唐手研究会、次いで空手部の創立


 大正11年、(1922)当時沖縄尚武会会長であられた、富名腰義珍師が東京で行った第一回体育博覧会(展覧会という人もいる)に招かれ、 沖縄出身の一ッ橋大学学生の儀間真謹氏と演武を行ったが、新聞にも取り上げられず反応は大変小さかったと言う。 そこで沖縄出身で松村宗棍師の弟子でもあった男爵の伊江朝直氏が講道館の嘉納治五郎師に依頼して再度演武会を東京女子師範学校の講堂で催し役人、軍人、警察等関係者も多く集まり、 柔道は嘉納師の他、永岡十段、、西郷四郎六段(後の小説姿三四郎)他で総勢300人を集めて演武会を行い大きな反響を呼んだという。これは私自身が後に船越師範(字を改めた)に何度も伺った。 先生は稽古の帰り文教のお宅迄、部員が交代でお送りする折、決まって宮城(皇居)と講道館の前で電車の中からハットを取って軽くお辞儀をされた。嘉納師に対する恩義を屡々語っておられた。

 船越師のことを知った慶應大学のドイツ語の粕谷真洋教授は直ちに弟子入りして、大正13年10月15日学校の認可を得て船越師を師範として迎え入れ本州初の学校に於ける唐手研究会を創部したのである。 実に粕谷教授はご家庭一体となって部と部員の面倒を見られた。部員募集の為に当時では珍しい映画を、部員を役者にして、悪者を空手で退治するなどのスト−リ−で造ったりされた。 今、青山墓地に眠って居られる。

 船越師範はいつもマントにハットなどおしゃれであった。私ども部員がお宅までお送りした当時、既に80才になられていたが腰もしっかりされ、そして風格とゆとりがあり、女性の話もお嫌いではなかった。

 尚、最近まで学校に於ける空手部は慶應が最も古いとの言い伝えがあったが、昭和17年卒のOB松崎さんからお借りした沖縄の最長老長嶺将真師の著書によると 「明治三十八年、四月沖縄県立第一中学校、那覇市立商業学校、及び沖縄県師範学校に唐手部設置、これと前後して県立農林学校、県立工業学校、県立水産学校等にもまた設置さる。」とある。 一方唐手部としてではなく学校の教課としてのものは部とは別に教課として書かれているのでやはり此処に書かれた部は我々の認識する部と同様のものと解釈せざるをえない。 とすれば我々が従来認識していた世界、若しくは日本初の唐手部の認識は本州初、に訂正しなければならない。余りこだわることではないかもしれぬが、やはり慶應としては間違いは訂正する必要がある。

 慶應創部の翌年の大正14年に東大(当時東京帝国大学)が、続いて、一高、そして順序不詳ながら学習院、一橋、次いで、昭和5年に拓殖、6年早稲田、9年に法政が創部し、それらを門下とされた。 しかしその後、やはり先生の門下であった大塚博紀師が自ら創られた転位、転体、転技の技等をもとに和道流を開かれて独立し、以後東大は和道流となった。