世間に最も広く流布されている迷信の一つは,人間というものはそれぞれ固有の性質を持っているものだということである。すなわち、善人とか,悪人とか,愚者とか,精力的な者とか,無気力な者とかに分かれて存在しているという考え方である。
だが,人間とはそのようなものではない。ただわれわれはある個人について,あの男は悪人でいるときよりも善人でいるときのほうが多いとか,馬鹿でいるときよりもかしこいときのほうが多いとか,無気力でいるときより精力的であるときのほうが多いとか,あるいはその逆のことがいえるだけである。
かりにわれわれがある個人について,あれは善人だとか利口だといい,別の個人のことを,あれは悪人だとか馬鹿だとかいうならば,それは誤りである。それなのに,われわれはいつもこんなふうに人間を区別しているが,これは公平を欠くことである。
人間というものは河のようなものであって,どんな河でも水には変りがなく,どこへ行っても同じだが,それぞれの河は狭かったり,流れが速かったり,広かったり,静かだったり,冷たかったり,濁っていたり,暖かだったりするのだ。
人間もそれと全く同じ事であり,各人は人間性のあらゆる萌芽を自分の中に持っているのであるが,あるときはその一部が,またあるときは他の性質が外面に現れることになる。そのために,人々はしばしばまるっきり別人のように見えるけれども,実際には,相変わらず同一人なのである。
チベット・アムド地方の僧院の裏山の鳥葬場
第一の死を乗り越え,肉体から独立した魂は
第二の旅路へ発つ。鳥葬職人が鳥が食べや
すいように用済みの肉を解体する。
チベットのタントン・ギャルボ
チベットの旅の思い出
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下の藤原新也のメメントモリはMemento moriといっ
て「死を忘れるな」という旧約聖書に由来する。人が
生のはかなさを知り,賢明に生きなさいという警告。
印度の野外火葬場で焼け残った足
後の世代のためにこのことは書き記さ
ねばならない。
「主を賛美するために民は創造された」
(旧約聖書 詩篇 102章19節)