日本自動車百年史 第2章 明治・二輪編

第7節 トーマス式自動自転車試乗


2.7.1 新式自転車の荷着
2.7.2 自転車文化の隆盛と双輪商会
2.7.3 遠乗り試運転 稲毛海岸行
2.7.4 吉田眞太郎の自動自転車熱
2.7.5 トーマス・オート・バイ
2.7.6 初試走の回顧録

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1901(明34)年9月、神戸港でド・ディオン・ブートン型トライシクルが走行したころ、横浜に1台の2輪オートバイが到着していた。わが国に渡来した2輪のオートバイとしては、H&Wに続く2番目に古い確かな記録である。
 このオートバイは横浜から東京へ運びこまれ、ただちに日本人に公開された。ところがこの一件に関わった人々は1896(明29)年に皇居前で試走したH&Wの先例を知らず、日本にオートバイが渡来したのは、この1901(明34)年9月の時点が最初と考えていた。同じ東京で、わずか5年半前に新聞各紙が報じたH&Wの事実を知らなかったというのも、奇妙な話と思われるかもしれない。おそらく当時の情報伝達は、現在と比較にならないほど希薄だったのであろう。
 もっともこの2番目の記録でさえ、筆者が調査するまで80年間忘れ去られていた。それまでの定説では、さらに2年後、1903(明35)年の米車ミッチェル号が、日本に渡来した最初のオートバイと考えられていた
1)。史実というものは、後世まで日の目を見ず、埋もれてしまうケースが意外に多いのである。
 では20世紀の幕開けとともに、突如東京に出現した、トーマス号オートバイの顛末を振り返ってみよう。この件に関しては、新聞記事以外にも複数の記録が残っていたために、多少詳しい状況を紹介することができる。

 
2.7.1 新式自転車の荷着

 まず9月17日の新聞に、右の広告(写真1)が掲載された。前出のトライシクルの記事が、神戸の新聞に登場した11日後のことである。広告の見出しにある「最新式ルロイ自転車」とは、下段の絵に描かれた米国製安全型自転車を指しているが、広告文の後半では新着の「トーマス自働自転車」(上の絵のエンジン付き自転車)についてふれ、次のようにうたっている。

『トーマス自働自転車は、普通双輪自転車に自働器械を付着せしめ、重量70磅(32kg)余りにして、僅少なるガソリン油より発生する瓦斯を以て、よく阪路をも自由に快走す。其の軽便安全なること驚くべし。今般2台荷着し、横浜神戸両店とも競走試験をなし、大いに賛賞を得たり。速やかに御来店、御熟見の上、御注文被成下度、代償は精々勉強し御 相 談 可 仕 候。』(句読点、括弧内は筆者、以下同じ)

 この広告主のブルウル兄弟商会2)とは、居留地時代の明治29年から横浜と神戸に支店を構え、自転車や時計、タイプライターなど、欧米の新種機械を輸入販売する外国人商館であった。広告ではメイン商品である自転車に加え、新式の「自動自転車」が横浜と神戸に1台ずつ到着したむねが記されている。ルロイ自転車のほうを広告の見出しにあげたところからして、自動自転車は試験的な輸入だったのであろう。
 そして翌18日付の東京朝日新聞には、『トーマス式自働自転車に就いて』と題し、下の挿し絵入り紹介記事(写真2)が大きく登場する。この記事によると、去月(8月)新着した米国製「トーマス式自動車」は、横浜と神戸のブルウル兄弟商会に1台ずつ合計2台あるのみで、東京木挽町の双輪商会が依託販売を行う。また次の土曜日(9月21日にあたる)には、日比谷公園付近で試運転が行なわれるそうだ、とも伝えている。さらに欧米に流行しつつあるという「自動自転車」について簡単な説明を試みたのち、『トーマス式自動自転車の価格は500円前後と非常に高価なので、中流以下の社会には流行しないだろう。だがもしこの新式自転車が流行することになれば、従来の人為的自転車は顔色がなくなるだろう』と寸評を付け加えている。
 (写真2)の記事でも「自動自転車」と「自動車」の呼称が混用されていることに注意されたい。この時点で、自動車はまだ2輪と4輪に分化されず、動力を有し自動で走行する車のことを総称していた。

