語学エッセイ(40-5): ベルクソンと関口文法 (その5/終)

 

5.ベルクソンの「運動」と関口の「流動・凍結」


 ベルクソンにとって、内部から直観によってとらえるべき対象である「実在」とは、運動であり、時間です。人格や自我といっても、それは「時間のうちを流れる人格」であり、「持続としての自我」です。ここには世界の真相を「パンタ・レイ」(=万物は流転する)ととらえるヘラクレイトス流の世界観があります。これはプラトン的世界観のアンチテーゼです。

 

 

 引用5の「意味は運動であり、方向である」というのも注目すべき発言ですが、「言葉や文より高い所にある、それらよりはるかに単純なのものとしての意味」は関口文法の「意味形態」や「達意眼目」といった用語を連想させます。意味形態を関口はプラトンのイデアにたとえている箇所がありますから、これは一応静的なものと理解していいと思いますが、晩年の『冠詞論』では達意眼目という用語を駆使して、彼は言語のダイナミックで、流動的で、カオス的な側面を強調する姿勢を強く打ち出しています。

 

 関口は『不定冠詞篇』の第五章「述語と不定冠詞」において、「名詞とはなにか」を詳しく考察しています。彼は名詞の本質を「凍結した達意眼目」という用語で特徴づけています。ここは、流動と凍結という用語を用いて主語・述語論、名詞論、定形論などといった言語の本質論が展開されていく興味深い箇所です。

 

 

 「凍結した達意眼目」「達意眼目の凍結」「流動する達意眼目」「達意眼目の流動」といった言い方が何度も繰り返されますが、言語の根源的な状態を流動と見なすから、それと対立する状態が凍結と呼ばれるのです。流動がなければ凍結はありません。流動と凍結とは、不断に生成展開する達意眼目の二様態なのです。

 「流動そのものである言語」とか「凡てが流動状態にある"達意"の世界」といった言い方と、ベルクソンの「意味は運動である」という言葉を比較してください。ここには言語の本質を基本単位の組み合わせによって考えるのではなく、意味が不断に生成されるその現場に立ち戻って、運動するカオスの生成作用という原点から言語を考えようとする姿勢が両者に共通に見られると言っていいでしょう。

 

 

 

 

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