2007/10/5
「フランスわが旅・辻邦生編・完」
サン・ミッシェル橋
1974年の秋,私は中澤紀雄から電話をもらった。至急会いたい,というのである。大学の帰りに,溜池の事務所に寄ると,いきなり「フランスで同窓会をやるつもりはありませんか?」と切り出された。「同窓会?」私は驚いて訊ねた。
「つまり昔,パリに留学した仲間と一緒にフランスを,もう一度,旅行してみるつもりがあるか,ってことです」「あるもないも,そんな勿体ない,夢のような話を,本気で信じていいの?」「ええ,いいんです」「だって,誰がそんなこと,してくれるの?」
「それはぼくのほうで考えることですよ」中澤紀雄は昔のような皮肉な笑い方をした。「辻さんはそれを決めて下さればいいんです」
勿論異議があるわけはなかった。中澤紀雄の話を総合すると,航空会社にその種の予算があって,たまたまそれを,私たち古い留学生に適用してくれるという有難い話のようであった。人生のごたごたは(この種の用事も,私は広い意味でのごたごたのなかに入れている)たいていは大久保輝臣に相談することにしている。「そうだな。そいつは悪くねえが,どうも話がすこしうますぎやしないか?」
私の相談を受けた大久保はそう言って頭をひねったが,それでも早速二宮と滝田に電話した。留学の時期から言うと,滝田文彦だけはすこし遅れていたが,同窓会という趣旨なら,さしてそれは問題にならない。要は,古い友達が,好きなフランスに出かけて,あちらこちらを旅行させてもらい,土地土地のおいしい料理と葡萄酒を味わい,大いにフランスを語ればそれでいいのである。二宮も滝田文彦もなかなか本気にしなかった。
中澤紀雄はエールフランス側を代表して堀内徹哉を同行させると言い,とにかく半信半疑の連中を集めましょう,と提案した。「どうして君はおれたちと一緒にこないんだ?」大久保輝臣は集りの席で中澤に訊ねた。「そんなこと,僕に訊くんですか?」
中澤はおかしそうに笑いながら言った。「あなたがたの奇行珍談は,ぼくはよく知っていますよ。それにつき合っていたら大変です」という含みであった。
オルリー空港の一件をはじめ数々の失敗をしでかしている私たちはぐうの音もでないのであった。「お前さんより,堀内さんのほうがいいな。だいいち可愛いよ」ビールで酔っ払ってくると,大久保はそんなことを言い出した。堀内徹哉は私たちより一回り若く,秀才肌の,温厚な人物だった。もちろん可愛いなんて年齢(とし)ではないが,はにかんだ笑い方をする魅力のある人だった。私たちはすっかり堀内徹哉に惚れ込んでいた。中澤紀雄だけはにやにや笑っていた。
旅の目的は,すでに何度か触れたように<楽しみ>のためのものであった。しかしそれはフランスの自然や文明や歴史を楽しむだけではなく,<友>とあることを楽しみ,ともに飲み,ともに語ることを楽しむ旅であった。私たちはオンザンの林の奥にある,野趣に満ちた旗亭ふうのホテルを楽しんだし,ロワールの風が谷を越えてくる館(シャトー・ダルティ二ー)のホテルも楽しめた。昼食のテーブルでも,各人が別々のメニューを頼んで,それをすこしずつ分け合って,いろいろな味を楽しもうとした。
私は<友>とあることがこんなに楽しいことであるのか,と,あらためて,一人一人の顔を何度か見なおしたほどであった。「こんなことは滅多にあるものじゃない。特別なことなんだ。例外のことなんだ」私はそのたびにそう繰りかえしつぶやいた。
クレルモン・フェランの家並み。天に挑むような教会がある。ラ・シェーズ・ディユ(神の御座)である。その修道院の内部はがらっとしているが,コール(聖歌隊)の裏手に有名な「死の舞踏」が描かれている。
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