 ただし「自動自転車」という語が登場したのは極めて初期、あるいはこれが最初のことと思われる。「自動自転車」とは、いうまでもなくオート・バイシクル 'Auto-Bicycle'の訳語であり、以後半世紀に渡り日本で最も多用された呼び名であった。官報の用例においても長い間「自動自転車」が使われ、これが「オートバイ」に代わるのは太平洋戦争後のことである。また(写真2)の記事にみられるように、明治大正期は「自働」と「自動」も混用されたが、これは漢字の慣用の変化によるもので、両者の使い分けに明確な根拠はなかったようだ3)
 
2.7.2 自転車文化の隆盛と双輪商会

 明治30年代の日本では、富裕階級の新しもの好きの間で自転車が大いに流行した。いわゆるハイカラ連が、こぞって欧米製の輸入自転車を購入したのである。
 実用段階に到達した最新の空気入りタイヤ付き安全型自転車は、欧米先進国の高度な技術を伝えるシンボルとして、またスポーティな紳士の趣味としてもてはやされた。明治初期から20年代までは貸自転車店が出現し、物見遊山で自転車を体験することが流行ったが、日清戦争後は、高級品の自転車を所有し乗用することが、一種のステイタスとなったのである。この時代のハイカラ紳士が好んだ趣味のベスト3は、何といっても自転車、猟銃、写真術の3種だが、とりわけ自転車は、比較的若くて自由な明治の第2世代に歓迎された。
 自転車の流行は、1899(明治32)年の居留地の廃止以降、とくに盛り上がりをみせた。欧米で量産化が進んだ自転車を、代理店契約の下に輸入販売する自転車商が現れるのも、この時期である。各地に自転車倶楽部が発足し、遠乗り会や競走会が催され、華やかな自転車文化も開花した。こと華やかさという意味において、日本自転車文化史上の黄金時代は、この明治30年代をおいてほかにない。
 (写真2)の記事に登場する京橋木挽町(現在の中央区銀座)の双輪商会とは、そんな時代に東京で活躍した自転車商であった。独自のルートで米国から高級自転車デイトン号などを輸入し、さらに最大規模を誇る名門自転車倶楽部「大日本双輪倶楽部」4)も主宰する新進気鋭の、いわば自転車界の寵児と呼べる存在だった。横浜のブルウル兄弟商会が、トーマス号の販売を双輪商会に依託した背景には、双輪商会の力を借りて日本で新発明の自動自転車の販路を開拓する意図があったのである。
 日比谷公園付近で試運転が行われると予告された新着のトーマス自動自転車は、自転車愛好家の間に話題を巻き起こす。(写真2)の記事の2日後に、萬朝報は「自転車界」と題し、以下のようなニュースを伝えた。

●1901(明34)年9月20日付 萬朝報 (3頁)
『双輪商会練習場懇話会
久しく中止されたりし同会は明21日午後5時より丸の内山下町の練習場にて開く筈。又た同日はトーマス式自動二輪車を横浜より呼び寄せて会員に示す筈なり。そこで会員の豪傑連は、午後一時東京出発、横浜居留地二十二番館(前出ブルウル兄弟商会の地番)に向かい、午後三時に至り自動車と共に横浜出発、機械の力が強いか、おれの足がつよいかと競走する筈なれば、沿道も自転車好には面白き見物の一となる款もしれず。』

 双輪商会では顧客や双輪倶楽部員のために、丸の内に自転車の練習場を設けていた。そこで練習の後に歓談するのが、この懇話会なるものの趣旨であった。この日は会員の主力メンバーが横浜まで「トーマス式自動二輪車」を出迎えに行き、ついでに横浜から丸の内まで競走しようか、という趣向が組まれたわけである。
 ところが21日は天候が不良であった。翌22日の同新聞は、以下のように再び予告を掲載する。

