川を渉ること二十度

 陣場集落を出た羽州街道は、長走村に向かって、下内川の右岸の狭い平地を南進します。この間の道筋もかなりの難所であったことから、街道は流動的で当時の面影はありません。
  陣場村と長走村との中間にたもぎ沢がありますが、その少し北に一里塚がありました。

天和元年(1681)の「領中大小道程帳」の長走村の項に「同番所より同村之内たもき沢塚まで拾四丁八間」と記されています。

 しかし、その跡地は今では確認できません。

 陣場村からおよそ700m程進むと、左手に長走風穴高山植物群落があります。風穴からは真夏でも7度前後の冷気が噴出していることから、標高1,000m付近と同様の高山植物が生育しています。夏になると高山植物を見たり、ひと時の涼しさを求めて立ち寄る人達で、終日賑わいを見せています。

 羽州街道は、長走風穴高山植物群落を過ぎて、約200m程のところから国道7号線から分かれ、左に折れて長走集落に入っていきます。

 集落に入って坂を少し上ると、今は廃校となった長走小学校跡があります。その下の畑の中に、寛文八年(1668)に白沢村から移された御番所跡地(標識があります)があります。坂を下って行くと村外れの左手に、犬神を祀っている多茂木神社が鎮座しています。

 津軽から、矢立峠を越え秋田入りした菅江真澄は、ここ長走村に宿を求めて泊まっています。長走風穴高山植物群落前には、そのときに詠んだ歌が記された標柱が建てられています。

■長走村について

 羽州街道に沿う秋田藩最北の村です。長走集落は白沢村の支郷でしたが、寛文十二年(1672)に白沢村から分立しました。陣場台村(現陣場)は、長走村の支郷でした。
 「享保郡邑記」によると家数22、その後は寛政十二年(1800)31戸、155人、安政四年(1857)24戸、128人、同七年29戸、118人でした。

 関所には、大館給人が番人を勤めていましたが、宝永二年(1705)の「在々給人勤格式」には「長走村中羽立御関所守二人」とあり、「秋田風土記」には「御境口番所あり。大館給人二人、支配目付一人守之。七人扶持」とあります。

■長走集落から陣場までの様子

 幕末の「郷村史略」には、「矢立峠迄一里二十四丁四十八間と云、道中川を渉る事二十度、舟橋なし、難路の往還なり」とあります。また「秋田風土記」には、「長走村、白沢より一里北、繋沢川三ケ処歩渡り有、水の高き時は通路止る、橋舟なし」と記載されおり、大変な難所だったことが想像されます。当時の下内川は谷のような峡路をしばしば流れを変えながら南流したものと思われます。

〔参考資料:歴史の道調査報告?「北部羽州街道」 秋田県教育委員会〕

風穴御番所跡多茂木神社  


津軽より 岩瀬村へ

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