誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士

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三樹三郎

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【赤報隊を結成した伊東の実弟】
伊東の実弟。酒豪でやんちゃ。剣は兄ほどではなかったが、弁舌はたったという。伊東とともに上京して新選組に加盟。伊東らとともに御陵衛士として離脱。油小路では包囲を破って逃走し、薩摩藩邸に保護される。鳥羽伏見の戦い後、衛士残党と挙兵し、相楽総三らと赤報隊を結成。ニ番隊組長となる。相楽と袂を分かって帰京後、嫌疑を受けて一時投獄される。釈放後、新政府軍の一員として東北で戦う。明治以後、酒田警察署長などを務めた。花を愛し、また謙虚で維新期の自慢話などはしなかったという。享年82歳。
名前 鈴木多聞→(寺内家に養子に)寺内多聞?→(寺内家を離縁)三木荒次郎→(上洛時?)三木三郎→(御陵衛拝命)三樹三郎→三木和泉→(赤報隊結成)鈴木三樹三郎*このサイトでは衛士時代の「三樹三郎」を使用。この名は頼三樹三郎を意識していると思う^^。(頼三樹三郎も酒豪だったらしいし^^;)
出身 常陸国志筑藩郷目付鈴木専右衛門の次男として誕生。
*志筑は交替寄合旗本(外様)の本堂家領地である。大名領ではないので厳密には藩とはいわないが、当時も「志筑藩」の呼称が使われていたことがいくつかの文献にみられるので、ここでは便宜上、志筑藩を使う。
生年 天保8年7月12日
没年 大正年7月11日。享年82歳。
身分 志筑藩士→新選組目付→新選組九番隊組長→御陵衛士→赤報隊二番隊組長(軍裁)
家族 伊東甲子太郎は実兄。父、志筑藩郷目付鈴木専右衛門、母こよ。姉こと、妹よし(須磨)。ほかに夭逝した妹がいた。
関連:「子孫の語る思い出ばなし
外見 晩年の写真はこちら。黒目がちの鼻筋が通った上品な顔。孫にあたる鈴木巌氏の遺稿(こちら)によれば、お母様が「私は生れてから今日の年まで忠良おじいさんのような男前の男、又立派な人には一人も巡り合はなかった」と述懐されていたそうだ。なお、兄甲子太郎も美男、妹須磨も美人だったと伝わる。
武芸 神道無念流。晩年、隠居所へ泥棒が入った事があったが、その時、三樹は床の間の刀を引抜いて「おのれ!」と叫けんだ。その気はくに泥棒はほうほうの態で逃げていったという(巌氏の遺稿より)
詩歌 和歌を嗜んでいた。
「梅の花心有りげに匂ふかな愛でにし人の情思ひて」「無官無禄一身安 唯有枕頭一瓶酒」(晩年の歌)ほか
その他 酒好き。また、花好き、読書好き(晩年の愛読書は「資治通鑑」「史記」)だったという。
年表 生い立ち〜上京 新選組・御陵衛士時代 赤報隊・戊辰戦争・明治

小史

(1)誕生〜志筑時代

■志筑藩郷目付次男として誕生
三樹三郎は常陸志筑藩郷目付鈴木専右衛門次男として誕生した。名は多聞である。母はこよ。兄大蔵、姉こと、妹よし(須磨)。ほかに夭逝した妹がいた。大蔵は、のちの伊東甲子太郎である。

■父が家老と対立し、一家は志筑追放へ
三郎(多聞)が幼少のころ、父が家老の横手惣蔵と対立し、閉門・蟄居を申し付けられてしまった。しかも、閉門中に脱藩してしまった(出家して高野山へ)。本来ならお家断絶だが、兄大蔵(甲子太郎)が家督相続を許された。しかし、父が方々に借金をしていたことがわかり、一家は志筑追放。父方の祖母の実家(小桜村川俣の桜井四郎左エ門方)に身を寄せることになった。三郎(多聞)はそこで、兄とともに村塾に通った。

