テンポ安定しないわ、ベードラ。メトロノーム使ってやった?やってないでしょ?・・・うん、そやね、あとでパー練で合わせといて。必ずやっといてね、大事やから。・・・じゃ、また最初から。コチ、コチ、コチ、コチ、イチ、ニー、サン、ハイ!・・・コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、・・・あれ、ここ誰も吹かないの?・・・、あ、ここノリコのソロか。あ、ノリコ来た来た、待ってたよーノリコ!早く準備して。・・・うん、まだマーチ。・・・マリちゃんこんにちは。あ、アップはちゃんとしといた方がええよ。・・・じゃ、Dから。コチ、コチ、コチ、コチ、イチ、ニー、サン、ハイ!・・・コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コ チ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、コチ、・・・どう?何とか通った?・・・楽譜追われへんって、そりゃアカンわ。もう憶えてしまわんと。・・・だってあと二週間よ?この他にポップスも課題曲もやらなあかんのに。・・・早くこのテンポに慣れてねー。ほんじゃ、もう一回最初っから。コチ、コチ、コチ、コチ、イチ、ニー、サン、ハイ!
 
 


 現代における吹奏楽の立場は極めて奇妙である。常々そう考える。
 吹奏楽の知名度は余り高くない、寧ろ低い、というのは厳然たる現実である。かりに、一般人に「知ってる吹奏楽曲を一つ挙げて下さい」と訊ねても、彼等は答える事が可能であろうか。希望的な予測は難しかろう。これが、管弦楽・オーケストラ音楽なら挙がる。ポップス、バンド・ロック系なら尚更挙がる。ジャズは苦しいか?それでも吹奏楽よりはましな気がする。これはただの偏見かも知れない。でも、大概の人はこの話に首肯する。
 マーチなら出るじゃないか、そういう意見も聞こえてくる。さしずめ「星条旗よ永遠なれ」か「軍艦マーチ」か。しかし、無下に賛同するには、いや、これを「吹奏楽曲」とする事自体に、何か突っかかるものが、後ろめたいものが生じて来る。吹奏楽に深く関わった方なら解って戴けよう。この事については、後述する。 
 ところで、マス・メディアの中で吹奏楽について騒がれる機会はまるでない。全くない。クラシックなど指揮者・小澤征爾がウィーン国立歌劇場のポディアムを射止めたという事件がTVのワイドショーでも大騒ぎとなったのに、他方吹奏楽はコンサートすら流してはくれない。殊某公共放送の冷遇振りは見事なものである。サックスの須川展也もタバコのCMが消えてからは陰が薄くなった。某ニュース番組のオープニング・テーマも替わって久しい。

 
  ところで、先の「マーチ」の話である。
 「ブラスバンド」という別名も、吹奏楽にはある。これがまた厄介事となる。
 ブラスバンドの起源は、マーチングバンドであり、即ち軍楽隊である。大きな音の鳴るラッパと、行進に欠かせない太鼓で編成され、音が小さいが「歌う」楽器である弦楽器は排除された。こうして、ややもすれば喧しい音でズンチャカズンチャカ鳴らすだけの表現、ブラスバンドが成立する。戦意高揚の為の「鳴り物」である。
 だがやがてそれを覆したのが、「パリ・ギャルド」ことギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団である。フランス革命と共に誕生したこの楽団は、後年マーチングバンドとしての機能を拒否し、 コンサートホールの舞台へと歩を進める。その際、彼等は「鳴り物」としての自らの編成に改変のメスを入れる。「歌う」楽器としての弦楽器の代わりに、クラリネットやサキソフォン等の木管楽器を導入したのだ。かくて出来上がったのが、「ブラス(=金管楽器)バンド」ならぬ「ウインド・オーケストラ」であり、「マーチング・バンド」ならぬ「コンサート・バンド」なのである。
 しかしながら、この歴史的なプロセスの内に、果たして彼等は弦楽器主導による「管弦楽」との表現形式上の差異をどれほど自覚し、命題視していたのであろうか。事実、彼等が演奏したのは専ら既成の管弦楽曲のアレンジであったのだ。
 やがて吹奏楽は海を渡り、ジャズの国アメリカへと辿り着く。根を同じ軍楽隊に持ちつつもその独自性を巧みに構築し発展して行ったジャズ・ビッグバンドの影響を受けながら展開して行く中で、現代吹奏楽のパイオニア、フレデリック=フェネルがイーストマン・ウィンド・アンサンブルを結成して本格的なコンサートを開始したのは1952年。つまり、かの大国ですら、吹奏楽が「音楽」の仲間入りを果たして未だ半世紀と経たないのである。
 一方、極東の島国日本へ辿り着いたのは1869(明治2)年。英国軍楽隊のフェントンが、横浜・本牧の妙香寺において薩摩藩士32名に軍楽伝習を行ったのを機に、日本の吹奏楽は始まった。そして他国同様、マーチ専門のブラスバンドからコンサート中心のウィンド・オーケストラへ。
 教育界へと目を移せば、組織・集団の構造と秩序を学ぶひとつの場であり、文化・情操教育のひとつの場でもあり、しかも弦楽器よりも比較的安価で手に入るという点からか、吹奏楽部の成立は一種の必然となる。やがて1939(昭和14)年全日本吹奏楽連盟設立、年に一度の「吹奏楽コンクール」と共に、吹奏楽活動の基盤は若人達の透き通った血の内で固められて行くのである。しかしそれは同時に、「青春」という名のほんの一時期の幻想に、ひとつの歴とした芸術表現が絡め取られて行くという、また新たな皮肉の語り継ぎでもあったのだ。

 と、以上の「吹奏楽史」だが、ここで御断りしておきたい事がある。この叙述は、総て筆者の乏しい知識の中での推論に拠るものだという事である。これは何も筆者のものぐさから生じたものではない、と敢えて言う。この事実で示すべきは、この「吹奏楽史」なるものを纏めたり、著作として公表したりという試みが、古今東西皆無に等しいという、重ねて悲劇的なひとつの史実なのである。数多ある「音楽史」の中でも殆ど触れられる事のない、恰も歴史の間隙に葬り去られようとしているかのような、その哀れさ。この事からも痛感出来はしまいだろうか。それは先の、「ブラスバンド」という言葉の使用の曖昧模糊さと相通ずるのは最早言うまでもない。

 兎に角、こうして吹奏楽という音響空間は、管弦楽との差異を強調する事も、そこから自らの芸術学的アイデンティティを確立する事も出来ぬまま、唯気まぐれな歴史の悪戯心によって、奇妙な発展を繰り広げる。またそれに加え、ジャズ・ビッグバンド音楽への微妙な接近も、吹奏楽の雑食性を更に強調してしまう。挙句に近年の、学生達の欲望としか考えられないポップスへの傾斜…。
 勿論、その短い歴史の中でも、芸術学的アイデンティティを追求し確立すべくオリジナルの楽曲を書き、演奏する者は少なからずいた。しかし、その成果が決定的であったかどうかは、先に述べた、
「知ってる吹奏楽曲を一つ挙げて下さい」
という問いに総て集約されると、考えて良かろう。
 
 延べ500万人が経験者とも言われる、吹奏楽大国日本。しかしその数とは対照的に、社会に出た後も吹奏楽を心の拠り所として生活するものは、余りに少ない。



1.
 