●1901(明34)年9月22日付 萬朝報 (3頁)
『自動車の来るは二十四日
昨日横浜より東京に来るべき自動双輪車は、夜来の大雨のため二十四日に延引せり。同日は午後三時横浜より出発の筈にて、有名なる少壮競走家中務栄吉
5)氏を初め、幾多の自転車乗は横浜より自動双輪車と競走を試むる筈。本社の松葉の如きも、例の斡旋家小島氏と共にタンデムで推出す6)とて大気焔なり。』

 待望のトーマス式自動自転車は、予定通り9月24日火曜日に東京へ到着した。一連の記事を報じた萬朝報は、早速「自動自転車来る」と題した(写真4)の記事を掲載し、当日の様子を詳細に伝えた。

 
2.7.3 遠乗り試運転 稲毛海岸行

 以下に、1901(明34)年9月24日に行われた、本邦初のオートバイ遠乗り試運転の顛末を追ってみよう。
 まずトーマス号は予定を若干変更し、横浜から汽車に乗せられてやって来た。トーマス号を持参したのは、ブルウル兄弟商会横浜支店の支配人アベンハイムである。当初の予定では午後3時に横浜を出発し、京橋まで自走して来るはずだったが、この外人は並々ならぬ意欲をみせて早起きし、朝9時に京橋木挽町の双輪商会に到着した7)
 双輪倶楽部員一同はこれを出迎え、「新式自転車」の初見参に沸いたが、初めて対面する自動自転車に見入る間もなく、即座に遠乗り試運転を開始する。ちょうどこの日は帝国輪友会との合同遠乗り会をかねて、千葉方面の競走会へ出向く計画もあった。試運転の目的地は千葉郡稲毛村の稲毛海岸と定め、新式機械の実力を確かめるべく、双輪商会をあとにした。
 トーマス号を押しがけして乗り出したのはアベンハイム。これを取り巻くように、倶楽部員有志が自転車で伴走するかたちとなった。一行はまず丸の内に向かい、ここで記念撮影を済ませる。そして皇居を左手に見ながら、かつてH&Wが試走した大手町をぬけて神田橋を渡り、隅田川にかかる両国橋を走りぬけた。この間、トーマス号は、路上の雑踏にもまれ、徐行をくり返したために、点火栓に炭素が詰まり、2度のエンジン停止をひき起こしたという。つまりプラグがカブったのである。両国近辺でプラグを掃除した後は復調し、再びスタート、一行は千葉街道(現在の国道14号)を東へひた走った。
 ここでアベンハイムは時速25哩(40km/h)の快速を発揮し、倶楽部員を感嘆させた。一同はアベンハイムの操縦の熟練ぶりを賞賛したが、日本の愛輪家とても負けてはいない。自転車競走選手として名高い中務栄吉は、たびたび競り合いながらも、終始トーマス号をリードして面目を保った。
 両国からは快走を続け、市川の渡船場にさしかかったところで、トーマス号に再びトラブルが発生する。今度は「電気発動機に電線を接続するナツを紛失せしめたり」という。おそらく振動のために、イグニッションコイルからの配線をとめるナットを落としたのであろう。アベンハイムは沿道で銅線を入手して見事に配線を修復し、試運転を続行した。
 当時の荒川にはまだ橋(現在の小松川橋)がなく、一行は渡し船の上で一息つきながら、対岸の千葉県市川町に渡った。市川から目的地の稲毛海岸までは、残すところ15kmほどである。この間、倶楽部員の中には「腹がへった」といって遅れをとり、茶店で休憩して東京湾の風光を楽しみだす者も現れたが、アベンハイムと中務栄吉のふたりだけは、終始競走を試み、目的地まで一気に走り抜けてしまった。
 明治期より稲毛海岸は海水浴場として、また松林に囲まれた保養地として、東京近郊の名所になっていた。白砂が海面まで続き、風致林が連なった中に海気館という名の高級旅館があり、当時の文人などの集う所だったが、トーマス号試運転の終点はこの海気館であった。自転車倶楽部員一同がたどり着くと、先頭を走っていたアベンハイムと中務栄吉の2名は、すでに海気館の楼上で皆の到着を待ちわびていた。
 トーマス号は一流自転車選手の中務以外には追いつけないほどの俊足ぶりを示し、試運転は成功に終わったのである。京橋から稲毛海岸まで、およそ40kmの道程を、6台の自転車隊と共に走破したこの日が、日本で最初のオートバイ遠乗り試運転であった。
 