その後、父は、高野山本王院のとりなしで許されて、藩への帰参は叶わなかったものの、志筑近郊の高浜村大橋に戻ることができ、村塾を開いて漢籍を教えた。その頃、水戸に遊学していた兄・大蔵(伊東甲子太郎)も戻り、小井戸に村塾の支塾を開いて教えたという。

■父の村塾を継ぐが、合戦ごっこばかりで閉鎖に
嘉永5年(1852)、三郎(多聞)16歳のとき、父が亡くなり、跡を継いで村塾で教えることになった。ところが、「楠多聞丸」という旗を掲げて村の子供と合戦ごっこばかりやっていたので、生徒の数が減り、村塾は閉鎖になってしまった^^;(「伯・岳」)。

■志筑藩士寺内方へ養子にいくが酒量が原因で離縁
それから暫くして、志筑藩中小姓格寺内増右衛門の養子に迎えられ(寺内多聞?)、山林取締役兼御朱印番についた。ところで三郎はもともと酒飲みだったが、どんどん酒量が増えていった。養父はこれを好まず、結局、酒がもとで離縁されてしまった。

■酒を飲んで藩則を軽視。お役御免に。
寺内家を離縁されたものの、鈴木家には戻れず、三郎は三木荒次郎と改名。しかし、どうも懲りた様子はなく、同僚で酒飲みの菅谷竹蔵と意気投合し、つるんで仕事をさぼり、藩則をしばしば軽視。ついにお役御免になってしまった。

(2)国事に奔走するため、江戸へ

■浪人詮議が厳しく潜伏
そうこうしているうちに、開国・安政の大獄など時代は大きく動いていった。安政年間、国事に奔走しようと江戸に出たというが、安政7/万延元年(1860)の桜田門外の変などで浪人詮議が厳しくなり、身を潜めるため江戸を出た。仙台の志士桜田要平(清河八郎とも親交のあった尊攘派桜田良佐と関係あり?調査中)を頼ろうと常陸国多賀郡田村まで戻るが、そこで侠客の宇野孫六を頼るよう薦められる。孫六を訪ねると、親戚の下君田村宇野蔵造を紹介される。下君田村で村塾を開いて、数年間剣道・漢学を教えながら潜伏した。ある日、手綱藩に仕える蔵造の弟が、「先日、三木荒次郎の弟と名乗る者が手綱藩を訪ね、母親が病気だと告げた」と知らせた。三樹三郎(三木荒次郎)には弟はいないが、母が病ときいて急遽帰国。誤報だったが、母から、早く江戸にのぼって兄と力を合せて国事につとめるよう励まされ、再び江戸へ出た(岳)。文久元年前半のことだろうか。文久元年(1861)7月付の書簡で、深川の伊東道場で塾頭を務める兄・甲子太郎(大蔵)を両三度訪ねたことを記している。また、義兄宛書簡では桜田門外で大老井伊直弼を暗殺した水戸浪士の処刑や御殿山の英国領事館建設を残念とする心情をつづっている。(ちなみに井伊直弼襲撃に参加した水戸浪士の多くは、兄の剣の師匠だった金子健四郎の門弟である)。

■同志との出会い
文久年間に、のちの同志と知り合う。

■志筑に戻り、天狗党警備
元治元年(1862)、3月、天狗党が筑波に挙兵した。8月、天狗党応援の有志約60名が上野の雁鍋屋に集合。兄・甲子太郎(伊東大蔵)も参加したが久留米の志士古松簡治より忠告を受け、応援に加わることを控えたことがあった。前後して、その兄に、天狗党の迫る志筑の様子をみるよう依頼されて江戸を出発。志筑への途上、土浦の桜井旅館で天狗党とかちあうが互いに警戒して言葉を交わさなかったという。