 新緑生い茂る樹々から零れ出る七月の陽光がプリズムの鮮やかな七色となって漆黒のアスファルトに幾つもの光の泉を作る。そこに、両踵がすっかりざらざらと擦減った泥混じりの革靴が飛び込み、その都度光の滴が四方に跳ね、エネルギーが満ち密度の濃くなった大気に溶け込む。
 薄手とはいえ見るからに季節外れな紺のブレザーに淡いブラウンジーンズの出で立ちの頼場駈呂は、勾配こそ穏やかだが長く入り組み、行く者を一瞬は怯ませ萎えさせる並木道、通称「ケヤキ坂」を、決して軽やかとは言えない足取りでとことこ進んで行った。
 大阪は北摂丘陵の一角を拓いて創立してからもう三十五年になろうとする関西学芸大学附属第二高等学校、地元や進学塾は「関附」と略すのに対し学校内では「二高」と呼ぶ、関西名うての英才の学府を頼場駈呂は平成二年四月入学、平成五年三月卒業しそして一浪、予備校生活を経て平成六年の今年何とか京都大学へ滑り込み、キャンパス生活や下宿での一人暮らしに慣れぬまま今一度母校の門を潜った。
 まだ門からそう来た訳でもないのに、見晴るかすケヤキ坂の中腹にある小さな林から、その長い距離を満たしている密度の濃い空気伝いに揺らめくように、音頭のピッチが安定せずずり上がってしまいしかもやけに息洩れの音が混じっているクラリネットのロングトーンが届く。それを聴くや、頼場の足は少しルバートがかった動揺を見せた。
 それでも頼場の足は音の方へ彼を誘う。彼の意思とは無縁であるかのようにア・テンポの正確さを直ぐに取り戻した訳が、頼場には解らなかった。ただ、このまま引き返したいという想いではない、だが自分の身体の何処か一部分が、鳴り続けて止まないクラリネットの音に拒絶反応を示し始めているのを、頼場は認めない訳には行かなかった。 
 予備校時代にすっかり板に付いてしまった、抽象思考の世界への逃避は既に彼の意識平面で空回りしていた。どうして自分はここにいるんだ。どうして必修である筈の4限のドイツ語をすっぽかしてまで、京都市バスと阪急電車を乗り継いでここまで来たんだ。この運命の偶然は、果たして自分の灰色の未来にどのような必然をもたらすというのか。またもたらさないとするならば、その無意味さを今の自分のキャパシティ内でどのように咀嚼し、了解にまで漕ぎ着けようというのか・・・。
 クラリネットのマウスピースを咥えたまま、こちらをじっと見る少女が立っている。
 「!」
 頼場は全身を痙攣させるように立ち止まった。
 蛇に睨まれた蛙だった。
 下こそ制服の濃紺の襞スカートだが上はTシャツ姿の、ポニーテールに白いリボンを巻いたその少女は、少しの間頼場を無表情の上目遣いで見つめていたが、直ぐに右手に持っていたクラリネットを重そうに胸まで上げ、口のマウスピースを左手で取り本体に差し込んだ。リードの位置を少し確認した後、頼場を一瞥する事もなく小林の奥へそそくさと向かった。
 その先には、樹々の中にぽつんと取り残されたように建ち、そのコンクリートの壁には蔦がびっしりと張り巡らされた、まるで長きに亘って文明の薫を味わった事のない南アジアの遺跡のような建造物が聳えていた。
 「一年生かな・・・」
 頼場はその少女の後を追うように、コンクリートの建造物に近づいた。
 少女はそんな彼に気付くことなく、その建造物の陰鬱なグレーの壁には似つかわしくない木製の真紅の扉を開け、中へ入った。
 ガタ、と乱暴な音をさせ、建付けの悪さを証明するかのように扉が閉まった。
 頼場もその扉の前に立った。
 扉をじっと睨んだ。
 その真紅に興奮した闘牛のように、彼の表情がやにわに険しくなった。
 暫くの間。
 頼場は観念したようにふうっ、と軽く溜息を突くと、もう一度顔の筋肉を適度に固め、ドアノブを掴んだ。
 真紅の扉の向こうでは、モノラルにどもったマーチのリズムが続いていた。

2.

 意を決してドアノブをグッと引く。
 引っかかる。
 頼場はいつもこの扉を開けるのに難儀する。男手で苦労する程固くはないが、今は合奏中である。出来るだけ音を立てずドアを開けるのが慣習となったマナーである。
 右手で心もとなげに二、三度引いてみる。扉自体が薄い分ノブは手前に来るが、閉じ目は頑として口を割らない。
 何だかイライラして来た。
 頼場は八つ当たりするかのように、討ち入りの如き勢いで扉を引いた。
 ガツッ。
 薄い真紅の扉はノブを中心に少し膨らみ、それに堪えかねた閉じ目が弾かれるように開いた。
 大層な音が扉の向こうに木霊した。薄暗いコンクリの空間。久しぶりに見る陰鬱な世界。
 そこで鳴っていた筈のマーチはいまは止んでいた。ちょうど合奏中断中の出来事。
 扉の外からでもはっきりと判る、頼場の呆然と立ち尽くす全身を不審そうに舐め回す演奏者達の視線。
 ・・・また、間が悪い・・・。
 ガニ股でノブを持ったまま仁王立ちする頼場の惨めな雄志。
 無性に長く思えたその無音を破ったのが、扉向こうの左手奥から現れた、スネアドラムのスティック一本を両手に持ったショートボブの少女。
 「ア、カロセンパーイ!!」
 「黄色」の修辞が相応しい甲高い声と共に、彼女は小走りで駆け寄った。
 その小動物のような人懐っこい笑顔とその裏にある彼女の計算を即座に感じ取れない程、頼場は女子高生なる特異な生命体に不慣れではなかった。だが、だからといって、可憐な乙女の第三種接近遭遇にただたじろぐだけという今、ここでのありのままの現実に対し、それが何の弁明になる訳でもなかった。
 彼女も下は制服スカートだが、上はTシャツだ。さっき会った少女と同じデザイン、白地。
 「来てくれたんですね。良かったァ。今日の合奏どうしょっかって部長とも話してたんですよォ」
 純白のTシャツの前面右側に真っ赤な「NIKO WIND」の文字。文字列は一直線にはならず、少し外へ逸れるように湾曲する。
 「いま丁度二高祭でやる曲やってたんです。コンクールのは後回しにしようって」
 Tシャツの左側には部の誰かがデザインしたらしきムーミンかバーバパパよろしく、ずんぐりむっくりした水色のキャラクター。そのずんぐりむっくりがまた良く際立つ。
 尺八のようなクラリネットを持っていた。
 そのキャラと眼が合った。
 イカン、この癖が出る度自己嫌悪で気不味くなる。
 「早速指揮してくれるんでしょォ、先輩?」
 「イヤ、アノ、あのね、まだ指揮するって決めたというのでも、ねぇ・・・」
 「エー?昨日の電話で約束したやないですか。あれ嘘やったんですか?」
 シャンプーだか香水だか知らないが、あの女子高生特有の危険な香りがそよ風と共に伝わって来る。
 またムーミンと眼が合った。
 「イヤだって、あのさ、もう二年以上音楽から離れてるし、勿論指揮もしてないから、どうなん
  かなぁ、って」
 奥からもう一人来た。色黒で頭をジェルでキチッと固めた、テナーサックスをベルトでぶら下げた、部長だ。
 「あ、カロ先輩、何してるんすか。早く合奏して下さいよ」
 愛想笑いで眼は笑わず。こういうのに弱い。
 「エ、イヤ、でもねぇ・・・」
 ショートボブの少女が目鼻立ちの整った美麗な顔を、思い詰めた眼差しで頼場に近づける。
 「私達はみんなカロ先輩を必要としてるんです。もう先輩しかいないんです。ネェ?」
 「ネーッ」
 少女の左に新たなる刺客。彼女より更にショートの細身の少女。そのまた左に二つ分けの背の低い少女。
 二人の胸に潜むムーミンとも眼が合ってしまった。
 ヒッカカッタナ。ムーミンはいやらしく笑った。
 取り囲まれた・・・。
 「あの、じゃあ、とりあえず、ね・・・」
 頼場は、また流され始めた。
 「ヤッタァ」
 「早速中へ」
 「サササ、入りましょう」
 遂に、一団に囲まれたままの連行。
 ショートの少女が招くように腕を組んで来た。ブレザー越しに伝わる彼女の汗ばむ肌。すっかり奔流の中。

