語学エッセイ(40-5): ベルクソンと関口文法 (その5/終)
ベルクソンにとって、内部から直観によってとらえるべき対象である「実在」とは、運動であり、時間です。人格や自我といっても、それは「時間のうちを流れる人格」であり、「持続としての自我」です。ここには世界の真相を「パンタ・レイ」(=万物は流転する)ととらえるヘラクレイトス流の世界観があります。これはプラトン的世界観のアンチテーゼです。
- <ベルクソン引用4(再)>単なる分析によるのではなくて、内部から直観によってわれわれのすべてがとらえる実在が少なくとも一つは存在する。それは時間のうちを流れているわれわれ自身の人格であり、持続しているわれわれの自我である。(『形而上学入門』 S.11)
- <ベルクソン引用5(再)>実際は言葉や文より高い所に、それらよりはるかに単純なもの、すなわち意味があります。意味は考えられたものであるよりむしろ考える運動であり、運動であるよりむしろ方向であります。(『哲学的直観』 S.97-98)
引用5の「意味は運動であり、方向である」というのも注目すべき発言ですが、「言葉や文より高い所にある、それらよりはるかに単純なのものとしての意味」は関口文法の「意味形態」や「達意眼目」といった用語を連想させます。意味形態を関口はプラトンのイデアにたとえている箇所がありますから、これは一応静的なものと理解していいと思いますが、晩年の『冠詞論』では達意眼目という用語を駆使して、彼は言語のダイナミックで、流動的で、カオス的な側面を強調する姿勢を強く打ち出しています。
- <関口引用23>Herakleitos は現世の凡ての事象を評して Alles fliesst と云ったが、これはまた少しちがった意味で"言語"という現象にも通用する。言語のあらゆる部分はすべて朦朧たる瓦斯状態、滾滾たる液体状態にある。動詞は動き、形容詞は弛み、副詞は融け、前置詞は流れ、冠詞は漂い、助辞は霞んでいる。動詞と謂い、形容詞と謂い、副詞と謂い、その他何と云おうと、それらはすべて達意の流動であり、流動の達意である。文章の形式的基底を成して、むしろ文章そのものと同一視してよろしい"定形"そのものが、これが達意の最も流動せる状態である。"凡ては流る!"これが言語全部を貫く感銘である。(『不定冠詞篇』 S.183)
- <関口引用24>溺れんとするものが藁しべにもすがりつくように、流動そのものである言語は、しきりに何かはっきりとした姿を取った拠点、しがみつくことのできるような不動の何物かを求めてやまないからこそ名詞を重要視するのである。換言するならば、ことばと云えば直ちに名詞にすがりつき、獅噛みつかないではそもそもことばと云うものの本性がハッキリしないのが実態であることほど左様に"ことば"というものは流動と疏通と融解と無常とをもって根底とする何物かなのである。(『不定冠詞篇』 S.185)
関口は『不定冠詞篇』の第五章「述語と不定冠詞」において、「名詞とはなにか」を詳しく考察しています。彼は名詞の本質を「凍結した達意眼目」という用語で特徴づけています。ここは、流動と凍結という用語を用いて主語・述語論、名詞論、定形論などといった言語の本質論が展開されていく興味深い箇所です。
- <関口引用25>万象流転の例に洩れず凡てが流動状態にある"達意"の世界においては、如何なる激しい流動状態の真只中にあっても(多少歪んだり曲がったりすることはあっても)決して解けたり流れたりしない"凍結した達意眼目"の多数を必要とするのであって、これが即ちあらゆる言語に必ず名詞という品詞の存在する理由である。(『不定冠詞篇』 S.268)
- <関口引用26>結局人間の頭脳というやつは、複雑なものを複雑なままに受け入れ、流動せるもの、つながったものを、流動しながらつながって考えることはできないので、飛石伝いにしか進み得ないのである。その飛石が、言語の意味形態で言えば"名詞"というものであり、表象の手法で云うならば"絵画化"なのである。(『無冠詞篇』 S.587)
- <関口引用27>"事"をも"物"をも、おしなべて"物"として扱う、これが名詞の本質である。本来は流動的であり、融通的である筈の達意をも、流動をとどめ融通を遮切って凍結せしめる、これが名詞の機能である。――名詞とは何か? 名詞とは"物"化された"事"である。凍結した達意内容である。意を達せざる達意である。流れざる流れである。動かざる動きである。いずれにしても何等かの自家撞着を含んだ何物かである。(『不定冠詞篇』 S.183)
- <関口引用28>"主語"とは何か?(というのは直ちに以て"名詞とは何か"というに同じである)主語、名詞とは"凍結した達意眼目"ということである。名詞以外の品詞とは何か? 動詞とは何か? 形容詞とは何か? 副詞とは何か? それは"流動せる達意眼目"ということである。述語とは何か? 客語とは何か? 文章とは何か? 否、そも言語とは何か? それは"達意眼目の流動"ということである。(『不定冠詞篇』 S.263-264)
「凍結した達意眼目」「達意眼目の凍結」「流動する達意眼目」「達意眼目の流動」といった言い方が何度も繰り返されますが、言語の根源的な状態を流動と見なすから、それと対立する状態が凍結と呼ばれるのです。流動がなければ凍結はありません。流動と凍結とは、不断に生成展開する達意眼目の二様態なのです。
「流動そのものである言語」とか「凡てが流動状態にある"達意"の世界」といった言い方と、ベルクソンの「意味は運動である」という言葉を比較してください。ここには言語の本質を基本単位の組み合わせによって考えるのではなく、意味が不断に生成されるその現場に立ち戻って、運動するカオスの生成作用という原点から言語を考えようとする姿勢が両者に共通に見られると言っていいでしょう。
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