2.7.4 吉田眞太郎の自動自転車熱

 海気館に到着した倶楽部員一行に対し、アベンハイムは本格的に自動自転車をアピールし始める。遠乗りで実力が証明されたからには、日本人に自動自転車を体験させ、購買意欲を誘発させなければデモンストレイションの意味はない。この日の試運転は、あくまでもブルウル兄弟商会の営業活動の一環であった。アベンハイムは海気館の前庭で希望者全員にトーマス号を試乗させ、操縦法を丁寧に説明した。おかげで双輪倶楽部員の多くは、自動自転車の使用法が予想以上に簡単なことを悟ったという。自転車術なら腕に覚えのあるハイカラ連である。当時の日本で、新発明の自動自転車を宣伝するには絶好の面々だったにちがいない。
 この時初めて自動自転車を体験した日本人の中に、双輪商会の吉田眞太郎がいた。トーマス号に誰よりも強い興味を示した吉田は、すぐに操縦法をマスターし、海気館の庭を自在に走り回るまでになっていた。
 午後3時、海気館での試乗を終えた一行は、さらに千葉方面への自転車遠乗り会を続ける一団と、帰京組との二手に別れ解散した。アベンハイムと吉田眞太郎はトーマス号と共に、稲毛停車場から汽車に乗り、鉄路を東京へ引き返した。
 これで9月22日の遠乗り試運転は終わったが、自動自転車に衝撃を受けた吉田眞太郎は、まだ納まりがつかなかった。双輪商会に帰着した後も、再びアベンハイムから教えを受け、トーマス号に挑んだ。吉田は遠乗りの疲れも忘れ、暗くなるまでこれを乗り回し、ついには丸の内界隈を一周してしまう。
 双輪商会の吉田眞太郎(1877-1931)は、今回の試運転の日本人側の中心人物であった。吉田はこの10年後、やがて国産第1号ガソリン自動車(4輪)を製作することになる偉大な開拓者だが、彼が初めてモーターに開眼した忘れ得ぬ日が、このトーマス号試運転だったのである。
 ここで以降の本論に頻出するであろう吉田眞太郎なる人物について、簡単に記しておこう。吉田眞太郎の父は、吉田虎松(天保8年生)といい、当時有名な土木請負業、吉田組をおこした名士であった。吉田組は石造の旧両国橋を普請したことで知られ、巨財をなし成功していた。今でいえば大手ゼネコンというところである。眞太郎には2才年下の弟、?二郎があり、兄弟は共に慶応義塾に入学した。当時の慶応には実業界の御曹司が多く、第一級のハイカラ紳士予備軍が結集していた。ちょうど自転車が流行り始めるころで、当然ながら自転車を求める声が高まり、それではということで吉田兄弟が代表して横浜の居留地へ出向き、外人商館に自転車を12台注文した。当時1台100円以上もする自転車を1ダース購入するには、相当の財力が伴わなければ出来るものではない。この時の慶応で、眞太郎の学友には、中上川次郎吉(三井財閥)、日比谷新次郎(鐘ケ淵紡績)、森村開作(貿易商森村組)、岩谷鷹蔵(天狗煙草本舗)、古河虎之助(古河鉱業)、山口勝蔵(機械商)、といった後の大富豪が控えていた。また日本人が自転車をまとめて輸入したのもこれが最初といわれ、噂を聞きつけた貴公子達からさらに追加注文が募り、明治30年にはついに双輪商会が設立される。日本の自転車商の草分け、双輪商会は、慶応義塾の学生だった若き吉田兄弟のそんないきさつから発足したのである(文献3)。
 明治20年代の終わりは、安全型自転車に空気入りタイヤが装着された画期的な時期でもあり、欧米では自転車産業が勃興し、一流ブランドの自転車が出揃い始めていた。まさにグッドタイミングだったのである。明治30年に双輪商会が設立された時、吉田眞太郎は20才、次男の?二郎に至っては弱冠18才であった。いかに当時の自転車界が、上流階級の2世グループに支えられていたかお分りであろう。
 トーマス号試運転が行われた明治34年、双輪商会の店主は弟の?二郎が務め、眞太郎は24才の青年実業家として、その後援者にまわっていた。しかし眞太郎は、商才よりも研究心のほうが旺盛だったようだ。当時発行された自転車雑誌「輪友」(明治34年10月創刊)には、「紅輪生」の名で興味深い論文が数多く掲載されているが、これは吉田眞太郎の筆名だったと思われる8)。ちなみにこの輪友誌には、トーマス号試運転の様子を伝える記事が2点、「トーマス号自動自転車の遠乗り」及び「トーマス式自動二輪車試乗成績」と題して合計5ページにわたって詳述されている。上記の遠乗り試乗会についての拙文は、この輪友誌の記事をもとにしたものである。
 さて吉田眞太郎は、試運転の後も、アベンハイムからトーマス号を預かることになった。稲毛海岸行の翌日にも吉田はトーマス号を乗り出し、再び丸の内近辺を走り回っている。今度はさらに速度を上げて疾走してみると、エンジンから後輪に動力を伝える長いベルトが外れてしまう。この時代の駆動ベルトは、まだVベルトではなく、革ひもをよった丸ベルトを使用していた。当然ながら伸びやすく、小さなプーリ付きのテンショナーを設けて対処していたが、前日から何10kmも走行を重ねていたために、ベルトが弛緩していたのである。吉田はチェインを張る要領でテンショナーを移動させ、その場で修復してみせた。
 ところが丸の内から八重洲町にさしかかった所で、点火不良を起こしエンジンが停止してしまう。前日のアベンハイム同様にプラグを掃除してみると、再びエンジンが回りだしたので、築地の外人居留地を一周して無事双輪商会に帰還した。
 吉田は次の日もさらに走行を試みたが、今度はなかなかエンジンがかからない。八方手をつくしてみたが、トーマス号はとうとう一向に動かなくなってしまった。以後2日間、吉田は苦悩し、寝食を忘れてその原因究明に没頭したという。横浜からアベンハイムを呼び寄せ、修理してもらうことは、プライドが許さなかったのであろう。考え得る限りの試験を何度もくり返してみると、プラグの発火不良が原因であり、これはバッテリーの電力が弱くなっていたためと気付いた。当時の点火用バッテリーは使いきり式であり、発電機や充電機を装備しない、ただの乾電池であった。つまり走行距離に応じて交換が必要だったのである。吉田は適当な乾電池を入手してバッテリーボックスに入れ、結線してみると、たちまちエンジンが始動し、トーマス号は快調に走り出した。この2日間の焦燥は一体何だったのだろうと馬鹿馬鹿しくもあったが、エンジンの回る様子を見た時は、他人には想像できないほどの喜びを味わったという。ここで吉田は、パイオニア期のオートバイの基本である、ベルト張りと、バッテリー交換という2大メンテナンスを習得した最初の日本人となったのである。
 吉田が独力でトーマス号の研究に没頭した成果は、双輪商会の広告として、9月28日付けの新聞に現れる。「自転車界の一大発明品陳列供覧」と題した(写真7)の広告は、この日より毎日午後4時、吉田がトーマス号を走行させ、さらに試乗希望者には操縦法も教授するというものであった。(写真2)の記事で最初に予告されたとおり、トーマス号は双輪商会で依託販売が行われることになったのである。
 