 中に入ると、眼が眩む。外の陽光と対照的な、フェードアウトされた世界。
 瞳孔が開いて来るにつれ、自分を見つめる眼が一つ、また一つと増えて行く。
 各々の楽器を置き、整然と座った高校生の顔顔顔。
 この眼が嫌だ。この無感情の振りをして人を好奇心を以って品定めする眼が嫌だ。
 だからといって、一番遠くにいる、人の決死の入場を全く意にも介さずダベリに耽って大笑いしてスティック振り回して戯れているパーカッション供もイヤだ!
 「みんな聞いてーっ!チョット、パーカスも聞いてっ!」
 ショートボブの副部長・橋久奈が部員達を制する。
 続いて部長・役所豊。
 「えっと、皆さん、今度コンクールを振って下さる、頼場駈呂先輩です。あの、カロ先輩でいい
  ですよね?・・・えっと、30期生やから、・・・車先輩の4つ下、ですよね?で、先輩は、あの有
  名な指揮者、頼場恵利雄さんの息子さんで、・・・知ってるでしょ?あの世界のライバ・・・」
 オオオ。わざとらしい歓声が上がる。
 頼場の左頬が引き攣った。
 「で、先輩も現役の頃指揮をなさってました。いまは京大ですよね?・・・で、今回、忙しい中を
  無理言って、コンクールを振って戴く事に相成りました。・・・じゃあ、早速先輩、どうぞ」
 役所の顎が指したのは、密集した高校生の中央に一ヶ所だけぽかんと空いた、孤独な場所。
 わざとらしい拍手が始まる。後ろで盛り上がれば何でもOKとばかりにパーカッションの男達が持っていたスティックでサスペンデッドシンバルをぶっ叩く。
 頼場は、申し訳なさそうにサックスとフルートの間を押し分け、その死刑台に登った。
 死刑台、いや、指揮台。膝が急にガクガク云い出した。
 背後には分厚く暗いコンクリの壁。正に背水の陣。
 頼場は鞄を傍の机に置くと、眼前に居並ぶ20数匹の竜を直視する事も出来ず、だからといって初端から嘗められてはたまらんと下腹に力を入れ、努めて元気な声で、
 「えー、頼場です。今年のコンクールを、何の因果か振る事になりまして・・・」
 先輩、二高祭は?トランペットのマウスピースを本体に付けつつ橋久奈が突っ込む。
 「あ、二高祭?・・・エ、二高祭?」
 振ってくれるんでしょ?右手から部長殿が援護射撃。
 イェーイ。また不自然な歓声。御前等、打ち合わせてたな?
 「エ、ア、アノ、・・・じゃ、とりあえず夏まで・・・」
 膝の震えが止まらない。指揮台に登り立てはいつもこうだった。
 真先に眼が向いたのは、銀色のユーフォニウムを持つ二つ分けの少女のいる場所だった。
 慌てて眼を逸らすと、真前に先程の白いリボンの少女がクラリネットのリードを気にしながら上眼遣いで見つめて来る。
 どうでも良いが、この媚びるような上眼遣いの視線が嫌だ。指揮台が高いのだから仕様がないのだが。
 ついでに、Tシャツのルーズな襟から見え隠れする中も・・・。
 イカン!哀しい汗が手に滲む。
 「じゃ、始めましょう。きりーつ」
 役所豊の声と供に部員達が一斉に立ち上がる。
 視線の集中砲火。
 一瞬の空白。
 「おねがいしまーす」
 おねがいしまーす。
 既にぐったりしている頼場が俯くとそこには、木製のくたびれた譜面台に乗っている「マーチ カタロニアの栄光」と印刷されたB4の表紙。
 「これ・・・やるの?」
 紙片を手に取り頼場は正面の席に就いた橋久奈に見せる。
 「いまですか?」
 「いや・・・二高祭」
 「ええ。プログラムの一番最初です」
 「そう・・・」
 頼場は苦笑いした。
 「・・・なんかあります?」
 訝しげな橋久奈。
 「いや、これ僕が現役の時のコンクールでやった作品だから・・・。これ、難しいよ。基本から、
  合わせていくのが」
 橋久奈の表情が曇って来た。頼場は慌てて空気を変える。
 「えっと、んじゃ、やるか、これ。さっきの続き、ね」
 「コンクールの曲でも良いですよ」
 「いや、これさっきまでやっていたんだから。これやろうよ」
 頼場は鞄から指揮棒のケースを取り出す。
 部員が楽器を構え始める。
 向こうのスティック男はまだダベる。
 「静かにしなさいって」
 低くドスの効いた声で橋久奈が背後に呟く。しぶしぶ、男供は配置に就く。
 無音となった灰色の監獄。無闇に高い天井から吊り下げられた蛍光灯のジリジリ不気味な音が五月蝿く思えて来る。
  現役の時買ったが結局使う機会はなく、まだ新品同然の真白の指揮棒を右手に握った。
 「・・・じゃ、あの、とりあえず僕、このスコア読んでないから。・・・とりあえず振るだけ。ね?」
 この言い訳は気を楽にする。
 「じゃ、・・・最初から。・・・ええと、テンポは楽譜の通りで、・・・コチ、コチ、コチ、こんくらい
  ね・・・じゃ、行きます。最初から。アウフタクトでお願い」
 頼場は両手をすっ、と胸の前に突き出した。
 部員が息を飲んだ。更なる静寂。ジリジリと蛍光灯。

3.