志筑に戻ると叔父川俣彦三郎を通して、藩に「危急の際なので微力を尽くしたい」と申し出たところ、許可され、住宅を与えられた。以来、藩内警備に当たったが、天狗党は志筑領侵入のないまま天去った(実は、志筑藩は天狗党と取引をしていた)。

ある日、藩から辞令(藩士としての任用の辞令?)が下ることになったが、天狗党も去った今、志筑に留まるつもりがないので、辞令をもらう前に出奔した方がよいと考え、江戸に向けて出発したという(岳)。しかし、三樹三郎(三木荒二郎名)が慶応3年9月に藩から隠居料二俵を授かったという記録があるので、いつの時点かは不明だが、辞令は発せられたらしい。三樹三郎の身分は脱藩者でも浪人でもないことになるようだ。

(3)新選組へ

江戸に戻った前後、兄の弟子であった藤堂平助が新選組入隊勧誘のため伊東道場を訪れた。甲子太郎(当時大蔵)は近藤勇と話し合い、同志とも相談の結果、上京を決めた。10月15日、三樹三郎は兄・同志とともに加入希望者として(入隊はしていない)上京のため江戸出発した(こちら)。(このときから、三木三郎を名乗る)。京都に着くと、甲子太郎(以後、伊東)らとともにはしばらく近藤妾宅に遊食したともいう(『修補殉難録稿』)。

夏、新選組の新編成で、九番隊組長に任命される(「壬」)。6月には目付(監察)として下坂しており、大坂天満宮総代にその丁重さを感心されている(「滋岡家日録」)ので、新編成はその後のことではないか。

新選組在隊中の事績はあまり伝わっていない。生き残りの衛士の史談では、上京してから、彼らは各地に出張して情勢を探ったり、同志を求めたりしたというので、彼もそうだったのかもしれない。

(4)御陵衛士時代

慶応3年3月、孝明天皇の御陵のある泉涌寺の塔頭戒光寺の長老湛念の周旋で、伊東らとともに御陵衛士を拝命し、新選組を離脱。このとき三樹三郎と改名した(和泉と名乗った記録もある)。8月には伊東・斉藤一・藤堂平助と連名で議奏柳原前光と老中板倉勝静に長州寛大処分の建白を提出している。(★)

(5)油小路事件

■油小路の闘い
慶応3年11月18日、近藤勇に呼び出された兄の伊東が、帰途、七条油小路で新選組に暗殺され、遺体が囮として七条油小路に放置された。知らせを受けて騒然となった同志に、三樹は伊東の実弟なので「自分が単身で迎えにいけばいい。万一近藤の術中におちれば、後日仇をとってくれ」と頼んだという。残りの同志は、三樹を見捨てることはできないとことごとく駈け出そうとした。服部が甲冑着用を主張したが、三樹は新選組なら面識があるので、礼をもって受取るべきだと反論したという。篠原が、一戦になれば多数に無勢だが、武装したまま路上に討死すれば、臆病者と笑い者になると主張し、一同は平服で行くことで結着したという。

油小路でに急行した彼らは待伏せの新選組数十名に包囲され、死闘が広げられた。衛士は藤堂平助・服部三郎兵衛・毛内監物の3名が討死した。(油小路の闘い)

■加納・富山とともに薩摩藩に保護される
三樹は西側の敵と戦っていたが、これを斬りぬけ、一条通りを北に逃走中に、やはり包囲を脱してきた加納鷲尾・富山弥兵衛(薩摩藩出身)と合流した。夜3〜4時ごろに今出川の薩摩藩邸に到着しが、門番がなかなか起きてくれず、再三門をたたいたら、「何用か」というので「中村半次郎」に会いたい」というと「夜があけてからでなおせ」という。そこで、加納が?仕方なく「御藩にはうらみはないけれども、われわれは天下に身をよせるところがない身なので、(切腹して)御門前を汚します」というと、驚いた門番は「そういう馬鹿なことをいうか」と中村に会わせてくれたという。(元御陵衛士加納道広談『史談会速記録』より)(★)。その後、篠原・阿部・内海も今出川藩邸で保護され、やがて彼らは伏見薩摩藩邸に移された。