2.7.5 トーマス・オート・バイ
 米国製トーマス号とは、どのような自動自転車だったのであろうか。(写真9)は1901年型トーマス号カタログからの写真である。製作したのはニューーヨーク州バッファロー市のE・R・トーマス・モーター・カンパニー。この会社は1888年よりド・ディオン・ブートン型のトライシクルを製造していた。米国でド・ディオン・ブートン型トライシクルを製作した会社としては、ピッツバーグ・モーター・ビークル・カンパニー(1897年にクラーク・ガソリン・トライシクルを製作した)と並ぶ米国最古参のパイオニアメーカーである。
 日本に到着した写真のトーマス号は、奇しくも、モデル名を‘Auto-Bi’(オート・バイ)といった。(写真4)の記事に「自動自転車来る」の見出しが登場したのはこのためである。また吉田は以後、自動自転車のことをオートバイと呼ぶようにもなっている。
 写真のとおり車体の部分は、通常の自転車となんら変わりはない。自転車流にいえばフレームサイズは24インチで、タイヤサイズは前後輪とも28×1.25インチであった。エンジンは2・1/4HPとあるので、排気量はおよそ200cc前後だったと思われる。基本的には自動吸気バルブのド・ディオン・ブートン型の4ストローク単気筒だが、気化器はサーフェイスキャブレターから一歩進化した、フロート室のない初期のスプレー式が装着されていた。カタログによると、エンジンの単体重量は11.3kg、車体と合わせても約41kgだったというから、当時としてはなかなかの軽量車である。
 この年のアメリカ製オートバイには、トーマスの他、マーシュ、ミッチェル、マーケルといった先駆が並んでいたが、中でもトーマスは軽量級で、しかも信頼性の高いモデルだったといわれる。日本人に販売するには、おそらく米車中で最適の仕様だったろう。
 それでも24インチフレームの背の高いサドルに跨乗し、クラッチも変速機もない、乾電池点火のパイオニアマシンを操るのは、容易なことではない。自由に操るまでには、かなりの習練を要する難物であった。しかも明治時代の道は、現在の我々の想像を絶する悪路である。一発で稲毛海岸まで走り切ったアベンハイムは、相当な輪客だったにちがいない。
 