 頼場の眼元が、僅かに引き締まった。
 それは余りに急激な、余りに自然な変化であった。
 肩に力を入れることなくまるで手相を見てもらうためにすっ、と何気なく差し出されたかのような両手は凡そ四十五度に開かれ、肘の張りをややルーズにしてほぼ胸の高さで静止した。
 彼を包み込む大気の流れが止まった。それはまるで、青白い冷気。
 トランペットを水平に構えマウスピースに厚めの唇を当てた橋久奈は、彼の冷気が自分の顔を優しく撫でたかのような錯覚で、思わずアンブシュアを崩した。
 その静止は部員達に心の準備を与えない。彼は眼前の何人かの眼に見えない動揺に眼もくれず、右手で優しく包み込んだ白いタクトを軽く弾ませ、頭上に運んだ。
 彼の頭上で減速し一瞬の静止を得たタクトは直後、表情が一変した。その鋭い先端で凍った大気の胴を縦一文字に切り抜き、切り口からは音符の熱き血しぶきが噴き出した。
 臍の前まで落ちて来た白い猛蛇は音場の地平に叩きつけられ、鈍いうめき声を上げながら頼場の右へ弾き飛ばされた。それでもその鋭い牙はますます自らに向かってくる気のつぶてを悉く餌食にし、撃ち洩らしたものも溢れる剛威で激しく震撼させた。
 その猛蛇を頼場は手馴れた具合で我が身に引き寄せ、今一度叩きつけた。そして三度・・・。
 頼場の眼がはっと開く。
 視線は直下に向けられる。
 最前列のクラリネットを持つ指は、微動だにしない。
 それを持つ部員達の眼が、じっとこちらを凝視する。
 頼場の両眼が左右に忙しなく走る。
 場が、凍てついていた。
 「・・・」
 猛蛇が、その凍てつく気体を浴び空中で固まるように止まった。
 頼場の表情も固まっていた。
 頼場は指揮棒を降ろした。
 橋久奈はトランペットを降ろさない。他の部員も。
 ジリジリと蛍光灯。
 「あ、えっと、・・・」
 頼場は思わずしゃがみ込んでフルスコアを覗く。
 「あの・・・イヒャ、」
 舌が回らない。
 「・・・久し振りだから、一寸、解りにくい?指揮・・・」
 部員達が事態に気付いたのか、三々五々楽器を降ろし始める。
 橋久奈もトランペットを口から外し、左前方ユーフォニウム越しの役所豊に横目で視線を送った。
 役所豊と眼が合った。
 「えっとね、そんじゃ、・・・頭もう一小節振るから、次の小節からアウフタクトで入って来て。・・・
  次はちゃんと振るから」
 頼場は漸くスコアから眼を上げた。
 眼の前に白リボンの少女の顔。同じ眼の高さで、見つめ合った。
 少女の口元が緩んだ。それを隠そうと慌ててマウスピースを咥える。
 頼場は腰を上げる。膝の震えが言う事を聞かない。ヨロッとどうにか立った。
 気分が悪くなって来た。あの時と同じだ。
 「んじゃ、もう一回。アウフタクトでね」
 再びすっ、と差し出される両手。
 タクトが弾んだ。
 「イチ、ニー、」
 念の為口でカウントを入れた。
 「ハッ」
 三つ目の拍で、タクトが鋭く跳んだ。
 そのタクトが、またもや空中で力なく凍る。
 頼場の視線が再びクラリネットに。
 指は動かない。
 その上にある筈の部員達の眼が気になるが、確認する事が出来ないまま、視線はスコアに落ちる。
 「アレ・・・?可笑しいな」
 頼場は再びしゃがみ込み、スコアを意味もなく捲り始めた。
 「マリちゃーん」
 橋久奈の良く通る声が飛んで来た。
 白いリボンの少女が振り返る。
 「『あうふたくと』って、解る?」
 少女は柔らかな屈託のない声で、
 「知りませ−ん」

 場内が揺れるように笑った。
 頼場には何が起こったのか、瞬時に判断出来ない。
 嫌な汗が脇から滴り落ちる。
 「あ、・・・アウフタクト・・・」
 「スイマセン先輩、今日クラの二年誰も来てないんで、一年しかいないんですよォ。だからアウ
  フタクトの意味、解ってなかったみたい・・・」
 ははははは。例のパーカッションが芝居がかった大笑いをして見せる。
 前を向き直しながら白いリボンの少女の顔は、気付かれないようにムッとしていた。
 「あ、解らなかった?・・・あ、そう。ゴメンね。アウフタクトか・・・」
 愛想笑いする頼場の頭の中では、生と実存についての無限の問い掛けが、また始まっていた。
 何デ俺、ココニイルノダ?


 指揮者・頼場駈呂の二年振りの「御披露目」は、豪快な六拍の空振りで始まった。

4.

 役所豊がマウスピースから口を離し、また眼だけ右奥へ遣った。
 銀のユーフォニウムを両手で大事そうに抱え込んだ二つ分けの少女がパート譜を覗き込もうと身を屈めると、顕れた向こうの橋久奈の眼は既にこちらを睨み付けていた。
 「ナニやってんの!?」とでも言いたげに。
 「アレェ?」
 素っ頓狂に出された頼場の声に慌てて指揮台へ向き直す。
 頼場は例のしゃがんだ格好で、フルスコアに顔を埋めたまま、
 「このアウフタクト、・・・いけね、ここって部長、君も入ってたよね?サックスパート」
 「ア、・・・ハイ」
 役所豊は深々と座っていた椅子から反射的に上体を起こした。
 同時に頼場が顔を上げる。
 「・・・ひょっとして、・・・君も?」
 「エ・・・」
 引き攣った笑いが疎らに起こったが、今度は直ぐ止んだ。
 役所豊はもう一度トランペットパートに眼を、
 橋久奈は俯いて、トランペットの唾抜きをしている。
 「ア・・・あの昨日、徹夜したんすよ・・・」
 役所豊は上眼遣いでいやらしい笑みを作った。
 疎らに笑い。主に女子。
 「ア、ソウ・・・」
 事の真相などどうでも良かった。頼場にとっては残りの数十分をどうやって持たせるかで頭が一杯だった。
 何せ過去演奏した曲とは言え、四年振りに見る譜面。しかも当時見ていたのはパーカッションのパート譜だ。二十九段ぶち抜きのフルスコアが、浪人時代散々見た等差数列の公式で汚く埋まった自分のルーズリーフに見えた。
 役所豊は自分の両腕を何とか解凍しようと、両手のキーを盛んに動かした。
 頼場は徐に立ち上がった。
 「あの、さ、じゃ、さっきどうやって始めてたの?」
 真正面の橋久奈が答える。
 「え、あの、イチ、ニー、サン、ハイ!でチャラチャチャチャチャ・・・」
 脇からの汗が腹を伝った。
 堪らず頼場はブレザーを脱ぎ始めた。
 「あの、・・・それじゃ、アウフタクトの裏拍が表拍になっちゃうから、・・・いや表拍にもなんない
  か・・・ええっとね、クラ、こうして。さっきみたいに、イチ、ニー、サンでシドレシレファ・・・違っ
  た、ミファソミソシ。・・・君ファースト?」
 白リボンの少女と隣の眼鏡の少年が互いのパート譜を見合っている。
 頼場はじれったくなって身を乗り出し、彼女の譜面台に頭を突っ込んだ。
 彼女の髪の香りが鼻を突いた。
 「ミファソミソシ・・・あ、セカンドね。最初はファーストと一緒だから。・・・君は?・・・一緒じゃな
  い。あのじゃ、」
 頼場は忙しなく上体を戻す。
 「アウフタクトってのはね、日本語で弱起とも云って、弱拍で始まるの。ね?ここ・・・。一拍目
  の裏でしょ?だから、さっきみたいにイチニーサンハイ!タラティヤタタでは可笑しいの。・・・
  って解る?」
 複雑な表情のクラリネット二人。
 更に複雑な表情の頼場駈呂。
 真紅の扉が開いた。
 ガツッ。
 「ゴメーン、遅くなって」
 入って来た二人の少女は上下とも夏の制服姿だった。二人とも黒いケースを鞄と同じ手に持っていたが、一人はクラリネット、一人はフルートのそれであった。
 二人は直ぐ頼場の存在に気付いた。
 「ア、・・・カロセンパーイ!」
 今度はフルート少女の黄色い声。
 二人は椅子と譜面台と部員と楽器を除けながら指揮台に近づく。
 「エ、ウソー。今日からやったん?」
 フルートの少女が話し掛けて来る横で、クラリネットの少女は自分のパートの席を潜り抜け、その奥に並べられた楽器置き場となる机にそそくさとケースを置いた。
 「もう後二十分しか合奏時間ないから、早くして」
 あくまで冷静に橋久奈が急かす。
 「さっきまで大道具でバタバタしてたんやから、急かさんといてよォ」
 フルートの二年生・小島律子は頼場の右端の席にドカッと座ると、膝の上でフルートを組み立て始めた。
 クラリネットの同じく二年・須藤来宇子は黙々と机でクラリネットを組み立て終えて右手に持ち、竹のリードを軽く咥えながら楚々と頼場の左端に就いた。
 小島律子は尚も話し掛ける。
 「先輩ウチんとこのクラスね、劇で『ウェストサイド・ストーリー』やんねん。最終公演残ったら観
  に来てね」
 「アップは要らんの?」
 「イイ。どうせマーチでしょ?」
 太めの眉が吊り上ったまま、橋久奈はパート譜に眼を落とした。
 「スイマセン、合奏続けて下さい」
 須藤来宇子もパート譜のクリアファイルを捲りながら、頼場に眼を向ける事なく機械的に言った。
 頼場はすっかり取り残された気分だった。
 「へ?・・・ア、ア、エート、・・・最初から・・・」
 役所豊は腰を再び深く椅子に乗せながら、上体をやや反らし気味にして頼場をずっと見続けていた。