(6)戊辰戦争〜赤報隊

■赤報隊二番隊組長
慶応4年(1868)1月3日に、三樹は、かねて親交のあった典薬寮の山科能登之助とともに、当時蟄居していた前侍従綾小路俊実(新政府参与大原重徳の息子)を訪ねた。そこで、江州挙兵への助力を乞われ、具体策を相談したという。その最中に伏見方面に火の手が上がったのをみて、急いで藩邸に戻ったが既に出陣の後で、急ぎ伏見に向かい、同志らとともに薩摩一番隊に属して鳥羽伏見の戦を戦った。翌4日、三樹は左手に銃弾を受けて負傷し、京都の今出川藩邸に戻った。5日には藩邸を山科が訪れ、挙兵決行を促した。6日、三樹は西郷隆盛らに計画を打ち明け、西郷からは金子と小銃を融通してもらったという。夕刻、淀の戦場から戻ってきた同志とともに藩邸を出て、洛北で綾小路や山科と合流した。そこへ、山科の同志である江州水口藩士油川錬三郎らが駆けつけ、総勢20人ほどで京都を脱して江州へ向かった(綾小路派)。7日には、相楽総三ら薩摩藩江戸藩邸浪士(相楽派)、及び別途挙兵を計画して京都を脱出した滋野井公寿侍従一行(滋野井派)も合流し、挙兵参加者は総勢約100名にふくれあがったていた。

1月8日、彼らは綾小路・滋野井を奉じて松尾山で挙兵した。その後、隊名を赤報隊とし、隊を三組に編成した。一番隊(先陣)組長は相楽、二番隊(君側)組長は三樹、三番隊(後詰)組長は油川である。この頃、新政府は赤報隊に対し、東海道鎮撫総督の指揮下に入り、桑名に進撃するよう命じ、さらに東征が始まれば嚮導先鋒として、旧幕領に年貢半減を触れよと命じた。赤報隊は「官軍」の一部として認められたのである。15日、赤報隊は桑名に向けて進軍を開始した(このとき滋野井派は袂を分かった)が、22日に桑名進撃をとりやめ、信州・甲州方面に進路を変更した。1月下旬、赤報隊が名古屋に駐屯中に、新政府から帰京命令が下り、三樹と油川の率いる二番隊・三番隊(綾小路派)は命令従って帰京することになった。

■同志の遺体を改葬
三樹らの率いる赤報隊は2月6日から8日にかけて帰京した。それかららまもなく、油小路の闘いで亡くなった御陵衛士4名の亡骸が壬生・光縁寺から、孝明天皇の御陵のある東山泉涌寺塔頭戒光寺に改葬された。大名にも珍しいほど見事な葬儀で、生き残りの衛士7名は騎馬で野辺送りをしたという。費用は参与の役所から出たとされる(当時の参与は綾小路の父で、伊東兄弟と兼ねて親交のあった大原重徳である)。

■偽官軍の嫌疑で投獄
ところが、葬儀から1週間後、三樹・新井・篠原の旧御陵衛士3名は御親兵取締所に呼び出されると逮捕され、翌日に大津の阿波徳島藩本陣に護送されて投獄されてしまった。「偽官軍」の嫌疑を受けてのことである。このとき、理不尽だと激怒した新井が、脱獄するとか警備兵を残らず斬り殺すとかいきまき、篠原・三樹がなだめる一幕もあったという。やがて嫌疑は晴れ、三名は3月7日に釈放されたが、そのまま薩摩藩預かりとなり、赤報隊同志との合流はできなかった。

