2005年05月15日

不安の時代が終わらなければ

私が勤めている学習塾では、小学生は男女を問わず迎えに来た保護者に引き渡し、中学生でも女子の場合は迎えに来た保護者に引き渡すことになっている。
安心を売り物にし、他塾と差別化を図りたいという。
そう、ハーフパンツ支持者も安心をハーフパンツの長所だとしている。
子どもをめぐる治安が悪化したとされる中、安心がハーフパンツと半ズボンを差別化した。
以前誰かが書いていたように、「今日はハーフパンツ、明日は半ズボン、君はハーフパンツ、僕は半ズボン」が理想的であることは言うまでもないが、半ズボンを差別化してハーフパンツがのし上がった以上、両者の共存は困難であった。
ハーフパンツ化が、特定の地域に局限された現象ならば「ウチは半ズボンを穿かせたい」でいいかもしれない。しかし、全国的、ひょっとしたら世界的な現象であるわけだから、広告代理店でも入らない限り文化としての半ズボンは復活しないであろう。  
Posted by pidurugi at 23:01Comments(0)TrackBack(0)

2005年05月04日

強制と執着 矯正と愛着

韓国の漢字復活運動を引き合いに出そう。
先日亡くなった全国漢字教育推進総連合会の李在田将軍は、教育部がハングル専用主義者に気兼ねして小学校からの漢字教育義務付けに踏み切れないため、陸軍士官学校の後輩に当たる国防長官を通じて、徴兵された若者に対し漢字教育の強制と漢字使用の強制を計画していたそうだ。もちろん強制など穏当ではない。しかし、いったん廃れた文化を復興するためには起爆剤として強制が有効な場合もある。
また、いったん廃れた文化を復興するのに、愛着なしで可能であるか。
ネットでは、愛着を執着として否定する。愛着を執着として煩悩と見るのは、仏教思想である。キリスト教では、愛着は人類に幸福をもたらす情動として称賛される。
先日、神戸新聞の記者から電話取材を受けたとき、「半ズボンがないと不安ですか」と聞かれた。まさにその通りだ。ネット上では人間が理性をなくすと感じた。  
Posted by pidurugi at 23:56Comments(0)TrackBack(0)