5.

 「イチ、ニー、ハッ」
 その「アウフタクト」のみを、頼場はもう5回振っていた。
 二年の須藤来宇子は一回目こそミスしたとは言え、次は見事指揮に付けた。役所豊は一回目で模範を示した。しかし一年のクラリネット二人は、悪い癖が付いたのか情けない音を出しては拍から零れ落ちる。
 橋久奈はこの合奏、楽器を構えるだけでまだ一音も出していない。
 「まだ解らない?イチ、ニー、ン、ティヤティヤタタ・・・」
 もう同じ言葉が頼場の口から何度出た事だろう。
 朽ちかけた木の指揮台をタクトで叩き拍を示す度、その渇いた音に呼応してクラリネットの一年生の眼は落ち着きを失いパート譜と指揮台を行き来する。
 須藤来宇子はそんな一年生を一瞥だにしない。
 「あのさ、ここの木管が入らない事には、曲が始まらないやん。金管もね、ずっと楽器構えて
  待ってるけど、木管のティヤティヤタタがあってようやくパパパッ、パパパッと入れる。大事な
  んだよ、最初なんだから」
 白リボンの少女が漆黒のクラリネットを膝と胸に立て掛けたまま、俯いて肩を張っている。
 それに気付いた橋久奈が堪らず切り出した。
 「あの先輩、・・・スイマセンまだ『カタロニア』の合奏、叩いて拍採ってたんですよ」
 スティックで指揮台を叩いて指揮の代わりとする。合奏の初期段階でこうするのがこの吹奏楽部の 慣例である。拍は音にした方が合わせ易い。逆に両手を宙に舞わせて拍を示すのは、意外と難しい。
 「だから一年生は、まだ楽譜追うのに精一杯ていうのもあるし・・・」
 ここで頼場は初めて、眼下の空気に気付いた。
 「あ、そうなんだ。・・・そっか。・・・じゃ、しょうがないな」
 こう云う時の、合奏の建て直しは面倒だ。
 「・・・じゃ、続けようか、金管殆ど吹いてないしね。・・・ゴメンね。クラもゴメンね。まだ慣れてな
  いもんね、合奏」
 白リボンの少女は強張った眼差しをパート譜に縛り付けたまま、楽器を膝から浮かせた。
 頼場は旋毛の辺りを軽く掻いた。
 「じゃ、みんな入って。頭から行きます」
 橋久奈が即座に楽器を構える。
 遅れて周囲の金管楽器が、のそのそと顔を出す。
 「さっきと一緒。イチニーン、タラタラ・・・、ね?では」
 場のテンションを吊り上げようと、頼場は颯爽と指揮棒を突き出す。
 カラカラカラーン。
 パーカッションがタイミング良くスティックを落とす。
 鋭い残響がなかなか消えない。
 小島律子のフルートが下がった。
 「じゃ、行きます。最初から」
 頼場が構え直す。
 慌てて小島律子のフルートが持ち場へ戻る。
 頼場のタクトが静止する。
 ガツッ。
 真紅の扉が開いた。
  一斉にパーカッションの男達が扉へと向いた。
 「ア、車先輩!」
 一人がそう叫んだ。

 頼場が殺気を感じたように右手を振り向くと、この不気味に暗い部室に神々しく紅い光の帯が差し込み、入り口附近に座る役所豊や何人かのトロンボーン奏者の全身が明るく映えた。
 その後光に包まれて入って来た大柄の男は全くのシルエットに見えたが、その太い首に着けられたネックレスからの強い反射光が一瞬頼場の眼を直撃した。
 「ヤァ、ミンナ元気シテル?」
 黒いタンクトップに紫のカーディガンの裾を首で結んだ、色黒の男がわざとらしく右手でポーズを決めた。
 「アー、車先輩久し振りー!」
 小島律子はフルートを置いてけぼりにしたまま、上体を真後ろに捻った。
 「何してたんすか?」
 役所豊は笑顔で男を出迎えるが、眼だけは何度か頼場に向けた。
 頼場のタクトが力なく沈んだ。
 車治夫は頼場と一瞬眼を合わせたが即座に役所豊に歩み寄り、
 「いやぁ忙しかったの何のッテ。今日も六甲から車飛ばして帰って来たところでサァ」
 「その日焼けは海っすか?」
 「アア、こんなの何処で焼いたかなんて忘れチマッタヨ」
 改めて、笑わない車治夫の眼が頼場を捉えた。
 「ヤァ頼場君、久し振りー!御父さん元気?」
 「ええ、まぁ・・・」
 頼場は取り敢えずの愛想笑いを浮かべた。
 橋久奈はトランペットのベルを下にして冷たい地面に立てた。
 車治夫はいきなり部員達に語り掛ける。
 「そうか、もうすぐコンクール、君達の青春を輝かせる絶好のチャンスがやって来るんだ
  ね !・・・去年は僕の指揮だったんで残念ながらダメ金だったけど、今年はホラ、そちらにお
  わします頼場先生の御曹司が、きっと君達を普門館に連れてってくれる筈だよ!」
 その内容とは大違いの抑揚のない早口で、車治夫は淡々と話した。
 「ヤダァ、先輩普門館なんて行ける訳ないやん」
 小島律子が嬉しそうに返す。
 「いや、でも府大会は確実でしょ?去年のメンバーは殆ど二年で残ってる事だし」
 頼場は橋久奈を見た。
 橋久奈は、まるでさっきまでの役所豊のように椅子の背凭れで上体を反らし、顎を引いて俯き加減でいた。
 白いリボンの少女のクラリネットは、また膝の上にあった。
 須藤来宇子のクラリネットも同様に。
 役所豊が更に二度、頼場に視線を飛ばす。
 車治夫はそれに気付いたのか、
 「ア、オットシッケイシッケイ、合奏の途中だったね。頼場君邪魔して済まなかったね。じゃ諸
  君、頑張ってくれ給え」
 と、直ぐ様踵を返した。
 パーカッションの一人がそれを引き止める。
 「先輩、今日はすぐ帰るんすか?」
 「ああ、知り合い車に待たせてあるから。約束のは来週にしようや」
 と言い残し、扉を閉めた。
 再び陰鬱な世界と化した部室の中は、ざわめき立つ部員達の話し声を長い残響に浸して生じる不協和音で充たされ、頼場の心を掻き乱した。