(一方、先鋒として本隊より先に進んでいた一番隊(相楽派)は、帰京命令に応じず、官軍先鋒嚮導隊を名乗って進軍を続けたが、下諏訪で東山道総督府に「偽官軍」として全員が捕縛されてしまう。3月4日、ろくに取り調べを受けぬまま相楽ら8名は斬首され、首は刑場に晒された。年貢半減令をひそかに撤回した新政府の政治的犠牲になったといわれている)。

■戊辰戦争
赤報隊は徴兵七番隊として、5月に京都を出立したが、三樹ら三名は京都に留めおかれた。6月12日、三樹は軍務官軍曹に任命され八人扶持を賜り(新井・篠原のほか、土佐藩陸援隊だった田中光顕・香川敬三なども軍曹に任命されている)、15日に江戸出張を命ぜられた。新井・篠原が北越戦線に向ったのに、三樹が江戸出張であったのは、この頃、左手の銃創が痛んで兵器の操縦が困難であったというので、そのためかもしれない。三樹は9月1日には勅使附属警衛之兵隊を召連て帰京するようにとの沙汰を受けて帰京した。一説に会津城を攻めた新政府軍の一隊が粗暴で統率する者がおらず、三樹三郎が統率を任されたのだともいう(「岳」)。

■江戸志筑藩邸へ
2003年に管理人が『高台寺党の人びと』著書の市居浩一氏からうかがった話によれば、三樹は母こよとともに江戸の志筑藩邸に住んでいたそう時期があるそうだが、この時期からかもしれない(慶応3年9月に三樹が志筑藩から隠居料をもらったという記録があり、上京後も志筑藩との縁はきれていなかったようである。志筑藩としても、新政府軍の一員である三樹三郎を優遇したのではないか思う)。

(7)明治以後

明治2年3月には、三樹は兵部官東下に随従して再び江戸に向った。7月に弾正台少巡察に任命され、8月に奥州に巡察に出ている。明治3年3月、軍曹職廃止に伴い東京府貫属士族として終身四人扶持をえた。明治4年に妻はなを迎え、その後、伊那県、筑摩県、司法省、千葉県(裁判所)、鶴岡県・山形県(警察職)などを歴任し、明治14年には天皇巡幸警備を指揮した。明治18年に福島県二等属をもって退職した。

退職後、三樹は茨城県石岡市に約600坪ほどの屋敷を構えて余生を送った。花好きで庭一面に様々な花を植えていたという。好物はふきのとう味噌で、晩年になっても晩酌を欠かさなかったというが、「若い時にはこれで失敗ばかりした」と語っていたそうだ。三樹が詠んだと伝わる歌に「無官無禄一身安 唯有枕頭一瓶酒」というものがある。

非常な謙遜家で、維新期のことは尋ねてもなかなか話そうとしなかったそうである。ただ、幕末の頃の恩人・同志で故人となった人々の名を父母の名とともに紙片に記して仏壇に張り、朝夕礼拝を欠かさなかったという。紙片には、旧衛士のほか、芳野新一郎(桜陰)、大久保利通、西郷隆盛、桐野利秋らの名前が記されている(写真)。

日記はつけていたが、残念なことに散逸してしまい、数年分が残っているだけだそうだ。亡くなる前の年の秋頃からは老衰で筆を取る気力もなくなっていたが、兄甲子太郎が従五位を贈位された日(大正7年11月18日)にはそのことが三行認めてあるそうだ。よほど嬉しかったのだろう。大正8年7月11日、老衰のため永眠。享年82歳。

関連:「子孫の語る思い出ばなし」←三樹三郎の孫にあたる鈴木巌氏らによる三樹・兄伊東甲子太郎・父忠明・母こよ・姉こと・妹須磨の話。
(1999.9.18作成。更新2003.11.24、2007.5.6)

「秦」=「秦林親日記」、「岳」=「岳父鈴木三樹三郎」、
「壬」=「新撰組(壬生浪士)始末記」、『相』=相楽総三とその同志』


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衛士関連での前例が何件かあり、まいっていますのでヨロシクお願いします。

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