2.7.6 初試走の回顧録

 前掲した自転車雑誌「輪友」に掲載された、「トーマス式自動二輪車試乗成績」(文献4)は、以下のように書き出している。

『トーマス式自動双輪車は忽如として東洋の帝都に顕れたり、自動双輪車として初めて輸入せられしもの』。

 また吉田眞太郎は後年、「日本最初の自動車製作と輸入」と題した回顧談(文献5)の中で、

『此の外に横浜辺にあるいは一二輌は輸入されてあったかも知れませんが、駛走したのはトーマスの試乗が第一番でせう。さればアベンハイム兄弟商会がトーマス自動自転車を輸入したのが、日本に於ける自動車の元祖といふて差し支えないのであります。』

と語っている。つまり1896(明29)年に行われていたH&Wの試走は未知の前駆であり、吉田は、トーマスこそが日本初のオートバイ試運転と考えていたのである。
 また同回顧録で吉田は、トーマス号試運転のいきさつを以下のように語っている。

『双輪倶楽部に、横浜のアベンハイム兄弟商会から、トーマスといふオートバイを試乗してくれろと申込みがありました。倶楽部では其の申込に応じて、日比谷で試乗する事に致しました。これが日本に完全なるオートバイの輸入された始めで、同時にまた自動車の輸入された最初といってよい事は、既にいふた通りであります。自転車ですら物珍しく感じられた時代と幾等も隔つていない時でありましたから、オートバイの駛走は、実際其の当時の人達の驚異の眼をそそったのです。倶楽部員には其の当時の新知識を網羅してをりましたから、既にオートバイの存在は知っておりましたけれども、一般の公衆には些か不意打の形もありましたので、試乗の当日は日比谷に人垣を築くほどの盛況であったのです9)。この試乗は、倶楽部の会員には非常な深い印象を興へたのでした。』

 以上のように、外人商館駐在員が極東の新市場を開拓すべく持ち込んだトーマス号は、東京の名門自転車倶楽部が受け皿となって試運転が行なわれていた。そして吉田眞太郎を筆頭に、自転車界の若き精鋭達を、オートバイに目覚めさせていく。



文献1「自動車日本発達史・法規資料編」大須賀和美 1992年
文献2「日本に於ける自転車の沿革」雑誌「輪友」明治34年10月 創刊号
文献3「日米商店三十五年史」?日米商店編 昭和9年
文献4「トーマス式自動二輪車試乗成績」
雑誌「輪友」明治34年12月号
文献5「日本最初の自動車製作と輸入」雑誌「自動車」大正8年3月号