 マーチ「カタロニアの栄光」March ”Glory of Catalonia” は、間宮芳生により作曲された1990年度全国吹奏楽コンクールの課題曲、Cである。吹奏楽コンクールの課題曲は計四つあり、どれかひとつを自由曲と共に奏さなければならない。曲の難易によりA、B、C、D、各四分程度の書き下ろしのオリジナル曲が選ばれ、大抵マーチが後ろ二曲を占める。しかしこの曲は第三の位に甘んずるに不当とも言える完成した音楽的造形とリディア・ミクソリディア旋法を伴った、かなりの難曲であった。名が示す通り、スペイン・カタロニア地方のエスニックな様式美に彩られた佳品で、特に中間部に於けるバグパイプを模したメロディラインは異国の香りが溢れんばかりの魅力である。因みにこの年の課題曲Aには池辺 晋一郎の「ランドスケイプ - 吹奏楽の為に」が鎮座し、1990年は大家二人による名曲が全国の学生達の手で奏でられるという珍しい年でもあった。大家と言えば1988年、三善晃による「吹奏楽のための『深層の祭』」という名曲も忘れ難い。

6.

 「静かにしてーっ!!」
 また橋久奈の鋭い一喝が響いた。
 「帰ろうかな・・・」
 頼場の周りにはすっかり重い空気が溜まっていた。
 何故か白リボンの少女と眼が合う。
 彼女の口元がまた綻び、それを隠そうと顎を引いて隣の部員に視線を逸らす。
 しかしこらえ切れないのか、空いた右手の平を慌てて口に置くが、表情はすっかり崩れてしまった。
 「何が可笑しいの・・・?俺の間抜け面笑ってんのかよ・・・」
 頼場はその零れる笑顔を暫くボーッと眺めていた。・・・ポニーテールの髪は艶やかで、長いリボンで束ねられて跳ねるような生気が宿っている。・・・このはにかんだ表情の如く。
 ・・・イカン!!
 哀しいかな、所詮音楽は鎹。ある意味の真実。
 「アー、・・・もっかい最初から」
 無駄話こそ止んだが、そわそわ落ち着きのない場の空気。
 ・・・兎に角今日は、これ通すだけ通して、帰ろう。次回また考えよう。
 頼場にはこれが精一杯の前向きな思考だった。
 胸の前に突き出したタクトも、何だか思う様に動きそうにない。
 ええい、ままよ。
 橋久奈がトランペットを少し下げ気味に構え、睨むように指揮台を見た。
 役所豊も、白リボンの少女も同じ眼をしていた。
 「イチ、ニー、ハッ!」

 不思議な旋律が交錯するマーチのリズムが流れて行った。
 部員は全員参加している訳ではなく、響きのあちらこちらが絶えず抜け落ちる。その都度頼場はタクトを動かしたまま抜けたパートのパっセージを連想し、自ら歌って繋げて行った。
 数小節もしない内に、彼のタクトは息を吹き返した。

 練習番号6のニ小節前、金管が高らかなファンファーレを以ってセミ・クライマックスを築く場面。
 橋久奈がアンブシュアを固め、大きくブレスしたその瞬間、
 頼場の眼が視界に飛び込んだ。
 次に彼の左手が、獲物を掴む鷹の爪の様にどっと自分に迫っているのが見えた。
 その爪を吹き払うように、橋久奈は輝かしいAを鳴らした。
 練習番号6に入り、Gを吹き切った橋久奈が思わず楽器から口を離すと、眼前の指揮者は標的を次々と変え、左右に慌ただしく顔を振ってはその方向にタクトの集中砲火を浴びせていた。いや、いまやそれでは飽き足らず、言葉による爆撃が始まっていた。
 「クラ十六分はっきり!まだ弱い!」
  「ホルン、クラに負けてる!ティヤタタタタタタ」
 「トゥッティで入るよ、フォルテで!ザーザー、ザッザッザッ」
 喧騒が全音符掛けてデクレッシェンドし、曲は穏やかな中間部に入った。
 橋久奈は楽器を膝に置くと、深い溜息を吐いた。
 奇妙だが、もう丸一日吹いた気分だった。
 彼女の耳に、須藤来宇子が先導して奏でるエスニックな旋律が届いた。
 一息入れるに持って来いの悠長な、しかし懐かしい調べであった。
 橋久奈は、暫く何気なしにパート譜に置いていた視線を上げた。
 この悠久のメロディを紡ぎ出す男の姿があった。
 そのタクトは、細波に身を委ねているかのようにゆったりと揺らめくだけだった。
 違和感に囚われ、クラリネットを見た。
 須藤来宇子はいつもの乙にすました横顔で、たっぷりとメロディラインをなぞっていた。
 しかしその頭上には、まるで吾子等に祝福を湛えるかの様にそっとかざされた左手の平があった。
 良く見ると、須藤来宇子の表情に普段にないテンションが掛かっている。
 フルートのつんざいた響きが割り込んで来た。
 相変わらず角の取れない小島律子の音。しかし頼場が一瞥すると、彼女の強張った肩が一瞬緩んだ。但し音色に変化はなかった。
 橋久奈の口元も、何時しか緩んでいた。ヤダ、マリちゃんの伝染ったかな?彼女は次のパッセージへの準備のため、再びトランペットを口に当てた。
 アッ、ダメ。
 橋久奈は即座に身を屈めて楽器の唾を抜き、冷たい地面に染み込む唾液を避ける様に足を据え直し、楽器と共に上体を起こした。

7.

 「きりーつ」
 役所豊の声と供に部員達が一斉に立ち上がる。
 一瞬の空白。
 また銀色のユーフォニウムに眼が行った。
 「ありがとうございましたー」
 ありがとうございましたー。
 一礼の後、頼場は譜面台に身を隠すようにしゃがんだ。
 まだ眼前に居座るフルスコアを忌々しく閉じる。
 「で、センパイ、カロ先輩!」
 「ハェ!?」
 まだ気が抜けない。
 ミーティングを仕切る役所豊がひとり立って、こちらを見つめる。
 「今度の合奏は、いまのままやと土曜になるんですけど」
 「アア・・・土曜は空いてる。多分午後から・・・待って!それ何時まで?」
 「二時時開始で、終了は五時です」
 「それ、練習時間そのものと一緒じゃない?」
 「ほぼそうです」
 「じゃ、二時四時にしよう。二時間で良いから」
 「曲はコンクールの二曲でイイっすね?」
 「ン・・・」
 頼場はブレザーを羽織り、さっさと帰り支度を始めていた。
 「んじゃ、部費今週一杯まで。忘れないで下さい。解散」
 部員が三々五々、楽器を片付け始めた。
 頼場は鞄を担ぎ、慌てて指揮台から降りようとした。
 「センパーイ!」
 甘ったるい女子高生の鳴き声。頼場は金縛りに遭った。
 譜面台の傍に少女、入り口外で出迎えた二人だ。
 ショートのひとりはホルン、二つ分けのもうひとりは、あの銀のユーフォニウムを吹いていた。
 ムーミンが、また並んだ。
 「先輩って、指揮凄いね!」
 ショートの方・面毛玲夢がやにわに切り出す。
 「そりゃ、どうも・・・」
 「何か、違ったよねェ?」
 「違ったー。本格的だった」
 二つ分け・古野若菜が繋ぐ。
 「先輩、やっぱそれってオトウサン仕込み?」
 また頼場の左頬が引き攣った。
 「いや。・・・全部自己流」
 「エー?」
 「スゴイネー!?」
 「オトウサンは教えてくれなかったん?」
 人のこの表情くらい察してくれないものか。
 「親父は俺音楽やるのをずっと反対してたから。・・・このクラブも、内緒で入部したもん」
 「ヘェー」
 「ね、どうしてアカンかったん?」
 何処まで訊く気だコイツは?
 頼場は話題を切り返した。
 「ね?・・・君の吹いてたあのユーフォね、自前?」
 古野若菜が括った髪を振り回すようにかぶりを振った。
 「ううん、違う。クラブの」
 「あ、そう」
 「先輩、あのユーフォに何か想い出でもあるん?」
 ・・・何度俺の頬を引き攣らせるつもりだ。
 「いや、別に」
 バタン!
 真紅の扉が何時になく勢いを付けて開いた。
 登場したのは大きなリュックを背負った大男だった。
 「ア、ヤァーカロ!!来とったんかー!!」
 その巨漢にして何処から出しているか解らない甲高いハスキーボイスが、頼場の退路を断った。
 「・・・一応今日の約束やないっすか」
 頼場は素っ気なく返す。
 「へー、カロが約束の時間以後3時間以内に来れるとは思わんかった」
 余計な御世話だ。
 「早速合奏した?」
 大男は波を掻き分けるようにして部員の間を進むと、するりと奥の雛壇に上がり、ティンパニの足元にあったトロンボーンのケースを取った。
 「したけど、今日は二高祭の曲だけ」
 「なんや、肝心のコンクールの曲してへんの?」
 取り出した黄金のバストロンボーンにあっと言う間にスライドとマウスピースを付け、駆け付け三発とばかりにド・ミ・ソと大きなスタッカートを鳴らした。
 「いきなり昨日言われて、直ぐ用意出来ますかいな」
 頼場は指揮台を降りた。
 「ブァーッ!」
 男は気持ち良さそうな爆音でとうとう「ワルキューレの騎行」のフレーズを鳴らし始めた。
 「トツシン先輩、もう六時過ぎてるんで音出しちゃ駄目です」
 役所豊がうざったそうに制す。
 「えー?顧問に捕まって話してたから僕だけ十分延長」
 この大男・戸塚新ニは二十六期、頼場の四歳上で、車と同期である。
 頼場が四年前、入部説明会にこの練習場へ来た時も、いまと同じ様にOBとしてバストロンボーンで吼えていた。
 頼場はそんな遣り取り等眼もくれず、真紅の扉へ向かった。
 「あ、カロー!」
 再び戸塚が呼び止める。
 「合宿に御前も参加するって、顧問に言っておいたから」
 頼場は振り返り、ニコリともせず、
 「そりゃどうも」
 「次何時来るの?」
 「土曜」
 そう言葉を交わして、扉を開けた。
 トントン。
 ・・・何か背中に触った。
 頼場は憎たらしい表情を作って勢い付けて振り向いた。
 そこには、あの白リボンの少女が、クラリネットを両手に持ち上眼遣いで立っていた。

8.

 練習場の外は暮れなずみ、一面オレンジの野原となっていた。
 その広々としたオレンジに樹々の陰が深いまだら模様を描く。
 頼場は夕日の熱を直に顔で受け、思わず眼を細めた。
 真紅の扉から少し離れ、舗装道路に出る手前の木陰で立ち止まり、譜面台と白いメトロノームを乾いた土の上に置いた。
 「五分だけだから。ね?」
 頼場が役所豊に苦笑いを見せる。
 役所豊も苦笑いで返し、扉の向こうに消えた。
 メトロノームの振り子をストッパーから外し、左右に振った。
 カチ、カチ、カチ、カチ。
 その前で白リボンの少女がカチコチに固まっていた。
 楽器を片付け終え、帰ろうと練習所を出て来た部員の何人かがこれに気付き、頼場の背後に人だかりを作る。
 「一寸・・・見世物じゃないんだから!」
 頼場が野次馬を散らそうとする。
 「ええやん、カロがマリちゃんを手取り足取り教えるとこ、皆見物したいんやって」
 戸塚新ニがまた要らぬ茶々を入れる。
 「・・・行こう」
 頼場は譜面台とメトロノームを取り、舗装道路に出た。
 後から白リボンの少女も附いて行く。
 戸塚新ニのつんざくような笑い声が後ろで聞こえる。嫌なヤツだ。