●写真解説

写真1:1901(明34)年9月17日付 時事新報(12頁)
ブルウル兄弟商会のトーマス自動自転車到着広告。翌日付の二六新報(4頁)にも同じ広告が掲載されている
 
写真2・1901(明34)年9月18日付 東京朝日新聞(5頁)
「トーマス式自働自転車に就いて」
 
写真3・(1902年ミッチェル号カタログ挿し絵より)
 
写真4・1901(明34)年9月25日付 萬朝報(3頁)
「自動自転車来る」
 
写真5・稲毛海岸海気館を描いた絵(明治末期頃)
 
写真6・稲毛村へ向う千葉街道(大正期の絵葉書より)
 
写真7・1901(明34)年9月28日付 毎日新聞(6頁)
双輪商会広告
 
写真8・1901(明34)年12月1日付 萬朝報(4頁)
双輪商会広告
 
写真9(Title Photo)



●脚注
 
1)過去のオートバイ初渡来説の中では、このミッチェル号が最も確かな記録であろうとされていた。ただしこのミッチェル号も、1903年ではなく、もう1年早く日本に到着していた。詳しくは追って本編に登場する。

 
2)「ブルウル」とは同商会パリ本社社長、ポール・ブルール(Paul Blurel)の名字。過去の自動車関係の史書ではブルール、あるいはブルーエルとも仮名書きされたが、すべて同じ貿易商のことをさしている。ここでは新聞広告のまま、ブルウルと表記する。
 
3)明治期には、英語の'Auto'を「自働」と訳し、「自働器械」、「自働電話」などと表記していた。この影響から自動車と自働車が混用されたものであろう。また明治40年に公布された警視庁自動車取締令で「自働車」が使用されたために各府県の行政機関がこれに倣い、やがて大正8年の内務省自動車取締令で「自動車」に変わると、全国的に用例が統一されたといわれる。(文献1より)
 
4)まだ居留地時代だった明治20年代から、横浜クリケット倶楽部の中には、西洋人による「日本バイシクル倶楽部」なる自転車倶楽部があったといわれる。明治29年11月の天長節には、東京の自転車乗り有志が、この外人倶楽部と合同で神田から向島までの遠乗り会を催し、小松園で神楽に興じた。これが東京で最初の組織的な自転車遠乗り会であった。またこれが契機として、大日本双輪倶楽部が発足した。(文献2より)
 
5)明治30年代前半に名をはせた自転車選手。
 
6)松葉とは萬朝報社の記者で、評判の自転車乗りであった。5年前のH&W試走の時も、中央新聞社の右近なる自転車術名手が石油発動自転車と競走を試みたことを想起されたい。当時は新聞社員など知識階級の間でも自転車が流行した。ちなみに双輪倶楽部の会長は二六新報社長秋山定輔。またタンデムとは、前後ふたり乗りの長い2輪自転車のこと。当時は専ら競走用に使われた。
 
7)アベンハイムはこれに先立つこと3ヶ月前、同年6月にも、前述の蒸気式4輪自動車ナイアガラ(米)を操縦して横浜から上京、初めて京浜間を自動車で走破し、時の前首相山県有朋の邸、目白の椿山荘を訪れていた。この時、横浜−新橋間を、往路に2時間15分、帰路に1時間56分要したと記されている(明治34年6月20日付二六新報に記載)。当時の京浜間鉄道の距離は約28km。これを街道づたいに自走すると、およそ35kmはあったろうから、時速18km/h前後で走行したことになる。
 
8)双輪商会で輸入していた米国製自転車デイトン号は、鮮やかな赤いフレームがトレードマークであった。「紅輪」の由来は、ここからきたものであろう。
 
9)当初予告された日比谷公園附近での走行は、9月24日の初試走の日には行なわれなかった。後日改めて一般公開されたのかもしれないが、その記録は発見できなかった。何れにしても稲毛海岸行がトーマス号の最初の試運転だったと思われる。


Title Photo
(写真9):1901(明34)年型トーマス・オート・バイ



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