 小さな林を過ぎて、練習場の隣の大階段に着いた。
 ここを上がって大きな桜の樹の傍を通ると、体育館の裏手に出る。
 この大階段は格好の練習場所で、その手前の石畳の広場は晴れた日の合奏場所にも暫し使う。
 頼場は階段の手前に譜面台を置き、下から三段目にメトロノームを置き、四段目に座った。
 少女は譜面台の前に直立し、こちらをじっと見ている。
 「じゃあ、・・・えっと、名前・・・」
 頼場は苦笑した。
 「・・・有馬です」
 彼女も釣られて苦笑する。
 「有馬、マリ?」
 「そう、有馬真理」
 「さっきの、隣にいた男は?」
 「・・・帰りました」
 談笑をしている暇はない。
 頼場は咳払いをした。
 「じゃ、有馬さん、イチ、ニーでン、タラリラリラ・・・解る?」
 有馬真理は首を傾げた。
 「じゃ、橋さんの指揮してた時みたいにイチニーサン、ハイ!なら入れるの?」
 有馬真理は頷いた。
 頼場は旋毛を軽く掻いた。
 「困ったなぁ・・・。こういう勘違いって、なかなか直らないんだよなぁ・・・一寸さ、それでやって
  みてくれる?」
 旋毛を掻きながら、空いている右手をすっ、と突き出す。
 それに合わせてすっ、とクラリネットを構える。
 「イチ、ニー、サン、ハイ!」
 ミファソミソシラドミー。各音の立ち上がりこそ遅めだがちゃんと出た。
 「じゃ、次は僕のやり方で。イチ、ニー、ハイ!」
 指がピクリともしない。
 「・・・」
 有馬真理は俯き、眉間に皺を寄せた。
 「・・・じゃあさ、楽器置いといて歌ってみよう」
 頼場のその言葉に、有馬真理は慌てて顔を上げた。
 頼場はメトロノームの振り子を振った。
 カチ、カチ、カチ、カチ。
 「こんな感じ。イチ、ニー、ン、タラリラリラリラリー!」
 頼場は幾分おどけた風に、声を張って歌って見せた。
 「・・・」
 有馬真理が戸惑い半分の笑顔を作る。
 「・・・いやあのね、君も歌うのよ、こう、・・・イチ、ニー、ン、タラリラリラリラリー!」
 とうとうクスクス笑い出してしまった。
 「いや、笑ってるんではなく。ね?行くよ?イチ、ニー、ン、タラリラリラリラリー、イチ、ニー、
  ン、タラリラリラリラリー、イチ、ニー、ン、タラリラリラリラリー・・・」
 頼場はメトロノームの刻むリズムに合わせ、エンドレスでリピートし始めた。
 「・・・いち、に、・・・たらりらりらりらりー」
 有馬真理の口から、発音のはっきりしない小さな歌声が聞こえて来た。
 「イチ、ニー、ン、タラリラリラリラリー」
 「イチ、ニ、ン、タラリラリラリラリー」
 「イチ、ニー、ン、タラリラリラリラリー」
 「イチ、ニ、ン、タラリラリラリラリー」
 向かい合った二人は同じフレーズを飽きる程繰り返した。
 五分経って呼びに来た橋久奈は遠くで足を止め、その光景を見守っていた。
 有馬真理の歌声が、次第にメトロノームと合って来た。
 「良いよ、その感じ。イチ、ニー、ン、タラリラリラリラリー」
 「タラリラリラリラリー」
 タラリラリラリラリー。
 タラリラリラリラリー。
 あ、合った。
 「有馬さん、楽器持って!」
 有馬真理は言われるがまま、咄嗟にクラリネットを構えた。
 「一緒に歌うから、入って来て。・・・イチ、ニー、ン、タラリラリラリラリー」
 アンブシュアを決め、メトロノームをじっと見つめる。
 「イチ、ニー、ン」
 ミファソミソシラドミー。
 「ほら、出来た」
 頼場はしてやったりの顔で、有馬真理のクラリネットを指差した。
 「・・・!」
 有馬真理は楽器が変質したかのような驚きの表情で、マウスピースを見た。
 「も一回」
 同様の事をやり直す。
 ・・・ミファソミソシラドミー。
 「ん。OK。飲み込み早いじゃない」
 有馬真理はクラリネットを咥えパート譜を見入ったままだが、口元は笑みですっかりアンブシ
 ュアが崩れていた。
 「今回は早かったな。もう大丈夫だと思うけど、後はそれ、ちゃんと繰り返しやっといてね。・・・
  感覚戻っちゃうかも知れないから。その時はいまみたいに、歌うと良いよ。・・・人間声に出
  すのが一番自然なんだよ、音楽的には」
 有馬真理の笑みが止まらない。
 「・・・何が可笑しいの?」
 「イエ、別に。・・・ありがとうございました」
 漸く有馬真理が頼場と眼を合わせた。
 ドキッ。
 思わず今度は頼場が眼を逸らすが、行き着いた先はやはり胸のムーミン。
 「・・・アカン」
 頼場は立ち上がり、直ぐしゃがみ、メトロノームを取った。
 「もう終わろう。そろそろ」
 「カロー!」
 ・・・戸塚新ニの雄叫びだ。
 「早速合宿の練習スケジュール組まへん?今ならまだ顧問おるやろし」
 言うが早いか大きなリュックを担いでスタタタタと歩み寄り、頼場を急かして、
 「上行こ、校舎!」
 踵を返してスタタタと戻る。
 頼場は逆らう間もなくメトロノームをその場に置き、戸塚新ニを追うように大階段を後にした。
 「御免、後頼むわ」
 舗装道路まで戻ると、
 「あ、そや!鞄取ってくるからー」
 と、戸塚新ニとは逆の練習場の方へ走り出した。
 大階段が林に隠れる前に、頼場は眼を遣った。
 階段の手前では、クラリネットとメトロノームを持った有馬真理と譜面台を持った橋久奈がこちらを向き、軽く一礼していた。
 頼場も軽く会釈した。
 二人の姿はオレンジの鮮やかさを失い、次第に淡い蒼紺に染まりつつあった。

 結局何も考えていなかった合宿スケジュールの打ち合わせは直ぐに行き詰まり、各パートの練習メニューを組んでからにしようという事で落ち着いたのは七時、戸塚新ニはまだ顧問と話があるらしく、頼場ひとりが久し振りの校舎を出た。
 空はもうすっかり暗かった。校舎からの光がグラウンドに四角く落ちる。
 校舎には二高祭前の慌ただしい高校生たちの活気が、まだ充満していた。
 頼場は校舎の光を暫く心地良く浴びた後、ケヤキ坂へと歩き始めた。

 坂を降り、大階段の所まで来た時、頼場は鞄を下ろし、中を開けて探り始めた。
 ・・・指揮棒がない。
 次は土曜来るし、と思ったがしかし、ないならないで心細い。たかが棒一本だが、グラスファイバー製なので買うと千三百円もかかる。まだバイトも入れていないいまは余計な出費は避けたい。
 頼場は更に坂を降り、練習場の前で右に折れた。
 小さい林の中にある練習場は、もう真っ暗といって良い程で相当不気味である。
 正直、この中にひとりでいるのは想像しただけでも恐ろしい。
 真紅の扉の前に来て、はたと止まった。
 「あ、そうかもう鍵閉まってるやん・・・」
 頼場は苦笑した。
 「・・・くすくす・・・」
 自分以外の笑い声。
 ゾクッとした。
 よく見ると、扉は僅かに開いている。
 「・・・」
 頼場は「その音」をもう一度確かめようと、暫く直立不動で待った。
 「・・・」
 ・・・誰かいる。
 練習場の電気は消えている。
 扉は半開きで、これなら音を立てすに開けられる。
 頼場の顔が、今度は全体、引き攣った。
 「・・・指揮棒、取りに行くだけだよな・・・」
 頼場はいま来た道を振り返り見た。
 人の気配はない。
 頼場は、漫画のような大袈裟なジェスチュアで、そーっと、扉に近づいた。
 ドアノブに手を掛け、出来るだけゆっくりと開く。
 中が見えた。真っ暗である。
 いや、既に眼が慣れた分、微妙な陰影が解る。
 「・・・フフフ・・・」
 ドキッ!頼場の全身が凝固した。
 女の甘ったるい声。
 「・・・オイオイ・・・」
 嫌な汗が出て来た。
 男の声。しかも、・・・部長だよな?
 もう頭の中は逃げる事で一杯となった。
 頼場はそれ以上中を見る事も出来ず、顔を背けて、さっきの逆回しのような仕草で、ほうほうの体で扉から下がった。
 安全圏で一息吐くと、練習場の建物の上、生い茂る蔦の不気味なシルエットを暫く見つめた。
 「・・・帰ろ」

 やって来た時と同じケヤキ坂を下り、ひとり、頼場はまた同じ問い掛けを自分の思惟空間に投げ掛けていた。
 「・・・何やってんだろ、俺」
 空を見上げると、月は丁度良い大きさの雲にすっぽりと覆われ、光は届いては来なかった。

                             <1st. movement:カタロニアの栄光> 終わり                                                 
 

<この作品は各話において随時更新されます>
(C)Yutaka Yamamoto. STudio KAresansui

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